2007/01/01 - 2007/01/08
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azianokazeさん
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アマラプラの僧院を見学したあと、同じくマンダレー近郊の旧王都ザガインに向かいます。
エーヤワディー川にかかるインワ鉄橋が近づく頃、向いの丘(ザガインヒル)にたくさんの白いパゴダが点在しているのが見えてきます。
この丘には先の戦争の犠牲者の慰霊碑がたてられています。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 15万円 - 20万円
- 航空会社
- タイ国際航空
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ザガインは14世紀と18世紀の一時期都が置かれました。
最初の訪問地は“カウンムードー・パヤー”。 -
こようなお椀をふせたようなパゴダのスタイルをスリランカ様式と言うそうですが、日本語ガイドのウィーさんは“オッパイパゴダ”とも呼んでいました。
確かに納得の形です。
それとスリランカではよくこのようなパゴダを目にします。
スレンダーなミャンマー女性にはこのような胸の方はそう多くはないのでは・・・などと余計なことを考えましたが、“作った王様の奥さんの胸に似せて云々”といった話があるとか。
スリランカでも同様の話はあったような。
人間、考えることは大差ないということでしょう。 -
銀ピカの参道。これもミャンマーのお寺ではよく見る一般的な様式です。
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どこのお寺でも静かに祈る人の姿が絶えません。
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広い境内には多くの店が出ていますが、この付近は良質のタナカの産地とかで、タナカ売る店も多くみられました。
(写真中央の石盤がタナカをする道具です) -
解き放って功徳を積むための小鳥、ミャンマーではよくフクロウが使われます。
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パゴダの基壇部分には小さな窪みがつくれら、写真ような像が安置されています。
ウィーさんによると、民間信仰のナッ神だそうです。(文責:ウィー)
ナッは非業の死を遂げたすぐれた人の精霊などを神格化したもので、仏教以前からこの地に存在する信仰です。
仏教とは対立するものではなく、融合しているように見えます。 -
パゴダを白い塔が取り囲みます。
塔の先端部には穴がうがたれています。
おそらく祭りの夜などはオイルランプが置かれるのではないでしょうか。 -
こちらは銀製品の工房。
買わない言い訳に「銀は黒ずむからね・・・」と言うと、タマリンドの泡で磨いて「ほら、このとおりきれいになるよ」と見せてくれました。
(ごめんなさい。銀製品買うほどのお金ないんで・・・) -
銀細工製造に使うふいご。
ウィーさんが工房の主人に「キンマ、ひとつどう?」って勧めて、二人でクチャクチャ噛んでいました。 -
豚カレーのビルマ料理。
ビルマ料理ではメインのカレーについて豚、羊、ヤギ、牛、鶏を決めると、あとはつけ合わせで全部セットででてきますので、選ぶのは簡単ともいえます。
今回は一番人気があるという豚(前列左)。
スープ(後列左)は酸味がベース。
前列中央の緑っぽいものは唐辛子か何かでしょうか、とてつもなく辛いものです。
値段的には千数百K(百数十円)といったところでしょうか。 -
さて、ザガインヒルに上がります。
この丘には150以上の仏塔・僧院があるそうで、遠くから見た丘はパゴダが点在しています。
車で途中まで上がる間も大勢のお坊さんや尼さんを目にします。
「あんなに尼さんが大勢いて、お坊さんの修行の妨げにならないのだろうか?」なんて俗人は余計なことを考えてしまいます。
ただ、尼さんも髪をおろしてしますので、女性のイメージは随分薄らいでいます。
(これまた余計なお世話ですね。) -
まず、“ウーミントンゼー・パヤー”。
斜面の沿って門構えが並んでいます。
名前の由来はそこからで“いくつか(忘れました)の門”の意味とか。 -
中にはこんな感じで45体の仏像が並んでいます。
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少しずつ袈裟の模様や表情に違いがありますが、全部異なるのかは知りません。
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上のパゴダからは周辺一帯が見渡せまが、やはり霞んでいます。
多分乾期のための埃ではないかと思います。
遠くに“オッパイパゴダ”、失礼、“カウンムードー・パヤー”も見えます。 -
別峰の“サンウーポンニャーシン・パヤー”へ行く途中に日本人慰霊碑がたつ丘があります。
先の戦争でミャンマー(当時はビルマ)は日本軍が占領しました。
日本軍は指導者を日本で教育して自分達に都合のいい政権を樹立しようとしましたが、結果的には日本軍の意向とは異なり、この指導者達がミャンマー独立を導きました。
その意味でも日本とこの国は深いつながりがあります。
また、北部山岳地帯のジャングルを越えてインド駐留イギリス軍の主要拠点インパールを攻撃して中国国民党軍への補給路を断とうという“インパール作戦”が実施されました。
当初から軍内部でも反対のあったこの無謀な作戦は悲惨な失敗に終わり、日本軍参加将兵約8万6千人のうち戦死者3万2千人余り、戦病者は4万人以上(一説には餓死者が多数)を出して終結しました。退却路に沿って延々と続く餓死者の白骨死体が横たわるむごたらしい有様を、日本兵は「白骨街道」若しくは「靖国街道」と呼んだそうです。(『ウィキペディア(Wikipedia)』より) -
インパール作戦において要衝コヒマを占拠するも補給が全くなく、司令官の進軍命令を無視して撤退した佐藤幸徳陸軍中将の打電。
「善戦敢闘六十日におよび人間に許されたる最大の忍耐を経てしかも刀折れ矢尽きたり。いずれの目(日か?筆者注)にか再び来たって英霊に託びん。これを見て泣かざるものは人にあらず」
(『ウィキペディア(Wikipedia)』より) -
碑文「鎮魂 戦没戦友の皆さま 安らかにお眠りください」
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こちらは日本人慰霊碑の隣にたつミャンマー人犠牲者の慰霊碑だそうです。
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慰霊碑付近からの眺め。
インワ鉄橋が霞んで見えます。 -
こちらも日本人慰霊のパゴダ。
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基壇部に戦没者の名前が刻まれています。
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ここで2〜3名の若い日本人女性観光客と出会いました。
そのガイドさんは慰霊碑という言葉を知らなかったのか、私の日本語ガイドであるウィーさんに「彼女らに説明してあげて。英語も通じないし・・・」と頼んできました。
ウィーさんが「慰霊碑です」と言うと、彼女らは「慰霊碑だって・・・」と話していました。
私はウィーさんに「日本の若い人に慰霊碑って言っても何のことかわからないかも・・・」 -
“サンウーポンニャーシン・パヤー”の仏陀像。
仏陀がお釈迦様に生まれる前世のカエルだった頃の仏像だとウィーさんは言っていたような気がしますが、どうでしょうか、よくわかりません。忘れてください。
寄進箱の隣にカエルの置物はありました。(このことを言ったのでしょうか?) -
“サンウーポンニャーシン・パヤー”から眺めたエーヤワディー川。
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インワ鉄橋。
通行税をとられます。
橋だけでなく、ミャンマーでは道路のあちこちで100K程度の通行税が徴収されます。
橋からもザガインヒルの眺めはいいのですが、橋の上は車が止まれません。
また、橋自体も撮影禁止だそうです。(監視哨があるとか) -
ウー・ベイン橋の夕陽に合わせるための時間調整を兼ねてここでしばらく休憩しました。
(結果的にはのんびりしすぎることになりましたが・・・?参照)
ウィーさんは2年ほどJICAから派遣されたハンセン病プロジェクトのドクターのガイドをしていたとか。その頃は結構収入もよかったそうです。
(そりゃ、JICAはODAからたくさんお金が入りますから。私はJICAのようには払えません。悪しからず。)
ここ数年は日本人観光客は減少しておりなかなか生活も大変とのこと。
日本語の先生もしているが、月謝より学校に出向くガソリン代の方が高くつくような状態とか。
他にもミャンマー社会に関するいろいろ興味深い話を聞きました。
そろそろいい時間になってきたので次はインワに向かいます。
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この旅行記へのコメント (3)
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- arfaさん 2007/03/27 23:46:36
- こんばんは、arfaです。
- azianokazeさん、ミャンマーはヤンゴン周辺、マンダレー周辺とバガン、インレー湖、チャイティヨー方面の4つの大体同じような観光コースになるみたいですね。azianokazeさんの旅行記を拝見していて豊富な写真でまるで自分が観光に回っているときの風景を見せてもらったような気分でした。
ザガインでは私は残念ながら慰霊碑を見ることはなかったです。
私が生まれる前に伯父に当たる人が南太平洋のブーゲンビル島で戦病死しています。昭和18年7月に米軍に占領された島で戦病死したのが昭和19年9月です。1年2ヶ月も本土から見放された孤島で米軍の討伐隊から身を隠すだけの絶望的な戦い、そして食料もなくなり飢えで体力を消耗してなくなったのでしょうね。
このミャンマーのインパール作戦は作戦の是非はともかく中牟田中将の自分は後方のメイミョーにいて毎日芸者遊びをしてる間に飢えと武器の補給のない中散って行った方々が哀れでなりません。福岡でお会いした生き残りの方も320人の中隊で生き残ったのはわずか16名だとおっしゃっていました。
私たち日本人にとってここミャンマーは特別な所なんですね。
- azianokazeさん からの返信 2007/03/28 01:37:35
- RE: こんばんは、arfaです。
- 戦場でも内地でも、最大の悲劇はいつも一番力の弱い名もなき多くの人々に降りかかってきます。
そしてもうひとつ、現地の人々にも同様の悲劇がもたらせれます。
そのような特別な関係、特別な歴史はミャンマーだけでなく、中国・韓国・旧仏印・インドネシア・フィリピンなどにも共通することです。
先の戦争の後も民族間の争いは減ることなく今もあちこちで火をふいています。また、そのような危険を感じさせる対立・憎悪も身の回りに感じることもあります。
先日読んだセルビア紛争を扱った本の中で、著者が「そこには相手の惨劇に思いを巡らす想像力が決定的に欠如している。」と嘆いていました。
所詮物見遊山の観光旅行ですが、多くの人が他国の様子を自分の目で見ることで他国にも自分達同様に文化があり、歴史があり、彼らにも家族がいて、大切な人がいる。”というわずかな想像力を身につければ、それはそれで将来の惨劇を防止する役に立つのではないかと思います。
- arfaさん からの返信 2007/03/28 07:42:43
- RE: こんばんは、arfaです。
- >所詮物見遊山の観光旅行ですが、多くの人が他国の様子を自分の目で見ることで他国にも自分達同様に文化があり、歴史があり、彼らにも家族がいて、大切な人がいる。”というわずかな想像力を身につければ
全く同感ですね。現代のニュース映像は反戦気分にさせないため人が死ぬシーンや爆撃後の惨状などを見せないように政府がコントロールしていますので(特にアメリカ)本当のことを知るのは後になります。日本でも湾岸戦争の時は米軍の爆撃シーンを若い女性が今度の戦争は「人が死なないからいいね」と言ったのを乗っていたタクシーの運転手さんが「爆撃されている施設の中には人がいるんですよ!」と言われた事を覚えています。
第二次大戦は日本にとって悲惨でした。というより負け戦はどこの国にとっても悲惨なものになります。インパールより悲惨なのはフィリピンのレイテ島で生き残りはわずか16名と聞いています。現地人ゲリラの掃討で皆殺しにされたレイテと違い、インパールは現地の方に助けてもらって生還した人が多いことです。日本人はこのことを忘れてはなりません。ミャンマーを特別なところと言ったのはこういうことなんです。
反面、文頭にあげたazianokazeさんのお言葉のように現地の人の信頼を得たインドネシアやカンボジアなどインドシナ諸国は今でも親日の風土ですね。対してフィリピンなどは現地の人を弾圧したため民衆が反日基本で薄れてきたとはいえ今も続いています。
私は旅行先で国を聞かれて「日本」と答えた際の現地の人の反応でああこの国に日本は好かれてるとか、嫌われてるとか大体アジアでは肌で感じます。特に初めて訪れた際のカンボジアでは内戦の終結に明石康さんが貢献されたこともあって日本人と言うと本当に現地の人に親切にされてこちらも大好きな国になりました。
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