2012/05/12 - 2012/05/13
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frau.himmelさん
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ヨーロッパ現代史の十字路
これは今回私が参考にした本のサブタイトルです。
まさに歴史に興味のある人にとってベルリンはこの上なく面白いところ。
プロイセン王国、ナチスによる支配、世界冷戦に伴う東西ドイツ分割、壁崩壊とドイツ統一などなど。
何度訪れても、これで満足と思ったことはありません。
今年もやってまいりました。
今回は、ヒトラーが最後の105日間を過ごした総統の地下壕と、ベルナウアー通りのベルリンの壁記録センターに行きました。
両方とも2009年にも訪れているのですが、3年前とずいぶん様変わりしているのに驚かされました。
ベルリンは刻一刻と変身を遂げている街
どこかで聞いたその言葉が蘇ってきました。
せめて、今のベルリンをしっかりと脳裏に刻みこんでおかなければ!。
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さあ、お次はモーレンシュトラーセ駅で降ります。
この駅の大理石の壁、ものすごく目を引きますね。
この駅から目と鼻の先に、ヒトラーの総統官邸がありました。
そこで使用していた壁を流用したものだとか…。
ナチスの建物は、民族の血をあらわす赤大理石が使われることが多いのだそうです。 -
柱も同じく赤大理石で出来ています。
ナチスの旗、ハーケンクロイツにも赤が使われていました。
今となっては、ホロコーストで流された多くの人々の血の色をしているようで、ちょっと不吉な色に見えます。 -
地下鉄U2のモーレンシュトラーセ駅を出ると、レオポルト・デッサウ候の像があります。
プロイセン王国で最初の兵制改革の主導者だそうです。 -
この付近は歴史的に重要な場所です。
歴史を説明する案内板がいくつも立っていました。 -
その中でもここ!
何か特別なものがあるわけではないのですが、大勢の人が訪れていますね。 -
ガイドさんに連れられて団体で来ている人もいます。
英語のガイドさんの説明をみんな熱心に聞いていました。 -
本当に工事現場のようなところに、この立て札が立っているだけなんです。
ここには、ヒトラーが最後の105日を過ごした総統の地下壕があったのです。
この立て札には説明文が書かれています。
ここにヒトラーの像などを作ればネオナチの聖地になることは眼に見えています。
そんな懸念から、長年この場所は非公開にされていました。
しかし2006年、第二次世界大戦の遺跡を保存して、戦争が風化するのを防ごうという市民団体の声がきっかけでこの立て札が立てられました。 -
待避壕の見取り図が見えます。
なんと壁は4メートル、天井も3.5メートルの厚さの頑丈な地下壕をヒトラーは造らせました。
戦争末期、連合軍が刻一刻とベルリンに迫る中、敗戦を悟ったヒトラーはこの壕に引き篭もりました。
そして、1945年4月30日、前日結婚式を挙げたエファ・ブラウンと共にこの壕で自殺しました。
宣伝相ゲッペルスとその家族も殉死しました。 -
ほんとに何にもないところです。
ところどころ囲いが出来ていますが、そのほかは車が数台駐車しているだけ。
ドイツは敗戦後、東西ドイツに分断され、ここはソ連の管理下におかれました。
ソ連や旧東ドイツ政府はこの壕を何度か取り壊そうとしましたが、あまりにも強固だったため、そのまままたこの地下に埋められたそうです。
まだ下にはヒトラーの地下壕が眠っているのです。 -
周りは、旧東ドイツの官庁があったところで立派な建物が並んでいます。
私達が2009年訪れた時借りたアパートもこの近くにありました。
旧東ドイツの官僚が住んでいたのでは、と思えるような素晴らしいアパートでした。
この案内板は2006年に設置されたそうです。
私達がここを訪れた時はほんの数人の姿しか見えませんでした。
あれから3年経った今、ガイドツアーでも訪れる観光名所になったとは…。 -
ガイドツアーだけではありません。
観光バスも何台かこの周りを徐行して通ります。
車中ではガイドさんがヒトラーの地下壕の説明をしているのでしょう、窓からいっせいに人々がこちらを見ていました。 -
次は地下鉄でベルナウアー通りへ行きました。
2009年ここも訪れていますが、その時と展示方法が大きく変わっています。
1961年8月13日のベルリンの壁建設に伴い最も大きな悲劇を生んだのがこのベルナウアー通りです。
ベルナウアー通りは、ベルリン分断の象徴的な場所なのです。 -
ここから遠くにテレビ塔が見えます。
この通りに面して国境線が分かれ、家族や友人などが、ある日突然、強制的に切り離されてしまいました。 -
ここに当時の建物の配置図が。
右手の細い一直線がベルリンの壁があったところ。
それを境に左が東ベルリン、右が西ベルリンに別れました。 -
ここは壁と壁のの間にあった緩衝地帯。
当時は、有刺鉄線や犬を放ったり、また銃を持った人民警察官で厳重に警備されていました。
今はここが展示場になっています。 -
壁があった位置には、鉄の棒がモニュメントとして立ててありました。
2009年に訪れた時にはこんなものはありませんでした。
大幅に様変わりしていました。 -
緩衝地帯のところどころに案内板で説明してありました。
多くの人々が見学しています。
1つの住宅街が2つに分断されたベルナウアー通り。
ここのアパートに住んでいた住民は、封鎖初日は比較的簡単に亡命することができました。
そこで東ベルリン政府は、西側に面する窓や入口にレンガで封鎖しました。
今度は窓から飛び降りて逃亡する人々が後を立たなかったため、ついに、住民を強制的に立ち退かせ、建物を爆破してここを封鎖地区としました。 -
壁のモニュメントと共に立ち並んでいる樹木。
その成長が、壁崩壊から20数年経ったんだなーと思わせます。 -
東側の封鎖地区の建物の壁に、当時の象徴的な写真の展示があります。
一部分、当時の壁が残っているのが見えますか? -
壁の時代の様々な写真。
年代ごとに説明があります。 -
建物壁の写真、これは有名ですね。
ベルリンの壁建設直後の1961年8月15日、有刺鉄線を飛び越えて西側に亡命した国境警察官。
たまたまカメラマンがいて、この写真が世界中に配信されたのでおぼえている方もあると思います。
しかし、西ベルリンに逃亡したあとも彼は、東ベルリンの秘密警察や同僚などの報復を恐れた生活を続け、東西ドイツ統一後も両親に会うことを躊躇していたそうです。
30年以上も東ドイツの亡霊におびえて暮らした挙句、とうとう1998年に自殺しました。
これも東西分断による悲劇ですね。 -
こちらの壁は、おなじ時期壁建設当時の1961年、
住んでいた建物が壁の境界線となり、入口を塞がれたので、窓からあわてて西側に逃げている人々。 -
ところどころにこのような地図も展示してあります。
真ん中が緩衝地帯。
右がwest(西)、左がost(東)。
真ん中の茶色の太い点線は逃亡のトンネルが掘られた位置を示してあります。
この展示も以前にはなかったこと。 -
トンネルは何本も作られました。
これは1964年に造られたトンネル57。
西ベルリンのベルナウアー通りから東ベルリンのシュトレリッツ通りまで全長150メートルのトンネル。
東ドイツの国境警備兵に発見されるまで、僅か3日の間に57人が西側に脱出しました。 -
トンネルの跡は壁を越えて西側まで続いています。
トンネルの脱出には多くの西側の人々の助けがありました。
いろんな人が壁の下にトンネルを掘りましたが、このトンネル57が最も成功した例だそうです。 -
別のトンネル。
トンネル1964. -
1964年トンネル脱出の様子。
脱出のトンネルは10本ほど掘られたようです。
その中にはアメリカのテレビ局が費用を負担して、その模様を米国のテレビ番組で放映されたものもありました。
不思議なことに東独の秘密警察は最後まで知らなかったそうです。 -
ところでここにはシュタージトンネル(秘密警察トンネル)なるものもあります。
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これが一番長い。
向こう側は西ベルリン地域です。
どういう目的で掘られたのでしょうか。
このトンネルを通って、西側にスパイを送り込んだとか? -
東ベルリンの人々はいろんな方法で必死の逃亡を試みました。
1961年9月10日、ベルナウアー通りの建物から西側へ逃げるためにロープを使って降りる女性。 -
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1961年、左は、命からがらに逃亡してきた女性。
右は1989年、車の下にもぐりこんで逃亡した。 -
引き裂かれた家族。
西側に逃亡した女性と東ベルリンに残った兄弟が、窓越しに悲痛な声で、名前を呼び合っているのが聞こえるようです。 -
別れ別れになった家族。
結婚式を挙げた西ベルリンの若夫婦が、東ベルリンに住む両親に結婚の報告をしている。
結婚式であっても東ベルリンの住民は参列できなかった。 -
窓からジャンプして逃亡する人々。
窓の下には西ベルリンの人々がシーツを広げて待っている。
77歳の女性がシーツの上にジャンプして助かった。
しかし着地に失敗して亡くなった人もいました。 -
東側政府は、ベルナウアー通りに面したアパートに住んでいた住民を強制的に立ち退かせ、建物を爆破してここを封鎖地区としました。
この展示場では、かつて通りに沿って建っていたアパートの敷地部分をレールのような仕切りを使って再現しました。 -
建物の土台が残っているアパートもありました。
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緩衝地帯にあった教会も例外ではありません。
かつてここにはネオゴシック様式の美しい教会が建っていましたが、監視の邪魔になるとして1984年東ドイツ政府によって破壊されました。
2009年の写真より。 -
今ではここに、円筒形の和解礼拝堂と名づけられた建物があります。
2009年の写真 -
爆破された教会の上に立っていた十字架が残っていました。
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和解礼拝堂の前におかれていた鐘。
この鐘もオリジナルだそうです。 -
和解を象徴する肩を寄せ合った男女のブロンズ像「和解の像」
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ベルナウアー通りの展示はこのアッカー通りのちょっと先、ノルトバーンホフまで続いています。
ノルトバーンホフは、東西分断時代には境界線上にあったため、列車は停まることなく通過したいわゆる「幽霊駅」でした。
本当はそこまで行きたかったけど、もう足が痛くてやめました。
齢にはかてません…。 -
ここからトラムに乗り、エーヴェルスヴァルダーシュトラーセ駅まで行きました。
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トラムの隣にはベルリンの壁センターがあります。とうとうあそこにも行かなかった。
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時間はもう6時半。ここまで来たらあそこには行かなきゃーね!。そうカリーヴルストで有名な「コノプケ」です。相変わらず行列ですね。
-
私も行列に並んで…、
幸い、立ち食いではなく椅子席が空いていました。 -
今日はポンメス(ポテトフライ)なしのカリーヴルストとお水だけ。
これが私の今夜の夕食です(泣)。
本当に観光に夢中になると、食事も満足にとりません。
でもいいんです。
昨日スーパーで果物と、日本のポン菓子みたいなもの(お米を爆発させて丸く形作ったもの)を買ったので、あれも始末してしまわなければ…。
帰りはU2のエーベルスヴァルダー通り駅より、1駅先のゼーネフェルダープラッツ駅で降りてホテルに戻りました。
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この旅行記へのコメント (8)
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- 近鉄バッファローズさん 2013/02/20 11:49:13
- Fuehrerbunkerは土の下
- frau.himmelさん、こんにちは。
近鉄バッファローズです。
そうですか。Fuehrerbunkerは、看板しかないんですね。
確かに忌まわしいものとして埋めたくなる気持ちも分かりますが、
歴史好きの私などからすれば、やはり実物を見たいです。
映画「Der Untergang」で、再現したものは見ましたが、
やはり本物が見たいなぁ、と思っていたので。
ネットでFuehrerbunkerを検索していると、
「Berliner Unterwelten e.V.」のページにたどり着きました。
以前のNHK教育「テレビでドイツ語」でも紹介されていましたが、
ベルリンにある地下施設を案内する団体で、
いくつもガイドツアーのプログラムがあって、
第二次大戦中や冷戦中のいろんな施設をテーマを持って紹介してくれるそうです。
ベルリンに行く機会があったら、参加したいです。
Bernauer通りの壁関係の所も行かないといけませんね。
他の方のページも拝見して、大変興味を持っています。
また、続きを楽しみにしております。
- frau.himmelさん からの返信 2013/02/20 21:32:29
- RE: Fuehrerbunkerは土の下
- 近鉄バッファローズさん こんばんは。
総統の地下壕は仰るとおり、看板しかありません。
確かにあそこに立派な銘碑かヒトラーの銅像でも立てようものならネオナチがほおってはおかないでしょうね。
ヒトラーの遺言で、骨の1片も残さぬように完全に遺体は焼却したらしいですが、
何でも頭の骨か何かが少し残っていて、それが今ロシアにあるとかないとか、それを廻って暗躍している人々がいるとかいないとか、そんな話を聞いたことがあります。
まるで、キリスト教の聖人の聖遺物のようで面白いと思いました。
ネオナチがヒトラーの遺骨を崇拝の対象としてあがめるのかしらと。
歴史は廻るのですね。
それからウンター何とか、私も「テレビドイツ語」で見ました。
ガイドツアーで廻っていましたね。
あれを見て、面白そうだけど、私にはちょっと無理かなーと。
地下へ地下へと随分歩きまわっていたでしょう?。
若い方ならいいでしょうが、私にはあれだけ歩く元気はありません(泣)。
ヒトラーの地下壕も、テロのトポグラフィーも、ウンター何とかという市民団体から、歴史を風化させてはならないという声が上がって出来たものらしいですね。
そういう点、ドイツは素晴らしいですね。
まだまだベルリンの歴史探訪は続くのですが、少し飽きてきました。
4月からのドイツ旅行の計画もまだ中途半端だし、齢をとると根気がなくて困ります。
またいろいろ教えてください。
ありがとうございました。
himmel
-
- 迷子さん 2013/02/19 22:55:29
- 壁の歴史とカレーソーセージ
- 今晩はです〜、マタマタお邪魔させて頂きますた。
壁の歴史を辿った街歩きの1日でしたね。
ここで命を落とした人達は勿論、
当時はそれが正しいと信じて同胞に銃を向けてた
ドイツ人も居たんすね・・・・・
統一後は複雑だったろうなと想像しちゃいますね。
なんかブランデンブルク門も回りに地雷を埋めてたとか?!
ヒットラーの防空壕も観光スポットとなってるんすね。
アッシの滞在中は多分、警備も厳しいかな?
寄らずにいたほうがいいかなぁ。
最後にベルリン名物のお写真で癒されました〜♪
(J様に教えて貰ったカリー36のお店もUバーン駅から
程近くなんで、食べ比べ?もいいかも?!)
口コミで調べると、美味しい!って人と
2度目は無いって人と感想が別れるみたいでやんすね。
どんなんかな?今からとっても楽しみだにゃ(^・^)
- frau.himmelさん からの返信 2013/02/20 20:39:26
- RE: 壁の歴史とカレーソーセージ
- 迷子さん こんばんは。
いつも暗〜い旅行記にお立ち寄りくださいましてありがとうございましただ。
本当にベルリンは歴史の宝庫。ちょっと歩けば歴史的事柄の何かにぶつかります。
一応写真にとって、それを種明かしするのが帰国後の楽しみです。
> ここで命を落とした人達は勿論、
> 当時はそれが正しいと信じて同胞に銃を向けてた
> ドイツ人も居たんすね・・・・・
そうですね、有刺鉄線を飛び越えて西側に逃亡した国境警察官、
せっかく逃亡に成功しても、東の秘密警察や同僚の亡霊に悩み続けた30数年間、彼の人生一体なんだったのでしょうね。
東ベルリン市民にとっては、やっとナチスの恐怖政治が逃れられたと思ったら、今度は秘密警察に執拗に狙われる日々、心が休まらなかったでしょうね。
自由を求めて西側に逃亡したくなる気持ちもわかります。
でも、窓から飛び降りたり、トンネルを潜ったりして危険を犯して逃亡した人たち、
その後みんな幸せに暮らしたのでしょうか??
今年も私のベルリン歴史詣では続きます。
ところでカリーヴルストの有名店、「カリー36」ですか?
時間があったら私もいってみようかしら。
何しろ、●カの一つ覚えの鉄道パスじゃなかった、私は「コノプケ」しか知らないものですから、いつもあそこばかりです。
食べ比べ? えーーっ!
迷子さんはいいけどお母様がきっと拒否反応かと(笑)。
私は今回は、「ツア・レッツテス・インスタンツ」(ドイツ語で「最後の審判」というらしい)というレストランに行って見たいと思っています。
何でもベルリンで一番古いレストランでナポレオンが座った席もあるそうです。
昨年お店の前まで行ったのですが、私の行いが悪かったのでしょうね、お店が閉まっていました。
今年は再チャレンジです。
迷子さんの方、もうほとんど計画はきっちりと固まったのではないですか?
私の方はホテルがやっと半分くらい取れた感じです。
これからが追い込みです。
それにしても迷子さん本当に詳しくドイツのこと勉強していらっしゃいますね。
今度教えてくださいね。
himmel
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- ペコリーノさん 2013/02/19 16:40:37
- ベルナウアー通りの壁の展示
- frau.himmelさん、こんにちは
ベルナウアー通りの壁の展示の説明、本当によくわかりました。
実は、私も次の旅行記はベルナウアー通りなのですが、これまで通りざっくりとした感じで(笑)・・・トンネルの事なんて全く知りませんでした。本当に同じ物を見たのでしょうか?私。
きちんと調べていらして、本当に素晴らしいです。
私の旅行記出すのが恥ずかしくなってきちゃいました。
まあ、それでも出してしまうんですけどね。
ペコリーノ
- frau.himmelさん からの返信 2013/02/20 10:03:56
- RE: ベルナウアー通りの壁の展示
- ペコリーノさん おはようございます。
コメントありがとうございます。
返信が遅くなってごめんなさい。
> 実は、私も次の旅行記はベルナウアー通りなのですが、
あらほんと!楽しみにしていまーす。
私のは歴史歴史でガチガチした旅行記、皆さん最後まで読むのが面倒くさくて、スルーしたくなるのではと思っています。
ペコリーノさんのはホンワカしていて、楽しく一緒に歩いている気分にさせてくれる旅行記なんです。
私はいつも楽しみにしています。
さて、今年もベルリンに6泊します。
ほんとに懲りないですねー。
でももうここまで来たらベルリンの魅力というより、魔力ですね。
ペコリーノさんならきっと解かっていただけるはず(笑)。
今度は何処に行こうか、悩んでいます。
himmel
-
- norisaさん 2013/02/19 09:20:47
- 歴史の傷跡−−
- frau.himmelさん、
いよいよ重みのある旅行記ですね。
ヒットラーの終焉の地に東西ドイツ分断の跡−−−。
今のところは記憶も比較的新しいので、その意味するところは現在の通説で理解されるのでしょうが、半世紀、一世紀後はどのように判断されるか興味もあります。もちろんネオナチなどに活躍してもらいたくはありませんが。
歴史は数多くの人々の考えや行動、そして偶然が無限に近い組み合わせで重なり合って形成される超過多エントロピーの塊−−−。
そう考えるとヒトラーやドイツ軍に悪の全てを押しつけるのは正当ではなく、ドイツ国民はもちろん周辺諸国のあくどい植民地政策や外交政策、民度の低さすべてがこの戦争やドイツ分断を生んだのかと納得します。
またまた考えさせられました(苦笑)
norisa
- frau.himmelさん からの返信 2013/02/20 09:53:32
- RE: 歴史の傷跡−−
- norisaさん おはようございます。
返信が遅くなってごめんなさい。
一昨日遅くあわてて投稿して、そのまま放置しておりました。
今見直したら、まあー私の文章の間違いの多いこと、ハチャメチャじゃない!
それに引き換えnorisaさんのコメントの素晴らしいこと!
私の旅行記にそのまま使わせていただきたいような名文です。
齢をとると文章も思うように出てこなくて、私って本当に日本人かしら?
って思うことしきり。
さて、ドイツっていくつもの大きな歴史を辿った国だと言うことを、旅をして痛切に感じます。
でも本当はそんな醜い過去のことなんか頬かむりしたいのですよね、ドイツにとって。
ヒトラーの地下壕にせよ、テロのトポグラフィーにせよ、市民団体から、自国の負の歴史を次世代に伝えて行かなければならない、という声があがって設置されたものだそうです。
新しいドイツの真摯な姿勢が現れていると思いました。
おっしゃった民度の低さ、そうですね。それがコワいですね。
独裁政権はほんとに恐ろしい。子供に恐怖の玩具を与えているような、どこぞの国も早く悟ってくれるといいのですが…。
さてさてこれから、私の旅行記、日本語を少し訂正しなければ…(笑)。
himmel
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