2011/03/06 - 2011/03/19
300位(同エリア956件中)
カメちゃんさん
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- 旅行記321冊
- クチコミ1件
- Q&A回答2件
- 691,918アクセス
- フォロワー44人
とうとう旅の最終盤になってしまいました。
やだね〜〜(-_-;) 拙政園を見たら、あとはひたすら帰るのみ。
この日はお腹の調子がイマイチで、トイレのあるところへくると真っ先の飛んでいったものでした。だいたい、中国で便秘になるという心配は無用ですね(~o~) 毎朝一回の快便どころか、一日5〜6回はトイレに向けてダッシュしなければなりませんからね〜(>_<) 従いまして,トイレ用のペーパーを、二つのポケットに必ず用意しておかなければなりません(=_=)
中国語や漢文に限らず外国語は一切分からない私ですが、「拙政園」という名前はあんまり良い印象ではないですね。それでも、中国4大名園の一つというのですから、拙政園の名前のことは見てからにして、まずは見ることにしましょう。
なお、この旅行記を書くにあたって、(その20)同様に
「中国の水郷都市」鹿島出版会
「中国の名庭 蘇州古典園林」劉敦〓/著 小学館。
「中国の都城−4 蘇州 杭州物語」村上哲見著 集英社
ほか多くの資料・案内書・旅行記を参照させて頂きました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 交通
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 鉄道 観光バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
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-
これまでとはちょっと違う感じのレストランです。
どんな料理が出るのか、楽しみですね。
★このレストランの場所は↓にて。
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.0004ac69971fc58f392d3&msa=0&ll=31.329011,120.576292&spn=0.002124,0.002114&iwloc=0004d2704b2f4c7f47966 -
門の屋根の中央に置かれている彫刻です。
これは、鳳凰でしょうか。
こういう立派なものを棟に飾るなんて、格式のあるお店のようですね。
それと、瓦にも赤い飾りが取り付けてありますね。
瓦をこんな風に飾っているのも、初めて見ました。 -
これは↑の棟の右端です。
鬼の顔や姿ではなくて、鳥のようですね。
日本では鬼瓦というところですが、鳥の顔のようです。何という鳥か分かりません。
頬のところには、花の彫刻がついています。
屋根棟の端に付けられる瓦を総称して「鬼瓦」と言われることは、」以前にも述べましたが、鬼瓦には文字通り鬼の顔をしたものもあれば、装飾のものもあると言うことです。
私たちの地域では、鶴や亀を浮き彫りにした「鬼瓦」のあるお宅もあります。
ここでは鳥の形をしていますが(何の鳥か分かりませが)、鳥や魚・沓(はき物)の形をしているものもあります。これらは「鴟尾」とも呼ばれ、後の「鬼瓦」の原型なっていたと言うことです。
★鬼瓦の」詳しいことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E7%93%A6 -
店内に入りますと、こんなに立派なお姉さんが迎えて下さいました。
キンキラキンの中国服!(^^)!
とても素敵ですね。 -
食事中のテーブルを琵琶のような楽器を持って回っている女性がいました。
演奏して歌を歌ってくれるのですが、有料なんです。
ちょっと考えてしまいましたよ。
結局、私たちは何もお願いしなかったですけどね(^^;) -
レストランのなかにこんな人の像が飾ってありました。
お釈迦様でもないのに、お賽銭がスゴイですね。
よ〜く見ると、武人ですね。
中国で有名な武人といいますと岳飛などもあげられますけど、この髭の長さは関羽に似ていますね。
まぁ、私としては関羽さんに一票を入れたいと思います。
しかし、お釈迦様でも観音様でもない人に、これだけのお賽銭が投げられるとは・・。
ちょっと、ビックリですね。
そう言えば、日本にも関羽さんが各地で祀られていますが、賽銭箱があるみたいですね。 -
美味しいお昼を頂きましたので、記念写真でも・・(^^)
-
これから行くのは「拙政園」と言うところです。
その途中で、車窓から捉えた捉えた鬼瓦です(これを「棟端飾り」とも言うようです)。
棟の先端に置かれているのではなく、数十cm控えたところにあるんですね。
蘇州の付近では、こういう形の屋根が多いですね。 -
汽車市場ってなんでしょうか??
「汽車」は自動車のことですから、直訳では自動車市場になってしまいます。それでも良いのですが、詳しいことを知りたいですね。
ご存知の方、教えて下さいね。
★汽車市場の場所は↓にて。
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.0004ac69971fc58f392d3&msa=0&ll=31.332614,120.620106&spn=0.002124,0.002114&iwloc=0004d270f1559c283d070 -
「潤園」という文字と、門構え。
これは庭園のような気がするんですけど、検索しても詳細情報が出てこないですね。
Google mapに貼ってある写真には「某个园 不开放」とありますから、公開していないのかも知れません。また、Google mapで見ますと、庭園にしては建物が多いですね。
屋根をちょっと見ますと、ここの鬼瓦も先ほどと同じように、棟の先端から少し控えたところにありますね。
★↓潤園の場所は↓にて。
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.0004ac69971fc58f392d3&msa=0&ll=31.327363,120.628579&spn=0.002124,0.002114&iwloc=0004d2710a646d656a747 -
拙政園に到着しました。
三輪自転車タクシーのおじさんがヒマそうにしています。
これじゃあ、お客さんが来ないよねぇ??
小樽のお兄ちゃんのように、身なりも整えて、明るい笑顔で道行く人に声かけして、お客さんの心を掴まないとね〜。
★↓は小樽の人力車のお兄ちゃんです。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/16490879/src.html
★↓は瘦西湖の門前で客待ちのおじさんです。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/27630290/src.html -
拙政園の前の商店街です。
ガイドさんもお話ししておられましたけど、拙政園って世界遺産に指定されていて、中国の4大名園のひとつにもなっていて、有名な小説「紅楼夢」の舞台にもなっていたというところです。
それですから、そりゃもう見物客で大賑わいですよね〜って言いたいけど、割と空いていたね(^^)
これなら、土産物屋もちょっとヒマかな〜(~o~) -
拙政園の入り口になる「大門」です。
これも「牌楼」の形なんでしょうかね。
よくある牌楼に較べると、壁面が広く、どっしりしていますね。 -
↑の大門の棟の端に付けられている鬼瓦です。
龍とはちょっと違った顔をした神獣なのでしょうか??
中国の鬼瓦って、日本とはだいぶ違いますね。これに詳しい方、教えて下さいね。
そもそも鬼瓦って何だろ?なんてことは、普通に厄除け程度のことしか考えたこともなかったのですけど、棟瓦の両端から雨水が染み込まないようにするのが本来の役割なんですね。その瓦に鬼やその他の顔なんかを付けて、飾りとか厄除けにしたみたいです。
↑のWikipediaの記事にもありましたように、棟端の瓦に鬼の顔を付けるそもそもの起源をたどると、ギリシャ神話にたどり着くようです(^o^)
ギリシャ神話の女性の怪物「メドゥーサ」の顔が、現在のシリアにあるパルミラ遺跡の墓地の入り口に、魔除けとして浮き彫りにされていると言うのです。
これが東洋に伝わって、鬼瓦になっていったというのです(もちろん、いろいろにアレンジされていますけど)。真偽のほどは分かりませんが、面白い話ですね。
★シリアのパルミラ遺跡の場所は↓にて
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.0004cff4673edfd33adb8&msa=0&ll=34.5477,38.273916&spn=0.001957,0.002143&iwloc=0004d48eba1dfd75d4f12
★メドゥーサの話は↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%82%B5 -
拙政園の園内地図です。
これからお話しする際の参考にされて下さいね。
私たちの現在地は右下に赤○がついている「您所在的位置」のところです。
この地図上のいろいろなところを歩きましたが、今になってみると、どこを歩いたのか分からないんですよ(-_-;) そこで、なるべく建物の名前を表示するようにしますので、時々ご覧になって位置をご確認下さいね。 -
↑の写真の大門を通過すると、その次に待っているのは幽通という通り道(門?)です。
ここは、駅の改札みたいになっていて(2列あります)、チケットをチェックされます、皆さんは二列にならんで通ります。 -
幽通右側にこんな銘板が埋め込んでありました。
「全国特殊遊覧参観点・1990年12月7日」とありますね。
「特殊遊覧」って、どういう遊覧でしょうかね?
写真が欠けてしまいましたが、その右には「国家等級旅遊区・AAAA」という銘板もありました。世界遺産で中国四大庭園でもAAAAなんですね。AAAAAって、なかなか難しいですね。
国家AAAAA級の観光地としては、黄山や漓江なんかが有名ですね。 -
幽通の左側には、世界遺産の銘板が掲示してありました。
1997年に「蘇州古典園林」として、8つの庭園とともに文化遺産に登録されたみたいです。
我が家の庭にも何か1つあると良いですが、駐車場になっていてはダメですね〜(-_-;)
★世界遺産「蘇州古典園林」の詳しいことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E5%B7%9E%E5%8F%A4%E5%85%B8%E5%9C%92%E6%9E%97
★拙政園の場所は↓にて
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.0004ac69971fc58f392d3&msa=0&ll=31.325865,120.624843&spn=0.00187,0.001872&iwloc=0004ac6a364889aac0394 -
「おとうさん ここだよ〜(^^)」
当家のカミさんがどこへ行ってしまったかと思っていましたら、こんなところにいました(^^)」
拙政園まで来てカミさんを見失ってしまったら、ホント、泣きたくなりますからね〜(-_-;)
そうなったら、今夜から一人で寝なきゃならないし・・(>_<) -
この時は桜と梅と桃が咲いていました。
桜と梅は時期が違うよ〜〜って思うんですけどね、でも咲いてるみたいだもんね(^-^)
あのピンク色は桃かスモモかも?
ま、なんでも良いけど、3種類の花が同時に見られるって言うのは嬉しいことですね。 -
こんなところに、積乱雲のような形をした石が置かれていました。
ところが、これを石とは言わないですね。「綴雲峰」と言うのです(^^) その意味はまさに入道雲のような雲を表しているというのです。それを「峰」として表すところが、自然に親しむ東洋人の面白いところでしょうか。 -
の真ん中の建物は「芙蓉榭」かと思います。
「榭」と言うのは、私たちには馴染みのない言葉ですね、これは、「閣」とか「亭」と言われるような建物の種類を表すもののようです。
「○△榭」は、主として水辺に建てられ、建物の半分は水面上にはみ出しているのが特徴とのことです。
ほかには水平の線を基調としたり、欄干があったり、屋根も棟の丸い入母屋だったりするような特徴があるという話です。
わざわざ水面上にはみ出して造るという建て方は、洒落たセンスと言えるかも知れませんが、いかにも贅沢・我が儘な作り方とも言えますね。
昔は、ここにお客招いて鯉や金魚でも眺めたのか、対岸の景色を楽しんだのか、或いは美人とお酒でも楽しんだのか? それは分かりませんね。
(Nさんご提供の御写真です) -
芙蓉榭の破風を見ますと、とても変わった図柄になっています・
右側で逆立ちしているのは、蛙に似ていますね。
長い蔓のようなものは、車のホイールのようなものを通り抜け、上に向かってお椀のようなものに噛みつかれながら、更に上に向かっています。
左の方では、花を束ねていますけど、この図柄自体がちょっとふざけた感じのものに感じられます。今風にいえば、「遊び心」で作ったものなのかも知れませんね?
しかし、本当のところはなんなのでしょうか? -
「榭」の中にまで太湖石を飾るなんて、ちょっとビックリです。
-
芙蓉榭付近から、南の歩行を見た光景です。
落ち着いた光景ですね。 -
こちらは「天泉亭」です。
その名の通り「泉(=水)」を汲むところです。
「榭」のことをお話ししたついでに、これまで何度も出てきた「亭」のことも調べてみたのですが、これはもういろいろですね。柱と屋根だけの簡素なものから、演芸場や大きな料亭まで「亭」ですからね。
ンでもまぁ、「亭」と聞いて頭に浮かぶのは、眺めのよいところにポツンと建つ東屋とか、休息用の小さな家ですね。山の上とか湖畔とかにつくられたり、庭園の飾りを兼ねた見晴台としてつくられるのが多いようです。
このような亭の平面的な形は、四角形だったり六角形・八角形や梅鉢型だったりするようです。
これらは独立した「亭」ですが、長い通路の途中やつなぎ目などにつくる「半亭型」もあるようです。
ちょっと天泉亭の中に入ってみましょう。
★↓の左側の山の上(鉄塔の左)に建っているのも「亭」かも知れませんね。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/22172544/src.html
★↓は東屋(四阿)の話です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E9%98%BF -
「おとうさん、ここに井戸があるよ」(^^)
カミさんがいないと思ったら、こんなところにいたんだねぇ。
どんな井戸なのか? 私も行きましたよ。 -
これが井戸だというのです。
井戸の土の表面から上の部分を、コンクリートで固めてしまっているんですね。
滑車がないので、どっやって水を汲んだのでしょうかね??狭い建物の中では滑車を使った「つるべ」ですよね。まさか「はねつるべ」じゃないですよね。
拙政園は、明代の1509年に官界に失望した御史王献臣が故郷に戻って、個人の邸宅や寺の跡などを買い取って造ったと言われています。ですから、この時代には井戸の水くみに滑車が使われていたと考えても良いですね。
滑車の発明はアルキメデス(紀元前287年 - 紀元前212年)の名が上がってきますが、一般的には1〜2世紀頃には広く使われ始めてきたと言ってもいいでしょうか?
★↓はハイデルベルク城の井戸です(上端が土管のような形をしています)。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/20242759/src.html
井戸の土管を見慣れてきた私たちには、この方が自然に見えます。ここでも滑車がないので井戸という現実感が湧いてこないですね。 -
ここの井戸は、掘った穴の壁を石とその頃のコンクリートで固めていますね。土管の歴史はイマイチ分かりにくいのですが(小さい排水用土管は、かなり早くから使われていたようですけど・・)、井戸に土管を使うようになったのはいつ頃からでしょうか?
それにしても、こんな井戸のなかにゴミを捨てる輩がいるのですね〜。
★↓はハイデルベルク城の井戸の中をのぞいた様子です。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/20242760/
井戸の内部の壁面には、石が露出しておらず、モルタル塗りみたいになっていますね。
(ここでも、ゴミを捨てる人がいるんですね(>_<) )。
【※】コンクリートをつくるセメント自体の歴史は、中国もヨーロッパもかなり古いですね。これがなかったら、強靱な城塞の建設など到底覚束なかったですね。 -
骨組みや壁を竹で造った家のようですが、見学コースから外れているのか? 拙政園観光の話には、あまり出てきません。
だいいち、入場時に見た園内の地図にも載っていません(@_@) 私たちも詳しいことを知りません(-_-;)
詳細をご存知の方、教えて下さいね。 -
この建物は秫香館(じゅつこうかん)だと思います。
拙政園は東西に長い形状になっており、東・中央・西の3つに区分されているようです。
この秫香館は庭園東部の中心的な建物となっています。
明の時代の頃までは「帰田園」と言われていたそうですが、結構荒れていたとか。戦後に再建工事が行われて、このように立派になったと言われています。
内部も見ずにどんどん行ってしまった私たちですが、ここにはいつも見るような高級木材でつくった高級な椅子が展示してあるそうです。
窓の形も工夫され、窓越しの景色が風景を切り取ったように見えると言うのです。
実は、私のカメラもそういう風に出来ていまして、いつも風景を切り取っているのであります(~o~) ただその、切り取り方が未だ未熟なのが悩みの種であります(-_-;) -
こちらは池のない庭園ですね。
今(3月中旬)は落葉期なので、これらの木々が葉をつけた時の様子も見たいものですね。 -
このような回廊もあります。
回廊は当時の来訪者を庭園に案内する時に重要な役割を果たすものですから、この回廊を地図上で分かりやすく描いて欲しいですね。
この回廊が園内地図では分かりにくくて、旅行記を纏める際にホントに困るんですよね。航空写真なども参照して、回廊も含めて立体見取り図で書いてくれると助かりますね。 -
どぶ川のような狭い水路ですが、左側の“陸地”はこの水路(ホントは水路じゃないですが)にぐるりと囲まれて、「島」となっているのですよ(入門前の地図で右の方にある屈曲形の島で、「放眼亭」のある島です)。
↑の地図をご覧いただきますと分かりますが、この拙政園には4つの島があります(一番南にある島は、「別有洞天」のあるところで僅かにつながっていますけど)。 しかし、どうしたことか、地図で見る限りこれらの「島」には名前がついていないようですね。 -
↑と同じ地点から、東の方向を捉えた様子です。
左側の建物は「秫香館」です。右側が↑に述べました「島」です。 -
4面の壁に円形の通り道(円洞門)を持った建物で、「梧竹幽居」と言われています。しかし、梧竹幽居の中は丸見えですから、「居」と言う感覚には似合いませんね。
こういうものも、庭園の光景に変化を付けるための東屋と言えるかも知れません。ま、この庭園における点景といった感じですね。庭園には、こうした意味で建てられる建物が多いです。
また、ここで休憩しながら庭園を眺めるという役割あるわけで、ちょうどカメラで撮影の構図を決めるように、庭園の光景を円形を通して眺める楽しみもあるのかも知れません。
ま、説明は後でいくらでも付けられますが、このような亭を造ること自体は庭園主の酔狂によるもののような感じがしますね。 -
ここに来て、急にこんな光景が展開しました。拙政園という庭園内でありながら、これまでの様子からコロッと変わって見晴らしがよくなりました。
これは瘦西湖でもそうでした。小金山の前後で情景ががらりと変わったような感じでした。庭園の眺めを飽きさせない造りですね。
梧竹幽居付近からの光景ですが、右上に雪香雲蔚亭(せつこううんいてい)が、そこから左に降りたところに荷風四面亭、池の正面に円洞門のある小さい建物の別有洞天、左岸側には倚玉軒と遠香堂の一部が見えます。
ここで一番大事?なのは、ちょうど真ん中の遠くに「北寺報恩塔」が見えていることです。この風景がとっても良いと言うことで、この庭園で見られる光景の筆頭にあげられているのですよ。
私たちからすると、たまたま運良く「北寺報恩塔」が見られたと言うだけのことですが、庭園を造る時に、庭園内から「北寺報恩塔」が見られて、それが水に映るように意図的につくったというのです。まぁ、ヒマなことを考える人がいたモンですね(^o^)
周りの風景を取り込む(組み入れる)というやり方を「借景」と言うのだそうです。すると、向こう(北寺報恩塔)からすれば、風景に入れてやってるのだから「貸景」と言うことになりますね(^o^)
借景には、遠景を取り入れる場合は「遠借」、お隣からの場合は「隣借」、俯瞰の中に捉える時は「俯借」という方法があるようです。そう考えると、色々な借景がありますね。
たまたま自宅の居間や2階からの眺めが良いときなども、「借景」的な感じになりますね。また、見晴らしのよいところに自宅を造れば、それはもう、借景だらけということになりますね(~o~)。
★北寺報恩塔の場所は↓にて。
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.0004ac69971fc58f392d3&msa=0&ll=31.324584,120.615589&spn=0.00187,0.001872&iwloc=0004d27669cbd00688df0 -
この水面の突き当たり、丸い穴の空いたように見える半亭は、地図上では「別有洞天」となっています。
この半亭のなかにも「別有洞天」と書いてあるようです。この「別有洞天」という言葉は、中国ではあちこちに使われているようです。北京の円明園にも「別有洞天」と言う遺跡まであるというのです。
私たちには、この言葉は初めてなのでサッパリ分かりません(-_-;) どうやら、「まだ別の世界(いいこと・いいところ)があるよ〜」と言うことのようですが、ここでもそうであるように、何かの通過点とか入り口に書いてあることもあるようですね。
ここでの、「別有洞天」がどういう意味で使われているのかは分かりませんが、ここを境として東または西の庭園が見られるということだろうと思います。 或いはもっと高尚なものを想像して書かれたのか、考えてしまいます。いずれにしても、この庭園を念頭に置いて書き込まれた言葉であることは、確かなことですね。
それにしても、「別有洞天」などという言葉が書き込まれるなんて、本当に道楽をしているな〜って思いますね。 -
先ほどの「梧竹幽居」の中です。
こんな風に四角なテーブルが1つあるだけです。
このような窓(円形洞門)の形は、秫香館の頃でもお話ししましたように、風景を円形に切り取って眺めるという洒落たことも可能とさせるのですが、間近に見ると大きすぎるような気がしますね。
実際、風景を円形に切り取って見るためには、もうちょっと小さくてもいいかな〜?と思いますね。
しかし、遠くからこの建物を見ますと、4つの円形洞門もつこの亭は、風景の中の点景としては結構好印象を醸し出していますから、庭園風景を演出うえでは大きい価値があるようにも見えますね。 -
「梧竹幽居」を通り抜けたとこから、「遠香堂」・「倚玉軒」を捉えた様子です。
中国の庭園の特徴にもう一つ加えるとすれば、建物が多いこともあげられるかと思います。
榭とか亭、楼とか堂・軒・閣などと言った種々の建物が結構建てられているのですね。
それと、曲がりくねった「廊」によって繋がれていることも特徴の一つと言っても良いと思います。
また、軒とか堂という建物内部には高級な家具や調度品を置き、漏窓越しに風景を楽しめるようになっているんです。確か、个園もそうでしたね。
上にも述べましたように、建物自体が風景の役割を持って建てられているということも言えます。例えば倒影楼や塔影亭は水映る姿を楽しんだり、また振り返ってその余韻を味わうという設定もあるとの話もありますよ。 -
これは「待霜亭」です。
この亭は庭園の中の小島の上に建っており、前後を見ますと、水面を挟んで対岸の風景を見るような感じになります。
亭というのは、そういうことですね。ちょっと眺めのいいところで一服するための建物で、それを適切に配置しているってことですね。 -
このような「亭」ですが、多くの庭園では石を積んでつくった「築山」の上に立っています。「山」の大きさはこんな程度ですから、「亭」 のサイズも自ずと決まってきます。大きくつくってしまっては、築山とのバランスが取れないというわけのようです。
「亭」とは、やっぱり、ちょっと休憩しながら背もたれに寄りかかって景色でも眺めるというところと言われています。
今回の旅行でも、川の畔から崖の中腹、そして山の上などたくさんの「亭」を見てきました。中国の人々が「亭」を好んで建ててきたことがよく分かりました。庭園に於いても、先ずは亭をどこの奥かを考えただろうと言うことは、容易に想像がつきますね。
「亭」と言っても、四角形や長方形の形の他、色々な多角形から円形、その他色々な形があるようです。私としては屋根の形が美しい六〜八角形くらいが良いなぁと思います。
★↓は三峡ダム湖畔に立つ「亭」です。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/23140064/src.html -
先ほど遠くから見えていた遠香堂(左)と倚玉軒(右)です。私たちは「雪香雲蔚亭」から、遠香堂の方を見ているのです。すなわち遠香堂と雪香雲蔚亭及び待霜亭とは、水面を隔てて向き合っていると言うことになります。それが、遠香堂からの眺めということになります。
庭園を見て回る時、(状況にもよりますが)門を入って右に行くか左に行くか? 或いはまっすぐ行くか? 多くの場合は取り敢えず目の向いた方向に行ってしまうことが多いものです。私たちは右に進みました(門の位置が右にあったから。時計回りと反対回り)。
しかし、この庭園を造った当人は、この遠香堂に先ず客人を通したという話があります。
造園主本人としては、見せたい順番があるというのは分かるような気がしますね。 -
この拙政園でもっとも綺麗だったのが、どの建物や花よりも何と言ってもこの方でした(*^_^*)
日本美人は、中国の庭園でもどこでも、その風景に合うのですよ。
どんなに立派な庭園も、人の真心と美しさには敵いませんねぇ(^_-)
後ろに見える建物は、私の別荘で「見山楼」と言います(^O^)(~o~) ホント、こんな別荘があったらねぇ(~o~)
見山楼の内部には大成金の「社長のデスクと椅子」と言っても信じてもらえるような、高級木材でつくった黒光りの立派なデスクと椅子があったのですよ。 -
それじゃぁ、ここで御一緒に記念写真でも(*^_^*)
世界遺産で、記念写真!(^^)! なかなか出来ないですよ〜〜(^_^)v -
もう一回!! 嬉しいねぇ(*^_^*)
この時は桜?が咲いていましたが、こちらの皆さんもそれに劣らず活気がありましたね(^^)
左後ろに見える建物は倚玉軒です。当家のカミさんの右後ろに見えるのは、船を模ったことで知られている「香洲」です。 -
ここにも東屋がありました。これは「荷風四面亭」のようです。
「中国旅情一山水」のHPによれば、この「荷風四面亭」と「香洲」と「倚玉軒」とが三角形をなし、そのどこにいても湖面上の蓮を見ることが出来るというのです。
そんな話を聞いてみますと、「ふ〜ん」なんて納得してしまいますが、造園の際にはそういう位置関係も考えて行われるものでしょうね。
しかし、三つの建物は同時に建てられてものではないようです。
それにしても、「亭」とか「閣」「楼」が、あまりにも多いモンですから、どれがどれだか分からなくなってきました(-_-;) 園内に掲示の地図で数えてみると、亭だけでも13ヶ所もありますからね(^_^;)
だいたい、造りすぎですよ(~o~) 広いと言っても僅か300m×平均幅で120m強の庭園内に、13の亭を含めて、三十数カ所もの建物があるのですからね。
しかし、最初からこれだけの建物を造ったわけではないようで、始めの頃(明の時代の中期)には園内の建物は少なく、自然な感じの風景だったようです。それ以後庭園の持ち主も結構変わったりしながら、荒廃と再興を繰り返しつつも建物も徐々に増え、清代の康煕帝や乾隆帝の時代になって庭園造りが活発になり、園内でも建設が進んで築山も建物も増加したというのです。
ですから、最初からこれだけの建物を一つの設計の元にバランスを考えて建設されたわけでないわけで、結果として三十数カ所もの建物が造られたわけですね。建物の造りすぎの事情はこういうことだったというわけです。 -
順番をちょっと変えて・・。
「小飛虹」という橋から、「荷風四面亭」方向を捉えた様子です。
突き当たりの倒景の鮮やかな東屋が荷風四面亭で、その左の2階建て建物が「見山楼」です。写真には見えませんが、写真の右側に「倚玉軒」があります。
左側手前の男性が一人立っているところは、船の形と言われる「香洲」です。
ところで、拙政園も个園もそうですが、池の岸辺の殆ど場所には石垣を積んでいますね。中国の庭園でも良く言われることは「自然」の表現とか、山水の景観を楽しむというテーマですね。しかし、池岸の殆どが石垣であることは、どうも自然の姿になじみませんね。
もっとも、彼らは自然をここに模倣しようとしながら、彼らの「都合と好みに合う自然」をここに「創造」したと言えます。かなり意図的な「自然」が、ここに展開しているのですね。
全く自然の姿を利用して、彼らの権威と享楽的心情を庭園造りを通じて表現してしてきたという主張もありますね。美しい景観は、その虚飾に過ぎないという痛烈な批判も分かりますね。
★↓は栗林公園の池と水辺です。拙政園のように池岸を石垣にするのではなく、水辺を細かな石で固めて?より自然な形にしていますね。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/23789127/src.html
(Nさんご提供の御写真です) -
真ん中に見える屋根付きの橋(廊橋)は、小飛虹(しょうひこう)です。
↑で、ここから見た風景をご案内しましたが、さまざまな建物や樹々が水に映っていましたね。あれが、花の春だったり、緑の綺麗な新緑・深緑の季節であったなら、その風情も一段と変わったものだったことと思います。
場所を変えれば、水と建物と岩と山の4要素が織りなす光景を見ることが出来ますね。 -
もう一度、屋根付きの橋・小飛虹の方を見ますと、その橋の向こうに左右に長い窓のついた建物のあることが見ていただけると思います(小飛虹自体は橋に屋根が付いているだけです)。この建物は両岸を跨ぐ家なのです。その家は「小滄浪」とのことです。
写真手前の小飛虹とその奥にある小滄浪とによって、両岸を跨ぐ四角形の小回廊が出来ていることになります。小飛虹から南北の光景を眺め、回廊を回って小滄浪から小飛虹を前景に取り入れた庭園風景が眺められるという計算です。
これなども、非常に贅沢な考え方ですね〜。
(Nさんご提供の御写真です) -
↑の写真でもチラチラと姿を見せていた「香洲」という建物です。
地元の人は、この建物を「旱船(かんせん)」と呼んでいるそうです。これは一種の船型建築とのことで、水辺につくられるようです。「舫(ぼう)」とも言われるようです。建物は3つに分かれて、船尾に当たるところは2階建てにし、白い漆喰壁にするというのです。
こうなると,私でも分かりますね。東屋風のところが船首で、真ん中が船倉または船室で、後ろがブリッジですよね〜。あの時代に、こんなことを考えて贅沢な作り方をするなんて、本当に驚いて唸り声が出てしまいましたよ(>_<)(*_*)
庭園造りがここまで凝っているとは!!また、凝っても払えるカネがあるとは!!本当に驚きです。もっとも、池を掘り、山を造り、橋を渡す工事も莫大な費用がかかるわけですけどね。
問題なのは、この庭園を造成させたのは「個人」であることです。もちろん、王侯貴族が造ればいいというわけではないですが、一人の元高級官僚が造園したというところに、中国社会の古代〜近代までの腐敗・乱脈ぶりが伺えると言うことです。
そして、そのカネはどこから?と問えば、天から降ってこない限り、その出所を突き詰めれば、庶民特に農民からの税であり強制供出であり、労働提供であるほかないですね。
尚、この香洲は2006年6月にリニューアルされているそうです。 -
雪香雲蔚亭から倚玉軒(左の屋根)と香洲(右の白い建物)の方を捉えた光景です。
↑でも見た「香洲」を構成する白い漆喰塗りの建物ですが、この建物自体は「澂観楼(ちょうかんろう)」と言うらしいです。2階建てですが、一階部分は香洲と言われ、展望窓のある2階を澂観楼と言うのだそうです。
(Nさんご提供の御写真です) -
この橋はW字型に折れ曲がっています。真っ直ぐでいいものを、わざわざ曲げて作らなくてもと思いますよね〜。現代合理主義がからすれば、完璧に無駄な設計ですよね(~o~)
それがね、この拙政園には真っ直ぐでない橋が6ヶ所もあるんですよ。曲がっていない橋はたったの3ヶ所だけで、それも短い橋です。庭園というものは、こういうモンですかね〜?
ところが、橋を曲げることによって庭園の雰囲気に溶け込むというのですよ。真っ直ぐな橋では風景を分断してしまうし、人もサッサと渡って庭園風景を見ずに行ってしまうというわけです。曲がっていることによって人は歩みを止め、庭園を見渡し、水に映る光景を楽しむということのようです。ホント、「曲がっている」ところに価値があるのですね〜!(^^)!。
人生も真っ直ぐ走るだけでなくて、ちょっと回り道して、ちょっと立ち止まって、これまでの歩みを振り返ってみたらいいと思いますね〜。 -
中央右の、塀の向こうに屋根の尖っている亭が「宜両亭」だと思います。
拙政園が中園と西園とに別れて所有されていた頃、西園の主が中園の光景を楽しもうとして、山を築きその上にこの亭をつくったというのです。他人の庭(中園)を2階の窓から楽しもうという作戦ですね(中園の景色を借景)。(~o~)
しかし、中園の主も宜両亭の眺めを楽しめた(こちらも借景した)と言うことで仲良くなり、情も深まったという話です。宜両亭という名がそれを表し、「両家にとってよい」という意味だそうです。
「亭」を作るきっかけというのは、本当に分からないものですね。また、こうして建物が増えていくことになりましたね。 -
現在地です。
時々現在地を入れておかないと、どこにいるのか分からなくなってしまいますね。
それが、ついつい現在地の写真撮影を忘れてしまうんですよ(-_-) -
「別有洞天」付近から、東の方向を眺めた様子です。
正面に丸い穴のある建物が「梧竹幽居」ですが、点景としての役割もあることが分かりますね。
★「梧竹幽居」付近からこちらを眺めた様子は↓にて。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/28622888/src.html -
先ほど渡ってきて五曲橋??方向を眺めました。
左奥に見えるやや大きな建物は、「見山楼」で、写真右端に柳の向こうに見える亭は「荷風四面亭」のようです。 -
正面の窓が扇型の形をしていることで、分かりやすい「与誰同座軒(よすいどうざけん)」です。
写真では分かりにくいですが、建物のこちら側は緩い円弧状となって手前側に張り出しています(屋根も同じように円弧を描いています)。そのため、多くのものが扇形になっていることから、「扇亭」とも呼ばれているそうです。方向としては南東を向いているため、夜には星や月を眺めるにも良さそうです。
「中国の名庭 蘇州古典園林」によれば、「与誰同座軒」の名は、「蘇東波の詞『誰と一緒に座ろうか。名月と清風と私』」からこの名が付けられたとのことです。そんな言葉をもてあそんでいたのですね〜。
私なら当家のカミさんと一緒に座りますが、蘇東波の本心は美しい女性芸人さんだったかも知れませんね。どっちにしても贅沢な名付けです。 -
倒影楼は↑にも述べましたように、その字の如く水面に映る倒影(逆さまの影)を楽しめるという建物です。
昼間はもちろん、夜の灯明が点った時の倒影ももまた乙なものというわけです。
拙政園では、建物が水辺に建っていることが多いですから、たくさんの倒影を見ることが出来ると思います。しかし、より良い倒影を楽しむためには、家の形や窓の配置も大事でしょう。灯りが点った時には、特にそうだと思います。本当に贅沢なことを考えたものですね。
この建物は1894年にこの区域(西園)の園主だった張履謙が建てたと言われています。
★↓にも倒影が見られました(^^)。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/album/10547319/ -
「おとうさん こっちよ〜」
「おかあさん、ちょっと待って〜」
当家のカミさんはサッサと行ってしまいますからね〜。
カミさんは、亭主のことをあんまり気にせずに、サッサと行っちゃうことがあるから気をつけないとね。
ところで、カミさんが行くところは卅六鴛鴦館と十八曼荼羅花館の建物です。
この建物の特徴は四隅が出っ張っていることです。左の方を見ますと、建物の南東角の出っ張り部分が見えます。
この部分は芸人や下僕たちが使っていたと言われています。芸人たちが出入りするというのですから、客人を迎えた時の豪勢な遊びは、下々の人々の想像を超えるものがあったと見るべきでしょう。
カミさんの前の円洞門をくぐって右が卅六鴛鴦館で、左に行きますと十八曼荼羅花館になります。 -
当家のカミさんは私の方ばっかり気にして、前を見て歩いてないと危ないじゃんね(=_=)
カミさんが行こうとする方には、青色のステンドグラスが見られます。これから行く「卅六鴛鴦館(卅六えんおうかん)」や「十八曼陀羅花館」の窓辺には、あのようなステンドグラスがたくさん使われていますよ〜。
ガラスは、5000年前頃にメソポタミアでつくられ始めたとか。中国でのガラス生産は、紀元前11世紀にはもう始まっているのですね(欧州は紀元前16世紀ごろ。日本では2〜3世紀頃とか)。
ステンドグラスはヨーロッパで8世紀頃つくらたれたようです。 中国でのステンドグラスの歴史はちょっと分からないですが、マルコポーロが着た頃には伝わっていたと見てよいでしょうか??
【※】鴛鴦館を「おしどりかん」と読む例もありますね。元が中国語という外国語ですから、日本語への読み方・解釈は色々ですね。」 -
中国ではこういう丸い入り口というのが多いですね。
中国では、わざわざ壁をつくって丸い出入り口を設けることがよくありますね。長〜い壁に出入り口を付ける際に、形を考えて丸い形にすると言うのなら分かりますが、この丸い出入り口を付けるためにわざわざ壁をというのは、ヒマとカネのある人のやることですね〜。
中国の人々も縁起を担ぐところがあるようで、丸い形というのは「円満」「仲良く」なんてことを表していたんでしたね〜。
当家も玄関の形を丸いものにしてみたら、「代表取り締まられ役亭主」のお仕事ももうちょっと手加減してもらえるかも??って考えちゃいます。
皆さんはどう思われますか?? -
墨絵のなかに、カラーの花と鳥。
とっても良い絵だと思います。
中国には、こういう絵もあるんですね。
中国の「国画」で検索してみますと、墨絵とカラー部分とが一つの絵のなかに描かれるいる画法のものもあります。
ここの2羽の鳥は鴛鴦のようですね。 -
この絵の前で、記念写真を!!
-
内部には立派な家具や調度品が揃えてありました。
仕切り一枚、ガラス一枚、贅沢の限りがつぎ込まれていますね。 -
ここは「卅六鴛鴦館」です。
「鴛鴦」は難しい字ですが、「おしどり」のことです。ですから、「卅六おしどり館」という感じですね(^o^)
東アジアでは、鴛鴦は「仲睦まじい鳥」として縁起よく捉えられているようです。拙政園の庭園を飾る建物に、このよう名前が付けられるのもよく分かりますね。
「鴛鴦」のうち、「鴛」の方がオスで、「鴦」がメスとのことです。オス・メス並べて書いて「おしどり」というところが、また「おしどり」らしいですね(^^)
ちなみに、夫婦以外のカップルに対して「鴛鴦のよう」というのは、間違いなのだそうす。
おしどりのことはさておき、卅六鴛鴦館は十八曼荼羅花館とともにほぼ四角形の建物になっています。その建物の内部を南北に分ける壁があって、北の池側の方が卅六鴛鴦館で、南の側が十八曼荼羅花館として使われているのです北の卅六鴛鴦館が夏用に、数字で丁度半分になる南の十八曼荼羅花館が冬用として使われたそうです。また、卅六鴛鴦館が主人用で十八曼荼羅花館は婦人用だったとも言われています。
しかし、詳しいことは分かりません。
★意外なことに、鴛鴦(おしどり)は一年ごとに相手を変えるそうです。その詳しいことは↓にて。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B7%E3%83%89%E3%83%AA -
次は「卅六鴛鴦館」の隣にある「十八曼陀羅花館」です。
こちらも高級な調度品がいっぱいですね。
卅六鴛鴦館と十八曼荼羅花館の名の由来は、例えば36羽の鴛鴦がいたとかなどの話もありますが、詳しいことは分かりません。
卅六鴛鴦館は拙政園の最初の主人であった王献臣の活動拠点だったという話があります。そうであれば、普段はここにいて実務をこなし、来客があると先ずは遠香堂へ案内し、庭園を紹介しながら歩いたのかも知れませんね。
実は、この建物も大きすぎて、庭園の景観のバランスを壊しているという指摘があります。そうですね〜、全てが素晴らしいわけではないですね。 -
ここは「卅六鴛鴦館」付近から捉えた「浮翠閣」です。
文字通り、緑のなかに浮いているという名前ですが、まぁ酔狂な名前を付けるモンですね。しかし、葉の落ちた冬の時期など緑に浮くどころじゃないですね。むしろ、高く・大きく見えてしまいます。
でも、こうして遠くから見た浮翠閣の展望は、例によって絶賛されています。しかし、浮翠閣の建て方・デザインは、築山とのバランスひいては庭園全体との整合性に於いて、決して優れていると言えないという評価もあるようです。
亭とか楼・閣一つ建設するにしても、もともと美を意識して形作る庭園に於いては、一つの建物の形とか美だけを追求するのではなく、池の大きさ・形、築山の大きさ・高さ、庭園全体のバランスを考えた設計が求められるということですね。 -
これは、塀の屋根に使われている軒瓦の模様を撮影したものです。
先ず、凸型の瓦の模様は歯車のようなギザギザの飾りがあります。下向き▽の瓦には、たくさんの種類の模様が見られます。種類を豊かにするようにしたのか、あり合わせのものを集めたらこうなったのか、確かなことは分かりませんが、もし前者であれば、かなりの贅を凝らしたことになりますね。
実は,拙政園に入った時から、軒瓦の模様を気にしていたのですよ。本当にいろいろな模様の軒瓦が使われていますね。
★重慶・磁器口のお店の軒瓦には模様もなくて、ノッペラでした。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/22898020/ -
「カメちゃん 一枚撮りましょか?」
「あ、有り難うございます。 よろしくお願いしま〜す。」
どこへ行っても2人三脚。
「代表取り締まられ役亭主」は、カミさんから離れられないのであります(^o^)
「いつかは取り締まってみたい」
↑↑これが、夢なのであります(^_^)v -
どの建物の破風か忘れてしまいましたが、破風にこのような鳥?の模様がありました。
詳しいことは分かりませんが、日本の鏝絵とは違いますね??
鶴の姿かと思ったりしましたが、触覚のようなものもあったりしますから、なんなのでしょうか? コウモリでもないですね?
分かる方、教えて下さいね。 -
遠香堂正面の柱に書かれた詩です。私は読めませんけど・・(-_-;)
上にも触れましたが、庭園の主は客人をまずここに案内し、歓談したものと思います。そして、ここを起点に庭園内を案内したというように、遠香堂は拙政園の中心的な役割を持っていたようです。お城で言えば本丸ですね。
ここには、庭園主の想いが詰め込まれている筈です。 -
遠香堂の内部です。
まず、あの个園の宜雨軒のように、四面を高くて見通しの良いガラス張りの漏窓とし、椅子に掛けたまま、或いは立って四方の眺めを紹介できるようにしています。先ずは対景としての雪香雲蔚亭や嘉実亭などを紹介したでしょうね。
これはなんと贅沢な造りでしょうか!!
余計な話ながら、漏窓の大きさ・形・飾りは実に様々なようです。長方形や菱形ばかりでなく、ひょうたん型・ヒトデ型・花の形・魚の形・雲の形等々・・、無限のようです。
そう言えば、あの回廊にも四角な形の漏窓がありましたね。 -
またまた、遠香堂の内部です。
様々な几案(机類)と椅子(太師椅?)、鉢などが置いてあります。
豪華な椅子と四角な「茶几」が2セット、花瓶などが置いてある台は「花几」と言うそうです。 あの椅子が「太師椅」とすれば、背もたれの丸いところは、時として大理石をはめ込んだりすることが出来るようです。このことは↑の丸いテーブルでもそうで、夏には大理石をはめ込んだりすることが出来るようです。
これらの家具は、主に熱帯産の楠木他の堅くて光沢のある木材を使用しているとのことで、その堅い材質から様々な彫刻なども施しやすいようです。 いずれにしても、非常に高価な家具をふんだんに使って、いることになりますね。
それにしても、漏窓の造りも造りなら、非常に高価な家具・調度品も豪華ですね。こうした高級品を揃えることによって、官僚地主のメンツを保とうとしたのでしょうか。こうした考え方こそ、庶民とは無縁の富裕階層の権威への執着と道楽と自己満足追求の現れのような気がしますね。
中国のかつての科挙を合格した官僚は、庶民とは隔絶した特権階級ですから、それも無理のない話ですね。 -
天井からつり下げられている六角提灯です。
和紙のような紙か薄い布のようなものに、中国国画風の絵が描いてありますね。
とても雰囲気の良いものですね。
かつてはここに灯火が付けられたのかどうか分かりませんが、灯りのついた様子を見てみたいものですね。
中国や日本の庭園や神社・仏閣には、こういうものが似合いますね。
西には西の文化があり、東には東の文化があるってことが、よ〜く分かる事例ですね。 -
遠香堂の軒下の状態です。
垂木のピッチがやや狭く、数を多めにしているような気がしますね。
それと、垂木が奥の方で二重になっているのでしょうか?
また、この遠香堂の造りが賞賛されている割合には、軒先の通し木材と垂木付近の漆喰?の剥がれかかっている様子が、気になります。
それとも、歴史的な古さと貫禄を感じさせているのかも知れませんね。 -
かなり雑な見物ながら曲がりなりにも一周し、梧竹幽居の近くにやってきました。
右から順番にもう一度ご紹介しますと,築山の上にあるのが雪香雲蔚亭で、画面中央の人がいる亭が荷風四面亭、半亭と言われる円洞門のある別有洞天、左に回って倚玉軒と遠香堂(屋根のみ)です。
この拙政園は多くの人々が認めているように、造園芸術の傑作と言われています。
同じ造園と言っても、日本の庭園、欧州の庭園もありますから、庭園に関して中国独自の思想・手法があるわけですね。
その思想の背景にあるものとして指摘されるのは、随唐時代頃から確立してきた中国の山水画との共通点が指摘されています。その山水画の背景をさらにたどれば、黄山や廬山・三峡などの雄大な光景とも決して無縁ではなかったと思いますね。
そうしたことから、画家が庭園の設計に関わるようになってきたという経緯があったようです。絵画にも造園にも手腕を振るった人は少なくなかったとのことです。
江南地方で活発になって行く造園活動の中で設計も施工技術も高められ、「山匠」と言われるベテラン技術者も庭園の造作に関わって、庭園造りを新たな次元へと高めてきたと言えるようです。
ところで、そもそも庭園造りの始まりは、何だったのかという話があります。
東京芸術大学の稲次俊郎氏の論文抄録によれば、その最初は文化人や高級官僚たちが、庭に書斎や応接間を造ったことにはじまるというのです。それはエリートのシンボルだったのですね。とにかく、かなり古い話ですね(^^)
私の書斎は四畳半で、狭い庭は駐車場になっています(-_-;) 大変な違いですね〜。
日本の庭園やヨーロッパの庭園との違いについては、またの機会に触れたいと思います。 -
また、最初に来た道に戻ってきました。
↑の方でも触れましたが、この庭園には東・中央・西の三つの園区があります。ここでは、それを東園・中園・西園と園内の案内図に示しました。東西の全長はおよそ300mです。
それにしてもこのような庭園を良く作ったものだと思います。
このことについては、幾つかの意見があるようです。そこにはマジメで清廉な人であれば、このような庭園を造ったり、買い取ってさらに築造したりするだろうかという疑問ですね。
中国でも具体的な氏名をあげるまでもなく、清廉潔白に生きた人士は少なくないのです。そうした彼らが、庭園を造るだろうかといえば、その答えは「否」ですね。
一般的な話ですが、庭園の造園が出来るだけの巨額の私財を、一官僚がどのようにして蓄財したのかという問題もあるようです。現代中国でも噂が絶えませんが、贈収賄が日常化していた中世中国では、そうした蓄財は容易に想像できますね。
故郷の蘇州で寺を買い取り庭園を造営した王献臣は、中央政府の高級官僚で官吏を監察する「御史」の官職にあったとのことですから、多くの人々からの収賄を容易に得る立場にあったようです。王献臣は給料も高かったと思いますけど、そうした賄も相当なものだったと推測したとしてもおかしくないと思います。
さらに、庭園の造営時に普通に資材を買い求めただけでなく、庶民の家や庭にある石とか木とか家具とかが気に入ると強引に供出させたり、税(小作料?)の強化や造園労働の強要なども広く見られたそうです(高級官僚は、同時に大地主でもあったのです=官僚地主)。造園活動が人々生活と財産を圧迫していたのだという話もあります。
これらのことを総合しますと、江南地域で造園が活発に行われた背景には、この地域の経済力とともに、当時の巨富を得た現・旧官僚の賄賂にまみれた体質と堕落、社会的な強奪・搾取も、庭園建設の背景にあったと言うことが考えられますね。
税金を余計にとられ、多くの私財と労働の提供を強制された住民はどんな暮らしをしていたのか、「山匠」たちはどのような苦労と努力を積み重ねてきたのかという、社会史・生活史の分野は殆ど書かれることもなく、歴史の波に掻き消されていくのですね。
拙政園という名も、当時の政治を「拙い政治」と批判したものと言うより、政治に関わっていた王献臣自身の体質を自嘲して付けたのではないかという説もありますね。
★↓は、当時の国家予算の十数年分にあたるという私財をため込んだ清朝時代の政治家・和珅(わしん)と、功臣から奸臣へと変わった伯嚭(はくひ)の話です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E3%82%B7%E3%83%B3
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%AF%E3%83%92
国王や皇帝に取り込んで、政治を誤らせ財政を私物化し、賄賂にまみれて私財をため込んだ奸臣もまた、数限りないですね。 -
最初の方で見た天泉亭の全景です。
ここは拙政園の東部にあたるところで、1949年の中国革命の頃までは荒れ放題だったとのことです。革命後にこの庭園を整備したというのです。そういう記事を読みますと、拙政園という「史跡」を原状復帰ではなくて、拡張整備しているような感触を得ます。
あの黄鶴楼が外見だけでも史実通りに造られたのではなく、さらに規模を大きくして造られたように、この拙政園も清王朝の頃の姿に再現されているとは言えないかも??って思います。ヨーロッパでも一概には言えないのですが、多くの城が壊れたままの姿を保存しているのとは対照的ですね。
こんなことを考えますと、日本の史跡はどうなっているのかという思いが、胸をよぎります。
★↓は壊れたままの姿を保存している「ハイデルベルク城」とトリーアの「ポルタ・ニグラ」です。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/20241790/src.html
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/19729602/src.html
長江下流域の江南地域では、庭園が多く造られ多い時には200ほどもあったようです。その殆どは私家庭園(個人庭園)だったとのことです。現在残っている庭園は60ヶ所ほどとか。そのうちで公開しているのは19ヶ所のようです。
庭園、特に私家庭園は富裕層の「道楽」で造られたのものです。 とは言え、庭園造営時には、その時代の社会生活を反映し、造園の叡智も結集されるわけですから、その時代を知る上では大切な史跡ですね。
桂林・漓江下りと長江クルーズの最後の訪問地だった拙政園は、いろいろ考えさせられる切っ掛けを与えてくれたように思います。 -
拙政園から出てしまいました。
ここは拙政園に隣接する「園街苑」と言われる商店街です。
ちょうど豫園のように、庭園と商店街が繋がっているような感じですね。
きょうは、静かな雰囲気です。 -
こちらもお客さんが少ないですね。
そう言えば、拙政園の中もそんなに混んでいなかったですね。
何方かがお話ししておられましたけど、中国では昼食時間が長いとか。
観光に来た方でも、お昼の時刻に合わせてここを出発しているから、中国の方が少ないんだとか。
実際のところは分かりませんが、中国の人々の昼食時間が長いことは初めて聞きました。 -
バスで船に帰ります。
途中の車窓からの光景ですけど、街路があんまり綺麗じゃないですね。 -
これも途中の光景ですが、たくさんのバスが集結しています。
ヒョッとして、バスセンターのようなところかも知れませんね。 -
蘇州駅まであと僅かのところです。
駅周辺の再開発が進行中のようですね。
以前、ここに何があったか分かりませんが、都市がこのような大規模な破壊を通して意図的につくられていくことに、なにがしかの違和感を感じない訳にはいきません。
バブル期の日本の「地上げ」 を想い起こします。 -
蘇州駅に着きました。
この時、私はトイレにきたくて大変でした。
そう、お腹の調子が一時はよくなって来たものの、中国料理が続くとやっぱり無理があるようですね。
食事のことに関していえば、大型客船でお腹の調子を壊したことはないですよ。果物等が結構ありますから、そういうところが良いのかもしれませんね。 -
構内の発車時刻表です。
まだ14時台だというのに、3時間から6時間先の発車時刻を表示しています。
右側の表示を見ますと、殆どが上海方面ですね。 -
これが、私の切符です。
もちろん、来た時と同じように高速列車用の切符ですよ。
“G”ですから、300km/h以上で走行する列車です。 -
時刻表の表示が変わりました。
私たちが乗る列車は、左側の一番上のG7146列車ですよ。 -
プラットホームへとやってきました。
これはドイツの「ICE3」の外観とほぼ同じでしたね。
ところで、中国国鉄はレール幅が広軌(おそらく標準軌)なんです。日本の狭軌とは大違いですね。
どこかで読んだことがあったので思い出したのですが、明治5年に開業した日本の鉄道ですが、その際確かな確信もなく狭軌(レール幅1067mm)を採用してしまったのですね(狭軌採用に大きく関わった大隈重信は、後に「一生の不覚」とまで述べたそうです)。
そして、鉄道網が狭軌で整備されてきたのですが、流石に狭軌の輸送力に限界を感じはじめ、早くも明治20年にはレール幅を広軌に変えようとする「改軌間論争」が起きてきたのですね〜。
ところが、軌間を変えずに鉄道網の整備を優先する人々との論争になって、予算とも絡んで何度も潰されます。人も変わり、明治・大正・昭和と時代が変わっても、何度議論されても、国鉄は結局広軌に変更することなく、狭軌のまま発展してきたわけです。
このような状況を捉えて、「決断できない日本人」という視点で見る人も少なくないようですね。伊勢湾台風時の、復旧工事と合わせた近鉄名古屋線の広軌化のときも、社内の多数の反対を押し切った社長の決断があったから、広軌化を実現できたという話がありますね。
一部の私鉄を除いて、広軌鉄道の実現は新幹線の実現を待つことになってしまったという話です。
もっとも、新幹線建設のときも、広軌別線案と狭軌別線案とが議論されたようですが、この時に狭軌別線案を採用していたら、「世界の新幹線」の名声は無かったかも知れませんね。
★↓は旧国鉄時代の改軌間論争の話です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%94%B9%E8%BB%8C%E8%AB%96%E4%BA%89 -
向こうのプラットホームに反対方向の列車が入ってきました。
東北新幹線の車両とそっくりな車両を、異国で見るのは何となく妙な感じになります。 -
列車に乗りました。
帰りの列車もドイツのICE型の電車でした。
只今の速度は318Km/hです。
昨日よりも速いですね。
蘇州駅を定刻に発車したとすれば、およそ8分後にこの速度に達しています。 -
無錫に到着です。
無錫には超高層ビルが多いですね。
また、無錫にも来てみたいものですね。 -
列車から捉えた、無錫の高層アパートです。
-
もうじき常州市です。
-
鎮江市に到着です。
このような列車を頻繁に見ることからして、高速列車の運行本数も少なくないようですね。 -
駅に掲示してあったポスターです。
-
鎮江市駅前です。
確か、今朝の鎮江市駅では、こんな街など見なかったはず。
駅の裏と表の違いでしょうかね?
街の様子を見ますと、アメリカ企業のマクドナルドとケンタッキーフライドチキンが、バッチリと入っていますね。
この風景を見て思い出したのですが、四十数年も前のこと、四国の剣山へ行った時、途中の田舎町にまでコカコーラの看板の出ていたことに衝撃を受けたものですが、「自由競争」というものはそういうものですね。
職場でその話をしましたら誰からも笑い飛ばされてしまいましたけど、今もその想いはありますね。 -
駅の方を振り帰ってみた光景です。
-
今朝、バス車内から見た「慈寿塔」だと思います。
中国ではこのような塔が本当に多いですね。
この慈寿塔のある金山から東へ4kmのところに、三国志の劉備が呉の孫権の妹「尚香」と見合いをし、婚儀をあげたという甘露寺があります。劉備の尚香との結婚も三国志の中では面白いところでしたから、鎮江市を訪れて時間のある方には、是非訪ねてみて下さいね。
★↓は甘露寺のあるところです。
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.0004ac69971fc58f392d3&msa=0&ll=32.21977,119.452259&spn=0.002151,0.001735&iwloc=0004d7c8c76ddac29cdcc -
これより長江を渡ります。
-
ここは、船が待っている揚州港です。
昨日から見ていた揚州港の東屋ですが、面白い形に気がつきました。
下の屋根の下がり棟がダブルになっているんですよ!!
これまでの中国旅行で初めて見つけましたよ!! 当初、これに気づかなかったなんて、なんたるチョンボででしょうか(-_-;)
蘇州へ向かう時も、二つがドッキングした東屋を見ましたが、揚州・鎮江周辺はちょっと変わっていますね。
あの贅の限りを尽くした拙政園にも、下がり棟がダブルになっている亭などはなかったような気がします。 -
私たちの船は、最終下船地の上海に向けて出航しました。
明日朝には、この船と「さよなら」をすることになるのです。
なんだか、ちょっと淋しい感じの出航ですね。 -
巡視艇も見守っています。
-
長江で働く船を見るのも、あと僅かの時間になってしまいました。
-
こんな小さな貨物船?もたくさん働いていました。
船尾で梶棒を握っている姿を見ると、私が小学生の頃の故郷を思い出します。
その舵を握るのは、もちろん父でした。 -
これが、揚州港の客船専用埠頭でした。
古い貨物船のデッキを塞いで使っていたのですね。 -
重慶からズーッと私たちと併走してきた「長江壹号」が、私たちのあとに着岸のようです。
-
立派な?貨物船がやってきました。
重量物運搬船のようですね。
たくさんの荷物を積んでいるようです。 -
どこの船かと船尾を見ましたら、イタリアのジェノバでした。
イタリア船が長江に入ってくるなんて、大丈夫かなと思っていまいますね。 もちろん水先案内人を乗せていると思いますが、長江にも水深などを記入した「海図」のようなものがあるのでしょうね? -
暫く船内にいると、陽の暮れたのも気づかずにいます。
この光景は、工場などのあるところのようですがどこなのか見当もつきません。 -
さぁ、今夜は最後のお別れパーティーです。
和服をお召しの奥様、とっても素敵ですね。
御一緒に記念写真を撮りたいと、さっそく希望者が現れました(^-^) -
なんなら、皆さんと御一緒に(^o^)
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こちらのご夫妻も・・
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きょうは特別の夜にて、レストランの入り口でチャイナドレスで正装のお姉ちゃんが待っていて下さいました。
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右側にも(^_-)
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船長も・・
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船長の挨拶です。
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そしてカンパイ!!(*^_^*)
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船長好きのカミさんは、とっても嬉しかったようです(^o^)
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旅行社の会長と・・
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旅行中に仲良くして頂いたお友達・・
Vサインがいいですね!!
印象的な人でした。
仲良くして下さったのが、思い出に残っています。 -
この方々にも仲良くして頂きました。
きょうはおシャレがお似合いで、嬉しいディナーになりましたね。 -
時を於いて、また挨拶が続きます。
彼らは、中国人ガイドです。桂林から上海までの全行程を同行してくれたのですよ。
日本語も上手です。
彼らとは突っ込んだ話はしなかったのですが、こうして旅行記を書いてみますと改めて彼らの話を聞いてみたいと思いますね。 -
きょうは3月18日(^^)
私の誕生日だったのです!!
それで、お祝いのケーキを用意して下さったんですよ!!嬉しいですね!(^^)!
旅のフィナーレの夜と重なって、とっても幸運でした。 -
ケーキを小さく分けて頂いて、皆さんと御一緒に頂きました。
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そして、最後にテーブルの皆さんと記念の写真撮らせていただいたのです。
蘇州のことは、まだまだ分からないことばかりです。蘇州城内の運河もや街の様子も是非見たいです。またライン川の水運も見たことですし、どんな船が何を運んでいるのか?と思いますと、京杭大運河も実際に見てみたいです。
蘇州駅のほぼ西の方角で6Kmほどのところには、京杭大運河の大きな港があるんですよ!!(港の名前が分からないので、取り敢えず「蘇州港」にしておきました。)
★港の場所は↓にて。その下はストラスブール港です。
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.0004ac69971fc58f392d3&msa=0&ll=31.341625,120.543612&spn=0.008329,0.008798&iwloc=0004d934939399c5609eb
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.000484f247af7bb2ef329&msa=0&ll=48.57939,7.813425&spn=0.051617,0.070381&iwloc=000485304b3f69b6b7830
桂林・漓江と長江の旅の最後は庭園めぐりみたいになりましたけど、これも見ていくうちに庭園の美しさから、庭園を造った時代と人に関心が移っていきました。
高級官僚でも賄賂等を良しとせず、得た財も庶民のために使うなどマジメに生きた人々を想えば、庭園での権威と虚飾の生活に生き方を求めた人の「心」を、問いたくなってきたのでした。
長江下流域の歴史と産業と文化。興味の尽きないところですね。
明日は、上海からの帰国となります。
(その22)に続きます。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/album/10762539/
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