2011/03/06 - 2011/03/19
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カメちゃんさん
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昨夜は奉節の港で停泊しました。
きょうの予定は白帝城の観光です。
白帝城のことは何にも知りません(^O^)(~o~) 事前学習の不足を痛感しますね(-_-;)
ただ、そこへ行くには船から下りた後、長い階段を登らねばならないこと、足腰に自信のない人には山駕篭があるということだけは、何度も聞かされていました。
そういうことですから、私が山駕篭に乗ることを当家のカミさん話して、なんとか許してもらいました(^-^) これで心置きなく出掛けることが出来ました。やっぱり、夫婦は「愛!!」なんですね〜(^-^)!(^^)!
昨日の午後から半日の間、初めて見た長江は「川」ではなくて「湖」でしたね。そんな自然の大改造で白帝城は「島」になってしまい、殆どの人が「船で行く」ところになったのです。
三国志の英雄たちがこのことを知ったら、どう思うのでしょうか?。
白帝城。
どんな城があるのか?? それでは、行ってきます(^_^)/~
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 船 タクシー 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
-
私たちの船は奉節の港で一晩停泊しました。
きょうは3月12日です。現在時刻は7時10分頃です。
奉節の街は超高層ビルは殆ど目立たないものの、中層アパートがところ狭しと建っています。Google mapで見る限り、工場や農地が出来るほどの広い平地があるわけでもないのに、これだけの人々がどうやって仕事を得るのか?やっぱり分かりませんね。 -
客船が一隻やってきました。
この船は夜を徹してやってきたのですね。操船されていた方には「ご苦労様」と言いたいですね(^^)
リバークルーズで夜中に移動されると、リバークルーズの「両岸の景色をみる」という“良さ”が失われてしまうんですよ(=_=)
私たちも重慶→石宝寨は夜の移動でしたし、ライン河でもリューデスハイム以南の風景も、あんまり見ていないんですよ。 リバークルーズでは、なるべく夜は停泊して昼間に移動して欲しいんですね。 -
ここにも、川を見下ろすように白い仏塔が建っていました。
川の近くに建っている仏塔は、中国人ガイドさんの話のように、川を行く船の航行の安全を祈っているものが多いと思いますね。他には風景のポイントとして設置されたり・・。
でも、中国らしい光景ですね。 -
写真中央の船の上にある城門のような建物と左側に高い護岸は、三峡ダムが水を溜める前の写真にはありません(基礎の造成中でした)。ですから、この建物はダム対策として最近作られたもののようです。
それとも、1997年の本流堰き止めと2003年の第二期工事後の湛水と一部発電開始前に、このような城門が川沿いの街にあったかも知れませんね。それがここに移築されたかも?なんて想像します。
船上から見た感じですが、大小の家があるといった街らしい雰囲気が感じられないです。傾斜地に建っている大量のアパート群によって形成された街は、それを普通の「街」として理解するにはちょっと違和感を持ってしまいます。 -
さぁ、本日の朝食です!!
これはカミさんが持ってきたものです。 -
これは、私。
-
当家のカミさんは、おかゆが好きなんですよ。
威張っている割には、優しい食べものも好きなんですね。
ま、どうでもいい話ですけどね。 -
ちょっと霞んで見にくいですが、貨物船が何隻か停泊しています。
貨物船と言っても小さいですけどね。
★↓は名古屋港外で停泊する貨物船です。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/22681506/src.html -
私たちの船に果物なんかを売りに来ているおじさんです。
ミカンとかグレープフルーツですかね?
干物のようなものもあります(^-^)
残念ながら、私たちの船には中国人のお客さんが乗っていないので、全然売れないですね。
ちょっとお気の毒ですが、仕方ないです(-_-)
海の大型客船では、こうした物売りはやってきません。一般の船や人が近づくことも出来ませんね。
★↓は船の周りを警戒するコーストガードです(客船の周囲では警戒が厳しいですよ)。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/21043771/src.html
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/16663679/
★↓はラバディで追われる一般人のボート
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/21136583/src.html -
白帝城へ行く観光船に乗り込みましたけど、一階客室は誰も入っていませんでした。
-
観光船から見た客船たちです。
私たちの船は一番右側の「長江 王子」号です。他の三隻の船のお客さんは、私たちの船を通って上陸したり観光船に乗り換えたりします。
海の大型客船では、こんな風に船同士をくっつけて停泊することはないですね。 -
あれっ??
船の客室にエアコンがついているぞ!(~o~)(^O^)
いやぁ〜、こういうのって初めて見ましたね〜(^O^)
よほど年代物の船なんでしょうね。 でも、お客さんはたくさん乗っているようだし・・。
ひょっとして、古い船をホテル代わりに使っているかも??
ホント、初めての光景だけに疑問のわく船です(~o~) -
↑でも見た写真と同じ方向ですが、長江の左岸側(北側)の傾斜地に建つアパート群です。
竹田武史氏の著書「大長江」には、三峡ダム以前の奉節の街が爆破・破壊されている様子の写真が掲載されていました。また、「中国ビジネス企業研修」の電子マガジン No.151 2002年1月28日号でも、爆破された面積が4万?に及ぶことを報じています。
戦争による絨毯爆撃で破壊された街と同様の光景がそこにはあったのです(116ページ)。
この写真の船が泊まっているところや、私が乗っているこの船の真下には、昔からの奉節の街が爆破された痛みに耐えて沈んでいるかと思うと、いたたまれない気持ちになりますね。
↓のGoogle mapを開かれて、右上の「地図」というところにマウスポイントを合わせられますと、ドロップダウンメニューが出ます。その中の「写真」をクリックされますと、写真の枠がたくさん表示されます。それらを丹念に探されますと(造船所の前あたり)、破壊された奉節の街の様子を撮ったものが見られます。
★↓にもう一度奉節の場所を出しておきます。
http://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00049cdfd36f42da20e4b&msa=0&ll=31.019601,109.474543&spn=0.005862,0.006958 -
奉節の街の特徴は、山の斜面に新しいアパート展開していることですね。↑の「大長江」の結果として、当然のことながら昔からの民家やアパートが連なる街というものが見られれないですね。
竹田氏の記事によっても、三峡ダム以前には山だったり段々畑だったところを切り開いて、新たな居住区として建設された「街」と言うことのようです。 あの城門も含めて、この「街」全体が新しく作られた街なのですね。
このあたりでは、どれほどの水位の上昇があったか分かりませんが、およそ80mと仮定しても、水没した傾斜面が水面下で軟化して崩落を続けているのではないでしょうか。もちろん対策はとっていると思いますが、いつかは水面上の居住地の崩落にまで繋がらないのか、素人考えとは言え心配ですね。 -
白帝城へ向かって併走する「諸葛孔明号」です。
お城のような作り方です(^-^)
こういう形の船って、本当に楽しいですね。 -
東屋風の建物が見えてきて、気分も高まってきました!(^^)!
灯台の白黒塗色はなんかの意味があるとのことです。
たとえば、「入港時にこの灯台が右に見えるような進み方をしろ」とか。
私たちにとっては、ただカッコいいだけの灯台ですけどね(^O^) -
ここが、白帝城への上陸地点です。
先客がだいぶおられるようですね。
この白帝城のあるところは、もともとは地続きの小山だったのですが、三峡ダムによって数十メートルも水位が上がって「島」になってしまったとのことです。
まぁ、江ノ島の橋のところがもう少し盛り上がって、家も建っていたと言う感じを想像すればよいかも?ですね。 -
私たちがようやく白帝城に到着したというのに、早くも船に帰ろうとする人たちがこんなにたくさんおられるんですね〜。
よほどの早朝出発だったようですね。
この人たちは日本人のようにも見えますけど、どうでしょうか??(~o~) -
きょうの白帝城は大賑わいになりそうです。
私たちが乗ってきたのは、右の「玄徳号」です。
正面の大きい方の船は「雲長号」です。
船に乗っても、三国志の勇士の名前が印象づけられますね(^o^)
当家のカミさんも「カカア天下」の勇士なので、その名をここの船に使ってもらいたいですね〜(^O^)(~o~)
★白帝城の場所は↓にて
http://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00049cdfd36f42da20e4b&msa=0&ll=31.042924,109.572519&spn=0.01172,0.013014
(Nさんご提供の御写真です) -
たくさんの山駕篭屋さんが我々を待ち構えていました。
白帝城はたくさんの階段を上って行かなければならないので、私は自分の足で登るのを諦めて、カミさんに許してもらって山駕篭に乗ることにしていました(^-^) -
私も山駕篭に乗っているんですけど、山駕篭に乗っている方の様子です。
この道も、三峡ダムのために新しく作られたような感じがしますね。
(Nさんご提供の御写真です) -
前の方を追い越してしまいました(^O^)(~o~)
山駕篭に乗ってすぐに階段を登かと思っていたら、こんな平坦な道が長く感じられました。
階段の登り口は、意外に遠いところにありそうです。 -
白帝城への登り口で、自慢のひげを風になびかせて得意満面になっている人は誰でしょうか? おそらくは白帝城の門番と思いましたね。
台座の方を見ますと、私の横っ腹のほくろのあたりに染み付いていた「杜甫」の名前が書いてありました。唐時代の大詩人の杜甫が、どうしてこんなところにいるの?って聞いてみました(^o^)
彼はね、
「実はこの近くで暫く暮らしていたんだよ」
って。科挙の試験に合格できなかった彼は、各地を放浪したとのこと。彼は庶民の苦しみを人ごとに思えず、それを題材にした詩が多い社会派の人だったとか。
彼は引っ越しの名人で、竹内実氏の「中国長江歴史の旅」によれば、5回転居したとのことで、成都の次に夔州(現在の奉節県のこと)に来たというのです。
彼はここで静かに暮らしながら、世の中を大観した気持ちを長江を眺めながら詩に詠んでいたのですね。
それを「中国長江歴史の旅」から引用したいところですが、長くなるので止めときます(~o~)
人間はひもじい暮らしをしていると、いい詩が浮かんでくるものだとはどこかに書いてありましたが、このときの杜甫の暮らしは、かなりひもじい生活だったみたいですね。
★杜甫の詳しいことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%9C%E7%94%AB
(Nさんご提供の御写真です) -
山駕篭に乗って上って行く途中に、船から見えた東屋が見えました。
昔の人はこのようなところを登り降りし、また茶でも飲んだのでしょうかね。 -
白帝城の門に到着です。
ようやく着いた!!という感じです。 -
山駕篭を降りたところから、午後から船で行く方向を眺めてみました。
それが、モヤがひどくて、こんな風にしか見えないんですよ〜。
左側の奥に高くてカッコいい山があって、三峡では特に有名で雄大な光景が見られるところなんですけどね〜。
このところお腹を壊したりして、当家のカミさんの足腰をモミモミしていないから、モヤが出てしまったのかも知れないですね〜(-_-;)
手前の川は「草堂河」で、向こうの断崖沿いに奥の方へ消えていくのが長江です。ここから上海までは、川沿いに行くと1850Kmほどもあるかと思いますよ〜。 -
山駕篭屋さんが急いで下さったので、ずいぶん早く来てしまいました(~o~)
この通り、誰もいません。
当家のカミさんは歩いてくるので、私は一人ぼっちになってしまいました(T_T)
やっぱり、男は一人では寂しい生き物なんですよ(^_^;) -
白帝城のあるところは、↑の写真のように長江からそそり立つ山と崖に守られた、要害の地だったんですね。城に登るにも、こんな階段を登ってこないといけないんですよ。
だいたい、「要害の地」っていうのは、こういうことですよね。
ラクに行けて、敵の近づけられない要害の地って、ないものでしょうかね? -
山側に向かって左手にこんな門がありました。
入ってみたかったですが、当家のカミさんを待つ関係で、入ってみることはしませんでした←今になって悔やんでいます(-_-;) -
当家のカミさんが来ました〜〜(^-^)!(^^)!
「おかあさん、こっち、こっち!!こっちだよ〜〜!!」(~o~)!(^^)!
聞こえないみたいですね(T_T)
【注】
「おかあさん」とは、母ではなく当家のカミさん(*^_^*)のことです。 -
でも、すぐに分かってくれたみたい(^^)(*^_^*)
よかった良かった(^-^)
こんなところでカミさんと別れ別れになってしまったら、ホントにどうしようかと思いましたからね〜。
皆さんも、そんな不安を感じたことはないですか? -
「夔门(きもん)」と書いてありますね。
台座には、「国家級風景名勝景区 中国長江三峡第一峡・瞿塘峡(くとうきょう)」と2段で書いてあります。
そこで「夔门ですけど、Wikipediaによれば「赤甲・白塩の両山に囲まれた門のような部分を「夔门」と言うのだそうです。
でもねぇ、そう言うのは簡単なんですよ(-_-;)。問題はどの山が赤甲山であり、白塩山なのかなんですけどね!! それが分からないんですよ〜(>_<)(*_*) ホントにもう、困ったモンです(@_@)(*_*)
それが分かりましたら、そこを追記していきますのでお待ち下さいね〜。
★夔门のことは↓に書いてあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9E%BF%E5%A1%98%E5%B3%A1 -
こちらでは、皆さんが石碑のようなものを見ています。
ガイドさんの説明もないし・・、後ほど見てみますね。 -
白帝城の記念碑です。
「全国重点文物保護単位 2006年5月25日公布」とありますから、今から約5ほど前のこと。有名な割には、全国重点文物保護単位の指定がずいぶん遅かったですね??
この字は、故郭沫若氏が白帝城の門に書いた文字を写し書きしたかのように、よく似ています。
私も彼の名前だけは知っていました。文化大革命で揺れ動いた郭沫若氏でしたが、毅然としていたならどうなったのか? いずれにしても、厳しい時代を生き抜いた人でした(/_;)(T_T)
千葉県市川市には、市川市郭沫若記念館があるようですね。
★郭沫若氏のことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%AD%E6%B2%AB%E8%8B%A5
(Nさんご提供の御写真です) -
白帝城の牌楼です。
あれっ??「白帝“廟”」だぞ? 確か「白帝城」と聞いていたのにね。
白帝城の成り立ちについてはいろいろ言われていますが、最初に造った人は1世紀頃の地方(成都あたりの)王朝の王だった「公孫 述(こうそん じゅつ)」だったとのことです。
彼がここで王を名乗り、井戸から龍が天に昇るように白い霧が立ち昇ったのを見て、「白帝城」と名付けたと言われています。場所としても、公孫述の築いた城が今日の白帝城なのか、公孫述を葬ったところがこの白帝廟なのかイマイチ分かりにくいです。
いずれにしても「白帝城」だったところに、孫権の武将・陸遜に破れた劉備が逃げ込んだことで、三国志の舞台となり有名になりましたようです。劉備はここに永安宮を造って死去するまで滞在したとのことです。劉備がここに祀られたのはずっと後の時代になってからのことみたいです。清の時代になって、「白帝廟」に改められたと言われています。
★白帝城のことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B8%9D%E5%9F%8E -
牌楼をくぐって、白帝城の中に入りました。
托孤堂と書いてある建物の中を、大勢の人がのぞき込んでいます。
なんかよほど良いものが置いてあるようです。
あの方々がご覧になったあと私たちも見られるとのことで、暫く順番待ちです(^_^;) -
「おかあさん、写真を撮るよ〜」
ただ待つだけでは退屈ですので、龍を見つけたところで記念写真です(^O^) -
私の想像するに(~o~)、井戸から白い龍が昇っていったというのはここのことかも知れませんね。
龍が銜(くわ)えているあの玉は、神聖な皇室の象徴という意味があるみたいですね。
仏教的には「如意宝珠(にょいほうじゅ)」と言われるもののようで、「意のままに様々な願いをかなえる宝」と呼ばれるもののようです。
★その話は↓にて。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%82%E6%84%8F%E5%AE%9D%E7%8F%A0
龍は、東洋では一部の神話を除いて、神仏の使いとして神聖なものですね。それが、ヨーロッパでは逆に一部を除いて殆どが悪者であって、龍を退治した英雄の話が多いですね。
それと、東洋の龍はだいたい同じ姿ですが、ヨーロッパの龍(ドラゴン)の姿は結構まちまちですね。
★↓は龍を退治した話のある城です。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/19556987/
★↓はドラゴンです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%B4%E3%83%B3 -
托孤堂のなかでは、何かの場面が再現されていました。
小さい子供が、頭をペコペコ下げていますね。
いったい、どういうところでしょうか? -
正面から撮った様子です。
正面のベッド上にいるのが、蜀漢を「漢」と改めて皇帝となった劉備です。そして四つん這いになって頭を下げているのが劉備の子劉永(右)と劉理(左)のようです。
二人の子供の一段上で、左側に団扇を持ってたっているのが諸葛亮、右側の青い服を着ているのが趙雲です。
そして、この場面は、死期の近い劉備が、今後のことを諸葛亮に頼んでいるところなのです。
劉備は「我が子に見込みあるなら助けてやってくれ、見込みないなら諸葛亮、お前が皇帝になってくれ」と言って頼んだそうです。
劉備は決して権力に執着していないですね。我が子がダメなら諸葛亮に皇帝を譲ると言うのですから、本当にエライもんです!! 下賤の身から苦労してきた劉備は、この国を自分のためではなくて人々のために守ろうとしたから、「我が子がダメなら諸葛亮に」と言えたのですね。
諸葛亮は泣きながら忠誠を誓い、劉備の子の劉禅を漢王朝の皇帝にたてて忠誠を尽くしたのですから、彼もエライですね。
★劉備の詳しいことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E5%82%99
★趙雲の詳しいことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E9%9B%B2
※訂正
本文中に間違いがあったため、コメント中の「劉備の子の“劉邦”」を「劉備の子の“劉禅”」に訂正しました。ウッカリミスでした(>_<)
ご指摘、ありがとうございましたm(_ _)m -
↑と似たような場面ですが、左端の二人は張苞(向こう側)、芝(手前側)です。
右端の二人は、左から李厳と呉班です。
★張苞のことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E8%8B%9E
★芝のことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A6%E8%8A%9D
★李厳のことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%8E%B3
★呉班のことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E7%8F%AD -
↑の写真で左側の芝よりさらに手前にいた4人です。奥から馬忠(柱の手前)、向寵、陳到、張翼です。
★馬忠のことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E5%BF%A0_(%E8%9C%80%E6%BC%A2)
★向寵のことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%91%E5%AF%B5
★陳到のことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E5%88%B0
★張翼のことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E7%BF%BC -
二つ上の写真の呉班よりさらに手前にいる三人です。
呉班の右が陳震で、キッと睨んでいるのが馬謖、そして廖立です。
これらの人たちは、いずれも三国志に出てくる人なんですよ〜。
★陳震のことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E9%9C%87
★馬謖のことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E8%AC%96
★廖立のことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%96%E7%AB%8B -
左側の馬謖ですが、この人は有名ですね。
あの「泣いて馬謖を斬る」の馬謖です。
諸葛亮の進撃に反撃しようとした魏の軍勢を、諸葛亮は街亭と言うところで食い止めようとし、その迎撃の任を、頭も良く日頃から育てたいと思っていた馬謖に与えたのです。その際、道の細いので敵を迎え撃つには好都合なところだから、街道沿いに陣を張るようにと指示したのです。
ところが軍勢をつれて現場に行った馬謖は近くの小高い山を見つけ、敵の動きの見やすいこの山の上に陣を張ったのです。その隙を突かれて魏の軍勢に包囲されて、惨憺たる目に遭ってしまったのです。
敵の見やすいところに陣を張るのは一つの作戦ではあっても、水もない小さな山では簡単に包囲される程度の山だったことまで気づかなかったのですね。
これは、功を焦った馬謖の間違いでしたが、諸葛亮は馬謖の責任を放置できず、可愛がってきた馬謖を処刑せざるを得なかったのですね〜(>_<)(T_T)
↑にご紹介した記事にも書いてありますが、このことには種々意見もあったようですが、諸葛亮もさぞかし辛かったことでしょうね(>_<)
今の時代だったら、メディアなんかに諸葛亮の馬謖への「任命責任」を追及されて、諸葛亮は失意のうちに失脚して消えていったことでしょうね。
★「泣いて馬謖を斬る」は、↓にて。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A3%E3%81%84%E3%81%A6%E9%A6%AC%E8%AC%96%E3%82%92%E6%96%AC%E3%82%8B -
チョット小休止(^o^)
中庭にこういうものを作り眺めて、ここに風情を感じてひとときの憩いの場とする。
私もそんな一人です(^^)
それほど費用のかかることでもないですが、ヨーロッパではあんまり見られないものなんですね。そもそも、そういう「中庭」っていうところを、拝見したことがないですね。
★↓はトリーアで見た庭園です。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/19747144/src.html -
チョット難しい史料をご覧に入れます。
読める方は読んで下さいね(^-^) -
こちらも、教えて下さいね。
-
通路脇にこんな絵が掲げられていました。
この絵で諸葛亮に向かってペコペコ頭を下げているのは、益州の孟獲と言う人のようです。
諸葛亮の蜀漢に反乱を起こすように南方(現在の貴州省・雲南省方面)民族を説得して回った人で、諸葛亮にたびたび捕らわれます。
しかし、諸葛亮は捉えるたびにまた釈放します。それは、彼を捉えて反乱地域を制圧しても諸葛亮の軍隊が引き上げればまた反乱の起こることを察していたからだと言われています。
結局、孟獲は7度捕らえられてようやく諸葛亮に心服します。このことを七縱七禽(しちじゅうしちきん)と言うそうです。他民族征服という問題も含まれるのですが、それはさておき、諸葛亮の南方平定の軍略は、「城を攻めるのは下手な策、心を攻めるのが上手い策」というもので、相手の心を掴むことに重点を置いたものだったのですね。でも、すべてスンナリいったわけではないようでしたが、それ以後反乱も起きなかったというのですから、長い目で見れば良かったと言えるようです。
あの時代に今のようなメディアがあったとしたなら、七縱七禽なんてやっていたらメディアにボロクソに言われて、諸葛亮の軍略そのものが潰されたことでしょうね。ホント、そう思いますよ(>_<)(*_*)
★七縱七禽のことは、下の記事の中にあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9F%E7%8D%B2 -
三国志で有名な話で、私もテレビの「三国志」の「赤壁の戦い」の1場面で見ましたよ〜(~o~)
たしか、諸葛亮の才能を恐れた周瑜(孫権に仕えた武将)が、諸葛亮に三日以内に10万本の矢を用意せよという難題を押しつけた話でしたね。
けれども諸葛亮はいっこうに焦る様子もない。部下も心配し、周瑜は諸葛亮を始末できると思いましたね。 面白いのは、そこからなんですね!!諸葛亮が魯粛に船を借りると、船を藁と藁人形で覆って曹操に陣に向かうと、曹操の軍は矢を以て集中攻撃をしました(~o~) 諸葛亮は船の向きを変え船の両面に矢を受けるようにし、見事10万本の矢を調達したという話です。
これは草船借箭(そうせんしゃくせん)という、諸葛亮の奇策でしたね。
この話は史実かどうかと言えば、どうも三国志演義での作り話のようです。でも、周瑜がそれほど諸葛亮の才能を恐れていたことも事実のようですね。
★↓は「赤壁の戦い」ですが、草船借箭の話は出てきません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%A3%81%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 -
この図は、諸葛亮が劉備に「天下三分の計」を説いている様子とのことです。余りにも有名な話ですね。このとき諸葛亮が26歳、劉備が46歳だったというのです。諸葛亮はそんなに若くして中国全体のことを考えていたんですね。
私が26歳の時なんて、生まれて初めて国鉄の急行列車に乗り、九州一周なんかをやって喜び・浮かれていた時でした。ホント、ダメだね〜〜(>_<)(*_*)
徐庶から諸葛亮のことを聞いた劉備が、司馬徽にも勧められて諸葛亮のところへ三度も足を運んだというのですね。徐庶や司馬徽の話を信じて動いた劉備は立派だと思いますね。
「中国長江歴史の旅(竹内実)」によれば、諸葛亮は後になってこの時のことを「先帝〔劉備のこと〕は臣の卑しきなるをもってせず、猥(みだ)りに自ら枉屈し〔わざわざ謙遜して〕三たび臣を草盧〔そうろ=あばらや〕のなかに顧み、臣に諮るに当世の事をもってせり。これによりて感激してついに先帝に許すに駆馳(くち)を以てす」と回想したとのことです。
このときの出会いがなければ、三国鼎立もなかったかも知れないし、三国志の話もなかったかも知れないですね。
余計なことまで言いますと、孫権に仕えた武将の周瑜も「天下二分の計」を孫権に進言しているんですね。でも、このとき周瑜は矢を受けたあとの病を持っていて、これは実現できませんでした。
★天下三分の計(隆中策)のことは↓にて。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%86%E4%B8%AD%E7%AD%96
★徐庶のことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%90%E5%BA%B6 -
文字通りの「三国鼎立の形成図」です。
魏国は人口443万人で、軍隊は20〜50万人。蜀国は人口90〜94万人で軍隊は8〜12万人。呉国は人口230〜240万人で、軍隊は15〜20万人と書いてあります。
ちなみに、魏王になったのは曹操、蜀(蜀漢)の皇帝には劉備、呉の皇帝になったのは孫権と言うことです。諸葛亮の蜀が一番小さいですね。これじゃ、苦労もありますよね〜〜(-_-;) -
劉備が白帝城に逃げ込んだ時に辿った筋道です。
この間は、殆どが三峡と言われる地形の険しいところで、この逃避行も大変だったと思いますね。
三峡ダムは宜昌のすぐ左側です。 -
この額の絵は、瞿塘峡の入り口のキ門の光景だと思います。
劉備が逃げ込んだ白帝城は、長江三峡【瞿塘峡(くとうきょう、8km)、巫峡(ふきょう、45km)、西陵峡(せいりょうきょう、66km)】の一番奥(西の端)にあって、この絵のように険しい山河に囲まれた天然の要害になり得るところだったのです。
それにしても、歴史ドラマ豊富で自然景観抜群のこの3つの峡谷の良さを、三峡ダムによって相当数失ってしまったのですから、ひどい話です。 -
劉備の蜀軍の幟と剣ですね。
よく見てきませんでしたけど、この剣はさやに入った状態なのか、抜き身なのか??
形は両刃の剣で、突きも有効なように作られていましたね。
なんにしても、こんな剣に切られ突かれて死ぬのはいやですね。 -
これは蜀漢の皇帝となった劉備の像です。
劉備は祖先の元をズーッと辿っていけば、漢王朝の血を引いているとも言われているなんて人のようでした。しかし早くに父を亡くし、母と友にムシロを織りそれを売って暮らしていたらしいですね。まぁ、彼の子供の頃は貧乏のどん底にあったわけです。そういう人ですから、曹操や孫権と違って人々の苦しみをよく知っていたんですね。
そこのところが、上流階級出身だった曹操や孫権と違っていました。曹操は「才能」はあったけれども、無数の大衆に対して惨いこともしました。
劉備が曹操の追撃から逃れようとした時、無数の難民が付いてきたのもわかりますね。自らの危機のなかでも難民を見捨てず「大事をなすには、必ず人を以て本となす」と言って、難民をかばい続けたという話も有名ですね。
劉備の王になりたいという夢は、人々の苦しみを救いたいと言う願いと一体になっていたと言われていますね。そんな想いに共鳴したのが武勇に秀でた関羽と張飛で、彼らは一生を劉備と共に戦ったのでした。
「三国志演義」が、曹操を悪者にし劉備を主役にしたのも、分かるような気がしますね。
★↓は劉備の生誕地と言われているところです。
http://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00049cdfd36f42da20e4b&msa=0&ll=39.405494,115.982805&spn=0.01057,0.013014 -
これは諸葛亮(諸葛孔明)です。
私の大好きな人です。
早くに父母を失いながら、とってもよく勉強し、よく考えていた人ですね〜。26歳にして「臥龍」と言われる才能を持っていて、劉備に「天下三分の計」を説いたなんて本当に凄いですね!!
妻(*^_^*)を選ぶにも、「カカア天下」になることなど、決して気にしなかったと言うのであります(^^) 五丈原武侯祠には奥様の黄月英夫人像もあるとのこと。愛し合っていた証拠なのかも知れませんね(*^_^*) ホント、知恵も愛も器も大きいねぇ!(^^)! 諸葛亮のそんな姿を思いますと、歴史上の数ある武将たちは奥様と一緒に祀られているだろうかと思いますね。
諸葛亮がもし劉備に見いだされなかったら、或いは曹操に仕えていたなら、彼の才能はどのように生かされたのか?と考えてしまいますね。第一、一番強くて愛情の薄い?曹操に拾われたって、面白くもないと思いますけどね。孫権を含む3人のなかで、一番弱く優しい劉備と組んだから諸葛亮の才能は存分に生かされたとも言えるのでしょうか?
そして、あれだけの仕事をしながら生活を質素にし、財産を溜めることをしなかった。
清廉・無欲でありながら、常に遠くを見て考える。それは才能と言うより、諸葛亮の生まれながらに身についていた天性だと思いますし、それこそが諸葛亮の最大の武器だったかも知れないと思います。
★↓は諸葛亮故里記念館のあるところです(出生地)。
http://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00049cdfd36f42da20e4b&msa=0&ll=35.388586,118.480275&spn=0.011152,0.013014
★↓は諸葛亮が祀ってあるところです(成都武侯祠)。
http://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00049cdfd36f42da20e4b&msa=0&ll=30.646386,104.047565&spn=0.011769,0.013014 -
こちらの像は、左が張飛で右が関羽です。
この二人は、「天下を乱して民を苦しめる賊を、討つ!」という大いなる志を以て劉備と三兄弟の契りを結んだのでしたね〜!(^^)!
それは張飛の屋敷の裏にある桃園での出来事だったとか。
張飛のお人形は、目がクリクリしているものが多いですね。
★張飛のことは↓にて。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E9%A3%9B
★↓は三兄弟の契りの場所です。
http://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00049cdfd36f42da20e4b&msa=0&ll=39.439501,115.938772&spn=0.002958,0.004227 -
三国志によく出てくる地名です。
白帝城は真ん中あたりにあります。 -
ボケボケの写真になってしまいましたが、これは出土した剣ですね。
剣と言うより、鉄の棒っていう感じですね。
三国志の時代と言えば、日本ではなんと!!(>_<) 弥生時代末期になるんですね(*_*)
でも、この時代に日本の奴国王が中国の光武帝から金印を授けられているのですから、一応国の形はあったんですね。 -
あの時代の戦いの様子ですかね?
戦争はいつの時代でもイヤなもんですね(>_<)
重税と賦役と戦争と飢餓が当たり前のような時代が、つい1〜2世紀まで続いてきたんですからね〜。 -
武士俑。
副葬品ですね。
これは中国古代の武士の像ですね。 -
この図はお城のようですね。
中国は広大な城郭都市をつくるお国柄なので、その城郭のなかのお城かも知れませんね。
または城ではなく御殿なのかも??
詳しいことの分からない図ですが、お分かりになる方がおられたら教えて下さいね。
図中に番号が振ってありますが、説明盤が近くになく時間もなかったので、とにかく撮っただけです。 -
城郭内の一角でしょうか?
中庭で何をしているのか?分かりませんね。
それを取り巻くように、兵隊らしき人物と官職のような人がいます。
遠い近いにかかわらず、全体に遠近感が乏しく、人物の大きさがあまり変わりませんね。 -
これは城郭内の下級役人の住まいかな?なんて勝手に想像します。
庭には鶏のようなものが走り、通りには犬がいます。
火の見櫓のような塔は、何でしょうかね?
撮った本人の私が分からないでは始まりませんが・・(-_-;) -
展示してあった出土品です。
これは金属製のように見えます。 -
こちらも出土品です。
これらは副葬品かも知れないのですね。 -
出土品の展示ケースのなかに、お賽銭??が投げ込んでありました。
どういう意味なのか、ちょっと分かりません(-_-;)
これらの人や犬の像も、副葬用のものでしょうね。 -
こちらは人骨です。
かなり綺麗な形で出土されたのですね。
こちらもお賽銭??がスゴイです。 -
陶俑
やっぱり、これらの人形は陶俑でしたね。
陶俑とは、墓地に埋葬する際に副葬品として入れられる人形のことのようです。
どちらかと言うと古代からの風習で、貴族社会の衰退と共に副葬品も減ってきたようです。 -
文化財の保護に頑張っているところですね。
(Nさんご提供の御写真です) -
白帝廟内の見物を終えました。
これは、ここの牌楼の前へ到着した時に皆さんが見ていた石碑です。
あんまりにもメチャメチャな、ミミズかヘビが這っているような字ですね〜(>_<)(@_@)
上手なのか下手なのか? 何が書いてあるのか??
「巧言令色、鮮矣仁」??
いやいや違うようです(>_<) ホント、書いてあることがさっぱり分かりません(^O^)(~o~)
誰の字かと申しますと、かの有名な毛沢東なんですよ!!
もうチョットねぇ、分かるように書いてもらえんかね〜(~o~)
こんな字なら、4歳の孫でも書きますよ!!(^O^)(~o~) -
一番手前の碑の文字は分かりやすいですね。 私にとっては優等生の字です!!(~o~)
この石碑には、「江澤民」さんの署名があります。
漢字なので、一字一字は読めるものが多いですが、私は漢文が全然読めないんですよ〜(-_-;)
署名は江沢民さんですが、この詩を作ったのは李白という人だったみたいです。
李白と聞いて、私の頭にピーン!ときたのは、あの飛騨・高山の代官所跡です。そう、あそこに李白の詩があるのでした。
その李白が、どうしてこんなところに??と思いますよね〜。そのことは↓に書いてあります。ご覧下さいね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E7%99%BD
★↓は高山代官所跡にある李白の詩です。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/22038990/ -
なんとかいてあるかさっぱり分かりませんけど、読める方は読んで下さいね〜。
-
ここにも、江沢民さんの書いたのと同じような詩が書いてありました。
これは「早発白帝城」という詩だそうです。その文を、↓に書いてみますね。
朝辭白帝彩雲間,
千里江陵一日還。
兩岸猿聲啼不住,
輕舟已過萬重山
※中国における1里とは、約500mです(現在)。この詩の書かれた時代(三国時代、西暦184〜280年頃)では約435m程だったと言われています。日本で言う1里(約4km)とは大違いですね。
これを、ガイドさんが感情を込めて読んで下さったのですよ。でも、みんな忘れてしまいました(-_-;) けど、結構有名な詩とあって、本でもネットでもたくさん載っていました。それらを私なりにまとめますと、
「朝焼け雲の綺麗な早朝に白帝城を出発し、千里の向こうの江陵に一日で帰った。途中の両岸の猿の声は賑やかだったし、そんな渓谷を小舟は軽々と抜けた(^-^)」
ってことになりそうです。
千里を一日で行ったなんてうまいことを言うけど、詩人は昔からオーバーなことを言うねぇ(^O^)(~o~)
ところで、この字は周恩来さんが書いたようです。 -
私を乗せてくれる山駕篭屋さんです。
若いお兄ちゃんという感じですね。
後ろの景色は、瞿塘峡の西の入り口に当たるところです。 -
山駕篭に乗った私です。
この山駕篭屋さんがいなかったら、私は白帝城へ登ってくることを諦めていたかも知れません。
ほんと、白帝城見物は山駕篭屋さんのお陰なんですよ(^^)
(Nさんご提供の御写真です) -
こんな感じで降りていきましたよ〜(^-^)
私の体重はそんなに重い方でもないのですが、でも山駕篭屋さんには申し訳ないと思います。
次回来る時には、減量してきたいと思います。
もし、当家のカミさんが乗ったら??
おそらく、山駕篭屋さんは肩を壊してしまうと思いますね(>_<)
階段を下りていきますから、山駕篭も揺れましたし、チョットだけ前屈みの感じになりましたね。
この山駕篭屋さんの料金は、往復で300元(約4000円)でした。
(Nさんご提供の御写真です) -
階段を下りる途中、絵を描いておられる人を見つけました。
今年の日展が楽しみですね(^-^)
こういう天下の名勝で、絵を描くのもいいですよね〜〜(^-^)
(Nさんご提供の御写真です) -
登ってくる山駕篭屋さんとすれ違います。
-
山駕篭に乗って船に帰るお友達です。
初体験なんでしょうか?? 楽しそうですね(~o~)
(Nさんご提供の御写真です) -
いやいや、ご苦労様でしたm(_ _)m
肩や足が痛くならなかったでしょうかとお聞きしたいのですが、中国語が分からなくて・・(>_<)
なぜか「サンキュー!」が出るんですね(^O^) -
私たちの船が待っていてくれました。
私たちは右に泊まっている「玄徳号」に乗ります。
白帝城は、「城」という防備の堅い、人々の上に君臨する、というイメージからはちょっと離れた感じでした(^_^;)
托孤堂の様子から見ても、やっぱり「廟」でした。
★↓は彦根城です。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/album/10449545/
★↓はランツフート城です。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/19803412/src.html -
白帝城の麓で働いている女の子です。
小学校低学年くらいでしょうか。
曜日を見ると土曜日なので、お父さんのお手伝いをしているのでしょうかね?
ズボンの文字を見れば、すべてが英語ですね。
欧米文化は、中国の隅々にまで浸透していますね。 -
私たちと一緒に旅をしているご夫妻です。
チョット記念写真です(^-^) -
玄徳号のデッキには、こんな戦士の像がありました。
こんな時代があったなんて、頭では分かっていても、現実感のない平和ぼけの私です(-_-;) -
またまた、記念写真ですよ〜(^^)
-
雲長号から何方かがこちらを撮影しておられます(^_^)v
こちらの船には「諸葛」と書いてありますね。 -
向こうの船も賑わっています!!(^_^)v
-
↑の船は、「孔明号」だったんですね。
「雲長号」ではなかったようです(^^;) -
今では「島」となってしまった白帝城ですが、この様子を見ますと、どこをどう登ったのかさっぱり分かりません(-_-;)
-
私たちの船はここに立ち寄りました。
ここで、中国の方々がたくさん下船されましたよ。
ここは「草堂河」と長江の合流点につきだしているところです。
↑の写真にありますが、↓にも出しておきますね。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/23329467/ -
128
中国はスローガンの国(~o~)
ここにも緑化推進の表示がありますね。 -
既にお話ししていますが、白帝城は川の方に向いていた小山だったのです。
この橋の下には道路があり、家もあったのです。
あの石宝寨と同じですね。
Google mapの「地図」で見ますと、まだ繋がっている様子が分かります。「航空写真」出見ますと、湛水されて白帝城は「島」になっており、橋が見えます。
Google map上に張られた写真を丹念にご覧になりますと、以前の様子がご覧になれます。 -
「おかあさん、水中翼船が行くよ!!」
水中翼船なんて、珍しいですね〜。
私は、兄が水中翼船に長く乗務していたこともあって、しばしば乗ったものでした。
通常速力が大型空母並みの32ノット(時速59.2Km)という高速で、本当に飛ぶようにして行ったものでしたね(^o^)
翼走するために、水面の浮遊物に気を使ったと言っていました。 -
ここにも何かのスローガンが掲げられていますね。
-
オッ!
自動車航送船がやってきました。
昨日も見ましたが、この船も満船状態ですね。
いったい何台積んでいるのでしょうか?(~o~) -
これは、これまでの農民の家だったでしょうか。
今でこそ船から間近に見えるのですが、ダムの湛水以前には山の中腹の結構高いところにあったはずでね。 -
傾斜地にあるアパート群です。
「住めば都」っていいますが、住んでおられる方々にとってどんな感じなんでしょうかね。 -
三峡周辺で唯一見た教会です。
赤い十字架と尖塔の先の赤い塗色。
キリスト教の活動が広まっているのでしょうか。 -
土手でひなたぼっこのお姉ちゃん(^^)
いや、何かを待っているんでしょう。 -
お姉ちゃんの近くには、渡し船?のような船が、泊まっていました。
桟橋も何にもない土手に船を押しつけるようにして止まり、人の乗り降りをしているんですね。
チョット足下を滑らせたら、河の中へと滑り落ちてしまいますよね〜。
簡単な浮き桟橋を設置するにしても、ダム湖では水位の上下がありますから、なかなか難しいですね〜〜(-_-;)
ホント、考えてしまいますよ(=_=) -
こちらは使われなくなった作業船でしょうか??
-
断崖上に聳えるように建つアパート群。
昔からの街を爆破されて、今は断崖上のアパートの住民ですかね。
ホント、見るほどにため息が出てきます。 -
白い仏塔の左に立っている城門のようなものは、三峡ダム建設に伴って最近建てられたもののようです。
また、三峡ダムの通常満水時には、この175mというところまで水位があがるワケですね(既にその実績のあることが水の跡を見れば分かりますね)。 -
我が「劉備玄徳号」は奉節の港に帰ってきました。
-
きょうは白帝城に登って、あの三国志の英雄たちの姿を見てきました。
これまでは三国志も単なるドラマでしかなかったのですが、これからはもう少し実感を以て見たり読んだりすることが出来ると思いますね(^o^)
それにしても、日本に漢字が伝わる前の弥生時代に、中国では活発な動きがあったなんて、考えてみれば、やっぱり中国の歴史はスゴイなぁと思いましたね。
奉節の街に関しては、船を係留して一泊したのに街に出掛けてみることのなかったのは、残念なことでした。
白帝城から私達の船に帰ってみると、張り紙の前に皆さんが集まっていました。
何かあったのでしょうか? その話は、(その10)にて。
(Nさんご提供の御写真です)
(その10)へ続きます。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/album/10608245/
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この旅行記へのコメント (4)
-
- kaz-ykさん 2011/10/09 09:59:54
- 暫くです
- カメちゃんさん 今日は
小生のブログにお越し願い、1票まで頂戴し、有難うございました.
足跡を辿り、長江クルーズによして貰いました。
予想より凄いので、吃驚しました。さすが中国で、規模や歴史に
驚くばかりです。
ダム完成前と完成後の比較まで、ご説明頂き 深謝
気の置けないグループでのご旅行、楽しかったでしょうね
他日再度お邪魔したいと思います。
- カメちゃんさん からの返信 2011/10/09 13:42:45
- RE: ご無沙汰しておりました<(_ _)>
- kaz-ykさん こんにちは(^^)
ご無沙汰していて申し訳ありません。
その間に、kaz-ykさんはご夫妻でエーゲ海にお出かけされたのですね。
「スター・プリンセス」は以前に乗った「ゴールデン・プリンセス」と同型なので、
船内の様子など思い出します。(^^)
私も、ずっと以前からエーゲ海方面も行ってみたかったところでしたが、
いつ行けるのか?ホントに分からなくなりました(-_-;)
kaz-ykさんが羨ましいです。
> 予想より凄いので、吃驚しました。さすが中国で、規模や歴史に
> 驚くばかりです。
> ダム完成前と完成後の比較まで、ご説明頂き 深謝
私の拙い旅行記をご覧頂いて、ありがとうございます。
中国を訪れるのは今回が4回目でしたが、これまでは点から点への観光が主でしたからいつもの旅行と変わらぬ印象でした。それが、今回は長江を行く船上からさまざまな光景が次々に見られ、観光地巡りとは全く違った光景を目にして、驚きと不安を感じたものでした。
三峡ダムについても、スゴイなぁと思う反面、問題要素も認めなければならないかな〜と思いました。規模が規模だけに、ダムの安全と移転住民の幸福を願わずにはおれないですね。
このクルーズは上海まで行きますので、下流域の光景もご覧下さいね〜m(_ _)m
> 気の置けないグループでのご旅行、楽しかったでしょうね
旅に出るごとに優しい方々との出会いがあって、本当に嬉しく、また幸せに思っております。
旅は出会いと学び・・。
そんなことをしみじみ感じております(^^)
ありがとうございました。
これからもよろしくお願いしますね。
カメちゃん
-
- 白い華さん 2011/10/05 04:47:50
- 中国の発展・・・と、引き換え!の 住民の暮らし。
- お早う 御座います。
長江クルーズ・・・も、いよいよ、クルーズを 開始。
船の移動〜!が真夜中・・・だと、確か!に、川の移動風景〜・・には、遇えない。見えない。
でも、朝、観光地!だと、「観光の時間」は長く、ソレ!も 嬉しかったり・・・して。。。
まぁ〜、私は、後者・・・ですけど、
やっぱり、「カメちゃんは、 『 お船! LOVE 』・・・なんだなぁ〜。」と、その・・・想い!に、 心打たれます。
『三国志』に ついては、
「BSテレビで、長編・・・の 中国ドラマ! やっているなぁ〜」位・・・の 感覚で、 ほぼ、解りません。 (汗)
カメちゃんが、籠に乗って、上陸を果たした 「白帝城」は、
名前・・・しか、知りませんでした。
そして、 私の住む! 千葉県市川市 の、「 市川市 郭沫若記念館 」は、一度、 小さな庭園!がピンク色の芝桜が満開!の時期、行った事が あります。
カメちゃんのご説明〜!で、郭沫若・・・って 人物。も 解った・・・気がしています。
そして、現地! 「白帝城」の 文字! を 書く・・・人。って、やっぱり、 日本の市川市・・・に、住んでいた! 郭沫若
って、なかなか、立派!な人・・・なのですねぇ〜。
カメちゃんの今回の「白帝城」の お話・・・繋がり!で、
私も 真剣! に、 『 三国志 』や、「 市川市 郭沫若記念館 」が 気になりました。 (笑)
ホント、なかなか、テレビや映画。
そして、旅行・・・に 出てきて、 「初めて!知る、 歴史。や人物」って アリマスヨネ〜。
私も、今回、ウィーンやブダペストを 旅して、「エリザベートの生活!を宮殿の暮らしぶり」で見てきて、
いろいろ、興味・・・が 湧いてきているんです。
カメちゃんも、『三国志』のドラマ、きっと、大長編・・・で 見るの、大変! と おもいますが、是非、せっかく、中国・長江クルーズ!の 思い出・・・を 重ね、 お楽しみ!下さいね。
「往復の籠屋さん」は、 カメちゃんには、ピッタリ・・・の サービス!で 私も、安心・・・しちゃいました。 (♪)
往復4,000円。は、カメちゃんには、お安い・・・でしょうけれど、
田舎の中国人・・・には、もの凄い!高収入〜。
お互い・・・が良かった。って 思います。
最後に、「日本の弥生時代」に、「中国は、こんな・・・進んだ!文明」って
『 中国 4千年の歴史 』・・・の 長さ。だけ・・・ではない、 実力。 感じますね〜。
現代、長江の廻り!の 歴史遺産・・・を 住民の暮らし!を 替えて、
水の中に沈めて、
「現代 中国の発展」を どのように、進めるのか〜 ?。
古代と現代・・・の中国!を 考えてしまう、私・・・なのでした。
それでは 続き!の 「東日本大震災!の 一報」が 入った!
カメちゃん 日本人ツアー!のお話。は、 また、ゆっくり、拝見!しますね。
これからも ヨロシクお願いします。
- カメちゃんさん からの返信 2011/10/05 13:21:38
- RE: 中国の発展・・・と、引き換え!の 住民の暮らし。←ホントにどうなるのでしょうかね?
- 白い華さん こんにちは〜(^^)
嬉しいコメントをありがとうございました(^_^)v
長江の三峡ダム近辺では、三国志に出てくる史跡やドラマの見られるのが楽しいですね。
先ずは石宝寨で関羽将軍にご挨拶(^^)
白帝城では、劉備配下の名だたる軍師・武将とご対面(^-^)
李白も杜甫も登場してきましたから、ホントにもう、役者揃いで超満足ですね〜(^-^)
私は史記列伝なんかが懐かしいですけど(内容はみんな忘れましたけど・・(-_-;))、
三国志のあれこれの部分を知っていますが、それを「通しで」読んではいないんです。
これを機会に、是非読んでみたいですね〜。
白帝城に関しては、腰も弱いので行くのをやめるつもりでした(>_<)。
でも、当家のカミさんは私を愛していたのかな?(~o~) 4,000円で駕篭に乗せてくれました(^-^)
何事もカミさんのお陰です!(^^)!
いつもの旅なら、白帝城のことを見て、想って、満足して終わるところですし、私自身の旅もそうでした。
それが、今回は船から眺める光景が、旅の何より大きいテーマになってしまいました。
正直言いまして、これまで三峡ダムとか長江のことには殆ど関心がなかったんですよ。
「あんなに大きなダムを造って、中国ってスゴイなぁ〜」
なんていう程度の認識でした。どれほどの人が、移住をしたかも知りませんでしたね(~o~)
それが、行ってみてビックリでしたよ!(^^)!
湖底に沈んだ街や田畑(>_<)(*_*) 史跡・景観の破壊ももちろん考え物ですが、
何より人々の営みや暮らしが桁外れの規模で翻弄されれているっていう感じを受けたんですね。
湖畔の「土の上」の造船所、崖の上の工場とアパート群を見ますと、驚くばかりで言葉を失いましたね。
アパートに関して言えば、平地の少ない土地とは言え、もう少し奥に平地を造成して
そこにアパートを作って欲しいと思いますよね。
既にあちこちで斜面の崩落が発生しているというのですから、本当に心配ですよ。
実際、そのために再度の移住を迫られている例もあるというのですからね〜(@_@)
あんまり言いすぎますと、中国のことを悪く書いてしまうことにもなりかねなくて、
そのあたりの加減に苦労しています(それでも書いてしまうほどですけどね)。
これらの様相を見ていますと、中国政府のやり方にも何かの問題があるかと思いますが、
たとえ政府が変わっていたとしても、似たようなことをやるのではないかという、
「中国ならでは」の姿に思えてきますね。
その「中国ならでは」のあり方が、これからの時代をどう切り開いていくのか?
重大な関心を持たざるを得ないですね〜。
これからも、その「中国ならでは」の光景を、ご覧いただけると思います。
ボチボチ書いていますので、お暇な時にでも遊びに来て下さいね〜(^_^)v
きょうは白い華さんに中国のお話ができて、とっても嬉しかったです(^^)
これからもよろしくお願いしますね。
カメちゃん
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