2024/08/09 - 2024/08/11
229位(同エリア234件中)
kohさん
2023年に修験者で有名な山上ケ岳に登頂。
2024年は近くの観音峯を登ることにしました。奈良の天川村に行き、そこから南朝ロマン小径と言われるところを通りながら登山となります。今回の内容は、旅館と観音峰登山が中心の1日目②と2日目①となります。
南朝の歴史を辿る旅となりました。
天川村に行くにしても、かなり奥地にあるので、1日目は奈良の古墳を適当に観光しながら、夕方までに天川村に到着するようにして、2日目に登山という計画にする。
その後は、三輪に泊まり、また適当に奈良観光しながら帰るというざっくりした計画。
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1日目①の続きです。
15時くらいに三輪駅を出発。万葉まほろば線です。
高田駅で和歌山線に乗り換えて吉野口駅まで乗ります。
そこで吉野線に乗り換えて、下市口駅で降ります。
さらに下市口駅のバス乗り場から1時間弱、洞川温泉行きのバスに乗り、天川村のある天川川合のバス停で降ります。三輪から2時間25分。
着いたのは5時15分くらい、チェックインにちょうど良い時間。 -
予約した料理旅館まえひらに着きました。泊まる客の名前は玄関に出ており、問題なく名前は出ていたので、心配はないが玄関で呼びかけても誰方も出てこない。
料理旅館まえひら 宿・ホテル
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事務所っぽいところも人はいない。
ただ厨房で忙しいそうな物音がする。どうやら夫婦で切り盛りしているようで、夕飯づくりの忙しいタイミングに来てしまった。なんとか気づいてもらえて、奥さんに案内してもらう。料理旅館まえひら 宿・ホテル
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2階の部屋に案内されました。山奥ですがWi-Fiも問題なし。
お風呂は、露天風呂が設備の関係で入れないそうでしたが、もう一つの大きめの立派な檜風呂には入れました。料理旅館まえひら 宿・ホテル
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イチオシ
夕飯は、地元の渓流で獲れた鮎料理、旅館で採れた野菜を使った料理や山菜料理です。
鮎は、串焼きと、なんと刺身でも楽しめます。新鮮で美味しい。
山菜などもご飯が進みます。料理旅館まえひら 宿・ホテル
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枝豆は、深緑色しているので、黒枝豆のようです。美味しんぼで見たことあります笑。普通の枝豆より豆が大きくて美味しいです。
料理旅館まえひら 宿・ホテル
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だいはん鍋、初代当主の名前からつけられているらしくらこちらは山の幸が入ったあっさりした鍋で美味しい。
料理旅館まえひら 宿・ホテル
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翌日の朝ごはん。
健康的で体に良さそう。ご飯がおひつで食べ放題だったので、かなりお代わりしてしまう。
ここから2日目①の内容です。料理旅館まえひら 宿・ホテル
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おかみさんに登山計画を聞かれたので観音峰に登る話をしました。
最近は登山計画を書かない人もいるから困るみたいです。朝、出発時に私は登山計画書を書いて、バス停に設置されていた登山ポストにいれました。
登山計画
観音峰パノラマコースを通り、
観音峰展望台→観音峰(1347m)→法力峠(1217m)ここで稲村ヶ岳の登山コースと合流するので、ここから下山し、稲村ヶ岳登山口に出て洞川温泉の街を散策したいと思います。
2023年の時、洞川温泉で見れなかったものもあるので、再訪です。料理旅館まえひら 宿・ホテル
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おひつに残ったご飯でおにぎりを作っていただきました。弁当の予約もできたらしいですが、私のおにぎりはサービスでした、なんともありがたい。いつもしているサービスではないかもですからご注意を。
旅館の近くのバス停から少し山に入り、観音峰登山口でおります。いよいよ登山です。 -
観音峰登山口には、南朝ロマン小径という大きな看板が。
観音峰の登山は、南朝と天川村の関係や歴史が学べるレリーフが随所にあります。 -
登山口には、南朝と奥吉野天川郷の歴史の説明があります。かなり大きなレリーフとなっています。
後醍醐天皇が南朝を吉野で打ち立てて、天川村と色々な関係があったらしいです。今も天川村の人たちの南朝の人々への熱い想いを感じることができます。
歴史の教科書には残らずとも、村人は直に南朝の人たちと接触していて、色んな伝承があるのだと思います。 -
登山の途中の各所に南朝に関わるレリーフがあるようです。
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本格的に山に入ります。
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キャンプ客が結構河原で遊んでいます。
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イチオシ
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鎌倉幕府滅亡までの後醍醐天皇勢力の動きを天川村と絡めて書かれています。
まず鎌倉幕府を滅ぼそうとした後醍醐天皇が反乱に失敗し、隠岐に流され、吉野に隠れていた護良親王がこの辺りを転々と潜伏しつつ活躍しながら、逃れたそうです。
壬申の乱のとき吉野に逃れた大海人皇子を助けた天川村の豪族である角氏の末裔で加藤太郎光直という方がいらして護良親王入京の際、お供したらしい。 -
吉野の南朝について
後醍醐天皇は、鎌倉幕府を滅ぼしましたが、建武の新政が失敗。足利尊氏が離反し、室町幕府を開府。新しい天皇を立てられた(北朝)ので、吉野に後醍醐天皇たちは三種の神器とともに逃れ、南朝として存続する。
天川村は、吉野エリアの交通の要衝であり、修験者の聖地であるため、全国から情報が入る上に、京都からは攻めづらい山あいの地。57年間南朝を支えることとなる。 -
四條畷の戦で、楠木正行が討死した後、吉野にも室町幕府軍に攻め込まれ、御所などが炎上したようです。後醍醐天皇の後を継いだ後村上天皇は観音峰を通って逃れたそう。その時、天川村の郷士たちが助けたとのこと。
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一つ目の山小屋
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その後、後村上天皇は再起を図り、奥吉野を基地として再度整え、天川村には天川村位衆傳御(いしゅうおとな)という警備部隊を作ったそうです。村には勅願寺もできたとのこと。足利尊氏と直義の兄弟喧嘩で、尊氏が南朝側となると、正平一統により、後村上天皇は京都に戻ることになる。その時、この天川村位衆傳御もお供したとのこと。
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お歌石。
説明は次の写真。 -
お歌石に刻まれているのは、護良親王の御製の和歌です。
時代は戻り、護良親王が鎌倉幕府に対して兵を挙げた頃の話。岩屋に隠れている時に詠まれ、石灰岩に彫り込まれたそう。それが風化したため、再現したとのこと。
藤原俊成の歌を本歌取りした御歌です。
よしの山 花ぞちるらん天の川 くものつつみを くずすしらなみ
天川村からの勢いで、鎌倉幕府軍という壁を崩すという意気込みでしょうか -
きれいな深緑のコガネムシがいました。
ルリセンチコガネと呼ばれているものです。
オオセンチコガネの青・瑠璃色・緑色などを呈する個体群をルリセンチコガネと呼ぶそうです。
一般のオオセンチコガネは赤金や銅赤色をしていますが、紀伊半島や奈良周辺ではこの青緑や瑠璃色輝くものが見られるそうです。 -
勢力を取り戻した北朝側の室町幕府軍が、攻めてきます。京都奪還していた後村上天皇も負けて、南朝勢力は、結局また吉野へ。その後の長慶天皇は、三種の神器や皇太子をさらに奥の天川村に匿う。黒木御所など行在所の跡が天川村に残っている。結局ここでも戦いが繰り広げられ、長慶天皇一行は、観音峰づたいに逃げて、また奥の洞川温泉の龍泉寺へ逃れるそうです。天川村の郷士も活躍したそうです。洞川温泉へは登山の後、向かいます。
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観音峰展望台や頂上に近づく。
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観音峰展望台の頂上近くは道がほとんど見えない。夏場の草がボーボーで、かろうじて道が見える程度。実際に道を外れてしまい、少し大変な思いをして戻れた。GPS様様です。
観音峰 自然・景勝地
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どこにでもいるキタテハとアザミ。白いロープが目印になっているが。道が分かりづらい。
観音峯展望台 自然・景勝地
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イチオシ
1時間15分くらいで観音峰まで登れました。
観音峯展望台 自然・景勝地
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展望台に近づいてみる。
観音峯展望台 自然・景勝地
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展望台に上がると壮観。
観音峰 自然・景勝地
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イチオシ
展望台から見える山々。
観音峯展望台 自然・景勝地
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吉野の山々を360度のパノラマで楽しめます。
観音峯展望台 自然・景勝地
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南朝ロマン小径の最後のレリーフ。
ここ観音峰の由来が書かれています。
後村上天皇の観音様の夢のお告げで吉野から、さらに奥のここに潜行して難を逃れたことから、この峰は南朝最後の砦として、天川村でも秘された場所としていたらしい。
後村上天皇の後の長慶天皇の御製の歌があります。その頃は、南朝はさらに勢力が弱くなっており、長慶天皇が吉野から逃れて、さらに奥の観音峰に落ちられた時に歌われたものだそうです。
実は観音峰展望台は頂上ではないので、さらに頂上を目指します。こちらは観音峰登山コースで一番景色が良いところだそうです。
2日目②へ続く。(近日公開予定)観音峯展望台 自然・景勝地
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