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福岡県民なら何度は訪れたことがある非常に馴染みのある太宰府天満宮ですが、最近はインバウンド客も多く訪れる有名な観光地になりました。でも大半の観光客は太宰府天満宮の参拝だけで帰っていきます。もったいない話しです。大宰府天満宮近くにあるマイナーな観光スポットを日帰りで訪問しましたのでレポートします。

大宰府にあるマイナーな観光スポットを訪ねて

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2026/10/21 - 2026/10/21

974位(同エリア1136件中)

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23

きみちゃんです。さん

この旅行記のスケジュール

2026/10/11

  • 西鉄福岡駅10:18出発、都府楼前駅10:36到着(春日原で急行から各停へ乗換え)

  • 都府楼駅10:40出発、榎社10:55到着(途中飛梅原木に立寄り)

  • 榎社11:20出発、隈麿の墓11:35到着(途中晴明の井立寄り)

  • 隈麿の墓11:50出発、戒壇院12:30到着

  • 戒壇院12:32出発、観世音寺12:35到着

  • 観世音寺13:00出発、大宰府学校院の跡13:05到着

  • 大宰府学校院跡13:15出発、大宰府展示館13:25到着

  • 大宰府展示館14:03出発、大宰府政庁跡14:05到着

  • 大宰府政庁跡14:35出発、朱雀門礎石14:40到着

  • 朱雀門礎石14:50出発、都府楼前駅14:55到着

  • 都府楼前駅15:12出発、西鉄福岡15:37到着(大橋駅で各停から急行に乗替え)

この旅行記スケジュールを元に

福岡県民なら何度は訪れたことがある非常に馴染みのある太宰府天満宮ですが、最近はインバウンド客も多く訪れる有名な観光地になりました。でも大半の観光客は太宰府天満宮の参拝だけで帰っていきます。もったいない話しです。大宰府天満宮近くにあるマイナーな観光スポットを日帰りで訪問しましたのでレポートします。

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
交通
4.0
同行者
友人
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
私鉄 徒歩
  • 西鉄福尾駅から大牟田線に乗車して都府楼前駅で下車しました。太宰府天満宮本殿前にある「飛梅」は有名ですが、こちらはその「飛梅」が都から一夜にしてこの地に飛んできたといわれる場所です。福岡県の住民でも太宰府天満宮の本殿前にある「飛梅」知っていても「飛梅の原木」は知らない人が多いので行きました。民家の庭先にあるので、断りを言ってから見せてもらいました。

    西鉄福尾駅から大牟田線に乗車して都府楼前駅で下車しました。太宰府天満宮本殿前にある「飛梅」は有名ですが、こちらはその「飛梅」が都から一夜にしてこの地に飛んできたといわれる場所です。福岡県の住民でも太宰府天満宮の本殿前にある「飛梅」知っていても「飛梅の原木」は知らない人が多いので行きました。民家の庭先にあるので、断りを言ってから見せてもらいました。

  • 菅原道真公が大宰府に流され住まわれた地にあるのが榎社です。大宰府に赴任した役人の官舎である南館の跡といわれています。道真公が901年に大宰府に左遷されてから2年後に亡くなるまで生活した地として知られます。

    菅原道真公が大宰府に流され住まわれた地にあるのが榎社です。大宰府に赴任した役人の官舎である南館の跡といわれています。道真公が901年に大宰府に左遷されてから2年後に亡くなるまで生活した地として知られます。

    榎社 寺・神社・教会

  • 榎社は藤原惟憲(これのり)が道真公の霊を弔うために浄妙院を建立したことが始まりとされています。榎の大木があったので榎寺と呼ばれていましたが、現在は榎社と呼ばれています。

    榎社は藤原惟憲(これのり)が道真公の霊を弔うために浄妙院を建立したことが始まりとされています。榎の大木があったので榎寺と呼ばれていましたが、現在は榎社と呼ばれています。

  • 菅原道真公が大宰府に流されるときに二人の幼子(紅姫と弟隈麿)を連れて行くことを許されます。そのうち姉である娘紅姫を供養する祠です。道真公が大宰府に流されてきた翌年に弟隈麿を亡くし、2年後には道真公がなくなります。そのあと紅姫の消息ははっきりしません。

    菅原道真公が大宰府に流されるときに二人の幼子(紅姫と弟隈麿)を連れて行くことを許されます。そのうち姉である娘紅姫を供養する祠です。道真公が大宰府に流されてきた翌年に弟隈麿を亡くし、2年後には道真公がなくなります。そのあと紅姫の消息ははっきりしません。

  • 榎社から少し東に歩くと、朱雀市営住宅があります。敷地の入口に大宰府坊城跡を示す資料がありました。この辺りは朱雀という地名ですが、朱雀大路のあった場所なんでしょうか?いずれにしても、大宰府が平城京のように碁盤の目に街割りが行われていたようです。政庁跡から南にまっすぐ伸びる朱雀大路は当時幅36mもあり役人や外国からの使節、商人らで繫栄していたことがわかります。

    榎社から少し東に歩くと、朱雀市営住宅があります。敷地の入口に大宰府坊城跡を示す資料がありました。この辺りは朱雀という地名ですが、朱雀大路のあった場所なんでしょうか?いずれにしても、大宰府が平城京のように碁盤の目に街割りが行われていたようです。政庁跡から南にまっすぐ伸びる朱雀大路は当時幅36mもあり役人や外国からの使節、商人らで繫栄していたことがわかります。

  • 晴明の井です。平安時代の陰陽師として知られる安倍晴明が開いたと井戸と伝えられています。旱魃があっても井戸水が涸れないと言われ、この水を出産時に使うとうと安産であると信じられてもいます。

    晴明の井です。平安時代の陰陽師として知られる安倍晴明が開いたと井戸と伝えられています。旱魃があっても井戸水が涸れないと言われ、この水を出産時に使うとうと安産であると信じられてもいます。

  • 晴明の井には小さな祠があります。祠の中には石で作られた板状のものが安置され、井戸水を守る神様を表しています。

    晴明の井には小さな祠があります。祠の中には石で作られた板状のものが安置され、井戸水を守る神様を表しています。

  • 晴明の井から裏手の方に50mも歩くと小高い丘があり、その上には納骨堂のような立派な建物が建てられています。近づいてみると隈麿の墓と書かれたのぼりがあるので好奇心でこの丘に登ってみました。

    晴明の井から裏手の方に50mも歩くと小高い丘があり、その上には納骨堂のような立派な建物が建てられています。近づいてみると隈麿の墓と書かれたのぼりがあるので好奇心でこの丘に登ってみました。

  • 大宰府に左遷された菅原道真公は二人の子供たちだけを連れて行くことを許可されます。姉紅姫と弟隈麿です。隈麿は大宰府に着いた翌年に病気で急逝します。これは隈麿の墓(隈麿の奥都城)といわれています。

    大宰府に左遷された菅原道真公は二人の子供たちだけを連れて行くことを許可されます。姉紅姫と弟隈麿です。隈麿は大宰府に着いた翌年に病気で急逝します。これは隈麿の墓(隈麿の奥都城)といわれています。

  • 隈麿の墓のすぐ横には六弁の花をつける梅の木が植えられていました。2月初めにはは隈麿の墓の周りは梅の花で飾られたようになるそうです。来年2月にはもう一度訪れてみようと思います。

    隈麿の墓のすぐ横には六弁の花をつける梅の木が植えられていました。2月初めにはは隈麿の墓の周りは梅の花で飾られたようになるそうです。来年2月にはもう一度訪れてみようと思います。

  • 大宰府政庁前の政庁通りを東に歩いたところにあるのが戒壇院です。戒壇院は東大寺、下野薬師寺の戒壇ととも天下三戒壇として知られています。江戸時代中期に福岡藩三代目藩主黒田光之の命により観世音寺から独立しました。奈良の古寺にあるような趣のある赤土の塀に囲まれて風情のある景色が見られます。

    大宰府政庁前の政庁通りを東に歩いたところにあるのが戒壇院です。戒壇院は東大寺、下野薬師寺の戒壇ととも天下三戒壇として知られています。江戸時代中期に福岡藩三代目藩主黒田光之の命により観世音寺から独立しました。奈良の古寺にあるような趣のある赤土の塀に囲まれて風情のある景色が見られます。

    戒壇院 寺・神社・教会

  • 総門をくぐると目の前にあるのが戒壇院の本殿です。江戸時代に入って再建されたものです。1743年に再建された建物がが現在も残されています。入母屋造りで本瓦葺の本堂はやや小さなものです。本尊毘廬舎那仏、左右に弥勒菩薩、文殊菩薩が安置されています。

    総門をくぐると目の前にあるのが戒壇院の本殿です。江戸時代に入って再建されたものです。1743年に再建された建物がが現在も残されています。入母屋造りで本瓦葺の本堂はやや小さなものです。本尊毘廬舎那仏、左右に弥勒菩薩、文殊菩薩が安置されています。

  • 天智天皇の発願で母斉明天皇を供養するために創建された観世音寺の金堂です。かって金堂と講堂は焼失し、江戸時代初期に再建されたものがに残っています。天下三戒壇の一つ、戒壇院がすぐ隣にありますが、江戸時代に別のお寺になったものです。

    天智天皇の発願で母斉明天皇を供養するために創建された観世音寺の金堂です。かって金堂と講堂は焼失し、江戸時代初期に再建されたものがに残っています。天下三戒壇の一つ、戒壇院がすぐ隣にありますが、江戸時代に別のお寺になったものです。

    観世音寺 寺・神社・教会

  • 日本最古の梵鐘の一つといわれるのが観世音寺の梵鐘です。妙心寺のものと同じ形をしていることから同時期(7世紀ころ)に鋳造されたものとされています。鋳造時期から考えると、菅原道真公もこの梵鐘の音を聞かれたのではないかと思います。

    日本最古の梵鐘の一つといわれるのが観世音寺の梵鐘です。妙心寺のものと同じ形をしていることから同時期(7世紀ころ)に鋳造されたものとされています。鋳造時期から考えると、菅原道真公もこの梵鐘の音を聞かれたのではないかと思います。

  • 大宰府学校院跡です。当時は律令体制でこの体制を支えるための官人を養成する機関でした。九州諸国の郡司子弟を教育したり、大宰府に勤務する現地採用の下級官人の養成を行っていました。建物の跡が何棟か発掘されたり区画溝などが見つかっています。

    大宰府学校院跡です。当時は律令体制でこの体制を支えるための官人を養成する機関でした。九州諸国の郡司子弟を教育したり、大宰府に勤務する現地採用の下級官人の養成を行っていました。建物の跡が何棟か発掘されたり区画溝などが見つかっています。

    大宰府学校院跡 名所・史跡

  • 大宰府学校院跡の北側には、下級貴族出身の官人である山上憶良の万葉歌碑があり、二首歌が書かれています。そのうちの一首は子らを思う歌です。当時の農村は苦しい生活を送っていたことがよくわかります。背丈ほどの大きな岩は2005年(平成17年)に建てられたものです。

    大宰府学校院跡の北側には、下級貴族出身の官人である山上憶良の万葉歌碑があり、二首歌が書かれています。そのうちの一首は子らを思う歌です。当時の農村は苦しい生活を送っていたことがよくわかります。背丈ほどの大きな岩は2005年(平成17年)に建てられたものです。

  • 発掘された大宰府政庁跡の資料などを保存・公開するために1980年(昭和55年)に開館したのが大宰府展示館です。大宰帥であった大伴旅人が催した「梅花の宴」の様子を博多人形で再現した立体模型や発掘調査で出土した瓦、石帯、木簡なども展示されています。奈良、平安時代の政治、外交、生活を知ることができます。 <br />

    発掘された大宰府政庁跡の資料などを保存・公開するために1980年(昭和55年)に開館したのが大宰府展示館です。大宰帥であった大伴旅人が催した「梅花の宴」の様子を博多人形で再現した立体模型や発掘調査で出土した瓦、石帯、木簡なども展示されています。奈良、平安時代の政治、外交、生活を知ることができます。

    大宰府展示館 美術館・博物館

  • 大宰府展示館の北側出口を出ると、目の前にあるのが帯塚です。それを紹介する資料が掛けてありました。高浜虚子が愛用した博多織の帯が故人の遺言とおり埋められ、塚になっているそうです。

    大宰府展示館の北側出口を出ると、目の前にあるのが帯塚です。それを紹介する資料が掛けてありました。高浜虚子が愛用した博多織の帯が故人の遺言とおり埋められ、塚になっているそうです。

  • 生垣の間に設けられた小道を10mも歩くとすぐにこの帯塚に着きます。同人誌「ホトトギス」で高浜虚子と同人であった河野静雲が建立した佛心寺がすぐ近くにあります。虚子が着用していた博多帯を河野静雲に託しこの塚に埋めたものです。

    生垣の間に設けられた小道を10mも歩くとすぐにこの帯塚に着きます。同人誌「ホトトギス」で高浜虚子と同人であった河野静雲が建立した佛心寺がすぐ近くにあります。虚子が着用していた博多帯を河野静雲に託しこの塚に埋めたものです。

  • 大宰府政庁跡南側の入口にある「史蹟大宰府址」と刻まれた碑です。大正十年三月内務大臣指定とも刻まれていますから、1921年(大正10年)に大宰府政庁が史跡指定を受けたことを記念して建照られたことがわかります。

    大宰府政庁跡南側の入口にある「史蹟大宰府址」と刻まれた碑です。大正十年三月内務大臣指定とも刻まれていますから、1921年(大正10年)に大宰府政庁が史跡指定を受けたことを記念して建照られたことがわかります。

    大宰府政庁跡 名所・史跡

  • 大宰府政庁跡に残る中門の礎石です。左右の道は回廊です。この礎石も残されています。広大な敷地を囲むようにしてできた回廊跡を見るだけでも往時の大宰府政庁の規模の大きさがわかります。

    大宰府政庁跡に残る中門の礎石です。左右の道は回廊です。この礎石も残されています。広大な敷地を囲むようにしてできた回廊跡を見るだけでも往時の大宰府政庁の規模の大きさがわかります。

  • 大宰府政庁跡にある脇殿跡です。回廊に囲まれた敷地には東西に各二棟ずつ脇殿がありました。写真は東側の脇殿跡で礎石のみが残されています。

    大宰府政庁跡にある脇殿跡です。回廊に囲まれた敷地には東西に各二棟ずつ脇殿がありました。写真は東側の脇殿跡で礎石のみが残されています。

  • 国道3号線の朱雀交差点を大宰府政庁跡方面に曲がる角に朱雀門の礎石があります。大宰府は中国や朝鮮半島に見られる王城都市を真似た条坊制を採用していました。政庁跡中央から真っすぐ南に走る朱雀大路を設け、それを中心にして左右に碁盤の目状の区画を設けました。中心にあたる朱雀大路には朱雀門が設けてありました。横を流れる御笠川改修時にこの礎石は発見されました。

    国道3号線の朱雀交差点を大宰府政庁跡方面に曲がる角に朱雀門の礎石があります。大宰府は中国や朝鮮半島に見られる王城都市を真似た条坊制を採用していました。政庁跡中央から真っすぐ南に走る朱雀大路を設け、それを中心にして左右に碁盤の目状の区画を設けました。中心にあたる朱雀大路には朱雀門が設けてありました。横を流れる御笠川改修時にこの礎石は発見されました。

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