2026/05/09 - 2026/05/19
1099位(同エリア1135件中)
Noraさん
この旅行記のスケジュール
2026/05/12
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ホテルで朝食
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カターニア門
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メッゾ門
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4月9日広場
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サン・ジュゼッペ教会(Chiesa di San Giuseppe)
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サンタゴスティーノ教会(Chiesa di Sant'Agostino)
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タオルミーナ大聖堂(Duomo di Taormina)
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ケンタウレッテ(Centaurette)
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サン・ステファノ公爵宮殿(Palazzo dei Duchi di Santo Stefano)
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サン・ミケーレ・アルカンジェロ教会(Chiesa di San Michele Arcangelo)
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マッツアーロビーチ
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マッツアーロ湾
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バー・オアジ・イゾラ・ベッラ(Bar Oasi Isola Bella)
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マッツアーロ湾【海賊目線で再現!マッツァーロ湾の『ブレスト会議』】
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イソラベッラ自然保護区
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リストランテ イル プリンチペ(Ristorante Il Principe)
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ケーブルカー下部駅(ビーチ・海岸)
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ケーブルカー上部駅(市街地):ルイージ・ピランデッロ通り
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ベルベデーレ展望台(Belvedere di Via Pirandello)
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ビザンチン墓地(Byzantine Tombs)
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ホテルエリオス
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この旅行記スケジュールを元に
ロスバで開幕した私の2度目のシチリアの旅。全く千変万化の旅のオープニングでした!ラッキーなことに地元の人々の思わぬ支援もあって、結果的に翌日配送で収拾がつきました。当初の日程内容が変動しないように、インパクトを最小限におさえるべく慎重に目的地を回ります。昨日の古代劇場のオーブン現象で熱疲労症状があって(グラタン化、ローストチキン化)、食欲が減退しています。なのでこの旅行記にはご紹介できる飲食関係、グルメっぽい情報がほとんどありません。でも、古代の息ぶきを古代劇場でしっかりと感じてきました。もともと、私にとっては味覚の満足は2次的なもので、古代や中世の人々がどう生きたのか、どう考えたのか、遺跡という空間から歴史を立体的に感じる、そのことがとても大事なのです。なのでちょっと変な旅行記内容かもしれませんがご容赦下さい。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- 交通手段
- タクシー 徒歩
- 航空会社
- ITAエアウェイズ ユナイテッド航空
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お部屋のベランダから。朝のナクソス湾です。ちょっと薄ぼんやりですが、この後雲をかき分け太陽がさっそうとデビューします。
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ホテルエリオスの朝食会場はバルコニーの藤棚の下なのですが、片側の壁はこのように’古代遺跡の壁′ 風になっています。単なる土砂崩れなのでしょうか?
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軽く朝食。フルーツも少しずつ。
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タクシーでカターニア門の近くまできて、徒歩で4月9日広場にやってきました。
正面はメッゾ門「ポルタ・ディ・メッツォ(中間の門)」の名でも知られる「トッレ・デッロ・オロロージオ(Torre dell "Orologio時計塔)」です。タオルミーナを象徴する歴史的建造物の一つで中世の頃は監視塔として活躍しました。賑やかな歩行者専用の目抜き通りであるコルソ・ウンベルト沿いに位置し、旧市街(古代ギリシャ・ローマおよびヘレニズム時代の街区)と新市街(後世に形成された中世の街区)とを物理的に隔てる門です。 -
メッゾ門(Porta di Mezzo) の内部にはビザンチンモザイク画。
このモザイク画は13世紀のビザンチン・ノルマン様式の傑作として知られる「マドンナ・デッラ・チャンブレッタMadonna della Ciambretta(小部屋の聖母)」のレプリカ(複製)です。オリジナルの作品はメッシーナ州立博物館(MuMe)に保存されています。時計塔(Torre dell "Orologio)の壁龕(へきがん)にはめ込まれているこの複製画は、第二次世界大戦後、北イタリアのスピリンベルゴ(Spilimbergo)にある名高いフリウリ・モザイク学校School of Mosaicists of Friuliの巨匠たちによって制作されました。このモザイク画は「屋外の公共通路で、行き交う人々を魅了する」というエンターテインメント性と宗教的な歓迎の役割を持っています。そのため、現地の太陽光や街灯、歩行者の動線に合わせて、視覚トリックが100%発揮されるように作られているのです。 -
ほら、見てください。正面から見たときと黄金光線が違うでしょう?
視覚的な仕掛け:制作者たちは、個々のモザイク・タイル(テッセラ)の角度を巧みに調整しました(アンジュレーション技法Undulation technique)。賑やかな通りから門に近づくと、タイルが周囲の光を捉え、鮮やかな黄金の輝きを放ちます。しかし、画像の真正面に立つと、金色のまばゆい輝きが和らぎ、衣服の深い青、赤、そして豊かな緑色が際立って見えるようになります。これはテッセラの角度調整によるものです。
遡りチェック:12世紀、シチリア王国の初代国王ルッジェーロ2世は、自らの権威を誇示し、キリスト教の宇宙観を表現するため、パラティーナ礼拝堂の制作を開始しました。教会内装はニューリッチらしく断然、金ぴかのビザンチンモザイクと決めて。。。で、ふんだんなポケットマネーをつかって当時のモザイク技術の最高峰であった東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の首都コンスタンティノープルから本物のマスター職人集団をパレルモへ招聘しました(当然、アゴ、足つきです)。 で、この高度な技術は現地シチリアの職人や、のちに北イタリアなどから集まった職人たちに直接伝授されました。 その流れを引き継ぐのがフリウリ・モザイク学校です。 -
4月9日広場(Piazza IX Aprile)
広場の名前である「4月9日」は、1860年4月9日という日付に由来します。
イタリア統一運動: 当時、シチリアはブルボン家の支配下にあり圧政に苦しめられていました。そこへイタリア統一の英雄ジュゼッペ・ガリバルディが、シチリアを解放するためにマルサラに上陸するという噂が流れていました。
1か月早い大歓喜: 1860年4月9日、タオルミーナの住民の間で「ガリバルディがマルサラに上陸し、ブルボン家からの解放が始まった!」というニュースが伝わり、人々はこの広場に集まって熱狂的に祝福しました。
実は「誤報」、早とちりだった: しかし、このニュースは完全な誤報(フライング)でした。ガリバルディが実際にシチリア島マルサラに上陸したのは、1か月以上も後の5月11日のことです。
歴史の記念碑として: ニュース自体は誤報でしたが、(’もう大歓喜しちゃった後だし、後で修正するのもなんだかカッコ悪いので、これでいいじゃん的’対応)タオルミーナの市民が熱望した自由への情熱を記念してこの広場を「4月9日広場」と改名したのです。で、その名が現代まで残ることになりました。 -
広場に敷き詰められた大理石のモノトーンの床は、19世紀末から20世紀初頭にかけての広場の近代化・整備の段階で完成したと考えられています。白と黒の石が交互に敷き詰められたチェッカーフラッグ(市松模様)柄は地元の天然石(大理石や火山岩など)で出来ていてなかなかスタイリッシュです。
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4月9日広場から眼下(約200m下)に見える海はナクソス湾(Baia di Naxos)です。だれか泳いでますね。
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左手の岬の上に見えるブラウンの建物はウナホテル(Capotaormina Una Hotels)のようです。
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サン・ジュゼッペ教会(Chiesa di San Giuseppe)
17世紀後半に建てられたバロック様式の教会。
正面(ファサード)の壮麗な一対のダブル階段が特徴的です。内部はシチリア産の多色大理石で美しく装飾。でもここの大理石はドゥオーモ(大聖堂)の身廊を支える6本の大理石(古代劇場からのリサイクル)と違って、この教会のために新調されたものです。(ここを強調する教会:引っこ抜いて来たんじゃないもんね。ちゃんとオーダーメイドだよ。)その裏には遺跡に対する人々の意識の変化がありました。
次の画像に続く。 -
建築された「時代(13世紀)」の差:
ドゥオーモ(13世紀建築)。中世の時代は、遺跡を「都合の良い石材置き場」として扱い、柱などをそのまま引っこ抜いて再利用する(スポリアと呼ばれる手法)が一般的でした。
サン・ジュゼッペ教会(17世紀後半建築)。バロック時代になると、遺跡の保護意識や、バロック様式特有の「計算された豪華な装飾」のために、サイズや色を細かく指定して新しい石を切り出す手法へと変わっていたためです。なのでこの教会にはタオルミーナ近郊(カステルモーラ周辺など)で採掘されていた地元の天然大理石(通称:タオルミーナ大理石)が使われています。 -
ドームの天井画
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サンタゴスティーノ教会(Chiesa di Sant'Agostino)
1448年にペストからの保護を祈願して聖セバスチャンへ献堂された教会です。1530年にアウグスティノ会修道士に譲渡され、名称が変更されました。宗教施設としての役割を1866年に終え、市立図書館としてセカンドライフをおくっています。この右手に有料のトイレ(地下)があります。 -
タオルミーナ大聖堂(Duomo di Taormina)。
もともとここには古代ギリシャの最高神「ゼウス」に捧げられた神殿がありました。その遺跡(基礎)の上に最初の小さな教会が建てられたのが初期中世=ビザンツ~アラブ支配期です。その後、13世紀(ノルマン~シュヴァーベン期)にその古い教会の跡地・基礎を利用する形で、現在の頑丈な要塞風の大聖堂が建設されました。
その外観から地元の人々は’要塞教会(Fortezza Cattedrale)’というニックネームで呼んでいます。
なぜこのような要塞形状になったのか、それと建築のディテールについて調べました。
次の画像に続く。 -
①海賊の襲撃に対する「シェルター」
この聖堂が建てられた中世のシチリア島沿岸は、オスマン帝国の支援をうけた「バルバリア(ベルルベル人)海賊」などの頻繁な襲撃や略奪に晒されていました。敵が襲来した際、町の一番奥にあるこの頑丈な教会に住民たちが逃げ込み、最後の砦(避難所)として立てこもるために、軍事拠点さながらのデザインが必要だったのです。
そうした戦時には教会の広い空間は食料の保存、武器弾薬の貯蔵庫としても機能しました。さらには長期の籠城に備え地下には貯水池も設けられていました。
②建築ディテール
*屋根の上のギザギザ
屋根の縁をぐるりと囲む凸凹したデザインは「銃眼付き胸壁(メルロ、merlatura)」と呼ばれる中世の城郭建築そのものです。立てこもった兵士や住民が、このギザギザの隙間から矢を射たり、敵の様子をうかがったりするために作られました。
*分厚い石壁と小さな窓
敵の火矢や大砲、こじ開けに耐えられるよう、巨大な大理石のブロックを積み上げた、窓の極端に少ない強固な壁面になっています。一般的なゴシック教会のような「高くて大きなステンドグラスの窓」がないのは、防御力を最優先したためです。
*軍事用監視塔
左奥の一段高くなっている部分に監視塔がありましたが、1750年に役目を終え鐘が設置されました。 -
聖堂内部:中央の広い身廊と、左右の側廊からなる伝統的な中世のラテン十字構造です。
ピンク大理石のモノリス柱:身廊を支える6本の頑丈な柱には、地元産の「タオルミーナ特産のピンク大理石」が使用されています。これらはタオルミーナの古代ギリシャ・ローマ劇場の遺跡から移設・再利用(転用)されたものと考えられており、柱頭には植物(葉)や魚の鱗のモチーフが彫られています(一見、コリント式のように見えます)。 -
主祭壇は中世のゴシック・ロマネスク様式です。バロックの”これでもか”’という圧倒的装飾性もたまにはいいのですが、侘びさびの感覚を心に秘めた旅行者にはこうした飾り気のないシンプルな空間がフィットするように思います。
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さて、これは大聖堂の広場に立っているケンタウレッテ(Centaurette)です。
パッと見て「何かおかしい!変だ!」と思ってしまいました。立った牛の下半身に女性の上半身を無理にくっつけた(前足がない)姿!シュールをとおりこした奇妙奇天烈なデザインではありませんか。この噴水を製作したのはミケランジェロの直弟子(あるいはその系譜)であるフィレンツェ出身の彫刻家、ジョヴァンニ・アンジェロ・モントルソリ(Giovanni Angelo Montorsoli) の弟子たちです。
**神話に登場する女性のケンタウロス(ケンタウレッテ)は、一般的に上半身が女性、下半身が馬の姿で描かれ、男性のケンタウロスに劣らぬ力強さと美しさを備えていました。 -
天国のミケランジェロが直系の孫弟子たちがシチリアの地で、「前足がなくてバランスの悪い、立った牛の○ツに女の上半身を載せた彫刻」を街の一等地にドンと建てて「巨匠の系譜のバロック芸術です!」とドヤ顔をしているのを見たら、間違いなく「違う、そうじゃないってば…!!(OMG)」と頭を抱えて、今すぐにでも特別仕様のフレッチャロッサに飛び乗って駆けつけたいところでしょう。
しかし、ここで考えなければいけないのは時代背景です。
1.ミケランジェロの生きた「ルネサンス期」は、調和、完璧な比率、写実主義が絶対の正義でした。そのため、巨匠は完璧な筋肉美を追求したのです。しかし、孫弟子たちが生きた17世紀の「バロック期」は、全く異なるトレンドが支配していました。バロック芸術は「驚かせてナンボ(遊び心)」の時代だったのです。バロック芸術の合言葉は「奇抜」「驚き」「過剰」「演出」です。当時の芸術家たちは、見る人を「うわっ、何だこれ!?」と驚かせることに命をかけていました。 -
つまり、この前足のない奇妙な彫像は、当時の感覚からすると「失敗作」ではなく、「どうだい?市章をひねって、うちの街のルーツ(雄牛)を合体させた、誰も見たことがない超クールでシュールなハイブリッド像だろう!」という、最先端の『遊び心(ウィット)』としてドヤ顔で発表された可能性が非常に高いのです。
2. 師匠モントルソリ譲りの「過激なノリ」。モントルソリの弟子たちがタオルミーナに呼ばれたのは、お堅いクラシックな職人ではなく、「空間を派手に演出できるエンターテイナー」だったからです。実は、師匠のモントルソリ自身、シチリアのメッシーナで噴水(ネプチューンの噴水など)を作った際、海神ポセイドンの足元に、鎖で繋がれてめちゃくちゃ苦悶の表情を浮かべる怪物の彫刻をリアルに彫り込むなど、かなりドラマチックでエグい演出をするタイプでした。その過激なクリエイティビティを受け継いだ孫弟子たちですから、タオルミーナの役人に「市章のケンタウルスを彫って」と頼まれた際にも、「普通の馬じゃつまんなくない? ここ、タウロ山(雄牛の山)じゃん。下半身、ガチの牛にしちゃおうよ!」「前足? いらないいらない、2本脚で立たせた方がバロックっぽくてウケるって!」という、まさに「ちょっと尖った遊びの線でいこうぜ」というノリで突っ走った結果がこのデザインだったと考えられます。
私にに’うわっ、何これ!!’と思わしめたバロックの彫刻家の悪ノリ作戦は大成功だったというわけです。
タオルミーナの人々は、海賊の恐怖を克服した結果、こんなにシュールでユーモラスな彫刻を広場に飾るほどの平和と繁栄を手に入れたのですね。 -
半獣半魚の4頭の馬(?)の噴水。これは地元で「クアトロ・フォンターネ(Quattro Fontane=4つの噴水)」 と呼ばれる1635年建立のバロック様式の噴水です。4頭の「半獣半魚の馬」は、ギリシャ・ローマ神話に登場する海神ポセイドンの馬車を引く聖獣「ヒッポカンポス(海馬)」です。4頭のヒッポカンポスの口から流れ出る水は飲用水です(ちょうど鳩が水飲みに来ています)。高台にあり慢性的な水不足に悩まされがちだった要塞都市タオルミーナにおいて、大聖堂の地下貯水槽と並び、この噴水は「日常の貴重な水源」でした。さらに、襲撃に備えて籠城する際や、日常の商業活動において、広場に集まる馬や家畜に水を飲ませるための水槽としても機能していました。この水源は巨大な貯水池であるナウマキアで地下パイプを通って給水していました。
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サン・ステファノ公爵宮殿(Palazzo dei Duchi di Santo Stefano)
タオルミーナの歴史的な防衛門であるカターニア門のすぐ近くに佇む、14世紀末から15世紀初頭にかけて建てられたノルマン・ゴシック様式の美しい傑作建築です。もともとはスペイン系の名門貴族デ・スプケス家(サン・ステファノ公爵)の邸宅でしたが、町の防衛壁の一部としても機能するよう、要塞のように頑丈な塔の形(タワー・パレス)として設計されています。
*デザインの特徴: 全体的な骨組みは北方から来たノルマン(ゴシック)様式ですが、窓の優美な尖頭アーチ(二連窓)には、シチリアをかつて支配していたアラブ(イスラム)文化の意匠が色濃く残っています。
*白と黒のコントラスト: 写真の最上階のフチ(胸壁の下)に、黒と白のひし形模様の帯(フリーズ)が見えます。これは地元のエトナ火山の黒い溶岩石と、シラクーサの白い大理石(石灰岩)を交互に組み合わせて作られた、この地域特有の贅沢な装飾です。
*現在はタオルミーナ市の所有となっており、内部はシチリアの著名な彫刻家マッツッロの作品を展示する美術館や、結婚式会場としても使われています。 -
この可愛らしい教会はサン・ミケーレ・アルカンジェロ教会(Chiesa di San Michele Arcangelo)です。
サン・ステファノ公爵宮殿の目と鼻の先、かつての古い中世の防衛壁のすぐ外側(ピエトロ・リッツォ通り沿い)にひっそりと佇む、石造りの美しい旧教会です。
青空に向かって突き出たシンプルな鐘楼を見上げていると、ふとエーゲ海に浮かぶサントリーニ島で見た白い教会の鐘楼が頭をよぎりました。あちらが眩しい白い漆喰に包まれているのに対し、こちらは激動の歴史を耐え抜いた素朴な石肌のまま。しかし、壁に直接、鐘を抱くそのカタチは、かつてこの地が『マグナ・グラエキア(大ギリシャ)』と呼ばれた時代の、海を越えた文化のつながりを今に伝えているかのようです。 -
カターニア門の近くのタクシースタンドからタクシーに乗ってケーブルカーの駅近くまで来ました。限りなく広がるアイオニアンブルーの世界。
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マッツアーロ湾、マッツアーロビーチ。
屈指の海辺の入り江です。透明度の高い海と小石の浜で知られ、町の中心部の真下、イゾラ・ベッラ自然保護区の隣(北側)に位置しています。私はタクシーで来ましたが、タオルミーナの町から(メッシーナ門の近く)は、ケーブルカーを利用して数分でこのビーチにアクセスできます。
歴史:
古代の利用:古代都市タウロメニウムの直下に位置し、風を遮る自然の良港として機能していました。漁村:何世紀にもわたり、地元の漁師や小規模な船乗りたちによる静かなコミュニティが営まれていました。
と同時に(後述しますが)、この湾は、中世の頃、シチリア沿岸で避難場所を求めていた海賊たち(シチリアを襲った海賊)の隠れ家でもありました。https://charterboattaormina.com/en/mazzaro-bay/ -
マッツアーロ湾
SS114号線沿いを歩いています。
この付近には道沿いに沢山のカジュアルな飲食店が並んでいます。多分ビーチサンダル族にやさしい?
*この後ろの階段からビーチに降りて行けます。 -
その中のあまり流行ってなさそうな一軒でアイスカプチーノ。やはり暑いので、適当なインターバルで水分補給をしないとドライサラミ化します。
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バー・オアジ・イゾラ・ベッラ(Bar Oasi Isola Bella)にて。
このバーはSS114号線沿いのちょと坂道を降りたところにあります。ベランダ状になった客席からマッツアーロ湾の美しい海岸線が眺められます。
目の前に見えるのは言うまでもなくイゾラ・ベッラ自然保護区です。 -
バー・オアジ・イゾラ・ベッラ(Bar Oasi Isola Bella)から断崖絶壁をのぞむ。
このちょと切り立った断崖絶壁を見てください。入り組んでいて海蝕洞っぽい地形の場が数か所あります。ステルス性の高い地形ですね。特に右の船が入って行こうとする先に大きめの海蝕洞があるのです。
で、こういうストーリーが浮かびました。
【海賊目線で再現!マッツァーロ湾の『ブレスト会議』】
もし、中世末期の北アフリカで、タトゥーを入れた尖った「バルバリア(ベルルベル人)海賊」の若手海賊たちが、次のターゲットをどこにするか地図(チャート)を広げて「ヤバい作戦」を練っていたら……。きっと、こんな「超現場主義」のノリの会話が交わされていたはずです!
「次のシチリア遠征、どこから上陸する? カターニア? メッシーナ?」「いやいや、あんな大都市の港、真っ正面から突っ込んだら一発で警備兵に見つかって、ガレー船ごと蜂の巣にされるって!」「じゃあさ、タオルミーナの真下にある、あの小さな入り江……なんて言ったっけ、マッツァーロ湾? あそこ良くない?」「あそこ、ヤバいよな! 崖がこう、グワッと両脇から迫っててさ、外海から完全に死角じゃん。あそこに夜闇に紛れてイカリ下ろせば、どんなにキリスト教徒の警備船が目を皿にしてパトロールしてても、俺たちの船、絶対に1ミリも見えないよ。ステルス性能ハンパないって!」「しかも、あそこ真水湧いてるじゃん? 長旅でカラカラの樽にタダで水補給できるの、最高にコスパいいわ」
(次の画像に続く。) -
「なによりさ、タオルミーナの奴ら、油断して海岸の畑や漁に降りてくるだろ? 湾の岩陰に息潜めて隠れといて、降りてきたところを『お疲れ様でーす!』って一網打尽にして拉致れば、北アフリカの市場(マーケット)で身代金ビジネス爆勝ちじゃん!」「決まりだな。マッツァーロ湾を俺たちの最強シークレット・ベース(秘密基地)にしようぜ。今夜、月が隠れたら出陣な!」
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タオルミーナの大聖堂を要塞化させた元凶が、これらの北アフリカの「バルバリア(ベルルベル人)海賊」(私掠船部隊)だったのです。北アフリカには、ヨーロッパのように輸出できる大規模な産業(絹や陶器など)がありませんでした。そこで彼らが目をつけたのが、「金銀財宝や人間(白人奴隷)の略奪と身代金ビジネス」という、歪んだ一大ニッチ産業でした。さらにこれが単なる「貧しいコソ泥、海賊」で終わらなかったのは、当時の超大国、オスマン帝国が彼らを公式にサポートしたからです。オスマン帝国は、地中海で敵対するキリスト教国(スペインやイタリアの諸都市)を揺さぶるため、北アフリカの海賊たちに「お前たちを公式の海軍(私掠船部隊)として認める。だからジャンジャン敵の船や街を襲え」と、最新の武器や大型船のノウハウを与えました。
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そして、彼等がオスマン帝国のスルタン(皇帝)のバックアップ(私掠免状や武器の供与)を受けていた事実から容易に推察できるように、地中海の襲撃で捕らえられたキリスト教徒の「見眼麗しき(みめうるわしき)女性や少年」は、貢ぎ物や高額商品としてトップクラスの扱いを受け、イスタンブールの宮廷ハーレム(後宮)へ送り届けられていました。
1.「お土産」としてスルタンへ直行するトップエリート奴隷
バルバリア海賊の首領たち(バルバロス兄弟など)にとって、オスマン帝国のスルタンの機嫌を取り、後ろ盾をキープすることは死活問題でした。
選別の仕組み: 海賊たちがタオルミーナなどで住民を拉致すると、まずはアルジェやチュニスの港で「検品」が行われます。そこで見つかった「教養があり、肌が白く、際立って美しい若い女性」は、地元の一般の奴隷市場には出されません。
献上という最高の手札: 彼女たちは「スルタンへの最高の贈り物(貢ぎ物)」としてキープされ、特別仕様の船でイスタンブールのトプカピ宮殿へと厳重に護送されました。海賊にとっては、下手に市場で売るよりもスルタンに献上した方が、将来の軍事支援(大砲や船の提供)として何倍もの見返りになって戻ってきたからです。 -
2. なぜ「貴族の女性」が狙われたのか?
「貴族階級の女性が奴隷商人の手からハーレム送りになった例」は枚挙にいとまがありません。彼女たちはハーレム側にとっても、海賊にとっても「最高級のプラチナチケット」でした。
3.一方、タオルミーナやシチリア沿岸で、海賊によって美女とともに拉致された「容姿端麗で、頭脳明晰なキリスト教徒の少年」たちは、トプカピ宮殿の最も深い場所(内廷・エンデリュン)へと送られました。
*スルタンの超エリート側近(小姓)へ:彼らは宮殿内の「小姓学校」に入れられ、イスラム教への改宗とともに、科学、文学、乗馬、軍事、そして高度な宮廷マナーを叩き込まれました。彼らはスルタン個人に絶対の忠誠を誓う「奴隷」です。しかし、家柄や派閥を持たないからこそ、スルタンから最も信頼され、成人すると帝国の最高権力者(大宰相/宰相)や高級官僚へと出世していきました。かつてイタリアや地中海でさらわれた少年が、大人になったらオスマン帝国の政治を動かすトップに君臨していた……というのは歴史の皮肉以外の何ものでもありません。 -
イゾラ・ベッラ自然保護区。引き潮で島への歩道が見えます。
エメラルドグリーンの浅瀬の奥に、岩肌と一体化した不思議な石造りのヴィラと、ポッカリと口を開けた「トンネル(アーチ状の構造)」が見えています。このトンネルはかつてこの島をプライベートリゾートとして所有していた、大富豪ボスルジ(Bosurgi)家が1950年代に造った「秘密のボート専用ガレージ(および邸宅への隠しエントランス)」です。この風光明媚な景観を損なわないよう、岩場にカモフラージュして造られたヴィラは自然に擬態する「バイオ・アーキテクチャー」と呼ばれています。
外から見えないヴィラ: 当時、島は景観保護のために「新しい建物を建ててはならない」という厳しいルールがありました。そこで彼らは、もともとあった岩の割れ目や洞窟を利用し、自然の岩肌に完全に擬態(カモフラージュ)させた12棟もの小部屋やパビリオンを文字通り「岩の中に埋め込む」ように造り上げました。 -
007映画のようなボートガレージ: 画像に見えるトンネルは、海から直接ボートで敷地内へと滑り込める専用の格納庫でした。ボートを降りると、そのまま岩をくり抜いた秘密の地下室やゲストルームへと繋がっていて、タキシードを着たJ.ボンドが今にも登場しそうな雰囲気です。当時はここで世界中の銀行家や大物実業家、セレブたちを招待して、夜な夜な外からは見えない秘密のパーティーが開かれていました。
しかし、そんな映画のような楽園も長くは続きませんでした。1980年代、ボスルジ家が経営していた会社(シチリアの柑橘類加工で富を築いた歴史的な大企業)が大破産してしまいます。
競売と放置: 財産を差し押さえられたイゾラ・ベッラは競売にかけられますが、あまりに個性的で維持費がかかるため、長い間誰も買い手がつきませんでした。
ゴースト・アイランドから地域自然博物館への変身: このトンネルやヴィラは、地元の人々や漁師たちが時折出入りするだけの、静かで不気味な「幽霊島」としてしばらく放置されていました。が、1990年にようやくシチリア州が買い取り、現在は「地域自然博物館(Museo Naturalistico Regionale)」として一般公開されるようになりました。 -
*この建物が景観保護法、「新しい建物を建ててはならない」に引っかからなかった理由、屁理屈
この法が禁止していたのは、主に「外から見える新しいコンクリートの建物を地上にドカンと建てること」でした。そこでボスルジ家が雇った天才建築家たちは、「外側に新しい壁なんか建ててないよ。もともとある岩をくり抜いて、中を部屋にする。外から見たらただの岩肌なんだから、景観は1ミリも壊してないはずっしょ?(=新しい建物ではない)」というウルトラCの屁理屈(バイオ・アーキテクチャーという名目)をひねり出しました。
それだけではありません。余計なことを言わせないためにたっぷりの小遣いがお役人に行きわたっていました。
この時代、シチリアを含めたイタリア南部は、政治家・大富豪・そしてマフィアの利権が複雑に絡み合い、都市開発のルールがカネでいくらでも書き換えられた「暗黒の乱開発時代」でした。お役所の役人にたっぷり「お小遣い(賄賂)」を握らせて書類に判コを押させれば、どんな奇妙な建築許可も翌日にはパスしました。 -
リストランテ イル プリンチペ、バール エ パスティッチェリア(Ristorante Il Principe, Bar e Pasticceria)
バス、タクシースタンドが集まっている広場にあるバーです。カプチーノで休憩。 -
ケーブルカー下部駅(ビーチ・海岸):マッツァロ湾エリアのSS114号線沿いに位置し、マッツァロ・ビーチのすぐそば、イゾラ・ベッラへは徒歩圏内です。ここでケーブルカーのチケットを買います。
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ちょうど下りのケーブルカーが到着したようです。乗客がでてきます。
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ケーブルカーのチケット6ユーロ。
チケットの写真を撮っていると気のよさそうなオジサン係員ががやってきて、’乗るの?ケーブルカーが出るよ?’と教えにきてくれるのです。まさに手作りの親切! -
誰かの旅行記に’まだドアが完全に閉まってないのに、ケーブルカーが動き出して大慌て’とあったのですが、本当にそうでした。’スリル感、ばっちり。
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上部駅に到着です。乗車時間は5分程度だった思います。
*上部駅(市街地):ルイージ・ピランデッロ通り(Via Luigi Pirandello)沿い、ポルタ・メッシーナから徒歩約10分、タオルミーナの主要バスターミナルの隣に位置しています。 -
’古代劇場、メッシーナ門、カターニア門こっちだよ’’。。の標識。
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ベルベデーレ展望台(Belvedere di Via Pirandello)。ピランデッロ通り。長距離バスのターミナルから数百メートル坂を下ったところにあります。
ここは中世の頃、サンアンドレア岬の監視塔からのシグナルを後方のタオルミーナの街へリレーする重要な拠点の一つでした。
*第一発見(海沿いの岬):海賊(サラセン人やオスマン帝国の私掠船)が接近すると、海に突き出たサンアンドレア岬の監視塔が最も早く敵船を発見します。
*のろし・合図のリレー(中継地点):岬の兵士たちは即座に昼は煙(のろし)、夜は火を焚く、あるいは大砲や鐘の音で、すぐ上方の崖の上へと合図を送りました。この合図をダイレクトに受信して街へと中継する重要な高台(要塞拠点)の一つが、現在のベルベデーレ展望台がある場所だったのです。
*街全体の防衛(要塞化された山頂へ):展望台周辺の拠点からさらに情報が送られ、さらに上方の「マウロ山頂の城(Castello di Monte Tauro)」や、街の中心部にある「時計の塔(中世の防衛壁の一部)」へと瞬時に危機が伝達されました。これにより、住民は門を閉めて籠城するか、山の上へと避難することができました。 -
ベルベデーレ展望台(Belvedere di Via Pirandello)の案内版
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ベッラ湾(Baia di Isola Bella)
ベルベデーレ展望台(Belvedere di Via Pirandello)から。
1998年から自然保護区に指定されているイゾラ・ベッラ。その北側に見えるのはサンアンドレア岬(カポ・サンアンドレアCapo Sant'Andrea )です。 -
サンアンドレア岬(カポ・サンアンドレアCapo Sant'Andrea )
イソラ・ベッラ(Isola Bella)」のすぐ北隣に突き出ている岬です。古代から中世のにかけて非常に大事な防衛拠点でした。
理由:
*360度の圧倒的なパノラマ=抜群の視野を提供する立地:このサンアンドレア岬のてっぺんからは、北側のメッシーナ方面(イタリア本土側)の海も、南側のイソラ・ベッラ湾も、すべてが一望できます。海賊船がどの角度から近づいてきても、数km先からそれらを肉眼で捉えらることが出来ました。なので古代から中世にかけて、海賊の接近をいち早く察知してタオルミーナの町に知らせるための狼煙(のろし)台や石造りの見張り塔(Torre)が置かれていました。 -
*「タオルミーナの街」への伝達方法:ここからなら、背後の崖の上にあるタオルミーナの街(標高約200m)へ、狼煙(のろし)や鏡の反射ですぐに「敵襲!」のサインを送ることができます。街の住民が避難する貴重な時間を稼ぐための、まさに生命線として機能していました。
天然の要塞:画像を見てもわかる通り、岬の周りは切り立った崖に囲まれています。海賊側から見れば、海から直接このてっぺんに攻め上るのは不可能でしたが、逆に防衛する側にとっては非常に守りやすい理想的な陣地でした。
尾根の真ん中をジグザグ(スイッチバック)しながら降りていく白い筋ー>見張り塔への物資の運び込みや、兵士の移動に使われていたルートの名残りです。
岬の頂上に見えている白っぽい四角い(コンクリート構造に見える)建物は比較的近代(20世紀の戦時中など)に軍事的な観測所・沿岸監視所として使われていたとされています。 -
ビザンチン墓地(Byzantine Tombs)の案内版:ピランデッロ通りのベルベデーレ展望台から西へ数百mのところにあります。
アラブのネクロポリスまたはサラセン人墓地ともよばれています。
1.なぜこのロケーション?
古代ローマからビザンツ時代(さらにはその後のアラブ支配期)にかけての法律や衛生観念には、「死者を街の境界線(城壁)の内側に埋葬しちゃダメ!」というガチガチの厳格ルール(忌み地・衛生上の理由)がありました。
このピランデッロ通りのエリアは、当時のタオルミーナの北側の城壁(現在のメッシーナ門あたり)のすぐ外側。つまり、墓地(ネクロポリス=ギリシャ語で「死者の街」)をブチ建てるには、これ以上ないベストポジションだったという訳です。 -
2.どうしてビザンチンとアラブの墓地が(混載トレーラーみたいに)同居してる?
西暦902年、イスラム勢力のアグラブ朝の軍勢がタオルミーナを猛攻撃し、ビザンツ帝国のシチリア最後の拠点を陥落させました。この時、街は一度トコトン破壊され、住民のキリスト教徒たちは拉致(当時の定番、リアルな身代金ビジネスです)されるか、命からがら敗走。
つまり、一時的に「キリスト教徒の顧客」がゼロになり、空いたスペースに「新しいオーナー(アラブ人)」がやってきて、あの敷地をそのまま自分たちの墓地として居抜きで使い始めた(時代による境界線の書き換え)というエグい背景があります。
3.ビザンツ・アラブ共通の基本仕様
これらの四角やアーチの穴は、決して一時しのぎの「仮の宿」じゃありません。布で包んだ(あるいは木箱に入れた)大人の遺体をそのままのサイズでパッキングするための、正真正銘の「ファイナル・デスティネーション(最終埋葬場所)」でした。
「世界の終わり」が来て神様が世界を再起動するその日まで、遺体をそのままフリーズさせておく永久的なカプセルホテルとして設計・運用されていたのです。
4.土葬のルール:キリスト教やイスラム教の社会では、かつてのローマ式火葬を嫌い、「世界の終わりの再起動=最後の審判」に備えて肉体を保存すべく、土葬を厳格に義務付けていました。(‘復活の時、肉体がないと困るじゃん’という教会の指導者やモスクのイマームの教えに従って)。しかし、向きを示すベクトル(境界線)は、きっちりと両者間に引かれていました。「キリスト教徒のベクトル(東向き)と、アラブ人のベクトル(メッカ向き)は絶対に混ざってはならない。同じ岩壁であっても、レーンと角度(パース)は厳格にセパレートすること」と、それぞれの戒律や規定で明文化されていたのです。ビザンツ層:頭を西、足を東に配置。復活して起き上がった瞬間に、東方から再臨するキリスト(これこそがオリエンテーションの語源である『東を向く』こと)を正面から迎えるため、その方向を向く姿勢をとる。アラブ層:体を横向き(右脇を下)にし、顔を聖地メッカの座標へと正確に合わせて配置する。 -
5.奇跡の永久ストレージ > ミイラ化を促す「天然のドライ・チェンバー」
硬い岩をくり抜き遺体を奥に安置した後、穴の手前を石板やレンガ、漆喰(石灰)でガッチリと塞ぎ、密閉。そこは土の水分や微生物から完全に遮断された、いわば「天然のドライ・チェンバー(乾燥室)」。これが中世の人々の必勝パターンでした。ここでは遺体がドロドロに腐敗して消えるのではなく、水分が綺麗に抜けてカサカサの「ミイラ(自然乾燥体)」のような状態で、何百年も形を留めることになります。
中世のビザンツ人やアラブ人からすれば、’最後の審判の日’’に、魂と永久保存されていたちょっと乾燥気味の肉体がめでたくジョイントする訳ですから、これ以上ない「大成功のパッキング(爆勝ち)」だったのです。 -
岩壁にボコボコと開いた怪しい穴は、「ロクリ(loculi)」と呼ばれる墓穴です。
6.「正方形(理想)から不規則なアーチ(現実・妥協)への転換」
中世ビザンツ帝国の墓地設計部門が描き出した、理想の墓穴の仕様書規格は「縦2m × 横0.8m × 奥行0.8m」。限られた山の斜面を無駄なく使い切るために、すべてのユーザー(遺体)をこの規格化された「ハチの巣型アパート」へと整然とパッキングしていく計画でした。
ところが現場は途中で、とんでもないバグに衝突します。それが、タオルミーナの険しい「山容(地形・bedrockの凹凸)」でした。
平らな岩壁が終わり、脆くて歪な天然の崖に突き当たった時、設計部門の「正方形の仕様書」は全く用をなさなくなりました。脆く不安定な崖っぷちに四角い穴を強引に掘り進めれば、天井に負荷が集中して自重でクラッシュ(崩落)してしまいます。
そこで現場監督は、理想の仕様書を現地のリアルな状況に合わせて調整する、いわば「墓穴のローカライズ(現地最適化)」を余儀なくされました。
結果、彼らが選んだ生存戦略は、力学的に最も自立しやすい「アーチ型」でした。ローマ人がすぐ近くのローマンオデオンや古代劇場に導入した、あの荷重分散テクノロジー(上からの重みを左右の脚へ逃がす完璧な力学システム)の応用です。
現代の私たちが目撃しているあの歪な曲線は、意図的に奇をてらったデザインではなく、過酷な地形や地質にコミットする中で生まれた「現場の執念の最適解」だったのです。 -
7.消えたフタと、墓泥棒たちの狂宴( looting )
さて、ここで誰もがひとつの「バグ」に気づくはずです。
最後の審判まで絶対密閉のはずだったカプセルホテルが、いま私たちの目の前で「ただの空っぽの穴」としてロードサイドにぽっかり口を開けている。
あの頑丈な石板や漆喰のフタは、一体どこへ消えたのか?
犯人は、何世紀にもわたってこの地に暗躍したガチの墓泥棒(トームレイダー)たちです。肉体の復活を信じる死者たちが、あの世へのお小遣いとして身につけていた金目の貴金属やコイン。それを嗅ぎつけた泥棒たちが物理的にフタをぶち破り、中身をトコトン略奪し尽くしたのです。
8.19世紀、行政によるトドメの一撃
さらにこのネクロポリスには、歴史の荒波以上の「現実的な悲劇」が襲いかかります。それが19世紀末の道路拡張工事。
現代の観光道路(ピランデッロ通り)を整備する際、当時の役人たちは「あ、この古い壁ちょっと邪魔だから削っちゃって」と、あろうことか墓地の大部分をガリガリと破壊してしまいました。
墓泥棒に内側を荒らされ、ブルドーザーに外側を削り取られた結果、死者たちのプライベート空間は「ロードサイドから中身丸見えのハチの巣」という、なんともシュールな姿で現代に取り残されることになったわけです。
9.奇跡の「生き残りお宝」はどこへ?
じゃあ、中身は100%全滅だったのかというと、実は奇跡がありました。
1990年代の本格的な考古学調査の際、泥棒たちの目をすり抜けて生き残っていた本物のビザンツ・ゴールド(貴重な金製品やコイン)がいくつか出土したのです。
それらの「爆勝ちの遺産」は、さすがにこの吹きさらしの道路脇に放置されるわけもなく、現在はシラクーサの博物館、=パオロ・オルシ博物館(貨幣・メダルコレクション)へと厳重に移送され、VIP待遇で保管されています。
つまり、いま私たちがここで目にしているのは、歴史のロマンと、墓泥棒の略奪と、近代の強引なインフラ開発の三つが絡まり合った末に残った「究極の歴史の抜け殻」なのです。 -
タオルミーナのバスターミナル。ここにタクシー乗り場があるのでホテルまでタクシーで帰ります。今夜、ICN1960でナポリに移動するので荷物のパッキングをしなければなりません。
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お部屋のベランダから。。。ナクソス湾の南側突端に見えるのはスキソ岬。そしてバックにエトナ山。ちょっとばかり、広重「冨士三十六景 駿河三保之松原」的な構図です・
別名、「シチリア富士」とも呼ばれるエトナ山!宇宙飛行士の野口聡一さんが国際宇宙ステーションからこの山を撮影した際に、X(旧Twitter)で「富士山?って言いたくなりますが」と投稿して話題になりました。
*このホテル(ホテルエリオス)はタオルミーナの市街地や公共庭園(ヴィッラ・コミューナーレ)のすぐ近くにあり、ここのベランダまさに「高台から海とエトナ山を一望できる特等席なのです。 -
フシギな雲がバルコニーの上にやってきました。でも数10分のうちに雲を霞と消え去りましたが。。
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エトナ山の周りがオレンジ色に輝いてきてブルーアワーが近づいてきます。実は、明治時代に(約100年前)ヨーロッパを旅した日本の文豪・徳冨蘆花(とくとみ ろか)もシチリアを訪れており、エトナ山を見て「まさしくこれは我が富士山だ!」と大感激した記録を日記(『順礼紀行』)に残しています。
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ブルーアワー、いやラベンダーアワーかな?
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スキソ岬のあたりに明かりが灯り、素敵なブルーアワーの光景が広がります。
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フロントのルチアに、ここを10:50pm発でタクシーの手配を頼みました。その間、時間があるので、2階のバルコニーを独り占めして、ラフマニノフをききながらナポリの予習をします。
再び長靴の国へーハプニングで始まったシチリア・南イタリア10日間④:タオルミーナ(メッシーナ海峡を列車丸ごと船で渡る)に続く。
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