沖縄旅行記(ブログ) 一覧に戻る
現在の那覇市おもろまち周辺はタワーマンションや大型ショッピングセンターなどの建物が並ぶ繁華街となっていますが、81年前は日本軍司令部のある首里を守る防衛ラインであり、沖縄戦一の激戦地だったと言われる丘がありました。

81年前、新都心は激戦地だった。

11いいね!

2026/08/13 - 2026/08/15

49813位(同エリア50675件中)

chemire

chemireさん

現在の那覇市おもろまち周辺はタワーマンションや大型ショッピングセンターなどの建物が並ぶ繁華街となっていますが、81年前は日本軍司令部のある首里を守る防衛ラインであり、沖縄戦一の激戦地だったと言われる丘がありました。

  • 偶然に見た映画(BS)がきっかけで、戦跡を訪ねることにしました。<br /><br />映画は、本島南部に散った少女たちの悲劇を取り上げていましたが、祈念館や資料館は何度か訪れたことがあるので、今回は新都心を中心に歩いてみます。

    偶然に見た映画(BS)がきっかけで、戦跡を訪ねることにしました。

    映画は、本島南部に散った少女たちの悲劇を取り上げていましたが、祈念館や資料館は何度か訪れたことがあるので、今回は新都心を中心に歩いてみます。

  • 1. 慶良間チージ/シュガーローフ<br />2. 大道森/ハーフムーンヒル<br />3. 馬蹄形反斜面陣地/ホースシュー<br />4. 女師・一高女跡地

    1. 慶良間チージ/シュガーローフ
    2. 大道森/ハーフムーンヒル
    3. 馬蹄形反斜面陣地/ホースシュー
    4. 女師・一高女跡地

  • 再開発で削られた慶良間チージ/シュガーローフの丘<br /><br />現在のおもろまち周辺の丘は、嘉数高地(宜野湾市/嘉数の戦いが行われた激戦地)や前田高地(浦添市/映画「ハクソー・リッジ」の舞台となった激戦の場所)同様に、日本軍司令部のある首里を守る防衛ラインでした。<br />戦後、この地は米軍に接収され住宅地などになりましたが、1987年(昭和62)に全面返還された後の再開発により、ホテルやタワーマンション、大型ショッピングセンターなどが建ち並ぶ激戦地だったとは思えない景色に姿を変えています。<br /><br />1987年とサラっと書いてしまったけど、1972年(昭和47)に沖縄が日本に返還されてからも昭和が終わる頃まで、このあたりがアメリカのものだったなんて衝撃的でした。知らないことが多過ぎ。勉強不足を反省してます。

    再開発で削られた慶良間チージ/シュガーローフの丘

    現在のおもろまち周辺の丘は、嘉数高地(宜野湾市/嘉数の戦いが行われた激戦地)や前田高地(浦添市/映画「ハクソー・リッジ」の舞台となった激戦の場所)同様に、日本軍司令部のある首里を守る防衛ラインでした。
    戦後、この地は米軍に接収され住宅地などになりましたが、1987年(昭和62)に全面返還された後の再開発により、ホテルやタワーマンション、大型ショッピングセンターなどが建ち並ぶ激戦地だったとは思えない景色に姿を変えています。

    1987年とサラっと書いてしまったけど、1972年(昭和47)に沖縄が日本に返還されてからも昭和が終わる頃まで、このあたりがアメリカのものだったなんて衝撃的でした。知らないことが多過ぎ。勉強不足を反省してます。

  • 那覇中環状線に面した階段を上ると、

    那覇中環状線に面した階段を上ると、

  • 頂上にはフェンスで囲まれた沖縄水道局の巨大な配水タンクがあって、周辺は公園化されていました。<br />展望台に向かおうとした時、倒れかかっていた塔婆に気付き直した方がいいのかなと思ったけど、怖くて触れませんでした。

    頂上にはフェンスで囲まれた沖縄水道局の巨大な配水タンクがあって、周辺は公園化されていました。
    展望台に向かおうとした時、倒れかかっていた塔婆に気付き直した方がいいのかなと思ったけど、怖くて触れませんでした。

  • 戦争当時、この丘を日本軍は「安里52高地」、米軍は「シュガーローフ」と呼んでいました。<br />地元では、慶良間諸島が見える丘ということで「慶良間チージ」と呼んでいたそうです(チージは丘や頂上の方言。今はビルが建ち慶良間諸島は見えません)。

    戦争当時、この丘を日本軍は「安里52高地」、米軍は「シュガーローフ」と呼んでいました。
    地元では、慶良間諸島が見える丘ということで「慶良間チージ」と呼んでいたそうです(チージは丘や頂上の方言。今はビルが建ち慶良間諸島は見えません)。

  • 1945年5月12日から始まったシュガーローフの戦い。<br />米軍は、首里西側から那覇方面に進出し、更に日本軍司令部がある首里を後方から侵攻する戦略を立てました。その進路途中にあるのが、シュガーローフとハーフムーンヒルの2つの丘と、その南側の斜面であるホースシューで、日本軍はそれら3つの場所を一体化した防衛陣地を築き、約5,000名を配備。地下は無数のトンネルで結ばれ、物資や人員の補給など、互いに補いながら米軍を迎え撃つ強固な要塞となっていました。<br /><br />米軍がシュガーローフを占領しても、日本軍が地下壕で結んだ3つの高地を夜になると兵力を補充して陣地を立て直すため、昼間に占領したはずの丘が夜には奪い返されることが繰り返され、わずか1週間で11回も占領主が入れ替わっています。<br />それでも圧倒的に兵員・物量が勝る米軍は、シュガーローフヒル一帯を占領。那覇侵攻により、首里攻撃が有利に進められ陥落も間近に迫る中、日本軍司令部は首里から南部に撤退することを決断したため、すでに多くの一般住民や避難民がいた南部地域は、軍民が狭い地域に混在する凄惨な戦場と化してしまいました。

    1945年5月12日から始まったシュガーローフの戦い。
    米軍は、首里西側から那覇方面に進出し、更に日本軍司令部がある首里を後方から侵攻する戦略を立てました。その進路途中にあるのが、シュガーローフとハーフムーンヒルの2つの丘と、その南側の斜面であるホースシューで、日本軍はそれら3つの場所を一体化した防衛陣地を築き、約5,000名を配備。地下は無数のトンネルで結ばれ、物資や人員の補給など、互いに補いながら米軍を迎え撃つ強固な要塞となっていました。

    米軍がシュガーローフを占領しても、日本軍が地下壕で結んだ3つの高地を夜になると兵力を補充して陣地を立て直すため、昼間に占領したはずの丘が夜には奪い返されることが繰り返され、わずか1週間で11回も占領主が入れ替わっています。
    それでも圧倒的に兵員・物量が勝る米軍は、シュガーローフヒル一帯を占領。那覇侵攻により、首里攻撃が有利に進められ陥落も間近に迫る中、日本軍司令部は首里から南部に撤退することを決断したため、すでに多くの一般住民や避難民がいた南部地域は、軍民が狭い地域に混在する凄惨な戦場と化してしまいました。

  • シュガーローフの戦いで米軍は2662名の死傷者と1289名の戦闘疲労患者を出したそうですが、日本軍の損害は統計がなく米軍を上回る死傷者が出ていると思われます。

    シュガーローフの戦いで米軍は2662名の死傷者と1289名の戦闘疲労患者を出したそうですが、日本軍の損害は統計がなく米軍を上回る死傷者が出ていると思われます。

  • 展望台から見た貯水タンク。

    展望台から見た貯水タンク。

  • フェンスに沿って、タンクの周りを一周してみます。

    フェンスに沿って、タンクの周りを一周してみます。

  • 沖縄を守備した第32軍の司令部のあった首里方面。首里の司令部からも、安里高地(シュガーローフ)の戦闘の様子が見えるので、増援部隊を送ったり砲兵による援護射撃を行ったため激しい戦いとなりました。<br /><br />しばらく眺めていたら、ゆいレールが通過。81年前とは全く違う景色が広がっています。

    沖縄を守備した第32軍の司令部のあった首里方面。首里の司令部からも、安里高地(シュガーローフ)の戦闘の様子が見えるので、増援部隊を送ったり砲兵による援護射撃を行ったため激しい戦いとなりました。

    しばらく眺めていたら、ゆいレールが通過。81年前とは全く違う景色が広がっています。

  • 激戦地だった痕跡はなく、戦争を思い起こさせるものは最初に見たシュガーローフの戦いの説明板だけでした。

    激戦地だった痕跡はなく、戦争を思い起こさせるものは最初に見たシュガーローフの戦いの説明板だけでした。

  • 階段を下り、少し歩いてから振り返って見上げたシュガーローフ。奥が、ショッピングセンターや水道局がある新都心の中心部です。

    階段を下り、少し歩いてから振り返って見上げたシュガーローフ。奥が、ショッピングセンターや水道局がある新都心の中心部です。

  • シュガーローフから11~12分歩いて、反対斜面にあったハーフムーンヒルへ。<br />ハーフムーン自体は2010年頃に完全に切り崩され、今は道路になっています。その名残りとして、かつての丘の北端付近に真嘉比(まかび)南公園が整備され記念碑が設けられていました。

    シュガーローフから11~12分歩いて、反対斜面にあったハーフムーンヒルへ。
    ハーフムーン自体は2010年頃に完全に切り崩され、今は道路になっています。その名残りとして、かつての丘の北端付近に真嘉比(まかび)南公園が整備され記念碑が設けられていました。

  • 小山に設けられた階段を上った先にあった石碑には、

    小山に設けられた階段を上った先にあった石碑には、

  • 実際に現地から発掘された激しい銃撃による弾痕が残る石壁がそのまま組み込まれています。

    実際に現地から発掘された激しい銃撃による弾痕が残る石壁がそのまま組み込まれています。

  • 弾痕

    弾痕

  • 碑の下部には再開発の遺骨収集作業時に発見された薬莢や水筒などの遺品が展示されていますが、内側が結露していてよく見えませんでした。

    碑の下部には再開発の遺骨収集作業時に発見された薬莢や水筒などの遺品が展示されていますが、内側が結露していてよく見えませんでした。

  • ハーフムーンヒルから安里方面へ向かう途中にあった軍払い下げ品店。沖縄らしいというべきか。

    ハーフムーンヒルから安里方面へ向かう途中にあった軍払い下げ品店。沖縄らしいというべきか。

  • 安里八幡宮のあるこの一帯は、日本軍の反斜面陣地がありました。シュガーローフの南側に位置し丘とその斜面から続く窪地になっている所で、馬蹄形をしていたので米軍はホースシューと呼んでいましたが、沖縄での特別な名称はないようです。

    安里八幡宮のあるこの一帯は、日本軍の反斜面陣地がありました。シュガーローフの南側に位置し丘とその斜面から続く窪地になっている所で、馬蹄形をしていたので米軍はホースシューと呼んでいましたが、沖縄での特別な名称はないようです。

  • 安里八幡宮を参拝してから少し坂を下って戻り、はちまんむい公園へ。

    安里八幡宮を参拝してから少し坂を下って戻り、はちまんむい公園へ。

  • 階段を上った先にある広場からは、シュガーローフの目印となっている配水タンクの上部が見えました。<br />当時は、ここから迫撃砲や擲弾筒を発射し、丘の向こう側にいる米軍を攻撃。

    階段を上った先にある広場からは、シュガーローフの目印となっている配水タンクの上部が見えました。
    当時は、ここから迫撃砲や擲弾筒を発射し、丘の向こう側にいる米軍を攻撃。

  • 日本軍はホースシュー、シュガーローフ、ハーフムーンを互いに地下トンネルで結び、武器弾薬や兵員を移動させ徹底抗戦で米軍を苦しめました。<br /><br />3つの丘は、都市開発・再開発により大きく姿を変えていますが、戦争の記憶が消えてしまわないように、歴史を次世代に伝える取り組みが行われているそうです。

    日本軍はホースシュー、シュガーローフ、ハーフムーンを互いに地下トンネルで結び、武器弾薬や兵員を移動させ徹底抗戦で米軍を苦しめました。

    3つの丘は、都市開発・再開発により大きく姿を変えていますが、戦争の記憶が消えてしまわないように、歴史を次世代に伝える取り組みが行われているそうです。

  • 女師・一高女跡地<br />沖縄戦で「ひめゆり学徒隊」として動員された沖縄県立第一高等女学校と沖縄師範学校女子部の跡地。1916年(大正5)に両校が併置された際、校友会誌名が「おとひめ」と「白百合」を合わせた「ひめゆり」とされ、これが「ひめゆり学徒隊」の名称の由来となっています。

    女師・一高女跡地
    沖縄戦で「ひめゆり学徒隊」として動員された沖縄県立第一高等女学校と沖縄師範学校女子部の跡地。1916年(大正5)に両校が併置された際、校友会誌名が「おとひめ」と「白百合」を合わせた「ひめゆり」とされ、これが「ひめゆり学徒隊」の名称の由来となっています。

  • 対馬丸記念館<br />以前に訪れたことがあって、遺影を見るのがつらいから建物の外観だけ。

    対馬丸記念館
    以前に訪れたことがあって、遺影を見るのがつらいから建物の外観だけ。

  • 1944年(昭和19)8月22日。対馬丸は悪石島付近で撃沈され、学童約780人を含む約1,500人(乗船者約1,800人中)が犠牲となりましたが、軍の方針により箝口令が出され、実態が世間に広く知らされるまでに時間がかかってしまいました。

    1944年(昭和19)8月22日。対馬丸は悪石島付近で撃沈され、学童約780人を含む約1,500人(乗船者約1,800人中)が犠牲となりましたが、軍の方針により箝口令が出され、実態が世間に広く知らされるまでに時間がかかってしまいました。

  • 対馬丸犠牲者の慰霊碑「小桜の塔」

    対馬丸犠牲者の慰霊碑「小桜の塔」

  • 対馬丸記念館を調べた時、近くに開南鉄血勤皇隊・開南通信隊(開南中学校)があるとマップに表示されたので訪ねてみたら形跡はなく、

    対馬丸記念館を調べた時、近くに開南鉄血勤皇隊・開南通信隊(開南中学校)があるとマップに表示されたので訪ねてみたら形跡はなく、

  • 戦後、沖縄を統治した米国政府の出先機関「琉球列島米国民政府(USCAR)跡」の説明板がありました。<br />1950年12月に、米国軍政府から改組された米国民政府の拠点があった場所で、1953年には那覇市泉崎(現在の沖縄県庁地)へ移転。いまは中学校が建っています。<br /><br /><br />那覇の街なかの歩いて行ける所に、いろいろあった戦跡。これから新たな傷痕が作られることなく、平和が続きますように。<br />

    戦後、沖縄を統治した米国政府の出先機関「琉球列島米国民政府(USCAR)跡」の説明板がありました。
    1950年12月に、米国軍政府から改組された米国民政府の拠点があった場所で、1953年には那覇市泉崎(現在の沖縄県庁地)へ移転。いまは中学校が建っています。


    那覇の街なかの歩いて行ける所に、いろいろあった戦跡。これから新たな傷痕が作られることなく、平和が続きますように。

11いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

PAGE TOP