2026/07/02 - 2026/07/02
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放浪ラォレンさん
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この旅行記のスケジュール
2026/07/02
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ジンジャン イン(通化勝利路)
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車での移動
DiDiタクシーで15分程
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通化駅
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電車での移動
通化駅(出発 9:20) → 集安駅(到着 12:13) ※梅集線
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集安駅
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車での移動
DiDiタクシーで約10分程
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集安易居智慧酒店(集安大吉他主题广场集安政府店)
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車での移動
DiDiタクシーで20分程度
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車での移動
DiDiタクシーで25分間程度
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徒歩での移動
徒歩で20分弱の移動
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車での移動
DiDiタクシーで15分程
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高句麗遺址公園 高句丽遗址公园 18時頃に到着
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徒歩での移動
国内城の城壁跡から鴨緑江まで1時間半程散策し夕食を取る
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車での移動
DiDiタクシーで移動
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集安易居智慧酒店(集安大吉他主题广场集安政府店)
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この旅行記スケジュールを元に
日本の4世紀は、「倭の五王」以前の文献記録が極めて少なく謎に包まれていることから、『空白の4世紀』や『幻の4世紀』と呼ばれています。また、この時代に強力な政治権力(大和王権)が確立・拡大していったことから『ロマンの4世紀』とも呼ばれています。
その文字史料が極端に少ない空白期間の中で、高句麗の時代に建てられた好太王碑(広開土王碑)は、『幻の4世紀」』を解明する重要な資料です。
その石碑には、約1,800の文字(漢字)が刻まれ、4世紀末の倭国の軍事行動を始め、当時の東アジアの国際情勢を記録している東アジア最古の超一級文字史料になっています。
高句麗は、度重なる隋や唐の侵攻を退けた強大な国です。それ故、韓国の人々の思い入れも強く、「朱豪(チュモン)」や「淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)」を始め、高句麗を舞台にした韓国ドラマも多く制作されています。
また、高句麗から、或いは、高句麗の地域を通って古来より日本に来た渡来人も多く、ある意味、この地域は「日本人の故郷(源流)」とも言えるかもしれません。
今回は、このような高句麗の古都であった「集安」を4泊5日の(準)弾丸旅行で訪問し、「好太王碑」を始め、多くの史跡を巡ることを計画しました。但し、弾丸旅行ゆえに、日程のロスが許されない中、集安でのDiDiタクシーの普及度や、外国人が泊まれるホテル情報(少なくとも4か月前には予約できませんでした)等を収集するのに苦悩しました。
それにも増して、帰りの2日間は、大雨の影響による列車(集安駅~通化駅間)の運休、瀋陽国際空港での天候不順による3時間半の出発便遅延、仁川国際空港での急病人発生による乗り継ぎ便の遅延に見舞われました。
そのような状況下にも関わらず、無事、予定日に岡山に帰れたことは、私には奇跡的に思えることでした(良かったです!)。
今回の旅行の主な日程は次の通りです。訪問記は4回に分けて紹介し、今回は③の記事になります。
なお、細かい日程、訪問地は、一緒に載せているスケジュール表でご確認ください。1中国元は約24円 の為替レートでした。
① 1·2日目(新世界~仁川~瀋陽~通化)
・通天閣
・瀋陽桃仙国際空港
・瀋陽北駅
・通化駅
・瀋白高速鉄道(瀋陽~通化)
② 3日目前半(通化~集安)
・梅集線(通化駅~集安駅間)
・集安駅
・丸都山城
・山城下墓区
③ 3日目後半(集安市内)
・好太王碑(広開土王碑)、太王陵
・将軍塚(長寿王墓)、1号陪墳
・高句麗遺跡公園
・国内城
・鴨緑江
④4·5日目(集安~通化~瀋陽~仁川~関空)
・禹山貴族墓地
・鴨緑江国門景区
・鴨緑江国境鉄道大橋
・集安博物館
・西塔(瀋陽)
3日目の後半は、1000年以上の眠りから蘇り日本の「空白の4世紀」を解明するのに重要な手がかりである『好太王碑』、「東洋のピラミッド」と呼ばれ高度な巨石建築技術を用いた『長寿王陵』、400年以上も高句麗の都城であった『国内城』等をDiDiタクシーで効率良く訪問することができました。
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高句麗の古都「集安」の『丸都山城』を見学した後、DiDiタクシーに20分間程乗り、16時前に念願の「好太王碑(広開土王碑)」の入場門に到着しました。
好太王碑 史跡・遺跡
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丸都山城で購入した、この共通チケットで、同一日に「丸都山城」「好太王碑」「長寿王陵」の3箇所を訪問できます。
好太王碑 史跡・遺跡
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配置図で位置関係を説明すると、左下の現在地を表す赤いピンが入場口で、少し歩くと「好太王碑」があり、右上に好太王(広開土王)の陵墓(1辺が約66mの正方形で、高さは約15m)があります。陵墓までは歩いて約5分です。
好太王碑 史跡・遺跡
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今旅行のハイライトである好太王碑に到着しました! 私がこの石碑のことを知ってから40年以上は経過するでしょうか。
好太王碑 史跡・遺跡
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もう今では、歴史教科書で必ず紹介される石碑ですから、皆さんもよくご存知だと思います。近くに設置されていた、この解説文(日本語部分)を参照してみてください。
好太王碑 史跡・遺跡
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イチオシ
現在は、石碑はガラス張りの建物の中に保存・保護されています。
好太王碑 史跡・遺跡
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特殊ガラスの為に、中の石碑はよく見えません。
しかし、心配することなかれ!
この建物の中には入れます。但し、写真撮影は禁止です。 建物の中には監視人が一人おられ、絶えず注意深く目を光らせています。
この石碑に刻み込めれた文字(漢字)の状態だけは、実際に訪問してみないと想像つかないと思います。想像した以上に摩滅しており、注意深く眺めないと、文字とは判別できません。
しかし、この石碑が1500年以上前に刻まれ、密林の奥深くに埋もれていたにもかかわらず、この刻字が今も残っているのはまさに奇跡です。好太王碑 史跡・遺跡
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高句麗が668年に滅亡し、唐の時代には、好太王碑のことは人々の脳裏から、ほぼ忘れ去られていました。そして、1000年以上、樹木や雑草、蔓に覆われていました。
1877年に集安に県が置かれ入植が進んだことで、1880年代に開墾に伴い地元の農民によって発見(あるいは再認識)されました。
今、好太王碑の建物の回りには、多くのパネル写真が展示されていますが、1909年にはこのような状態だったようです。好太王碑 史跡・遺跡
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1935年には、このような建物の中で保存されていたようです。
好太王碑 史跡・遺跡
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1883年(明治16年)に、旧日本陸軍の将校であった酒匂景信(さこう かげのぶ)が現地で拓本を入手し、翌1884年に参謀本部へ持ち帰ったそうです。
19世紀末以降、拓本を採りやすくするために碑面に石灰を塗布・充填したことや、頻繁な採拓作業、長年の風化によって碑面が物理的に削れ、刻字の摩滅が進んでしまったそうです。
これは第1面の拓本写真です。好太王碑 史跡・遺跡
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この石碑には4面に文字が彫られています。このパネルは、先程の第1面に刻まれていた文字を解読したものです。
好太王碑 史跡・遺跡
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日本に関する記述で特に有名なのは、第1面の左から3行目にある以下の文言です(一部欠字・欠損あり)。
『倭以辛卯年来渡海破百残□□新羅以為臣民』(※□は判読できない文字)
この部分の解釈は昔から色々な説がありますが、日本の昔からのある説では、「倭が辛卯(391)年に海を渡って来襲し、百済・□□・新羅を破って臣民とした」と解釈する説です。
他に、碑文は高句麗の功績を誇るものなので、「高句麗が海を渡って倭を破った」または「高句麗の出兵理由を正当化するために倭の威勢を誇張して書いた」とする解釈もあるそうです。
私は専門家ではないので、このことについてはよく分かりません。好太王碑 史跡・遺跡
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先程の部分を表している拓本の写真パネルです。思った以上に、かなり鮮明に記載されています。
なお、比定するのは難しいですが、391年の日本は、応神天皇や仁徳天皇の時代だという説もあります。
好太王碑 史跡・遺跡
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それでは、歩いて「太王陵」に向かいます。
好太王碑 史跡・遺跡
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遠くに太王陵が見えます。形はかなり崩れている印象を受けます。
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途中に「太王陵」の日本語の解説板もありました。
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遺跡から「願太王陵安如山固如岳(太王陵が山や岳のように安泰で固くあることを願う)」と刻まれた煉瓦が大量に見つかったので、好太王のお墓とされています。
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イチオシ
高句麗のお墓は、石のみを積む形式から加工した石をピラミッド状に階段状へ積み上げる大型積石塚へ発展しました。
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それでは、階段を上って行きます。
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高句麗時代のお墓は、初期の石を積み上げる「積石塚」から、加工した石をピラミッド状に階段状へ積み上げる大型積石塚へと発展しました。
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大形の切石を精巧に積み上げた「横穴式石室」です。中に入ることはできませんが、高句麗時代の移行期のお墓を示しています。
この横穴式石室の様式が、この後、日本でも普及することになったのだと思います。 -
「好太王碑」から「長寿王陵」までは1.5kmの表示があったので、歩いて行きました。しかし、思ったより時間がかかり、後の方では早歩きしなくてはならなかったので、タクシーに拾うべきでした、、、
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長寿王陵の入場口に着いたのは、17時過ぎでした。もうあまり見学する時間はありません。急いで回ります!
将軍墳 史跡・遺跡
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長寿王陵の解説板がありました。しかし、ここは、中国語のみの説明文しかありませんでした。
長寿王は好太王(広開土王)の子(高句麗第20代国王)であり、先程の好太王碑を建てた王です。
この長寿王の墓は、正方形の基壇を持ち(一辺の長さは31.58メートル、高さは13.1メートル)で、壮大で威厳のある姿は、『東洋のピラミッド』として知られています。将軍墳 史跡・遺跡
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ひと目見て、そのスケールの大きさにはビックリでした! 今日、見た王陵の中では群を抜いて保存状態が良いです。というか、損傷が全く無く、これが1600年前のお墓とは思えません。
将軍墳 史跡・遺跡
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イチオシ
巨大な石板は、すべて22キロメートル離れた採石場から運ばれてきたものだそうです。
将軍墳 史跡・遺跡
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一体、どのようにして、これらの巨石を運び、そして加工したのか想像がつきません。「東洋のピラミッド」と呼んでも恥ずかしくない程、緻密で壮大です。
将軍墳 史跡・遺跡
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大きさを分かりやすくする為にクローズアップしてみました。
7世紀初めに作られた奈良県の「石舞台古墳」の巨石にも驚きましたが、このピラミッド?の各面を支える巨石は1枚あたり10トン以上の重さがあるそうです。
この巨石を扱う技術は、古墳時代に高句麗から渡来人により日本に持たされたものと思います。将軍墳 史跡・遺跡
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イチオシ
その隣には「陪塚」がありました。
陪塚とは、大きな古墳のまわりにつくられた、小型の古墳のことで、主墳に葬られた人の家族や、家臣のお墓と考えられています。将軍墳 史跡・遺跡
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拡大して写してみました。
支石墓(ドルメン)が階梯の上部に据えられたような独特の形状を呈している。将軍墳 史跡・遺跡
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「長寿井戸」という表示がありました。
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「長寿王」は、この井戸の水で毎日卵を茹でて体を鍛えたそうです。
長寿王(※西暦491年に死去)が97歳(または98歳)という異例の長生きをし、在位期間も79年間と非常に長かった史実に由来しているそうです。 -
私も、この井戸の水で作られた「ゆで卵」を食べてみたいものです。
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次に、DiDiタクシーで、市街にある「高句麗遺跡公園」に移動しました。時刻は既に18時を過ぎましたが、この地域は緯度が高いので、まだ明るいです。
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ここは、国内城遺跡の中央部に当たり、この平面図の緑色部分が公園です。
国内城は、高句麗が427年に平壌へ遷都するまで長きにわたり平時の拠点として使われた都城です(※戦時に使われたのが「丸都山城」です)。
城壁の外周は約2.7kmで、西側(地図の左側)に「通溝河」という名の川が流れ、南側(下側)をす流れる鴨緑江に合流しています。
西側のピンマークに当たるところが「西門跡」です。古代高句麗王国の首都と古墳群 史跡・遺跡
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「安武門」と呼ばれた西門が、1921年に修復された当時の写真だと思われます。
安武門の建物自体は現在残っておらず、城門の「跡地(遺構)」として整備されています。古代高句麗王国の首都と古墳群 史跡・遺跡
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内側から見る「通溝河」の堤です。
古代高句麗王国の首都と古墳群 史跡・遺跡
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反対側に下りると、このような石積構造の城壁が部分的に残っています。
古代高句麗王国の首都と古墳群 史跡・遺跡
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「通溝河」に橋が架かっています。
古代高句麗王国の首都と古墳群 史跡・遺跡
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イチオシ
この橋を過ぎると、一段と高い城壁になっています。幾層も規則正しく積み上げられ、内側には土や栗石を詰めて排水性と耐久性を高めているそうです。。
古代高句麗王国の首都と古墳群 史跡・遺跡
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西側と南側の城壁が合流している所です。
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併せて、ここは 「通溝河」と鴨緑江が合流する所です。川の向こう側には、北朝鮮の山々や集落が見えます。
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鴨緑江も下流の「丹東市」の辺りでは川幅が広いですが、中流の「集安市」付近ですと、日本の一級河川の下流部とそれ程川幅は変わらないように思えます。
集安鴨緑江国境旅游区 滝・河川・湖
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鴨緑江の石碑です。古来から一体、どれほど多くの民族がこの鴨緑江を渡って日本に来たのでしょう。
古くは楽浪郡(紀元前108年~西暦313年)を形成した「漢民族」。日本の「土井ヶ浜遺跡の渡来系弥生人」が集中する時期(紀元前数世紀~紀元前後)は、前漢が楽浪郡を設置した時代と重なります。
高句麗を建国した「朱豪(チュモン)」は「夫余国」の出身で、夫余を形成したのは主に「夫余族」。そして、一説には朱蒙の息子のひとりである「温祚(オンジョ)」が南へ渡り、紀元前18年に百済を建てたと伝えられています。そのため、高句麗と百済の王家はともに同系民族とされています。この両国から日本に渡来した人は数しれないと思います。
また、五胡十六国時代(4世紀~5世紀)の中国北部の混乱に伴い、モンゴル系の「鮮卑族」の一部やその文化的影響を受けた人々が朝鮮半島を経由して日本列島へ渡来したとする説も存在します。集安鴨緑江国境旅游区 滝・河川・湖
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近年の古代DNA(ゲノム)解析によって、従来の「縄文人と弥生人の2段階(二重構造モデル)」ではなく、古墳時代にも東アジア大陸から大量の渡来人が渡着して混血が進んだという「三重構造モデル」が提唱されています。
現代日本人の遺伝的背景には、この古墳時代にやってきた「第3の波」の影響が非常に強く残っているそうです。
ということは、舟(※この写真の舟は単なる遊覧船!)で鴨緑江を渡って来た人も多く含まれるということでしょう!集安鴨緑江国境旅游区 滝・河川・湖
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土手の広場では、何かの踊り(体操?)に没頭する集団がいました。
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鴨緑江の岸辺には屋台が沢山、出ていました。
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各種の串焼きがありますが、15元は約350円で、決して安くはないと思います。
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青島ビールはかなり高い値段でしたが、今日は1日で非常に効率の良い旅ができたので、ここで一人乾杯をしました。
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2026/07 高句麗の古都を訪問
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