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 日本の4世紀は、「倭の五王」以前の文献記録が極めて少なく謎に包まれていることから、『空白の4世紀』や『幻の4世紀』と呼ばれています。また、この時代に強力な政治権力(大和王権)が確立・拡大していったことから『ロマンの4世紀』とも呼ばれています。<br /><br /> その文字史料が極端に少ない空白期間の中で、高句麗の時代に建てられた好太王碑(広開土王碑)は、『幻の4世紀」』を解明する重要な資料です。<br /> その石碑には、約1,800の文字(漢字)が刻まれ、4世紀末の倭国の軍事行動を始め、当時の東アジアの国際情勢を記録している東アジア最古の超一級文字史料になっています。<br /><br /> 高句麗は、度重なる隋や唐の侵攻を退けた強大な国です。それ故、韓国の人々の思い入れも強く、「朱豪(チュモン)」や「淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)」を始め、高句麗を舞台にした韓国ドラマも多く制作されています。<br /> また、高句麗から、或いは、高句麗の地域を通って古来より日本に来た渡来人も多く、ある意味、この地域は「日本人の故郷(源流)」とも言えるかもしれません。<br /><br /> 今回は、このような高句麗の古都であった「集安」を4泊5日の(準)弾丸旅行で訪問し、「好太王碑」を始め、多くの史跡を巡ることを計画しました。但し、弾丸旅行ゆえに、日程のロスが許されない中、集安でのDiDiタクシーの普及度や、外国人が泊まれるホテル情報(少なくとも4か月前には予約できませんでした)等を収集するのに苦悩しました。<br /> それにも増して、帰りの2日間は、大雨の影響による列車(集安駅~通化駅間)の運休、瀋陽国際空港での天候不順による3時間半の出発便遅延、仁川国際空港での急病人発生による乗り継ぎ便の遅延に見舞われました。<br /> そのような状況下にも関わらず、無事、予定日に岡山に帰れたことは、私には奇跡的に思えることでした(良かったです!)。<br /><br /> 今回の旅行の主な日程は次の通りです。訪問記は4回に分けて紹介し、今回は②の記事になります。<br /> なお、細かい日程、訪問地は、一緒に載せているスケジュール表でご確認ください。1中国元は約24円 の為替レートでした。<br /><br />① 1·2日目(新世界~仁川~瀋陽~通化)<br /> ・通天閣<br /> ・瀋陽桃仙国際空港<br /> ・瀋陽北駅<br /> ・通化駅<br /> ・瀋白高速鉄道(瀋陽~通化)<br /><br />② 3日目前半(通化~集安)<br /> ・梅集線(通化駅~集安駅間)<br /> ・集安駅<br /> ・丸都山城<br /> ・山城下墓区<br /><br />③ 3日目後半(集安市内)<br /> ・好太王碑(広開土王碑)、太王陵<br /> ・将軍塚(長寿王墓)、1号陪墳<br /> ・高句麗遺跡公園<br /> ・国内城<br /> ・鴨緑江<br /><br />④4·5日目(集安~通化~瀋陽~仁川~関空)<br /> ・禹山貴族墓地<br /> ・鴨緑江国門景区<br /> ・鴨緑江国境鉄道大橋<br /> ・集安博物館<br /> ・西塔(瀋陽)<br /> <br /> 3日目は通化市からローカル鉄道に乗り、高句麗の古都「集安」に行きました。限られた時間で効率良く観光するには、DiDiタクシーの利用が私には不可欠でした。<br /> しかし、旅行前には、地方の小都市でのDiDiタクシーの普及度(拾い易さ)に関する情報は無かったので、かなり不安でした。しかし、それは杞憂でした! 市街地に限って言えば、直ぐにピックアップすることができました。<br /> それで、集安のホテルに着いてからは直ぐに、丸都山城、好太王碑(好太王碑)、将軍墳(長寿王陵)に向かいました。<br /> この記事では、前半に当たる丸都山城の訪問迄を紹介します。

2026/07 高句麗の古都「集安」の旅(4泊5日)② 3日目前半(梅集線·丸都山城·山城下墓区)

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2026/07/02 - 2026/07/02

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放浪ラォレン

放浪ラォレンさん

この旅行記のスケジュール

2026/07/02

  • DiDiタクシーで15分程

  • 通化駅(出発 9:20) → 集安駅(到着 12:13)  ※梅集線

  • DiDiタクシーで約10分程

  • DiDiタクシーで20分程度

  • DiDiタクシーで25分間程度

  • 徒歩で20分弱の移動

  • DiDiタクシーで15分程

  • 国内城の城壁跡から鴨緑江まで1時間半程散策し夕食を取る

  • DiDiタクシーで移動

この旅行記スケジュールを元に

 日本の4世紀は、「倭の五王」以前の文献記録が極めて少なく謎に包まれていることから、『空白の4世紀』や『幻の4世紀』と呼ばれています。また、この時代に強力な政治権力(大和王権)が確立・拡大していったことから『ロマンの4世紀』とも呼ばれています。

 その文字史料が極端に少ない空白期間の中で、高句麗の時代に建てられた好太王碑(広開土王碑)は、『幻の4世紀」』を解明する重要な資料です。
 その石碑には、約1,800の文字(漢字)が刻まれ、4世紀末の倭国の軍事行動を始め、当時の東アジアの国際情勢を記録している東アジア最古の超一級文字史料になっています。

 高句麗は、度重なる隋や唐の侵攻を退けた強大な国です。それ故、韓国の人々の思い入れも強く、「朱豪(チュモン)」や「淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)」を始め、高句麗を舞台にした韓国ドラマも多く制作されています。
 また、高句麗から、或いは、高句麗の地域を通って古来より日本に来た渡来人も多く、ある意味、この地域は「日本人の故郷(源流)」とも言えるかもしれません。

 今回は、このような高句麗の古都であった「集安」を4泊5日の(準)弾丸旅行で訪問し、「好太王碑」を始め、多くの史跡を巡ることを計画しました。但し、弾丸旅行ゆえに、日程のロスが許されない中、集安でのDiDiタクシーの普及度や、外国人が泊まれるホテル情報(少なくとも4か月前には予約できませんでした)等を収集するのに苦悩しました。
 それにも増して、帰りの2日間は、大雨の影響による列車(集安駅~通化駅間)の運休、瀋陽国際空港での天候不順による3時間半の出発便遅延、仁川国際空港での急病人発生による乗り継ぎ便の遅延に見舞われました。
 そのような状況下にも関わらず、無事、予定日に岡山に帰れたことは、私には奇跡的に思えることでした(良かったです!)。

 今回の旅行の主な日程は次の通りです。訪問記は4回に分けて紹介し、今回は②の記事になります。
 なお、細かい日程、訪問地は、一緒に載せているスケジュール表でご確認ください。1中国元は約24円 の為替レートでした。

① 1·2日目(新世界~仁川~瀋陽~通化)
 ・通天閣
 ・瀋陽桃仙国際空港
 ・瀋陽北駅
 ・通化駅
 ・瀋白高速鉄道(瀋陽~通化)

② 3日目前半(通化~集安)
 ・梅集線(通化駅~集安駅間)
 ・集安駅
 ・丸都山城
 ・山城下墓区

③ 3日目後半(集安市内)
 ・好太王碑(広開土王碑)、太王陵
 ・将軍塚(長寿王墓)、1号陪墳
 ・高句麗遺跡公園
 ・国内城
 ・鴨緑江

④4·5日目(集安~通化~瀋陽~仁川~関空)
 ・禹山貴族墓地
 ・鴨緑江国門景区
 ・鴨緑江国境鉄道大橋
 ・集安博物館
 ・西塔(瀋陽)
 
 3日目は通化市からローカル鉄道に乗り、高句麗の古都「集安」に行きました。限られた時間で効率良く観光するには、DiDiタクシーの利用が私には不可欠でした。
 しかし、旅行前には、地方の小都市でのDiDiタクシーの普及度(拾い易さ)に関する情報は無かったので、かなり不安でした。しかし、それは杞憂でした! 市街地に限って言えば、直ぐにピックアップすることができました。
 それで、集安のホテルに着いてからは直ぐに、丸都山城、好太王碑(好太王碑)、将軍墳(長寿王陵)に向かいました。
 この記事では、前半に当たる丸都山城の訪問迄を紹介します。

  •  昨晩は熟睡でき、朝6:30に起床しました。<br /> その後、食堂に行き、ビュッフェをいただきました。牛肉とかバナナが凄く高価だった少年時代を送った私にとっては、ビュッフェのメニューは今でも豪華に思えます。今でも私にとっては、「牛丼」は非常に魅力的で特別な憧れの食べ物です。<br /> ここのビュッフェは少し品数が少ないかもしれませんが、この朝食付きでホテル代が2800円は信じられない! 早期予約の割引があるにしても安いです。 <br /><br /> お得感があると思ったときは、私は食事も一段と美味しく感じます!

     昨晩は熟睡でき、朝6:30に起床しました。
     その後、食堂に行き、ビュッフェをいただきました。牛肉とかバナナが凄く高価だった少年時代を送った私にとっては、ビュッフェのメニューは今でも豪華に思えます。今でも私にとっては、「牛丼」は非常に魅力的で特別な憧れの食べ物です。
     ここのビュッフェは少し品数が少ないかもしれませんが、この朝食付きでホテル代が2800円は信じられない! 早期予約の割引があるにしても安いです。 

     お得感があると思ったときは、私は食事も一段と美味しく感じます!

  •  DiDiタクシーで新「通化駅」(昨年の9月に開業)に向かいます。この橋の南側が市街地で、通化駅は橋を渡って北側に7,8キロ離れた所にあります。

     DiDiタクシーで新「通化駅」(昨年の9月に開業)に向かいます。この橋の南側が市街地で、通化駅は橋を渡って北側に7,8キロ離れた所にあります。

  •  新しいモダンな駅舎は、大きく「通化站」と看板に表示されていました。

     新しいモダンな駅舎は、大きく「通化站」と看板に表示されていました。

  •  構内は広く、幾つかの待合所に分かれていました。

     構内は広く、幾つかの待合所に分かれていました。

  •  「集安」行きの列車は「1A」のプラットホームからの出発です。なお、通化~集安間の鉄道距離は約130キロで、1日に1便の折り返し運行しかありません。<br /><br />◎通化(出発 9:20)  → 集安(到着 12:13)<br /> 集安(出発 12:58)   → 通化(到着 15:49)<br /><br /> 以前は集安から鉄橋で鴨緑江を渡って北朝鮮へ向かう鉄道も接続されていました。 <br /><br /> 鴨緑江から離れ内陸へ進むにつれて標高が高くなるため、険しい地形を克服するための急勾配区間も存在しています。

     「集安」行きの列車は「1A」のプラットホームからの出発です。なお、通化~集安間の鉄道距離は約130キロで、1日に1便の折り返し運行しかありません。

    ◎通化(出発 9:20)  → 集安(到着 12:13)
     集安(出発 12:58) → 通化(到着 15:49)

     以前は集安から鉄橋で鴨緑江を渡って北朝鮮へ向かう鉄道も接続されていました。 

     鴨緑江から離れ内陸へ進むにつれて標高が高くなるため、険しい地形を克服するための急勾配区間も存在しています。

  •  プラットホームに降りると、長い客車2両連結のローカル列車が待っていました。<br /><br /> 昔、モータリゼーションが普及する前は、どこの国でも鉄道が陸上交通の主役でした。そして、ローカル列車には、各駅毎に色々な民族服を着た地元の住民(※例えば、1973年の韓国では、まだ、チマチョゴリが普段着として使われていました)が乗り降りしたり、現地語で談笑している姿、そして、大きな声で食べ物を売り歩いている人達等を見かけることが日常でした。<br /> 或いは、車窓からは、清らかな小川のほとりで牛がたたずみ、そのそばで裸で水遊びに興じる少年達の姿が見えました。このような場面に遭遇した時には、何とも言えない異国情緒を感じました。<br /><br /> 今ではそのような光景を目にすることは殆んどありません。しかし、それでもローカル路線では、旧市街は駅を中心に広がっている場合が多いので、それぞれの土地に漂っている生活の香りを感じます。<br /><br /> 私はそのような鉄道ローカル線に乗ることが楽しみで、今度の旅行の大きな目的の一つにもなっています。

     プラットホームに降りると、長い客車2両連結のローカル列車が待っていました。

     昔、モータリゼーションが普及する前は、どこの国でも鉄道が陸上交通の主役でした。そして、ローカル列車には、各駅毎に色々な民族服を着た地元の住民(※例えば、1973年の韓国では、まだ、チマチョゴリが普段着として使われていました)が乗り降りしたり、現地語で談笑している姿、そして、大きな声で食べ物を売り歩いている人達等を見かけることが日常でした。
     或いは、車窓からは、清らかな小川のほとりで牛がたたずみ、そのそばで裸で水遊びに興じる少年達の姿が見えました。このような場面に遭遇した時には、何とも言えない異国情緒を感じました。

     今ではそのような光景を目にすることは殆んどありません。しかし、それでもローカル路線では、旧市街は駅を中心に広がっている場合が多いので、それぞれの土地に漂っている生活の香りを感じます。

     私はそのような鉄道ローカル線に乗ることが楽しみで、今度の旅行の大きな目的の一つにもなっています。

  •  車内はご覧の通り、かなり豪華なテーブルを挟むボックス席になっています。これで「集安」までの運賃が500円とは、日本では考えられない安さです。<br /> 座席は予約席になっていますが、この日の乗客は一つの車両に僅か6,7人位しかいませんでした。車掌には、どの席に座っても構わないと言われました。 

     車内はご覧の通り、かなり豪華なテーブルを挟むボックス席になっています。これで「集安」までの運賃が500円とは、日本では考えられない安さです。
     座席は予約席になっていますが、この日の乗客は一つの車両に僅か6,7人位しかいませんでした。車掌には、どの席に座っても構わないと言われました。 

  •  通化駅を過ぎてしばらくは、このようななだらかな平野部が続きます。あたり一面はトウモロコシ畑が広がっています。<br /> この後、山間部に入ります。この列車が通った後に、天候が急変し山間部は豪雨になり線路に大きな被害が生じたようです。その為、後続の列車から運休になったことは、この時点では知る由もありませんでした。

     通化駅を過ぎてしばらくは、このようななだらかな平野部が続きます。あたり一面はトウモロコシ畑が広がっています。
     この後、山間部に入ります。この列車が通った後に、天候が急変し山間部は豪雨になり線路に大きな被害が生じたようです。その為、後続の列車から運休になったことは、この時点では知る由もありませんでした。

  •  駅は全部で13駅程ありましたが、駅舎は全てこのような個性のない同じような建物でした。昔、「満鉄」が管理していた時の木造駅舎は残っていませんでした。

     駅は全部で13駅程ありましたが、駅舎は全てこのような個性のない同じような建物でした。昔、「満鉄」が管理していた時の木造駅舎は残っていませんでした。

  •  中国名で「大罗圏河」という名前の川です。鴨緑江沿いの「集安市」ではなく、「通化市」に向かって流れています。

     中国名で「大罗圏河」という名前の川です。鴨緑江沿いの「集安市」ではなく、「通化市」に向かって流れています。

  •  次第に、なだらかな丘陵地に変わってきました。植えられているのは、やはりトウモロコシです。至るところに、広大なトウモロコシ畑はありますが、あまり民家を見かけることはありませんでした。

     次第に、なだらかな丘陵地に変わってきました。植えられているのは、やはりトウモロコシです。至るところに、広大なトウモロコシ畑はありますが、あまり民家を見かけることはありませんでした。

  •  長閑な風景を楽しみながら、コーヒー、菓子パン、ゆで卵を頂きます。これが、車内での、私のささやかな楽しみです!

     長閑な風景を楽しみながら、コーヒー、菓子パン、ゆで卵を頂きます。これが、車内での、私のささやかな楽しみです!

  •  川幅は狭くなり、水の流れが早くなりました。だんだん山奥に入って来ているのでしょう。

     川幅は狭くなり、水の流れが早くなりました。だんだん山奥に入って来ているのでしょう。

  •  この駅を過ぎた頃から、列車は険しい山岳地帯に入って行きます。<br /><br /> 少し歴史の話をしますと、高句麗は、紀元前1世紀頃から7世紀(668年)まで、中国東北部から朝鮮半島北部に跨がる広大な地域を支配した古代国家でした。<br /> 4世紀には、「鮮卑族」が中国の華北に建てた「前燕」という国と激しく戦闘を繰り返し、一時期は大敗して都(丸都城)を落とされたこともあります。しかし、険しい山岳地形が理由で「前燕」側も長期間の占領や維持が難しく、退却せざるを得ませんでした。<br /> そして4世紀後半の広開土王(好太王)の時代に最盛期を迎え、満州から朝鮮半島中部まで領土を拡大しています。

     この駅を過ぎた頃から、列車は険しい山岳地帯に入って行きます。

     少し歴史の話をしますと、高句麗は、紀元前1世紀頃から7世紀(668年)まで、中国東北部から朝鮮半島北部に跨がる広大な地域を支配した古代国家でした。
     4世紀には、「鮮卑族」が中国の華北に建てた「前燕」という国と激しく戦闘を繰り返し、一時期は大敗して都(丸都城)を落とされたこともあります。しかし、険しい山岳地形が理由で「前燕」側も長期間の占領や維持が難しく、退却せざるを得ませんでした。
     そして4世紀後半の広開土王(好太王)の時代に最盛期を迎え、満州から朝鮮半島中部まで領土を拡大しています。

  •  山岳地帯の一番険しい地域に入って来ました。<br />この険しい地形が、高句麗が滅亡を回避し長期的に国家を維持する非常に大きな役割を果たしてきたのでしょう。

     山岳地帯の一番険しい地域に入って来ました。
    この険しい地形が、高句麗が滅亡を回避し長期的に国家を維持する非常に大きな役割を果たしてきたのでしょう。

  •  今度は鴨緑江に流れ込む川が見えて来ました。分水嶺を越えたみたいです。

     今度は鴨緑江に流れ込む川が見えて来ました。分水嶺を越えたみたいです。

  •  集安市の最初の駅に到着しました。

     集安市の最初の駅に到着しました。

  •  遠くに開けた地域が見え始めました。

     遠くに開けた地域が見え始めました。

  •  高層ビル群が見え始めました。集安市は常住人口が15万人位の地方都市と聞いています。中国の雲南省の有名な観光地「麗江」のように、伝統的な家並みが広がる街を想像していましたが、それとはかなり違う感じです。<br /> この街が集安市ならば、後方に聳える山々は、鴨緑江を超えた、あの北朝鮮領にあるのですね!

     高層ビル群が見え始めました。集安市は常住人口が15万人位の地方都市と聞いています。中国の雲南省の有名な観光地「麗江」のように、伝統的な家並みが広がる街を想像していましたが、それとはかなり違う感じです。
     この街が集安市ならば、後方に聳える山々は、鴨緑江を超えた、あの北朝鮮領にあるのですね!

  •  新旧の建物が混在しているようです。この辺から線路は大きくカーブして鴨緑江と並んで進みます。

     新旧の建物が混在しているようです。この辺から線路は大きくカーブして鴨緑江と並んで進みます。

  •  近代的な「集安駅」に到着しました。とても一日に一本しか列車が来ない駅とは思えない佇まいです。とても不思議な感じがします。<br /> しかし、私の「集安」滞在時間は限られていますので、ただ、物思いにふけっている場合ではありません。<br /> 直ぐに、スマホ決済アプリ「アリペイ」の地域を集安市に設定し直し、DiDiタクシーを呼びます。直ぐに拾えましたので、このような地方の小都市でも、DiDiタクシーはかなり普及していることが分かりました。

     近代的な「集安駅」に到着しました。とても一日に一本しか列車が来ない駅とは思えない佇まいです。とても不思議な感じがします。
     しかし、私の「集安」滞在時間は限られていますので、ただ、物思いにふけっている場合ではありません。
     直ぐに、スマホ決済アプリ「アリペイ」の地域を集安市に設定し直し、DiDiタクシーを呼びます。直ぐに拾えましたので、このような地方の小都市でも、DiDiタクシーはかなり普及していることが分かりました。

  •  予約していた「集安易居智慧酒店(集安大吉他主题广场集安政府店)」には、タクシーで7,8分位で到着しました。<br /><br /> この集安市のホテル事情を前もって調べるには、ネット情報が殆んどなかったので、とても苦労しました。試行錯誤して、次の事が分かりました。<br /><br /> 先ず、「Trip.com」を何回も検索してみて初めて、集安市には外国籍の人が泊まれる指定ホテルは4軒しかヒットしないことが分かりました。それらのホテルも今年の2月の段階では予約を受け付けていませんでした(それで、集安市での宿泊はほぼ、諦めていました)。<br /> 3月か4月になって、この「集安易居智慧酒店」の一番高い部屋(15000円位だったと思います)だけが予約可能になったので即座に予約しました。それが5月を過ぎた頃から、4200円の今の部屋も予約可能になりましたので、再予約しました(中国の殆んどのホテルは直前までキャンセル料は無料)。<br />併せて、この頃から、他の3軒のホテルも予約可能になったと記憶しています。<br /><br />※余談ですが、弾丸旅行しかできない今の私には旅行日数が限られているので、集安市に泊まれなかった場合、次のような日程を考えていました。<br /><br />『通化市から朝一番のバス(バス便も極めて少なく、帰りの午後便はない)で120キロ離れた集安市に行き、そこでDiDiタクシーか地元のタクシーをチャーターして市内観光をして、その日にタクシーで通化市に戻る。(その場合、DiDiタクシーのチャーター料は12000円位だったと思います。他の案として、通化市で集安個人ツアーを手配すると35000円位だったと記憶しています)』<br /><br /> 但し、この案も私の中国語の力では、翻訳機を使っても実行は難しいと思っていました。しかし、この下調べがあったお陰で、翌日、列車出発時間間際に鉄道が不通になっていると分かった時にも、それ程、動揺せずに対応できたと思っています。幸運だったと思います。旅の神様に感謝!

     予約していた「集安易居智慧酒店(集安大吉他主题广场集安政府店)」には、タクシーで7,8分位で到着しました。

     この集安市のホテル事情を前もって調べるには、ネット情報が殆んどなかったので、とても苦労しました。試行錯誤して、次の事が分かりました。

     先ず、「Trip.com」を何回も検索してみて初めて、集安市には外国籍の人が泊まれる指定ホテルは4軒しかヒットしないことが分かりました。それらのホテルも今年の2月の段階では予約を受け付けていませんでした(それで、集安市での宿泊はほぼ、諦めていました)。
     3月か4月になって、この「集安易居智慧酒店」の一番高い部屋(15000円位だったと思います)だけが予約可能になったので即座に予約しました。それが5月を過ぎた頃から、4200円の今の部屋も予約可能になりましたので、再予約しました(中国の殆んどのホテルは直前までキャンセル料は無料)。
    併せて、この頃から、他の3軒のホテルも予約可能になったと記憶しています。

    ※余談ですが、弾丸旅行しかできない今の私には旅行日数が限られているので、集安市に泊まれなかった場合、次のような日程を考えていました。

    『通化市から朝一番のバス(バス便も極めて少なく、帰りの午後便はない)で120キロ離れた集安市に行き、そこでDiDiタクシーか地元のタクシーをチャーターして市内観光をして、その日にタクシーで通化市に戻る。(その場合、DiDiタクシーのチャーター料は12000円位だったと思います。他の案として、通化市で集安個人ツアーを手配すると35000円位だったと記憶しています)』

     但し、この案も私の中国語の力では、翻訳機を使っても実行は難しいと思っていました。しかし、この下調べがあったお陰で、翌日、列車出発時間間際に鉄道が不通になっていると分かった時にも、それ程、動揺せずに対応できたと思っています。幸運だったと思います。旅の神様に感謝!

  •  部屋はとても広く、自炊の設備も整っていました。<br />

     部屋はとても広く、自炊の設備も整っていました。

  •  大型のテレビも設置されています。

     大型のテレビも設置されています。

  •  浴室もゆったりしています。

     浴室もゆったりしています。

  •  先ず、地図を使って、集安市の位置や地形について説明いたします。<br /> 灰色に塗られた部分が集安の市街地です。宿泊ホテルはこの市街地の中心付近です。市街地の下側に流れている川が鴨緑江です。左手に鴨緑江に流れ込んでいる川が「通溝河」です。この川が鴨緑江と合流する地点前の市街地側の堤に沿って「国内城」の城壁跡があります。<br /><br /> 地図の左上部(通溝河上流)の緑色で塗られた部分が「丸都山城」、市街地の右側に小さく緑色で塗られた部分が「好太王碑(広開土王碑)」です。最後に地図の右上部に小さく緑色で塗られた部分が「長寿王陵(将軍墳)」です。

     先ず、地図を使って、集安市の位置や地形について説明いたします。
     灰色に塗られた部分が集安の市街地です。宿泊ホテルはこの市街地の中心付近です。市街地の下側に流れている川が鴨緑江です。左手に鴨緑江に流れ込んでいる川が「通溝河」です。この川が鴨緑江と合流する地点前の市街地側の堤に沿って「国内城」の城壁跡があります。

     地図の左上部(通溝河上流)の緑色で塗られた部分が「丸都山城」、市街地の右側に小さく緑色で塗られた部分が「好太王碑(広開土王碑)」です。最後に地図の右上部に小さく緑色で塗られた部分が「長寿王陵(将軍墳)」です。

  •  この地図は、イラストで集安の観光地を表しています。

     この地図は、イラストで集安の観光地を表しています。

  •  集安の代表的観光地である「長寿王陵」「好太王碑」「丸都山城」は入場料が30元ですが、3つをセットにした入場券を買うと70元で済みます。

     集安の代表的観光地である「長寿王陵」「好太王碑」「丸都山城」は入場料が30元ですが、3つをセットにした入場券を買うと70元で済みます。

  •  先ず、13時にホテルからDiDiタクシーで、丸都山城の入場門に向かいました。<br /> 丸都山城は戦争時の避難先として作られたものですが、高句麗存亡の時は、平城である「国内城」に替わり、臨時の都になりました。

     先ず、13時にホテルからDiDiタクシーで、丸都山城の入場門に向かいました。
     丸都山城は戦争時の避難先として作られたものですが、高句麗存亡の時は、平城である「国内城」に替わり、臨時の都になりました。

  •  坂道の多い園内には4人用電動カートがありました。

     坂道の多い園内には4人用電動カートがありました。

  •  また、貸し出し電動バイクもありました。

     また、貸し出し電動バイクもありました。

  •  入場口付近には5か国語(中国語·英語·韓国語·日本語·ロシア語)による丸都山城の解説板がありました。<br /> 丸都山城は、高句麗が平壌に遷都する前の、高句麗初期・中期の山城です。この山城は建造の際は地勢が十分に生かされ、城壁の周囲の長さは6947メートルだそうです。 

     入場口付近には5か国語(中国語·英語·韓国語·日本語·ロシア語)による丸都山城の解説板がありました。
     丸都山城は、高句麗が平壌に遷都する前の、高句麗初期・中期の山城です。この山城は建造の際は地勢が十分に生かされ、城壁の周囲の長さは6947メートルだそうです。 

  •  この配置図を参考に、丸都山城の遺跡の位置を簡単に説明します。見学もこの順番で行いました。<br /> 入場門の右側に、「山城下墓区」という高句麗の王族や貴族が埋葬されている古墳群があります。<br /><br /> 次に丸都山城を取り囲む城壁があり、その中央に「甕城 (おうじょう)」と呼ばれる半円形の城壁があります。そこが山城への南入場門になっています。<br /><br /> この南門を過ぎると、四角形の大きなマークで示されている「宮殿遺跡」に向けて、なだらかな坂道を上ることになります。途中には「見晴台」「蓮花池」「展望台」等があります。

     この配置図を参考に、丸都山城の遺跡の位置を簡単に説明します。見学もこの順番で行いました。
     入場門の右側に、「山城下墓区」という高句麗の王族や貴族が埋葬されている古墳群があります。

     次に丸都山城を取り囲む城壁があり、その中央に「甕城 (おうじょう)」と呼ばれる半円形の城壁があります。そこが山城への南入場門になっています。

     この南門を過ぎると、四角形の大きなマークで示されている「宮殿遺跡」に向けて、なだらかな坂道を上ることになります。途中には「見晴台」「蓮花池」「展望台」等があります。

  •  「山城下墓区」の古墳群の分布を表している看板です。

     「山城下墓区」の古墳群の分布を表している看板です。

  •  それでは、中国名では「高句麗古墓博物館」と書かれている「山城下墓区」の古墳群を見ていきます。

     それでは、中国名では「高句麗古墓博物館」と書かれている「山城下墓区」の古墳群を見ていきます。

  •  高句麗の伝統的な墓制である積石塚(石積みの墓)です。

     高句麗の伝統的な墓制である積石塚(石積みの墓)です。

  •  「積石塚」は、高句麗が平壌へ遷都する前の高句麗前期を代表する初期のお墓です。

     「積石塚」は、高句麗が平壌へ遷都する前の高句麗前期を代表する初期のお墓です。

  •  時間がないので見学しませんが、この道を進むと「家族墓列」があります。

     時間がないので見学しませんが、この道を進むと「家族墓列」があります。

  •  「家族墓列」には次のような解説板がありました。<br /> 連墓は高句麗特有の埋葬様式で、多数の墓が連なって構成されているそうです。そこ中で最古の墓が丘の頂上に、子孫の墓が下方に順に並んでいるそうです。

     「家族墓列」には次のような解説板がありました。
     連墓は高句麗特有の埋葬様式で、多数の墓が連なって構成されているそうです。そこ中で最古の墓が丘の頂上に、子孫の墓が下方に順に並んでいるそうです。

  •  ずっと幾つもの古墳群が遠くに続いていますが、高句麗古墳は、石塚古墳と土塚古墳の2種類に分類されるそうです。石塚古墳は、最も多くの出土品を擁する古墳群で、土墳墓は高句麗と周辺民族の文化融合によって生まれたものだそうです。 <br />

     ずっと幾つもの古墳群が遠くに続いていますが、高句麗古墳は、石塚古墳と土塚古墳の2種類に分類されるそうです。石塚古墳は、最も多くの出土品を擁する古墳群で、土墳墓は高句麗と周辺民族の文化融合によって生まれたものだそうです。 

  •  ここはまだ、発掘調査中です。

     ここはまだ、発掘調査中です。

  •  次に山城への入場口に移動しました。城壁と宮殿遺跡への道が交差する所です。

     次に山城への入場口に移動しました。城壁と宮殿遺跡への道が交差する所です。

  •  前に示した配置図より、城壁内がより大きく示されている配置図です。<br /> 下から順番に、「見晴台」「蓮花池」「成卒居住跡」「展望台」「宮殿遺跡」の見学スポットが示されています。

     前に示した配置図より、城壁内がより大きく示されている配置図です。
     下から順番に、「見晴台」「蓮花池」「成卒居住跡」「展望台」「宮殿遺跡」の見学スポットが示されています。

  •  城壁の前には高句麗の兵士像が並べられています。

     城壁の前には高句麗の兵士像が並べられています。

  •  高句麗の騎馬軍団の強さは有名でした。人馬ともに全身を鉄の甲冑で固めた重装騎兵(鉄騎)は高句麗軍の中核だったそうです。<br /> 4世紀頃、鮮卑(せんぴ)系の前燕との抗争などを通じて、人馬ともに鉄甲で固める重装騎兵の技術や戦術が伝わったと考えられています。<br /><br /> 「広開土王」の時代に、朝鮮半島で倭の軍団が高句麗によって敗走させられた(好太王碑の記述によれば)のも当然だと思います。その当時、倭の国(日本)には、騎馬軍団はまだ存在していなかったと思われます。<br /> しかし、これを機に、馬と馬具がさらに多く日本に伝来したと私は考えます。<br /><br />

     高句麗の騎馬軍団の強さは有名でした。人馬ともに全身を鉄の甲冑で固めた重装騎兵(鉄騎)は高句麗軍の中核だったそうです。
     4世紀頃、鮮卑(せんぴ)系の前燕との抗争などを通じて、人馬ともに鉄甲で固める重装騎兵の技術や戦術が伝わったと考えられています。

     「広開土王」の時代に、朝鮮半島で倭の軍団が高句麗によって敗走させられた(好太王碑の記述によれば)のも当然だと思います。その当時、倭の国(日本)には、騎馬軍団はまだ存在していなかったと思われます。
     しかし、これを機に、馬と馬具がさらに多く日本に伝来したと私は考えます。

  •  少し離れた所から城壁を写してみました。城壁には多くの登り旗(のぼりばた)が取り付けられています。

     少し離れた所から城壁を写してみました。城壁には多くの登り旗(のぼりばた)が取り付けられています。

  •  まだ全体の様子が分かりにくいので、もっと離れた所から撮影してみます。<br /> 城壁は山々の稜線や崖など、天然の急峻な地形を巧みに取り込んでいるのが分かります。

     まだ全体の様子が分かりにくいので、もっと離れた所から撮影してみます。
     城壁は山々の稜線や崖など、天然の急峻な地形を巧みに取り込んでいるのが分かります。

  •  その稜線に登ってみようと思いましたが、階段前には通行止めの表示がありました。残念です。

     その稜線に登ってみようと思いましたが、階段前には通行止めの表示がありました。残念です。

  •  この階段は百段はありそうです。この階段のように、加工石も多く使われているようです。

     この階段は百段はありそうです。この階段のように、加工石も多く使われているようです。

  •  近くで見る城壁跡です。

     近くで見る城壁跡です。

  •  このように、延々と城壁は続いていたのでしょう。

     このように、延々と城壁は続いていたのでしょう。

  •  ここにも階段がありました。

     ここにも階段がありました。

  •  今度は、案内板のこれらの遺跡を見るために、なだらかな坂道を上って行きます。

     今度は、案内板のこれらの遺跡を見るために、なだらかな坂道を上って行きます。

  •  先ずは「蓮花池遺跡」です。日本語で次のように紹介されていました。当時の人や馬のための貴重な水を確保する貯水池だったようです。

     先ずは「蓮花池遺跡」です。日本語で次のように紹介されていました。当時の人や馬のための貴重な水を確保する貯水池だったようです。

  •  これが現在の蓮花池遺跡の姿ですが、解説文がないと往時の姿は想像できませんね。

     これが現在の蓮花池遺跡の姿ですが、解説文がないと往時の姿は想像できませんね。

  •  次に、「成卒居住地遺跡」の解説文です。<br /> この遺跡はもともと展望台を守る成卒の駐屯地で、南北の長さ約16メートル、東西の幅約9メートルの敷地だったようです。

     次に、「成卒居住地遺跡」の解説文です。
     この遺跡はもともと展望台を守る成卒の駐屯地で、南北の長さ約16メートル、東西の幅約9メートルの敷地だったようです。

  •  この「成卒居住地遺跡」の解説板には、『ここが展望台を警備する兵士の居住区であったと推測されている』というような記述がなされていました。

     この「成卒居住地遺跡」の解説板には、『ここが展望台を警備する兵士の居住区であったと推測されている』というような記述がなされていました。

  •  「成卒居住地遺跡」から15mほど離れた所にある展望台(中国語では「瞭望台」)です。

     「成卒居住地遺跡」から15mほど離れた所にある展望台(中国語では「瞭望台」)です。

  •  ここには展望台の解説板が設置されていなかったので、どのような特徴がある遺跡なのかは、よく分かりません。

     ここには展望台の解説板が設置されていなかったので、どのような特徴がある遺跡なのかは、よく分かりません。

  •  ただ、山城全体や城下の様子を一望して軍指揮をとるための高台だったと思われます。今は、この上に登れませんが、加工石が使われているのがよく分かります。

     ただ、山城全体や城下の様子を一望して軍指揮をとるための高台だったと思われます。今は、この上に登れませんが、加工石が使われているのがよく分かります。

  •  このような坂道を登り、宮殿遺跡に行きます。

     このような坂道を登り、宮殿遺跡に行きます。

  •  「丸都山城宮殿跡」の中国語解説板がありました。<br /> それによると、丸都山城宮殿跡は、東西に13メートルの落差がある山腹に沿って築かれ、南北95.5メートル、東西86.5メートルの不規則な四角形の平面形状を持ち、面積は8,000平方メートルを超えていたそうです。そして、宮殿は西暦198年頃に建設され、342年に火災で焼失したそうです。<br /> その中に、大きさの異なる11棟の建物(または建物群)が建てられており、人工排水と自然排水の両方を含む、比較的完全な排水システムがあったそうです。

     「丸都山城宮殿跡」の中国語解説板がありました。
     それによると、丸都山城宮殿跡は、東西に13メートルの落差がある山腹に沿って築かれ、南北95.5メートル、東西86.5メートルの不規則な四角形の平面形状を持ち、面積は8,000平方メートルを超えていたそうです。そして、宮殿は西暦198年頃に建設され、342年に火災で焼失したそうです。
     その中に、大きさの異なる11棟の建物(または建物群)が建てられており、人工排水と自然排水の両方を含む、比較的完全な排水システムがあったそうです。

  •  このような建造物跡が残っています。

     このような建造物跡が残っています。

  •  広い敷地内に点々と遺跡が残っています。

     広い敷地内に点々と遺跡が残っています。

  •  ここからの見晴らしは良いです。市街地をもう少し拡大してみます。

     ここからの見晴らしは良いです。市街地をもう少し拡大してみます。

  •  一番高いところからは、平城の「国内城」もよく見えたものと推測します。<br /><br /> この後は、「好太王碑」に向かいました。

     一番高いところからは、平城の「国内城」もよく見えたものと推測します。

     この後は、「好太王碑」に向かいました。

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