2026/04/16 - 2026/04/16
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FUKUJIROさん
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この旅行記のスケジュール
2026/04/16
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寄居町で用事を済まします
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寄居駅南口の廃墟ビル
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電車での移動
JR八高線で寄居駅から児玉駅へ移動
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ランドリーカフェというコンセプトのお店Te laundry cafe Sau(サウ)で昼食
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本庄市立塙保己一記念館
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久米六の井戸
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児玉駅に戻りました
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この旅行記スケジュールを元に
埼玉県にはかつて偉大な功績を残した「埼玉三偉人」がいます。一万円札の顔となった近代日本経済の父・渋沢栄一、盲目の国学者・塙保己一、日本最初の女性医師・荻野吟子の3人です。
それぞれの活躍した分野は異なりますが、3人には埼玉県北部地域の出身という共通点があります。渋沢は深谷市、塙は本庄市、荻野は熊谷市に生まれました。
今回は埼玉県北部の寄居町で用事を済ませてから、さらに北上して本庄市児玉地区へ移動し、塙保己一記念館を訪ねました。
以前渋沢栄一の故郷深谷市を訪ねていますので、よろしければ、そのときの旅行記もご覧ください。
https://4travel.jp/travelogue/11684974
https://4travel.jp/travelogue/11685613
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- グルメ
- 4.0
- 交通
- 3.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
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寄居駅(南口)。
寄居(よりい)駅は、埼玉県大里郡寄居町にあります。秩父鉄道・東武鉄道・東日本旅客鉄道(JR東日本)の3つの鉄道事業者の路線が乗り入れており、郡部にある駅で3事業者が乗り入れているのは日本唯一です。
明治34年(1901年)10月7日に上武鉄道(現・秩父鉄道)の駅が開設、大正14年(1925年)7月10日に東武東上本線の駅が開設、昭和8年(1933年)1月25日に鉄道省八高北線(現・JR八高線)の駅が開設しました。 -
閉店してしまった駅前のお寿司屋さんのシャッターアート。「玉淀の四季」が描かれています。玉淀は、寄居町にある景勝地です。
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寄居駅の南口を出ると、右手に白い大きなビルが建っています。何かの公共施設かと思ったのですが、廃墟ビルでした。
ここは平成5年(1993年)9月に開業した大規模スーパーマーケット・ライフ寄居店でしたが、平成25年8月に閉店しました。撤去も転用もされずにそのまま放置されており、駐車場の部分のみが現在はタイムズ寄居駅南口となっています。 -
ライフ寄居店は、RC造り4階建て、延床面積5,149m2でした。
寄居駅前の好立地にも関わらず、先の見通しが立っていないようです。
外面だけは眩しく輝いています。 -
昔から酒屋さんだった店には富士山を描いたシャッターアートがありました。
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寄居町のマンホール蓋。
上部には日本の国鳥である2羽の雉子、町の花カタクリと町の木ヤマザクラを配し、中央には町章があります。町章は「寄」と「い」の文字をデザイン化しています。 -
用事を済まして駅に戻りました。
駅には、鐘撞堂山(かねつきどうやま)の案内がありました。寄居町の北方にあり、標高330mの低山です。
山頂は寄居町と深谷市、美里町の分岐点となっており、南方向への眺望が素晴らしい山です。FUKUJIROも20世紀の終わり頃に登頂した記憶があります。
面白い名前の山ですが、戦国時代、鉢形城の物見山としての役割があり、異変があれば、頂上に置かれた鐘を鳴らしたと言われており、山名の由来となっています。
当時、この山には蒔田康邦の館があったことから、城山の別名もあります。 -
駅名標。
JR八高線の寄居駅。 -
秩父鉄道の秩父本線、東武鉄道の東上本線(終着駅)への乗換駅となっています。
ちなみに郡部にある駅で3路線が乗り入れている国内唯一の駅です。 -
3路線は跨線橋で結ばれています。
いずれの鉄道会社もsuicaを利用できますが、相互には連携していないので、乗り換え時には出入場のタッチを忘れないよう注意が必要です。 -
南口(荒川)側にはライフ寄居店だった建物の存在感がものすごいです。
寄居町は、かつては秩父往還沿いの宿場町として栄えていました。 -
北側には橋上駅舎と同時に新設された北口があり、旧寄居中学校跡地に寄居町役場が新築移転しました。
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JR八高線のHB-E220系気動車。
2025年に八高線と東北本線・釜石線に導入された最新鋭の車体で、ディーゼルエンジンで発電した電気を蓄電しながらモーター駆動するシリーズハイブリッドの気動車です。
FUKUJIROは20年位前にディーゼル機関車が引く木造客車に乗ったことがあり、あまりの違い驚きました。 -
児玉駅に着きました。
駅前です。右側にかりん糖のお店があるのですが、飲食店やコンビニは見えません。 -
児玉駅の駅舎です。
八高線(はちこうせん)は、東京都八王子市の八王子駅から埼玉県の西部および北西部を走り抜けて群馬県高崎市の倉賀野駅を結んでいるJR東日本の鉄道路線です。八王子の八と高崎の高を路線名としています。
全長92.0km、全線単線の非電化路線です。 -
駅前通りを少し歩くと、お店っぽい建物を見つけました。
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看板はありませんが、壁にメニューの写真がありましたので、入りましょう。
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基本的にはカフェのようです。
テーブルが4つあり、入店時にはご婦人のグループと女子中学生のグループが食事をしていました。 -
カウンター席もあります。
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店の奥はコインランドリーでした。洗濯乾燥機5台、乾燥機6台が設置されています。
ここは、ランドリーカフェというコンセプトのお店で、Te laundry cafe Sau(サウ)という名前です。
ランドリーは5:00~24:00(無休)、カフェは11:00~18:00(火曜日定休)の営業です。 -
ランチのガパオライスにスープとドリンクを付けて¥1,150。
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ガパオライス。パクチーが入っていないので、日本人向けのお味です。FUKUJIROはパクチー好きなので、ちょっと物足りなかったです。
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スープは野菜たっぷりのトマト味で美味しい。
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お店のキャラクターみたいです。
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さらに西方へ歩いて行きます。
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ぜんぜん目立ちませんが、交差点の道案内。
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縣指定史蹟雉岡城跡入り口の碑。
雉岡城は戦国時代の城で、小田原征伐で落城しましたが、土塁や堀の遺構が残っています。 -
逆光ですが、黒い建物が2棟あります。
一帯をアスピアこだま(本庄市児玉総合支所)というようですが、右は児玉公民館・児玉児童センターなど、左が目的の本庄市立塙保己一記念館です。 -
本庄市立塙保己一記念館。
本庄市児玉町八幡山368番地。
駐車場はアスピアこだまを利用。 -
入り口横には塙保己一翁像がありました。
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本庄市立塙保己一記念館の入り口。
午前9時~午後4時30分、月曜日と年末年始は休館、入館無料です。 -
建物に入ると小ぶりな塙保己一翁の像がありました。
これは生誕275年・没後200周年の記念として寄贈された総検校:保己ー先生瓦像です。
令和3年9月吉日。 -
その奥にも塙保己一翁像です。
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総検校塙保己一正装図。
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ロビーには、塙保己一翁の事績を紹介するビデオが流れていました。
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展示室に入りましょう。
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塙保己ーは延享3年(1746年)5月5日、現在の本庄市児玉町保木野の農家に生まれました。50戸余りの集落のほぼ中央に、保己ーの生まれた家がありました。
保己ーは生来体が弱く、5歳の時に肝の病にかかり、それがもとで7歳の時に失明してしまいました。
目の見えなくなった保己ーは、家の北側にある、龍清寺というお寺に遊びに行き、和尚様などから本を読んでもらったりしたようです。 -
保己ーは記憶力が良く、読んでもらった書物は一字一句記憶していたといわれています。12歳の時に母親と死別。
15歳の時、自活するために江戸に行き、三味線や挨摩などを修行しました。 -
保己ーは江戸に出るとき、母の帯の布で作つた母手縫いの巾着を大切に持っていました。中には二十三文入っていたといわれます。
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着替えなどを素麺箱に入れて、背負って江戸に出たといわれます。
素麺箱は、林大学頭が大切なものだから『お宝箱』と名付けたといわれています。 -
保己一は小さなことで腹をたてると、大きな仕事はできないと思い、願いをかなえるために、天神様に「般若心経』を毎日、百回唱えることを誓いました。
あるとき、下駄の鼻緒が切れたので、近くの版木屋に入って直してもらおうとしたところ、鼻緒を投げ捨てられ、追い出されてしまいました。
保己一は、たいへん悔しい思いをしましたが、追い出した版木屋の人は、自分を励ましてくれたのだと考えて、腹をたてることはしませんでした。 -
中世~江戸時代に幕府公認で組織された盲人の職能団体を当道座(とうどうざ)と呼び、73段階の盲人官位がありました。人門すると「初心」から始まり、座頭、勾当、別当、検校、そして最高位が総検校となります。
保己ーは安永4年(1775年)に勾当に昇進し、塙姓を称し、名を保己一に変えました。
そして安永8年(1779年)、34歳の時に、人々のためになり、そして後の世に残ることをしようと、『群書類従』の編纂を決意しました。
天明3年(1783年)に検校に昇進しました。 -
般若心経巻数帳。
保己ーは、般若心経を毎日100回唱えることを誓っていましたが、安永8年に『群書類従』の編さんを決意し、その大きな仕事が成功するようにと、『般若心経』を100万遍唱えることを誓いました。
この帳面には安永8年から亡くなる文政4年(1821年)までの43年間に198万遍余りの記録が残されています。 -
保己一の仰した天神座像。
保己ーは住まいの近くにあった平河天満宮に参詣し、昇進祈願をしていました。
よろしければ、以前、平河天満宮を参拝したときの旅行記をご覧ください。
https://4travel.jp/travelogue/11236625 -
南無天満大自在天の掛軸。
保己ーは、学問の神である天神様を信仰していました。仙洞院筆の掛軸です。 -
(上)今物語。
鎌倉時代の説話集で、『群書類徒』を発行するにあたっての見本版として天明6年に発行しました。
(下)大田萳畝善簡。
大田南畝(狂歌師・蜀山人)は保己一の親しい友人であり、『群書類徒』販売の宣伝を行ってくれました。
この書状は長崎に出張中の南畝からで、『群書類従』販売のための見本を送るように書き記してあります。 -
文化13年(1816年)100両の借用証文。
『群書類従』の刊行には、多額の費用がかかりました。保己一は、50両、100両、多い時では900両と度々お金を借りています。
保己一の門人でもあった草間伊助は、大坂の豪商鴻池本家の支配人であり、経済学者でもあり、保己ーと深い親交がありました。『群書類従』の財政的な援助もしており、鴻池からかりた借用証文が残っています。 -
道中日々記。
文化14年(1817年)12月、古書を探して京都へ旅した時の日記。 -
『群書類従』の版木は縦21cm✕横42cm、厚さ2cmの桜材で、表裏に文字が彫られています。桜材はきめ細かく、細かい文字を彫刻するのに適しているといわれていました。
版木には、漢文の場合、1行20字✕20行=400字が彫られており、これが今日の原稿用紙の元になったといわれています。 -
群書類従は530巻666冊。
保己一は「全国各地には古書が散在しているので、それらを集めて版木を起こして印刷すれば、国学を学ぼうとしている人の助けになるに違いない」と考え、安永8年(1779)に『群書類徒』を編纂を決意しました。34歳の時のことです。 -
群書類従は古代から江戸時代初期までに成った史書や文学作品、計1,273種を収めています。
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群書類従目録。
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この書簡は昌平坂学問所を運営した林大学頭から保己一に宛てたもので、内容は荀子の事について、大坂の様子などを記しています。
保己一個人の学問所として始まった和学講談所は、寛政7年(1795年)に幕府から手当が支給され、林大学頭の支配に組み込まれました。 -
和学講談所。1/50模型。
寛政5年(1793年)、保己ーが願い出て建設された『和学講談所』は、裏六番町(千代田区三番町16番地付近)の小普請組小泉新三郎の上地600坪の内300坪でした。
文化元年(1804年)に『和学講談所」が手狭になったため幕府に地所替えを願い出ます。翌年正月、これまでの裏六番町の土地を幕府に返し、かわりに表六番町(千代田区三番町24番地付近)の土地、840坪の敷地を賜り移転します。保己一は敷地内に天満宮を建てました。 -
温古堂
保己ーは、老中松平定信に和学講談所の命名を依頼して、定信は『温古堂』と名付けました。水戸藩主の水戸治保によって書かれ、保己一の弟子の屋代弘賢によって、彫られた木額があります。この木額は和学講談所の玄関に掲げられていたといわれています。
当初は温古堂と呼ばれていましたが、次第に正式名称として『和学講談所』と呼ばれるようになりました。 -
和学講談所内に建立された天満宮にかかっていた扁額。文化6年(1809年)2月23日の銘。
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天満宮軒丸瓦。
和学講談所内にあった天満宮の軒丸瓦。 -
御神忌能開口。
文化12年(1815年)墒保已一撰文、屋代弘賢筆。 -
和学講談所での講義。
和学講談所には、多くの門人が集まり、歴史や法律の勉強が行われていました。
保己ーが夏の夜に講義をしていた時、吹き込んだ風で灯りが消えてしまったので、弟子たちがあわてると、「目あきというものは不自由なものだ」と大笑いした、という逸話も残されています。 -
和学講談所で使用した印。
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保己一の知恵。
あるとき、町名を書いた紙を見せて、「さんずいに吉」という字の付いた町に行きたいのだがとたずねた人がいましたが、誰もわかりませんでした。
保己ーがこれを聞いて、それは「油町」のことだろうといいました。「この字を書いた人は町名は知っていたが文字を知らなかったのだろう。側にいた人が「さんずいに吉(よし)」だと言ったので、由を吉と誤って書いてしまったのだろう」と答えたということです。 -
総検校塙保己一の正装図。
保己一は文政4年(1821年)2月、総検校職に就きました。
総検校保己一の肖像画は現在、数種類が残されています。この肖像画は福島県の指定重要文化財となっている住吉弘定が描いた図を、温故学会が多色刷りの版画として製作したものです。 -
鉄如意。
正装した時に使用したもの。 -
戒名掛軸。
「和学院殿心眼智光大居士」。
文政4年(1821年)9月12日没。 -
塙保己ーの代表的な和歌。
ことの葉の およはぬ身には 目に見ぬも
中なかよしや 雪のふしのね -
土盃。
葵の紋つき。 -
抹茶茶碗。
保己一愛用の品。 -
ロビーには群書類従の実物も置かれていて、読むこともできました。
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ロビーには群書類従の実物も置かれていて、読むこともできました。
舞書類従巻二百九十八
検校保已一集
太平記です。 -
本庄市のマンホール蓋。
市街地北部を流れる元小山川にかつて生息していたトゲウオ(ムサシトミヨ)がデザインされています。
本庄市では、トゲウオが生息できるような「清流をとりもどそう」をスローガンに公共下水道を整備しています。 -
駅へ戻る途中で見つけました。
久米六の井戸。
説明版によると、一の谷の合戦で平経正を討ち取った庄四郎高家の子孫の太郎左衛門尉時国が、文永11年(1274年)、佐渡流罪を赦された日連上人を居宅(後の玉蓮寺)で歓待し、翌日久米川までお送りした際に日蓮上人より久米姓を賜りました。 -
この井戸は大正11年に明治大学教授笹川種郎博士により「久米は児玉党の正系にて」と言われた久米家当主の館跡のもので当主が天正年間より六右衛門信先、六右衛門正吉、六右衛門正信、六右衛門吉光、六右衛門信政、六右衛門信英と代々六右衛門を名乗っていたために今日まで「久米六の井戸」と称されており、爾来千年以上の水脈を保っていると云われている。と記されています。
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ポンプで汲み上げているようで、チョロチョロとお水が流れています。
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競進社模範蚕室に寄ります。
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競進社模範蚕室。
中二階建切妻桟瓦葺高窓付、153m2。 -
木村九蔵先生胸像。
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木村九蔵は上野国高山村(現在の藤岡市)に生まれ、少年期から養蚕に興味を持ち、明治5年(1872年)に蚕の飼育法「一派温暖育」を発表し、明治17年(1884年)に児玉養蚕伝習所を開設しました。
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競進社模範蚕室(きょうしんしゃもはんさんしつ)。
日本近代化遺産(絹産業遺産)、埼玉県指定文化財です。
明治27年(1894年)、児玉養蚕伝習所内に開設されました。
木村九蔵は、炭火の火力で蚕室の湿気を排除し、病蚕を防ぐ「一派温暖育」と称する温暖飼育法を考案しました。この蚕室の構造は、換気に綿密な配慮がなされ、木村の考案した温暖飼育法の効果が十分に発揮できるように設計されています。 -
競進社模範蚕室。
戸・障子の開口部を広く取り、床下には吸気口と煉瓦積みの炉を設け、天井は空気が通り抜けるように小間返しとし、高窓はロープで開閉できるようにしました。
この競進社流の蚕室と飼育法は、全国各地から集まった卒業生により各地に伝えられ、日本の養蚕業の発展に大きく貢献しました。 -
ロープで開閉できる高窓。
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児玉駅に戻って来ました。
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児玉駅のトイレ棟をよく見たら、養蚕業特有の煙出し用の小屋根が付いた造りです。
最後までお読みいただきましてありがとうございました。
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埼玉の旅その4
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