鴻巣・桶川・北本旅行記(ブログ) 一覧に戻る
関東地方の中央部にある大宮台地は、縄文海進でも沈むことなく、西側の荒川低地と東側の中川低地に挟まれた島状の土地でした。<br />北は鴻巣市箕田付近から南は浦和・鳩ヶ谷まで広がり、南北に約38km、東西の最大幅は約18kmでした。台地の最高地点は北本市高尾付近の海抜32mです。<br />家内が北本へ行くと言うので、高尾で下ろしてもらい、大宮台地の最高地点を歩いてみました。

大宮台地の最高地点には阿弥陀堂が鎮座していました

135いいね!

2026/02/21 - 2026/02/21

10位(同エリア343件中)

旅行記グループ 埼玉の旅その4

0

30

FUKUJIRO

FUKUJIROさん

この旅行記のスケジュール

2026/02/21

この旅行記スケジュールを元に

関東地方の中央部にある大宮台地は、縄文海進でも沈むことなく、西側の荒川低地と東側の中川低地に挟まれた島状の土地でした。
北は鴻巣市箕田付近から南は浦和・鳩ヶ谷まで広がり、南北に約38km、東西の最大幅は約18kmでした。台地の最高地点は北本市高尾付近の海抜32mです。
家内が北本へ行くと言うので、高尾で下ろしてもらい、大宮台地の最高地点を歩いてみました。

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
徒歩
  • 駐車場には「高尾阿弥陀堂は真言宗智山派常勝寺(鴻巣市滝馬室五八六)の外墓地です」と看板があります。<br />常勝寺は不詳ながらも7世紀の創建とも伝えられる古い寺院で、江戸時代には近郊に末寺6ヶ寺、門徒寺12ヶ寺を擁していました。<br />その一つが高尾にあった西龜山 無量寺 泉蔵院であり、その堂宇として阿弥陀堂が建てられました。

    駐車場には「高尾阿弥陀堂は真言宗智山派常勝寺(鴻巣市滝馬室五八六)の外墓地です」と看板があります。
    常勝寺は不詳ながらも7世紀の創建とも伝えられる古い寺院で、江戸時代には近郊に末寺6ヶ寺、門徒寺12ヶ寺を擁していました。
    その一つが高尾にあった西龜山 無量寺 泉蔵院であり、その堂宇として阿弥陀堂が建てられました。

  • 新編武蔵風土記稿に拠れば、この阿弥陀堂はかつて石戸宿(北本市)にあったもので、石戸賴兼が娘龜御前の追善のために建立したとあります。<br />調査によると、阿弥陀堂を取り囲むように堀の遺構も残っており、石戸頼兼の大宮館跡と考えられています。

    新編武蔵風土記稿に拠れば、この阿弥陀堂はかつて石戸宿(北本市)にあったもので、石戸賴兼が娘龜御前の追善のために建立したとあります。
    調査によると、阿弥陀堂を取り囲むように堀の遺構も残っており、石戸頼兼の大宮館跡と考えられています。

  • 阿弥陀堂の鐘楼門です。<br />一方、高尾の伝承では、源頼朝の異母弟である源範頼が、石戸の領主だった安達盛長の娘・亀御前を妻としていました。<br />建久4年(1193年)、源範頼は謀反の疑いにより伊豆修禅寺の信功院に幽閉され、梶原景時らによって誅殺されたとされています。

    阿弥陀堂の鐘楼門です。
    一方、高尾の伝承では、源頼朝の異母弟である源範頼が、石戸の領主だった安達盛長の娘・亀御前を妻としていました。
    建久4年(1193年)、源範頼は謀反の疑いにより伊豆修禅寺の信功院に幽閉され、梶原景時らによって誅殺されたとされています。

  • 阿弥陀堂です。<br />その死の知らせが届くと、亀御前は、荒川に身を投げて自害したとも伝わります。<br />その供養に阿弥陀堂が建立されたと伝わっています。<br />現在の阿弥陀堂は、江戸時代に建てられました。

    阿弥陀堂です。
    その死の知らせが届くと、亀御前は、荒川に身を投げて自害したとも伝わります。
    その供養に阿弥陀堂が建立されたと伝わっています。
    現在の阿弥陀堂は、江戸時代に建てられました。

  • 阿弥陀堂の手前に、北本七福神めぐりの布袋尊が祀られています。<br />平成27年9月に建立された布袋尊像は、高さ1.9m、幅1.8mです。

    阿弥陀堂の手前に、北本七福神めぐりの布袋尊が祀られています。
    平成27年9月に建立された布袋尊像は、高さ1.9m、幅1.8mです。

  • 常勝寺の外墓地という位置づけからか、阿弥陀如来像だけが祀られている簡素な堂内です。

    常勝寺の外墓地という位置づけからか、阿弥陀如来像だけが祀られている簡素な堂内です。

  • 元は手水鉢と思われます。現在は雨樋の水受けになっています。

    元は手水鉢と思われます。現在は雨樋の水受けになっています。

  • 鐘楼門の建つ場所は標高約32m、関東平野の中央部に広がる大宮台地の最高地点となっています。<br />縄文海進の頃、大宮台地は島状の土地でしたので、当時からこの地域には人が住んでいました。

    鐘楼門の建つ場所は標高約32m、関東平野の中央部に広がる大宮台地の最高地点となっています。
    縄文海進の頃、大宮台地は島状の土地でしたので、当時からこの地域には人が住んでいました。

  • 鐘楼門の階段には柵がなく、誰でも上がることができます。<br />靴を脱ぎ、ゆっくり登りましょう。

    鐘楼門の階段には柵がなく、誰でも上がることができます。
    靴を脱ぎ、ゆっくり登りましょう。

  • 鐘楼門の鐘。<br />かつては宝暦10年(1760年)鋳造の鐘がありましたが、大東亜戦争のときに供出したため、昭和58年2月に復元しました。<br />龍蔵山 常勝寺の第三十四世晋隆代。

    鐘楼門の鐘。
    かつては宝暦10年(1760年)鋳造の鐘がありましたが、大東亜戦争のときに供出したため、昭和58年2月に復元しました。
    龍蔵山 常勝寺の第三十四世晋隆代。

  • 大宮台地の最高地点(鐘楼門)から北方向の眺め。

    大宮台地の最高地点(鐘楼門)から北方向の眺め。

  • 東方向。

    東方向。

  • 南方向。<br />この墓地のどこかに、江戸時代の寺子屋教育に人力した先人の記念碑があるのですが、見つかりませんでした。<br />一つは常陸国から来て寺子屋を開いた「蘭臺関先生之墓」碑で、もう一つは85歳で亡くなるまで教育を続けた「関眠翁」碑です。

    南方向。
    この墓地のどこかに、江戸時代の寺子屋教育に人力した先人の記念碑があるのですが、見つかりませんでした。
    一つは常陸国から来て寺子屋を開いた「蘭臺関先生之墓」碑で、もう一つは85歳で亡くなるまで教育を続けた「関眠翁」碑です。

  • 西方向。<br />この先は急斜面で荒川へ下っています。

    西方向。
    この先は急斜面で荒川へ下っています。

  • 鐘楼門の外側に立て札があります。

    鐘楼門の外側に立て札があります。

  • 亀御前を弔う供養塔です。<br />かつては巨大な板碑があったそうですが、江戸時代に本寺である鴻巣の常勝寺に移転奉納されたとき、現在の供養塔に建て替えられました。

    亀御前を弔う供養塔です。
    かつては巨大な板碑があったそうですが、江戸時代に本寺である鴻巣の常勝寺に移転奉納されたとき、現在の供養塔に建て替えられました。

  • 阿弥陀堂の西側にはさくら公園が広がっています。

    阿弥陀堂の西側にはさくら公園が広がっています。

  • さくら公園ですが、梅の木も10本ほどあります。

    さくら公園ですが、梅の木も10本ほどあります。

  • 白梅が咲き誇っていました。

    白梅が咲き誇っていました。

  • 陽だまりに猫もいました。<br />「明日は猫の日ニャン」

    陽だまりに猫もいました。
    「明日は猫の日ニャン」

  • さくら公園の塚。上ってみましょう。

    さくら公園の塚。上ってみましょう。

  • 塚の上から東方向。<br />この一角は「ふるさとコーナー」で、全国各地から寄せられた 様々な44本の桜が植樹されています。ものです。

    塚の上から東方向。
    この一角は「ふるさとコーナー」で、全国各地から寄せられた 様々な44本の桜が植樹されています。ものです。

  • 西方向へ傾斜しています。

    西方向へ傾斜しています。

  • さくら公園の西端にハート形のオブジェ。

    さくら公園の西端にハート形のオブジェ。

  • 愛の鐘。最近設置されたそうです。

    愛の鐘。最近設置されたそうです。

  • さくら公園から西北方向の景色。<br />荒川の向こうに山々が見える景勝地ですが、この日は黄砂で霞んでいました。左方に富士山、中央に武甲山、右方に浅間山と榛名山が見える場所です。<br />荒川の対岸・比企郡には、源範頼は修善寺を脱出して比企に逃れて来たとの伝承があり、比企一族の庇護を受けて暮らしたとされる息障院(伝範頼館跡)もあります。

    さくら公園から西北方向の景色。
    荒川の向こうに山々が見える景勝地ですが、この日は黄砂で霞んでいました。左方に富士山、中央に武甲山、右方に浅間山と榛名山が見える場所です。
    荒川の対岸・比企郡には、源範頼は修善寺を脱出して比企に逃れて来たとの伝承があり、比企一族の庇護を受けて暮らしたとされる息障院(伝範頼館跡)もあります。

    高尾さくら公園 花見

  • この高尾地区は、江戸時代には荒川の舟運でたいそう栄えていました。<br />ここより、荒川沿いに少し北側に町場が形成されていました

    この高尾地区は、江戸時代には荒川の舟運でたいそう栄えていました。
    ここより、荒川沿いに少し北側に町場が形成されていました

  • 集落の生活を支える大工、タバコ屋、示物量、うどん屋、料理屋、嵐島産、旅館など、70軒ほどの町場が形成され、当時は北本で最も賑っていました。<br />このため、高尾へ行けば仕事やほしい生活用品があるので、地元では「しょう(塩)がなかったら高尾へ行け」といわれていました。

    集落の生活を支える大工、タバコ屋、示物量、うどん屋、料理屋、嵐島産、旅館など、70軒ほどの町場が形成され、当時は北本で最も賑っていました。
    このため、高尾へ行けば仕事やほしい生活用品があるので、地元では「しょう(塩)がなかったら高尾へ行け」といわれていました。

  • 通りを歩いてみると、私道の先に大きな門構えが見えました。

    通りを歩いてみると、私道の先に大きな門構えが見えました。

  • かつての船問屋・此右衛門だったところです。<br />最後までお読みいただきましてありがとうございました。

    かつての船問屋・此右衛門だったところです。
    最後までお読みいただきましてありがとうございました。

135いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

この旅行で行ったスポット

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

この旅行記の地図

拡大する

PAGE TOP