2026/02/21 - 2026/02/21
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この旅行記のスケジュール
2026/02/21
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高尾阿弥陀堂
この旅行記スケジュールを元に
関東地方の中央部にある大宮台地は、縄文海進でも沈むことなく、西側の荒川低地と東側の中川低地に挟まれた島状の土地でした。
北は鴻巣市箕田付近から南は浦和・鳩ヶ谷まで広がり、南北に約38km、東西の最大幅は約18kmでした。台地の最高地点は北本市高尾付近の海抜32mです。
家内が北本へ行くと言うので、高尾で下ろしてもらい、大宮台地の最高地点を歩いてみました。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 徒歩
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駐車場には「高尾阿弥陀堂は真言宗智山派常勝寺(鴻巣市滝馬室五八六)の外墓地です」と看板があります。
常勝寺は不詳ながらも7世紀の創建とも伝えられる古い寺院で、江戸時代には近郊に末寺6ヶ寺、門徒寺12ヶ寺を擁していました。
その一つが高尾にあった西龜山 無量寺 泉蔵院であり、その堂宇として阿弥陀堂が建てられました。 -
新編武蔵風土記稿に拠れば、この阿弥陀堂はかつて石戸宿(北本市)にあったもので、石戸賴兼が娘龜御前の追善のために建立したとあります。
調査によると、阿弥陀堂を取り囲むように堀の遺構も残っており、石戸頼兼の大宮館跡と考えられています。 -
阿弥陀堂の鐘楼門です。
一方、高尾の伝承では、源頼朝の異母弟である源範頼が、石戸の領主だった安達盛長の娘・亀御前を妻としていました。
建久4年(1193年)、源範頼は謀反の疑いにより伊豆修禅寺の信功院に幽閉され、梶原景時らによって誅殺されたとされています。 -
阿弥陀堂です。
その死の知らせが届くと、亀御前は、荒川に身を投げて自害したとも伝わります。
その供養に阿弥陀堂が建立されたと伝わっています。
現在の阿弥陀堂は、江戸時代に建てられました。 -
阿弥陀堂の手前に、北本七福神めぐりの布袋尊が祀られています。
平成27年9月に建立された布袋尊像は、高さ1.9m、幅1.8mです。 -
常勝寺の外墓地という位置づけからか、阿弥陀如来像だけが祀られている簡素な堂内です。
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元は手水鉢と思われます。現在は雨樋の水受けになっています。
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鐘楼門の建つ場所は標高約32m、関東平野の中央部に広がる大宮台地の最高地点となっています。
縄文海進の頃、大宮台地は島状の土地でしたので、当時からこの地域には人が住んでいました。 -
鐘楼門の階段には柵がなく、誰でも上がることができます。
靴を脱ぎ、ゆっくり登りましょう。 -
鐘楼門の鐘。
かつては宝暦10年(1760年)鋳造の鐘がありましたが、大東亜戦争のときに供出したため、昭和58年2月に復元しました。
龍蔵山 常勝寺の第三十四世晋隆代。 -
大宮台地の最高地点(鐘楼門)から北方向の眺め。
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東方向。
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南方向。
この墓地のどこかに、江戸時代の寺子屋教育に人力した先人の記念碑があるのですが、見つかりませんでした。
一つは常陸国から来て寺子屋を開いた「蘭臺関先生之墓」碑で、もう一つは85歳で亡くなるまで教育を続けた「関眠翁」碑です。 -
西方向。
この先は急斜面で荒川へ下っています。 -
鐘楼門の外側に立て札があります。
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亀御前を弔う供養塔です。
かつては巨大な板碑があったそうですが、江戸時代に本寺である鴻巣の常勝寺に移転奉納されたとき、現在の供養塔に建て替えられました。 -
阿弥陀堂の西側にはさくら公園が広がっています。
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さくら公園ですが、梅の木も10本ほどあります。
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白梅が咲き誇っていました。
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陽だまりに猫もいました。
「明日は猫の日ニャン」 -
さくら公園の塚。上ってみましょう。
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塚の上から東方向。
この一角は「ふるさとコーナー」で、全国各地から寄せられた 様々な44本の桜が植樹されています。ものです。 -
西方向へ傾斜しています。
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さくら公園の西端にハート形のオブジェ。
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愛の鐘。最近設置されたそうです。
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さくら公園から西北方向の景色。
荒川の向こうに山々が見える景勝地ですが、この日は黄砂で霞んでいました。左方に富士山、中央に武甲山、右方に浅間山と榛名山が見える場所です。
荒川の対岸・比企郡には、源範頼は修善寺を脱出して比企に逃れて来たとの伝承があり、比企一族の庇護を受けて暮らしたとされる息障院(伝範頼館跡)もあります。高尾さくら公園 花見
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この高尾地区は、江戸時代には荒川の舟運でたいそう栄えていました。
ここより、荒川沿いに少し北側に町場が形成されていました -
集落の生活を支える大工、タバコ屋、示物量、うどん屋、料理屋、嵐島産、旅館など、70軒ほどの町場が形成され、当時は北本で最も賑っていました。
このため、高尾へ行けば仕事やほしい生活用品があるので、地元では「しょう(塩)がなかったら高尾へ行け」といわれていました。 -
通りを歩いてみると、私道の先に大きな門構えが見えました。
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かつての船問屋・此右衛門だったところです。
最後までお読みいただきましてありがとうございました。
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