2026/08/28 - 2026/08/28
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gianiさん
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小樽に近い余市町は、云わずと知れたニッカウィスキーの企業城下町。とはいえ、それ以外にもここでしか味わえない観光資源に溢れています。そんな余市の魅力を堪能してみます。
- 旅行の満足度
- 5.0
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旅のはじまりは、余市駅前。
この土地を有名にしたのは、1934年に入植した竹鶴夫妻が築いたニッカウィスキー。余市駅 駅
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云わずと知れた工場
ニッカウヰスキー余市蒸溜所 名所・史跡
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駅前から積丹岬へ通じるリタロードを快進。
リタロード 名所・史跡
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余市川を渡ります。
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茂入山が見えてきました。山中にある博物館を目指します。
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スペースシャトルの付いた宇宙の湯
そう、ここは毛利衛さんの出身地です。余市川温泉 温泉
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まるで水産試験場のような誤解を招くネーミング。
水産に限定されず、余市町博物館というラインナップです。余市水産博物館 美術館・博物館
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今は絶滅した池田製菓のホーロー看板も。
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旧石器時代からの展示ですが、アイヌ時代から見ていきます。
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カムイギリ
ヨイチアイヌはシャチを重要な神と崇め、沖にいる神(レプンカムイ)と呼ばれました。カムイギリは屋内の祭壇に供える祭具で、豊漁祈願のために使用されました。レプンカムイが、鰊/鮭/鮪/鮫/海豹/海豚/鯨を従えています。朝夕は火の神に次いで祈りが捧げられました。その後、狐の神やシギの神に祈りました。レプンカムイをモチーフとしたカムイギリは、余市~石狩湾にかけて信仰されました。 -
シャチの頭骨も儀式で用いました。
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ヨイチアイヌは、余市川やヌッチ川の河口付近に暮らしていました。生計の比重が見えてくるロケーションです。
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熊送り
食料/毛皮等多くの恩恵に対する感謝の表れです。ここまでは人類一般の価値観ですが、アイヌは動物を神々の化身と考え、命を奪った直後に沢山の供え物(土産)で送り返しました。天界へ戻った神(カムイ)は、沢山の土産を持参すると格好が付き、土産話を聞いた他のカムイにも訪問先として選んで貰えるという風に、アイヌとカムイがウィンウィンの関係になると考えました。写真は、1872年の様子を記録した絵画です。 -
アイヌの飼い熊送りの儀式(イオマンテ)は、熊猟の時に母熊と一緒にいた赤ちゃん熊を連れ帰って2年間育てた後に命を取る儀式です。供え物を用意して熊を檻から出し、歓待の円舞を舞った後、熊に仮装した神が霊魂となって神の国にかえれるように熊を解体して祈り詞を捧げます。
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頭骨が最も大切な部分として祀られました。
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和人はアイヌとの交易目的で進出し、1599年には大名一族の松前氏にヨイチ場所が与えられました。場所とは交易所の事で、一般には交易の独占権を指します。海岸線に両隣の場所との境界線が引かれました。しかし武士と商売の相性は悪く、藩の御用商人に業務委託する場所請負制へシフトします。
写真は茂入神社に伝わる道内最古の獅子頭で、1665年製です。 -
1820年にヨイチ場所を請け負った林長左衛門は、交易だけでなく生産活動も継承します。アイヌを雇用して漁撈/製品加工を自らの手で行えば利幅も増えます。自給自足していたアイヌは、被雇用者に転落して経済的自立を失います。写真は、幕末のヨイチ場所です。
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ヨイチの運上家経営に留まらず、他の場所へヨイチアイヌを出稼ぎ労働者として派遣し、利益の為なら手段を選びませんでした。右は林家が1836年に増毛場所の秋味(秋鮭)のための出稼ぎ届書、中央は1859年のヨイチアイヌの戸籍調査です。一人でも多くのアイヌを出稼ぎに派遣するために、徳川の支配権が及ばないアイヌ一軒毎の家族構成等を把握しました。出稼ぎ先では専ら鮑漁と加工に従事しました。当時の幕府は銀獲得のために、中国への干鮑輸出を奨励していました。
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運上屋には、弁財天などが祀られました。航海安全と商売繁盛を祈ります。写真は、1811年製で京都の仏師が製作したもので、林家の財力が窺えます。1869年に明治政府によって場所請負制は解体されますが、林家は北のウォール街と呼ばれた小樽で商業/金融業で大きな役割を果たします。
では、運上家へ足を延ばします。 -
実は、全国で現存する唯一の運上家です。鰊番屋は数多く残れど、運上家は此処だけです。かなり大きな建物です(間口40m/奥行16m)。下ヨイチ場所運上家と言います。
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中央に正式な入口があります。
運上家は、アイヌ民族との交易を請け負った商人が経営の拠点とした建物で、蝦夷地の各場所に建てられました(全盛期は85箇所)。旧下ヨイチ運上家は、嘉永6(1853)年にヨイチ場所の請負商人である竹屋林長左衛門により建てられました。釘は一本も使用していません。 -
こちらは、左端にある通用玄関です。土間に通じています。
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1階の見取り図
まずは、板間/畳敷の配置に注目できます。武士のスペース(上手:かみて)は、廊下も畳です。支配人/船頭の部屋も畳です。建坪は164坪です。
切妻平入の長大な石置屋根、格子窓、紙障子戸は北陸の漁家建築と同じ系統のデザインです。 -
奥行き
茂入山に面し、庭もあります。場所請負人は専ら北陸/出羽出身の御用商人で、福山(松前)城下で生活します。場所(運上家)へは、代理として支配人たちを派遣しました。ヨイチ場所には、上ヨイチ場所/下ヨイチ場所の2箇所の運上家が建ちました。 -
裏には、弁財天を祀った祠があります。主屋以外にも多くの建物がありましたが、明治以降に取り壊されました。
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神威岬から先は女人禁制なので男性のみが赴任しましたが、蝦夷地が幕府直轄領(函館奉行所管轄)になった1855年に解禁されます。
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上手には、風光明媚な庭園もありました。
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通用玄関から土間を進むと囲炉裏にぶつかります。写真のように、振り返って右側の8畳間は障子戸で仕切られています。
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北前船の船主/船頭のためのスペースです。大坂から瀬戸内海/日本海を廻って蝦夷まで往来する廻船問屋です。蝦夷からは海産/毛皮品を仕入れ、代わりに食料/生活用品を供給/販売します。船頭は原則個人事業主で、寄港地での売買の当事者です。取引には何日もかかります。帰路は風待ち(秋の季節風)のために、運上家に滞在しました。
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船頭は、片道/往復の航海を終えると船絵馬を奉納して、神の加護を感謝しました。北前船は西洋船と比べて構造が弱く、毎回の航海は死と隣合わせでした。一方で一度の航海で、一生分の財産を築けるハイリスクハイリターンの事業でした。
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奥は、こんな感じ。
武士の上手に対し、こちらは下手(しもて)と呼ばれ、厳格な身分差が空間にも存在しました。 -
土間の奥には、下手便所がありました。使用人や通行人が使用しました。アイヌの土地である蝦夷で、運上家は旅人にとっても重要な施設でした。
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最初の板間は、手前が囲炉裏で奥が台所になっています。
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一段高い板間の奥は石室付酒部屋で、酒を厳重に保管しました。当時の酒とは日本酒の事で、米の穫れない蝦夷では貴重品でした。祝いの席だけでなく、アイヌとの交易で重要な商品でした。北前船で、越後/能登/若狭/摂津から供給されました。
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反対側(海側)は、番人/稼方の居間となっていました。アイヌも使用人に含まれたので、通詞(通訳)も勤務しました。
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囲炉裏の横に写っていた階段を上ると、使用人の寝室となっていました。
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窓からは屋根を観察できます。瓦ではなく板柾葺きで、越前から仕入れた檜皮(ひわだ)3000枚を使用しています。重りとして余市川の石2000個を使用した板柾葺石置屋根です。
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天井は無く、直接屋根に接しています。
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帳場
番人居間の隣は帳場で、畳敷き10畳です。運上家の中枢で、帳役が交易/漁業取扱い業務を行いました。漁獲高/金銭の出納/事務処理を行いました。 -
上手座敷
武士の区画です。中廊下も畳敷です。
赤絨毯は、床を保護するため順路に敷かれています。 -
勤番詰所
知行主/藩士/勤番下役が役所的な業務を行っていました。 -
上手玄関
松前藩士/幕府の役人のみが使用できました。 -
上級役人の侍女として腰元と呼ばれる女中が働きました。1691~1855年まで神威岬より先は女人禁制だったので、それ以降の様子です。ロシアとの緊張が高まると、松前藩に代わって幕府の直轄地となります。
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幕府より西蝦夷巡視を命じられた勘定吟味役村垣定行が1806年に下ヨイチ運上家へ立ち寄った史実を再現しています。
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同じく1806年に西蝦夷巡視を命ぜられた目付遠山金四郎が13日間滞在した様子を再現しています。時代劇でお馴染みの人物の父親で、長崎奉行も務めました。
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座敷の奥、縁側の廊下の先には、上手便所と風呂場がありました。
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続いて、浜中を西進し、福原漁場跡へ向かいます。鰊番屋等があります。
往時は、全長2.5kmの浜に23の漁場が建っていたそうです。 -
福原漁場(ぎょば)
鰊番屋が現存する所は結構ありますが、番屋以外の建物等が残る/復元されて全体像をイメージできる良い施設です。この点が評価されて、国の史跡に指定されています。旧余市福原漁場 名所・史跡
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主屋(19m×13m)
中央に玄関があり、左側の漁場経営者(親方)家族が住む畳敷区画と、右側の出稼ぎ漁師が生活する板敷区画で構成されます。屋根は柾板葺きです。
鰊漁は15世紀以降に松前藩領で行われましたが、不漁になると蝦夷地(アイヌの土地)へ進出します。これが18世紀以降です。 -
建網漁を行うには、最低30名の漁夫が必要です。春季だけなので、日本海側から出稼ぎ労働者をリクルートしました。鰊漁は、田植えまでの帰宅できるのがメリットです。
こちらは漁夫の溜り場(居間)で、囲炉裏を中心とする配置です。 -
溜り場の周囲には、コの字に寝台があります。2階は若い衆が使用し、1階は船頭/役付漁夫が使用しました。毎年同じ人がリクルートされました。
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食事は飯台(机)で行います。使用しないときは写真のように脚を外して、狭いスペースを有効使用しました。メインは白米で食べ放題、おかずは三平汁/鰊の切り込み/沢庵が標準で、毎日同じメニューでした。米食べ放題は、当時は魅力的な条件でした。治安と労働性を鑑みて、飲酒は特別な機会を除いて禁止されました。
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漁夫だけでなく、荷役/加工等の兵站は100名単位です。炊事係は、大量の食事を作るために、どうしても栄養バランスは二の次でした。米櫃は120kg入りました。
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こちらは親方家族のスペース。親方は神棚の下に鎮座しました。周囲の建具の中断は素通しガラスになっているので、浜や漁夫溜の様子を掌握できました。
福原漁場は福原才七が1880年に開設し、小黒氏を挟んで1912年に川内藤次郎の手に渡り、1981年に余市町へ寄贈されました。 -
此方にも囲炉裏や帳場、座敷、客間などもありました。浴槽付き風呂場が付いていますが、銭湯が開店すると、そちらを利用したそうです。
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こちらは散髪用の椅子。床屋へ行くのではなく、理容師が出張しました。
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トイレ棟は6坪で、親方家族用トイレの便器は高級な陶器製でした。トイレの下は6坪の便槽があり、風呂の捨て水や台所の排水が流れ込み、堆肥にして畑の肥やしにしました。
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使用人用トイレは木造便器です。大便用の他に、小便器(写真)もありました。
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トイレ棟の隣は、薪倉や物置小屋です。
薪は3尺(91cm)に切り揃えられ、奥行6尺まで並べます。その上は直角に並べ、交互に高さ5尺まで並べます。これが1敷という単位です。薪は炊事/暖房/鰊粕炊きに使用され、30人規模の番屋なら年間85敷を消費しました。冬季に自分の山か国有林の払い下げ分を買うことで調達しました。 -
文書庫
唯一の瓦葺きの建物です。権利書等の重要文書/高価な衣装や調度品を保管する金庫に相当する建物です。地上3階地下1階で、3階建ての蔵は道内唯一です。耐火性を重視した土蔵造で、壁は漆喰で塗り固められています。漆喰は雨/潮風に弱いので、板で覆うことで保護しています。乾季には板を外して、漆喰に溜まった湿気を逃します。 -
漆喰で固めた観音開きの分厚い防火扉。昔は、扉のそばに目潰し用の生味噌を置いておいたそうです。防火扉の先は、漆喰の裏白戸。その先は大戸と呼ばれる欅の一枚板で、カラクリ錠が付いていました。その先は中戸と呼ばれる潜り戸の付いた網戸で、カラクリ錠が付いていました。合計4つの扉で守られていました。
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鰊漁の網の配置(1912年版)
権利書に付属する海面図で、川内家は2系統の網を張り、左は須田権吉/右は奥寺徳次郎の漁場で、間隔がそれぞれ140間/66間と記載されています。漁業権は役所に登録され、厳密に守られました。変更も、その度に役所へ届け出ました。 -
大隈重信が川内藤次郎へ宛てた手紙(1917年)
大隈が日清生命を立ち上げた際に、社員を現地へ派遣するから人集め(契約)に協力を求める内容。川村は余市の名士だから、沢山人を集められると期待を示しています。 -
こちらは、1886年に函館から余市へ送った電報の控え。余市電信分局で取り扱ったのは、幸田露伴です。余市で2年間局員として赴任し、東京へ戻る道中で幸田露伴というペンネームを思いついたそうです。
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文書庫の奥は、復元された石倉。出荷品を保管しました。現在は道具等の展示スペースとなっています。21×7m、張り出し部分は4mです。
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鰊漁
年末~1月にかけて出稼ぎのリクルートに赴いた後、2月に仕事が始まります。先ずは雪掻き、そして船を海に出して、船揚場の整地作業を行います。 -
ウィンチを設置して、整地が終わると船を曳き揚げます。写真は人力ですが、昭和に電化します。
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次いで型入れを行います。網を張る前の下準備で、綱(写真)を張ってしっかりと固定します。
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綱がピンと張った状態を維持するために、重りをつけて沈めることでしっかりと固定します。叺(かます)に砂/砂利を詰めて俵にします。のま串で叺を刺して包みます。1俵は190kgほどで、一か所に2~5俵、1箇統で80~100俵を使用します。
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角網漁
型入れの綱に沿って網を張ります。各網漁は定置網の一種で、海岸線から見て垂直に垣網(手網)を300m程張って鰊の進路を塞ぎます。鰊は垣網に沿って箱型の身網(胴網)へ誘導されます。網は重りとアバと呼ばれる浮きで上下に引っ張られ、ピンと張った状態になります。 -
沖泊まり
鰊漁はタイミングが命です。群れの到来は群来(くき)と呼ばれ、沖に船を出して昼夜を問わずに見張ります。鰊は北から来るので、北方の漁場の群来ニュースを基に沖泊まりをはじめます。起船に屋形小屋を建てて住み込みます。 -
沖泊まりの携行品
左より、水樽の栓を抜いて水を飲みました。船内に入った海水はアカ汲みで排水しました。四角い洗面器もあります。沖弁当箱が3つ並んでいます。時には魚を釣って食料にしました。沖用手あぶりは、暖房具です。一番奥は沖用俎板です。上段は手提げもできるガス灯で海面を照らし、夕~早朝に接岸することの多い鰊を探しました。 -
他にも定置網の位置を知らせる沖印、陸上との通信に使った連絡灯や法螺貝もありました。
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鰊の群れが来ると、54m×18mの身網で待ち伏せします。左の屋根付きが起船、右が枠船です。15人以上が力作業をするので、全長15m以上の安定したスタイルの船です。起船の漁夫たちが身網を手繰り寄せ、鰊を枠船の方へ追いやります(起こし)。
枠船からは身網の中に「枠網」と呼ばれる小さな網を張り、鰊を枠網へ追いやります。 -
枠網がいっぱいになると、枠船の漁夫が身網から枠網を曳き抜きます。間髪を入れず、控えていた枠船が身網にアプローチし、枠網を投入します。とにかく時間が勝負です。
鰊の入った枠船は汲船に駆け寄り、鰊を汲船へ移します。 -
汲船の漁夫が大タモで枠網から鰊を汲み取ります。タモの大きさが分かるでしょうか?
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やしゃ鉤
大タモを持ち上げる際に鉤に引っ掛けて、持ち上げるのを支援しました。4人で担当します。 -
按配棒
鰊の入った大タモを持ち上げる際に、先端の二股の部分に柄を挟んで支援しました。4人で担当しました。 -
汲船は、こんな感じで桟橋に接岸します。
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桟橋ではポンタモを持った男たちが汲船から鰊を汲み出し、畚背負いの畚へ移します。
畚背負いは、廊下と呼ばれる軒下まで鰊を運びます。廊下が一杯になると魚坪(なつぼ)と呼ばれる野天に運びます。賃金は出来高払いでした。とにかく忙しかったので、畚を背負ったまま歩きながらオムスビを頬張る食事が常でした。 -
昭和に入ると、鮮魚として余市駅から貨物列車で小樽/札幌へ輸送する新しいビジネスも誕生します。
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鰊潰し
左親指をエラに差し込み、右手で腹を裂いて数の子(雌)/白子(雄)/エラ/内臓を取り除きます。。数日乾燥させることで身は柔らかく、数の子は良い塩梅に硬くなります。素手にテックビと呼ばれる指サックを親~中指に填めて作業します。 -
「潰し方」は地元の女性が従事し、台板の上に下敷という袋状の蓑の中に膝先を入れて、衣服が汚れないようにします。下敷の中にはガンピと呼ばれる檜皮を入れて、汚れが浸透しないようにします。しびれが切れないよう、ウマと呼ばれる尻敷の上に座りました。
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数の子/白子は、テッコと呼ばれる容器に入れて各々分別します。左はエビ笊で、エラ(笹目)/鰊等を分別しました。
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「繋ぎ方」は若い気の利く男性が務めます。遠くにある鰊をコマザライで潰し方の膝上に掻き寄せ、作業効率が落ちないよう目を配ります。
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近くにある鰊はマタブリで掻き寄せます。他には、笊一杯になった笹目や内臓を片付けます。潰し方と繋ぎ方が呼吸の合った作業をすることが肝心です。
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鰊繋ぎ
繋ぎ方の本業は、潰し方が処理した鰊を22尾単位で繋ぐことです(一連)。竹刺しの穴に繋ぎづらという藁を通したものを鰊のエラに通します。繋ぎづらは全長45cmで、先端部を編んで縄にしてあります。竹刺し=縫い針/繋ぎづら=縫い糸/縄=玉結びという役割です。 -
繋ぎ方は、あらい鉤と呼ばれる天秤棒を担いで鰊を干場まで運びます。ここで2,3日干すと、サバサキで身欠(背肉)/胴鰊(背骨)/ハラシ(腹肉)に分岐させ(鰊裂き)、再び2,3週間干します。
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乾燥したものを身欠きと肥料に分けます。胴鰊は肥料、腹肉は状態によって身欠きor肥料に分別します。
身欠き鰊は結束器で100本ずつ樹皮で縛り(1束/1把)、24束(24把)で1建と数えます。 -
1建=1俵=60kgが建前です。
胴鰊は2貫(7.5kg)で1束、8束で1建(8貫=60kg)で俵詰めされます。俵の口が開いた状態で棒秤に載せ、60kgの重りと平衡になるまで商品を加減します。 -
身欠き鰊/胴鰊の出荷状態
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鰊つぶしでテッコに入れられた数の子は、八合(きつ)と呼ばれる海水を満たした水槽へ入れられます。2,3日すると血抜きされ、身が締まります。その後、莚を敷いた干場で干すと出来上がりです。
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数の子干場の様子
数の子は樽詰めされ、秤棒で24貫(90kg)に調整すると蓋を閉められ、製品として出荷されます。
鰊潰しで分別された笹目(エラ)は、莚の上で乾燥して樽詰め(90kg)されて肥料として出荷します。 -
白子
鰊つぶしでテッコに入れられた白子は、台の上に簾を敷いた干場で乾燥させます。 -
白子ヘラを使って、乾燥中の白子を広げたり、乾燥したものを剥がします。
製品は24貫毎に樽詰めされ、肥料として出荷されます。 -
釜炊き
鰊潰しで分別した内臓や食用に適さない貧弱/傷のある個体は、鰊釜で90分間煮ました。1tの海水に350kgの鰊を投入します。鰊粕という肥料に加工します。 -
豊漁の年は、食用には限度があるので鰊をそのまま肥料にしました。漁獲量が減ると、食用の割合が高まります。最初から釜炊きする場合は、一度に1000尾を投入します。
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鰊と海水は温度が上がると製品にできなくなるので、細やかな温度管理が不可欠です。釜前柄杓で海水を足して、温度を一定に保ちます。煮終わるとポンタモ(しんで)で汲み出します。最後は釜シデで釜の底に付いた焦げを取ります。釜を観る係と、竈へ薪をくべる係と2人一組です。
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粕締め
ポンタモで釜から運んだ鰊は、隣接する搾胴(角胴)へ入れて、プレスして水分等を抜きます。写真のように初期は、テコの原理で圧搾しました。 -
圧搾は、ジャッキ式に改良されます。ハンドルを回すと軸のネジ目に沿ってどんどん締め付けられます。搾胴壁の隙間から出る搾り汁を玉台が受けて、莚で濾されて油槽へ流し込みます。鰊油は照明用として出荷されます。
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圧搾されたものを搾胴から抜き出します。搾胴は底に近づくほど細くなっており、抜き出しやすいように工夫されています。抜き出したものは粕玉と呼ばれます。
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粕玉は莚を敷いた鰊粕干場へ運ばれ、玉切包丁で写真のように裁断します。
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粕玉はエビリ棒で砕いて、コマザライで均して、乾燥しやすいようにします。
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ハンドルを回すだけの粕砕きが誕生すると、エビリ棒やコマザライは不要になります。
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粕干場は広大です。化学肥料が普及するまで日本の農業を支えました。乾燥/発酵を経て完成します。
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鰊粕は、90kg毎に樽詰めされました。粕つつき棒で突いて、樽詰めします。
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製品にはポンポンと呼ばれる毛判や抜き型と墨で、製造元を表示しました。
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4月末になると沖に弁財船が現れ、艀を使って出荷します。昭和までには汽船に取って代わります。鉄道網の整備で、余市駅から貨物輸送も行われます。
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裏には米味噌蔵(40坪)があります。年間消費量は1箇統当たり70俵なので、2箇統を営む川内家は140俵(8.4t)を消費しました。当時は米が殆ど穫れなかったので、本州から買い付けました。米だけでなく、鰊漁や加工に欠かせない稲わらも買い付けていました。
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鼠対策
鼠返しや、板壁に穴を開けられないよう腰板の内壁と外壁の間に小砂利を詰めています。 -
寒冷で稲作に適する品種が開発されていなかったので、味噌醤油等も買い付けました。漬物も保存しました。
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余市の鰊漁は1935年頃から深刻な不漁が続き、1947年に河内漁場は農業へ完全にシフトします。林檎農場などを経営しました。
続いて、明治の開拓史を紹介します。 -
会津藩は戊辰戦争で新政府軍に徹底抗戦し、藩士には逆賊の烙印を押されます。新政府は、北海道の開拓に元藩士を従事させる機会を与えます。1869(明治2)年に103戸(330名)が渡道し、1871年に余市の開拓が割り当てられます。
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余市へ向かった開拓団の人数は600名でした。開拓使本陣で、旧藩士227名の血判状「御受書」を提出しました。天皇への忠誠と、誠心を以て開拓に励むことで御恩に報いる決意表明でした。朝敵の汚名を晴らす機会を与えられた唯一の団体で、17000人の旧藩士の名誉を背負っての赴任でした。
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開墾に励む一方で教育を重視し、藩校日新館を継承する日進館を開設します。原野の住居の周りは熊をはじめとする野生動物の天国で、排煙口から鶏を狙う狐が侵入しました。
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林檎栽培
明治8年に開拓使が余市の各戸に苗を500本ずつ配布し、4年後に元藩士赤坂源八の木から6個、金子安蔵の木から7個が収穫されます。同年に秋田からの開拓団を迎え、彼らのリンゴ栽培術も活用されて余市のリンゴは高評価を得るようになります。リンゴは米の倍近い値段で取引されました。明治45年には北大農学部農園を誘致し、リンゴの病害対策にも取り組みます。 -
緋の衣
金子安蔵の木は19号という品種で、日本では緋の衣というブランド名で知られ、明治から昭和にかけて皇室へ献上された逸品でした。幕末に京都守護職を務めた会津藩主松平容保(かたもり)が孝明天皇から賜った御緋の衣に由来し、天皇への忠誠の証、藩士の誇りの色でした。ちなみに「ふじ」は、国光(49号)とデリシャスを掛け合わせたものです。 -
地元で侍小路と呼ばれる黒川7丁目の地所には、会津開拓団入植50年を記念して、開村記念碑が建っています。石碑がある付近は、旧藩士団幹部の住宅や教学所、共同浴場などが建っていました。石碑の背面には、明治の初め、巨木が生い茂り熊が吼え、狐や兎の住処であった大地に入植したことが記されています。
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1984年に福島県知事松平勇雄がお忍びで余市を訪れると、町は歓迎ムードでした。松平容保の孫ということで、忍びの筈が、あっという間に噂が広まったようです。入植1世が持ち込んだ会津戦争での兜なども見てもらったそうです。
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ニッカの工場近くには、殉節碑も建ちます。
会津藩家老萱野権兵衛の切腹に対するものです。 -
会津戦争では、筆頭/次席の家老が責任を取って切腹していましたが、新政府は徹底抗戦した会津藩の藩主松平容保の処罰に執着します。明治天皇は、藩主は忠君で罰してはならない、犯行の首謀者を見つけ処罰せよとの詔を発します。三席だった萱野権兵衛は進んで藩の責めを負い、謹慎先で切腹しました。藩を代表して開拓に従事することで汚名挽回に取り組んだ開拓団にとっては、他人事とは思えなかった心情が汲み取れます。
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会津藩士が実を成らせた13個のリンゴは、昭和初期には道内生産量の3割をシェアする産業に成長します。小樽/札幌という大消費地に近く、1902年に余市駅が開業したことに拠ります。小樽からは、樺太やウラジオストクへも輸出されました。
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林檎農園は、1935年を境に鰊が獲れなくなった網元と雇用者をも救済しました。少なくとも川村(写真)/猪俣/横浜/横山/大村といった網元が転業しています。そして
現在の余市を代表する、あのウィスキー会社の命を繋ぎます。 -
いざニッカミュージアムへ。
創業者の竹鶴政孝が蒸留所に余市を選んだのは、ウィスキーの本場スコットランドの環境に近かったからというのは有名ですが、もう一つの切実な事情も関係しました。ニッカミュージアム 美術館・博物館
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ウイスキーは製造から出荷まで熟成期間が必要です。最初の5年間(1934-38)は支出のみで、収入はゼロになります。その間は、リンゴ汁(林檎ジュース)を製造販売して会社を回しました。蒸留所の周囲は、余市リンゴ栽培の原点で、一帯はリンゴ園が広がっていたので、最低限のコストで原料調達が叶いました。
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ニッカとは何を意味するのでしょうか。
漢字表記は日果、大日本果汁株式会社の略称でした。ニッカという略称がブランドとして定着し、戦後に社名となります。 -
蒸溜施設を遊ばせておくのはもったいないということで、1936年にはアップルブランデーを販売、酒類メーカーとなります。他にも熟成が短いアップルワインも製造販売します。これらは現役のロングセラーです。1939年に第1号ウィスキーを出荷するまで、会社を支えたのが余市特産の林檎で、それは社名にも反映されました。
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ここからは創業者と会社の歴史を辿ります。
竹鶴政孝は、1894年に広島県竹原で生まれました。実家は、江戸時代から続く造り酒屋「竹鶴酒造」です。軟水というハンディを乗り越え品評会で1位を獲る等、当時の広島は進取の気性に富む風土でした。 -
大阪工業高等学校醸造科(阪大工学部の前身)へ進学し、洋酒に魅了されます。とはいえ、幼い頃から父の「酒はつくる人の心が移る」という言葉は、心構えとして継承されました。
卒業を待たずに摂津酒造(後に宝酒造へ吸収)へ就職し、大坂屈指の洋酒メーカーで才覚を表します。社長の提案でスコットランドへのウィスキー留学が実現します。 -
1918年に神戸から出港、マルセイユ行ではなくサンフランシスコ行に乗っていました。カリフォルニアでワイン製造を学ぶためです。NYでビザが中々下りなかったときはウィルソン大統領へ電報を送って催促し、大西洋で衝突事故に遭った際は、相手方の船の乗組員への義援金集めを率先するなど、彼の人となりが思い浮かばれるエピソードであふれています。
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グラスゴーでは、生涯のバイブルとなる書籍に出会い、著者に教えを乞うためにエルギンまで北行するも、法外な料金を吹っ掛けられ断念します。座学の限界を痛感し、ボーネスでは様々な酒蔵を巡りますが、蔵元秘伝の技術を教わるために進んで掃除を行う等します。秘伝の技術を飛び入りで教わろうとする厚かましさというか、タフなメンタルの持ち主です。
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スコットランドに着いてすぐに、リタに恋をします。片想いでした。周囲の反対は凄く、教会婚は叶わず民事婚のみでした。写真は結婚証明書、勿論本物で此処でしかお目に架かれないものです。留学を妻帯でやり遂げるバイタリティに驚かされます。1920年11月に2年以上の留学を終えて帰国します。
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世相は反転し、第一次世界大戦後の大不況で摂津酒造での夢は潰えます。1923年にウィスキー製造を始める寿屋(現サントリー)に就職し、1924年に山崎蒸留所の選定から製造まで従事し、1929年に初の国産ウィスキーを出荷します。しかし本場の味は日本人には合わず、経営陣と対立します。
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1934年に晴れて独立、予てより決めていた余市に蒸留所を建設します。余市川のきれいな水が豊富に手に入る立地です。5年後に熟成したウィスキーを出荷するも、翌年に軍の統制品に指定されます。海軍へ卸すこととなり、厳しい統制下でも原料を優先的に配給され、結果オーライでした。
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写真は、ニッカ第一号ウヰスキーです。1952年には、商号をニッカウヰスキー株式会社に変更しますが、戦後は本物にこだわるためにマーケットを席巻する3級酒(原酒5%以下)を作らないことで資金切りが悪化、税金を滞納します。
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遂に初代国税庁長官高橋衛(在1949-52)に呼び出され、3級酒製造を受け入れます。あくまでも品質勝負で、原酒をほぼ5%使用した「スペシャルブレンドウィスキー」を1950年に発売します。
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創業時から株式の70%を加賀証券が所有していましたが、1954年に加賀は朝日麦酒へ売却します。社長の山本為三郎は、カネは出すが口は出さない理想的パトロンで、営業部門を支援します。丸壜ニッキー(2級)は、業績を改善させます。
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1964年にはハイニッカ(2級)、1965年には新ブラックニッカ(3級)という現在に通じるロングセラーを発表し、他社ライバル製品と同価格という戦略を打ち出します。写真左は初代ブラックニッカ(1956年)で、モルトウィスキーの極致(特級)でした。そんなブランドを、3級酒(写真右)に使用したことで、只ならぬ自信を感じさせます。
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背景には、世界で唯一のカフェ式連続蒸溜器をスコットランドから導入したことです。前世紀の遺物と呼ばれる一方で、原料由来の香味がしっかりと抽出される連続蒸溜器です。西宮(→宮城)工場の操業でグレーンウィスキーをカフェ式で蒸溜することで、ブレンデッドウィスキー(モルト/グレーンの混合)の生産が実現しました。
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ススキノの広告で、ヒゲのおじさんの愛称でお馴染みのイラストは、1959年に大高重治がデザインし、ブラックニッカのラベルに使用されています。右は第一稿で、推敲を繰り返してよりシンプルで印象的なものへ変化したことが分かります。本物のお酒にふさわしいラベルです。ちなみに正式名はKING of BLENDERSで、 W・P・ローリーという伝説のブレンダーがモデルです。
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1961年に妻リタが亡くなると、政孝は人目を憚らずに号泣し、ショックのために葬式にも出席できませんでした。そんな政孝がリタへの感謝を込めて1962年に世に送り出したのがスーパーニッカ(特級)です。現在も屋台骨のブランドです。
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ニッカウィスキーは2001年には品評会で世界の頂点に立ったのをきっかけに、各コンテストを制覇していきます。プレミアムな分野でも世界のニッカとなっています。
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竹鶴政孝の哲学
企業に実入りの悪い特級酒に一方ならぬ情熱を生涯注ぎ続け、本物にこだわり続けました。余市の風土を選び、石炭直火蒸溜、ピーテッドモルト等にこだわりましたが、戦後の3級酒騒動で思考を広げ、宮城工場は余市と真逆のモルトウィスキーを製造し、違いを楽しみました。
職場の先輩が北大農学部の実習で余市を見学した際に、政孝氏自らもてなして最高級の原酒を振る舞ってくれたそうです。氏曰く、若いうちに本物の味を体験して、本物の酒を飲めるように仕事に精進してほしいとのこと。それなりの歳になってから探求(遠回り)するのではなく、最初に本物(美味しいのレベル)を知ること。これは人生哲学にも通じると思いました。20代半ばの留学で、本物のウィスキーに出逢った竹鶴氏。 -
竹鶴政孝の晩酌相手は、プレミア品ではなくハイニッカでした。ちょっと頑張れば手の届く2級酒、しかも水割りです。毎日飲むなら、胃に優しい水割り、普通の夕食(和食)に合うブレンデッドというチョイスです。ハレと日常をしっかりと分けるところにも大人感があります。妥協はしないけど、広い心を持てるように成長したいものです。
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最後は、お約束の試飲。
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余市らしいシングルモルトを選択。オークの新樽で熟成。奥が深い飲み物です。
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