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アジャクシオは、歴史もキャリアもバスティアに及ばない存在でしたが、イタリア発祥のボナパルト家がフランスに協力することで歴史が変わります。<br />第一帝政下でコルシカの政治都市となり、失脚後は英国人が訪れることでリゾート化が促進されます。ナポレオン生誕地として聖地にもなり、観光地として発展します。すべてがバスティアと対照的な街を歩いてみます。<br />1943年9月9日にフランス本土で最初に解放された都市でもあります。<br />アジャクシオについての体系的資料が乏しいこともあり、街歩きの中で極力体系的に歴史の流れが分かるようにしてみました。<br /><br /><br />

アジャクシオ:ナポレオン生誕の街はフランスの香り コルシカ三都物語③

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2025/12/22 - 2025/12/22

4位(同エリア23件中)

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gianiさん

この旅行記スケジュールを元に

アジャクシオは、歴史もキャリアもバスティアに及ばない存在でしたが、イタリア発祥のボナパルト家がフランスに協力することで歴史が変わります。
第一帝政下でコルシカの政治都市となり、失脚後は英国人が訪れることでリゾート化が促進されます。ナポレオン生誕地として聖地にもなり、観光地として発展します。すべてがバスティアと対照的な街を歩いてみます。
1943年9月9日にフランス本土で最初に解放された都市でもあります。
アジャクシオについての体系的資料が乏しいこともあり、街歩きの中で極力体系的に歴史の流れが分かるようにしてみました。


旅行の満足度
5.0
  • コルシカ共和国の首都であった山岳都市コルテを出ると、

    コルシカ共和国の首都であった山岳都市コルテを出ると、

  • 山は深くなります。

    山は深くなります。

  • 気分が上がる車窓

    気分が上がる車窓

  • 右も左も絶景続き

    右も左も絶景続き

  • アジャクシオ湾が見えました。

    アジャクシオ湾が見えました。

  • 終点アジャクシオ駅です。<br />コルシカ島の主都ですが、バスティアやコルテと違って、歴史を学べるミュージアムが無く歴史スポットも少ないのが玉に瑕。その代わりに、美術館とナポレオン生家(国立)が存在します。<br />

    終点アジャクシオ駅です。
    コルシカ島の主都ですが、バスティアやコルテと違って、歴史を学べるミュージアムが無く歴史スポットも少ないのが玉に瑕。その代わりに、美術館とナポレオン生家(国立)が存在します。

  • 略史①<br />アジャクシオは、ナポレオン生誕の地を謳う観光都市です。ボナパルト家の歴史を追うと、街の歴史がかなり見えてきます。アジャクシオの歴史は淡白で資料に乏しく、ローマ時代の遺跡が空港周辺で見られ、中世までそちらが市街地でした。1000年頃にピサ、その後ジェノバが進出します。ジェノバの守護聖人に因んで、聖ヨハネの丘と呼ばれました。

    略史①
    アジャクシオは、ナポレオン生誕の地を謳う観光都市です。ボナパルト家の歴史を追うと、街の歴史がかなり見えてきます。アジャクシオの歴史は淡白で資料に乏しく、ローマ時代の遺跡が空港周辺で見られ、中世までそちらが市街地でした。1000年頃にピサ、その後ジェノバが進出します。ジェノバの守護聖人に因んで、聖ヨハネの丘と呼ばれました。

  • 略史②<br />ジェノバが本格的にテコ入れしたのは、1492~1520年にかけて築いた要塞(シタデル)からです。かつての市街地と2kmほど離れており、ここを中心に現在の街が形成されます。三方を海に囲まれているために要塞化が容易で、近くには大型船舶を停泊できる停泊地があります。地中海航路におけるコルシカ島西岸の補給基地/西部の支配拠点を兼ねて建設されました。サラセン人による海賊行為からの防御も必要でした。

    略史②
    ジェノバが本格的にテコ入れしたのは、1492~1520年にかけて築いた要塞(シタデル)からです。かつての市街地と2kmほど離れており、ここを中心に現在の街が形成されます。三方を海に囲まれているために要塞化が容易で、近くには大型船舶を停泊できる停泊地があります。地中海航路におけるコルシカ島西岸の補給基地/西部の支配拠点を兼ねて建設されました。サラセン人による海賊行為からの防御も必要でした。

  • 併せて、ジェノバから移住者を募り、その中には1510年に入植したボナパルト家もいました。現在の要塞/旧市街は、1563年以降のものです。1707年の地図を見ると、海に突き出た部分に要塞が築かれ、都市全体が城塞(シタデル)に囲まれていることがわかります。1492年以降に開発された市街へのコルシカ人立入は禁止されました。

    併せて、ジェノバから移住者を募り、その中には1510年に入植したボナパルト家もいました。現在の要塞/旧市街は、1563年以降のものです。1707年の地図を見ると、海に突き出た部分に要塞が築かれ、都市全体が城塞(シタデル)に囲まれていることがわかります。1492年以降に開発された市街へのコルシカ人立入は禁止されました。

  • 略史③<br />1768年にジェノバ債務不履行のために、担保となっていたコルシカ島はフランスへ譲渡されます。翌69年にナポレオンが誕生します。ボナパルト家はフランス統治下で初めて貴族に加えられ、ナポレオンは陸軍幼年/士官学校へ進学する道が開かれます。フランス革命を経て、彼はフランス人として自らの野望を実行します。

    略史③
    1768年にジェノバ債務不履行のために、担保となっていたコルシカ島はフランスへ譲渡されます。翌69年にナポレオンが誕生します。ボナパルト家はフランス統治下で初めて貴族に加えられ、ナポレオンは陸軍幼年/士官学校へ進学する道が開かれます。フランス革命を経て、彼はフランス人として自らの野望を実行します。

  • 略史④<br />ナポレオン第一帝政下の1811年に、コルシカの主都はバスティアからアジャクシオへ移され、様々な恩恵を受けます。1768年にフランス領となってもイタリア語/イタリア文化が島内を席巻する中、アジャクシオはフランス文化の窓口となります。ウィーン体制以降は、国際的な観光地/避寒地として発展します。

    略史④
    ナポレオン第一帝政下の1811年に、コルシカの主都はバスティアからアジャクシオへ移され、様々な恩恵を受けます。1768年にフランス領となってもイタリア語/イタリア文化が島内を席巻する中、アジャクシオはフランス文化の窓口となります。ウィーン体制以降は、国際的な観光地/避寒地として発展します。

  • 略史⑤<br />ナポレオンの叔父である枢機卿フェッシュの絵画遺産、甥のナポレオン3世による皇帝礼拝堂の建設等、第二共和政/第二帝政下でもアジャクシオはナポレオンの生誕地として箔を付けます。

    略史⑤
    ナポレオンの叔父である枢機卿フェッシュの絵画遺産、甥のナポレオン3世による皇帝礼拝堂の建設等、第二共和政/第二帝政下でもアジャクシオはナポレオンの生誕地として箔を付けます。

  • 略史⑥<br />国内/国外を問わず、航路/空路の玄関口として、コルシカの経済の主都として現在も君臨します。クルーズ船の寄港数はマルセイユに次ぎ、観光面でもコルシカ島をリードしています。政治面でも2018年に自治権が拡大した新しい地域共同体の主都として機能しています。<br />

    略史⑥
    国内/国外を問わず、航路/空路の玄関口として、コルシカの経済の主都として現在も君臨します。クルーズ船の寄港数はマルセイユに次ぎ、観光面でもコルシカ島をリードしています。政治面でも2018年に自治権が拡大した新しい地域共同体の主都として機能しています。

  • コルシカは複雑な歴史を持ち、詳細を記述するのは困難です。アレクサンドル・サングイネッティ曰く「ローマ以降、コルシカは19回の支配交代、37回の名称変更、37回の総反乱、7回の無政府状態を経験してきました」。独立は悲願でしたが、侵攻者に組して自治を得ようとする勢力と、厭くまで独立を求める勢力との内紛が伴いました。ここでは、主要事件/主要派の観点をピックアップするに留まることをお断りします。<br />では、街を歩いてみます。

    コルシカは複雑な歴史を持ち、詳細を記述するのは困難です。アレクサンドル・サングイネッティ曰く「ローマ以降、コルシカは19回の支配交代、37回の名称変更、37回の総反乱、7回の無政府状態を経験してきました」。独立は悲願でしたが、侵攻者に組して自治を得ようとする勢力と、厭くまで独立を求める勢力との内紛が伴いました。ここでは、主要事件/主要派の観点をピックアップするに留まることをお断りします。
    では、街を歩いてみます。

  • シタデルは、三方を海に囲まれた旧市街のどん詰まり(西方向)にあります。ジェノバ共和国はイタリア戦争を頂点とするフランス王国のイタリア侵攻(1396~1559年)に巻き込まれます。1492-1520年にかけて建設された要塞都市は、ジェノヴァ政府の財政難に伴い、統治を委託されたサンジョルジオ銀行を介して行われます。アジャクシオは、1554-59年にフランス軍に占領されます。<br />

    シタデルは、三方を海に囲まれた旧市街のどん詰まり(西方向)にあります。ジェノバ共和国はイタリア戦争を頂点とするフランス王国のイタリア侵攻(1396~1559年)に巻き込まれます。1492-1520年にかけて建設された要塞都市は、ジェノヴァ政府の財政難に伴い、統治を委託されたサンジョルジオ銀行を介して行われます。アジャクシオは、1554-59年にフランス軍に占領されます。

    ホテル サン カルリュ シタデル ホテル

  • アジャクシオ占拠は、サンピエロ・コルソ(写真1498-1567年)の部隊によって実行されます。サンピエロはコルシカ(Corso)出身者で、名称から分かるように苗字を持たない庶民の出でした。1526年以降フランスの傭兵となることで、コルシカの宗主国ジェノバへの敵愾心と独立を表明しました。妻を殺した後にコルシカへ上陸してジェノバへのゲリラ活動を続けますが、1567年に妻の親族に暗殺されます。ナポレオン/パオリと並ぶ島民の3大英雄とされます。

    アジャクシオ占拠は、サンピエロ・コルソ(写真1498-1567年)の部隊によって実行されます。サンピエロはコルシカ(Corso)出身者で、名称から分かるように苗字を持たない庶民の出でした。1526年以降フランスの傭兵となることで、コルシカの宗主国ジェノバへの敵愾心と独立を表明しました。妻を殺した後にコルシカへ上陸してジェノバへのゲリラ活動を続けますが、1567年に妻の親族に暗殺されます。ナポレオン/パオリと並ぶ島民の3大英雄とされます。

  • 1559年のカトー=カンブレジ条約(墺西=仏)でコルシカ島がジェノバに返還されると、トルコの脅威に備えるために古い城壁を取り壊します。1563年に始まった工事は大規模な立ち退きを伴い、フェリペ2世が派遣した軍事顧問フラティーノの設計に基づき、シタデルの周りに堀を巡らして堀と海に囲まれて孤立した空間を創出して防御を高めます。

    1559年のカトー=カンブレジ条約(墺西=仏)でコルシカ島がジェノバに返還されると、トルコの脅威に備えるために古い城壁を取り壊します。1563年に始まった工事は大規模な立ち退きを伴い、フェリペ2世が派遣した軍事顧問フラティーノの設計に基づき、シタデルの周りに堀を巡らして堀と海に囲まれて孤立した空間を創出して防御を高めます。

  • 1768年にフランス領となってからも整備は続き、城壁に開けられた砲門は石材よりも丈夫な煉瓦財が使用されて、被弾時の耐性を強めています1784年には、堀が強化されて現在の姿になります。城塞への唯一の入口は、堀に架かる橋だけです。

    1768年にフランス領となってからも整備は続き、城壁に開けられた砲門は石材よりも丈夫な煉瓦財が使用されて、被弾時の耐性を強めています1784年には、堀が強化されて現在の姿になります。城塞への唯一の入口は、堀に架かる橋だけです。

  • 2014年まで軍事施設でしたが、現在は市に移管され、堀は競技用コートとなるなどユニークな使われ方をしています。内部の建造物は、レストラン等が入居します。

    2014年まで軍事施設でしたが、現在は市に移管され、堀は競技用コートとなるなどユニークな使われ方をしています。内部の建造物は、レストラン等が入居します。

  • 堀を挟んで要塞と相対する市街地は、1563-84年にかけて城壁で囲まれました。要塞沿いに城壁跡の道を進むと、海に突き当たります。

    堀を挟んで要塞と相対する市街地は、1563-84年にかけて城壁で囲まれました。要塞沿いに城壁跡の道を進むと、海に突き当たります。

  • 少し戻って、シタデルへの渡り口の向かいにあるフォルシオリ・コンティ通りを進むと、ナポラマの向かいに碇のマークと共に「船乗りのための教会 1617年(建立)」と書かれたプレートが。

    少し戻って、シタデルへの渡り口の向かいにあるフォルシオリ・コンティ通りを進むと、ナポラマの向かいに碇のマークと共に「船乗りのための教会 1617年(建立)」と書かれたプレートが。

  • 礼拝堂には帆船が吊るされています。3世紀のフォルミア司教で、生きながら腸を巻き取られて殉教した聖エラスムスに献堂された教会です。

    礼拝堂には帆船が吊るされています。3世紀のフォルミア司教で、生きながら腸を巻き取られて殉教した聖エラスムスに献堂された教会です。

  • エラスムスが祈りを捧げると落雷から守られたという伝承から、雷から身を守ってくれるよう執り成しを願う船乗りたちの信仰を集め、船乗りの守護聖人となりました。<br />※福音書には、聖人に祈ることや執り成しを求めることをイエスが戒める記述があります。

    エラスムスが祈りを捧げると落雷から守られたという伝承から、雷から身を守ってくれるよう執り成しを願う船乗りたちの信仰を集め、船乗りの守護聖人となりました。
    ※福音書には、聖人に祈ることや執り成しを求めることをイエスが戒める記述があります。

  • 聖母被昇天大聖堂(サンタマリア・アッスンタ教会) <br />更に通りを進むと、オレンジ色のファサードの教会が。コルシカ島全体を司るアジャクシオ教区の司教座がある教会です。入口上には、1593年に大聖堂の最後の石が据えられたことを記念する銘板があります。

    聖母被昇天大聖堂(サンタマリア・アッスンタ教会)
    更に通りを進むと、オレンジ色のファサードの教会が。コルシカ島全体を司るアジャクシオ教区の司教座がある教会です。入口上には、1593年に大聖堂の最後の石が据えられたことを記念する銘板があります。

  • 元々はローマ時代から続く遺跡エリアに教会がありましたが、司教はボニファシオに駐在しており、アジャクシオへ移動したのは1503年です。司教座は1520年に完成した旧城塞内の聖十字架教会へ移りましたが、1563年のシタデル改築の際に立ち退き、1577年から1593年にかけて現在地に建立されました。

    元々はローマ時代から続く遺跡エリアに教会がありましたが、司教はボニファシオに駐在しており、アジャクシオへ移動したのは1503年です。司教座は1520年に完成した旧城塞内の聖十字架教会へ移りましたが、1563年のシタデル改築の際に立ち退き、1577年から1593年にかけて現在地に建立されました。

  • 1801年のコンコルダート(政教条約)※を経て、第一帝政下の1805年に島内の5教区がアジャクシオ教区に統一されます。<br />※この場合は、フランス革命で発生した教会と政府の対立を解消するためナポレオンと教皇ピウス7世の間に結ばれた条約を指す。

    1801年のコンコルダート(政教条約)※を経て、第一帝政下の1805年に島内の5教区がアジャクシオ教区に統一されます。
    ※この場合は、フランス革命で発生した教会と政府の対立を解消するためナポレオンと教皇ピウス7世の間に結ばれた条約を指す。

  • ナポレオンが洗礼を受けた教会でもあります。彼の誕生日は8/15で、聖母被昇天の祝日と重なります。ここでミサに参加中に母が産気付き、椅子に座ったまま自宅へ運んで出産しました。<br />内部は、1811年にエリザ・ボナパルト(ナポレオンの妹)から寄贈された翼廊と合唱席、そして高祭壇の彩色装飾が映えます。

    ナポレオンが洗礼を受けた教会でもあります。彼の誕生日は8/15で、聖母被昇天の祝日と重なります。ここでミサに参加中に母が産気付き、椅子に座ったまま自宅へ運んで出産しました。
    内部は、1811年にエリザ・ボナパルト(ナポレオンの妹)から寄贈された翼廊と合唱席、そして高祭壇の彩色装飾が映えます。

    アジャクシオ大聖堂 寺院・教会

  • フォルシオリ・コンティ通りはカテドラルの先でウージェーン・マシーニ通りに合流し、海側には工事中のドゴール広場が広がります(写真)。ウージェーン・マシーニ通りは城壁跡で、ドゴール広場は当時は城壁外で、神学校やフランシスコ修道会の経営する病院の敷地でした。

    フォルシオリ・コンティ通りはカテドラルの先でウージェーン・マシーニ通りに合流し、海側には工事中のドゴール広場が広がります(写真)。ウージェーン・マシーニ通りは城壁跡で、ドゴール広場は当時は城壁外で、神学校やフランシスコ修道会の経営する病院の敷地でした。

    ドゴール広場(アジャクシオ) 広場・公園

  • アントワーヌスラフィーニ通りに挟まれたマレシャルフォッシュ(フォッシュ元帥)広場は城壁前の広場です。4頭のライオンから吹き出る噴水があり、その上にはローマ時代のコンスル(執政官)に扮したナポレオンが立ちます。1799-1804年の統領政府で第一統領(Premier Consul)だったことへのオマージュです。城壁跡は、現在のポルタ通りに該当します。<br />※フォッシュ元帥は第一次世界大戦の連合国軍司令官で、ナポレオンの戦法を20世紀に応用する戦術を用いました。

    アントワーヌスラフィーニ通りに挟まれたマレシャルフォッシュ(フォッシュ元帥)広場は城壁前の広場です。4頭のライオンから吹き出る噴水があり、その上にはローマ時代のコンスル(執政官)に扮したナポレオンが立ちます。1799-1804年の統領政府で第一統領(Premier Consul)だったことへのオマージュです。城壁跡は、現在のポルタ通りに該当します。
    ※フォッシュ元帥は第一次世界大戦の連合国軍司令官で、ナポレオンの戦法を20世紀に応用する戦術を用いました。

    マレシャル フォッシュ広場 広場・公園

  • 現在のボナパルト通り<br />元々はマレルバ通りという名称でした。写真右には、1er consul(第一統領)というお店が写っています。この部分(ポルタ通りと交わる地点)に旧市街への正面入口(唯一の出入口)がありました。熊手の形をしていたことから、Cazerne門と呼ばれました。

    現在のボナパルト通り
    元々はマレルバ通りという名称でした。写真右には、1er consul(第一統領)というお店が写っています。この部分(ポルタ通りと交わる地点)に旧市街への正面入口(唯一の出入口)がありました。熊手の形をしていたことから、Cazerne門と呼ばれました。

  • ナポレオン生家<br />9歳まで過ごした家です。フランス語ではMaison Bonaparte(ボナパルト家)となっています。イギリスが侵攻してアングロ・コルシカ王国が樹立される時勢に伴い、一家は1793年に亡命しています。1796年にフランス領へ戻ると大改装され、翌97年にパオリ派に危険を感じて亡命、以降は乳母等が管理します。1923年に国家へ寄贈されました。

    ナポレオン生家
    9歳まで過ごした家です。フランス語ではMaison Bonaparte(ボナパルト家)となっています。イギリスが侵攻してアングロ・コルシカ王国が樹立される時勢に伴い、一家は1793年に亡命しています。1796年にフランス領へ戻ると大改装され、翌97年にパオリ派に危険を感じて亡命、以降は乳母等が管理します。1923年に国家へ寄贈されました。

    ナポレオンの生家 建造物

  • 1967年からは、博物館として一般公開されています。内部は度々改装され、ナポレオン時代の様子は失われています。<br />ボナパルト家は、サンピエロ・コルソ妻の実家である名門貴族ドルナノ家をはじめ、様々な勢力と血縁/地縁を結び、アジャクシオの名家へと発展します。

    1967年からは、博物館として一般公開されています。内部は度々改装され、ナポレオン時代の様子は失われています。
    ボナパルト家は、サンピエロ・コルソ妻の実家である名門貴族ドルナノ家をはじめ、様々な勢力と血縁/地縁を結び、アジャクシオの名家へと発展します。

  • 聖ヒエロニムスと浸礼者聖ヨハネ礼拝堂<br />ボナパルト家から数十メートル、ロワドローム(ローマ王)通りに面し、旧市街で最も古い1565年築の宗教施設です。当初は、浸礼者聖ヨハネ礼拝堂という名称でした。ナポレオンの弟ルイ/リュシアン、妹エリザは此処で洗礼を受けました。フランス革命中には、舞踏ホールとして使用されます。地下室には集団墓地がありました。現在の奇妙な名称(組み合わせ)には、微妙な歴史的経緯が絡んでいます。

    聖ヒエロニムスと浸礼者聖ヨハネ礼拝堂
    ボナパルト家から数十メートル、ロワドローム(ローマ王)通りに面し、旧市街で最も古い1565年築の宗教施設です。当初は、浸礼者聖ヨハネ礼拝堂という名称でした。ナポレオンの弟ルイ/リュシアン、妹エリザは此処で洗礼を受けました。フランス革命中には、舞踏ホールとして使用されます。地下室には集団墓地がありました。現在の奇妙な名称(組み合わせ)には、微妙な歴史的経緯が絡んでいます。

  • 15cまでの市街地には、ジェノバ共和国の守護聖人である浸礼者ヨハネに捧げられた初期の聖堂が建ち、1757年まで存続しました(この経緯から、サンジャン地区/聖ヨハネの丘等と呼ばれます)。写真は18世紀の様子で、海側にヴェッキオ城の塔が見えます。位置情報には近似地を入れています。<br />先述のとおり、コルシカ人はジェノバ人の造った市街地(城壁内)への立入を禁止されており、コルシカ人のための教会に変容していました。そして教会付属の浸礼者ヨハネ同胞団(兄弟団/信徒会)が誕生し、相互扶助を促進します。

    15cまでの市街地には、ジェノバ共和国の守護聖人である浸礼者ヨハネに捧げられた初期の聖堂が建ち、1757年まで存続しました(この経緯から、サンジャン地区/聖ヨハネの丘等と呼ばれます)。写真は18世紀の様子で、海側にヴェッキオ城の塔が見えます。位置情報には近似地を入れています。
    先述のとおり、コルシカ人はジェノバ人の造った市街地(城壁内)への立入を禁止されており、コルシカ人のための教会に変容していました。そして教会付属の浸礼者ヨハネ同胞団(兄弟団/信徒会)が誕生し、相互扶助を促進します。

    カステル ヴェッキオ ホテル

  • 1579年にコルシカ人とジェノバ人のコミュニティ間で和平条約が締結され、翌年には両者の同胞団が合併して、聖ヒエロニムス&浸礼者聖ヨハネ同胞団が誕生します。写真は、ジェノバ公文書館に保存されている結成時の書類です。聖ヒエロニムス同胞団は従来通り、聖エラスムス教会横の礼拝堂と附属病院で活動し、浸礼者聖ヨハネ同胞団は、浸礼者ヨハネ礼拝堂で活動しました。フランス革命後にヨハネ礼拝堂に統一され、20世紀半ばに活動を休止します。

    1579年にコルシカ人とジェノバ人のコミュニティ間で和平条約が締結され、翌年には両者の同胞団が合併して、聖ヒエロニムス&浸礼者聖ヨハネ同胞団が誕生します。写真は、ジェノバ公文書館に保存されている結成時の書類です。聖ヒエロニムス同胞団は従来通り、聖エラスムス教会横の礼拝堂と附属病院で活動し、浸礼者聖ヨハネ同胞団は、浸礼者ヨハネ礼拝堂で活動しました。フランス革命後にヨハネ礼拝堂に統一され、20世紀半ばに活動を休止します。

  • 死の同胞団<br />18世紀に貧者の増加に伴い、新たに死の同胞団が誕生し、浸礼者ヨハネ礼拝堂内を本拠地とします。写真のように、1742年に数十メートル先に新たに教会(サン・カルロ・ボロメオ教会)を構えます。ナポレオンの祖父ジュゼッペと大叔父ナポレオーネ・ボナパルトが、この兄弟団のトップを歴任しました。

    死の同胞団
    18世紀に貧者の増加に伴い、新たに死の同胞団が誕生し、浸礼者ヨハネ礼拝堂内を本拠地とします。写真のように、1742年に数十メートル先に新たに教会(サン・カルロ・ボロメオ教会)を構えます。ナポレオンの祖父ジュゼッペと大叔父ナポレオーネ・ボナパルトが、この兄弟団のトップを歴任しました。

  • 再びフォッシュ元帥広場へ戻ります。クリスマスマーケットの最中です。

    再びフォッシュ元帥広場へ戻ります。クリスマスマーケットの最中です。

  • 海へ突き当ります。左側はバスティア/ボニファシオの標識があります。<br />右へ曲がると、

    海へ突き当ります。左側はバスティア/ボニファシオの標識があります。
    右へ曲がると、

  • 旧城壁跡で、向こうに要塞が見えます。これで旧市街を一周しました。

    旧城壁跡で、向こうに要塞が見えます。これで旧市街を一周しました。

  • 1707年の地図<br />カテドラル等に面したフォルシオリ・コンティ通りは水色、ロワドロメ通りは黄色、現在のボナパルト通りは紫色、フォッシュ元帥広場は緑色で加筆しています。ロワドロメ通りの先には、1584年にダイヤモンド堡塁が建設され、城塞対角の守りを強化しています。ボナパルト通りと改称される前のマレルバ通りは、市門を経てコルテまで続く道です。

    1707年の地図
    カテドラル等に面したフォルシオリ・コンティ通りは水色、ロワドロメ通りは黄色、現在のボナパルト通りは紫色、フォッシュ元帥広場は緑色で加筆しています。ロワドロメ通りの先には、1584年にダイヤモンド堡塁が建設され、城塞対角の守りを強化しています。ボナパルト通りと改称される前のマレルバ通りは、市門を経てコルテまで続く道です。

  • フォッシュ元帥広場の反対側には、市役所があります。市役所/町役場/村役場は、一律にHotel de villeと表記されます。覚えて損はない言葉です。

    フォッシュ元帥広場の反対側には、市役所があります。市役所/町役場/村役場は、一律にHotel de villeと表記されます。覚えて損はない言葉です。

  • クルマが侵入できないカルディナルフェッシュ(フェッシュ枢機卿)通りは、アジャクシオ隋一の観光通りです。かつてはマレルバ/ウ・ボルグ通りと呼ばれ17世紀半ばに舗装されます。

    クルマが侵入できないカルディナルフェッシュ(フェッシュ枢機卿)通りは、アジャクシオ隋一の観光通りです。かつてはマレルバ/ウ・ボルグ通りと呼ばれ17世紀半ばに舗装されます。

  • 通りの右側(海側)には、フランス有数の絵画コレクションを誇るフェッシュ美術館が建ちます。

    通りの右側(海側)には、フランス有数の絵画コレクションを誇るフェッシュ美術館が建ちます。

  • その向かいには、サン・ルッチェッル礼拝堂(聖ロックの小さな礼拝堂の意味)が。<br />1599年の建立当時は、海岸を見下ろす小高い場所を意味するサン・ロッキュ・スル・マーレと呼ばれ、付属庭園が海岸まで続きました。かつて庭園だった部分は、現在フッシュ美術館等になっています。1895年にナポレオン通りに壮大なサン・ロッホ教会が建設されたことで、教会から礼拝堂へ変化しています。

    その向かいには、サン・ルッチェッル礼拝堂(聖ロックの小さな礼拝堂の意味)が。
    1599年の建立当時は、海岸を見下ろす小高い場所を意味するサン・ロッキュ・スル・マーレと呼ばれ、付属庭園が海岸まで続きました。かつて庭園だった部分は、現在フッシュ美術館等になっています。1895年にナポレオン通りに壮大なサン・ロッホ教会が建設されたことで、教会から礼拝堂へ変化しています。

  • 主祭壇の祭壇画は、コリント様式の漆喰塗りの4本の柱で構成され、大理石を模した二重台座が美しい効果を生み出しています。側壁には、厚いコーニスを支える平らなピラスターがあり、2つのアーチが貫通し、2つの側礼拝堂へと続いています。

    主祭壇の祭壇画は、コリント様式の漆喰塗りの4本の柱で構成され、大理石を模した二重台座が美しい効果を生み出しています。側壁には、厚いコーニスを支える平らなピラスターがあり、2つのアーチが貫通し、2つの側礼拝堂へと続いています。

  • サン・ロックとサン・セバスチャン同心会の本部でもあり、サン・ロック信徒会の信徒たちは、夜間は市の門が閉ざされるためにノートルダム大聖堂の礼拝に出席できない城壁の外の人々へ聖餐を届けました。

    サン・ロックとサン・セバスチャン同心会の本部でもあり、サン・ロック信徒会の信徒たちは、夜間は市の門が閉ざされるためにノートルダム大聖堂の礼拝に出席できない城壁の外の人々へ聖餐を届けました。

  • 身廊は半円形のヴォールトで覆われ、ファサード裏には聖歌隊席があります。オルガンは現在のサン・エラズム教会から1774年に移設されたものです。身廊周辺の壁は堅木張りで、信徒会会員のための席が取り付けられています。<br />

    身廊は半円形のヴォールトで覆われ、ファサード裏には聖歌隊席があります。オルガンは現在のサン・エラズム教会から1774年に移設されたものです。身廊周辺の壁は堅木張りで、信徒会会員のための席が取り付けられています。

  • ロック(仏名ロッシュ)は、14世紀半ば南仏モンペリエに生まれ、フランシスコ修道会に入会し、ローマ巡礼の旅の途上で奇跡的な方法で人々のペストを治療し、「神の使者」という名声を得ました。次の巡礼中にスパイと間違われて投獄されますが、巡礼者の誓いである匿名の誓いを守り、1379年頃に獄死します。遺体は後にヴェネツィアのサン・ロッホ教会に埋葬され、イタリアとフランスで顕著では医療従事者/犬の守護聖人、ペストを癒す聖人として信仰されます。殉教した8月16日が聖人の日です。

    ロック(仏名ロッシュ)は、14世紀半ば南仏モンペリエに生まれ、フランシスコ修道会に入会し、ローマ巡礼の旅の途上で奇跡的な方法で人々のペストを治療し、「神の使者」という名声を得ました。次の巡礼中にスパイと間違われて投獄されますが、巡礼者の誓いである匿名の誓いを守り、1379年頃に獄死します。遺体は後にヴェネツィアのサン・ロッホ教会に埋葬され、イタリアとフランスで顕著では医療従事者/犬の守護聖人、ペストを癒す聖人として信仰されます。殉教した8月16日が聖人の日です。

  • セバスティアヌスは南仏ナルボンヌで生まれ、百人隊長まで出世するも改宗ゆえに柱に縛り付けられ、矢の雨を受けます。それでも死なず、殴殺されて遺体は下水道に投げ込まれますが、奇跡的な方法で遺体の在りかが明かされ、ローマでペテロとパウロの隣に埋葬されます。兵士/警察官、ペテロとパウロに次ぐローマの第三の守護聖人、伝染病と戦う守護聖人として信仰されています。

    セバスティアヌスは南仏ナルボンヌで生まれ、百人隊長まで出世するも改宗ゆえに柱に縛り付けられ、矢の雨を受けます。それでも死なず、殴殺されて遺体は下水道に投げ込まれますが、奇跡的な方法で遺体の在りかが明かされ、ローマでペテロとパウロの隣に埋葬されます。兵士/警察官、ペテロとパウロに次ぐローマの第三の守護聖人、伝染病と戦う守護聖人として信仰されています。

  • 向かいのフェッシュ美術館には、フェッシュ枢機卿の銅像が立ちます。ナポレオンの母方の叔父で、死後に膨大なコレクションの一部がアジャクシオへ寄贈されました。

    向かいのフェッシュ美術館には、フェッシュ枢機卿の銅像が立ちます。ナポレオンの母方の叔父で、死後に膨大なコレクションの一部がアジャクシオへ寄贈されました。

  • パラティン礼拝堂は、通称インペリアル礼拝堂として知られており、1859年にナポレオン3世によって建設されました。主たる目的はフェッシュらナポレオン一族の埋葬所としての役割で、ナポレオンの両親/ナポレオン3世の両親等が地下に埋葬されています。

    パラティン礼拝堂は、通称インペリアル礼拝堂として知られており、1859年にナポレオン3世によって建設されました。主たる目的はフェッシュらナポレオン一族の埋葬所としての役割で、ナポレオンの両親/ナポレオン3世の両親等が地下に埋葬されています。

  • カルロ・マリア・ディ・ボナパルテ(1746-85)<br />ナポレオンの父親。法律家になるためにピサ大学に入学しますが、父の死によって扶養義務を果たすために、学位取得前に帰郷します。18歳で結婚し、コルシカ共和国ではパスカルパオリの副官/外交官としてローマ法王庁へ赴きます。ポンテノヴォの戦いの後にフランス側へと転向して総督副官マルブフへ接近し、判事の職と貴族の身分を得ます。<br />

    カルロ・マリア・ディ・ボナパルテ(1746-85)
    ナポレオンの父親。法律家になるためにピサ大学に入学しますが、父の死によって扶養義務を果たすために、学位取得前に帰郷します。18歳で結婚し、コルシカ共和国ではパスカルパオリの副官/外交官としてローマ法王庁へ赴きます。ポンテノヴォの戦いの後にフランス側へと転向して総督副官マルブフへ接近し、判事の職と貴族の身分を得ます。

  • フシュ美術館の展示は3部門に分かれます。<br />まずは、地上階のナポレオン/ボナパルト一族に関するコレクションです。

    フシュ美術館の展示は3部門に分かれます。
    まずは、地上階のナポレオン/ボナパルト一族に関するコレクションです。

  • マリア・レティツィア・ボナパルテ(1750-1839 旧姓ラモリノ)<br />ナポレオンの母親。生家のラモリノ家はジェノバの貴族で、本国ドーシェの娘と結婚してコルシカへ移住した名家です。14歳で結婚し、31エーカー(354m四方)の土地を持参してボナパルテ家へ嫁ぎます。持参金の土地からは毎年1万リーブルの収入がありました。ナポレオン出産の3か月前まで、コルシカ共和国軍の一員として戦闘に参加していました。

    マリア・レティツィア・ボナパルテ(1750-1839 旧姓ラモリノ)
    ナポレオンの母親。生家のラモリノ家はジェノバの貴族で、本国ドーシェの娘と結婚してコルシカへ移住した名家です。14歳で結婚し、31エーカー(354m四方)の土地を持参してボナパルテ家へ嫁ぎます。持参金の土地からは毎年1万リーブルの収入がありました。ナポレオン出産の3か月前まで、コルシカ共和国軍の一員として戦闘に参加していました。

  • レティツィアは名誉を重んじる典型的なコルシカ気質の人物でした。1797年のフランス本土移住後も質素な生活を貫き、終生コルシカ語を使い続けました。息子の皇帝就任には断固反対し、戴冠式には出席しませんでした。敬虔なカトリックゆえに、第一帝政崩壊後は、ローマを亡命先に選びます。<br />絵画では戴冠式の場面に描かれ、冠を戴く国母らしい身なりですが、これらは全てナポレオンの意向が反映されたプロパガンダ的フィクションです。

    レティツィアは名誉を重んじる典型的なコルシカ気質の人物でした。1797年のフランス本土移住後も質素な生活を貫き、終生コルシカ語を使い続けました。息子の皇帝就任には断固反対し、戴冠式には出席しませんでした。敬虔なカトリックゆえに、第一帝政崩壊後は、ローマを亡命先に選びます。
    絵画では戴冠式の場面に描かれ、冠を戴く国母らしい身なりですが、これらは全てナポレオンの意向が反映されたプロパガンダ的フィクションです。

  • ジョゼフ・フェッシュ(1763-1839)<br />レティツィアの異母弟です。アジャクシオの副司教だったリュシアン・ボナパルト(ナポレオンの叔父)の援助で神学校へ通い、聖職の道を歩みます。フランス革命でカトリックがアンシャンレジウムのシンボルとして迫害されると還俗し、商取引や投機に携わり、ナポレオンのイタリア遠征の兵站を務めます。コンコルダート締結後は聖職に戻り、リヨンの大司教として区の発展に尽力、1803年からは枢機卿に就任します。教皇へ忠誠心を抱きつつも、ナポレオンには逆らえず、ジョゼフィーヌとの離婚を認定する等の妥協が伴います。

    ジョゼフ・フェッシュ(1763-1839)
    レティツィアの異母弟です。アジャクシオの副司教だったリュシアン・ボナパルト(ナポレオンの叔父)の援助で神学校へ通い、聖職の道を歩みます。フランス革命でカトリックがアンシャンレジウムのシンボルとして迫害されると還俗し、商取引や投機に携わり、ナポレオンのイタリア遠征の兵站を務めます。コンコルダート締結後は聖職に戻り、リヨンの大司教として区の発展に尽力、1803年からは枢機卿に就任します。教皇へ忠誠心を抱きつつも、ナポレオンには逆らえず、ジョゼフィーヌとの離婚を認定する等の妥協が伴います。

  • 彼が典礼で使用した様々な道具が展示されています。写真は、金箔装飾の典礼用手袋。下の写真は、燭台と十字架です。

    彼が典礼で使用した様々な道具が展示されています。写真は、金箔装飾の典礼用手袋。下の写真は、燭台と十字架です。

  • 聖職者を離れていた時代に築いた莫大な資産で、公務等で訪れた各都市で美術品を買い求め、莫大なコレクションを築きます。カトリックの聖職者らしく生涯独身だったために、遺産はアジャクシオ市等に寄贈されます。

    聖職者を離れていた時代に築いた莫大な資産で、公務等で訪れた各都市で美術品を買い求め、莫大なコレクションを築きます。カトリックの聖職者らしく生涯独身だったために、遺産はアジャクシオ市等に寄贈されます。

  • ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte 1769-1821)<br />出生名は、ナポレオーネ・ディ・ボナパルテNapoleone di Buonaparteで、フランス革命中にフランス風に改称します。父がフランス側へ転向したために貴族の家系に列せられ、本土の陸軍幼年学校/士官学校へ通う道が開けます。アジャクシオに住んだのは9歳までです。フランス革命が勃発すると故郷へ戻り、コルシカ独立へ尽力しますが、パオリ派と対立するに及んで本土へ亡命、コルシカとは永遠に決別します。<br />

    ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte 1769-1821)
    出生名は、ナポレオーネ・ディ・ボナパルテNapoleone di Buonaparteで、フランス革命中にフランス風に改称します。父がフランス側へ転向したために貴族の家系に列せられ、本土の陸軍幼年学校/士官学校へ通う道が開けます。アジャクシオに住んだのは9歳までです。フランス革命が勃発すると故郷へ戻り、コルシカ独立へ尽力しますが、パオリ派と対立するに及んで本土へ亡命、コルシカとは永遠に決別します。

  • ロベスピエールの知己を得てトゥーロン攻囲戦で立身出世するも、ジャコバン派粛清時に入獄/失業します。ヴァンデミエールの反乱で、トゥーロン攻囲戦の上官だったポール・バラスの目に留まり反乱を鎮圧、イタリア遠征で第一回対仏大同盟を崩壊させ、エジプト遠征に繰り出します。フランス帰還後は、前代未聞のアルプス越え(写真)でオーストリアを破り、第ニ回対仏大同盟も崩壊させます。

    ロベスピエールの知己を得てトゥーロン攻囲戦で立身出世するも、ジャコバン派粛清時に入獄/失業します。ヴァンデミエールの反乱で、トゥーロン攻囲戦の上官だったポール・バラスの目に留まり反乱を鎮圧、イタリア遠征で第一回対仏大同盟を崩壊させ、エジプト遠征に繰り出します。フランス帰還後は、前代未聞のアルプス越え(写真)でオーストリアを破り、第ニ回対仏大同盟も崩壊させます。

  • ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ(1763-1814)<br />ナポレオンは、1796年にポールバラスの愛人だったジョゼフィーヌと結婚します。彼女の血統はナポレオン3世と、現スウェーデン王へ引き継がれます。<br />

    ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ(1763-1814)
    ナポレオンは、1796年にポールバラスの愛人だったジョゼフィーヌと結婚します。彼女の血統はナポレオン3世と、現スウェーデン王へ引き継がれます。

  • コンスル時代<br />ブリュメールのクーデターで総裁政府を転覆して、3人のコンスルの一人に就任します。コンスルはローマ時代の執政官で、他にもローマを模した凱旋門をパリに建設するなど、ナポレオンの古代ローマ嗜好が反映されます。国民投票で第一コンスルに選出(写真)されます。<br />※非民主的手続きで政権を得たので、日本では統領と意訳されます。

    コンスル時代
    ブリュメールのクーデターで総裁政府を転覆して、3人のコンスルの一人に就任します。コンスルはローマ時代の執政官で、他にもローマを模した凱旋門をパリに建設するなど、ナポレオンの古代ローマ嗜好が反映されます。国民投票で第一コンスルに選出(写真)されます。
    ※非民主的手続きで政権を得たので、日本では統領と意訳されます。

  • 1804年に皇帝になり、宿敵イギリス打倒を目指します。<br />翌年にはアウステルリッツの戦いで露/墺軍に勝利し、第三回対仏大同盟も崩壊します。

    1804年に皇帝になり、宿敵イギリス打倒を目指します。
    翌年にはアウステルリッツの戦いで露/墺軍に勝利し、第三回対仏大同盟も崩壊します。

  • ナポレオンは愛人との間に度々庶子ができたので、子供を産めないジョゼフィーヌと離婚、ハプスブルク家のマリー=テレーズと再婚します。二人の間には、ルイが誕生します。生まれながらにローマ王でした。

    ナポレオンは愛人との間に度々庶子ができたので、子供を産めないジョゼフィーヌと離婚、ハプスブルク家のマリー=テレーズと再婚します。二人の間には、ルイが誕生します。生まれながらにローマ王でした。

  • 大陸封鎖令でイギリスを枯渇させようとしますが、ロシアが従わなかったために征伐へ向かいます。ロシア遠征(1812年)は焦土作戦と冬将軍の前に敗れ、第六回対仏大同盟を結成、ナポレオンはコルシカ島沖のエルバ島へ流されます。

    大陸封鎖令でイギリスを枯渇させようとしますが、ロシアが従わなかったために征伐へ向かいます。ロシア遠征(1812年)は焦土作戦と冬将軍の前に敗れ、第六回対仏大同盟を結成、ナポレオンはコルシカ島沖のエルバ島へ流されます。

  • エルバ島を脱出して再び帝位に就くも、ワーテルローの戦い(写真)で破れ、百日天下は終焉します。イタリア遠征は純粋な国防戦争でしたが、20年に渉る戦闘と侵略戦争に国民は疲弊しきっていました。

    エルバ島を脱出して再び帝位に就くも、ワーテルローの戦い(写真)で破れ、百日天下は終焉します。イタリア遠征は純粋な国防戦争でしたが、20年に渉る戦闘と侵略戦争に国民は疲弊しきっていました。

  • 英領セントヘレナ島でのナポレオン(写真)<br />大西洋の絶海の孤島に流され、1821年に死去します。<br />ナポレオン再任中にアジャクシオの地位は向上したものの、コルシカ島は放置されたままでした。ただし、島民が政府の要職に就く道は開かれました。<br />

    英領セントヘレナ島でのナポレオン(写真)
    大西洋の絶海の孤島に流され、1821年に死去します。
    ナポレオン再任中にアジャクシオの地位は向上したものの、コルシカ島は放置されたままでした。ただし、島民が政府の要職に就く道は開かれました。

  • デスマスク

    デスマスク

  • ジョゼフ・ボナパルト(1768-1844)<br />ナポレオンの兄で、両親がフランスに抵抗中だったためにコルテ生まれです。神学校へ進学し、第一帝政下ではナポリ王(在1805-08)を務めた後スペイン国王に即位(在1808-13年)。

    ジョゼフ・ボナパルト(1768-1844)
    ナポレオンの兄で、両親がフランスに抵抗中だったためにコルテ生まれです。神学校へ進学し、第一帝政下ではナポリ王(在1805-08)を務めた後スペイン国王に即位(在1808-13年)。

  • リュシアン・ボナパルト(1775-1840)<br />ナポレオンの弟で、カニーノ公を務めます。

    リュシアン・ボナパルト(1775-1840)
    ナポレオンの弟で、カニーノ公を務めます。

  • クリスティーヌ・ボイヤー<br />リュシアンの最初の妻で、第5子を懐妊中に病死。

    クリスティーヌ・ボイヤー
    リュシアンの最初の妻で、第5子を懐妊中に病死。

  • アレクサンドリーヌ・ド・ブレシャン<br />リュシアンの2番目の妻。評判の悪い(男癖)女性で、彼女との結婚ゆえに、リュシアンは帝位継承リストから除外されます。<br />

    アレクサンドリーヌ・ド・ブレシャン
    リュシアンの2番目の妻。評判の悪い(男癖)女性で、彼女との結婚ゆえに、リュシアンは帝位継承リストから除外されます。

  • マリア=アンナ・ボナパルト=バッチョッキ(1777-1820)<br />“エリザ”の愛称で広く知られる。トスカーナ大公国/ルッカ公国の君主<br />

    マリア=アンナ・ボナパルト=バッチョッキ(1777-1820)
    “エリザ”の愛称で広く知られる。トスカーナ大公国/ルッカ公国の君主

  • フェリーチェ・パスクヮーレ・バチョッキ(1762-1841)<br />エリザの夫

    フェリーチェ・パスクヮーレ・バチョッキ(1762-1841)
    エリザの夫

  • ポーリーヌ・ボナパルト(1780-1825)<br />ナポレオンが一番かわいがった妹。一番美しいだけでなく、様々な美男と浮世を流します。

    ポーリーヌ・ボナパルト(1780-1825)
    ナポレオンが一番かわいがった妹。一番美しいだけでなく、様々な美男と浮世を流します。

  • カロリーヌ・ボナパルト(1782-1839)<br />ジョアシャン・ミュラと結婚し、ナポリ王妃(1808-14)となります。

    カロリーヌ・ボナパルト(1782-1839)
    ジョアシャン・ミュラと結婚し、ナポリ王妃(1808-14)となります。

  • ナポレオンの胸像を運ぶマリー=レティシア・ミュラ<br />レティツィア(1802-59)は、カロリーヌの長女。1823年に教皇領ボローニャ市長グイド・タッデオ・ペポリ公(1789-1852)と結婚、ボローニャの王妃と呼ばれます。

    ナポレオンの胸像を運ぶマリー=レティシア・ミュラ
    レティツィア(1802-59)は、カロリーヌの長女。1823年に教皇領ボローニャ市長グイド・タッデオ・ペポリ公(1789-1852)と結婚、ボローニャの王妃と呼ばれます。

  • ジェローム・ボナパルト(1784-1860)<br />ナポレオンの末弟。ヴェストファーレン国王

    ジェローム・ボナパルト(1784-1860)
    ナポレオンの末弟。ヴェストファーレン国王

  • フリーデリケ・カタリーナ・ゾフィー・ドロテア・フォン・ヴュルテンベルク(右: <br />1783-1835年)<br />ジェローム・ボナパルトの2度目の妻。

    フリーデリケ・カタリーナ・ゾフィー・ドロテア・フォン・ヴュルテンベルク(右: 
    1783-1835年)
    ジェローム・ボナパルトの2度目の妻。

  • ナポレオン・ジョゼフ・シャルル・ポール・ボナパルト(1822-91)<br />ジェロームの息子で通称ナポレオン公。第二帝政の政治家。従兄のナポレオン3世とは水と油の性格で、たびたび対立しました。

    ナポレオン・ジョゼフ・シャルル・ポール・ボナパルト(1822-91)
    ジェロームの息子で通称ナポレオン公。第二帝政の政治家。従兄のナポレオン3世とは水と油の性格で、たびたび対立しました。

  • シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト(1808-73)<br />ナポレオン3世として広く知られます。父親は、ポリーヌの弟でカロリーヌの兄であるルイ=ボナパルト(1778-1846)でホラント(オランダ)王でした。母親は、ナポレオンの妻ジョゼフィーヌの連れ子であるオルタンスです。2人は1810年に離婚し、ルイは母親に育てられます。血縁上は、ナポレオンの甥で、ジョゼフィーヌの孫となります。

    シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト(1808-73)
    ナポレオン3世として広く知られます。父親は、ポリーヌの弟でカロリーヌの兄であるルイ=ボナパルト(1778-1846)でホラント(オランダ)王でした。母親は、ナポレオンの妻ジョゼフィーヌの連れ子であるオルタンスです。2人は1810年に離婚し、ルイは母親に育てられます。血縁上は、ナポレオンの甥で、ジョゼフィーヌの孫となります。

  • 度々クーデターを起こすも悉く失敗し、獄中で「貧困の根絶」を著し、労働者階級を味方に付けます。1848年の大統領選挙で当選します。

    度々クーデターを起こすも悉く失敗し、獄中で「貧困の根絶」を著し、労働者階級を味方に付けます。1848年の大統領選挙で当選します。

  • ヴィルジニア・オルドイーニ(1837-99)<br />ナポレオン3世の愛妾。カスティリオーネ伯爵夫人の称号を持ち<br />サルデーニャ王国宰相が送り込んだスパイでした。

    ヴィルジニア・オルドイーニ(1837-99)
    ナポレオン3世の愛妾。カスティリオーネ伯爵夫人の称号を持ち
    サルデーニャ王国宰相が送り込んだスパイでした。

  • カルロ・アンドレーア・ポッツォ・ディ・ボルゴ(1764-1842)<br />ボナパルト家の遠戚の家庭に生まれ、幼少時はナポレオンの遊び仲間でした。ピサで法学を学んだ後に弁護士になり、パスカル・パオリの腹心になります。ナポレオンがパオリと対立するとブオナパルテ家弾劾決議を下し、一家をマルセイユに追放します(1793)。<br />以後反ナポレオン運動の先頭に立ち、アングロコルシカ王国崩壊後はウィーンへ亡命し、ロシアの外交官として復古王政を擁護し、フランス国益を重視しました。

    カルロ・アンドレーア・ポッツォ・ディ・ボルゴ(1764-1842)
    ボナパルト家の遠戚の家庭に生まれ、幼少時はナポレオンの遊び仲間でした。ピサで法学を学んだ後に弁護士になり、パスカル・パオリの腹心になります。ナポレオンがパオリと対立するとブオナパルテ家弾劾決議を下し、一家をマルセイユに追放します(1793)。
    以後反ナポレオン運動の先頭に立ち、アングロコルシカ王国崩壊後はウィーンへ亡命し、ロシアの外交官として復古王政を擁護し、フランス国益を重視しました。

  • パスカル・パオリ(1725-1807)<br />島民にとって最大の英雄です。コルシカ王国を樹立したヒアシンテ・パオリを父に持ち、王国崩壊後ナポリ王国へ亡命し、軍事/啓蒙思想教育を受けます。1755-69年にかけてコルシカ共和国のトップとして政府を運営します。1769年にフランスに敗れてロンドンへ亡命、1790年にコルシカへ帰還するも革命政府(第一共和政)と対立し、英国王を冠するアングロコルシカ王国を樹立するも、1796年に崩壊し、再びロンドンへ亡命します。1755年公布のコルシカ憲法は、近代史上初の民主憲法として評価されます。

    パスカル・パオリ(1725-1807)
    島民にとって最大の英雄です。コルシカ王国を樹立したヒアシンテ・パオリを父に持ち、王国崩壊後ナポリ王国へ亡命し、軍事/啓蒙思想教育を受けます。1755-69年にかけてコルシカ共和国のトップとして政府を運営します。1769年にフランスに敗れてロンドンへ亡命、1790年にコルシカへ帰還するも革命政府(第一共和政)と対立し、英国王を冠するアングロコルシカ王国を樹立するも、1796年に崩壊し、再びロンドンへ亡命します。1755年公布のコルシカ憲法は、近代史上初の民主憲法として評価されます。

  • ジャン・フレデリック・ペレゴー<br />革命政府等を支援した銀行家で、ナポレオン政権下ではバンク・ド・フランス(フランス中央銀行)の初代総裁を務めます。<br />館外へ出ます。

    ジャン・フレデリック・ペレゴー
    革命政府等を支援した銀行家で、ナポレオン政権下ではバンク・ド・フランス(フランス中央銀行)の初代総裁を務めます。
    館外へ出ます。

  • 陸の孤島だったアジャクシオですが、道路建設が進み、コルテまで通じていた道は1801年にバスティアへ通じ、1815年にはカルビ、1825年にはボニファシオまで開通し、交通の十字路となります。

    陸の孤島だったアジャクシオですが、道路建設が進み、コルテまで通じていた道は1801年にバスティアへ通じ、1815年にはカルビ、1825年にはボニファシオまで開通し、交通の十字路となります。

  • 駅の近くのカルフールは、ショッピングに便利です。

    駅の近くのカルフールは、ショッピングに便利です。

  • 駅前のバス停から、空港行バスに乗ります。

    駅前のバス停から、空港行バスに乗ります。

  • 毎時運行です。<br />途上のサルテーヌ駅バス停は、ボナパルト家の領地があった場所です。名前の通り塩潟で、塩田経営でかなりの収入の足しになったそうです。

    毎時運行です。
    途上のサルテーヌ駅バス停は、ボナパルト家の領地があった場所です。名前の通り塩潟で、塩田経営でかなりの収入の足しになったそうです。

  • 10分遅れでバスが到着し、無事空港に到着。普通の路線バスの車両で10ユーロはぼったくりです。

    10分遅れでバスが到着し、無事空港に到着。普通の路線バスの車両で10ユーロはぼったくりです。

  • 制限エリアはこんな感じ

    制限エリアはこんな感じ

    アジャクシオ カンポ デレオロ空港 (AJA) 空港

  • コルシカ土産店

    コルシカ土産店

  • 栗粉を使ったしっとりした菓子は4ユーロ。<br />結果的に、これが一番おいしくてコスパ高かったです。

    栗粉を使ったしっとりした菓子は4ユーロ。
    結果的に、これが一番おいしくてコスパ高かったです。

  • パリまで移動

    パリまで移動

  • 出発が90分遅れて、オルリー空港からドゴール空港までの鉄道が終了していました。

    出発が90分遅れて、オルリー空港からドゴール空港までの鉄道が終了していました。

  • 空から見るアジャクシオ湾

    空から見るアジャクシオ湾

  • 空港で買ったケーキいただきました。<br />時間を戻して、コルテ訪問紀↓<br />https://4travel.jp/travelogue/12027211

    空港で買ったケーキいただきました。
    時間を戻して、コルテ訪問紀↓
    https://4travel.jp/travelogue/12027211

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