2025/12/20 - 2025/12/20
6位(同エリア5件中)
gianiさん
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- 818,210アクセス
- フォロワー16人
コルシカ島中央部に位置する古都コルテは、コルシカ人にとって心の故郷です。屋外の標識や博物館のキャプションは、コルシカ語が第一言語という位置づけで、よそ者に媚びないスタイルを貫きます。
教科書やガイドブックには登場しないコルシカの生活/産業の姿を学べる上級レベルの展示内容から、真のコルシカの姿へアプローチします。バスティア/アジャクシオでは決して感じられないエッセンスの詰まった内容です。
加えて、バスティア~コルテ間の冬季移動の注意点も、経験を交えて紹介します。
- 旅行の満足度
- 5.0
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バスティア駅からコルシカ鉄道を利用します。
アジャクシオ行に乗車します。コルシカ島 自然・景勝地
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1891年には全通しています。
当時日本では、日清戦争開戦(1894)までに岡山~広島を開通させるのが命題でした。国力の差を感じます。テラ ヴェキア地区 旧市街・古い町並み
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駅構内を出ると、すぐにトンネルです。
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コルシカでは珍しい平野部に出ます。
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バスティア市の人口はアジャクシオ市には叶いませんが、都市圏はコルシカ最大です。
テラ ノヴァ地区 旧市街・古い町並み
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フランス2部リーグのサッカー競技場
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カサモッツァ駅(Gala di Casamozza)に到着
皆が荷物を纏めて下車し出します。 -
何と車両交換。
この先は代替バスでした。 -
HPを見ると、11/3~3/29まで鉄橋等のメンテナンスのため代替バスを運行するとのこと。このバスを逃すと次は4時間後なので要注意です。
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というわけで出発
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コルシカ最長のゴロ川を遡ります。
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T20は快適な道路です。
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ポンテレッキア(Ponte Leccia)駅に到着
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ここで代替バスの旅は終了。
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ここから鉄道に乗り換えます。
CFCは、コルシカ鉄道の略です。 -
ゴロ川を遡ります。
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山は深くなります。
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コルシカ鉄道はカーブが多いのでTGV(Train à Grande Vibration大揺れ列車)と呼ばれます。いうまでもなく高速列車のTGV(Train à Grande Vitesse)を意識した皮肉です。
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車両がリニューアルされたので、乗り心地は良かったです。
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コルテに到着。
ここで宿を取ります。 -
駅前のスーパーは、コルシカ食材等の宝庫です。
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地物が揃います。
キッチンのある宿を選択すると、堪能できます。 -
夜が明けました。
ホテル デュ ノール ホテル
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斜面に張り付く市街と稜線に聳える要塞
それがコルテです。 -
旧市街をどんどん登り、要塞の中の博物館を目指します。
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コルシカ博物館
コルシカの多様性を百科事典的な概要(ステレオタイプ)で打ち消すのではなく、様々な要素や極めてローカルな事象も取り上げることで全体像を把握する助けとなるように展示が組まれています。
コルシカ島の伝統的な文化、特に農耕と牧畜にズームアップした主観的眺望。
近現代(工業化の試み/商業/都市)のリアルな側面。
コルシカ人のアイデンティティの探求/観光開発等のあらゆる側面を探求。 -
ルイ・ドアザン神父が1951-78年にかけて収集した約3,000点のコレクションは、農耕民及び羊飼い+職人の人生と生活様式に焦点を当ています。コルシカ民俗史の系譜も扱います。
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左:括り輪による罠
右:キツネ用の罠
罠は、それぞれの動物の習性をよく観察/研究した上で考案されます。人間に害が及ばないようにするのも大切です。猟は、畑を害獣から守る/食料や皮を調達する目的で行われます。 -
左:煙草用の巾着(猫皮をなめしたもの)
右:蝋燭(蜜蝋) -
左:水筒(南瓜の中身を刳り抜いて乾燥させたもの)
右:水筒(ワイン用 南瓜の中身を刳り抜いて乾燥) -
鍛冶屋は、村の経済において重要な役割を果たしました。
5口篭 牛の口に填めて餌を食べないようにする
6,7 モライユ 牛を鼻孔を挟むペンチ。牛を動きを制御するために使用。
8,9. 足枷 牛が迷子になるのを防ぐ
10軛 2頭の牛を繋いで、犂などを曳かせる道具。
11犂(プラウ):土壌を耕起する道具。
13~16犂の刃 ※犂=牛馬の力で耕す/鋤=人力で耕す
19,20脱穀用の石(臼とは違う) -
ピストルと鉛弾製造ペンチ
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中/左:短刀と鞘
右:細身の短剣 -
ミリサリアの羊小屋
1974年に政府の依頼で調査したドアザン神父は、ミサリアで羊飼いが使用した道具が揃った羊小屋を見つけ、調査/分類/保存します。 -
村々では、道具や家庭用品の製作/修理にまで役立つ技能が実践/継承されました。羊飼いたちは木からお玉やスプーンを彫り上げました。
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博物館はノスタルジックな展示にとどまらず、生活の進化について問いかける場所でもあると考え、ミリサリアの羊小屋に収蔵されていた「伝統的な」品々に加え、20世紀に羊飼いが経験した変化を物語る品々も展示しています。市場価値や美的価値ではなく、ありのままの姿を映し出すためです。
搾乳後に濾過して不純物を取り除くミルクストレーナーは、身近な素材で製作されました。 -
木の枠と布で出来たミルクストレーナーも長く使われます。
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工業化の影響で、板金製で漏斗状の「一般的」なものへ遷移し、1978年まで使用されていました。
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搾乳用の桶(原語ではバケツseille)
木片を鉄の箍ではめたもの -
鉄製のバケツに取って代わられます。
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軽量かつ衛生面でも優れたアルミ製に代わります。材料が代わることで、島外で生産された大量生産品に取って代わります。
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チーズを水切りするための型(フェッセル)は、イグサを編んだもの(中央)/金属(右)/プラスチック製(左)と変遷します。羊飼い自身が編んだものから工業製品(この時点で島外製品)へと移行したことは、社会の変化に合わせて生活を変化させていることの表れです。
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写真では、生乳を掬うスプーンは手製、フェッセルはプラスチック製です。木製スプーンは、軽い/丈夫/手にフィットすることから生き残っているのかもしれません。
※フュッセルチーズは、製造工程で使用する型(フェッセル)が名前の由来です。 -
吊るし木
チーズを吊り下げて熟成させます。 -
羊飼いの馬具
1-3:馬の背中に掛ける絨毯(装飾/鞍として)
4:リュックサック
5,6:鞍
7,8:首輪
9:荷鞍 -
羊飼いの傘
羊飼いの杖 -
ジャケット(1910年製) ベルベット生地ということから、強風/寒冷な環境をイメージできます。
ほら貝 -
コルシカ島の羊飼いの大多数は、数世紀にわたり移動牧畜を行っていました。1825年にコルシカ島議会が作成した移牧地図は、当時を知るための貴重な資料です。5月か6月には、羊飼いたちは暑さと干ばつに悩まされていた平野を離れて山岳牧草地へ向かい、10月以降は平野へ戻りました。
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バステリカ(Bastelica)の畜産農家の生活圏は、ルノゾ渓谷とアンキュディーヌ渓谷からアジャクシオ、プロプリアノまで広がっています。
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ヴェナケ(Venacais)地方の畜産農家は、ロトンド渓谷から東部平野まで羊の群れを放牧しています。
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ニオロ(Niolo)地域の羊飼いは、シントまたはプンタ アルティカからバラニュ(カルヴィ周辺)/ガレリアの低地まで山を下って行きます。
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コルシカ最期の移牧
1974年の調査では23の羊の群れが存在し(写真)、そのうち10の群れがフィロソルマからニオロへの移牧を行っていました。 -
6月に村を出発して、ファンゴ渓谷を遡ってアルタ・ストラーダ(19世紀に囚人によって築かれた石畳の道)を通行して峠の反対側ニオロ渓谷の夏季滞在用の家へ到着します。 2日間で60kmを移動しました。羊飼いは、家族をニオロの家に残して羊の群れと一緒に牧草地を回ります。授乳期が終わる8月には羊を解き放ち、羊飼いは家族と過ごします。10月に初雪が降る前に羊を集め、フィロソルマへと戻ります。
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羊を解き放つ期間は、各群れの羊が入り乱れます。上のイラスト入りの地図は、各群れの羊を識別する固有の印(世襲される)の一覧でもあります。羊の左右の耳に鋏で切り込みを入れて、所属者を明らかにします。
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羊飼いは島の伝統を支える柱ですが、孤高の自給自足集団ではなく、社会/経済システム(マーケット/流通網etc.)にしっかりと組み込まれています。羊飼いは収穫物を販売するだけでなく、道具や必需品を調達するために村や町へ出かけ、時には都市へも足を運びました。
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織物産業は1970年代以降の社会変化の影響を最も強く受け、多くの技術が途絶えました。
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ニオロ地域は、衣服を作るために縮絨された毛織物「パンヌ」の生産で有名でした。
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地域特産ということは、羊飼いや農耕民も生産/消費が分業化された商業圏を構成する一員だったということです。
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羊飼いは、容易に組立/解体できる移動式小型織機を使用しました。夏の移牧期間中や急な雨の時には、直ぐに解体して持ち帰ることができました。
19世紀末に製造が途絶えており、1887年にパルティネッロで撮影された写真からその姿を確認できるにとどまりました。 -
1973年にドアザン神父は、織機を調査すべく隣のサルデーニャ島プロアーゲへ向かい、マンシア・マルーギンという織工がコルシカ島の織機と全く同じ織機を操っている様子を目にします。
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まずは、完全なミニチュアを製作し(写真)、続いて完全な復元品を完成させます。
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ニオロ渓谷とアスコ渓谷地方では、羊飼いたちは羊の肩甲骨(la spalla)、時にはヤギや豚の肩甲骨で未来を占っていました。煮沸した湯の中へ骨を入れて占い、骨の各部位は羊飼いの生活の様々な側面に対応していました。骨の片面は羊飼いの職業生活、もう片面は人生に対応します。
ラ・スパッリャの地理
1: 誕生/2:危険/3:死/4:旅/5:失踪
6:チーズ製造/7:家族生活/8:羊飼いの地/9:越冬地/10:夏の牧草地 -
伝統的なコルシカ衣装
上流階級 -
庶民
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コルシカのイメージと真の姿
科学が現実と経験の綿密な観察に頼るようになる以前、コルシカ島に関する情報源はギリシャの地理学者ストラボンとディオドロス・シケリアの記録をそのまま引用していました。16,17世紀の書物を紐解くとよくわかります。 -
大航海時代の真っただ中でも、既に廃墟と化したアレリアは16世紀のコルシカ島で最も重要な都市として記されています。それは単に、古代世界においてアレリアが島の主都であったからです。
17世紀から18世紀にかけてコルシカ島の政治的/戦略的重要性の高まりにより、これらの地図は徐々に精度を増していきました。1770年からフランス王室の委託を受けたプラン・テリア測量士による体系的な調査の対象となりました。 -
1528年に海洋先進国ベネチアで航海士向けに出版された目録『イゾラリオ』には、コルシカ島がマニオレ(磁石の小島:通過する船の釘を引き寄せ沈没させる)などの迷信と共に描かれています。
コルシカ博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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コルシカ島は、作家/画家/思想家といったエリート層にとってロマンあふれる場所として形容され、実際に訪れる人たちもそうしたイメージに従って観光しました。
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1839年、歴史建造物監察官プロスペル・メリメはコルシカ島への旅に出発しました。帰国後に執筆した『コロンバ』はコルシカ島のロマンチックなイメージを定着させる一方で、『コルシカ島旅の記録』はロマネスク建築と巨石遺跡に焦点を当てています。
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民衆伝承協会会員でもあったローラン・ボナパルト公(1858-1924)は、1887年に大叔父ナポレオンの出身地コルシカ島への旅に出ました。公の要請により、数人の写真家が19世紀末のコルシカ島を捉えた貴重な写真資料を集めました。
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これらの写真には、自然景観、街並み、記念碑、そして人々の日常生活が写っています。
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こうして、コルシカでも民俗学が本格的に始動します。
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『コルシカ語民族誌』
ジーノ・ボッティリオーニ著
1932~42年、全10巻 ピサで刊行。
写真は、漁船と網の地域分布のページ。 -
ムッソリーニ政権下でイタリアにおけるコルシカ領有権回復主義が掲げられ、ボッティリオーニの著作は、その緻密さと研究の範囲において傑出したものです。フランスでも、これに勝るものは未だに存在しません。
写真は、海上での霧笛に相当するものの分布。ほら貝だったり、笛だったりします。 -
左上の部分は、伊/仏/英/独の4か国語で記載されています。英語の部分を見ると、かなり怪しげな文法ですが。
フルートとクラリネットの分布 -
ドアザン神父は、1952年に神学校で歴史の教鞭を取ることになり、民芸品の収集を始めて1970年にラ・ポルタにコレクション600点を展示/公開しました。
同年にはバスティア博物館がオープンし、コルシカ全般の展示が行われます。このミッションは、1997年に当博物館がオープンするにあたって現在まで引き継いでいます。 -
工業
コルシカ島が西側世界全体を変革した経済プロセスの影響を受けなかったわけではありません。アスベストを例に伝統工芸と産業利用であるカナリ工場を見てみます。 -
アスベスト陶器は遅くとも鉄器時代から存在が確認され、15~20世紀まで存続しました。粘土との混合は他に類を見ず、ろくろを使わずに成形し、野焼き又はパン焼き窯で焼成し、製品の形状も独特のものです。陶器は荷馬車やラバの背に乗せられて島中を輸送されました。
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最期まで残った3つの生産拠点(Canaja/Monacia/Feringule)は何れもオートコルスにあり、赤粘土/白磁性粘土/アスベスト採掘地の近くにあります。
※Castagnicciaの村々での生産は戦間期まで続きました。 -
粘土造りから販売まで、すべてを担うのは女性というのも特徴です。陶器の大部分は料理用で、洗面器/玩具/パイプも作られています。
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カナリ・アスベスト工場:白い地獄
ファイバーセメント産業に供給されたカナリ(Canari)のアスベスト鉱山は、コルシカ島最大の採掘事業でした。国内唯一のアスベスト鉱山であり、1960年には25,500tを産出し、国内市場の3分の1を賄っていました。採掘は露天掘りで行われ、大量の廃石が海へ流れ、アルボ港に堆積しました。
※グーグルマップでは、Carrière d'amianteで検索してください。 -
人体に与える影響から1965年6月12日に操業停止、300人以上の雇用が失われました。
写真は1911年の株券(額面1000株=10万Francs) コルシカアスベスト株式会社
※Franc(フラン):フランス革命~ユーロ通貨統合までの貨幣単位。 -
鉱業
古くはマオナ(14c)やサンジョルシオ銀行(15c)が地質調査を行ない、フランス革命後の1796年には、21の鉱床と28の採鉱所が登記されています。20世紀までに400以上の鉱床が探査されましたが、長期安定を達成したのはカナリ鉱山だけです。
写真は1905年フランカルド鉱山/鋳造所の株券(2000株=20万F)
société Anonyme:株式会社、action:株。 -
1844年にトーガで製鋼所が稼働し、エルバ島産の鉄鉱石から銑鉄を製造したのをきっかけに本格的な工業が興りましたが、1875~85年にかけて閉鎖して終焉します。
19世紀末には、なめし革を生産する工場が幾つか稼働しますが、1963年にバルケッタ工場とポンテ=レッチャ工場が閉鎖されます。写真はバルケッタ工場で1899-1907年にかけて建設/拡張。1963年からは製材所になるが、69年に焼失。 -
模範的な企業
19世紀後半から20世紀初頭にかけてコルシカ島最大の企業だったルイ・ナポレオン・マテイ・ワイン&スピリッツ社は、伝統的な蒸留技術とディアスポラ(島外へ移動した人たち)の支援を受けて、本土や植民地で広く知られました。 -
カプコルス産のワインに地元のハーブを混ぜた食前酒を手掛け、キニーネを混ぜた「カプ・コルス」が世界に名を掲げました。
広告には「同じ名前で販売している偽造品にご注意」「優れたものだけが偽造されます」「依然として比類なき存在」といった文言や、模造業者への警告が記載されています。 -
一例として、1917年にオーギュスト・マティがマルセイユで同名商品を生産開始。現在もグローバルに輸出していることから、単なる模倣ではないようです。
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正真正銘の本物(を見分けるコツ)
・カプコルスの保証書(ラベル)が貼付けてあります
・オリジナルボトル
・ボトル自体に名前が刻印されています
・本物はMatteiの前にファーストネーム/ミドルネーム(L.N.)が2箇所に入っています。
・サムネイルがあります。 -
ラベルの左下のサムネイル。女性が手摘みで収穫しています。L.N.マティ社は、コルシカ産/手摘み/職人の手による伝統製法に今もこだわっています。
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甥のフランソワが各地の見本市で出品したり、大規模な広告合戦を行うマーケティング戦略が功を奏し、島外でも市民権を得ます。右の広告は中国人の販売店向けのもので、右上にはサイゴン港/ハイフォン港から輸入されたものだと分かります。コルシカ移民はインドシナ/北アフリカといったフランス植民地に移住し、彼らは郷土の製品の販促に大きく貢献します。
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カサニ・パスティスは1925年にコルシカ出身のエマヌエル・カサビアンカによってバスティアで創設、マルセイユに拠点を移します。二重のルーツ(コルシカ/プロヴァンス)は、ラベルに描かれた2つの盾と独特の軽やかで花のような風味をもたらす特別な製造工程に反映されています。
※Casanisはcasaとanis(ハーブの名称)の合成語と思われます。パスティスはプロヴァンス名産の蒸留酒。 -
破砕機(fouloir)
漏斗状の部分にブドウ果実を投入し、ハンドルを回して果実を挽きます。果汁は下のパイプを通して分離され、設置した桶等に溜められます。
瓶詰め機
瓶の封を切る
金属、木材
ポッツォ・デ・ブランド、20世紀サン・フロラン、20世紀 -
圧搾機(pressoir)
粉砕機から出た果汁と搾りかすを隙間だらけの桶に投入し、棒状のハンドルを回して、円盤状の蓋を螺子の目に併せて絞め付けて圧搾します。果汁が隙間から桶の下の皿に溜まり、皿の下の管を通して、現役が桶等に溜まります。
※粉砕/圧搾によって、皮のタンニン等や皮に付着した酵母菌(発酵作用でアルコールを出す)を抽出されます。 -
アランビック(蒸留器)
底の部分を加熱して、発酵液からアルコール成分を揮発させ、上の管から樽へ移して蒸留酒(リキュール/スピリッツ)を製造します。 -
瓶にコルク栓で蓋をする装置
底に製品の充填されたボトルを置き、レバーを下ろしてコルク栓をします。 -
技術革新
17世紀という早い時期に、イタリア冶金技術の最先端の風力駆動型風力タービンを鞴に導入し、生産能力の向上を図りました。バスティアの有力な市民、あるいはジェノバの貴族は、地中海世界からの技術革新に積極的でした。エルバ島産の高品質な鉄鉱石から銑鉄を生産しました。フランスによる併合後、島の鍛冶場は安価な鉄との競争にさらされ、1840年代に高炉型の製鉄所が東海岸で操業します。
水車も重要な動力で、島内で1300基以上が稼働し、1950年頃まで使用されました。 -
一方で20世紀も、栗の殻剥きは手作業で行われました。写真のような袋へ入れて、木の台の上で棒で叩いて皮を剥き、篩に掛けました。
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19世紀初頭のオリーブオイル抽出方法は、
①馬力の製粉所の石臼で砕かれたオリーブの実を圧搾機でプレスする。
②収穫量が少ない場合は、砕いたオリーブを長い袋に入れ、両端を手でねじる(写真)。②は19世紀末に廃れ、①は20世紀半ばまで使用されていました。 -
栗加工機
20世紀初頭、国立工業技術校を卒業したレピディ兄弟は、栗の皮むきと選別を自動で行う手回し装置を発明します。機械に投入された栗は、3枚の遠心分離板を通過して殻を砕き、強力な通風装置を備えたベルトコンベアに落下して殻を取り除きます。2枚目のベルトコンベアは、きれいで白い栗を運び出します。 -
この利器が量産されず試作品の段階で終わったのは、構造が複雑で、金属製のギア等が島内で調達できなかったためです。修理/部品交換ができないので、普及しませんでした。
コルシカのノスタルジックな風景は、科学文明の及ばなかったからではないことを示します。 -
14世紀以降、兄弟団はコルシカ島の宗教/社会と密接に結び着いて来ましたが、第二次世界大戦後衰退し、21世紀に入って文化的・アイデンティティに基づく関わり合いへと変化し、男性社会で重要な要素となっています。
左:浸礼者ヨハネ兄弟団の衣装(10) ボニファシオ
中:サンマルチノの聖十字架兄弟団小修道院長の衣装(1) ロタ
右:聖テオフィロ兄弟団小修道院長の衣装(6) コルテ -
手前:ランタン(17)
中段:聖テオフィロ兄弟団の衣装(5) コルテ
後段:浸礼者ヨハネ兄弟団の衣装(9) ボニファシオ
後段:十字架に架けられたイエス(18)18世紀
4段目:聖テオフィロ兄弟団の衣装(7) コルテ -
トリエント公会議(1545-63)後、教会の刷新はコルシカ島に新たな活力をもたらしました。17世紀初頭以降、コルシカ島にはオラトリオと呼ばれる兄弟団の礼拝堂が殆どの村に存在し、都市では職業etc.毎に複数の兄弟団がありました。そのうちの一つ、慈悲の兄弟団は、バーバリ海賊に拉致された奴隷の身代金支払いを専門としていました。
手前:会員の出欠を確認するボード(16)19世紀 フィカジャ
奥:浸礼者ヨハネ兄弟団の衣装(11,12) ボニファシオ -
キリストの受難を記念する聖週間は、島内を行列しました。
手前:聖テオフィロ兄弟団の衣装(8)と負い帯(15) コルテ
奥:サンマルチノの聖十字架兄弟団の衣装(4)と負い帯(14) ロタ -
負い帯は、行列で掲げる旗の支柱を支えるものです。
バロック美術の主要なパトロンの一つは、コンフラタニティ(兄弟会)でした。リグーリア/トスカーナの芸術家に依頼し、祭壇等を飾りました。 -
写真は、聖十字架兄弟団の行列用の旗(13)油彩/19世紀
死神が持っている鎌には、nemini parco(私は誰も容赦しない)と書かれています。 -
下段:サンマルチノの聖十字架兄弟団の衣装(2) ロタ
上段:サンマルチノの聖十字架兄弟団副小修道院長の衣装(3) ロタ
コルシカ島のコンフラタニティ:トリエント公会議から革命まで -
観光業
19世紀、コルシカ島は二つのステレオタイプ(ナポレオン/義賊が繰り広げる復讐劇)で知られていました。シラーの『盗賊』を典型とするロマン主義のイメージです。ヨーロッパの上流階級にとってイタリアや東洋への旅の身近な代替地として、多くの人々の想像力を掻き立てました。
上流階級向けの宿泊施設は、1870s~1900sにアジャクシオを中心に発展します。避寒地として英国人に好まれ、グランドホテルはその代表格です。アジャクシオには英国国教会が建設されます。晴天と美しい風景は、英独の冬の寒さと曇天とは対照的でした。 -
アジャクシオからヴィザヴォーナへの旅(1904年 デルピアーヌ社マルセイユ)
標高1300mの峠越えを含む片道50kmの道のりを馬で越える様子が描かれています。
※1894年に同区間は、コルシカ鉄道が開業しています。 -
1911-12シーズンのフレシネ社ポスター
コルシカを訪問するために
迅速/快適な大型船で理想的な気候へ
ポスターの四隅にはマルセイユ/ニース/アジャクシオ/バスティアの紋章が描かれています。
フレシネ社(Fraissinet Cie.)はマルセイユで1836年に設立された海運会社で、本土と植民地を結ぶ航路を相次いで開設、戦後の植民地喪失に伴い1950年にファーブルラインと合併するも1970年頃に解散します。 -
(アジャクシオから)自動車で訪れるピアナのカランケ(1923)
ロマンチックなイメージを脱却し、豊かな自然/生き物にも注目され始めます。このエリアは、後に世界自然遺産に登録されます。 -
1930年のポスター
冬もまるで夏のようです
他の場所で雨が降っても此処では太陽がサンサンと輝く
それがコートダジュール
※コートダジュールの添え物のようにコルシカ島が位置付けられています。 -
1930年のポスター
マリンスポーツとスキー両方を楽しめるという稀なロケーションを強調しています。
ドイツ系ツーリストのニーズに応えるべく、トレッキングは1930年代にスタートします。山岳ガイドを雇うスタイルは、19世紀半ばまでの島の旅行形態と同じです。 -
観光業
コルシカ 美しき島(1935)
イルドボーテという形容表現は、特にコルシカ島を指す固有の表現となりました。 -
SNCF(フランス国鉄)のポスター(1938)
美しき島へは、本土から僅か6時間の移動で訪れることができます。という説明がなされています。 -
ロンドン エアースパントラベルの広告(1949)
クロイドン空港から直行便というのがセールスポイントです。
1920年に開港したクロイドン空港はロンドン最初の空港でしたが、ジェット化に対応できず1959年に閉鎖されます。 -
ヨットでコルシカ上陸
フレシネ社アミアン支店のポスター
現在世界自然遺産に登録されているポルト湾を描いています。
戦後は文化/風俗だけでなく、豊かな自然/生き物たちにもクローズアップされます。バカンス制度の普及(殊に独仏)で、一般市民にも門戸が広がります。 -
自動車でコルシカ島一周の旅(1960)
モータリゼーションも一役買います。 -
コルシカ島カルビでのバカンス
フリープラン2週間 ニース~カルビ間の往復券込みで19,500フラン
オリンピッククラブ社(ニース)
コルシカへのアプローチは、海運(バスティア/カルビ/アジャクシオ)が圧倒的です。 -
バスティアから自動車でカプコルス半島一周のエクスカーション
パリ~リヨン~地中海
観光を牽引するのは、本土(マルセイユ/ニース)の会社でした。 -
今回の度でお世話になったフェリー会社。
本土では、イタリアのリボルノ、トゥーロン発が8割以上を占めます。観光は沿岸部の手っ取り早い収入で、山間部の農民との経済格差が問題になります。観光も6-9月に偏る傾向が顕著です。 -
おまけ
栗のビールと、おつまみにチーズ系をチョイス。ロックフォールチーズ入りの薄い生地をクレープ状にサクッと焼いたもので、軽くて美味しくて土産にもぴったりです。 -
日本でメジャーなラガー(下面発酵)ではなく、エール(上面発酵)の味わいです。常温で、喉越しよりも味わい深さを堪能する内容でした。
次は、コルテ市内を歩いて歴史を探ります↓
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