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体形的な進行に重点を置いた構成です。<br />略史(背景)<br />コルシカはアフリカの部族社会のように、氏族毎の争いが絶えず、絶えず外敵勢力に付け入る隙を与えます。一族の名誉(復讐等)を重視するので、同盟構築と解消は茶飯事でした。<br />ローマに近いこともあり、歴代教皇はコルシカを間接支配しようとします。例えば、11世紀はコルシカをピサ大司教区管轄とし、ピサが布教を怠って教皇庁との関係がこじれると1138年にはジェノバの大司教区管轄へと鞍替えします。<br />宗主国のジェノバ共和国は、英/仏/西/墺/土といった時代ごとの超大国の政争に翻弄され、コルシカも度々巻き込まれます。<br />複雑な歴史には、コルシカ人気質と宗教/政治勢力の利害に起因します。<br /><br />フランス領よりも、ジェノバ領だった期間の方が遥かに長い特異な都市の歴史を追います。<br />前編はコチラ↓<br />https://4travel.jp/travelogue/12013519<br /><br />

バスティア②:コルシカの歴史が詰まる街 コルシカ三都物語②

4いいね!

2025/12/20 - 2025/12/20

10位(同エリア12件中)

0

111

gianiさん

この旅行記スケジュールを元に

体形的な進行に重点を置いた構成です。
略史(背景)
コルシカはアフリカの部族社会のように、氏族毎の争いが絶えず、絶えず外敵勢力に付け入る隙を与えます。一族の名誉(復讐等)を重視するので、同盟構築と解消は茶飯事でした。
ローマに近いこともあり、歴代教皇はコルシカを間接支配しようとします。例えば、11世紀はコルシカをピサ大司教区管轄とし、ピサが布教を怠って教皇庁との関係がこじれると1138年にはジェノバの大司教区管轄へと鞍替えします。
宗主国のジェノバ共和国は、英/仏/西/墺/土といった時代ごとの超大国の政争に翻弄され、コルシカも度々巻き込まれます。
複雑な歴史には、コルシカ人気質と宗教/政治勢力の利害に起因します。

フランス領よりも、ジェノバ領だった期間の方が遥かに長い特異な都市の歴史を追います。
前編はコチラ↓
https://4travel.jp/travelogue/12013519

旅行の満足度
5.0
  • コルシカの歴史/博物/美術が一堂に会したバスティアミュージアムを訪れます。入場料は5ユーロで、コスパの高い施設です。

    コルシカの歴史/博物/美術が一堂に会したバスティアミュージアムを訪れます。入場料は5ユーロで、コスパの高い施設です。

  • 中庭を越えてエントランス横のレセプションでチケットを買います。トイレ/クロークもここで用を済ませます。<br />まず目に入るのが、島の地図。西が上になっています。ピサetc.トスカーナ目線で描かれています。

    中庭を越えてエントランス横のレセプションでチケットを買います。トイレ/クロークもここで用を済ませます。
    まず目に入るのが、島の地図。西が上になっています。ピサetc.トスカーナ目線で描かれています。

  • 1740年発行の地図<br />地図上のコルシカ島と、下のサルディニア島はボニファシオ海峡を挟んで11km、右上に浮かぶエルバ島までは53kmです。<br />コルシカ島の右上に位置するバスティアの真北には、カップコルス(字義:コルシカ岬)と呼ばれる半島が突き出ています。

    1740年発行の地図
    地図上のコルシカ島と、下のサルディニア島はボニファシオ海峡を挟んで11km、右上に浮かぶエルバ島までは53kmです。
    コルシカ島の右上に位置するバスティアの真北には、カップコルス(字義:コルシカ岬)と呼ばれる半島が突き出ています。

    観光案内所 (ピサ駅近く) 散歩・街歩き

  • 1787年発行の地図<br />ジェノバまで183km/トゥーロンまで227km/トスカーナ(イタリア本土)まで83kmです。<br />イタリア半島の方が近く、最初に支配したのがトスカーナ地方のピサというのも当然の成り行きでした。<br />更に、北アフリカも近く、コルシカ/マヨルカ島を経由してスペインへ向かう航路が確立され、地中海の要所でした。

    1787年発行の地図
    ジェノバまで183km/トゥーロンまで227km/トスカーナ(イタリア本土)まで83kmです。
    イタリア半島の方が近く、最初に支配したのがトスカーナ地方のピサというのも当然の成り行きでした。
    更に、北アフリカも近く、コルシカ/マヨルカ島を経由してスペインへ向かう航路が確立され、地中海の要所でした。

    観光案内所 (エルバ島) 散歩・街歩き

  • 階段を下りると、展示室が始まります。この部分で、古代のコルシカ島を展示しています。<br />コルシカ島の先住民は、内陸部で農業/放牧を生業とし、巨石文化を築き上げました。<br />紀元前8世紀(‐8c)以降にイタリア本土のエトルリア人やフォカイアのギリシャ人が定住し始め、-565年にアラリア(アレリア:バスティアの70km南方)に都市を建設します。-4c以降はカルタゴ/ローマと支配者が変遷します。

    階段を下りると、展示室が始まります。この部分で、古代のコルシカ島を展示しています。
    コルシカ島の先住民は、内陸部で農業/放牧を生業とし、巨石文化を築き上げました。
    紀元前8世紀(‐8c)以降にイタリア本土のエトルリア人やフォカイアのギリシャ人が定住し始め、-565年にアラリア(アレリア:バスティアの70km南方)に都市を建設します。-4c以降はカルタゴ/ローマと支配者が変遷します。

  • フィブラ<br />フィブラは古代の衣服の留め具として使用されます。コルシカ島のエトルリア人と島の有力者の間で贈り物が交換された首長交易で重要な役割を果たしました。フィブラは最も威厳のある進物でした。

    フィブラ
    フィブラは古代の衣服の留め具として使用されます。コルシカ島のエトルリア人と島の有力者の間で贈り物が交換された首長交易で重要な役割を果たしました。フィブラは最も威厳のある進物でした。

  • コルシカは、ワイン/油/鉄/非鉄金属を取り扱う地中海貿易の中継点となります。ポエニ戦争後にローマの支配下となると、アレリア(バスティアの南73km)とマリアナ(現在のリュクシアナ。バステイア空港滑走路南端に遺跡Cité Romaine de Marianaがある)の2都市から、ローマ文化が広まりました。

    コルシカは、ワイン/油/鉄/非鉄金属を取り扱う地中海貿易の中継点となります。ポエニ戦争後にローマの支配下となると、アレリア(バスティアの南73km)とマリアナ(現在のリュクシアナ。バステイア空港滑走路南端に遺跡Cité Romaine de Marianaがある)の2都市から、ローマ文化が広まりました。

  • 西ローマ帝国崩壊後、コルシカ島は455-534年まで北アフリカのヴァンダル王国、東ローマ帝国、北イタリアのランゴバルド王国、9cにムスリム、10cにはトゥーシア公国、11cにピサと続きます。<br />1197年にジェノヴァがボニファシオ(南端)/1278年にカルヴィ(北西端)へ進出し、1284年のメロリア海戦でピサは排除されます。コルシカ島の支配をめぐるジェノヴァとピサの政争は、経済活動を妨げないように行われます。ジェノバ治世下の遺跡からは、ピサの工房で焼かれた製品が多数出土しています。錫釉で覆われ、マンガン(茶)/銅(緑)で装飾された美しい磁器です。<br />

    西ローマ帝国崩壊後、コルシカ島は455-534年まで北アフリカのヴァンダル王国、東ローマ帝国、北イタリアのランゴバルド王国、9cにムスリム、10cにはトゥーシア公国、11cにピサと続きます。
    1197年にジェノヴァがボニファシオ(南端)/1278年にカルヴィ(北西端)へ進出し、1284年のメロリア海戦でピサは排除されます。コルシカ島の支配をめぐるジェノヴァとピサの政争は、経済活動を妨げないように行われます。ジェノバ治世下の遺跡からは、ピサの工房で焼かれた製品が多数出土しています。錫釉で覆われ、マンガン(茶)/銅(緑)で装飾された美しい磁器です。

  • バスティア市役所の向かいにあるサンニコラ広場。<br />ピサ統治下では、バスティアには、サンニコラ礼拝堂がポツンと建っているだけでした。現在は、観光案内所やモニュメントが設置されている広場に名前が遺されています。<br />※ジェノヴァのコルシカ統治は1284-1768年とされますが、島全体をしっかりと統治していたわけではなく、内外からの攻撃に度々屈していたのが現状です。

    バスティア市役所の向かいにあるサンニコラ広場。
    ピサ統治下では、バスティアには、サンニコラ礼拝堂がポツンと建っているだけでした。現在は、観光案内所やモニュメントが設置されている広場に名前が遺されています。
    ※ジェノヴァのコルシカ統治は1284-1768年とされますが、島全体をしっかりと統治していたわけではなく、内外からの攻撃に度々屈していたのが現状です。

    バスティア インターコミューン観光案内所 散歩・街歩き

  • 実際に礼拝堂があったのは、封建時代にサンニコラ地区と呼ばれた港の西側の小高い丘の部分です。エミールサリ通りが地区を縦断し、現在も住民の普段使いの商店街です。

    実際に礼拝堂があったのは、封建時代にサンニコラ地区と呼ばれた港の西側の小高い丘の部分です。エミールサリ通りが地区を縦断し、現在も住民の普段使いの商店街です。

    Hotel Port Toga ホテル

  • バスティア建設の経緯<br />1358年に北部の農民が反乱を起こします。封建領主はジェノバに鎮圧を委ね、その見返りにコルシカ島北半分を差し出します。ジェノバは鎮圧後の拠点として、バスティア丘陵部(カルド地区)に要塞村を築き、港としてテラ・ヴェッキア(写真は現在の姿)を開拓します。

    バスティア建設の経緯
    1358年に北部の農民が反乱を起こします。封建領主はジェノバに鎮圧を委ね、その見返りにコルシカ島北半分を差し出します。ジェノバは鎮圧後の拠点として、バスティア丘陵部(カルド地区)に要塞村を築き、港としてテラ・ヴェッキア(写真は現在の姿)を開拓します。

  • ビグリア<br />当初ジェノバ支配の拠点は、バスティアの15km程南に位置する要塞化された都市ビグリア(写真)で、1362年に「総督」の称号を持つ役人が初めてコルシカへ派遣されたのもビグリアです。14世紀のジェノバは、教皇にコルシカ領主と任命されたアラゴン(スペインの一部)王国との闘いに明け暮れ、1372年にはアラゴン王国の息の掛かったコルシカ貴族アリゴ・デラ・ロッカ伯による占領を経験します。1年に渉る占領と麓の海が浅い潟であることもあって、1378年にコルシカ総督として赴任したレオネッロ・ロメリーニは現在のバスティアに堡塁を築きます。

    ビグリア
    当初ジェノバ支配の拠点は、バスティアの15km程南に位置する要塞化された都市ビグリア(写真)で、1362年に「総督」の称号を持つ役人が初めてコルシカへ派遣されたのもビグリアです。14世紀のジェノバは、教皇にコルシカ領主と任命されたアラゴン(スペインの一部)王国との闘いに明け暮れ、1372年にはアラゴン王国の息の掛かったコルシカ貴族アリゴ・デラ・ロッカ伯による占領を経験します。1年に渉る占領と麓の海が浅い潟であることもあって、1378年にコルシカ総督として赴任したレオネッロ・ロメリーニは現在のバスティアに堡塁を築きます。

  • 初代堡塁建設<br />天然の良港(地中海貿易拠点)を見込んだ選定で、港を見下ろす岩塊に築かれ、港の保護とビグリア北方の前哨基地(ビグリア有事の際の退避先)としての役割が期待されました。1380年頃に築かれた堡塁は、現在のサンシャルル砦内の火薬庫跡と比定されます(写真)。塔が一本建つだけで、城壁等で保護されていなかったので、1393年にデラロッカに一時占領されます。<br />堡塁(英bastion)はイタリア語でla bastiaと表記され、固有名詞化されてバスティアが都市名となります。フランス語ではbastille(バスティーユ)と表記し、パリのバスティーユ牢獄も一般名詞が固有名詞化した一例です。

    初代堡塁建設
    天然の良港(地中海貿易拠点)を見込んだ選定で、港を見下ろす岩塊に築かれ、港の保護とビグリア北方の前哨基地(ビグリア有事の際の退避先)としての役割が期待されました。1380年頃に築かれた堡塁は、現在のサンシャルル砦内の火薬庫跡と比定されます(写真)。塔が一本建つだけで、城壁等で保護されていなかったので、1393年にデラロッカに一時占領されます。
    堡塁(英bastion)はイタリア語でla bastiaと表記され、固有名詞化されてバスティアが都市名となります。フランス語ではbastille(バスティーユ)と表記し、パリのバスティーユ牢獄も一般名詞が固有名詞化した一例です。

  • 総督府所在地として<br />1398年以降、総督がバスティアの堡塁に居住するようになり、1401-21年にかけて堡塁は補強されます。1457年には全20室の建物だったと記録されています。1488-1521年にかけて、宮殿の体を為していきます。

    総督府所在地として
    1398年以降、総督がバスティアの堡塁に居住するようになり、1401-21年にかけて堡塁は補強されます。1457年には全20室の建物だったと記録されています。1488-1521年にかけて、宮殿の体を為していきます。

  • テラ・ノヴァの誕生<br />1481年にジェノバ商人のアントニオ・タリアカルネは、堡塁から真っ直ぐ伸びる道路を整備し(現在のノートルダム通り:写真)、沿道に20軒の住宅を建てます。ジェノバは免税等の優遇措置を施して転入を促します。こうして軍事/行政府+市街地から成るノヴァ地区が誕生します。

    テラ・ノヴァの誕生
    1481年にジェノバ商人のアントニオ・タリアカルネは、堡塁から真っ直ぐ伸びる道路を整備し(現在のノートルダム通り:写真)、沿道に20軒の住宅を建てます。ジェノバは免税等の優遇措置を施して転入を促します。こうして軍事/行政府+市街地から成るノヴァ地区が誕生します。

    テラ ノヴァ地区 旧市街・古い町並み

  • フィカジョラの公共噴水の銘板(写真)には、1488年に総督ラファエロ・グリマルディが整備したことが記されています。権力基盤と水供給の関係が写し出されます。R.グリマルディは、堡塁の拡張(1487-1521)を含むノヴァ地区の都市整備も行ないました。<br />

    フィカジョラの公共噴水の銘板(写真)には、1488年に総督ラファエロ・グリマルディが整備したことが記されています。権力基盤と水供給の関係が写し出されます。R.グリマルディは、堡塁の拡張(1487-1521)を含むノヴァ地区の都市整備も行ないました。

  • イタリア戦争の一環で1553年に、フランス国王アンリ2世はバスティアを攻撃し、バスティアは占領されます。サンピエロ・コルソ(コルシカのサンピエロ 写真)は、ジェノバ支配に抵抗した郷土の英雄で、フランソワ1世の治世時からフランスの傭兵として行動し、1553年のフランス/トルコ連合艦隊を指揮してバスティアを占領します。<br />占領後、防備を強化すべく1554年には総督宮殿の中庭下に2つ目の貯水槽を建設し、合計670tの貯水能力を確保します。オスマントルコの脅威に備えて堡塁の拡張が1575-1626年にかけて行われ、6つの砦から成る現在の形に整備されます。地区全体が要塞(英citadel)化されて、ノヴァ地区はシタデル(要塞)と呼ばれる方が一般的になります。

    イタリア戦争の一環で1553年に、フランス国王アンリ2世はバスティアを攻撃し、バスティアは占領されます。サンピエロ・コルソ(コルシカのサンピエロ 写真)は、ジェノバ支配に抵抗した郷土の英雄で、フランソワ1世の治世時からフランスの傭兵として行動し、1553年のフランス/トルコ連合艦隊を指揮してバスティアを占領します。
    占領後、防備を強化すべく1554年には総督宮殿の中庭下に2つ目の貯水槽を建設し、合計670tの貯水能力を確保します。オスマントルコの脅威に備えて堡塁の拡張が1575-1626年にかけて行われ、6つの砦から成る現在の形に整備されます。地区全体が要塞(英citadel)化されて、ノヴァ地区はシタデル(要塞)と呼ばれる方が一般的になります。

  • 行政機構<br />バスティアの行政は、ポデスタ(行政長官)と4名で構成される評議会(議会に相当)を核として運営されます。先述のアントニオ・タリアカルネは、初代ポデスタ(在1488-98)を務めます。彼の家は、後に市庁舎兼議事堂となります。

    行政機構
    バスティアの行政は、ポデスタ(行政長官)と4名で構成される評議会(議会に相当)を核として運営されます。先述のアントニオ・タリアカルネは、初代ポデスタ(在1488-98)を務めます。彼の家は、後に市庁舎兼議事堂となります。

  • 総督府<br />総督(英governor)の権限は政治/軍事/司法及びました。島特有の民事法と刑事法(写真)に基づき、代理官が総督を補佐しました。彼らは、本国ドーシェ/元老院の権威に服していました。非常事態には、より大きな権限を持つ総督(英commissioner:全権委託のニュアンス)が赴任しました。コルシカ総督をトップとする行政機関は、総督宮殿に置かれました。

    総督府
    総督(英governor)の権限は政治/軍事/司法及びました。島特有の民事法と刑事法(写真)に基づき、代理官が総督を補佐しました。彼らは、本国ドーシェ/元老院の権威に服していました。非常事態には、より大きな権限を持つ総督(英commissioner:全権委託のニュアンス)が赴任しました。コルシカ総督をトップとする行政機関は、総督宮殿に置かれました。

  • 写真は、かつて総督代理官のオフィスだった部屋です。<br />代理官は、民事/刑事事件において総督を補佐し、総督が不在の場合には代理で裁判を行いました。法学の博士号を持つ専門職集団でした。

    写真は、かつて総督代理官のオフィスだった部屋です。
    代理官は、民事/刑事事件において総督を補佐し、総督が不在の場合には代理で裁判を行いました。法学の博士号を持つ専門職集団でした。

  • 十二貴族評議会<br />総督府は、十二貴族と呼ばれる島民の代表者を通して円滑に支配しようとします。有力者の中から毎年9月に12名を選出し、各人は1カ月間総督の補佐として任務に就きました。写真の正面が総督宮殿、左が十二貴族の官舎(1703年築)です。<br />※十二貴族が関わったのは、島の北半分だけです。コルシカ人は法律で貴族にはなれなかったので、高貴なという単語を貴族と意訳しています。

    十二貴族評議会
    総督府は、十二貴族と呼ばれる島民の代表者を通して円滑に支配しようとします。有力者の中から毎年9月に12名を選出し、各人は1カ月間総督の補佐として任務に就きました。写真の正面が総督宮殿、左が十二貴族の官舎(1703年築)です。
    ※十二貴族が関わったのは、島の北半分だけです。コルシカ人は法律で貴族にはなれなかったので、高貴なという単語を貴族と意訳しています。

  • バスティアは貿易で栄え、島内住民や、ジェノヴァ本国の商人/法律家が移入するようになります。1560年に2,000人だった人口は、1650年には6,000人に増加します。港を持つヴェッキア地区(写真)は北/西へ拡張し、商人から成る新たなエリート層が台頭し、港湾周辺に豪華な邸宅を建てます。<br />一方で法律家等の行政専門職の家系は、総督府のあるノヴァ地区に居を構えます。

    バスティアは貿易で栄え、島内住民や、ジェノヴァ本国の商人/法律家が移入するようになります。1560年に2,000人だった人口は、1650年には6,000人に増加します。港を持つヴェッキア地区(写真)は北/西へ拡張し、商人から成る新たなエリート層が台頭し、港湾周辺に豪華な邸宅を建てます。
    一方で法律家等の行政専門職の家系は、総督府のあるノヴァ地区に居を構えます。

    テラ ヴェキア地区 旧市街・古い町並み

  • 幼子イエスを抱く聖ヨセフ<br />脇役として描かれることが多いイエスの養父を、絵画の主役として描いた稀な作品です。バスティアでは1626年にサン・ジュゼッペ(聖ヨセフ)礼拝堂が建てられ、数年後には大工組合がそこに拠点を置きました。1632年には聖ヨセフがバスティアの守護聖人と宣言されました。

    幼子イエスを抱く聖ヨセフ
    脇役として描かれることが多いイエスの養父を、絵画の主役として描いた稀な作品です。バスティアでは1626年にサン・ジュゼッペ(聖ヨセフ)礼拝堂が建てられ、数年後には大工組合がそこに拠点を置きました。1632年には聖ヨセフがバスティアの守護聖人と宣言されました。

  • 1670年には港が防波堤で囲まれ、桟橋も完成します。ジェノヴァ桟橋という名称で、港湾能力が一気に向上します。

    1670年には港が防波堤で囲まれ、桟橋も完成します。ジェノヴァ桟橋という名称で、港湾能力が一気に向上します。

  • 同じ時期に、港の南側に新たな市街地が形成されます。小さな橋を意味する プンテットゥ(Puntettu)地区は、旧市街と新市街に挟まれたロケーションです。100年で人口が3倍になったので、建築ラッシュでした。

    同じ時期に、港の南側に新たな市街地が形成されます。小さな橋を意味する プンテットゥ(Puntettu)地区は、旧市街と新市街に挟まれたロケーションです。100年で人口が3倍になったので、建築ラッシュでした。

  • 建築様式<br />エリート層の間では、ジェノヴァ(リグーリア地方)様式を踏襲します。玄関のドアにはペディメント(切妻屋根の三角形の部分)があり、且つ頂点の部分が欠けているのが特徴です(英broken pediment)。図のように長方形の紋章を填め込むためです。写真は、ティスコルニア家の紋章です。

    建築様式
    エリート層の間では、ジェノヴァ(リグーリア地方)様式を踏襲します。玄関のドアにはペディメント(切妻屋根の三角形の部分)があり、且つ頂点の部分が欠けているのが特徴です(英broken pediment)。図のように長方形の紋章を填め込むためです。写真は、ティスコルニア家の紋章です。

  • 屋根は、スレート(頁岩等が圧密された岩石)で葺きます。スレートは風雪や火への耐性に優れる素材で、ジェノヴァでは殊に好まれ、先ほどの紋章等の装飾や内装にも使用されました。

    屋根は、スレート(頁岩等が圧密された岩石)で葺きます。スレートは風雪や火への耐性に優れる素材で、ジェノヴァでは殊に好まれ、先ほどの紋章等の装飾や内装にも使用されました。

  • 屋根の下には、コーニスがあります。壁の頂上から水平に突出して、雨水が建物の壁に当たらないようにします。コーニスは、窓やドアの上にも設けられます。昨今の建築では軒の庇/雨樋を設けて、コーニスを省いています。

    屋根の下には、コーニスがあります。壁の頂上から水平に突出して、雨水が建物の壁に当たらないようにします。コーニスは、窓やドアの上にも設けられます。昨今の建築では軒の庇/雨樋を設けて、コーニスを省いています。

  • 写真はスレート製コーニスの破片で、装飾性も加えたもの。

    写真はスレート製コーニスの破片で、装飾性も加えたもの。

  • ジェノヴァの商家スタイルで、0階(地上階)は倉庫として、1階は応接/商談のためのスペースでした。

    ジェノヴァの商家スタイルで、0階(地上階)は倉庫として、1階は応接/商談のためのスペースでした。

  • 倉庫の床は丈夫な石敷き、1階以降の床は、テラコッタを敷き詰めました。

    倉庫の床は丈夫な石敷き、1階以降の床は、テラコッタを敷き詰めました。

  • ヴォールト(穹窿)は、広い空間を少ない柱で支えるための半円構造です。アーチが線なのに対し、ヴォールトは面で支えます(ドームは半球)。筒形(かまぼこ型)と、力学面でより優れた交差型(写真)に分かれます。

    ヴォールト(穹窿)は、広い空間を少ない柱で支えるための半円構造です。アーチが線なのに対し、ヴォールトは面で支えます(ドームは半球)。筒形(かまぼこ型)と、力学面でより優れた交差型(写真)に分かれます。

  • 寝室<br />壁は、漆喰加工です。窓は内側に観音開きの木製扉が付き、天井部分には彫刻入りのスレートが張られています。

    寝室
    壁は、漆喰加工です。窓は内側に観音開きの木製扉が付き、天井部分には彫刻入りのスレートが張られています。

  • 木製の四柱式ベッドには、刺繍入りの布製カーテンとウールのマットレスが敷かれています。厚手の緑のベルベットのカーテンは、寝ている人を寒さから守る役割を果たしていました。また、当時は座ったままの姿勢で寝ていたため、ベッドは非常に小さいサイズです。<br />※エリート層に普及した「横になると死に至る」という迷信に基づきます。フランス革命後は廃れていきます。

    木製の四柱式ベッドには、刺繍入りの布製カーテンとウールのマットレスが敷かれています。厚手の緑のベルベットのカーテンは、寝ている人を寒さから守る役割を果たしていました。また、当時は座ったままの姿勢で寝ていたため、ベッドは非常に小さいサイズです。
    ※エリート層に普及した「横になると死に至る」という迷信に基づきます。フランス革命後は廃れていきます。

  • ラヴァシナの聖母 17世紀後半<br />17世紀後半からバスティアとカップ・コルス地方全域で熱烈な信仰の対象であったラヴァシナの聖母を描いています。<br />1677年にラヴァシナでワインを売買していた船乗りが、ローマの債務者から債権回収するために聖母マリアの絵画を差し押さえます。絵画の包装の中には、何と債権と全く同じ金額の現金が包まれていました。お礼に礼拝堂を建てて、聖母マリアの絵画を置きました。ラヴァシナの聖母として知られて巡礼対象となり、地元の芸術家によって数多く複製されました。

    ラヴァシナの聖母 17世紀後半
    17世紀後半からバスティアとカップ・コルス地方全域で熱烈な信仰の対象であったラヴァシナの聖母を描いています。
    1677年にラヴァシナでワインを売買していた船乗りが、ローマの債務者から債権回収するために聖母マリアの絵画を差し押さえます。絵画の包装の中には、何と債権と全く同じ金額の現金が包まれていました。お礼に礼拝堂を建てて、聖母マリアの絵画を置きました。ラヴァシナの聖母として知られて巡礼対象となり、地元の芸術家によって数多く複製されました。

  • スペインのタイルは、色鮮やかなモチーフをあしらった豪華な内装を演出し、社会的地位を誇示したい裕福な住宅所有者向けに作られました。18世紀には、リグリア地方でもコピー生産されるようになります。

    スペインのタイルは、色鮮やかなモチーフをあしらった豪華な内装を演出し、社会的地位を誇示したい裕福な住宅所有者向けに作られました。18世紀には、リグリア地方でもコピー生産されるようになります。

  • 拡大<br />これらは、17世紀のスペイン製のものです。

    拡大
    これらは、17世紀のスペイン製のものです。

  • 植物装飾を施した球形水差し(16-18c)<br />水差しはボッカリと呼ばれ、三裂の口が特徴です。黄/青/琥珀色の装飾は円形の枠で囲まれた梯子状の枠で構成され、その周囲にパルメットや植物の蔓が花瓶の奥に向かって伸びていきます。額縁の内側には、キリストのモノグラム(IHS)/AMADIO(神を愛せ)/LAUSDIO(神に栄光あれ)/BONOVINO(良質のワイン)といったモットーが書かれます。

    植物装飾を施した球形水差し(16-18c)
    水差しはボッカリと呼ばれ、三裂の口が特徴です。黄/青/琥珀色の装飾は円形の枠で囲まれた梯子状の枠で構成され、その周囲にパルメットや植物の蔓が花瓶の奥に向かって伸びていきます。額縁の内側には、キリストのモノグラム(IHS)/AMADIO(神を愛せ)/LAUSDIO(神に栄光あれ)/BONOVINO(良質のワイン)といったモットーが書かれます。

  • リグリア陶器は16世紀以降、国際市場で認知され始めました。専らテーブルやサイドボードの装飾用に置かれました。

    リグリア陶器は16世紀以降、国際市場で認知され始めました。専らテーブルやサイドボードの装飾用に置かれました。

  • バスティアの繁栄を支えたのは、カプコルス出身の船乗りたちです。実際、貿易に使用された船舶および操船は彼らが担っていました。中には、船主として財を成し、バスティアの名士として市政に携わった家系も存在します。<br />写真は18世紀の船箪笥で、蓋にはアダムとイブといった鉄板の聖書中のテーマ、本体にはコルシカのシンボルであるムーア人が描かれています。

    バスティアの繁栄を支えたのは、カプコルス出身の船乗りたちです。実際、貿易に使用された船舶および操船は彼らが担っていました。中には、船主として財を成し、バスティアの名士として市政に携わった家系も存在します。
    写真は18世紀の船箪笥で、蓋にはアダムとイブといった鉄板の聖書中のテーマ、本体にはコルシカのシンボルであるムーア人が描かれています。

  • コルシカの宗教芸術におけるジェノヴァの影響<br />教会や修道院は、地方貴族/市民/同心会からの喜捨を元手にジェノヴァの芸術家に作品を依頼し、彼らの作品を地元職人が模倣しました。17世紀のサヴォーナの聖母崇拝(写真)に見られるように、ジェノヴァ特有の信仰形態も伝播します。

    コルシカの宗教芸術におけるジェノヴァの影響
    教会や修道院は、地方貴族/市民/同心会からの喜捨を元手にジェノヴァの芸術家に作品を依頼し、彼らの作品を地元職人が模倣しました。17世紀のサヴォーナの聖母崇拝(写真)に見られるように、ジェノヴァ特有の信仰形態も伝播します。

  • 箪笥の2つの蓋には、コルシカ島で信仰された宗教的人物像が描かれています。上の蓋には、パドヴァの聖アントニオ、ハンガリーの聖エリザベート、ヴィテルボの聖ロザ、そして幼子イエスを抱く聖ヨセフが描かれています。下の蓋には、聖母被昇天、悲しみの聖母、パドヴァの聖アントニオが描かれています。

    箪笥の2つの蓋には、コルシカ島で信仰された宗教的人物像が描かれています。上の蓋には、パドヴァの聖アントニオ、ハンガリーの聖エリザベート、ヴィテルボの聖ロザ、そして幼子イエスを抱く聖ヨセフが描かれています。下の蓋には、聖母被昇天、悲しみの聖母、パドヴァの聖アントニオが描かれています。

  • 無原罪の聖母<br />1637年、無原罪の御宿りの聖母はジェノヴァ共和国の守護聖母となり、それ以降、ジェノヴァ共和国の硬貨には彼女の肖像が描かれています。この彫刻は黙示録12章を描写し、光のベールと12の星の冠をかぶり、足元に月を戴いています。三日月は雲間から現れ、聖母の足は天使の頭の上に載っています。

    無原罪の聖母
    1637年、無原罪の御宿りの聖母はジェノヴァ共和国の守護聖母となり、それ以降、ジェノヴァ共和国の硬貨には彼女の肖像が描かれています。この彫刻は黙示録12章を描写し、光のベールと12の星の冠をかぶり、足元に月を戴いています。三日月は雲間から現れ、聖母の足は天使の頭の上に載っています。

  •  聖エラスムスの行列用彫刻<br />航海の守護聖人として、小さな船の上に載っています。エラスムス「聖人の日」の6月2日に礼拝堂から旧港まで行進し、船からの祝鐘が響き渡りました。

    聖エラスムスの行列用彫刻
    航海の守護聖人として、小さな船の上に載っています。エラスムス「聖人の日」の6月2日に礼拝堂から旧港まで行進し、船からの祝鐘が響き渡りました。

  • 差別と出稼ぎ<br />ベネメランサ(Benemeranza)制度により、ジェノヴァへの忠誠を示したコルシカ人有力者には、一定の特権(免税/武器所持の権利/行政機関や軍隊における役職等)が与えられました。とはいえジェノバ貴族には列せられず、そのため他の主権国家へ仕官することも多く見られました。例えばシモン・ジョヴァンニ・ファヴァレッリ(写真)は、1693年にトスカーナ公国で貴族へ加えられます。

    差別と出稼ぎ
    ベネメランサ(Benemeranza)制度により、ジェノヴァへの忠誠を示したコルシカ人有力者には、一定の特権(免税/武器所持の権利/行政機関や軍隊における役職等)が与えられました。とはいえジェノバ貴族には列せられず、そのため他の主権国家へ仕官することも多く見られました。例えばシモン・ジョヴァンニ・ファヴァレッリ(写真)は、1693年にトスカーナ公国で貴族へ加えられます。

  • バスティアの名士アンジェロ・ピエランジェリは、ジェノバ貴族の娘アントニア・カオスと結婚し、資本と事業を拡大しましたが、ジェノバ貴族には加えられませんでした。帯剣はベネメリティ制度に基づく特権を有していることを示しています。<br />17世紀にはコルシカ人有力者の公職就任が大きく制限され、遂には市政にまで及ぶと、エリート層の不満は高まります。

    バスティアの名士アンジェロ・ピエランジェリは、ジェノバ貴族の娘アントニア・カオスと結婚し、資本と事業を拡大しましたが、ジェノバ貴族には加えられませんでした。帯剣はベネメリティ制度に基づく特権を有していることを示しています。
    17世紀にはコルシカ人有力者の公職就任が大きく制限され、遂には市政にまで及ぶと、エリート層の不満は高まります。

  • 18世紀には、国際紛争とジェノヴァに対する島民の反乱により、バスティアは停滞します。当時、バスティアは島で最も人口の多い都市でしたが、人口は5,000人まで減少します。写真は、1730年の新市街のジオラマ。<br />ジェノバ政府は、コルシカ島を安価な食料供給地(植民地)としか考えず、島への投資を故意に控えました。

    18世紀には、国際紛争とジェノヴァに対する島民の反乱により、バスティアは停滞します。当時、バスティアは島で最も人口の多い都市でしたが、人口は5,000人まで減少します。写真は、1730年の新市街のジオラマ。
    ジェノバ政府は、コルシカ島を安価な食料供給地(植民地)としか考えず、島への投資を故意に控えました。

  • 40年戦争(1729-69)<br />1729年に武器携行税徴収をきっかけに騒乱が広がり、バスティアが包囲されます。ジェノヴァはオーストリア(1731-32年)に援助を求めます。写真は、オーストリア軍を率いたエーバーハルト・ルートヴィヒ・フォン・ヴュルテンベルク公爵の肖像。<br />1734年にヒャシンテ・パオリらが蜂起し、コルテにコルシカ王国を樹立し、8カ月間存続します。オーストリアがポーランド継承戦争に深く携わり、援軍を送れなかったことが原因でした。<br />

    40年戦争(1729-69)
    1729年に武器携行税徴収をきっかけに騒乱が広がり、バスティアが包囲されます。ジェノヴァはオーストリア(1731-32年)に援助を求めます。写真は、オーストリア軍を率いたエーバーハルト・ルートヴィヒ・フォン・ヴュルテンベルク公爵の肖像。
    1734年にヒャシンテ・パオリらが蜂起し、コルテにコルシカ王国を樹立し、8カ月間存続します。オーストリアがポーランド継承戦争に深く携わり、援軍を送れなかったことが原因でした。

  • ジェノバはフランス(1738-41,47~52,56~59年)に軍事援助を求めましたが、いずれも反乱を鎮圧することはできませんでした。ジェノヴァの実効支配は、北部沿岸に限定されます。<br />オーストリア継承戦争では1745年に英艦隊の砲撃を受け、ゼルビ家も被弾します。ほかには、聖十字架信心会礼拝堂も被弾します。火器の技術が進歩し、丘の上で城壁に囲まれたエリアでも安心できなくなりました。

    ジェノバはフランス(1738-41,47~52,56~59年)に軍事援助を求めましたが、いずれも反乱を鎮圧することはできませんでした。ジェノヴァの実効支配は、北部沿岸に限定されます。
    オーストリア継承戦争では1745年に英艦隊の砲撃を受け、ゼルビ家も被弾します。ほかには、聖十字架信心会礼拝堂も被弾します。火器の技術が進歩し、丘の上で城壁に囲まれたエリアでも安心できなくなりました。

  • コルシカ共和国(1755-68)<br />パスカル・パオリ(写真)は、1755年にコルシカ共和国を樹立します。ジェノヴァは、コルシカ全体を治める力も費用も無くなり、1768年のヴェルサイユ条約でフランスへ引渡します。1769年のポンテ・ノヴォの戦いにフランス軍は勝利し、パオリ一行はロンドンへ亡命します。パオリ等が制定したコルシカ共和国の国章(ムーア人をモチーフとしたデザイン)は、コルシカのシンボルとして広く用いられます。

    コルシカ共和国(1755-68)
    パスカル・パオリ(写真)は、1755年にコルシカ共和国を樹立します。ジェノヴァは、コルシカ全体を治める力も費用も無くなり、1768年のヴェルサイユ条約でフランスへ引渡します。1769年のポンテ・ノヴォの戦いにフランス軍は勝利し、パオリ一行はロンドンへ亡命します。パオリ等が制定したコルシカ共和国の国章(ムーア人をモチーフとしたデザイン)は、コルシカのシンボルとして広く用いられます。

  • 軍務仕官<br />バスティアのエリート層にとって、社会的地位向上の手段の一つは軍務でした。ジョヴァンニ・バッティスタ・カラファ(1723-91)は1739年にフランス王立コルシカ連隊の中尉として入隊し、オーストリア継承戦争/七年戦争に参加します。1756年の肖像画では、大尉の軍服を着用しています。ヴェネチア共和国等の諸国家には、コルシカ出身者で構成されるコルシカ部隊/連隊等が組織されました。コルシカ人は、射撃能力に優れる多くの人材を供給しました。

    軍務仕官
    バスティアのエリート層にとって、社会的地位向上の手段の一つは軍務でした。ジョヴァンニ・バッティスタ・カラファ(1723-91)は1739年にフランス王立コルシカ連隊の中尉として入隊し、オーストリア継承戦争/七年戦争に参加します。1756年の肖像画では、大尉の軍服を着用しています。ヴェネチア共和国等の諸国家には、コルシカ出身者で構成されるコルシカ部隊/連隊等が組織されました。コルシカ人は、射撃能力に優れる多くの人材を供給しました。

  • ジャン・バッティスタ・リストーリ(1727-1812)<br />1740年に王立コルシカ連隊に入隊し、66年に解散されるまで所属しました。(フランス革命以降は、第一共和制/第一帝政に組します)<br />コルシカ王立連隊には、ジェノヴァ共和国に反対する家系の多くが結集しました。

    ジャン・バッティスタ・リストーリ(1727-1812)
    1740年に王立コルシカ連隊に入隊し、66年に解散されるまで所属しました。(フランス革命以降は、第一共和制/第一帝政に組します)
    コルシカ王立連隊には、ジェノヴァ共和国に反対する家系の多くが結集しました。

  • ジャック=ルイ・マセシ(写真 1749~1839)は、1766年に王立コルシカ連隊に士官として入隊します。写真は、1770年の肖像です。(1814年には元帥に任命されます)

    ジャック=ルイ・マセシ(写真 1749~1839)は、1766年に王立コルシカ連隊に士官として入隊します。写真は、1770年の肖像です。(1814年には元帥に任命されます)

  • フランス領となっても、バスティアは政治的首都であり続けました。写真は、1772年の地図です。矢印の部分が、総督府として機能します。現在のサンニコラ広場南東角に面する場所で、地方政府庁舎/ジャン・ニコリ高校となっています。ジェノバ時代の総督宮殿は、評議会(議会)/牢獄として使用されます。

    フランス領となっても、バスティアは政治的首都であり続けました。写真は、1772年の地図です。矢印の部分が、総督府として機能します。現在のサンニコラ広場南東角に面する場所で、地方政府庁舎/ジャン・ニコリ高校となっています。ジェノバ時代の総督宮殿は、評議会(議会)/牢獄として使用されます。

  • イルカの噴水<br />アンシャンレジウムの典型的アイコン。Dauphinはイルカを意味しますが、イルカを紋章にしていたヴィエンヌ伯の血統が絶えてフランス王国の皇太子が代々相続することになったのをきっかけに、王太子の儀礼称号となりました。ルイ16世の治世1787年に建設されます。<br />※英王太子のPrince of Walesという称号と同じ使い方です。

    イルカの噴水
    アンシャンレジウムの典型的アイコン。Dauphinはイルカを意味しますが、イルカを紋章にしていたヴィエンヌ伯の血統が絶えてフランス王国の皇太子が代々相続することになったのをきっかけに、王太子の儀礼称号となりました。ルイ16世の治世1787年に建設されます。
    ※英王太子のPrince of Walesという称号と同じ使い方です。

  • バスティアのエリート層は、フランス革命(1789-)も支持します。第一共和制(国民公会政府1792-)がコルシカにも及びますが、共和制を警戒する諸王国の侵攻を受け、1793年にトゥーロンの軍港を占領したイギリスは、地中海での利権拡大を目指しコルシカに食指を伸ばします。

    バスティアのエリート層は、フランス革命(1789-)も支持します。第一共和制(国民公会政府1792-)がコルシカにも及びますが、共和制を警戒する諸王国の侵攻を受け、1793年にトゥーロンの軍港を占領したイギリスは、地中海での利権拡大を目指しコルシカに食指を伸ばします。

  • アングロコルシカ王国(1794-96)<br />イギリスはパスカル・パオリの要請によりコルシカ島からフランス軍を追い出し、アングロ・コルシカ王国を樹立します。バスティアに総督が就任し、議会はコルテに設置します。アングロ=コルシカ王国の紋章(写真)は、英国とコルシカ島の紋章を組み合わせたものです。紋章のAmici non di ventura(冒険の友)というモットーは、ダンテの『神曲』から引用され、建国の演説でエリオット総督によって唱えられたものです。

    アングロコルシカ王国(1794-96)
    イギリスはパスカル・パオリの要請によりコルシカ島からフランス軍を追い出し、アングロ・コルシカ王国を樹立します。バスティアに総督が就任し、議会はコルテに設置します。アングロ=コルシカ王国の紋章(写真)は、英国とコルシカ島の紋章を組み合わせたものです。紋章のAmici non di ventura(冒険の友)というモットーは、ダンテの『神曲』から引用され、建国の演説でエリオット総督によって唱えられたものです。

  • ギルバート・エリオット卿(1751-1814)<br />英国の法曹官僚で、1793年の4カ月に渉るトゥーロン占領では民生委員として統治に携わります。ナポレオンによるトゥーロン解放後は、パスカル・パオリとコルシカ島のイギリスへの割譲交渉に臨み、アングロコルシカ王国では総督(副王)を務めます。(その後はインド総督等を歴任します)<br />

    ギルバート・エリオット卿(1751-1814)
    英国の法曹官僚で、1793年の4カ月に渉るトゥーロン占領では民生委員として統治に携わります。ナポレオンによるトゥーロン解放後は、パスカル・パオリとコルシカ島のイギリスへの割譲交渉に臨み、アングロコルシカ王国では総督(副王)を務めます。(その後はインド総督等を歴任します)

  • バルダッサーレ・デ・ペトリコーニ(1763-1842)<br />1760年代にフランス侵攻に抵抗した軍人家庭に生まれ、アングロ・コルシカ王国の建国に組します。この絵では、総督副官(中佐)の制服を着ています。(王国の崩壊後は亡命するも長年投獄され、ルイ18世の即位に伴いコルシカ島へ戻り、ナポレオン百日天下の間は再び亡命、1815年に知事としての職を終えます。)<br />

    バルダッサーレ・デ・ペトリコーニ(1763-1842)
    1760年代にフランス侵攻に抵抗した軍人家庭に生まれ、アングロ・コルシカ王国の建国に組します。この絵では、総督副官(中佐)の制服を着ています。(王国の崩壊後は亡命するも長年投獄され、ルイ18世の即位に伴いコルシカ島へ戻り、ナポレオン百日天下の間は再び亡命、1815年に知事としての職を終えます。)

  • 再びフランス領へ<br />ナポレオンは、1796年にバスティア出身のラファエル・ド・カサビアンカ(1738-1825)をフランス軍司令官に任命し、英国からコルシカを取り戻します。写真では、1802年に制定されたレジオン・ド・ヌール勲章を胸に付けています。

    再びフランス領へ
    ナポレオンは、1796年にバスティア出身のラファエル・ド・カサビアンカ(1738-1825)をフランス軍司令官に任命し、英国からコルシカを取り戻します。写真では、1802年に制定されたレジオン・ド・ヌール勲章を胸に付けています。

  • ナポレオン・ボナパルト(1769-1821)<br />コルシカ島のアジャクシオで出生します。1795年にジャコバン派独裁(国民公会政府)から総裁制(総裁政府)へ移行すると、イタリア方面軍の司令官としてウィーンへ到達し、戦果としてイタリア北部をオーストリアから奪います。1799年のクーデターで統領として独裁を開始すると、フランス革命は終了します。ナポレオンは、コルシカの有力者を取り込んでコルシカ内外の要職への門戸を開くことで、コルシカの政治的安定を推進しました。<br />ちょっと脱線して、かつての宗主国ジェノヴァ共和国について、おさらいします。

    ナポレオン・ボナパルト(1769-1821)
    コルシカ島のアジャクシオで出生します。1795年にジャコバン派独裁(国民公会政府)から総裁制(総裁政府)へ移行すると、イタリア方面軍の司令官としてウィーンへ到達し、戦果としてイタリア北部をオーストリアから奪います。1799年のクーデターで統領として独裁を開始すると、フランス革命は終了します。ナポレオンは、コルシカの有力者を取り込んでコルシカ内外の要職への門戸を開くことで、コルシカの政治的安定を推進しました。
    ちょっと脱線して、かつての宗主国ジェノヴァ共和国について、おさらいします。

  • ジェノバ共和国(1099-1797)<br />958年に神聖ローマ帝国内で自由都市の地位を獲得し、第1回十字軍(1096-99)に参戦することで独立を獲得します。現在のリグーリア州を本領(紫)として、ナポレオンのイタリア遠征(1797年)で主権を失います。1815年以降のウィーン体制ではサヴォワ公国に編入され、イタリア統一を経て痕跡は完全に消え去ります。

    ジェノバ共和国(1099-1797)
    958年に神聖ローマ帝国内で自由都市の地位を獲得し、第1回十字軍(1096-99)に参戦することで独立を獲得します。現在のリグーリア州を本領(紫)として、ナポレオンのイタリア遠征(1797年)で主権を失います。1815年以降のウィーン体制ではサヴォワ公国に編入され、イタリア統一を経て痕跡は完全に消え去ります。

  • 国旗/国章<br />第1回十字軍参加の恩賞として、十字軍の旗のデザインである聖ゲオルギウスの十字を国旗として使用することを許されます。写真のような赤十字です。イタリア語ではジョルジオ、英語ではジョージ、フランス語ではジョルジュ。<br />※イングランドも十字軍参加恩賞として、1188年に赤十字を国旗として現在に至ります。

    国旗/国章
    第1回十字軍参加の恩賞として、十字軍の旗のデザインである聖ゲオルギウスの十字を国旗として使用することを許されます。写真のような赤十字です。イタリア語ではジョルジオ、英語ではジョージ、フランス語ではジョルジュ。
    ※イングランドも十字軍参加恩賞として、1188年に赤十字を国旗として現在に至ります。

  • 紋章<br />聖ゲオルギオス十字を2頭のグリフィンに囲まれた冠を戴いた盾というデザインです。グリフィンは、ライオンに鷲の翼を持ちます。<br />第一回十字軍では、ジェノバは卓越した航海術の伴うガレー船団を提供して兵員や食糧を輸送することで諸国家/諸侯を支援することで、有利な通商条約を結べたのが最大の収穫でした。各地に商館を開設し、富を蓄えます。<br />※絶頂期のピサの活躍で、地中海の制海権を確保したことも大きな要素です。

    紋章
    聖ゲオルギオス十字を2頭のグリフィンに囲まれた冠を戴いた盾というデザインです。グリフィンは、ライオンに鷲の翼を持ちます。
    第一回十字軍では、ジェノバは卓越した航海術の伴うガレー船団を提供して兵員や食糧を輸送することで諸国家/諸侯を支援することで、有利な通商条約を結べたのが最大の収穫でした。各地に商館を開設し、富を蓄えます。
    ※絶頂期のピサの活躍で、地中海の制海権を確保したことも大きな要素です。

  • 地中海の貿易を巡って、13世紀になるとピサやベネチアと利害が対立します。ジェノバは東ローマ(ビサンチン)帝国を支援することで、帝国内での自由交易権を独占します。エーゲ海の島々(1262-1566)/黒海クリミア半島南部(1266-1475)に海外領土を獲得して、中東とのレバント貿易/黒海でのロシア貿易から大きな利益を得ます。

    地中海の貿易を巡って、13世紀になるとピサやベネチアと利害が対立します。ジェノバは東ローマ(ビサンチン)帝国を支援することで、帝国内での自由交易権を独占します。エーゲ海の島々(1262-1566)/黒海クリミア半島南部(1266-1475)に海外領土を獲得して、中東とのレバント貿易/黒海でのロシア貿易から大きな利益を得ます。

  • コルシカ支配を巡って、1284年にはピサとメロリア海戦で衝突し勝利します。コルシカはジェノバ領となり(1284-1768)、ピサは衰退して1509年には主権を失います。<br />クリミアでは奴隷(東方正教会信徒)を買って、中東でイスラム商人へ転売ました。そうして得た資金でイスラム商人から香辛料を買い付け、ヨーロッパで販売することで大きな利益を得ます。ジェノバ商人は13-14世紀にかけて、桃色の範囲内で強い影響力を及ぼします。<br />※ロシアはタタールの軛と呼ばれる時期にあたり、モンゴル帝国が支配していました。

    コルシカ支配を巡って、1284年にはピサとメロリア海戦で衝突し勝利します。コルシカはジェノバ領となり(1284-1768)、ピサは衰退して1509年には主権を失います。
    クリミアでは奴隷(東方正教会信徒)を買って、中東でイスラム商人へ転売ました。そうして得た資金でイスラム商人から香辛料を買い付け、ヨーロッパで販売することで大きな利益を得ます。ジェノバ商人は13-14世紀にかけて、桃色の範囲内で強い影響力を及ぼします。
    ※ロシアはタタールの軛と呼ばれる時期にあたり、モンゴル帝国が支配していました。

  • 衰退期(1380-1528)<br />ライバルのベネチアとは、1378-81年のキオッジャ戦争で敗北します。内部対立が原因で国政が混乱し、諸外国の介入を許し、度々フランス等の支配を受けます。中東ではオスマントルコが台頭し、1475年にはクリミア/1566年にはエーゲ海の植民地を失います。<br />1396~1421年(フランス国王シャルル6世),1421-35年(ミラノ公国ヴィスコンティ家),1458-61年(フランス国王シャルル7世),1464-79年(ミラノ公国スフォルツァ家),1499-1512,1513-22,1527‐28年(フランス国王ルイ12世/フランソワ1世)に従属します。

    衰退期(1380-1528)
    ライバルのベネチアとは、1378-81年のキオッジャ戦争で敗北します。内部対立が原因で国政が混乱し、諸外国の介入を許し、度々フランス等の支配を受けます。中東ではオスマントルコが台頭し、1475年にはクリミア/1566年にはエーゲ海の植民地を失います。
    1396~1421年(フランス国王シャルル6世),1421-35年(ミラノ公国ヴィスコンティ家),1458-61年(フランス国王シャルル7世),1464-79年(ミラノ公国スフォルツァ家),1499-1512,1513-22,1527‐28年(フランス国王ルイ12世/フランソワ1世)に従属します。

  • 再生<br />傭兵隊長として著名なジェノバ貴族のアンドレア・ドーリア(1466-1560)は、1528年に北イタリアへ侵攻するフランス(フランソワ1世)と戦争準備をしていたスペイン王カルロス1世に組し、海軍提督として北イタリアからフランスを排除してジェノバの主権回復を働きかけます。傭兵とはいえ、アンドレアは常にジェノバの国益に叶う王侯に組しました。

    再生
    傭兵隊長として著名なジェノバ貴族のアンドレア・ドーリア(1466-1560)は、1528年に北イタリアへ侵攻するフランス(フランソワ1世)と戦争準備をしていたスペイン王カルロス1世に組し、海軍提督として北イタリアからフランスを排除してジェノバの主権回復を働きかけます。傭兵とはいえ、アンドレアは常にジェノバの国益に叶う王侯に組しました。

  • 金融業と黄金期<br />カルロス1世(ハプスブルク家の血統)は神聖ローマ帝国皇帝(カール5世)も兼ね、スペイン国王フェリペ2世は彼の実の息子です。ジェノバ商人は彼らに融資(貸付)を続け、金融を通して16世紀にスペイン経済を支配します。貸付金の返済手段として、新大陸で産出する銀はセビリア経由でジェノバへ流入ます。ジェノバ共和国は再び繁栄し、チュニジアのタバルカを1540-1742年まで領有します。金融活動は、13世紀にシチリア貴族へ融資して、経済を支配したことまで遡ります。1528年以降のジェノバ金貨/銀貨は、強い通貨として国際的信用を得続けました。

    金融業と黄金期
    カルロス1世(ハプスブルク家の血統)は神聖ローマ帝国皇帝(カール5世)も兼ね、スペイン国王フェリペ2世は彼の実の息子です。ジェノバ商人は彼らに融資(貸付)を続け、金融を通して16世紀にスペイン経済を支配します。貸付金の返済手段として、新大陸で産出する銀はセビリア経由でジェノバへ流入ます。ジェノバ共和国は再び繁栄し、チュニジアのタバルカを1540-1742年まで領有します。金融活動は、13世紀にシチリア貴族へ融資して、経済を支配したことまで遡ります。1528年以降のジェノバ金貨/銀貨は、強い通貨として国際的信用を得続けました。

  • サンジョルジオ(聖ゲオルギウス)銀行<br />共和国の中央銀行であると同時に、投資銀行でもありました。銀行役員が共和国トップを兼ねる不可分な関係でした。国家元首や諸侯を融資することで、強国を経済的に支配しました。ジェノバの対外的な力は、政府よりも銀行による経済的支配力の方が勝っていました。後に競合する列強の東インド会社よりも先進的かつ現代へ繋がる組織/運用システムという点で、経済/金融史上特筆すべき法人です。<br />

    サンジョルジオ(聖ゲオルギウス)銀行
    共和国の中央銀行であると同時に、投資銀行でもありました。銀行役員が共和国トップを兼ねる不可分な関係でした。国家元首や諸侯を融資することで、強国を経済的に支配しました。ジェノバの対外的な力は、政府よりも銀行による経済的支配力の方が勝っていました。後に競合する列強の東インド会社よりも先進的かつ現代へ繋がる組織/運用システムという点で、経済/金融史上特筆すべき法人です。

  • サンジョルジオ銀行とコルシカ島<br />実際、ジェノバの海外領土は銀行役員によって直接/間接統治されました。これは国難と合致し、委託した1453年は東ローマ帝国がオスマントルコに滅ぼされた年です。ドーリアの政治改革以降は政府の直接統治へ舵を切ったとはいえ、コルシカ行政は1562年まで委託されました。<br />バスティア総督宮殿の隅石(写真:1512年)の彫刻は、建設がサンジョルジオ銀行だということを銘記させます。

    サンジョルジオ銀行とコルシカ島
    実際、ジェノバの海外領土は銀行役員によって直接/間接統治されました。これは国難と合致し、委託した1453年は東ローマ帝国がオスマントルコに滅ぼされた年です。ドーリアの政治改革以降は政府の直接統治へ舵を切ったとはいえ、コルシカ行政は1562年まで委託されました。
    バスティア総督宮殿の隅石(写真:1512年)の彫刻は、建設がサンジョルジオ銀行だということを銘記させます。

  • コルシカ王国(1637-)<br />1637年にローマ教皇が王国(kingdom)以外の政体の地位を低下させると、威信を保つためにコルシカをバスティアを首都とする王国に昇格させます。ジェノヴァのドージェはコルシカ国王を兼任しました。ジェノバのドーシェは、儀式では王冠と笏を纏って正装するようになります。紫と金は高貴さ、冠と笏は王権の象徴です。

    コルシカ王国(1637-)
    1637年にローマ教皇が王国(kingdom)以外の政体の地位を低下させると、威信を保つためにコルシカをバスティアを首都とする王国に昇格させます。ジェノヴァのドージェはコルシカ国王を兼任しました。ジェノバのドーシェは、儀式では王冠と笏を纏って正装するようになります。紫と金は高貴さ、冠と笏は王権の象徴です。

  • (形式的な)王国への移行に伴い、聖母マリアが国家のシンボルとなります。硬貨の表面には、聖母マリアが右手に笏を持ち、星の冠を被り、雲の玉座の上に君臨する姿が刻印されています。

    (形式的な)王国への移行に伴い、聖母マリアが国家のシンボルとなります。硬貨の表面には、聖母マリアが右手に笏を持ち、星の冠を被り、雲の玉座の上に君臨する姿が刻印されています。

  • 裏面には、伝統の聖ゲオルギウス十字とDux et Gubernatores Reipublice Genuensis(ジェノヴァ共和国公爵兼統治者)の短縮銘が刻印されています。<br />余談ですが、合金/銅貨は、共和国内では小額決済(額面)、領土外では重量(品質)で流通していました。銀/金貨は、国際取引を含む重要な取引の決済に使用されました。品質(純度の高さ)は国際的な信用を創造し、ドギ・ビエンナーレ(1528-1797年)の長期にわたるジェノヴァの経済力を証明しました。

    裏面には、伝統の聖ゲオルギウス十字とDux et Gubernatores Reipublice Genuensis(ジェノヴァ共和国公爵兼統治者)の短縮銘が刻印されています。
    余談ですが、合金/銅貨は、共和国内では小額決済(額面)、領土外では重量(品質)で流通していました。銀/金貨は、国際取引を含む重要な取引の決済に使用されました。品質(純度の高さ)は国際的な信用を創造し、ドギ・ビエンナーレ(1528-1797年)の長期にわたるジェノヴァの経済力を証明しました。

  • 政体<br />建国~1339年は第一/第二/第三共和政と呼ばれ、それぞれ執政官/ポデスタ/人民隊長が統治します。1339~(第四共和政)では終身制総督(ドーシェ)が統治しますが、1528年までに合法的に選出されたのは僅か4名、たった1日しか服務できなかったドーシェ多々もいました。ほとんどのドーシェは自ら辞任しています。国益よりも利己を重視し、度々フランス/ミラノ公国に租国を「売り渡し」ます。正式名称はCompagna Communis(直訳:自治体連合)でした。要職を経験した貴族で構成される議会(元老院)が伴います。写真は1139-1339年にかけて鋳造された硬貨。

    政体
    建国~1339年は第一/第二/第三共和政と呼ばれ、それぞれ執政官/ポデスタ/人民隊長が統治します。1339~(第四共和政)では終身制総督(ドーシェ)が統治しますが、1528年までに合法的に選出されたのは僅か4名、たった1日しか服務できなかったドーシェ多々もいました。ほとんどのドーシェは自ら辞任しています。国益よりも利己を重視し、度々フランス/ミラノ公国に租国を「売り渡し」ます。正式名称はCompagna Communis(直訳:自治体連合)でした。要職を経験した貴族で構成される議会(元老院)が伴います。写真は1139-1339年にかけて鋳造された硬貨。

  • 第五共和政(1528-1797)<br />中興の祖アンドレア・ドーリアは、身動きの執り辛いドーシェに就任せず、国老として国家を再構築します。1528年に新憲法が完成し、正式名称はRepubblica di Genovaとなり、共和国という単語が入ることでプライベート感を排除、ドーシェの任期は2年と定められます。議会は400名の大議会と100名の元老院の二院制となります。

    第五共和政(1528-1797)
    中興の祖アンドレア・ドーリアは、身動きの執り辛いドーシェに就任せず、国老として国家を再構築します。1528年に新憲法が完成し、正式名称はRepubblica di Genovaとなり、共和国という単語が入ることでプライベート感を排除、ドーシェの任期は2年と定められます。議会は400名の大議会と100名の元老院の二院制となります。

  • ジェノヴァ貴族<br />ジェノバは終始寡頭政治に徹し、貴族に列せられることで政治に参加する権利を得ました。家系毎にアルベルギ(alberghi 字義:居住地)が登録され、アルベルギの数や構成は適宜修正されました。ドーリア/スピノーラ/グリマルディは、多くのドーシェを輩出します。コルシカ出身者は決して越えられない高い壁です。<br />写真は、1636年のドーリア家(アルベルギの一つ)に所属する諸家の紋章一覧。中央にドーリア家の鷲の紋章があり、周囲に30ほどの家の紋章が並びます。

    ジェノヴァ貴族
    ジェノバは終始寡頭政治に徹し、貴族に列せられることで政治に参加する権利を得ました。家系毎にアルベルギ(alberghi 字義:居住地)が登録され、アルベルギの数や構成は適宜修正されました。ドーリア/スピノーラ/グリマルディは、多くのドーシェを輩出します。コルシカ出身者は決して越えられない高い壁です。
    写真は、1636年のドーリア家(アルベルギの一つ)に所属する諸家の紋章一覧。中央にドーリア家の鷲の紋章があり、周囲に30ほどの家の紋章が並びます。

  • コルシカ総督を務めたアンドレア・スピノラ邸宅の洗面台(1521年)には、スピノーラ家(アルベルゴ)の紋章が入っています。<br />※アルベルギは複数形

    コルシカ総督を務めたアンドレア・スピノラ邸宅の洗面台(1521年)には、スピノーラ家(アルベルゴ)の紋章が入っています。
    ※アルベルギは複数形

  • 旧市街にあるカスタニョーラ邸のカスタニョーラ家は、スピノラ家のアルベルゴに属する家名の一つです。

    旧市街にあるカスタニョーラ邸のカスタニョーラ家は、スピノラ家のアルベルゴに属する家名の一つです。

  • コルシカ総督ドメニコ・デッラ・トッレが噴水の建設を記念する銘板(1604年)には、左下にデッラ・トッレ家の紋章が描かれています(上はジェノバ、右下はバスティアの紋章)。デッラ=トッレ家も、スピノーラ家のアルベルゴに属する家の一つです。

    コルシカ総督ドメニコ・デッラ・トッレが噴水の建設を記念する銘板(1604年)には、左下にデッラ・トッレ家の紋章が描かれています(上はジェノバ、右下はバスティアの紋章)。デッラ=トッレ家も、スピノーラ家のアルベルゴに属する家の一つです。

  • 青:レルカリ家のアルベルゴに属するモネリア家の紋章<br />緑:カルヴィ家(アルベルゴ)紋章<br />赤:カッタネオ家のアルベルゴに属するラザーニャ家の紋章<br />黄:サウリ家(アルベルゴ)の紋章

    青:レルカリ家のアルベルゴに属するモネリア家の紋章
    緑:カルヴィ家(アルベルゴ)紋章
    赤:カッタネオ家のアルベルゴに属するラザーニャ家の紋章
    黄:サウリ家(アルベルゴ)の紋章

  • 衰退と終焉<br />大口顧客スペイン政府のデフォルト/ルイ14世に反抗して敗戦/オーストリア継承戦争巻き込まれる等、時代毎の大国に翻弄されることで17,18世紀に疲弊します。ジェノバは2頭のグリフィン(スペイン/オーストリア)に支えられていると皮肉られ、共和国の独立と完全な主権を表すlibertas(自由)はナポレオンのイタリア遠征によって失われます。 ウィーン体制ではサヴォワ王国に組み込まれ、跡形も無くなります。

    衰退と終焉
    大口顧客スペイン政府のデフォルト/ルイ14世に反抗して敗戦/オーストリア継承戦争巻き込まれる等、時代毎の大国に翻弄されることで17,18世紀に疲弊します。ジェノバは2頭のグリフィン(スペイン/オーストリア)に支えられていると皮肉られ、共和国の独立と完全な主権を表すlibertas(自由)はナポレオンのイタリア遠征によって失われます。 ウィーン体制ではサヴォワ王国に組み込まれ、跡形も無くなります。

  • 第一帝政(1804-1815)<br />皇帝ナポレオンの下で、1805年にはカトリック教区の主教座/1811年に行政主府がバスティアからアジャクシオへ移され、現在に至ります。1811年にバスティア周辺で遷都に伴う反乱があったのを最期に、フランス統治が定着します。

    第一帝政(1804-1815)
    皇帝ナポレオンの下で、1805年にはカトリック教区の主教座/1811年に行政主府がバスティアからアジャクシオへ移され、現在に至ります。1811年にバスティア周辺で遷都に伴う反乱があったのを最期に、フランス統治が定着します。

  • オラティウス・セバスティアーニ(1772-1851)<br />第一帝政下において、コルシカ島のエリート層にとって軍歴は高官への足掛かりとなりました。マレンゴの戦いで准将に任命され、1802年に外交官としてのキャリアをスタートさせ、1806年にはコンスタンティノープル駐在フランス大使に就任します(写真)。その後もナポリとロンドンで大使を歴任します。

    オラティウス・セバスティアーニ(1772-1851)
    第一帝政下において、コルシカ島のエリート層にとって軍歴は高官への足掛かりとなりました。マレンゴの戦いで准将に任命され、1802年に外交官としてのキャリアをスタートさせ、1806年にはコンスタンティノープル駐在フランス大使に就任します(写真)。その後もナポリとロンドンで大使を歴任します。

  • ウィーン体制(復古王政/七月王政)<br />ナポレオン失脚後は復古王政に入り、ルイ16世の弟たち(ルイ18世:1814-/シャルル10世:1824-)が統治します。1830年の七月王政ではルイ=フィリップが統治します。この時期のバスティアは、イタリア/オーストリアとの商業/文化的繋がりが顕著でした。写真は、ウィーンのコンラート・グラフ社製ピアノフォルテCC-14(1824年)で、イタリア音楽の演奏に最適でした。

    ウィーン体制(復古王政/七月王政)
    ナポレオン失脚後は復古王政に入り、ルイ16世の弟たち(ルイ18世:1814-/シャルル10世:1824-)が統治します。1830年の七月王政ではルイ=フィリップが統治します。この時期のバスティアは、イタリア/オーストリアとの商業/文化的繋がりが顕著でした。写真は、ウィーンのコンラート・グラフ社製ピアノフォルテCC-14(1824年)で、イタリア音楽の演奏に最適でした。

  • 文化の中心地<br />社交の中心は劇場であり、1738年にバスティア初の劇場がオープンしました。1772年にはマルブフ劇場がオープンし、島内唯一の劇場所有都市として文化を発信します。フランス領となっても、イタリア・オペラ(=イタリア語で上演)は1914年までバスティアの舞台を席巻し続けました。

    文化の中心地
    社交の中心は劇場であり、1738年にバスティア初の劇場がオープンしました。1772年にはマルブフ劇場がオープンし、島内唯一の劇場所有都市として文化を発信します。フランス領となっても、イタリア・オペラ(=イタリア語で上演)は1914年までバスティアの舞台を席巻し続けました。

  • コルシカ初の公共図書館はバスティアにあり、1800年にフランチェスコ・レヌッティを館長として開館しました。蔵書は、ローマで教皇ピウス7世/8世の侍医を務めたトマッソ・プレラ(1765-1846 写真)の16000冊にのぼるコレクションが加えられることで充実します。

    コルシカ初の公共図書館はバスティアにあり、1800年にフランチェスコ・レヌッティを館長として開館しました。蔵書は、ローマで教皇ピウス7世/8世の侍医を務めたトマッソ・プレラ(1765-1846 写真)の16000冊にのぼるコレクションが加えられることで充実します。

  • 経済の中心地<br />バスティアは政治的優位性を失いましたが、航海に携わる伝統と港湾設備のおかげで、経済的重要性は高まり続けました。造船所では、最大200トンの商船が建造されました。<br />ブフ(bœuf)は、全長8~16m(8~35t)の小型船で、19世紀バスティア船隊の30%を占めていました。木材/栗/穀物/塩漬け肉/チーズ/皮革/ワイン/塩漬orマリネした魚/サンゴをローマ~マルセイユ間の地中海港へ届け、食料/工業製品/鉱石を積んで戻りました。

    経済の中心地
    バスティアは政治的優位性を失いましたが、航海に携わる伝統と港湾設備のおかげで、経済的重要性は高まり続けました。造船所では、最大200トンの商船が建造されました。
    ブフ(bœuf)は、全長8~16m(8~35t)の小型船で、19世紀バスティア船隊の30%を占めていました。木材/栗/穀物/塩漬け肉/チーズ/皮革/ワイン/塩漬orマリネした魚/サンゴをローマ~マルセイユ間の地中海港へ届け、食料/工業製品/鉱石を積んで戻りました。

  • コルシカ島の街並み<br />19世紀まで、旧港地区に3階建て以上の家はほとんどありませんでした。町の中心部でさえ、ブドウ園/果樹園が点在していました。西は山と丘陵、東はティレニア海の自然に囲まれ、ジェノバ風の建築という光景から芸術家たちはインスピレーションを受けてきました。 画家のジャン・ドビニュー(1747-1800頃)は、その先駆けです。

    コルシカ島の街並み
    19世紀まで、旧港地区に3階建て以上の家はほとんどありませんでした。町の中心部でさえ、ブドウ園/果樹園が点在していました。西は山と丘陵、東はティレニア海の自然に囲まれ、ジェノバ風の建築という光景から芸術家たちはインスピレーションを受けてきました。 画家のジャン・ドビニュー(1747-1800頃)は、その先駆けです。

  • セネカの塔<br />セネカは西暦41~49年にかけて、コルシカ島に亡命しました。18cの啓蒙時代にセネカの亡命生活は、この島を古典文化と結びつける一因となりました。セネカは島民を文明に溶け込んでいない人々として表現しています。古代コルシカ島の「住民が幾度となく入れ替わってきた」と記述しています。<br />ドビュニーはこの風景を描き、古代がエリート層の文化的基準の一つであった時代に、幾らか空想的なローマ時代のコルシカを彷彿とさせました。

    セネカの塔
    セネカは西暦41~49年にかけて、コルシカ島に亡命しました。18cの啓蒙時代にセネカの亡命生活は、この島を古典文化と結びつける一因となりました。セネカは島民を文明に溶け込んでいない人々として表現しています。古代コルシカ島の「住民が幾度となく入れ替わってきた」と記述しています。
    ドビュニーはこの風景を描き、古代がエリート層の文化的基準の一つであった時代に、幾らか空想的なローマ時代のコルシカを彷彿とさせました。

  • 王立絵画彫刻アカデミーのドビュニーは、製図工主任として1770年にルイ15世の要請でコルシカ島の地図製作に携わります。その際に島の光景に魅了され、風景画を描きます。彼の作品は模写され、多くの芸術家が目にしてコルシカを訪れるようになります。

    王立絵画彫刻アカデミーのドビュニーは、製図工主任として1770年にルイ15世の要請でコルシカ島の地図製作に携わります。その際に島の光景に魅了され、風景画を描きます。彼の作品は模写され、多くの芸術家が目にしてコルシカを訪れるようになります。

  • 1843年の絵画を見ると、バスティアが長閑さを残すイタリア的光景だったことが分かります。その一方で、トガ地区では1842年に製鉄所が稼働し始め、工業化が本格化します。

    1843年の絵画を見ると、バスティアが長閑さを残すイタリア的光景だったことが分かります。その一方で、トガ地区では1842年に製鉄所が稼働し始め、工業化が本格化します。

  • 徐々に都市の近代化/フランス化が進み、1835年に最初の道路標識が設置されました。標識はフランス語で書かれていましたが、中にはトスカーナ地方の名称がそのまま残されているものもありました。ローマ数字の後にQの文字が続くことで、その通りが属する地区(quartier)を示しています。ドビュニーの製作した地図を見ると、8区はテラノヴァのことで、キアッパ通りは綴りからして明らかにイタリア語です。

    徐々に都市の近代化/フランス化が進み、1835年に最初の道路標識が設置されました。標識はフランス語で書かれていましたが、中にはトスカーナ地方の名称がそのまま残されているものもありました。ローマ数字の後にQの文字が続くことで、その通りが属する地区(quartier)を示しています。ドビュニーの製作した地図を見ると、8区はテラノヴァのことで、キアッパ通りは綴りからして明らかにイタリア語です。

  • 第二共和政/第二帝政(1848-70)<br />1848年の二月革命でルイ・ナポレオンが大統領に選出、1852年の選挙で皇帝に選出されナポレオン3世となります。バスティアでも産業革命を迎えて発展は加速、人口も2万人を超えます。バスティアの実業家たちは、投資を多角化することでリスクを抑えました。まずは銀行ありきです。ルイ・グレゴル(1810-94) は1840年頃に銀行を設立し、島内最大の金融機関となります。新興産業(工場/鉱山/電信等)や、交通機関の近代化(汽船会社/鉄道)に投資しました。写真は、1848年の様子。

    第二共和政/第二帝政(1848-70)
    1848年の二月革命でルイ・ナポレオンが大統領に選出、1852年の選挙で皇帝に選出されナポレオン3世となります。バスティアでも産業革命を迎えて発展は加速、人口も2万人を超えます。バスティアの実業家たちは、投資を多角化することでリスクを抑えました。まずは銀行ありきです。ルイ・グレゴル(1810-94) は1840年頃に銀行を設立し、島内最大の金融機関となります。新興産業(工場/鉱山/電信等)や、交通機関の近代化(汽船会社/鉄道)に投資しました。写真は、1848年の様子。

  • 1843-48年までバスティア市長を務めたアントワーヌ・セバスチャン・ラザロッティは、新港建設への尽力を記念して、1851年に肖像画を制作しました。三色帯を締めたラザロッティが手を置くテーブルの上には、国からの補助金支給を通知する手紙と、港の改修計画案が置かれています。 新港は1872年に完成します。

    1843-48年までバスティア市長を務めたアントワーヌ・セバスチャン・ラザロッティは、新港建設への尽力を記念して、1851年に肖像画を制作しました。三色帯を締めたラザロッティが手を置くテーブルの上には、国からの補助金支給を通知する手紙と、港の改修計画案が置かれています。 新港は1872年に完成します。

  • ジョゼフ・ヴァレリー(1799-1861)が1835年に設立した海運会社は、1851年に蒸気船を導入し、息子の代にコルシカ島とフランス本土を結ぶ航路を独占しました。マルセイユ~北アフリカ間の航路も確保しました。この絵画では、事業の成功に大きく貢献した2隻の蒸気船、バスティア号とプリンス・ナポレオン号の設計図を描いています。

    ジョゼフ・ヴァレリー(1799-1861)が1835年に設立した海運会社は、1851年に蒸気船を導入し、息子の代にコルシカ島とフランス本土を結ぶ航路を独占しました。マルセイユ~北アフリカ間の航路も確保しました。この絵画では、事業の成功に大きく貢献した2隻の蒸気船、バスティア号とプリンス・ナポレオン号の設計図を描いています。

  • ルイ=ナポレオン・マッテイ (1849-1907) は、テラス通りに質素な売店を開業し、1872年にはタバコと酒類の工場を設立しました。1894年には、マッテイ社に成功と名声をもたらす製品、キニーネを原料とした食前酒「キャップ・コルス」を発明しました。1904年には従弟のフランソワ(写真1866-1967)も経営に参画し、大規模な広告商戦を展開し、国際博覧会で数々の賞を受賞しました。

    ルイ=ナポレオン・マッテイ (1849-1907) は、テラス通りに質素な売店を開業し、1872年にはタバコと酒類の工場を設立しました。1894年には、マッテイ社に成功と名声をもたらす製品、キニーネを原料とした食前酒「キャップ・コルス」を発明しました。1904年には従弟のフランソワ(写真1866-1967)も経営に参画し、大規模な広告商戦を展開し、国際博覧会で数々の賞を受賞しました。

  • マッテイ社は、コルシカ島をイメージしたデザインを自社のアイデンティティと広告のシンボルとして用いました。この寓意像は、「18世紀コルシカの寓意」に着想を得たもので、コルシカ島出身の偉大な歴史上の人物、サンピエロ・コルソ、パスカル・パオリ、ナポレオンの名前が刻まれたテーブルを持つコルシカ島民を描いています。マッテイ社製品のラベルにも再現されたこの彫刻は、同社が島のアイデンティティと製品の間に築いてきた密接な結びつきを体現しています。

    マッテイ社は、コルシカ島をイメージしたデザインを自社のアイデンティティと広告のシンボルとして用いました。この寓意像は、「18世紀コルシカの寓意」に着想を得たもので、コルシカ島出身の偉大な歴史上の人物、サンピエロ・コルソ、パスカル・パオリ、ナポレオンの名前が刻まれたテーブルを持つコルシカ島民を描いています。マッテイ社製品のラベルにも再現されたこの彫刻は、同社が島のアイデンティティと製品の間に築いてきた密接な結びつきを体現しています。

  • 第三共和政(1870-1940)<br />文化/経済の中心として発展し続け、1872年に新港が供用開始することで、貿易/産業が盛んになります。バスティア港は、地中海でマルセイユ/トゥーロン/ニースに次ぐ港となります。第一次世界大戦まで、バスティアのエリート/文化人はトスカーナへ留学したので、必然的にイタリア語/イタリア文化が生活に根強く反映されます。

    第三共和政(1870-1940)
    文化/経済の中心として発展し続け、1872年に新港が供用開始することで、貿易/産業が盛んになります。バスティア港は、地中海でマルセイユ/トゥーロン/ニースに次ぐ港となります。第一次世界大戦まで、バスティアのエリート/文化人はトスカーナへ留学したので、必然的にイタリア語/イタリア文化が生活に根強く反映されます。

  • エティエンヌ=ルイ・オレンガ<br />18世紀からオレンガ家は織物/食料品取引に携わりましたが、ルイ=エティエンヌは融資や不動産投機など事業の多角化を図りました。 1876年にはコルシカ島初のシトロン菓子工場の資金調達に携わり、電信/鉄道/鉱山にも投資しました。

    エティエンヌ=ルイ・オレンガ
    18世紀からオレンガ家は織物/食料品取引に携わりましたが、ルイ=エティエンヌは融資や不動産投機など事業の多角化を図りました。 1876年にはコルシカ島初のシトロン菓子工場の資金調達に携わり、電信/鉄道/鉱山にも投資しました。

    Museu di Bastia 博物館・美術館・ギャラリー

  • 1872年に新しい港が開港すると、街は北へと広がります。写真のように真っ直ぐな道路と直角に交わる交差点、フランス風の建築が特徴です。

    1872年に新しい港が開港すると、街は北へと広がります。写真のように真っ直ぐな道路と直角に交わる交差点、フランス風の建築が特徴です。

  • 20世紀前半には大幅な人口減を経験し、1901年に30万人だった島内人口はピークには18万人まで減少します。第一次世界大戦では、島内で徴兵された兵士11,000人が犠牲になります。写真は、サンニコラ広場にある大戦の慰霊モニュメントです。フランス政府は労働移民を奨励し、特に1922年以降は毎年2万のイタリア人が流入します。

    20世紀前半には大幅な人口減を経験し、1901年に30万人だった島内人口はピークには18万人まで減少します。第一次世界大戦では、島内で徴兵された兵士11,000人が犠牲になります。写真は、サンニコラ広場にある大戦の慰霊モニュメントです。フランス政府は労働移民を奨励し、特に1922年以降は毎年2万のイタリア人が流入します。

  • 1940年にフランスがドイツに降伏すると、コルシカはヴィシー政権の支配を受けます。1942年11月以降はイタリア軍による占領、イタリア降伏後はドイツ軍が侵攻し、1943年10月に連合国軍によって解放されます。フランス国土では最初に解放されたのがコルシカ島のアジャクシオで、島内で最後に解放されたのがバスティアです。南仏が解放されたのは、1944年8月以降です。写真は新港に面するモニュメントで、バスティア解放に携わった潜水艦カサビアンカ号の一部です。

    1940年にフランスがドイツに降伏すると、コルシカはヴィシー政権の支配を受けます。1942年11月以降はイタリア軍による占領、イタリア降伏後はドイツ軍が侵攻し、1943年10月に連合国軍によって解放されます。フランス国土では最初に解放されたのがコルシカ島のアジャクシオで、島内で最後に解放されたのがバスティアです。南仏が解放されたのは、1944年8月以降です。写真は新港に面するモニュメントで、バスティア解放に携わった潜水艦カサビアンカ号の一部です。

  • 第四/第五共和政<br />パリ解放後、コルシカ島には政府のインフラ投資が加速し、バスティアでは戦災復興も促進されます。1956年以降島内人口は増加へ転じ、1960年には27万人まで回復します。観光客も増加し、市街地は西のファンゴ渓谷へ拡大します。写真は、アーモンドの木が茂るかつてのファンゴ渓谷です。

    第四/第五共和政
    パリ解放後、コルシカ島には政府のインフラ投資が加速し、バスティアでは戦災復興も促進されます。1956年以降島内人口は増加へ転じ、1960年には27万人まで回復します。観光客も増加し、市街地は西のファンゴ渓谷へ拡大します。写真は、アーモンドの木が茂るかつてのファンゴ渓谷です。

  • バスティア港は、ドーバー海峡のカレーに次ぐ国内第二位の乗降客量を誇る港となっています。バカンス先として多くの観光客が訪れる一方で、国内貿易収支は赤字となっています。

    バスティア港は、ドーバー海峡のカレーに次ぐ国内第二位の乗降客量を誇る港となっています。バカンス先として多くの観光客が訪れる一方で、国内貿易収支は赤字となっています。

  • おまけ<br />スーパーで島の名物を物色しました。<br />canistrelli(カニストレリ)<br />ざっくり素朴な焼き菓子で、バリエーションも豊富です。

    おまけ
    スーパーで島の名物を物色しました。
    canistrelli(カニストレリ)
    ざっくり素朴な焼き菓子で、バリエーションも豊富です。

  • この棚と上の棚は、伝統的なかなり素朴な味です。<br />選挙の後、数日間、約200人の行政長官を中庭に集めたヴェドゥータ(行政長官選挙)が行われた。この広間は、

    この棚と上の棚は、伝統的なかなり素朴な味です。
    選挙の後、数日間、約200人の行政長官を中庭に集めたヴェドゥータ(行政長官選挙)が行われた。この広間は、

  • こちらのブランドは、美味しさとのバランスが素晴らしいです。自分用とお土産用に買いました。250gというのも適量で、味の評判も良かったです。コルシカらしい栗/レモン/白ワインの3フレーバーにトライしましたが、いずれも美味でした。

    こちらのブランドは、美味しさとのバランスが素晴らしいです。自分用とお土産用に買いました。250gというのも適量で、味の評判も良かったです。コルシカらしい栗/レモン/白ワインの3フレーバーにトライしましたが、いずれも美味でした。

  • 写真のはchataigne(栗)。最もコルシカらしい食材です。

    写真のはchataigne(栗)。最もコルシカらしい食材です。

  • 加工肉(主に豚)は、昔からの特産品です。パテ等の瓶詰なら、日本への持ち込みができます。

    加工肉(主に豚)は、昔からの特産品です。パテ等の瓶詰なら、日本への持ち込みができます。

  • こちらは検疫を通過できないので、帰国するまでに食べ切りましょう。<br />バスティアを後に、アジャクシオを目指します↓<br />https://4travel.jp/travelogue/12027696

    こちらは検疫を通過できないので、帰国するまでに食べ切りましょう。
    バスティアを後に、アジャクシオを目指します↓
    https://4travel.jp/travelogue/12027696

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