2025/12/19 - 2025/12/19
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gianiさん
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コルシカ島を体系的に扱ったブログがほぼ皆無で、情報収集がままならなかったことがコルシカ行きの長年の障害でした。交通手段に至っては更に情報が乏しく、困難を極めました。
未知に戸惑い、経験で得た情報も紹介します。コルシカ旅行者のお役に立てれば幸いです。今回は、トゥーロン~バスティアのフェリーの予約~下船までのハプニングも紹介します。
コルシカ:コルス(仏)/コルシカ(伊,コ)
ジェノバ:ジェネ(仏)/ジェノヴァ(伊,コ)
城塞:シタデル(仏)/バスチーユ(仏)/バスティア(伊,コ)
総督:ドーシェ(伊)
この旅行記では位置情報/実際に歩いた順番(街歩き的感覚)を重視しているので、時代はエレベータのように前後します。
- 旅行の満足度
- 5.0
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トゥーロン港からバスティア港までのフェリーを日本で予約しました。ダイレクトフェリーではなく、コルシカフェリーの公式サイトから入ったので、手数料をスキップして予約できました。
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当日、出発が2時間早まったので16:00までにチェックインするようにとの鬼のような要求が届きます。国鉄駅/観光案内所等、公共WiFiの効く場所で必ず確認をしてください。
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いざ乗船
隣は、アジャクシオ行きの船。 -
カジノのエスカレータみたいな雰囲気。
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かなり大きな船ですが、クルーズ船みたいなアンバランスなボディではなく安心です。
レセプションでは、スタッフが160%の笑顔で対応します。ただし、雑魚寝船室の人間には、吐き捨てるような話し方で対応します。西欧の船便のあるある現象です。 -
のんびり5時になるのを待ちます。
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アジャクシオ行は定時発なのに、こちらは動く気配なし。
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一歩も動きません。
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午後7時に出港。本当に意味不明です。
出航直前に、雑魚寝船室が開設されます。それまではレストランも売店も開かないので、通路にゴザを敷くしかありませんでした。とにかく差別的待遇。シートや寝台の番号が振られない最安運賃の場合は会社/航路毎に扱いが異なりますが、公式サイトや紀行ブログ等で事前情報が得られないのが困った点です。 -
機内モードでも現在地は分かります。
雑魚寝船室は空調のスイッチも切られ、着込んでも冷えます。掛け布団代わりの上着かブランケット必須です。コンセントは、みんなで仲良くシェアして充電します。 -
外海(地中海)へ出るまで、ずっと水先案内人が先導します。湾外に出て任務を終えると、並走する港湾船に移って、港へ帰ります。
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朝7:00バスティア港に到着。
コルシカフェリー 船系
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市街地に位置するので、アクセスも容易です。
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新市街をバイパスする数kmの及ぶ地下トンネルも完備しています。こんな僻地も、クルマ社会先進国フランス領であることを感じさせます。
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広場には、潜水艦カサビアンカのレプリカが。1942年の自沈命令を無視して連合軍に合流し、アメリカで再艤装された後1943年9/9~10/4のコルシカ島解放に貢献、バスティアに武器と諜報員を輸送しました。
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写真は、トゥーロンの海軍博物館に展示されている模型。小さく見えますが、1500t級で全長が98mもあります。
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サンニコラ広場には、お馴染みのナポレオン像が。ユピテルとして描かれ、鷲と王笏が伴うローマ時代の皇帝像をオマージュしています。台座には、妹でトスカーナ大公妃のエリザが戴冠して馬車に乗っている姿です。バルトリーニに発注しましたが、完成時にナポレオンは失脚しアトリエに保管、1849年にバスティア市に売却されました。
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戦争記念碑(1925年)
18世紀の独立運動で既に2人の息子を失った寡婦が、最後の息子をパスカル・パオリ将軍に捧げるという愛国的シーンを描写しています。元々は1870年の普仏戦争の犠牲者を記念するために計画されましたが延期され、第一次世界大戦で未曽有の人的損害(11,000人の若者の犠牲)を払ったことで実行に移されました。 -
広場北側の広域観光案内所で、情報を仕入れます。有用だったのは、市街地マップだけでしたが、、、
コルシカ(仏語コルス)島の公用語はフランス語ですが、コルシカ語も併記されています。永らくジェノヴァ共和国の植民地だったので、綴りも発音もイタリア語に近似しています。2018年以降、地域性をより重視した行政体に進化しています。バスティア インターコミューン観光案内所 散歩・街歩き
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広場を後にナポレオン通りを進みます。食料品店やパン屋/コルシカ産を扱う食材店が多いです。静かです。この後に訪れるアジャクシオとは対照的です。
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聖ロッシュ信心会礼拝堂
1569年のペスト流行の際、聖ロッシュの執り成しで市の手前で感染が止まったことを記念し結成された信心会です。現在の礼拝堂は1604年築で、天井画/ダマスクス赤絹等のバロック装飾が美しかったです。
※モンペリエのロッシュ(Roch 1350-83)はドメニコ修道会で医術を学び、ペスト万延を鎮めました。医療従事者の守護聖人。英名ロック、伊名ロッコ。 -
マルシェ広場
1880年以降、週末には市場が立ちます。1982年まで市役所だった建物も建ちます。 -
洗礼者ヨハネ教会
コルシカ最大の教会で、1636-66年にかけて建設されました。ファサード/右鐘楼は1864年、左鐘楼は1810年に完成しています。右から5番目には落雷からの救難で船員の守護聖人エラスムスに捧げられた礼拝堂、左から5番目には元漁師の十二使徒で漁師の守護聖人ペテロとアンデレに捧げられた礼拝堂があります。バスティアの教区が2つに分かれていた時(~1563)は、テラヴェキア教区のカテドラルでした。 -
脇道にそれて、海岸へ降ります。
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旧港
かつての商業/軍港です。現在は漁船、個人船が使用しています。撮影名所ですが、工事中で残念な景色。テラスを配した飲食店が並びます。シーズンオフなので店は閉まり、公共工事中です。原始地区のカルドは山の斜面にあり、彼らの港として開けたのが始まりで、テラヴェキア地区(字義:古い土地→旧市街)と呼ばれています。テラ ヴェキア地区 旧市街・古い町並み
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先述の洗礼者ヨハネ教会のファサードが見えます。
洗礼者ヨハネは、宗主国ジェノヴァの守護聖人です。
旧港には、カルディ家/ヴァレーゼ家/スピノーラ家/フィガレリ家などが残っています。撮影地点は、プンテットゥ(小さい橋)地区と呼ばれ、1670年代に開発されました。 -
1839年作の「バスティア旧港の眺め」という絵画(バスティア博物館蔵)には、教会ファサードの左鐘楼だけが描かれています。
では、ナポレオン通りに戻ります。 -
旧スピノーラ邸
本家は、ジェノヴァ共和国の4大名家の一つです。旧港の北岸に建てられ、コルシカ島とジェノヴァ間を行き来する貨物の倉庫としても機能していました。 -
旧フィガレリ邸
フィガレリ家は、2人のバスティア市長を輩しています。現在は、1階が港に面したレストランとなっています。 -
ロミュー邸
19世紀にリネージ家によって建てられました。彼らはバスティア出身の重要な商人家系でした。リネージの娘はカトラ職人ロミューと結婚し、現在に至ります。 -
フィガレリ邸から旧港を見渡すと、画面左端にスピノーラ邸、右端にロミュー邸が写っています。
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カスタニョーラ邸(Casa Castagnola)
ジェノヴァから16世紀半ばに移転、織物取引/皮なめし工場経営で富を蓄え、バスティア市長(ポデスタ:Podestà)も務めます。建物は1606年にゴッタルド・カスタニョーラによって建てられました。
※Podestà:コムーネ(市町村)の首長を表わします。便宜上、市長と訳します。 -
ファサードには家訓のCOLTEMPO(時は万物を征服する)が刻まれています。
※col tempoの直訳は「時と共に」です。 -
玄関ホールには、アポロンが操縦するガレー船に乗ったイドモンとモプソスが描かれています(写真左)。この図柄はトスカーナ大公とオーストリア大公妃の結婚(1608年)を記念した版画(写真右)を模写したものです。結婚式では宮廷の人々が古代の人物に扮装し、豪華な船に乗り込みアルノ川をパレードしました。
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カルディ・サンソネッティ家
バスティアの商人兼銀行家の裕福な家系であるカルディ家に属していました。この建物は16世紀に遡ります。正面にはカルディ家のラヴァーニャのスレート紋章が描かれています. -
オレンジ色のファサードよりも、建物の裏側の方が印象的でした。
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坂道を上ると、シタデル(城塞)が現れます。テラ・ノヴァ(新市街)と呼ばれます。最初に現れるのはサン・シャルル砦(写真)で、現在の姿は1595年改修。
テラ ノヴァ地区 旧市街・古い町並み
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サンシャルル砦の角は、塔のような形をしています。砦の屋上部分は、庭園として開放されています(バスティア博物館の入場券が必要)。シタデルを構成する6つの砦の中でも、一番存在感があります。
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ロミュー庭園と階段
バスティア初の公共庭園で、城塞(テラノヴァ)と旧港(テラヴェキア)の短絡路の装飾に伴い誕生します。 -
1869年にジョセフ=パスカル・ロミューの寄付で馬蹄型の大階段が建設され、実用性と訪問者に感銘を与える二重の使命を果たします。階段は、旧港のロミュー邸の隣に位置します。
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城塞下の岩だらけの丘の斜面に脇道が設けられ、1879年に庭園が整備されます。日本から松/桂木が持ち込まれました。
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庭園からの眺め
正面は、旧港を保護する防波堤。コルシカフェリーの朝便が出航します。左側の防波堤は1670年築のジェノヴァ桟橋(別名マドネッタ桟橋)、右側が南桟橋で1863年築。旧港の入口には、ライオンロックと呼ばれる岩礁がありましたが、1860年に取り除かれています。 -
旧港北防波堤(ジェノヴァ桟橋)の奥には、1872年供用開始の商業港防波堤が。国内では英仏海峡のカレーに次ぐ乗降量を誇る港なのに、コンパクトなのが特徴。利用者にとっては便利です。
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1936年に描かれた絵画から、旧港防波堤の全容が分かります。
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1787年の絵画には、旧港の障害物ライオンロックが描かれています。ライオンの頭部のような形をしていますね。
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ルイ16世門
城塞(シタデル)内部への唯一の入口で、1775年に新古典主義様式で改修/装飾されました。門の上には、ブルボン王家の紋章を表しています。
今更ですが、11c~ピサ/1284~ジェノヴァ/1768~フランス領となっています。 -
ルイ16世門周辺はサン・ジャン・バティスト(浸礼者ヨハネ)砦で、1575-78年,1626年に改築され現在の姿になりました。
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門の左手前、後世に建てられた小さな家々の上には、壁に絞首台が突き出て死刑執行に使用されていました。現在KORSI-CADOという商店の上にある絞首台。
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門を潜ると、こんな感じ。道は直角に曲がり、もう一つ門を潜ります。日本の城郭の枡形門と全く同じ構造。洋の東西関係なく、防衛の鉄則みたいです。
城壁を見ると、上へ上へと足していった痕跡が丸見えです。 -
ちなみに門裏側の上部には、ジェノバ共和国の紋章が残っています。十字の国旗に二頭のグリフィン(頭と翼は鷲でボディはライオン)が掴まり、国旗の上には王冠が載っています。
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枡形門を潜ると左には12貴族の館、正面には総督宮殿が現れます。
十二貴族会議:コルシカ島北半分の有力者の中から毎年12人の代表が選出され、各人は1ヶ月間職務に就きました。職務中は総督の訪問にアドバイザーとして同行し、他にも道路の維持管理/重要裁判や重大事件の裁決にも関わりました。貴族はnobleの訳で、領主と有力な商人(ブルジョアジー)で構成されます。
※コルシカ人はジェノバ共和国の貴族には加えられない法の壁が存在しました。 -
十二貴族の家と入口の家
かつて商店が建っていた場所に1703年に建てられた十二貴族の家は、ジェノヴァ総督の使節として任命された北コルシカ選出代表者の官舎でした。写真は1822年の状態で、右に総督宮殿、真ん中にルイ16世門に通じる門があります。 -
門楼にはジェノヴァ兵の衛兵室があり、最上階には上級将校の住居でした。1775年の改修により以前の衛兵室は将校宿舎に代わり、第二帝政時には軍法会議の場となりました。
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橙色の建物は、総督宮殿です。
コルシカ島は、1284-1768年まで海洋国家ジェノヴァ共和国(現イタリアのリグーリア州)の支配を受けました。本国から総督(県知事に相当)が派遣され、地元貴族を役人に登用して支配しました。 -
ジェノヴァ総督の宮殿
最初の宮殿は1380年頃に築かれ、要塞化されていたので「ラ・バスティア(伊:要塞※)」と呼ばれ、町の名前の由来となりました。現在の広大な建物は、1488年に総督ラファエロ・グリマルディによって着工され、1521年にアンドレア・スピノーラによって完成しました。宮殿へは、堀を渡る必要があります。跳ね橋を渡ります。
※フランス語ではバスチーユ/バスティーユです。 -
中庭を囲んで、総督の私室/裁判所/登記所/牢獄/兵舎/3つの礼拝堂(総督/兵士/囚人用に区分)等がありました。パレ/パレスの訳として宮殿としましたが、総督府と訳す方が実情に叶っています。
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跳ね橋を渡って広場に戻り、総督宮殿に相対するシタデル(仏:城塞)を回ります。総督宮殿向かいに最初に家が建ったのは1481年、ジェノヴァ出身ののアントニオ・タリアカルネは1480年に約20軒の家を建てる許可を求めました。こうしてテラノヴァ(字義:新しい土地)地区が誕生し、同時に住居地区を囲む城塞建設が始まります。写真には、広場の名前の由来になった小豆色の建物が写り込んでいます。
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ドンジョン(主塔)広場を越えて、目抜き通りであるノートルダム通りが現れます。シタデル内で最初に引かれた道路です。写真角の左の家はカセッタ、角の右はゼルビ家と呼ばれます。
※カセッタ:小さな家という意味で、親しみを込めた表現。「おチビなお家」みたいな感じ。 -
カセッタ
バスティア初代ポデスタのアントニオ・タリアカルネ(在1488-98)によって15世紀後半に建てられたこの家は、ジェノバ統治時代の17~18世紀にかけて市庁舎として使われました。2階には評議会の議事堂がありました。評議会は、ポデスタと4人のアンツィアーノ(毎年市の有力者の中から選出される)で構成されました。
当初は2軒の家の間には境界壁がありましたが、17世紀に壁が取り壊され互いに行き来が可能になりました。当初は3階建てでしたが、ドンジョン広場側の家は2階分/奥の家は1階分増築されました。 -
玄関のまぐさ
建築における「まぐさ」とは、窓やドアなどの開口部の上に取り付けられる横材のことです。上部の壁の荷重を支え、開口部が変形しないように補強する役割があります。 -
カサ・ゼルビ
1490~95年にジェノヴァ総督代理官の住居および裁判所として建てられ、民事/刑事事件の弁護がここで行われました。行政において第二位の役人である代理官は法学博士でなければならず、総督が出席できない場合や死亡した場合に代理を務めました。16世紀後半には代理官は総督宮殿に移され、売却されます。
ドンジョン広場のイタリア名はコルテ広場で、法廷(英:court)を意味します。 -
弁護士で有力者でもあったるパオロ・ゼルビ(1582-1635)は、代理官/ポデスタを歴任し、1610年代にこの建物を購入しました。その際に、上に1階分を増築します。階段に3箇所の銃眼を設け、ピアノ・ノービレ(貴族の階)への通路を重厚な扉で保護することで要塞化しました。さらに、貯水槽/オーブン/礼拝堂/監視所/塔を増築する改修も施しました。
※イタリア語でpianoは、形容詞なら「弱い」、名詞なら建物の「階」を意味します。 -
オーストリア継承戦争では、英/サルディニア連合艦隊の爆撃によりシタデル周辺は壊滅的な被害を受けました。ゼルビ家は、ピアノ・ノービレの踊り場を飾る聖母マリア像をお守りとして窓に置きました。海から撃ち込まれた砲弾が幼子イエスの腕を奪い去りましたが、家は難を逃れました。
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ゼルビ家の紋章が入った16世紀の大理石製の貯水甕。
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聖マリア被昇天大聖堂
バスティアで最も由緒ある教会で、アッチャ‐マリアナ教区の司教座がおかれました。1805年以降は、アジャクシオ教区に統合されます。現在の建物は1604~25年に建造、内部の長さは45m/幅23m/高さ17mです。塔の高さは38mで1620年に完成しました。 -
1936年に大聖堂広場に門が開設され、シタデルへの出入口は複数になっただけでなく、自動車も入れるようになりました。
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1489年に建てられた教会は、岩に寄りかかる(アリンバータ)ような姿だったので、サンタ・マリア・ラリンバータ(岩に寄り掛かる聖母)教会とも呼ばれます。
市長が交代する際に、後任に笏と鍵を手渡す儀式が行われました。 -
内部は、バロック様式です。正面の聖陣の左側には塔と聖体の祭壇があり、バスティア最古の絵画が飾られています。聖人の右側(ロザリオの祭壇)には、現在の建物を建てたジェロニモ・デル・ポッツォが描かれています。
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聖母被昇天:レオノーロ・デッラクイラ/1512年作、バスティアで現存する最古の絵画です。
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聖十字架信心会礼拝堂
旧カテドラルの左辺に沿うエヴェシェ(Evêché)通りを進むと、右側に最初に現れます。グーグルマップではGhjesgia Santa Croceと入力してください。聖十字架信心会は1543年にローマで結成され、現在の建物は1600年に再建されました。 -
礼拝堂は十字架の形をベースにしていますが、左辺の上から入る変則的な構造です。
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奇跡の十字架
十字架に架けられた黒いキリスト像を祭壇に祀っています。1428年に漁師によって海を漂流していたところを発見されました。 -
壁と天井の豪華な装飾は、1745年(オーストリア継承戦争)に英艦隊の砲撃で損傷後、金箔を施した漆喰の装飾は1758~75年にかけて修復されます。
※オーストリア継承戦争と表記するとプロイセンと2か国が当事者のように映りますが、大陸での戦争はヨーロッパ全体が巻き込まれるのが特徴です。この時期、ジェノバは隣接する大国オーストリア(ハプスブルク家)に組することが多いです。立地上、中立という選択肢はあり得ませんでした。 -
イタリアバロックとフランスロココ様式の調和が絶妙です。
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礼拝堂の隣には病院を開設し、主に社会的弱者を救済しました。バスティアにおける聖十字架信心会の起源は、1569年のペスト流行の際にバスティアが守られたことが大きく関係しています。
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大祭壇の祭壇画は受胎告知を描いたもので、ジョヴァンニ・ビリヴェルト作(1633年)です。
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司教館
1570年にマリアナ教区の司教座はバスティアへ移り、司教館も移転しました。現在の建物は1655~83年に司教を務めたカルロ・ファブリツィオ・ジュスティニアーニによって隣のトゥルキナ修道院から購入され、増築/装飾が施されました。 -
かつては、正面玄関にジュスティニアーニ司教の紋章が刻まれた白大理石のペディメントが取り付けられていました。これは革命中に破壊され、現在はバスティア博物館で展示されています。
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32の主室を持つ長大な司教館は2本の古い狭い通りに沿って伸び、通りと入口の部分は非公開です。私室は3階にあり、控えの間/応接室/食堂/パントリー/広間/2つの寝室/2つの大部屋/書斎/使用人室/聖フィリップ・ネリに捧げられた小さな礼拝堂がありました。
フランス革命の間、司教を務めていたイニャス=フランソワ・ド・ジョアニス・ド・ヴェルクロがローマへの亡命し、宮殿は放棄されました。1797年からは軍が使用し、陸軍工兵隊の宿舎として2010年まで使用されました。 -
通りを海へ向かって下ると、旧トゥルキナ修道院があります。
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トゥルキナ修道院
1階には馬車用の門があり、修道院の正面玄関となっていました。門は小さな中庭に通じており、その中庭の軸線上には受胎告知に捧げられた礼拝堂がありました。礼拝堂は3つの区画に分かれており、大きな柱で区切られていました。中庭の右側には、階へと続く丸天井の階段がありました。 -
フランス革命で兵舎となり、大使/国会議員/海軍大臣/外務省大臣/元帥を務めたオラティウス・セバスティアーニ伯爵(1772-1851 写真)にちなんで「セバスティアーニ兵舎」と改称されました。
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尼僧は青い修道服を着ていたことから「トゥルキナ(伊:青色)」と呼ばれていました。1769年にフランス領になってからは「トゥルキネス」と呼ばれました。ジェノバでマリア・ヴィットーリア・デ・フォルマーリ(1562-1617)という修道女によって設立され、バスティアでの設立は1613年です。
現在は、隣接する海洋高校のキャンパスの一部となっています。 -
ノートルダム通りに垂直に交差するドラゴン通りは、シタデル最初の都市計画で開通しました。コルシカ語で渓谷という意味で、しばしば龍と誤解されます。
シタデル内では珍しい広場がありました。 -
旧神学校の塔
高くて狭いファサードを持つこの四角い建物は1584年築で、この地域で最も古い建物の一つで、バスティア最初の神学校がここに設立されました。この神学校は、トリエント公会議(1545-63)の規定に基づく開設で、盛況で手狭になり1663年に隣接する大きな建物に移転しました。 -
セミナリー(神学校)通り11番地に所在し、通りの名称はかつての神学校の存在を思い起こさせます。
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正面ファサードの中央の湾は、内部の配置により曲線を描いています。各階は螺旋階段で繋がれており、階段は通りに面して小塔のように突き出ています。
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フランス革命以降は駐屯軍の作業場として使用されますが、やはり狭さがネックとなって1857年に売却され、現在は私有財産となっています。
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個人的好みのツボに、見事にはまった建築でした。
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では、バスティア博物館となっている総督宮殿を見学します。
ドンジョン広場に面したファサード。大きなファサードに対して針の穴のような入口(右に写る自動車の後ろ)は、バスティア(要塞)としての機能を思い出させます。広場とは空堀で隔てられています。鐘楼は1710年に付け加えられました。1832年には、1階分建て増しされました(濃い橙の部分)。 -
ファサードには窓がないので薄い壁に見えますが、潜ってみると、かなり奥行きがあることが分かります。
1768年にフランス領になるとコルシカ島最高評議会が使用し、1791~1948年は軍の兵舎、1952年からバスティア博物館として使用されています。 -
ファサードを潜ると長方形の中庭(石畳)があり、中庭を囲むように口の字形に建物が配置されています。正面奥に博物館の入口があります。左奥が新しいのは、1943年に独軍に占領、解放時に地雷で破壊されて2011年に再建されたからです。
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現在博物館の入口になっている面は、1722年には中庭と中2階を結ぶ蹄鉄形の階段が建設され(写真)、中庭と中2階をつなぎ、賓客を荘厳な雰囲気で大広間(謁見室)へ導くように設計されました。軍事演習の邪魔になるので、1830年に取り壊されます。
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北を上にした見取図
ファサードを潜ると(水色矢印)中庭が現れ、左奥に(水色矢印)博物館入口があります。建物の東翼と北翼に厚みがあることがわかります。この部分が博物館スペースとなっています。1943年の戦闘で、宮殿の右半分(西翼/北翼西半分/南翼西半分)が敷設地雷で爆破され、2011年に再建されています。
※東西南北いずれも行き止まりは存在しませんが、建築用語として「翼(ウィング)」を使用します。悪しからず。 -
北から南方向を描いた1679年のスケッチを見ると、ジェノバ国旗のなびく宮殿は地上2階建て(屋根裏を入れると3階)で、絶壁に面した東翼が地下2階まで下に延びているのが分かります。南東角には円塔が突き出ています。スケッチ右側には、サンシャルル砦が描かれています。
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レセプション向かいの階段で、地下へ降ります。この部分は古代コルシカのささやかな展示で、建物の北翼を東方向に延びている間取りです。
Museu di Bastia 博物館・美術館・ギャラリー
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階段を降りると、東翼の地下1階です。写真のように、通路は奥(南方向)へ進むにつれて幅が狭くなっています。写真左側(海側)に監房が並びます。宮殿はフランス革命後に兵舎になりますが、地下は引き続き監獄として使用されて革命政府や第一帝政に従わなかった聖職者が投獄されます。非公開の地下2階と合わせて14室の監房がありました。
宮殿の中庭から直接アクセスできるB1の廊下には1615年に祭壇が建てられ、壁と格子越しに司祭が囚人のためにミサを開きました。 -
地下1階の見取り図
監房には窓がなく、外敵攻撃用に開けられた銃眼があるだけで、照明/換気に乏しく湿気が籠る環境です。1820年に牢獄の役目を終えると、監房内の古い銃眼は大きな窓に取り替えられ、パン焼き窯が建設されたり、兵舎(居室)や倉庫へと様変わりし、雰囲気が大きく変化しました。 -
監房の一室が、ポルトガルのカーネーション革命(1974)を扱った企画展のために使用されていました。革命に刺激を受けたコルシカ民族解放戦線(FLNC)は、テロ活動を活発化します。旧監房らしく、コルシカの黒歴史をテーマに扱っています。
ジェノバ共和国時代、写真のように各監房には部屋名がつけられていました。 -
こちらは北方向に面した監房の窓。狭い窓から、囚人は旧港部分を眺めて自由に憧れました。というのはフィクションで、窓が設けられたのは監獄としての用途を終えてからです。
ジェノバ統治時代には、女性用に独房も存在しました。 -
通路を進んで振り返った構図
光が見えるのが、上の写真の監房。陸側には、CITERNES(貯水槽群)と書かれています。 -
総督の宮殿は主に要塞としての役割を果たし、長期の包囲に耐えることを目的として建てられていました。ジェノヴァ人は要塞の自律性を確保するために二つの貯水槽を建設しました。いずれも中庭の真下に位置します。
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最初の貯水槽は1488年に完成し、アーチでつながった二つのヴォールトの形状(写真左)で、容量は270立方メートルです。水は中庭に存在した井戸から汲み上げられました。
二つ目の貯水槽は1555年に完成し、巨大なヴォールト状の半円形状(写真右)で、容量は400立方メートルです。余分な水は雨水溝を経て海に排出されました。 -
貯水槽は、1596年にロヴァカ村の水源から水道橋を通して供給されます。1631年に水道橋は地下配管に置き換えられて、セキュリティを強化しています。写真の正面は大きい貯水槽へ通じる通路、左枠外は最初の小さい貯水槽へ通じる通路です。通路は柵で封鎖されています。
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通路を戻り、降りるときに使用した階段に隣接する階段を上り、レセプション前へ戻ります(2つの階段を上り用下り用に分けて一方通行にしています)。
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通路に沿って中世コルシカの展示が始まり、奥の部屋へ進みます。
ちなみに通路の左側は、最初に通った階段と古代コルシカ展示のスペースです。 -
奥の部屋は広間で、総督代理官のオフィスでした。代理官は、民事/刑事事件において総督を補佐し、総督が不在の場合には代理で裁判を行いました。全員法学の博士号を持つ法曹集団でした。
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現在は、バスティアの街を描いた絵画/ジオラマを中心に展示しています。
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地上階(1階)の見取り図
レセプションを経て、Aの古代展示と階段で地下へ行きました。Aの下の階段を上って折り返し、今は東翼の①室にいます。
北翼は、公文書保管庫/兵士用礼拝堂として使用されました。Cors'Hotel ホテル
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B室の中世コルシカ展示室の窓から外を眺めると、旧港の防波堤に崖を介して隣接していることが分かります。
階段で、2階(欧州では1階と表記)へ上がります。 -
2階(欧州では1階と表記)の見取り図
南翼と東翼が展示室として公開されています。
北翼は、総督のアパートメント用の厨房/ランドリー等が設置されました。 -
ファサードと中庭に面した南翼の部屋は、元々三連アーチで中庭側がバルコニーになっていました。真下のファサードを潜る際に真上を撮った写真の構造(アーチ)が三つ連なっていると思って下さい。1627年の改装で大きく変わり、アーチ部分を煉瓦で塞いでフラットな壁になります。
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城塞の南東角にある塔はトリオーネtorrioneと呼ばれ、(軍事用途の)塔を意味します。城壁の厚さは約3メートルで、砲撃用のスペースがありました。地上階は拷問室で、拷問用のテーブルとベンチ、四つ裂きにするための拷問台、拘束衣、縛り縄が備えられました。
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塔は、1679年のスケッチにも描かれています。
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大広間(サラ・マジョーレ)
総督が公式行事を行う場で、大法廷も兼ねます。総督は、毎年5月1日にバスティア市長/9月には十二貴族選出を主宰しました。大広間へ通じるオーク材の扉は、矛を持ったドイツ衛兵によって守られました。他には、宴会/宗教行事/舞踏会/演劇公演等でも使用されました。 -
天蓋のある玉座に座った総督は、重要な来訪者を迎え、厳粛な審理を主宰しました。その傍らには深紅のビロードで覆われたテーブルが置かれ、銀のベルやコルシカ島の法令集(写真)が置かれていました。上級政務官や秘書が背後に立って控えていました。来訪者は、身分に応じて肘掛け椅子/椅子/ベンチを使用しました。
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1768年のフランス併合後にコルシカ高等評議会の初代議長を務めたマルク・アントワーヌ・シャルドンや1848年の軍による増床工事で原型と程遠い部屋となり、特に天井の高さは、2層になったことで大きく変化しています。部屋には、シャルドンの紋章(写真)が残り、変化前の様子を推量できます。
大広間は、総督が在任中に亡くなった場合の遺体安置所でもありました。街のすべての教会は2日間鐘を鳴らし、職人や商人は店を閉めなければなりませんでした。 -
居間
壁は赤いダマスク生地で覆われ、天蓋のある玉座に座った総督が私的な面会をしました。17世紀に遡る目録には、多数の椅子、巨大なガラス製のランタン、そして壁にはコルシカ島を描いた絵画、ジェノヴァの守護聖人である聖母子像の像もこの部屋に置かれていました。 -
現在は、塞がれた暖炉のみが面影を残しています。海側は大広間⑰/居間⑮/寝室⑭の順に配列され、ドアで行き来できます。
総督の居間/居間の反対側(中庭側)は、総督夫人の居間⑯/寝室⑬として使用されました。 -
寝室の南側(⑥⑦⑪⑫および階段部分)は同じサイズの6つの部屋で構成され、総督の家族/使用人部屋/倉庫/トイレとして使用されました。写真のトイレは2007年の修復工事中に発見され、総督夫人が使用したものです。小さな窓から換気が行われ、ファサードの壁に埋め込まれたパイプで地下2階の排水管に接続されていました。
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総督専用礼拝堂
トリエント公会議以降、総督は毎日礼拝に出席する義務がありましたが、宮殿内に礼拝堂がありませんでした。1597年に総督カルロ・パッラヴィチーノが予算を獲得し、大広間の北側に増築されます。東壁側の狭いスペースには、総督の給仕室/秘書室が設置されました。礼拝堂は1710年に拡張されています。 -
礼拝堂の窓からの光景。
2階は、改装で原型を留めていないのが現状です。 -
1848年に東翼3階部分を増築することで、宮殿の改装はひと段落します。その際、ジェノバ国旗を掲揚していたマストが取り壊されています。
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おまけ
コルシカらしい食事を紹介します。
まずはサンドイッチ。コルシカ産のチーズとハムという鉄板の組み合わせ。以前、ルーアンのお店でも頂きました。 -
ベニエBeignets
ブロッシュチーズ※を入れて揚げたパン。
※コルシカ語ではBrocciuブロッチュと言います。もちろんA.O.P. -
フィアドーヌFiadone
ブロッシュチーズを使用した焼き菓子。レモンフレーバーが一般的。 -
ボナパルト通りにあるお店で、サロン・ド・テも併設。
3品で15ユーロ。良いお値段です。
次は、バスティアミュージアムの展示を中心に、バスティア史を追います。
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