2025/07/15 - 2025/07/22
159位(同エリア196件中)
azianokazeさん
- azianokazeさんTOP
- 旅行記488冊
- クチコミ0件
- Q&A回答12件
- 890,558アクセス
- フォロワー29人
2025年7月21日、実質最終日。
この日は敦煌郊外の砂漠の中にある玉門関などを観光、午後はホテルで休憩し、20:40のフライトで上海へ。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
7月21日の記録に入る前に、画像は20日、張掖から敦煌に戻る長旅の途中、高速のSAでとった昼食。 普通に美味しい。
-
20日夕食 ホテルの隣が小さなフードコートみたいな感じになっていたので、そこで。
ホテルは最初の莫高窟観光などで使用した敦煌の「聚丰大酒店」 -
頼んだのは餃子 でも周知のように中国では一般的に餃子は焼き餃子でなく水餃子。
おそらく一人では食べきれない量が出てくるというのは予想できたので、他のものは頼まず、実際山盛りで出てきた茹で餃子をひたすら食べる・・・も、そんな餃子ばかり食べられるものでもなく、結局半分ほどでギブアップ。 -
ということで、日付変わって7月21日、実質最終日。
この日は敦煌郊外の砂漠の中にある玉門関などを観光、午後はホテルで休憩し、20:40のフライトで上海へ。
上海空港で夜明かしした後22日9:50のフライトで鹿児島へ・・・・というスケジュール (上海空港での夜明かしが最大難関)
-
先ずやってきたのは敦煌市街北西約90kmにある通称「玉門関」遺跡 (↑の写真の奥に見える遺跡)
玉門関は、シルクロードの天山北路・南路に至るルートに設けられた重要な関所です。
“元来は漢代に武帝が河西回廊を防衛する目的で、長城をこの地域に建設し紀元前108年から107年にその最西端に建造されたとされる”【ウィキペディア】
さえぎるものがない砂漠地帯なので、風が強いです。 -
残存する遺跡は「玉門関」自体の城壁という訳はではなく、玉門関にあったと推測されるいろんな施設の遺跡で、ここは「小方盤城」と称される遺跡。 一般的には「玉門関」と言えば、この「小方盤城」遺跡がイメージされます。
「推測」と書いたように、玉門関がどこにあったのかは、歴史家の間でも見解が一致していないとも。
先ずはビジターセンターみたいな所へ -
玉門関は河西回廊・敦煌を西に出て西域・天山山脈に至るルートのスタート地点(逆に言えば西域から中国へ入る出口)に位置していますが、玉門関と対になって存在したのが「陽関」
陽関は、敦煌市の西南約70km、タクラマカン砂漠の南を通る西域南道のスタート地点にあります。 -
でもって、右奥に見える遺跡が一般的に「玉門関」とみなされている遺跡
-
風が強く、40℃を超えて気温が上がる(このとき何度だったかは知りません)砂漠のなかを、痺れる足をひきずりながら結構歩きます・・・正直体力的にはギリ状態。テンションもイマイチ。
玉門関が遥か遠くに感じられます。 -
-
なんとかたどり着きました。
-
-
遺跡自体は何の変哲もない「壁」が残るだけのものです。
あとは想像力の世界です -
王之渙(おう しかん) 「涼州詞」
「黄河遠く上る 白雲の間 一片の孤城 万仞(ばんじん)の山 羌笛(きょうてき)何ぞ須(もち)いん 楊柳を怨むを 春光度(わたら)ず 玉門関」
黄河は遥か遠く白雲のただよう夷(えびす)の地に遡(さかのぼ)って流れ、そのかなたには一つの城塞が、高く聳える山々の頂に立っている。 (その異郷の孤城で)羌(きょう)族の笛が別れを怨む折楊柳の曲を吹いているが、どうしてそんな悲しい曲を吹く必要があろうか、どうか吹かないでほしい。 これから向かうさらに西の玉門関は、柳が芽吹くことはおろか、春の光さえ差し込んでこないほどの厳寒の地なのだから。
当時の中国に人にとって「玉門関」は西の果てであり、その先は生きて戻ることさえ難しい異郷の地でした。
なお、砂漠地帯ですから夏は灼熱地獄ですが、冬は極寒の地となります。
遥か西域を望む方向 -
ガイドの楊さんの話では、このあたりには川が流れており、船で西に向かったとも。
李白 「子夜呉歌」
長安 一片の月 万戸(ばんこ) 衣を擣(う)つの声 秋風吹きて尽きず 総(すべ)て是れ玉関の情
何(いず)れの日にか 胡虜(こりょ)を平らげて 良人(りょうじん) 遠征を罷(や)めん
長安の都には月の光がふりそそぎ どこの家からも砧(きぬた)を打つ音が聞こえてくる。
秋の風はやむことなく吹き すべてが玉門関で兵役に就く夫をしのばせる。
いつ西域の異民族を討伐し終えて 夫は遠征から帰ってくるのだろうか。 -
玉門関の名前の由来は、新疆ウイグル自治区のホータンで産出された「玉(ぎょく)」、つまり翡翠が、この関所を通って中国に運ばれたことにちなみます
-
ビジターセンターにもどって、バスでやってきたのは「漢長城遺跡」 漢の時代に作られた長城の遺跡です
-
「紀元前121年」酒泉郡が設けられた後に、漢武帝は令居(今の永登)の以西の亭、障、塞を建てはじめた。いわゆる「塞」は長城であり、「亭」と「障」は烽火台であり、大きいのは障と呼ばれ、小さいのは亭と呼ばれる。候官(官職)と候長(官職)から兵士を率いて守備し、彼らは開墾することと辺境を守ることの二重の任務を負った。【旅行会社「セイナン・スカイ」】
-
-
壁は砂と葦や紅柳、胡柳を層にして突き固め、間に烽火台がつくられました。
ここ玉門関付近で最も保存状態の良い長城を見ることができます。 -
西域の軍事要衝を詠んだ漢詩ということで個人的に一番好きなのが、王翰(おうかん)の「涼州詞」
王翰 「涼州詞」
葡萄の美酒 夜光の杯 飲まんと欲して琵琶 馬上に催す
酔うて沙場に臥す 君笑う莫れ 古来征戦 幾人か回(かえ)る
葡萄のうま酒を、キラキラと月の光の反射するガラスの杯に注ぐ。飲もうとすると馬上から琵琶がせきたてるように鳴り響く。
酔いつぶれて砂漠の上に横たわったからといって、笑ってくれるな。昔から戦争に行ってどれだけの人が生きて帰ってきたか…
前半のエキゾチックな華やかさに眉をひそめる識者も、後半の兵士の切ない心情には言葉を失うしかないでしょう。 -
-
-
画面中央の奥に見えるのが烽火台
-
みなさん、烽火台まで行かれていましたが、私は歩くのにやや難があるのでパス。遠くから眺めるだけ。
-
以上、玉門関観光を終えて車で敦煌に戻ります。
この砂漠の景色の中で気になったのがこれ 光り輝く松明のよう。
これは太陽熱発電所 -
普通目にする「太陽光発電」がパネルで直接光電気変換するのに対し、太陽熱発電所タワーの周囲に同心円状に配置されたのはミラー そのミラーで光をタワーの一点に集めて高温を得て、水を蒸気に変えて発電するタイプ。
(熱は溶融塩に貯えられるので)天候によらず24時間連続発電できる100MW溶融塩タワー型太陽熱発電所です。
強い太陽光と広大なスペースを必要としますが、敦煌郊外の砂漠地帯ならいずれも問題なし。
なお、玉門関周辺の砂漠地帯には120基におよぶICBMミサイル(大陸間弾道弾)サイトが存在するとか。現代の砂漠活用法のひとつ。 砂漠の真ん中で写真バシャバシャ撮ってると「スパイ」容疑で捕まる危険も。気を付けて。 -
敦煌市街近く、最後の観光スポットが「敦煌古城」
かつて日中合作映画「敦煌」を撮影するために作った撮影用施設で、その後、撮影の他、観光施設としても利用されているとか。 -
-
近くに新しい撮影用施設も出来ているみたいで、客はそちらに奪われているのかも・・・閑散とした様子。
-
-
-
ということで、河西回廊の旅、無事全行程を終了(最後は暑さ・疲労でゾンビ状態にもなりましたが)
-
敦煌市街で昼食 蘭州牛肉麺
特徴は、澄んだスープ、香ばしい牛肉、そして手打ちの細麺です。
暑さでバテバテ状態にはちょっと暑苦しい。
このあと、市内安宿をデイユースで借りて数時間休憩
夕方、敦煌空港に。 ガイドの楊さんと別れて上海へ 上海の空港で8~9時間待ち
最初は横になれる椅子が確保できず大変でしたが、夜中途中から横になれる長椅子を確保。ようやく少しウトウトできました。
乗るまでは大変ですが、乗ってしまえば2時間で鹿児島到着
帰国してからも、疲れが出たのか夕方からの発熱。
何年も前から温めていた旅行プランをなんとか実現できましたが、今後はどうしたものだろう・・・体力的にも次第にきつさが増しているし・・・最近の旅行目的になっている非公開プラ―ベート活動も限界を感じることも・・・やめるのは簡単ですが、やめてどうする?・・・いろいろ迷っています。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
azianokazeさんの関連旅行記
その他の観光地(中国) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
34