2025/08/23 - 2025/08/23
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gianiさん
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2025/08/23
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旭川から塩狩峠を越えると、天塩川流域です。最奥の都市士別は、明治32年に最期の屯田兵村として建設されました。過酷な環境ゆえに、自動車/タイヤ各メーカーの試験コースがゴルフ場のように林立します。最近は、めん羊でも名前を上げてきています。
- 旅行の満足度
- 5.0
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JRで士別駅まで移動。
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周りは煉瓦倉庫街
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踏切を渡って、天塩川支流の剣淵川を渡ります。
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士別市博物館を目指します。
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士別ゆかりの有名人と言えば輪島功一氏、2歳で樺太より引き揚げて士別育ちです。
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士別にはアイヌが住んでいましたが、近藤重蔵が1807年に天塩川を遡って到達します。本格的に探検したのは松浦武四郎で、アイヌをガイドにしたので地名等の記録も詳細です。松浦は「北海道」の名付け親で、加伊(かい)はアイヌを指します。政府の都合で加伊は海に改められますが、北のアイヌの土地という意味で名付けます。彼の著書はアイヌ贔屓ゆえに発禁処分となっています。
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1857年に探検した際の記録をまとめた著作の一つ『天塩日誌』
カラーの図が付いており、アイヌ全般について学べる内容です。
士別には5つのアイヌコタンがあり、55名が生活していました。 -
天塩川殖民地選定調査(1888-89)
北海道庁は、明治21-22年にかけて天塩川流域で移住者が入植できる土地を選定するために内田潔/柳本通義らを派遣しました。写真は、1892年の報告書に添付された地図です。 -
士別原野の測量風景
地理/地形/面積/気候/植物などを調べました。 -
調査には、アイヌの丸木舟(チプ)が使用されました。桂の木等をくり抜いて製作します。写真は、長さ6.4m高さ46cm幅60cm。
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開村と入植
1897年に士別村が誕生します。入植に先立っての行政整備で、まだ住民はいないので役場は日本海側に設置されました。
翌98年5月には、深川から大内勇記が和人として初入植し、天塩川渡船の渡し守をしました。大内渡船場と呼ばれ、現在のR40士別橋付近に構えていました。 -
開村と屯田兵入植
1899年7月に屯田兵99名と4名の士官が入植します。和寒までは鉄道、その先は3日間の徒歩で到着しました。士別兵村は、剣淵北/南と共に、最期の屯田兵村でした。屯田兵の家族は道なき道を進むのは困難なために、和寒から船で天塩川を下りました。内地の人間にとって北海道への移住は「松前落ち」と呼ばれ、今生の別れの盃を交わす状態でした。なので回収不能とみなされ、資金援助は無理でした。
写真は、1901年に北を向いて撮影した写真。大通り沿いに西側には兵村、東に練兵場が広がります。屯田兵家族上陸の地碑 名所・史跡
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当時の家屋を復元したものが敷地内に展示されています。入植の前年に大倉喜八郎から札幌の遠藤/伊藤組が請け負いました。道路から27mほど熊笹をかき分けると、屋内には蕗やウドが茂る有様でした。建坪17.5坪2LDK、窓はガラスではなく武者窓でした。天井がないので、冬は屋内で火を焚いても凍結しました。
土地/家屋/寝具/農具/食器に至るまで全てが官給品でした。なので、茶碗一つ欠けても、届け出が必要でした。家族にも軍律が及んだので、不便な生活でした。屯田兵屋 名所・史跡
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屯田兵は、ひたすら軍事訓練に携わります。家族は、各世帯5町歩(約6ha)の給与地開拓を担いました。また、鉄道敷設/停車場(駅)建設、排水溝の掘削など街のインフラ整備にも携わります。1900年には、士別まで鉄道が(写真)、名寄まで道路が伸張します。
応募資格の一つは、農業に従事できる家族が2名以上同伴することで、父子家庭では応募者の家族を娶って条件を満たすこともありました。5名の同伴まで手当てが付くので、人数の多い家族は子どもを養子に出して食い扶持を減らすこともありました。 -
士別屯田兵は、札幌の第7師団所属の歩兵第25連隊第3大隊第5中隊のことで、名越源五郎大尉が中隊長でした。名越は元会津藩士で。既に屯田兵としてのキャリアは18年に及ぶベテランでした。屯田兵の家族にとっても、士別にとっても頼りになる存在でした。
屯田兵は国防だけでなく治安維持(警察)も課されたので、町に賭場が開かれた際には、武装して取り囲み追放しています。 -
初めての架橋と水運
1903年に鉄道は名寄まで伸張します。その際に天塩川に初めて架橋されます。廻船業は、1901年に士別で粟津源次郎が天塩川合同運槽店を開業し、流域の物流を担います。鉄道伸張に伴い1903年には名寄へ拠点を移し、食料/建設資材/鉄道建設資材等の運搬で大正期にかけて大活躍します。 -
道路橋
1912年に旭川~名寄を結ぶ道路に木造の士別橋が架かったのが始まりです。とはいえ、他の地点では永らく渡船が活躍しました。
天塩川沿いに士別に隣接する上士別へは1900年に道路が開通、1906年に上士別村として独立します。1920年には上士別まで馬車鉄道が、1931年には更に上流の朝日までバス路線が開業します。1929年には西側の温根別までバス路線が開業し、士別は交通の十字路となります。 -
屯田兵村入植の翌1900年には一般移民も付近に入植して賑やかになり、次第に兵村の多くが市街中心地へ組み込まれていきます。鉄道で東京と繋がったことと終着駅だったことは、大きな要因です。
街の基線は、南北が現在の国道40号線、東西が現在の宮下通りです。写真のように南北基線と士別駅へ通じる道路が市街地となります。1902年には、剣淵村にあった村役場が士別村へ移動、村長も誕生します。 -
1903年の人口は3557名で、僅か数年で多くの人が集まります。この頃は道内からの移住者も多く、厳しい自然環境で生活する術を身に着けた人たちが安定した生活を送る基盤となりました。
士別は天塩川と剣淵川に三面を囲まれた土地だと分かります。図上部の天塩川対岸には上士別の市街です。 -
農業
当初は自身の食糧生産、次いで現金収入を得るための商品作物栽培へシフトします。
1904年の屯田兵制条例廃止に伴い兵役が解除され、それ以後は予備役よりも下位の「後備役」となり、事実上兵役に就く可能性はなくなります。屯田兵は給与地の開墾に専念することになります。とはいえ日露戦争が勃発して徴兵されたために、戦後復員してからのことです。 -
稲作
結論を述べると、有数の稲作地帯となります。道筋は困難の連続でしたが、住民の執念が実った結果です。寒冷な北海道では1892年まで開拓使/道庁は稲作に否定的で、屯田兵村では栽培が禁止されていました。 -
入植後、最初の春(1900年)に屯田兵の山畑善蔵が湿地に稲を植えて5,6升収穫したのが始まりです。旭川屯田兵村で導入された「赤毛」という品種でした。現在も、水田発祥の地として碑が建ちます。
稲作は、米へのあこがれだけでなく、副産物である稲藁があらゆる用途で必要とされ、殊に馬の餌として重要だったからでした。 -
客土
富生藤吉は、1908年に(現在の士別市多寄で)水田に粘土を10cmほど敷くと稲の生育が良くなることを発見します。
品種改良
山崎永太は1918年に士別村で山崎糯という品種を生み出し、一時は道内作付7割を占めました。
温冷床苗代
山崎は木枠で囲った畑苗代の床土に落葉等の醸熱物を入れた温床苗代を開発、1930年には畑苗代を油紙で覆う冷床が和寒の佐藤徳治によって発案されます。 -
開拓の様子
屯田兵は、道路から27m離れた支給家屋へ入居するにあたり、背丈よりも高い熊笹をかき分けて見つけました。一般入植者にとっては、数日藪をかき分けて自分の土地の境界標をやっと見つける状態でした。火事が起きても、周りからは見えないほどでした。
まず熊笹を刈り掃って火を付け、灰の上に蕎麦や稲黍を捲いて食料にしました。季節によっては、大根/蕪/とうきび/かぼちゃ/熊笹の実が食料になりました。
商品作物は油菜(油が採れて惣菜にもなり運搬が容易)が登竜門で、1907年頃からは小豆がトレンドになりました。 -
亜麻
繊維が亜麻布として人気でした。軍需が大きい作物でした。
ハッカ
0.1haで40リットルほどの精製油で運送効率が良く高値で取引され、ロンドンの先物市場に影響を与えました。 -
甜菜
白砂糖の原料になります。
除虫菊
蚊取線香の原料になります。
馬鈴薯
片栗粉の原料になります。食料にもなります。
これらは第一次世界大戦にかけてのバブル期に成長し、市場が暴落すると稲の価格がこれらを上回ります。 -
農具
熊笹や蔓を刈ったり、木を切り倒したりして耕地を開墾します。当初は官給品の鍬で掘り起こしましたが、後にプラウと呼ばれるトラクターのような農具を牛馬に曳かせて土を掘り返し、石/岩/切り株などを取り除きます。土地の状態によって種類を使い分けました。士別市立博物館 美術館・博物館
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プラウで掘り起こした塊土を、ハローで曳くと柔らかく作付けに適した土になります。現在はトラクターが担います。
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プラウの手前にあるのは馬鍬です。水田は備中鍬で掘り起こしましたが、馬に曳かせて速やかに行えるようになりました。
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カルティベーター
畝を作ったり土寄せ/除草の際に、馬に曳かせて使用します。 -
水田コロ
水平に倒して転がし、水田に付いた跡に従って苗を等間隔に植えます。 -
回転式脱穀機
千歯ごきに代わる足踏み式の脱穀機。効率が良く、後に機械で動くようになります。コンバインの前身。 -
唐箕
回転させると、穀粒/屑粒/藁塵に分別されます。江戸時代の発明品ですが、効率と選別精度が素晴らしいので、機械化後も残りました。 -
林業
北海道の未開発地は国有林/御料林とされましたが、それらの伐採が許可されると林業が発達します。鉞や釿などで倒木を成形します。農閑期に作業が行われたために、非常に厳しい環境で作業しました。 -
馬
北海道で物流の主役は、永らく馬でした。広い農地を耕す上でも、重要な存在でした。内地では贅沢品でしたが、こちらでは必需品です。かつて放牧されたものが野生化した道産子が使用されました。 -
めん羊
羊毛採取を目的とし、コリデール種が導入されます。士別では川西小学校校長菊田佐市の指導で、農閑期の副業として定着します。100年以上経った現在も、めん羊の街としてブランドは健在です。 -
刈り取った羊毛は、洗った後ハンドカードで1,2回梳いた後、写真の紡毛機で毛糸にします。
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工業
まず不可欠なのが鍛冶屋(鉄工所)。農具の消耗は早く、蹄鉄などの馬具、大工道具も必要です。入植と同時に興った業種です。そして、道具の柄などになる加工木材(木工所)です。 -
内地との違いは、やはり装蹄用具でしょう。蹄鉄一つでも、夏用冬用の違いがありました。蹄鉄工は、国家資格として農商務省の管轄でした。後には、ストーブ製造も担います。
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鉱業
1897年に近隣で砂金が発見され、温根別はゴールドラッシュに見舞われます。大正時代には温根別に歓楽街ができるほど賑わいました。 -
最初の工場(1902)
開墾時に伐採されたウドの木は、マッチ棒製造に最適でした。士別で最初の本格的な工場は1902年操業開始の士別製軸工場で、1907年には神戸の日本燐寸(マッチ)製造株式会社の系列になります。当時日本は、米国/スウェーデンと並ぶ3大マッチ生産国で、専ら輸出していました。当時の地図では、基線となる旧市街地と書かれた道路沿いに(現在の宮下通り)立地しています。同じく基線となる現在の国道40号線沿いには、剣淵から移動したばかりの村役場もあります。 -
澱粉工場(1903)
1902年は熊笹に実が成る周期の年にあたり、大量に穫れました。藤島慶五郎が水車を動力とする熊笹澱粉加工施設を作ったのが始まりで、士別で収穫された馬鈴薯を原料とする澱粉工場が1903年に操業します。1911年には天塩澱粉同業組合が発足し、1919年には道内生産の4割を士別が担います。片栗粉も輸出がメインです。 -
帝国製麻士別製線工場(1907)
天塩川沿岸では亜麻の生産が盛んで、名寄盆地周辺だけでも当時の大手4社が原料工場を設立、栽培農家と納入契約の取り合いをしていました。現在の開拓記念公園周辺には、帝国製麻(現在の帝国繊維)が進出します。パラシュート等の軍需が大半でした。 -
士別公会堂
1915年築84年解体、1989年再建。士別村には町制が施行されます。 -
1918年の道内人口番付を見ると、士別町は前頭でも上位に入っています。
東西横綱等、番付には炭鉱/漁業の町村が殆どですが、士別は第一次世界大戦中の欧米向け輸出産業(商品作物を原料とする工業製品)でランクインしている珍しい例です。終戦後のバブル崩壊で、これらの工場は姿を消します。
※函館/小樽/札幌/旭川/室蘭の5区は町村より上位なので、対象外になっています。当時の北海道庁は区町村制で、1922年に市制が施行され、釧路を加えた6市が誕生します。 -
1934年の地図では、帝室林野局を中心に林業が士別の産業を牽引していることが分かります。木工所/鉄工所/蹄鉄工場が多いのも特徴です。農業は輸出向けの商品作物中心から、1919年に品種改良/環境整備が進み始めた稲作へシフトし始め、1930年には稲作地が畑作地の面積を上回りました。
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明治製糖(1936)
国策で誘致された製糖所で、戦中の国策合併/戦後の分離を経て、現在は日本甜菜製糖士別製糖所となっています。1903年の士別の地図では、既に広大なビート畑(サトウダイコン)が描かれています。 -
1936年の地図には、町工場以外の工場は明治製糖しか描かれていません。現在も操業中です。
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商工業
入植開始から鉄道開通の1898-1900年にかけて、商店/宿屋/工務店等が相次いで進出します。進出元は旭川の兵村を中心とした、後備役に回った屯田兵村の住民たちでした。2つの基線が交わる地点に1899年に開業した河村商店をはじめ、最初の商店街は兵村に隣接した地域から始まりました。
士別駅周辺が最初に払い下げられた土地で、西条商店(写真)は、百貨店的性格を持ちます。兵村の南側は番外地と呼ばれましたが、駅前通り/R40沿いに官公庁や商業施設が並びました。 -
国勢座(1920)
第1回国勢調査施行を記念して命名した芝居小屋。こうした娯楽施設が次々と建てられました。
また明治期の産業発達で銀行等も進出します。 -
1922年の大通り(現R40)の光景
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1948年の国道40号線の光景
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士別軌道
士別の官有林/御料林の材木を製紙工場へ運搬すべく、士別駅~上士別間の馬車鉄道(11.9km)が、1920年に開通します。大株主は富士製紙(現王子製紙)です。1925年には、奥士別まで全21.4kmが全通します。
当初は大通り(現R40)を通っていましたが、1928年に動力を蒸気へシフトしてからは、宗谷本線沿いの専用軌道を走りました。 -
1930年にはバス事業も始めます。
1939年には王子製紙から宮内省へ株式が譲渡され、士別軌道は皇室財産になります。戦後は林野庁が株式を保有し、2001年の一部株式売却(全体の5%)で会計検査院の検査対象から外れます。1959年に鉄道部門廃止、1962年に名士バス士別営業所の事業を移譲されます。 -
士別森林鉄道(1932-1960)
宮内省帝室林野局は、御料林の伐採物をスムーズに運ぶために1932年に奥士別を中心に森林鉄道35.5kmを開通させます。森林軌道(支線)3本(20.8km)、作業軌道(枝線)7本(56.7km)が1952年にかけて伸張されます。道路網整備に伴い1959-60年にかけて、士別軌道貨物運送事業(トラック ~1988)へシフトします。 -
戦後
1954年の昭和大合併で士別市が誕生し、人口は40000人に迫ります。その後は人口減少に悩み、1988年には林野局が閉鎖、2005年に朝日町を合併しても現在の人口は16000人を割るのが間近です。明治時代の村域よりも、現在の広い市域の方が人口が少ないです。
厳しい自然環境ゆえに、トヨタ/ダイハツ/ヤマハ/ブリヂストン/ミシュランのテストコースがあります。ミシュランのスタッドレスタイヤは、士別で誕生しています。 -
現在の基幹産業は第一次産業です。
めん羊飼育を町の看板にしています。1994年には世界のめん羊館を開館しています。
では、現地へ赴きます。「羊と雲の丘」世界のめん羊館 動物園・水族館
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士別駅の南側には、屯田兵村のトップだった中隊長の名前を取った道路/橋があります。
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駅周辺には煉瓦倉庫が立ち並びます。
第一次世界大戦中の好景気で倉庫業が広がり、付随して1919年の士別煉瓦製造販売合資会社を始め、煉瓦製造業も興ります。 -
駅の北側には、士別軌道の本社が。
士別軌道 乗り物
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待合室では、往時の展示品を見ながらバスを待てます。
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R40に面する道の駅
奇麗なトイレが魅力です、
ライダーが多いのも、北海道らしさを醸し出します。
士別軌道本社横の陸橋と道の駅は、中央通りに面しています。現在の中心地域で、南5丁目と6丁目の境界となる道路です。道の駅 羊のまち 侍 しべつ 道の駅
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市街では九十九という字をよく見かけます。
屯田兵家屋は100戸準備されましたが、入植後すぐに1戸が焼失し、剣淵兵村の空き家へ異動になり、99戸で稼働したことに由来します、士別神社のある山は、九十九山と命名されます。 -
国道沿いの北星信用金庫士別北支店の裏側には
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中隊本部跡のポールが。
中隊長(大尉)をトップとする99名の部隊で、2つの小隊(中尉)から成り、1名の軍医、合計4名の士官と99名の隊員から成りました。 -
R40の北星信用金庫の向かいには、廃業したホテルの建物が。
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ホテルの壁沿いには、市街地発祥の地の石碑が。
中隊本部から士別駅へ向かって、市街地が延びていきました。当時は、番外地でした。 -
もう一区画内側には、中隊長の官舎跡のポールが。
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大野家住宅主屋(旧大野組事務所兼主屋)
1927年築で、北側が座敷、南側が欧風応接室という構成。
国の有形文化財。 -
大野家は、廃屋になっているプリンスホテルの建物の裏にあります。
何れのスポットもグーグルマップで検索できます。 -
R40を北上すると、水田発祥の地のポールが。
山畑善蔵が試作した場所です。青苗でしたが、稲藁を得る目的は達成できました。
グーグルマップでは、長生館市村治療院で検索してください。 -
150mほど戻って、基線である宮下通りを東進して広通りと交差する北東角には、開拓記念公園があります。
宮下とは、士別神社へ向かう道を指します。地元では神社通り、R40は大通りと呼ばれます。士別神社 寺・神社・教会
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当初は練兵場の一角で、1907年に帝国製麻の工場が建ちました。
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練兵場の南東角には士別小学校の前身、第一簡易教育所も設置されます。
練兵場の一辺は273mのため、大通りから開拓公園までが練兵場跡に相当します。 -
屯田兵村の配置です。
300間(546m)毎に道路が通る大雑把な区割りです。各兵屋の敷地は15×150間です。 -
入植20年を記念して1919年に設置。
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開拓記念公園や広通りの中央分離帯には、忠霊碑が建ちます。日露戦争では12名が戦死しています。
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広通りを南下し、中央通りへ右折すると寺町です。
各宗派が揃いますが、こちらは真言宗北海道八十八か所霊場No.21のお寺です。大阿寺 寺・神社・教会
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士別駅へ戻り、名寄を目指します。
士別駅 駅
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車窓からは日本甜菜製糖の工場が。
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おまけ
士別軌道の年代物バス。
次は、名寄を目指します↓
https://4travel.jp/travelogue/12004703
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