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名寄盆地南側の名寄市は、名寄川が天塩川に合流する地点で、天塩川上流部の中心都市です。年間の気温差78度、日本有数の寒冷地ですが、夏は気温が30度を超え、稲作も可能です。そんなユニークな土地を解説する博物館を中心に見て回りました。

名寄:旧上川郡の中心地/鉄道都市

5いいね!

2025/08/23 - 2025/08/23

63位(同エリア79件中)

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62

gianiさん

この旅行記スケジュールを元に

名寄盆地南側の名寄市は、名寄川が天塩川に合流する地点で、天塩川上流部の中心都市です。年間の気温差78度、日本有数の寒冷地ですが、夏は気温が30度を超え、稲作も可能です。そんなユニークな土地を解説する博物館を中心に見て回りました。

旅行の満足度
5.0
  • 名寄駅舎はレトロです。1927年築

    名寄駅舎はレトロです。1927年築

    名寄駅

  • 構内で、資料収集。

    構内で、資料収集。

  • 名寄神社は緑豊か

    名寄神社は緑豊か

    名寄神社  寺・神社・教会

  • 線路の東側は、広大な名寄公園。<br />地元の植生も遺ります。

    線路の東側は、広大な名寄公園。
    地元の植生も遺ります。

    名寄公園 公園・植物園

  • 除雪車<br />名寄は、豪雪地帯です。

    除雪車
    名寄は、豪雪地帯です。

    SL排雪列車キマロキ 名所・史跡

  • 中々見ごたえのある内容でした。<br />アイヌの展示も充実しています。

    中々見ごたえのある内容でした。
    アイヌの展示も充実しています。

    名寄市北国博物館 美術館・博物館

  • テシオアイヌ<br />名寄の先住民はアイヌで、季節に合わせて天塩川河口と名寄の間を移動して生活していました。夏は沿岸漁撈、秋は鮭を求めて内陸へ、春先は狩猟に励みました。天塩川河口は和人/大陸との交易路に当たり、様々なものを移入/移出していました。

    テシオアイヌ
    名寄の先住民はアイヌで、季節に合わせて天塩川河口と名寄の間を移動して生活していました。夏は沿岸漁撈、秋は鮭を求めて内陸へ、春先は狩猟に励みました。天塩川河口は和人/大陸との交易路に当たり、様々なものを移入/移出していました。

  • 住居<br />チセと呼ばれ、入口兼納屋と主屋の2室から成ります。地面に敷物を敷いて生活しました。

    住居
    チセと呼ばれ、入口兼納屋と主屋の2室から成ります。地面に敷物を敷いて生活しました。

  • テシオアイヌは、笹で表面と壁を作ります。

    テシオアイヌは、笹で表面と壁を作ります。

  • チセは、食料/水を得やすい河岸エリアかつ災害に遭いにくい高台等に構えられ、数軒~数十軒単位でコタン(集落)を構成しました。

    チセは、食料/水を得やすい河岸エリアかつ災害に遭いにくい高台等に構えられ、数軒~数十軒単位でコタン(集落)を構成しました。

  • 敷物<br />キナと呼ばれ本来は草を意味する単語。蒲をイテセニ(織機)で編みます。床等に敷く場合は無地、壁に掛ける場合等は文様を織り込みます。

    敷物
    キナと呼ばれ本来は草を意味する単語。蒲をイテセニ(織機)で編みます。床等に敷く場合は無地、壁に掛ける場合等は文様を織り込みます。

  • 囲炉裏(アペオイ)<br />照明/暖房/調理をこなし、主屋の中央に設置します。囲炉裏に住む火の神(アペフチカムイ)は、日々の生活を見守る重要な神で、狩猟や儀式を行う際は最初に最初に祈りを捧げます。<br /><br />

    囲炉裏(アペオイ)
    照明/暖房/調理をこなし、主屋の中央に設置します。囲炉裏に住む火の神(アペフチカムイ)は、日々の生活を見守る重要な神で、狩猟や儀式を行う際は最初に最初に祈りを捧げます。

  • アペキライ(火櫛)<br />板屋楓等の堅木の板にギザギザの切り込みが入っています。炉は神聖な場所なので、ゴミを燃やさない等の配慮の元、火櫛で灰を均して常にきれいにしておきます。<br />アペパスイ(火箸)<br />卯木や潅木で作り、寝るときは熾に灰を掛け朝の火種にしました。<br />

    アペキライ(火櫛)
    板屋楓等の堅木の板にギザギザの切り込みが入っています。炉は神聖な場所なので、ゴミを燃やさない等の配慮の元、火櫛で灰を均して常にきれいにしておきます。
    アペパスイ(火箸)
    卯木や潅木で作り、寝るときは熾に灰を掛け朝の火種にしました。

  • シントコ(漆器)<br />醸造用と酒の保管用に使用され、実務の他に祭具としても用いられました。和人との交易で移入され、漆器は宝物とみなされます。家内の漆器の数は、経済力の指標であると同時にコタンに幸運をもたらす気が強いことを意味しました。

    シントコ(漆器)
    醸造用と酒の保管用に使用され、実務の他に祭具としても用いられました。和人との交易で移入され、漆器は宝物とみなされます。家内の漆器の数は、経済力の指標であると同時にコタンに幸運をもたらす気が強いことを意味しました。

  • 熊狩り<br />狩猟の重要パートで、春先になって雪が固まり足場が良くなってから行います。写真のように岩穴を塞ぎ、冬眠から目覚めたばかりで体力が戻っていない状態の熊を毒矢で射ます。

    熊狩り
    狩猟の重要パートで、春先になって雪が固まり足場が良くなってから行います。写真のように岩穴を塞ぎ、冬眠から目覚めたばかりで体力が戻っていない状態の熊を毒矢で射ます。

  • 狩猟の服装<br />頭巾を被り、手甲をはめ、脚絆と鹿皮の靴を履き、背中に鹿皮を羽織り、防寒/機動性を確保しています。<br />※革は、鞣したものをいいます。

    狩猟の服装
    頭巾を被り、手甲をはめ、脚絆と鹿皮の靴を履き、背中に鹿皮を羽織り、防寒/機動性を確保しています。
    ※革は、鞣したものをいいます。

  • 熊の冬眠と出産<br />自然の岩穴/自分で穴を掘るといった方法もありますが、専ら木の根の下を利用した穴に入って、11~12月頃に冬籠りを始めます。寝床には笹が敷かれ、雌熊は1月下旬に出産し、5月頃には親子揃って穴を出ます。写真は水楢の下で3月頃の状態を再現しています。

    熊の冬眠と出産
    自然の岩穴/自分で穴を掘るといった方法もありますが、専ら木の根の下を利用した穴に入って、11~12月頃に冬籠りを始めます。寝床には笹が敷かれ、雌熊は1月下旬に出産し、5月頃には親子揃って穴を出ます。写真は水楢の下で3月頃の状態を再現しています。

  • 熊送り(イオマンテ)<br />熊はシンプルにカムイ(神)/キムンカムイ(山にいる神)と呼ばれ、崇められました。熊を仕留めると、その場で祭壇を築いて祈ることでカムイを神の国へ帰しました。<br />子熊は生け捕りにされ、村で大事に育てられます。捕獲した翌翌年の冬に子熊を殺すことで神の国へ帰しました。写真はマラット(頭飾りをした頭蓋骨)です。

    熊送り(イオマンテ)
    熊はシンプルにカムイ(神)/キムンカムイ(山にいる神)と呼ばれ、崇められました。熊を仕留めると、その場で祭壇を築いて祈ることでカムイを神の国へ帰しました。
    子熊は生け捕りにされ、村で大事に育てられます。捕獲した翌翌年の冬に子熊を殺すことで神の国へ帰しました。写真はマラット(頭飾りをした頭蓋骨)です。

  • 儀式を行う際は漆器に酒を注ぎ、献じます。その上にイクパスイ(捧酒箸)を載せて祈ります。捧酒箸は舌の象徴で、祈りを捧げた際に言葉で表現しきれなかった思いを補足するメッセンジャーの役割を果たし、裏面には名前が彫られ誰の祈りかがすぐわかるようになっています。<br />※アイヌは文字を持たないので、自分を表す固有の紋を彫りこみます。

    儀式を行う際は漆器に酒を注ぎ、献じます。その上にイクパスイ(捧酒箸)を載せて祈ります。捧酒箸は舌の象徴で、祈りを捧げた際に言葉で表現しきれなかった思いを補足するメッセンジャーの役割を果たし、裏面には名前が彫られ誰の祈りかがすぐわかるようになっています。
    ※アイヌは文字を持たないので、自分を表す固有の紋を彫りこみます。

  • 鹿狩り<br />春先の狩猟には、山を越えて戻ってくる鹿を弓で射る鹿狩りも重要です。矢にはトリカブトの毒を塗ります。

    鹿狩り
    春先の狩猟には、山を越えて戻ってくる鹿を弓で射る鹿狩りも重要です。矢にはトリカブトの毒を塗ります。

  • 冬~春先の生業<br />薪を採取したり、オヒョウの樹皮を採取したり(繊維に分解して糸を作り、布を織ります。)、板屋楓の樹液を採取したり(水分の多いメイプルシロップ)します。

    冬~春先の生業
    薪を採取したり、オヒョウの樹皮を採取したり(繊維に分解して糸を作り、布を織ります。)、板屋楓の樹液を採取したり(水分の多いメイプルシロップ)します。

  • 樋熊やエゾ鹿の肉は、余ったら保存食にします。湯通したものを細く切り、乾燥させて囲炉裏の煙で燻製にします。

    樋熊やエゾ鹿の肉は、余ったら保存食にします。湯通したものを細く切り、乾燥させて囲炉裏の煙で燻製にします。

  • 夏は天塩川河口へ移動して漁撈に励み、秋には名寄へ戻ります。9月にはペカンペ(ヒシの実)を採取します。粥に混ぜたり、茹でて熊の脂で和える等の食べ方があります。<br />そして川に戻ってきた鮭を捕獲します。彼らは銛などで突いて獲るので、漁ではなく漁撈と表現します。

    夏は天塩川河口へ移動して漁撈に励み、秋には名寄へ戻ります。9月にはペカンペ(ヒシの実)を採取します。粥に混ぜたり、茹でて熊の脂で和える等の食べ方があります。
    そして川に戻ってきた鮭を捕獲します。彼らは銛などで突いて獲るので、漁ではなく漁撈と表現します。

  • 実は名寄公園の池にヒシ(水草)が浮かんでいます。あと1か月で収穫です。栗のような味がするそうです。

    実は名寄公園の池にヒシ(水草)が浮かんでいます。あと1か月で収穫です。栗のような味がするそうです。

  • 小動物狩り<br />冬毛に生え変わったのを見計らい、晩秋から冬の初めにかけて罠を用いて捕獲します。交易商品となるため、毛皮を傷つけないような罠を考案しています。<br />冬季は保存食を消費します。

    小動物狩り
    冬毛に生え変わったのを見計らい、晩秋から冬の初めにかけて罠を用いて捕獲します。交易商品となるため、毛皮を傷つけないような罠を考案しています。
    冬季は保存食を消費します。

  • テシオアイヌの凋落<br />交易面でテシオアイヌは自由に行っていましたが、松前藩は交易を天塩川河口の番屋に限定し、自由に海を渡って交易することを禁じました。<br />1786年に交易を商人に請け負わせる場所請負制度が天塩場所にも適用されると、請負人の栖原角兵衛(6代目)は、利益を伸ばすために「アイヌ勘定」と呼ばれた不正な取引を行います。また場所の生産を上げるために自ら漁場を経営し、川沿いのアイヌを労働者として雇用します。アイヌは、詐欺的な借金の肩代わりとして半奴隷的労働を強いられます。こうしてアイヌの人口は半減します。彼らのライフスタイルと生活の主体性が大きく損なわれました。<br />写真は、1857年の天塩場所(和人の商圏区分)。赤丸は支流の名寄川の合流点。

    テシオアイヌの凋落
    交易面でテシオアイヌは自由に行っていましたが、松前藩は交易を天塩川河口の番屋に限定し、自由に海を渡って交易することを禁じました。
    1786年に交易を商人に請け負わせる場所請負制度が天塩場所にも適用されると、請負人の栖原角兵衛(6代目)は、利益を伸ばすために「アイヌ勘定」と呼ばれた不正な取引を行います。また場所の生産を上げるために自ら漁場を経営し、川沿いのアイヌを労働者として雇用します。アイヌは、詐欺的な借金の肩代わりとして半奴隷的労働を強いられます。こうしてアイヌの人口は半減します。彼らのライフスタイルと生活の主体性が大きく損なわれました。
    写真は、1857年の天塩場所(和人の商圏区分)。赤丸は支流の名寄川の合流点。

  • 松浦武四郎による探検(1857)<br />ロシアの南下政策が活発になった1855年に幕府は蝦夷地を直轄領とし、57年には蝦夷通の第一人者である松浦武四郎に石狩/天塩川の調査をさせます。若いころから蝦夷/千島列島/樺太を探検した実績があり、今回は一連の調査(全6回)の5回目でした。現地のアイヌを船頭/ガイドとして雇いました。<br />

    松浦武四郎による探検(1857)
    ロシアの南下政策が活発になった1855年に幕府は蝦夷地を直轄領とし、57年には蝦夷通の第一人者である松浦武四郎に石狩/天塩川の調査をさせます。若いころから蝦夷/千島列島/樺太を探検した実績があり、今回は一連の調査(全6回)の5回目でした。現地のアイヌを船頭/ガイドとして雇いました。

  • 天塩川探検は全24日の行程で、河口から8日後に名寄へ到達します。10日後には名寄川を下川まで遡っています。一転して天塩川源流を目指し、18日目には士別へ到達、1週間かけて河口まで戻ります。

    天塩川探検は全24日の行程で、河口から8日後に名寄へ到達します。10日後には名寄川を下川まで遡っています。一転して天塩川源流を目指し、18日目には士別へ到達、1週間かけて河口まで戻ります。

  • 地形の記録は詳細にわたり、現在の地名の殆どがアイヌ語の発音がルーツなのは、松浦の功績です。植物/動物/アイヌの風習に至るまで、目の前のものすべてを質問して文字や絵で記録する点では、民俗学者の先駆的存在でした。<br />※1857年に9代目栖原角兵衛は、アイヌに対する不当な仕打ちゆえに箱館奉行から戒告を受けます。1895年に業績不振で栖原屋は天塩から撤退し、三井物産が継承します。

    地形の記録は詳細にわたり、現在の地名の殆どがアイヌ語の発音がルーツなのは、松浦の功績です。植物/動物/アイヌの風習に至るまで、目の前のものすべてを質問して文字や絵で記録する点では、民俗学者の先駆的存在でした。
    ※1857年に9代目栖原角兵衛は、アイヌに対する不当な仕打ちゆえに箱館奉行から戒告を受けます。1895年に業績不振で栖原屋は天塩から撤退し、三井物産が継承します。

  • 調査結果は天塩日誌として出版されました。新政府の下では「北海道」という名称の名付け親になります。アイヌへの尊敬を忘れない人柄でした。<br />1872(M5)年に、開拓使の佐藤正克が名寄盆地周辺を調査し、アイヌの助けを借りて越冬に成功します。<br />1894(M27)年には、北海道庁の興津寅亮が天塩川流域の入植可能地を調査しています。1895年には、天塩川河口の天塩村に戸長役場が設置されます。

    調査結果は天塩日誌として出版されました。新政府の下では「北海道」という名称の名付け親になります。アイヌへの尊敬を忘れない人柄でした。
    1872(M5)年に、開拓使の佐藤正克が名寄盆地周辺を調査し、アイヌの助けを借りて越冬に成功します。
    1894(M27)年には、北海道庁の興津寅亮が天塩川流域の入植可能地を調査しています。1895年には、天塩川河口の天塩村に戸長役場が設置されます。

  • 和人の入植(1900~)<br />当初は屯田兵村とする予定でしたが、1899年に屯田兵制度が廃止され、名寄は移民招致区域に指定されます。1900年に山形団体13戸を皮切りに、年内に相馬(福島)団体/木原農場が入植します。1901年には越中団体/新潟団体/熊本団体/岐阜団体/徳田農場が入植します。大まかな特徴は、豪雪地帯で一年の寒暖差が大きい地域から入植していることです。名寄盆地は、上記の自然条件を反映した土地でした。

    和人の入植(1900~)
    当初は屯田兵村とする予定でしたが、1899年に屯田兵制度が廃止され、名寄は移民招致区域に指定されます。1900年に山形団体13戸を皮切りに、年内に相馬(福島)団体/木原農場が入植します。1901年には越中団体/新潟団体/熊本団体/岐阜団体/徳田農場が入植します。大まかな特徴は、豪雪地帯で一年の寒暖差が大きい地域から入植していることです。名寄盆地は、上記の自然条件を反映した土地でした。

  • 入植の背景<br />明治になって生計手段を失った士族階級の授産、小作制度で貸与された土地は狭く次男/三男の分家は不可能だったため、自然災害で甚大な被害を受けた地域住民が再起を図るため、以上の3つが大きな要素でした。開拓団には土地が無償で貸与され、免税措置もあり、5年後に一定水準以上の開墾実績があれば、その土地を所有することができました。<br />写真は、1906年の越中開拓団。

    入植の背景
    明治になって生計手段を失った士族階級の授産、小作制度で貸与された土地は狭く次男/三男の分家は不可能だったため、自然災害で甚大な被害を受けた地域住民が再起を図るため、以上の3つが大きな要素でした。開拓団には土地が無償で貸与され、免税措置もあり、5年後に一定水準以上の開墾実績があれば、その土地を所有することができました。
    写真は、1906年の越中開拓団。

  • 鉄道開通(1903)<br />士別から鉄道が伸張し、名寄は活気を得ます。市街予定地は道路が引かれたばかりの状態でしたが、商店等が入居します。天塩川の水運も、駅の西側に船着場があり、物流の中心は市街になります。

    鉄道開通(1903)
    士別から鉄道が伸張し、名寄は活気を得ます。市街予定地は道路が引かれたばかりの状態でしたが、商店等が入居します。天塩川の水運も、駅の西側に船着場があり、物流の中心は市街になります。

  • 農家は自給が先決でしたが、鉄道が開通すると商品作物へシフトして行きます。菜種/小麦/燕麦/大豆/小豆が栽培されるようになります。<br />貧しい中でも教育が重視され、寺子屋から始まって簡易教育所が設立されます。土地や校舎建設/学校の運営に資金が注がれました。

    農家は自給が先決でしたが、鉄道が開通すると商品作物へシフトして行きます。菜種/小麦/燕麦/大豆/小豆が栽培されるようになります。
    貧しい中でも教育が重視され、寺子屋から始まって簡易教育所が設立されます。土地や校舎建設/学校の運営に資金が注がれました。

  • 写真は西4条通り(現R40)で、上から1901/1902/1907/1911年です。<br />行政的には、1899年に上名寄村が出来、戸長役場が剣淵村に設置されます。1902年には村内に戸長役場が移転します。<br />※下名寄村は、後に美深村(現美深町)に改称されます。

    写真は西4条通り(現R40)で、上から1901/1902/1907/1911年です。
    行政的には、1899年に上名寄村が出来、戸長役場が剣淵村に設置されます。1902年には村内に戸長役場が移転します。
    ※下名寄村は、後に美深村(現美深町)に改称されます。

  • 林業<br />名寄川上流では林業が盛んになり、名寄川を流れる原木が名寄駅の貯木場へ集められ、鉄道で全国へ運ばれました。名寄では1907年頃から木工所ができ始め、原木を材木に加工しました。<br />写真は上流部で、1924年に下川村(現下川町)として上名寄町から独立します。

    林業
    名寄川上流では林業が盛んになり、名寄川を流れる原木が名寄駅の貯木場へ集められ、鉄道で全国へ運ばれました。名寄では1907年頃から木工所ができ始め、原木を材木に加工しました。
    写真は上流部で、1924年に下川村(現下川町)として上名寄町から独立します。

  • 木材加工業<br />一番古いのはドロの木を原料とするマッチの製軸工場で、1909年に北一木工所が機械設備を備えた工場として創業し始めます。赤松/水楢等は住宅材、トドマツ/エゾマツは線路の枕木、松類の丸太は炭鉱坑道の坑内枠材となりました。<br />写真は名寄駅貯木場

    木材加工業
    一番古いのはドロの木を原料とするマッチの製軸工場で、1909年に北一木工所が機械設備を備えた工場として創業し始めます。赤松/水楢等は住宅材、トドマツ/エゾマツは線路の枕木、松類の丸太は炭鉱坑道の坑内枠材となりました。
    写真は名寄駅貯木場

  • 天塩川水運<br />海外輸出用の木材は、天塩川河口まで筏にして流され(写真)、船で日本海から出荷されました。1910年頃がピークでした。

    天塩川水運
    海外輸出用の木材は、天塩川河口まで筏にして流され(写真)、船で日本海から出荷されました。1910年頃がピークでした。

  • 名寄の発展<br />丘陵地帯では良質な粘土が産出し、1910年に館脇レンガ工場/1911年に久保組レンガ工場が創業し、倉庫や橋脚建設に使用されます。1915年には町制が施行され、上名寄町が誕生します。一級町村に属し、財政的に自立できるしっかりとした基盤を持っていることを意味します。

    名寄の発展
    丘陵地帯では良質な粘土が産出し、1910年に館脇レンガ工場/1911年に久保組レンガ工場が創業し、倉庫や橋脚建設に使用されます。1915年には町制が施行され、上名寄町が誕生します。一級町村に属し、財政的に自立できるしっかりとした基盤を持っていることを意味します。

  • 交通都市<br />1919年に下川まで鉄道が開通し、1921年には遠軽まで伸張し、旭川~北見/網走を結ぶ名寄本線の基点として鉄道の要所となります。機関区が出来、町に貢献します。<br />※1932年に石北本線が全通します。

    交通都市
    1919年に下川まで鉄道が開通し、1921年には遠軽まで伸張し、旭川~北見/網走を結ぶ名寄本線の基点として鉄道の要所となります。機関区が出来、町に貢献します。
    ※1932年に石北本線が全通します。

  • 1924年には、稚内まで線路が繋がり、名寄は交通の十字路となります。写真は、当時の駅前の様子。

    1924年には、稚内まで線路が繋がり、名寄は交通の十字路となります。写真は、当時の駅前の様子。

  • 開拓者の家屋<br />1910年代から戦後にかけて、高温多湿の夏を快適に過ごすことを考えて設計された本州の家屋と同じ構造でした。違いは屋根が瓦で覆われず、柾であることです。

    開拓者の家屋
    1910年代から戦後にかけて、高温多湿の夏を快適に過ごすことを考えて設計された本州の家屋と同じ構造でした。違いは屋根が瓦で覆われず、柾であることです。

  • ストーブ<br />明治期は火鉢や囲炉裏等、局所を温める暖房器具でした。大正以降は、ストーブで部屋全体を温める全体暖房へ変化します。とはいえ窓ガラスは一重、床から寒気が入り、熱の多くが外へ逃げて行きました。燃料は薪/石炭と変化していきます。

    ストーブ
    明治期は火鉢や囲炉裏等、局所を温める暖房器具でした。大正以降は、ストーブで部屋全体を温める全体暖房へ変化します。とはいえ窓ガラスは一重、床から寒気が入り、熱の多くが外へ逃げて行きました。燃料は薪/石炭と変化していきます。

  • 1960年代後以降の家屋<br />北海道の気候に対応した造りに変化します。屋根は柾木から金属板へ、壁は板張りからモルタル塗りへ、度合いも基礎の外側を巡らす布コンクリになります。窓は二重、サッシはアルミになります。

    1960年代後以降の家屋
    北海道の気候に対応した造りに変化します。屋根は柾木から金属板へ、壁は板張りからモルタル塗りへ、度合いも基礎の外側を巡らす布コンクリになります。窓は二重、サッシはアルミになります。

  • 熱を遮る断熱材が使用されます。

    熱を遮る断熱材が使用されます。

  • ストーブの熱源は石油に代わります。<br />余熱で給湯する装置などが、地元で製作されます。

    ストーブの熱源は石油に代わります。
    余熱で給湯する装置などが、地元で製作されます。

  • 除雪<br />国鉄の駅員が発明し、1940年代に構内の除雪に使用した雪押しが家庭にも普及し、ママさんダンプ/スノーダンプなどと呼ばれます。

    除雪
    国鉄の駅員が発明し、1940年代に構内の除雪に使用した雪押しが家庭にも普及し、ママさんダンプ/スノーダンプなどと呼ばれます。

  • スキーの普及<br />1913年に法弘寺住職が、かんじきの代わりにスキーを履いて檀家を回ったのが始まりで、彼がスキー大会を開いて普及に貢献しました。

    スキーの普及
    1913年に法弘寺住職が、かんじきの代わりにスキーを履いて檀家を回ったのが始まりで、彼がスキー大会を開いて普及に貢献しました。

  • 昭和になると木材資源を背景にスキー板製造が始まり、名寄は道内5大生産地の一つとして、1960年代まで製造されました。

    昭和になると木材資源を背景にスキー板製造が始まり、名寄は道内5大生産地の一つとして、1960年代まで製造されました。

  • キマロキ編成<br />通常の除雪はラッセル車で線路上の雪を両脇へ流しますが、雪壁が高くなるとラッセル車では用が足せなくなります。豪雪地帯では、蒸気機関車/マックレー車/ロータリー車/蒸気機関車を繋げた除雪列車を運行しました。

    キマロキ編成
    通常の除雪はラッセル車で線路上の雪を両脇へ流しますが、雪壁が高くなるとラッセル車では用が足せなくなります。豪雪地帯では、蒸気機関車/マックレー車/ロータリー車/蒸気機関車を繋げた除雪列車を運行しました。

  • マックレー車<br />両側のウィングを伸ばして幅7.75mの範囲の雪を掻き寄せ、雪壁を崩します。壁のキの字は、雪掻き車を意味するそうです。

    マックレー車
    両側のウィングを伸ばして幅7.75mの範囲の雪を掻き寄せ、雪壁を崩します。壁のキの字は、雪掻き車を意味するそうです。

  • ロータリー車<br />マックレー車で掻き寄せた雪を回転羽で30m以上先まで跳ね飛ばします。

    ロータリー車
    マックレー車で掻き寄せた雪を回転羽で30m以上先まで跳ね飛ばします。

  • ロータリー車の操作部分

    ロータリー車の操作部分

  • ロータリー車は、羽を回転させるための蒸気ボイラーと炭水貯蔵室を持ち、蒸気機関車と同じ構造です。

    ロータリー車は、羽を回転させるための蒸気ボイラーと炭水貯蔵室を持ち、蒸気機関車と同じ構造です。

  • 戦後の名寄<br />1956年に市制を施行します。最大の雇用先は陸自名寄駐屯地(最北)で、1600名の隊員を含む4000名以上が家族/退役者として生活しています。人口のピークは1968年で僅かに40000人には届きませんでした。写真は名寄機関区を含む駅構内図。<br />※旧ソ連/ロシアに面した最前線のために、かなり充実した駐屯地です。

    戦後の名寄
    1956年に市制を施行します。最大の雇用先は陸自名寄駐屯地(最北)で、1600名の隊員を含む4000名以上が家族/退役者として生活しています。人口のピークは1968年で僅かに40000人には届きませんでした。写真は名寄機関区を含む駅構内図。
    ※旧ソ連/ロシアに面した最前線のために、かなり充実した駐屯地です。

  • 凋落<br />1989年に名寄本線/1995年に深名線が廃止され、名寄駅は宗谷本線のみとなります。機関庫も1987年に撤去され、殺伐とした構内です。現在は、博物館近くに王子製紙系列の工場があります。

    凋落
    1989年に名寄本線/1995年に深名線が廃止され、名寄駅は宗谷本線のみとなります。機関庫も1987年に撤去され、殺伐とした構内です。現在は、博物館近くに王子製紙系列の工場があります。

  • 名寄駅周辺には100円ショップやスーパーがあり、士別よりも都会だと感じます。

    名寄駅周辺には100円ショップやスーパーがあり、士別よりも都会だと感じます。

  • 帰りは、道北バスで旭川を目指します。

    帰りは、道北バスで旭川を目指します。

  • 雨の後の虹が素敵でした。

    雨の後の虹が素敵でした。

  • おまけ<br />下川町までは、名士バスが走っています。道中の車窓は、日本有数のもち米産地であることを感じさせます。名寄本線下川駅跡には、ちょっとした展示があります。

    おまけ
    下川町までは、名士バスが走っています。道中の車窓は、日本有数のもち米産地であることを感じさせます。名寄本線下川駅跡には、ちょっとした展示があります。

    名寄本線下川駅跡 にぎわいの広場 名所・史跡

  • 乳製品の新鮮さが半端ないお店

    乳製品の新鮮さが半端ないお店

    やない菓子舗 グルメ・レストラン

  • 旧下川営林署庁舎

    旧下川営林署庁舎

    恵林館 名所・史跡

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