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印象派を代表する画家のひとりであるクロード・モネの絵画展、『モネ 睡蓮のとき』が開催されている京都市京セラ美術館を訪れた帰り道、高瀬川と並行する木屋町通をぶらり散歩してきました。<br /><br />高瀬川は、二条通と伏見を結ぶ水上交通の大動脈として、慶長16年(1611年)から3年かけて開削された運河で、高瀬舟を使った水運に利用されました。<br /><br />このため、高瀬川には二条通から四条通にかけて9カ所の船入(船着場)が設けられましたが、現在、その姿をとどめているのは起点となる高瀬川一之船入跡のみで、他の船入跡には石標が立てられています。<br /><br />高瀬川の開削に伴って開通した木屋町通は、幕末には勤皇の志士たちと新撰組など幕府側との争いが繰り返された所で、歴史上著名な人物の足跡にまつわる石碑や石標などが随所に立てられています。

2025 木屋町通散歩

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2025/04/24 - 2025/04/24

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nao

naoさん

印象派を代表する画家のひとりであるクロード・モネの絵画展、『モネ 睡蓮のとき』が開催されている京都市京セラ美術館を訪れた帰り道、高瀬川と並行する木屋町通をぶらり散歩してきました。

高瀬川は、二条通と伏見を結ぶ水上交通の大動脈として、慶長16年(1611年)から3年かけて開削された運河で、高瀬舟を使った水運に利用されました。

このため、高瀬川には二条通から四条通にかけて9カ所の船入(船着場)が設けられましたが、現在、その姿をとどめているのは起点となる高瀬川一之船入跡のみで、他の船入跡には石標が立てられています。

高瀬川の開削に伴って開通した木屋町通は、幕末には勤皇の志士たちと新撰組など幕府側との争いが繰り返された所で、歴史上著名な人物の足跡にまつわる石碑や石標などが随所に立てられています。

同行者
一人旅
交通手段
私鉄 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
  • この日は、印象派を代表する画家のひとりであるクロード・モネの絵画展、『モネ 睡蓮のとき』を観賞するため京都市京セラ美術館を訪れます。

    この日は、印象派を代表する画家のひとりであるクロード・モネの絵画展、『モネ 睡蓮のとき』を観賞するため京都市京セラ美術館を訪れます。

  • 京都市営地下鉄東西線の東山駅から、白川筋を歩いて京都市京セラ美術館を目指します。

    京都市営地下鉄東西線の東山駅から、白川筋を歩いて京都市京セラ美術館を目指します。

  • 平安神宮の大鳥居が見えてきたので、京都市京セラ美術館までもう少しです。

    平安神宮の大鳥居が見えてきたので、京都市京セラ美術館までもう少しです。

  • 京都市京セラ美術館に着きました。<br /><br />では、モネの世界にどっぷりと浸ってきます。

    京都市京セラ美術館に着きました。

    では、モネの世界にどっぷりと浸ってきます。

  • 『モネ 睡蓮のとき』鑑賞のひと時を過ごした後、美術館裏の日本庭園に咲いている藤の花を見に来ました。

    『モネ 睡蓮のとき』鑑賞のひと時を過ごした後、美術館裏の日本庭園に咲いている藤の花を見に来ました。

  • 満開の今が一番の見頃です。

    満開の今が一番の見頃です。

  • 藤の花を前に、皆さんシャッターを切るのに余念がありません。<br /><br />もちろん私もその内の一人ではありますが・・・。

    藤の花を前に、皆さんシャッターを切るのに余念がありません。

    もちろん私もその内の一人ではありますが・・・。

  • 日本庭園からエントランス側へ移動してきました。<br /><br />2017年から2020年にかけて行われた大規模改修で大きく生まれ変わったのが以前の正面玄関部分で、地下にエントランスを移動させることで、すり鉢状の広場「京セラスクエア」や、元の建物と融合したガラスのファサード「ガラス・リボン」が新設されました。

    日本庭園からエントランス側へ移動してきました。

    2017年から2020年にかけて行われた大規模改修で大きく生まれ変わったのが以前の正面玄関部分で、地下にエントランスを移動させることで、すり鉢状の広場「京セラスクエア」や、元の建物と融合したガラスのファサード「ガラス・リボン」が新設されました。

  • 旧正面玄関の重厚な外観を維持しつつ、新たにその地下に「ガラス・リボン」を設けてエントランスを移動させています。

    旧正面玄関の重厚な外観を維持しつつ、新たにその地下に「ガラス・リボン」を設けてエントランスを移動させています。

  • では、京都市京セラ美術館をあとに木屋町通へ向かいます。

    では、京都市京セラ美術館をあとに木屋町通へ向かいます。

  • 二条大橋東詰めの川端二条交差点まで移動してきました。

    二条大橋東詰めの川端二条交差点まで移動してきました。

  • 鴨川では、京都の夏の風物詩「鴨川納涼床」の準備が進められています。<br /><br />「鴨川納涼床」の期間中は、二条大橋から五条大橋までの約2kmの間に、約80軒の飲食店が高床式の座敷を連ねます。

    鴨川では、京都の夏の風物詩「鴨川納涼床」の準備が進められています。

    「鴨川納涼床」の期間中は、二条大橋から五条大橋までの約2kmの間に、約80軒の飲食店が高床式の座敷を連ねます。

  • 二条通と木屋町通が交わる西側角にあるのは、「島津製作所創業記念資料館」です。

    二条通と木屋町通が交わる西側角にあるのは、「島津製作所創業記念資料館」です。

  • ここは、ノーベル賞受賞者をも生んだ世界的な計測器・精密機器メーカーである島津製作所の創業地で、当地で仏具の鋳物業を営んでいた島津源蔵が明治8年(1875年)に理化学器械製造業を興したのが始まりとのことです。

    ここは、ノーベル賞受賞者をも生んだ世界的な計測器・精密機器メーカーである島津製作所の創業地で、当地で仏具の鋳物業を営んでいた島津源蔵が明治8年(1875年)に理化学器械製造業を興したのが始まりとのことです。

  • 「島津製作所創業記念資料館」は南棟と北棟の二棟からなっていて、大正8年(1919年)まで当主の住居兼店舗として使われていたそうです。

    「島津製作所創業記念資料館」は南棟と北棟の二棟からなっていて、大正8年(1919年)まで当主の住居兼店舗として使われていたそうです。

  • 「角倉了以別邸跡」の石標。<br /><br />角倉了以は私財を投じて高瀬川を開削した人物です。

    「角倉了以別邸跡」の石標。

    角倉了以は私財を投じて高瀬川を開削した人物です。

  • 二条通から四条通にかけて9カ所設けられた船入(船着場)の内、唯一現存する高瀬川一之船入跡です。

    二条通から四条通にかけて9カ所設けられた船入(船着場)の内、唯一現存する高瀬川一之船入跡です。

  • 高瀬川の水深は約30cmほどだったので、物資や人の運搬には底の浅い高瀬舟が使われていました。<br /><br />ちなみに、これに由来して高瀬川と名付けられたそうです。

    高瀬川の水深は約30cmほどだったので、物資や人の運搬には底の浅い高瀬舟が使われていました。

    ちなみに、これに由来して高瀬川と名付けられたそうです。

  • 一之船入に面して建つ町家。

    一之船入に面して建つ町家。

  • 「高瀬川一之船入」の石碑。

    「高瀬川一之船入」の石碑。

  • 高瀬川に架かる押小路橋。

    高瀬川に架かる押小路橋。

  • 高瀬川に面する茶室と思われる数寄屋建築。

    高瀬川に面する茶室と思われる数寄屋建築。

  • ハナミズキの下に「兵部大輔従三位大村益次郎公遺址」と刻まれた石標が見えます。<br /><br />長州(山口県)出身の大村益次郎は幕末から明治にかけての兵学者で、明治2年(1869年)に明治新政府の初代兵部大輔(ひょうぶだいゆう)に任ぜられ、近代的な軍隊の確立に努めた人物であるとされています。<br /><br />しかし、反対派の元長州藩士らに襲われて死亡しますが、この石標は大村益次郎が襲撃された宿所の跡に立てられたものだそうです。

    ハナミズキの下に「兵部大輔従三位大村益次郎公遺址」と刻まれた石標が見えます。

    長州(山口県)出身の大村益次郎は幕末から明治にかけての兵学者で、明治2年(1869年)に明治新政府の初代兵部大輔(ひょうぶだいゆう)に任ぜられ、近代的な軍隊の確立に努めた人物であるとされています。

    しかし、反対派の元長州藩士らに襲われて死亡しますが、この石標は大村益次郎が襲撃された宿所の跡に立てられたものだそうです。

  • こちらは「大村益次郎卿遭難之碑」です。<br /><br />「兵部大輔従三位大村益次郎公遺址」の石標の、高瀬川を挟んだ対岸に立っています。

    こちらは「大村益次郎卿遭難之碑」です。

    「兵部大輔従三位大村益次郎公遺址」の石標の、高瀬川を挟んだ対岸に立っています。

  • こちらは「大村益次郎卿遭難之碑」の隣に立っている「象山先生遭難之碑」です。<br /><br />佐久間象山は信濃(長野県)松代藩士の思想家で、江戸に開いた「五月塾」から勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬ら俊才を輩出しています。<br /><br />しかし、開国論を唱えて公武合体策を進めていたため、元治元年(1864)に刺客によって斬殺されてしまいました。

    こちらは「大村益次郎卿遭難之碑」の隣に立っている「象山先生遭難之碑」です。

    佐久間象山は信濃(長野県)松代藩士の思想家で、江戸に開いた「五月塾」から勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬ら俊才を輩出しています。

    しかし、開国論を唱えて公武合体策を進めていたため、元治元年(1864)に刺客によって斬殺されてしまいました。

  • 「高瀬川二之船入」の石標。

    「高瀬川二之船入」の石標。

  • 御池橋の欄干。<br /><br />この御池橋から河原町通に至る間には、加賀藩(石川県)の藩邸があったそうです。

    御池橋の欄干。

    この御池橋から河原町通に至る間には、加賀藩(石川県)の藩邸があったそうです。

  • 「高瀬川三之船入」の石標。

    「高瀬川三之船入」の石標。

  • コインパーキングの入口に「佐久間象山寓居の跡」の石標が見えます。

    コインパーキングの入口に「佐久間象山寓居の跡」の石標が見えます。

  • 佐久間象山は最後の住まいとなったこの地への帰途、刺客によって斬殺されてしまいます。

    佐久間象山は最後の住まいとなったこの地への帰途、刺客によって斬殺されてしまいます。

  • 花筏が高瀬川の川面を流れています。

    花筏が高瀬川の川面を流れています。

  • 「徳川時代対馬宗氏屋敷跡」と「桂小五郎寓居跡」の石標。<br /><br />対馬宗氏は対馬国(長崎県)の対馬府中藩主で、江戸時代を通じて徳川幕府が唯一正式な国交を持っていた朝鮮との外交や貿易業務を担っていたそうです。<br /><br />長州藩士(山口県)だった桂小五郎は、慶応元年(1865年)に藩主より「木戸」姓を賜り木戸孝允と改名、明治維新の元勲として、大久保利通、西郷隆盛とともに維新の三傑の一人に数えられるまでになります。<br /><br />長州藩主毛利家と縁戚関係にあった対馬宗氏は、長州藩の政治活動の重要な協力者となったこともあって、毛利家臣の桂小五郎は対馬宗氏の屋敷を居所のひとつとしました。<br /><br />ちなみに、元治元年(1864年)の新選組による池田屋襲撃の際、屋根を伝って脱出した桂は対馬屋敷に逃れて難を免れています。

    「徳川時代対馬宗氏屋敷跡」と「桂小五郎寓居跡」の石標。

    対馬宗氏は対馬国(長崎県)の対馬府中藩主で、江戸時代を通じて徳川幕府が唯一正式な国交を持っていた朝鮮との外交や貿易業務を担っていたそうです。

    長州藩士(山口県)だった桂小五郎は、慶応元年(1865年)に藩主より「木戸」姓を賜り木戸孝允と改名、明治維新の元勲として、大久保利通、西郷隆盛とともに維新の三傑の一人に数えられるまでになります。

    長州藩主毛利家と縁戚関係にあった対馬宗氏は、長州藩の政治活動の重要な協力者となったこともあって、毛利家臣の桂小五郎は対馬宗氏の屋敷を居所のひとつとしました。

    ちなみに、元治元年(1864年)の新選組による池田屋襲撃の際、屋根を伝って脱出した桂は対馬屋敷に逃れて難を免れています。

  • 「武市瑞山先生寓居之跡」の石標。<br /><br />武市瑞山(通称:武市半平太)は、坂本龍馬とは遠縁にあたる土佐藩郷士で、土佐勤王党を結成して京都における尊皇攘夷運動の中心的役割を担った人物です。

    「武市瑞山先生寓居之跡」の石標。

    武市瑞山(通称:武市半平太)は、坂本龍馬とは遠縁にあたる土佐藩郷士で、土佐勤王党を結成して京都における尊皇攘夷運動の中心的役割を担った人物です。

  • 「高瀬川四之船入」の石標。

    「高瀬川四之船入」の石標。

  • こちらは静岡の小さなケーキショップとしてスタートした人気洋菓子店の京都店。<br /><br />高瀬川に面するマンションの1階に入っています。

    こちらは静岡の小さなケーキショップとしてスタートした人気洋菓子店の京都店。

    高瀬川に面するマンションの1階に入っています。

  • 三条通に面するこちらの建物は、安藤忠雄さん設計の「タイムズビル」です。

    三条通に面するこちらの建物は、安藤忠雄さん設計の「タイムズビル」です。

  • この日は「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭」の会場の一つになっていました。

    この日は「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭」の会場の一つになっていました。

  • テラスの床は、高瀬川の水面から20cmの高さで設計されています。

    テラスの床は、高瀬川の水面から20cmの高さで設計されています。

  • テラスを繋ぐ階段。

    テラスを繋ぐ階段。

  • 「坂本龍馬寓居之趾」の石標。<br /><br />土佐藩脱藩浪士の坂本龍馬は、近江屋で襲撃される直前までこちらの酢屋嘉兵衛宅に身を寄せていたそうです。

    「坂本龍馬寓居之趾」の石標。

    土佐藩脱藩浪士の坂本龍馬は、近江屋で襲撃される直前までこちらの酢屋嘉兵衛宅に身を寄せていたそうです。

  • 玄関先には、「坂本龍馬史蹟之一端」や「海援隊京都本部の名簿」などが板書された額が掲げられています。

    玄関先には、「坂本龍馬史蹟之一端」や「海援隊京都本部の名簿」などが板書された額が掲げられています。

  • 「高瀬川五之船入」の石標。

    「高瀬川五之船入」の石標。

  • 川風になびく柳の枝。

    川風になびく柳の枝。

  • 「彦根藩邸跡」の石標。<br /><br />この山崎橋から河原町通に至る間には、桜田門外の変に倒れた江戸幕府大老井伊直弼で知られる彦根藩(滋賀県)の藩邸があったそうです。

    「彦根藩邸跡」の石標。

    この山崎橋から河原町通に至る間には、桜田門外の変に倒れた江戸幕府大老井伊直弼で知られる彦根藩(滋賀県)の藩邸があったそうです。

  • 「高瀬川六之船入」の石標。

    「高瀬川六之船入」の石標。

  • 「高瀬川七之船入」の石標。

    「高瀬川七之船入」の石標。

  • 「土佐藩邸跡」の石標。<br /><br />この蛸薬師橋から河原町通に至る元立誠小学校あたりには、土佐藩(高知県)の藩邸があったそうです。

    「土佐藩邸跡」の石標。

    この蛸薬師橋から河原町通に至る元立誠小学校あたりには、土佐藩(高知県)の藩邸があったそうです。

  • 「高瀬川八之船入」の石標。

    「高瀬川八之船入」の石標。

  • 「高瀬川九之船入」の石標。

    「高瀬川九之船入」の石標。

  • 少し先に四条通が見えてきたので、これで木屋町通散歩を終わります。

    少し先に四条通が見えてきたので、これで木屋町通散歩を終わります。

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