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《2025.May》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのLVIII守山・草津~湖国の藤名所を訪ねて編~<br /><br />桜は終わった~藤はまだかいな?とのう天気にGW&5月を迎えるはずが…まさかの非常事態の発生。4月27日に法事のために京都へ行った帰り、食事を摂っていたうどん屋で車のナンバーを呼ばれる。なんやねん(怒)と怒り心頭で車へと戻るとまさかの接触事故。それも相手はC国人、それも営業ナンバーと来た。所有者を呼ぶ前に警察だろう…と思うもどうも埒が明かない。警察を呼んで事故届を出すも、任意保険書のコピーがない…。それで保険使いますとは良く言えた。というより不信感maxになった私は、車体番号を確認するためにエンジンルームを開けさせる。そして車検証並びに自賠責保険の契約者。ハイヤーの届けがなされている〝なにわ〟ナンバーの〝ハイエース〟がなんのために回送で京都に来ているねん!!と思いながらも相手に悟られず、その企業名を検索。案の定〝営業許可〟を取っていない会社とくれば、最近問題の〇タクか…。その内食事を食べ終わった妹と変わり、急いでうどんをかき込んだ。その際〇タクのことを告げると、先ほどまで喧しかった両脇の団体まで消えて行った。結論〇タク問題は他人事にあらず、あなたの隣も実は…ということを痛感する。取り敢えずこちらは修理が出来れば問題ないので、仕方なしに自宅へと戻る。翌日保険屋からの電話があったので、取り敢えずディーラーに入庫する旨を伝え、その日を決めようとするがGWは4月28日から5月2日までが休みだという。保険屋からは連絡入れておくのでいつでも入庫下さいとのことであったため、3日に連絡後車を掘り込むために滋賀日産へと向かう。よく見ると思った以上に変形しており、状況によっては1ヶ月程かかるかも知れないと告げられる。まーさん所有の車なので、通勤時に車が必要であるため代車は出る。それを暫く店内で待っていると、やって来たのは新型のNOTE。多分まーさんは今まで通りの運転ができないために、こちらが〝控え車〟になることを察する。こんな経緯があったが車が手に入ったので早速GW最初で最後のドライブに出かけることにした。行き先は滋賀県の藤の名所で知られる草津と守山。しかし道路が混雑している影響で時間通りに走ることが出来ない。最初の目的地に設定した〝天台真盛宗世野山上漸院観音寺〟に到着できたのは17:00閉門の僅か5分前。見ることもできないか…と思いながら掃除をされている御住職に声をかけると、まさかのOK!の返事。寺の由来話やつい最近判明した明智光秀公の重臣の一人であり五宿老の一人でもある〝藤田伝五行政〟公ゆかりの寺であることまで多種多岐に及んだ。令和2(2020)年の大河ドラマ〝麒麟がくる〟で主君明智光秀が大きく取り上げられた。御住職も北氏はしていたもののやはり…と考えていた観音寺所縁の〝藤田伝五行政〟を徳重聡が演じて紹介されると一気に〝所縁〟に火が付いたそう。藤田伝五顕彰実行委員会も結成され、戦国武将藤田伝五を有名に!という活動も行われていることまでお聞きした。中興以降の寺の歴史を聞いていても明智光秀所縁の場所が出て来るために、今の守山周辺を領していた藤田伝五所縁の寺としても不思議ではない。歴史に答えはない。街興しの一環として活動して頂き、所縁の寺〝ブランド〟が上がることを期待する。そんな御住職のお人柄に触れて、ふと思った閉門時間後に訪れた非常識な観光客約一名はそう思ったのであった。<br /><br />そんな感じで小一時間も滞在してしまったが、最後に御住職にお礼を言って観音寺を後にする。とは言っても次の目的地は観音寺山門前の〝源頼朝公植樹伝説の藤棚〟であった。平治の乱で敗れた源頼朝が東国へと落ちる際にこの地の当山を訪れ、山門脇に藤杖を挿し、源氏の再起を祈願したところ、冬の最中にも拘らず藤の芽が出てきたと言う。これを〝観音様のお励ましに違いない〟と勢い付いた頼朝は、やがて平家を打倒し征夷大将軍に任ぜられ鎌倉幕府を開いたことは史実通りである。東国へと落ちて行く途中の頼朝にとって〝苦しい時の神頼み〟的な象徴となったこの〝藤伝説〟に対して〝観音様の大恩に報わん〟とし、数町の田畑と大伽藍を寄進されると共に源氏の家紋笹竜胆を寺紋として使用する旨を許諾したとされている。その契機になった藤が〝近江録名藤〟として山門前に現存していることを以前に見分し、いつか機会を経て訪れたいと考えていた場所であった。正直なところ〝藤〟を掲げる神社仏閣ならば〝藤〟があって、建物があると言っても過言ではない位藤の花のインパクトが強い。また私自身が今までに見て来た〝藤の寺〟〝藤の神社〟とも確かにそうであった。しかしこの〝源頼朝公植樹伝説の藤棚〟に関して言うならば、これが〝それ〟であることを知らなければ通り過ぎかねないモノであることを先に行っておく。参道にあるとは書かれてはいても、実際には近隣の住人が利用する道路であり、参道とは言い難い。故に〝山門の外〟と記されていれば気付く者も増えるのではないかと思える。<br /><br />小さな藤棚の中には確かに〝近江録名藤〟と刻まれた石柱があり、その脇から藤の木が生えているように見えた。規模が小さいだけに日の当たり方が違うようで、道路に面した藤の花には見頃過ぎのものもあるにはあった。しかし直射日光が当たっていない藤の房はまだ健全で、しっかりと藤の花を咲かせて歴史を語っているように見えた。比較的長寿と言われる藤の木でも1000年の歴史は…とも思えなくはないが、そこは頼朝さんの気持ちが乗り移った〝藤の杖〟から冬にも拘らず芽吹いた伝承を妄想してロマンを感じるのも有かな?とも思ってしまったりもする。<br /><br />やはり歴史はロマンあってのものであり、人の心でいくらでも大きくすることは可能であるのだから…と思いながら暫しの時間で藤の花を堪能し、次の藤巡り会場を目指した私であった。<br /><br />慣れないNOTEクンを走らせること15分、草津市に入り志那中町へと進む。住宅地に入って車を停める場所を右往左往し、訪れたのは惣社神社であった。旧郷社格の惣社神社は4年前に一度訪れたことがある。その時は〝志那三郷の藤〟を巡るためと記しているが、やはり今回と同じように〝駐車場探し〟で悩んでいる。確かここに停めた…と記憶している〝看板下〟に目一杯壁に寄せて助手席側から車外へと出て、急いで参拝する。境内の〝惣社神社の大藤〟は健在で、時期も前回同様タイミングが良かったこともあり、日暮れ間近ながら〝大藤の藤棚〟を満喫することが出来た。普段は無住のようではあるが、志那三郷の藤まつりの際には御朱印等も頂けるとは記されてはいた。しかし時間は既に18:30、私の外に参拝客も見当たらない頃故に人影も見当たらない。こちらを訪れる際には他の参拝客を見たことが無いように記憶しているのだが、元々車では訪れにくい場所であることもその理由のひとつであろう。決して観光客に媚びずあくまで〝集落の氏神様〟で居続ける古社という立ち位置を貫き通すことも、観光地化した神社仏閣が面白くないという印象を与え、参拝客が減っている今日だからこそ、大藤の名所である惣社神社という〝知名度〟はそれなりにあるにも拘らず、住民の方々が大藤の下に備えられた椅子に座って世間話をする姿が〝当たり前〟という印象を醸し出せる憩いの場と化しているところにより〝存在感〟が増しているようにも思えなくもない。あとで知った話ではあるがどうやら〝志那三郷の藤巡り〟をするには、基本三大神社の駐車場に車を停めて〝歩いて行く〟というスタンスを主催されている〝大藤保存会〟が勧めているらしい。この三社の立地を考えれば確かにこの〝巡り方〟が効率的で尚且つ神社を取り巻く〝景色〟を楽しみながら散策できることはすぐに理解できた。ただやはり〝時間的な余裕〟がなければ、手っ取り早く車で巡ろうと安易に考えてしまうのだろう。前回同様今回も私自身が同じ間違いをした。理由は所用のため出発が遅くなったということもあるが、やはりゆっくりと歩いて回れる時間に参拝することを心掛けるのが必要である。次は何年先に参拝できるのかはわからないが、二回の失敗で得た知識を生かせたいと思った私であった。因みに惣社神社の大藤は伝承樹齢500年と言われているが、樹勢からするとそこまでの古木ではないと思われる。そのことは〝今年が最後かも〟と思えないだけでも安心である。そんな思いに駆られながら車へと戻り、次の藤まつり会場を目指すのであった。<br /><br />そして車を走らせること5分、吉田町会議所前の臨時駐車場に車を停める。辺りは既に暗くなり始めており、藤棚はライトアップされていた。三大神社、〝志那三郷の藤の神社〟として知られている三大・志那・惣社の各神社であるが、その中で最も知名度が高い神社である。実は旧社格で言えば三大・志那神社が村社格であるのに対し、惣社神社は郷社格である。歴史的な背景は三社とも同じ様なことが記されており、天智天皇の勅により中臣金連が風神を祀ったことが創建とされている。また各社の藤も、天武天皇の除病延命仏法興隆と藤原鎌足の葬られた談山の峯にある藤花に因み藤原氏の隆盛を祈念して、倉橋山の藤を移植して植えられたものが始まりだとされているようだ。いずれにせよ1,500年近い歴史がある神社と藤の木ではあるが、各社の創建や樹齢500年と言われている藤の木も詳細が分かってはいない。社格が違うことの理由はわからないが制定された明治時代の〝氏子調〟の名残と言われており、氏子の数であったことが制定の基準とされていた様なことが言われている。しかし2年程で氏子調は廃止され、その後の市政町村制度の施行や〝明治の大合併〟による行政区分の整理によって自然村が減ると、一村一社の存在意義は薄れて行った。更には明治39(1906)年の神社合祀令を経て全国の神社数が減るにあたり、郷社・村社の区別もほぼ無くなった。戦後になるとGHQの神道指令により神社の国家管理が廃止されると同時に社格も廃止され、GHQの干渉を恐れて石柱の社格を〝セメント埋め〟した神社も多く、現在でもそのままで社号標を残している神社も多いことから社格≠神社の規模という訳でもない。そんな中でなぜ志那三郷の藤の中心が三大神社なのかと言えば、ひとことに〝手入れ〟の問題?ということが理由ではないかと思われる。現在では〝草津市の藤〟という検索ワードでは、志那三郷と立木神社の四つを挙げているものが多い。というのも三大・惣社・志那神社が通常は無住であるために、時間外も含め御朱印等が頂ける場所として〝立木神社〟が窓口とされているためである。滋賀県随一の古社として知られる立木神社を窓口にすれば何かと利便性が高まるのは間違いない。しかし〝砂ずりの藤〟の名所として名高い〝三大神社〟の存在は全面に出す。結果として立木神社・三大神社の繋がりが〝草津の藤名所〟とされることとなり現在に至っていると考えるのが無難であろう。過去に二回訪れている三大神社に対し、一回の志那・惣社神社の過去ログを見ていてもドンピシャの時期に訪れているのは四年前の令和3(2021)年の惣社神社だけだったと自らが記している。それも訪れたのは4月23日、つまりGW前のことである。毎年の開花時期のズレ等も考慮するにしても、ちょっと遅いのかも…と考えてしまう。とは言っても藤まつり期間の〝ライトアップ〟の時期に訪れたのはお初であるために、今年は今年と気持ちを切り替えて参拝することにした。<br /><br />入口には志納金の投入箱が置かれていたので、書かれていた200円を収めて境内へと入る。三大神社の藤は大きく分けて〝ふたつの藤棚〟から成り立っている。鳥居側にあるものは〝二十一世紀景観協定記念植樹〟として平成13(2001)年に植えられた樹齢の若い藤の木である。そして藤棚中間部の〝屋根状〟の通路を隔てて、奥にあるものが所謂〝三大神社の大藤〟と呼ばれるものである。飛鳥時代に最初に植えられたと伝えられ、その後戦国時代に織田信長が比叡山焼き討ちをした前後にこの三大神社の藤も煤塵と化したが、その後株元から芽生えた小さな枝葉が繁茂して今日に至り、淡紫色の花穂が長く2m近くにもなって地面に届くまで成長するため〝砂ずりの藤〟と呼ばれ親しまれながら現在に至るという。推定樹齢420年とされる〝砂ずりの藤〟は、概算では関ケ原の戦い前後に植えられたという計算になるために、凡そ時代背景は合致しているように思う。確かに樹勢としては手前の記念植樹されたものの方があるものの、こちら三大神社での主役はやはり〝三大神社の大藤〟であり、ライトアップもそちら側で行われていた。日本の固有種であるノダフジ。同じ固有種のヤマフジと比較して長い総状花序を持っている。花序(花房)は枝の先端に出て下に垂れるように伸びて行き、通常では20~50cm、長いものでは1mかそれ以上に達するものもあり、多数の花を付けることも特徴である。ヤマフジが野生種とされていることもあるようだが、それは間違いでノダフジも本州・四国・九州の温帯から暖帯エリアの低山地や平地の林に自生しており、低山地や平地の林縁・山野・谷あいの崖地、林の中などに普通に見られるものである。ツルの巻き方は異なっており、ヤマフジが左巻きに対しノダフジは右巻きである。古来より〝観賞用〟としても育てられてきたが、明治期になるとその〝花序〟が長い栽培品種の〝ノダナガフジ〟が作られ、現在では〝九尺藤〟として名所化している場所もある。三大神社の〝砂ずりの藤〟は通常のノダフジであり、栽培種の〝ノダナガフジ〟ではない。それ故に必ず〝砂ずりの藤〟が毎年みられるという保証はなく、年によっては花序の育ちが良くなく、〝砂ずりの藤〟が見られないこともある。確かなことは言えないが、今年令和7(2025)年も花序の長さは短いような感じを受ける。訪れた時期の違いもあるが令和2(2021)年と令和3(2022)年のものとを比較すると、令和2(2021)年には蕾を含めた花序が伸びていることがわかるが、令和3(2022)年と今年のものは地面につきそうな程伸びてはいないように見える。剪定された後という可能性もあるが、パッと見た限りでは自然の摂理であるようにしか思えない。藤の花という〝生き物〟故に育ちが変わることもあるだろう…。そう思って邪心を払った私であった。因みに余談だが志那三郷の藤を語るにあたり各神社の〝創建〟について飛鳥時代からの伝承をいくつか述べてはいるが、ヤマフジは古の都があった京都・滋賀・奈良・大阪見られないとされており、そのため古代にフジとされるものにはヤマフジはほぼ含まれないとされている。つまり飛鳥人の見ていた藤はノダフジであったことになる…。<br /><br />少し脱線したが本論に戻るが、ズバリ藤の花はライトアップに〝映える〟花であると私は思う。紫と白の花弁が連なる花ではあるが、淡い色合いは太陽光の影響を受け易く、訪れた時間によっては〝くすんだ色〟に見えてしまうこともある。しかし白色LEDの照明は、ほんのりとその淡い色を引き立ててくれる。そのため記念植樹された樹の花は淡い色故にパッとしないモノになっているのだが、砂ずりの藤は本来の藤の花の色合いを上手く再現できているように思える。以前訪れた際はコロナ禍の影響でライトアップが行われていなかったために気が付かなかったのだが、写真を比較しても藤らしいものになっていると私には見えた。尤も有名処ではあるために参拝客は多く、人が写り込むのを避けて撮影しなければならないのは一苦労ではあるものの、藤の花を楽しみに来訪している方々の想いは私と同じであろうと気持ちを切り替えて、写真でその〝景色〟を切り取って歩いて行く。勿論三大神社も神社ではあるために神様は祀られており、本殿前の参拝はしては来たものの、神社社殿やその他建造物、境内社の写真を今回は撮らずに〝藤の花〟だけに目的を集中して回って来た。という訳で20分程かけて三大神社藤まつりを堪能して車へと戻って来る。辺りは既に夜の帳が下りてはいるが、最後に〝志那三郷の藤〟会場のひとつ〝志那神社〟を目指して車を走らせることにした。<br /><br />10分程で到着した志那神社だが、ライトアップ会場ではないために鳥居まわりの一部に照明が当たっているだけで、訪れることが憚られる印象を受けるものであった。神社の参拝時間は24時間と記されているものが多いのは確かだが、やはり夜の闇に紛れて…の参拝は、何かのイベント中でなければ一般的ではないのであろう。それは昨年夏に訪れた〝前橋の神社〟でも体験済みである。とは言ってもせっかく三大神社を訪れたのだからという思いでやって来た。この志那神社の情報は書かれていることが様々であり、どれを信用していいのかわからない部分がある。私の場合一番悩むのが駐車場であった。神社の鳥居を潜って社殿手前迄は車で行けるともあるし、なしと記されているものもある。前回はmoveクンだったために鳥居前の路肩に注意して停めて速やかに参拝を済ましているが、今回のNOTEクンでは聊か状況が異なってしまう。つまりその路肩スペースには収まらないのである。これが〝歩いて回れ〟の根拠かと思いつつも、精一杯路肩に寄って車を停めて、前回同様急いで参拝することにする。本殿へと続く参道はクルマツの松並木が並ぶもの。うち6本が草津市指定の保護樹林となっている。樹齢は60~80年とされそれ程歴史あるものではないが、潮風に強いことから各地に〝防風林〟として植えられたものとして後世に残したいということであろう。しかしそんな松並木も入口付近を除けば真っ暗であった。暫く進むと車止めがあり、その奥の石灯籠や拝殿は照明が灯されていた。志那神社の藤棚は本殿の右方向に少し離れてあるのだが…やはりここまでは照明が届かない。ストロボを使えば浮かび上がる(だろう)と思うものの、藤棚全面を切り取るには距離があり過ぎ=光量不足とのことでまともな写真を撮ることが出来なかった。仕方なしにモバイルカメラの〝限界〟を試すかの如くナイトモードを用いて切り取ったものの二枚がこれである。ブレている上に補正後のものであるが、手持ち機材での撮影の限界であったことは言うまでもない。既に19:30を過ぎている。ということは立木神社も同様であろうと考えつつ、ちょっと怖い松並木の参道を歩いて車へと戻って来る。参道を戻る途中、鳥居前で停車した車があったようだが、スマホのライトを点けて参道を歩いている私の姿を見てそのまま行ったようである。そういう私も車へと戻って走る道は自宅への帰路。三大神社のライトアップを見た後では、多分訪れることはしない方ばかりであろうということもこの身体で体験した。藤まつりというと〝桜まつり〟同様〝華やかさ〟が先に立ってしまうように思えてならないのだが、ライトアップを含めた〝施設管理〟は主催者負担のものになることもまた事実である。この草津の藤まつりも主となっているのは〝藤古木保存会〟という任意団体である。勿論草津市からの補助は出ているかとは思うのだが、樹木の管理そのものに費用が掛かる上に、祭りの際にライトアップするなら経費もかかって来る。確かに志納金のお願いをされてはいるものの、どの程度の賛同者がいるものかは不明である。ただせっかくやるのであれば三大神社だけにせずに、他の惣社・志那神社でも小規模ながらでも良いので、ライトアップを試験的にやってみてはと思わないでもない。現代の旅のスタイルは〝ひとつの場所に長居する〟ではなく〝周辺の場所を数多く〟にシフトしていることは言うまでもない。おひとり様を含めたバスツアーが人気を博していることからも容易に推定できよう。ならば昼間は四社、夜は一社ではなく、パンフレットのタイトル通り〝四社藤まつり〟にすれば良いのではと考えてしまう。勿論それを実現するには費用や人員も必要である。その辺りを〝街興し〟的な考えとして、行政の方でも何とかできないものかを思えてならない。言い方は良くないことは百も承知だが、立木神社を除いた〝志那三郷の藤〟のある神社の界隈は、交通の便も悪く少子高齢化が進むエリアである。飛鳥時代にはじまる歴史には私も疑いはあるものの、長年に渡って催行し続けた〝藤まつり〟を後継者不足でやめても良いものなのか?とはどうしても言いたいのだ。勿論現実はそう甘くはないもの位は知ってはいるが、中途半端にしていると〝リピート〟に繋がるかは疑問である。つまり三大神社を拠点として回れる惣社・志那の各神社でもライトアップが行われていることを知れば、時間を考えて訪れる観光客も増えるだろうと思うのである。これは三大神社で記念植樹が行われた20年前の藤まつりの様子を比較して感じたことである。このあたりの話は今後の課題かもしれないが、是非一考願えればと思えてならない。人工のものに頼らないという姿を残して貰いたいと切に感じて自宅に戻って来たにわか観光客のひとつの感想であった。<br /><br />  《終わり》

《2025.May》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのLVIII守山・草津~湖国の藤名所を訪ねて編~

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桜は終わった~藤はまだかいな?とのう天気にGW&5月を迎えるはずが…まさかの非常事態の発生。4月27日に法事のために京都へ行った帰り、食事を摂っていたうどん屋で車のナンバーを呼ばれる。なんやねん(怒)と怒り心頭で車へと戻るとまさかの接触事故。それも相手はC国人、それも営業ナンバーと来た。所有者を呼ぶ前に警察だろう…と思うもどうも埒が明かない。警察を呼んで事故届を出すも、任意保険書のコピーがない…。それで保険使いますとは良く言えた。というより不信感maxになった私は、車体番号を確認するためにエンジンルームを開けさせる。そして車検証並びに自賠責保険の契約者。ハイヤーの届けがなされている〝なにわ〟ナンバーの〝ハイエース〟がなんのために回送で京都に来ているねん!!と思いながらも相手に悟られず、その企業名を検索。案の定〝営業許可〟を取っていない会社とくれば、最近問題の〇タクか…。その内食事を食べ終わった妹と変わり、急いでうどんをかき込んだ。その際〇タクのことを告げると、先ほどまで喧しかった両脇の団体まで消えて行った。結論〇タク問題は他人事にあらず、あなたの隣も実は…ということを痛感する。取り敢えずこちらは修理が出来れば問題ないので、仕方なしに自宅へと戻る。翌日保険屋からの電話があったので、取り敢えずディーラーに入庫する旨を伝え、その日を決めようとするがGWは4月28日から5月2日までが休みだという。保険屋からは連絡入れておくのでいつでも入庫下さいとのことであったため、3日に連絡後車を掘り込むために滋賀日産へと向かう。よく見ると思った以上に変形しており、状況によっては1ヶ月程かかるかも知れないと告げられる。まーさん所有の車なので、通勤時に車が必要であるため代車は出る。それを暫く店内で待っていると、やって来たのは新型のNOTE。多分まーさんは今まで通りの運転ができないために、こちらが〝控え車〟になることを察する。こんな経緯があったが車が手に入ったので早速GW最初で最後のドライブに出かけることにした。行き先は滋賀県の藤の名所で知られる草津と守山。しかし道路が混雑している影響で時間通りに走ることが出来ない。最初の目的地に設定した〝天台真盛宗世野山上漸院観音寺〟に到着できたのは17:00閉門の僅か5分前。見ることもできないか…と思いながら掃除をされている御住職に声をかけると、まさかのOK!の返事。寺の由来話やつい最近判明した明智光秀公の重臣の一人であり五宿老の一人でもある〝藤田伝五行政〟公ゆかりの寺であることまで多種多岐に及んだ。令和2(2020)年の大河ドラマ〝麒麟がくる〟で主君明智光秀が大きく取り上げられた。御住職も北氏はしていたもののやはり…と考えていた観音寺所縁の〝藤田伝五行政〟を徳重聡が演じて紹介されると一気に〝所縁〟に火が付いたそう。藤田伝五顕彰実行委員会も結成され、戦国武将藤田伝五を有名に!という活動も行われていることまでお聞きした。中興以降の寺の歴史を聞いていても明智光秀所縁の場所が出て来るために、今の守山周辺を領していた藤田伝五所縁の寺としても不思議ではない。歴史に答えはない。街興しの一環として活動して頂き、所縁の寺〝ブランド〟が上がることを期待する。そんな御住職のお人柄に触れて、ふと思った閉門時間後に訪れた非常識な観光客約一名はそう思ったのであった。

そんな感じで小一時間も滞在してしまったが、最後に御住職にお礼を言って観音寺を後にする。とは言っても次の目的地は観音寺山門前の〝源頼朝公植樹伝説の藤棚〟であった。平治の乱で敗れた源頼朝が東国へと落ちる際にこの地の当山を訪れ、山門脇に藤杖を挿し、源氏の再起を祈願したところ、冬の最中にも拘らず藤の芽が出てきたと言う。これを〝観音様のお励ましに違いない〟と勢い付いた頼朝は、やがて平家を打倒し征夷大将軍に任ぜられ鎌倉幕府を開いたことは史実通りである。東国へと落ちて行く途中の頼朝にとって〝苦しい時の神頼み〟的な象徴となったこの〝藤伝説〟に対して〝観音様の大恩に報わん〟とし、数町の田畑と大伽藍を寄進されると共に源氏の家紋笹竜胆を寺紋として使用する旨を許諾したとされている。その契機になった藤が〝近江録名藤〟として山門前に現存していることを以前に見分し、いつか機会を経て訪れたいと考えていた場所であった。正直なところ〝藤〟を掲げる神社仏閣ならば〝藤〟があって、建物があると言っても過言ではない位藤の花のインパクトが強い。また私自身が今までに見て来た〝藤の寺〟〝藤の神社〟とも確かにそうであった。しかしこの〝源頼朝公植樹伝説の藤棚〟に関して言うならば、これが〝それ〟であることを知らなければ通り過ぎかねないモノであることを先に行っておく。参道にあるとは書かれてはいても、実際には近隣の住人が利用する道路であり、参道とは言い難い。故に〝山門の外〟と記されていれば気付く者も増えるのではないかと思える。

小さな藤棚の中には確かに〝近江録名藤〟と刻まれた石柱があり、その脇から藤の木が生えているように見えた。規模が小さいだけに日の当たり方が違うようで、道路に面した藤の花には見頃過ぎのものもあるにはあった。しかし直射日光が当たっていない藤の房はまだ健全で、しっかりと藤の花を咲かせて歴史を語っているように見えた。比較的長寿と言われる藤の木でも1000年の歴史は…とも思えなくはないが、そこは頼朝さんの気持ちが乗り移った〝藤の杖〟から冬にも拘らず芽吹いた伝承を妄想してロマンを感じるのも有かな?とも思ってしまったりもする。

やはり歴史はロマンあってのものであり、人の心でいくらでも大きくすることは可能であるのだから…と思いながら暫しの時間で藤の花を堪能し、次の藤巡り会場を目指した私であった。

慣れないNOTEクンを走らせること15分、草津市に入り志那中町へと進む。住宅地に入って車を停める場所を右往左往し、訪れたのは惣社神社であった。旧郷社格の惣社神社は4年前に一度訪れたことがある。その時は〝志那三郷の藤〟を巡るためと記しているが、やはり今回と同じように〝駐車場探し〟で悩んでいる。確かここに停めた…と記憶している〝看板下〟に目一杯壁に寄せて助手席側から車外へと出て、急いで参拝する。境内の〝惣社神社の大藤〟は健在で、時期も前回同様タイミングが良かったこともあり、日暮れ間近ながら〝大藤の藤棚〟を満喫することが出来た。普段は無住のようではあるが、志那三郷の藤まつりの際には御朱印等も頂けるとは記されてはいた。しかし時間は既に18:30、私の外に参拝客も見当たらない頃故に人影も見当たらない。こちらを訪れる際には他の参拝客を見たことが無いように記憶しているのだが、元々車では訪れにくい場所であることもその理由のひとつであろう。決して観光客に媚びずあくまで〝集落の氏神様〟で居続ける古社という立ち位置を貫き通すことも、観光地化した神社仏閣が面白くないという印象を与え、参拝客が減っている今日だからこそ、大藤の名所である惣社神社という〝知名度〟はそれなりにあるにも拘らず、住民の方々が大藤の下に備えられた椅子に座って世間話をする姿が〝当たり前〟という印象を醸し出せる憩いの場と化しているところにより〝存在感〟が増しているようにも思えなくもない。あとで知った話ではあるがどうやら〝志那三郷の藤巡り〟をするには、基本三大神社の駐車場に車を停めて〝歩いて行く〟というスタンスを主催されている〝大藤保存会〟が勧めているらしい。この三社の立地を考えれば確かにこの〝巡り方〟が効率的で尚且つ神社を取り巻く〝景色〟を楽しみながら散策できることはすぐに理解できた。ただやはり〝時間的な余裕〟がなければ、手っ取り早く車で巡ろうと安易に考えてしまうのだろう。前回同様今回も私自身が同じ間違いをした。理由は所用のため出発が遅くなったということもあるが、やはりゆっくりと歩いて回れる時間に参拝することを心掛けるのが必要である。次は何年先に参拝できるのかはわからないが、二回の失敗で得た知識を生かせたいと思った私であった。因みに惣社神社の大藤は伝承樹齢500年と言われているが、樹勢からするとそこまでの古木ではないと思われる。そのことは〝今年が最後かも〟と思えないだけでも安心である。そんな思いに駆られながら車へと戻り、次の藤まつり会場を目指すのであった。

そして車を走らせること5分、吉田町会議所前の臨時駐車場に車を停める。辺りは既に暗くなり始めており、藤棚はライトアップされていた。三大神社、〝志那三郷の藤の神社〟として知られている三大・志那・惣社の各神社であるが、その中で最も知名度が高い神社である。実は旧社格で言えば三大・志那神社が村社格であるのに対し、惣社神社は郷社格である。歴史的な背景は三社とも同じ様なことが記されており、天智天皇の勅により中臣金連が風神を祀ったことが創建とされている。また各社の藤も、天武天皇の除病延命仏法興隆と藤原鎌足の葬られた談山の峯にある藤花に因み藤原氏の隆盛を祈念して、倉橋山の藤を移植して植えられたものが始まりだとされているようだ。いずれにせよ1,500年近い歴史がある神社と藤の木ではあるが、各社の創建や樹齢500年と言われている藤の木も詳細が分かってはいない。社格が違うことの理由はわからないが制定された明治時代の〝氏子調〟の名残と言われており、氏子の数であったことが制定の基準とされていた様なことが言われている。しかし2年程で氏子調は廃止され、その後の市政町村制度の施行や〝明治の大合併〟による行政区分の整理によって自然村が減ると、一村一社の存在意義は薄れて行った。更には明治39(1906)年の神社合祀令を経て全国の神社数が減るにあたり、郷社・村社の区別もほぼ無くなった。戦後になるとGHQの神道指令により神社の国家管理が廃止されると同時に社格も廃止され、GHQの干渉を恐れて石柱の社格を〝セメント埋め〟した神社も多く、現在でもそのままで社号標を残している神社も多いことから社格≠神社の規模という訳でもない。そんな中でなぜ志那三郷の藤の中心が三大神社なのかと言えば、ひとことに〝手入れ〟の問題?ということが理由ではないかと思われる。現在では〝草津市の藤〟という検索ワードでは、志那三郷と立木神社の四つを挙げているものが多い。というのも三大・惣社・志那神社が通常は無住であるために、時間外も含め御朱印等が頂ける場所として〝立木神社〟が窓口とされているためである。滋賀県随一の古社として知られる立木神社を窓口にすれば何かと利便性が高まるのは間違いない。しかし〝砂ずりの藤〟の名所として名高い〝三大神社〟の存在は全面に出す。結果として立木神社・三大神社の繋がりが〝草津の藤名所〟とされることとなり現在に至っていると考えるのが無難であろう。過去に二回訪れている三大神社に対し、一回の志那・惣社神社の過去ログを見ていてもドンピシャの時期に訪れているのは四年前の令和3(2021)年の惣社神社だけだったと自らが記している。それも訪れたのは4月23日、つまりGW前のことである。毎年の開花時期のズレ等も考慮するにしても、ちょっと遅いのかも…と考えてしまう。とは言っても藤まつり期間の〝ライトアップ〟の時期に訪れたのはお初であるために、今年は今年と気持ちを切り替えて参拝することにした。

入口には志納金の投入箱が置かれていたので、書かれていた200円を収めて境内へと入る。三大神社の藤は大きく分けて〝ふたつの藤棚〟から成り立っている。鳥居側にあるものは〝二十一世紀景観協定記念植樹〟として平成13(2001)年に植えられた樹齢の若い藤の木である。そして藤棚中間部の〝屋根状〟の通路を隔てて、奥にあるものが所謂〝三大神社の大藤〟と呼ばれるものである。飛鳥時代に最初に植えられたと伝えられ、その後戦国時代に織田信長が比叡山焼き討ちをした前後にこの三大神社の藤も煤塵と化したが、その後株元から芽生えた小さな枝葉が繁茂して今日に至り、淡紫色の花穂が長く2m近くにもなって地面に届くまで成長するため〝砂ずりの藤〟と呼ばれ親しまれながら現在に至るという。推定樹齢420年とされる〝砂ずりの藤〟は、概算では関ケ原の戦い前後に植えられたという計算になるために、凡そ時代背景は合致しているように思う。確かに樹勢としては手前の記念植樹されたものの方があるものの、こちら三大神社での主役はやはり〝三大神社の大藤〟であり、ライトアップもそちら側で行われていた。日本の固有種であるノダフジ。同じ固有種のヤマフジと比較して長い総状花序を持っている。花序(花房)は枝の先端に出て下に垂れるように伸びて行き、通常では20~50cm、長いものでは1mかそれ以上に達するものもあり、多数の花を付けることも特徴である。ヤマフジが野生種とされていることもあるようだが、それは間違いでノダフジも本州・四国・九州の温帯から暖帯エリアの低山地や平地の林に自生しており、低山地や平地の林縁・山野・谷あいの崖地、林の中などに普通に見られるものである。ツルの巻き方は異なっており、ヤマフジが左巻きに対しノダフジは右巻きである。古来より〝観賞用〟としても育てられてきたが、明治期になるとその〝花序〟が長い栽培品種の〝ノダナガフジ〟が作られ、現在では〝九尺藤〟として名所化している場所もある。三大神社の〝砂ずりの藤〟は通常のノダフジであり、栽培種の〝ノダナガフジ〟ではない。それ故に必ず〝砂ずりの藤〟が毎年みられるという保証はなく、年によっては花序の育ちが良くなく、〝砂ずりの藤〟が見られないこともある。確かなことは言えないが、今年令和7(2025)年も花序の長さは短いような感じを受ける。訪れた時期の違いもあるが令和2(2021)年と令和3(2022)年のものとを比較すると、令和2(2021)年には蕾を含めた花序が伸びていることがわかるが、令和3(2022)年と今年のものは地面につきそうな程伸びてはいないように見える。剪定された後という可能性もあるが、パッと見た限りでは自然の摂理であるようにしか思えない。藤の花という〝生き物〟故に育ちが変わることもあるだろう…。そう思って邪心を払った私であった。因みに余談だが志那三郷の藤を語るにあたり各神社の〝創建〟について飛鳥時代からの伝承をいくつか述べてはいるが、ヤマフジは古の都があった京都・滋賀・奈良・大阪見られないとされており、そのため古代にフジとされるものにはヤマフジはほぼ含まれないとされている。つまり飛鳥人の見ていた藤はノダフジであったことになる…。

少し脱線したが本論に戻るが、ズバリ藤の花はライトアップに〝映える〟花であると私は思う。紫と白の花弁が連なる花ではあるが、淡い色合いは太陽光の影響を受け易く、訪れた時間によっては〝くすんだ色〟に見えてしまうこともある。しかし白色LEDの照明は、ほんのりとその淡い色を引き立ててくれる。そのため記念植樹された樹の花は淡い色故にパッとしないモノになっているのだが、砂ずりの藤は本来の藤の花の色合いを上手く再現できているように思える。以前訪れた際はコロナ禍の影響でライトアップが行われていなかったために気が付かなかったのだが、写真を比較しても藤らしいものになっていると私には見えた。尤も有名処ではあるために参拝客は多く、人が写り込むのを避けて撮影しなければならないのは一苦労ではあるものの、藤の花を楽しみに来訪している方々の想いは私と同じであろうと気持ちを切り替えて、写真でその〝景色〟を切り取って歩いて行く。勿論三大神社も神社ではあるために神様は祀られており、本殿前の参拝はしては来たものの、神社社殿やその他建造物、境内社の写真を今回は撮らずに〝藤の花〟だけに目的を集中して回って来た。という訳で20分程かけて三大神社藤まつりを堪能して車へと戻って来る。辺りは既に夜の帳が下りてはいるが、最後に〝志那三郷の藤〟会場のひとつ〝志那神社〟を目指して車を走らせることにした。

10分程で到着した志那神社だが、ライトアップ会場ではないために鳥居まわりの一部に照明が当たっているだけで、訪れることが憚られる印象を受けるものであった。神社の参拝時間は24時間と記されているものが多いのは確かだが、やはり夜の闇に紛れて…の参拝は、何かのイベント中でなければ一般的ではないのであろう。それは昨年夏に訪れた〝前橋の神社〟でも体験済みである。とは言ってもせっかく三大神社を訪れたのだからという思いでやって来た。この志那神社の情報は書かれていることが様々であり、どれを信用していいのかわからない部分がある。私の場合一番悩むのが駐車場であった。神社の鳥居を潜って社殿手前迄は車で行けるともあるし、なしと記されているものもある。前回はmoveクンだったために鳥居前の路肩に注意して停めて速やかに参拝を済ましているが、今回のNOTEクンでは聊か状況が異なってしまう。つまりその路肩スペースには収まらないのである。これが〝歩いて回れ〟の根拠かと思いつつも、精一杯路肩に寄って車を停めて、前回同様急いで参拝することにする。本殿へと続く参道はクルマツの松並木が並ぶもの。うち6本が草津市指定の保護樹林となっている。樹齢は60~80年とされそれ程歴史あるものではないが、潮風に強いことから各地に〝防風林〟として植えられたものとして後世に残したいということであろう。しかしそんな松並木も入口付近を除けば真っ暗であった。暫く進むと車止めがあり、その奥の石灯籠や拝殿は照明が灯されていた。志那神社の藤棚は本殿の右方向に少し離れてあるのだが…やはりここまでは照明が届かない。ストロボを使えば浮かび上がる(だろう)と思うものの、藤棚全面を切り取るには距離があり過ぎ=光量不足とのことでまともな写真を撮ることが出来なかった。仕方なしにモバイルカメラの〝限界〟を試すかの如くナイトモードを用いて切り取ったものの二枚がこれである。ブレている上に補正後のものであるが、手持ち機材での撮影の限界であったことは言うまでもない。既に19:30を過ぎている。ということは立木神社も同様であろうと考えつつ、ちょっと怖い松並木の参道を歩いて車へと戻って来る。参道を戻る途中、鳥居前で停車した車があったようだが、スマホのライトを点けて参道を歩いている私の姿を見てそのまま行ったようである。そういう私も車へと戻って走る道は自宅への帰路。三大神社のライトアップを見た後では、多分訪れることはしない方ばかりであろうということもこの身体で体験した。藤まつりというと〝桜まつり〟同様〝華やかさ〟が先に立ってしまうように思えてならないのだが、ライトアップを含めた〝施設管理〟は主催者負担のものになることもまた事実である。この草津の藤まつりも主となっているのは〝藤古木保存会〟という任意団体である。勿論草津市からの補助は出ているかとは思うのだが、樹木の管理そのものに費用が掛かる上に、祭りの際にライトアップするなら経費もかかって来る。確かに志納金のお願いをされてはいるものの、どの程度の賛同者がいるものかは不明である。ただせっかくやるのであれば三大神社だけにせずに、他の惣社・志那神社でも小規模ながらでも良いので、ライトアップを試験的にやってみてはと思わないでもない。現代の旅のスタイルは〝ひとつの場所に長居する〟ではなく〝周辺の場所を数多く〟にシフトしていることは言うまでもない。おひとり様を含めたバスツアーが人気を博していることからも容易に推定できよう。ならば昼間は四社、夜は一社ではなく、パンフレットのタイトル通り〝四社藤まつり〟にすれば良いのではと考えてしまう。勿論それを実現するには費用や人員も必要である。その辺りを〝街興し〟的な考えとして、行政の方でも何とかできないものかを思えてならない。言い方は良くないことは百も承知だが、立木神社を除いた〝志那三郷の藤〟のある神社の界隈は、交通の便も悪く少子高齢化が進むエリアである。飛鳥時代にはじまる歴史には私も疑いはあるものの、長年に渡って催行し続けた〝藤まつり〟を後継者不足でやめても良いものなのか?とはどうしても言いたいのだ。勿論現実はそう甘くはないもの位は知ってはいるが、中途半端にしていると〝リピート〟に繋がるかは疑問である。つまり三大神社を拠点として回れる惣社・志那の各神社でもライトアップが行われていることを知れば、時間を考えて訪れる観光客も増えるだろうと思うのである。これは三大神社で記念植樹が行われた20年前の藤まつりの様子を比較して感じたことである。このあたりの話は今後の課題かもしれないが、是非一考願えればと思えてならない。人工のものに頼らないという姿を残して貰いたいと切に感じて自宅に戻って来たにわか観光客のひとつの感想であった。

  《終わり》

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
自家用車 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
  • 我が職場の近くにある晴嵐児童遊園地。

    我が職場の近くにある晴嵐児童遊園地。

  • ここは国道高架下にある児童公園のひとつでしかないのだが…。

    ここは国道高架下にある児童公園のひとつでしかないのだが…。

  • 知る人ぞ知る〝藤〟の名所としても知られている…。

    知る人ぞ知る〝藤〟の名所としても知られている…。

  • 出勤前に立ち寄ってみた晴嵐児童遊園地…。

    出勤前に立ち寄ってみた晴嵐児童遊園地…。

  • 辺りは家が立ち並ぶ住宅地。

    辺りは家が立ち並ぶ住宅地。

  • そして隣には国道1号線の高架橋が走っている場所ではあるが…。

    そして隣には国道1号線の高架橋が走っている場所ではあるが…。

  • そんな場所でも藤の花は〝癒し〟を与えていた…。令和7(2025)年4月25日撮影。

    そんな場所でも藤の花は〝癒し〟を与えていた…。令和7(2025)年4月25日撮影。

  • 日付は変わり令和7(2025)年5月3日。

    日付は変わり令和7(2025)年5月3日。

    京阪バス (大津エリア) 乗り物

  • 向かった先は守山市水保町の天台真盛宗世野山上漸院観音寺。<br /><br />観音寺の石像板碑<br /> 境内と本堂と書院との内庭に板碑(いたひ)が保存されている。<br /> 板碑とは、供養のためにつくられた石造塔婆の一種である、方柱状の石材を用いて、頂部を山形に刻み、肩部に二段の切り込みと前方に突出した額部を作り、以下を身部とした。身部の上半には尊像や種子(しゅうじ)を配するが、種子は仏や菩提等を表示する梵字である。<br /> 本板碑は幅二九cm、地上高約一mの規模で、花崗岩でつくられ、月輪には虚空蔵種子を刻む。銘はないが、形状と種子等の表現からみて、鎌倉時代後期の作と考えられる。滋賀県内の鎌倉時代の板碑は、僅か十数例しかなく貴重であるため、平成一二(二〇〇〇)年五月に守山市の文化財として指定された。<br />  平成十三年  守山市教育委員会<br />

    向かった先は守山市水保町の天台真盛宗世野山上漸院観音寺。

    観音寺の石像板碑
     境内と本堂と書院との内庭に板碑(いたひ)が保存されている。
     板碑とは、供養のためにつくられた石造塔婆の一種である、方柱状の石材を用いて、頂部を山形に刻み、肩部に二段の切り込みと前方に突出した額部を作り、以下を身部とした。身部の上半には尊像や種子(しゅうじ)を配するが、種子は仏や菩提等を表示する梵字である。
     本板碑は幅二九cm、地上高約一mの規模で、花崗岩でつくられ、月輪には虚空蔵種子を刻む。銘はないが、形状と種子等の表現からみて、鎌倉時代後期の作と考えられる。滋賀県内の鎌倉時代の板碑は、僅か十数例しかなく貴重であるため、平成一二(二〇〇〇)年五月に守山市の文化財として指定された。
      平成十三年  守山市教育委員会

    観音寺 寺・神社・教会

  • 天台真盛宗世野山上漸院観音寺山門にて、たかティムさん。

    天台真盛宗世野山上漸院観音寺山門にて、たかティムさん。

  • 天台真盛宗世野山上漸院観音寺山門に書かれていた沿革。<br /><br />観音寺の沿革 もうすぐ草創1300年!!<br />天平元(729)年、聖武天皇の勅願を受けた大和大安寺の高僧慶俊法師が当地の官僚秋富元朝と協力して伽藍を草創し、度重なる災害による被災者の追善と疫病退散・五穀豊穣の祈願祈祷を目的に自ら彫刻した聖観世音菩薩立像を安置して湖光山圓通寺と号したのが始まりです。(奈良の大仏さん、東大寺の建立より22年も前!!)その当時は南都六宗の一つ、律宗の寺院でした。(現在も当時の朱印が保存されています)<br />星霜流れて、荒れ果てた当山を憂いた伝教大師最澄が郡司恵美朝夏と協力して伽藍を再興、寺号を竹蓮寺(京の嵐山のような竹林と蓮の咲き誇る寺を略して)と改めました。(さらには「観音さまのみ教えを聞く寺」として観音教寺とも呼ばれました)<br />時を経て、平治の乱(1159)で平家に敗れた源氏の御曹司源頼朝が逃亡中当山を訪ね、山門脇に藤杖を挿し、源氏の再起を祈願したところ、冬の最中にも拘らず藤の芽が出てきて「これは観音様のお励ましに違いない」と勢いづき、やがて平家を打倒し建久3(1192)年征夷大将軍に任ぜられ鎌倉幕府を開きました。頼朝公は「苦しいときに応援して下さった観音様の大恩に報わん」と、数町の田畑と大伽藍を寄進されると共に源氏の家紋笹竜胆を寺紋として使用する旨を許諾されました。契機になった藤が『近江録名藤』として、参道沿いに現存しています。その後建武元(1334)年後醍醐天皇の御世、元弘の変で兵火に遭い消失、天文5(1536)年本山西教寺第4代真叡上人を招いて再興、現在の阿弥陀三尊を奉安し、世野山観音寺と改号しました。さらには、信長の焼き討ち(年代不詳)、宝永3(1706)年の焼失、明治元(1868)年の落雷による伽藍全焼に遭いましたが、そのたびに再建され、現在の本堂は昭和63(1988)年に檀家・十方施主の浄財により再建され今日に至っています。

    天台真盛宗世野山上漸院観音寺山門に書かれていた沿革。

    観音寺の沿革 もうすぐ草創1300年!!
    天平元(729)年、聖武天皇の勅願を受けた大和大安寺の高僧慶俊法師が当地の官僚秋富元朝と協力して伽藍を草創し、度重なる災害による被災者の追善と疫病退散・五穀豊穣の祈願祈祷を目的に自ら彫刻した聖観世音菩薩立像を安置して湖光山圓通寺と号したのが始まりです。(奈良の大仏さん、東大寺の建立より22年も前!!)その当時は南都六宗の一つ、律宗の寺院でした。(現在も当時の朱印が保存されています)
    星霜流れて、荒れ果てた当山を憂いた伝教大師最澄が郡司恵美朝夏と協力して伽藍を再興、寺号を竹蓮寺(京の嵐山のような竹林と蓮の咲き誇る寺を略して)と改めました。(さらには「観音さまのみ教えを聞く寺」として観音教寺とも呼ばれました)
    時を経て、平治の乱(1159)で平家に敗れた源氏の御曹司源頼朝が逃亡中当山を訪ね、山門脇に藤杖を挿し、源氏の再起を祈願したところ、冬の最中にも拘らず藤の芽が出てきて「これは観音様のお励ましに違いない」と勢いづき、やがて平家を打倒し建久3(1192)年征夷大将軍に任ぜられ鎌倉幕府を開きました。頼朝公は「苦しいときに応援して下さった観音様の大恩に報わん」と、数町の田畑と大伽藍を寄進されると共に源氏の家紋笹竜胆を寺紋として使用する旨を許諾されました。契機になった藤が『近江録名藤』として、参道沿いに現存しています。その後建武元(1334)年後醍醐天皇の御世、元弘の変で兵火に遭い消失、天文5(1536)年本山西教寺第4代真叡上人を招いて再興、現在の阿弥陀三尊を奉安し、世野山観音寺と改号しました。さらには、信長の焼き討ち(年代不詳)、宝永3(1706)年の焼失、明治元(1868)年の落雷による伽藍全焼に遭いましたが、そのたびに再建され、現在の本堂は昭和63(1988)年に檀家・十方施主の浄財により再建され今日に至っています。

  • 天台真盛宗世野山上漸院観音寺、参道の石碑。読めなかった…。

    天台真盛宗世野山上漸院観音寺、参道の石碑。読めなかった…。

  • 天台真盛宗世野山上漸院観音寺、参道の天つ地蔵堂。

    天台真盛宗世野山上漸院観音寺、参道の天つ地蔵堂。

  • 天台真盛宗世野山上漸院観音寺、寺号標。<br /><br />観音寺仏画<br /> 天台宗の古刹である観音寺には室町時代後期の絵画が保存されている。一つは釈迦が滅入する状況を描いた「絹本着色仏涅槃図」で、縦一八九・五cm、横一五八・五cmの規模である。<br /> 裏書によると永禄十二(一五六九)年、「野洲郡秋富郷にあった観音寺に藤田彦左衛門が寄贈した」ことが記されている。露台に横たわる釈迦の周りに弟子の高僧や動物が集まり悲しんでいる図で、虎の左上に鈴を付けた猫が描かれているのが珍しい。<br /> 他の一つは「絹本着色十王図」で、四幅から成る。この絵は人々が死んだ後、地獄や極楽に導かれる宗教思想を描いており、死者が生前の功罪によって冥府の十王に裁定され、様々な処遇を受ける場面で構成されている。<br /> 裏書によると天正六(一五七八)年に制作されたことが知られる。<br />     守山市教育委員会

    天台真盛宗世野山上漸院観音寺、寺号標。

    観音寺仏画
     天台宗の古刹である観音寺には室町時代後期の絵画が保存されている。一つは釈迦が滅入する状況を描いた「絹本着色仏涅槃図」で、縦一八九・五cm、横一五八・五cmの規模である。
     裏書によると永禄十二(一五六九)年、「野洲郡秋富郷にあった観音寺に藤田彦左衛門が寄贈した」ことが記されている。露台に横たわる釈迦の周りに弟子の高僧や動物が集まり悲しんでいる図で、虎の左上に鈴を付けた猫が描かれているのが珍しい。
     他の一つは「絹本着色十王図」で、四幅から成る。この絵は人々が死んだ後、地獄や極楽に導かれる宗教思想を描いており、死者が生前の功罪によって冥府の十王に裁定され、様々な処遇を受ける場面で構成されている。
     裏書によると天正六(一五七八)年に制作されたことが知られる。
         守山市教育委員会

  • 天台真盛宗世野山上漸院観音寺、参道の地蔵堂と〝無欲清浄専勤念仏〟の石碑。<br /><br />〝無欲清浄専勤念仏〟とは、天台宗真盛派(現:天台真盛宗)の祖真盛上人の遺誡である。

    天台真盛宗世野山上漸院観音寺、参道の地蔵堂と〝無欲清浄専勤念仏〟の石碑。

    〝無欲清浄専勤念仏〟とは、天台宗真盛派(現:天台真盛宗)の祖真盛上人の遺誡である。

  • 天台真盛宗世野山上漸院観音寺、本堂。以下由来書きより抜粋<br /><br />藤田伝五行政公ゆかりの寺<br />藤田伝五行政(ふじたでんごゆきまさ)公は明智光秀五宿老の一人で、光秀公の父光綱公の代から仕えたとされる重臣です。<br /><br />天正十年(一五八二年)六月一日(本能寺の変前夜) 織田信長公の打倒を決意した光秀公から齊藤利三らとともに、いち早く胸の内を打ち明けられました。本能寺の変では第二陣四千騎を率い活躍しました。<br /><br />また、山崎の合戦では明智軍右翼隊を率い奮戦、体中六ヵ所に傷を負い淀まで退却、翌日光秀公の本拠である勝龍寺城の陥落の報に接し、自害しました。<br /><br />観音寺はその行政公をはじめ藤田一族の菩提寺であり、行政公の甥である藤田彦左衛門尉貞勝(ふじたびこざえもんのじょうぎさだかつ)公が永禄十二年(一五六九年) に寄進された絹本着色仏涅槃図(市指定重要文化財 ?年涅槃会にて公開)が現在も大切に保存されています。<br /><br />令和二年九月吉日 藤田伝五顕彰実行委員会

    天台真盛宗世野山上漸院観音寺、本堂。以下由来書きより抜粋

    藤田伝五行政公ゆかりの寺
    藤田伝五行政(ふじたでんごゆきまさ)公は明智光秀五宿老の一人で、光秀公の父光綱公の代から仕えたとされる重臣です。

    天正十年(一五八二年)六月一日(本能寺の変前夜) 織田信長公の打倒を決意した光秀公から齊藤利三らとともに、いち早く胸の内を打ち明けられました。本能寺の変では第二陣四千騎を率い活躍しました。

    また、山崎の合戦では明智軍右翼隊を率い奮戦、体中六ヵ所に傷を負い淀まで退却、翌日光秀公の本拠である勝龍寺城の陥落の報に接し、自害しました。

    観音寺はその行政公をはじめ藤田一族の菩提寺であり、行政公の甥である藤田彦左衛門尉貞勝(ふじたびこざえもんのじょうぎさだかつ)公が永禄十二年(一五六九年) に寄進された絹本着色仏涅槃図(市指定重要文化財 ?年涅槃会にて公開)が現在も大切に保存されています。

    令和二年九月吉日 藤田伝五顕彰実行委員会

  • 天台真盛宗世野山上漸院観音寺、手水舎。

    天台真盛宗世野山上漸院観音寺、手水舎。

  • 天台真盛宗世野山上漸院観音寺、手水舎。

    天台真盛宗世野山上漸院観音寺、手水舎。

  • 天台真盛宗世野山上漸院観音寺、鐘楼と睡蓮池。

    天台真盛宗世野山上漸院観音寺、鐘楼と睡蓮池。

  • 天台真盛宗世野山上漸院観音寺、鐘楼と睡蓮池。今の時期はミツバツツジが咲いている。

    天台真盛宗世野山上漸院観音寺、鐘楼と睡蓮池。今の時期はミツバツツジが咲いている。

  • 天台真盛宗世野山上漸院観音寺、鐘楼。

    天台真盛宗世野山上漸院観音寺、鐘楼。

  • 天台真盛宗世野山上漸院観音寺、六地蔵堂。

    天台真盛宗世野山上漸院観音寺、六地蔵堂。

  • 天台真盛宗世野山上漸院観音寺、石塔と墓石。

    天台真盛宗世野山上漸院観音寺、石塔と墓石。

  • 天台真盛宗世野山上漸院観音寺、境内の忠霊塔。

    天台真盛宗世野山上漸院観音寺、境内の忠霊塔。

  • 天台真盛宗世野山上漸院観音寺、参道に出て源頼朝公植樹伝説の藤棚を眺める。

    天台真盛宗世野山上漸院観音寺、参道に出て源頼朝公植樹伝説の藤棚を眺める。

  • 天台真盛宗世野山上漸院観音寺、参道に出て源頼朝公植樹伝説の藤棚とミツバツツジ。

    天台真盛宗世野山上漸院観音寺、参道に出て源頼朝公植樹伝説の藤棚とミツバツツジ。

  • 天台真盛宗世野山上漸院観音寺、源頼朝公植樹伝説の藤棚は〝淡海録名藤〟と刻まれた岩と共にあった。

    天台真盛宗世野山上漸院観音寺、源頼朝公植樹伝説の藤棚は〝淡海録名藤〟と刻まれた岩と共にあった。

  • 天台真盛宗世野山上漸院観音寺、源頼朝公植樹伝説の藤。

    天台真盛宗世野山上漸院観音寺、源頼朝公植樹伝説の藤。

  • 淡海録名藤と刻まれている。

    淡海録名藤と刻まれている。

  • 天台真盛宗世野山上漸院観音寺、源頼朝公植樹伝説の藤。

    天台真盛宗世野山上漸院観音寺、源頼朝公植樹伝説の藤。

  • 天台真盛宗世野山上漸院観音寺、源頼朝公植樹伝説の藤とたかティムさん。

    天台真盛宗世野山上漸院観音寺、源頼朝公植樹伝説の藤とたかティムさん。

  • 天台真盛宗世野山上漸院観音寺、源頼朝公植樹伝説の藤。

    天台真盛宗世野山上漸院観音寺、源頼朝公植樹伝説の藤。

  • 天台真盛宗世野山上漸院観音寺、由来書きパンフレット。文字起こしが出来なかったので実物を掲示する。

    天台真盛宗世野山上漸院観音寺、由来書きパンフレット。文字起こしが出来なかったので実物を掲示する。

  • 天台真盛宗世野山上漸院観音寺、由来書きパンフレット。文字起こしが出来なかったので実物を掲示する。

    天台真盛宗世野山上漸院観音寺、由来書きパンフレット。文字起こしが出来なかったので実物を掲示する。

  • 天台真盛宗世野山上漸院観音寺、源頼朝公植樹伝説の藤棚は意外に小さかった。

    天台真盛宗世野山上漸院観音寺、源頼朝公植樹伝説の藤棚は意外に小さかった。

  • 天台真盛宗世野山上漸院観音寺、意外に小さかった源頼朝公植樹伝説の藤棚は存在感はある。

    天台真盛宗世野山上漸院観音寺、意外に小さかった源頼朝公植樹伝説の藤棚は存在感はある。

  • 藤田伝五行政公ゆかりの寺の由来書きがここにもあった、

    藤田伝五行政公ゆかりの寺の由来書きがここにもあった、

  • 駐車場脇の石庭と石塔。夕日に照らされて幻想的であった。

    駐車場脇の石庭と石塔。夕日に照らされて幻想的であった。

    観音寺 寺・神社・教会

  • 惣社神社を訪れる。

    惣社神社を訪れる。

    惣社神社 寺・神社・教会

  • 惣社神社、拝殿と本殿。

    惣社神社、拝殿と本殿。

  • 惣社神社の大藤。

    惣社神社の大藤。

  • 惣社神社の大藤。

    惣社神社の大藤。

  • 惣社神社の大藤。

    惣社神社の大藤。

  • 惣社神社の大藤。

    惣社神社の大藤。

  • 惣社神社の大藤。

    惣社神社の大藤。

  • 惣社神社の大藤。

    惣社神社の大藤。

  • 惣社神社の大藤。

    惣社神社の大藤。

  • 惣社神社の大藤。

    惣社神社の大藤。

  • 惣社神社志納金は、ポストに投函する。それでは出発しよう。

    惣社神社志納金は、ポストに投函する。それでは出発しよう。

    惣社神社 寺・神社・教会

  • 三大神社に到着する。

    三大神社に到着する。

    三大神社 寺・神社・教会

  • 三大神社、パンフレット。

    三大神社、パンフレット。

  • 三大神社、砂ずりの藤。

    三大神社、砂ずりの藤。

  • 三大神社、砂ずりの藤。

    三大神社、砂ずりの藤。

  • 三大神社、ライトアップされた砂ずりの藤。

    三大神社、ライトアップされた砂ずりの藤。

  • 三大神社、ライトアップされた砂ずりの藤。

    三大神社、ライトアップされた砂ずりの藤。

  • 三大神社、ライトアップされた砂ずりの藤。

    三大神社、ライトアップされた砂ずりの藤。

  • 三大神社、ライトアップされた砂ずりの藤。

    三大神社、ライトアップされた砂ずりの藤。

  • 三大神社、砂ずりの藤。

    三大神社、砂ずりの藤。

  • 三大神社、ライトアップされた砂ずりの藤。

    三大神社、ライトアップされた砂ずりの藤。

  • 三大神社、ライトアップされた砂ずりの藤。

    三大神社、ライトアップされた砂ずりの藤。

  • 三大神社、砂ずりの藤とたかティムさん。

    三大神社、砂ずりの藤とたかティムさん。

  • 三大神社、ライトアップされた砂ずりの藤。

    三大神社、ライトアップされた砂ずりの藤。

  • 三大神社、ライトアップされた砂ずりの藤と観光客。

    三大神社、ライトアップされた砂ずりの藤と観光客。

  • 三大神社、ライトアップされた砂ずりの藤。

    三大神社、ライトアップされた砂ずりの藤。

  • 三大神社、ライトアップされた砂ずりの藤。

    三大神社、ライトアップされた砂ずりの藤。

  • 三大神社、ライトアップされた砂ずりの藤。

    三大神社、ライトアップされた砂ずりの藤。

  • 三大神社、ライトアップされた砂ずりの藤。

    三大神社、ライトアップされた砂ずりの藤。

  • 三大神社、ライトアップされた砂ずりの藤。

    三大神社、ライトアップされた砂ずりの藤。

  • 三大神社、砂ずりの藤とたかティムさん。

    三大神社、砂ずりの藤とたかティムさん。

  • 三大神社、ライトアップされた砂ずりの藤。

    三大神社、ライトアップされた砂ずりの藤。

  • 三大神社、ライトアップされた砂ずりの藤。

    三大神社、ライトアップされた砂ずりの藤。

  • 三大神社、ライトアップされた砂ずりの藤。

    三大神社、ライトアップされた砂ずりの藤。

  • 三大神社、砂ずりの藤。そろそろ次の目的地を目指すとしよう。

    三大神社、砂ずりの藤。そろそろ次の目的地を目指すとしよう。

    三大神社 寺・神社・教会

  • 最後に志那神社にやって来た。

    最後に志那神社にやって来た。

    志那神社 寺・神社・教会

  • 志那神社、黒松の参道は真っ暗。

    志那神社、黒松の参道は真っ暗。

  • 志那神社、境内付近は照明が点いていた。

    志那神社、境内付近は照明が点いていた。

  • 志那神社の大藤。見頃のようにも見えなくはないが、一部ライトアップされてはいるものの夜に訪れる雰囲気ではない。

    志那神社の大藤。見頃のようにも見えなくはないが、一部ライトアップされてはいるものの夜に訪れる雰囲気ではない。

  • 志那神社の大藤。見頃のようにも見えなくはないが、一部ライトアップされてはいるものの夜に訪れる雰囲気ではない。

    志那神社の大藤。見頃のようにも見えなくはないが、一部ライトアップされてはいるものの夜に訪れる雰囲気ではない。

  • というわけで本日の守山草津藤の名所巡りは終了となった。

    というわけで本日の守山草津藤の名所巡りは終了となった。

    志那神社 寺・神社・教会

  • 今回は巡り切れなかったのだが、藤にまつわるお宮さん四社御朱印巡りは定番のイベントとなっている。

    今回は巡り切れなかったのだが、藤にまつわるお宮さん四社御朱印巡りは定番のイベントとなっている。

    立木神社 寺・神社・教会

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