2025/05/20 - 2025/05/20
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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
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《2025.May》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのLIX信楽~多羅尾代官所陣屋跡ボタン園を訪ねて編~
5月も半ばを過ぎ〝衣替え〟の時期となったが、イマイチ安定しない気温と天気。昼間はそれなりに気温が上がっても、帰宅する夜には上着を着ないとまだ寒いような気がする…。地球温暖化の影響もあるのだろうが、これ程〝日較差〟があると御老体には結構な負担がかかり、寝ても疲れが残っているように感じる日々が続いていた。加えて休日に限って天候不順となれば、外に出る気も起らず家でゴロゴロとしてしまう日が続いていた。そんな中最近〝お友達〟と化したwebニュースで、牡丹が見頃を迎えているこの報を聞く。場所は甲賀市信楽町の多羅尾。御斎峠を挟んで三重県伊賀市に接するエリアは、滋賀県でも南の果てというロケーション。そこに位置する多羅尾代官陣屋跡は、江戸時代に当地を治めた多羅尾氏の居住地であり代官所の跡地でもある場所である。名前は知ってはいたが、自宅からでも30km程の距離があるために〝用事〟もなく訪れる場所でもない。一時取り上げていたテーマ〝磨崖仏〟巡りの立ち寄り地として〝多羅尾滝の磨崖仏群〟を取り上げてやって来たことはあった。記録によると令和3(2021)年4月のことだと知る。もう4年も前のことなのか…と月日の経つのが年々早まって行くことを改めて感じ。年を取ったな~と思いたくはないが思ってしまう。勿論その折は他の立ち寄り地も含めてのことであったために休日利用のドライブであった。しかしGoogleさん曰く40分強で到着できる場所であると私を煽って来る。ならば出勤前に早起きしていくことも可能だと判断し、実際に行ってみることにした。もし〝多羅尾滝の磨崖仏群〟に立ち寄るならば、moveクンの方が場所を取らずに良いのだが、まーさんが乗って行ってしまっている。という訳で代車のNOTEクンで行くことが決まり、10:00に出発すれば一旦自宅に戻って出勤も可能だとわかったが、念のため通勤バックも持参で出発することにする。そんな半日のドライブはどんなものになったのであろうか?それでは始めるとしよう。
令和7(2025)年5月20日火曜日
全日に行程のアウトラインを組んでおいたために8:30に起床し、朝食後に出発をする。今回は昼間ということもあり、試し取りの意味も含めてXperia5Ⅳですべてを補うつもりで持参する。私の性格上行くまでに寄り道が多いことは今更言うまでもないことではあるが、今回に限ってはどこにも立ち寄らず、目的地へと直行する。国道422号線をひた走り、朝宮から307号線に入るルートは三重や甲賀に行く定番。それを辿るように走行し、信楽町中野のセブンイレブン前を右折する。この辺りは〝別の道〟なるものが存在せず、出発が同じであればルートも同じとなる。小川集落で県道信楽上野線に入り、茶屋出バス停交差点で右折し進んで行くと、多羅尾の街中をかすめると間もなく目的地である多羅尾代官所陣屋跡に到着する。
事前情報では陣屋跡前には10台分程の駐車スペースがあると書かれていたが、それが見当たらない。駐車場と書かれた看板はあるものの〝停めるスペース〟がどこなのかがホントわからなかった。目の前には〝満車の場合は多羅尾コミュニティセンターを利用〟とは書かれているものの、訪問者ゼロの状況下で…と思っているとふと思うことがあり実践してみた。それが正解でこの道路沿いにある小さな場所
=駐車場で、実際に道路と水平にNOTEクンを停めてみるとちゃんと収まっていることに気付く。正にコロンブスの卵状態だ!とちょっと感動し、時間もないので早速行動へと移すことにした。
この多羅尾陣屋代官所跡は、江戸時代初期から世襲で代官を務めた多羅尾氏の居館兼代官所跡で〝信楽役所〟〝信楽陣屋〟とも呼ばれていた。多羅尾代官は、多羅尾光太を初代とし、十代の光弼までに渡り代官職を世襲した。平成16(2004)年度に実施した裏庭園の試掘調査では二層の整地層が確認され、上層下位の堆積層から肥前磁器片が出土していることにより、江戸時代後期に修築されたと推定されている。多羅尾家に残されている建物棟札には多羅尾純門により嘉永2 (1849 ) 年に小書院の建替えされたことが記されており、また北庭園内に社殿の石灯籠の竿部には〝藤原純門〟の記名があることから、純門が代官職にあった天宝8(1837)年から慶応3(1867)年の間に陣屋全体が修築された可能性が高い。そして北庭園の二社が並立する西社殿から発見された棟札から、純門により嘉永元(1848)年に天満宮が再造され、明治36(1903)年に屋根の葺替えを行ったことが判明した。また東社殿からは宝暦6(1756)年の銅製の銘がある小型鏡5面に梵字の書いた神体が確認されていることからも、江戸時代後期に代官陣屋が整備された様子が伺える。代官陣屋の敷地は南北にやや弧を描くようにのび、陣屋建物や庭園があった上段の曲輪と蔵屋敷が設けられていたと伝えられる下段の曲輪に別れ、その中ほどに東から入る正面入口を設けられる。 現存する建物はないものの聞き取りや現地調査によって、主屋・表庭園・裏庭園・代官蔵・墓地などの位置がそれぞれ比定できており、明治末年から大正頃に撮影されたと推測できる古写真によって茅葺の主屋に格式の高い瓦葺の玄関を備えていたことがわかっている。また周囲の山林には〝多羅尾古城跡〟や〝多羅尾城山城跡〟などの中世城館も確認されており、当陣屋跡を居館とする中世の城砦群になる可能性が考えられている。全国的に見ても江戸期を通じて世襲代官は少なく、韮山代官の江川家や京都代官の小堀家などごく少数である。多羅尾陣屋代官所跡は古写真も残っており、明治期から大正期に至るまでの現状の経過をよく伝えている。遺構は江戸時代後期と見られる切石積みの石垣や、裏庭園の試掘調査では、江戸時代後期に庭園が修築され、現在の窪地部分に水が引かれていたことなど判明しており、近世の旗本屋敷及び代官屋敷の面影を残す歴史的意にも貴重な資料となっている。この多羅尾氏については鎌倉時代後期にこの辺りが近衛家の荘園だったことから、元の関白近衛家基が隠居していた。家基が亡くなった後次男の経平と多羅尾の地侍の娘との間に男子が生まれた。この男子が成人し嘉元元(1303)年に多羅尾の地名を姓として〝多羅尾師俊〟の名乗り、多羅尾氏の祖となった。南北朝の騒乱に於いては南朝方に付き、応仁年間には下向して来た関白近衛政家に信楽庄の管理を任せるように取り入り、京極氏と六角氏の争いでは六角氏側に付き犠牲を払うもののそれなりの戦功を立てた。それと同時に国人勢力の争いであった鶴見氏を追い払い、近衛家も京に返し守護受として完全独立を果たす。その後主君である六角氏の没落により以前から縁のあった徳川家康を通じて織田信長の外様衆となり伊賀征伐で功を立てた。天正十(1582)年の本能寺の変では、少ない手勢しか携えていなかった家康の三河帰国をサポート。従者等を付けて無事に加太峠まで送り届けている。この一件が後に多羅尾氏の運命を決定付ける出来事となる。小牧・長久手の戦いで多羅尾光俊は徳川方に付き、豊臣方の浅野長政を撃退、和睦条件として長政の一人娘を三男の嫁として輿入れさせる。これが縁で豊臣秀吉に従うようになったとされている。豊臣秀次が近江八幡に入った時に光俊は秀次を多羅尾で歓待し、次男の娘〝お万の方〟を秀次の側室にすることに成功した。その後多羅尾氏の領地は信楽・近江諸領・伊賀・山城・大和の計8万石に達し、全盛時代を築くこととなる。しかしこの入輿は思ったようには行かなかった。文禄四(1595)年の秀次切腹事件に連座する形で〝お万の方〟は処刑、同様に実家である多羅尾氏はことごとく改易となり、多羅尾氏は一瞬にして無禄となってしまったのである。
秀吉が亡くなった慶長三(1598)年、大坂にいた徳川家康は多羅尾で困窮している光俊のことを知る。〝伊賀越え〟の恩がある家康は、光俊・光太親子を配下に取り立てることにした。その後光太は上杉景勝討伐・関ヶ原の戦い・大坂の陣に参戦し戦功を挙げ、旗本として7000石の旗本として復活する。以来多羅尾氏は初代光太から十代に渡って信楽代官領をはじめ代々近江・畿内の天領代官職を任され、明治維新を迎えることとなる。以上が多羅尾氏と多羅尾代官所陣屋跡の概略となる。
残念ながら往時を偲ぶ建物遺構は殆ど残ってはいない。敷地内には石垣は残ってはいるが、崩壊寸前で立入禁止となっている建物は新しいものである。伝蔵屋敷跡という物はあるが、これもどうなのだろう?と思わせるものに過ぎない。また敷地内に〝小社〟が三社と記されているものの、見た感じではひとつしか無いように見える。明治期に撮られたとされる写真には確かに陣屋跡らしい構えの門や建物が写っており、間違いなくこの場所が遺構であることがわかるのだが、元来この場所は私有地であり、春と秋に一般開放されるだけであった場所である。甲賀市によると令和5(2023)年末に土地所有者より寄付されたと記されていた。旧家の維持には費用がかかる。また寄付者が多羅尾家とも書かれてはいないことから、由来書きに書かれてはいない第三者の不動産取得を経て寄付されたと考えるのが無難であろう。建物遺構に関しては残念だが、いくつか残っている物を後世に残していかねばならないとは改めて思う。
そういう歴史的遺構を別の意味で楽しんで貰おうと企画されたのが平成28(2016)年に多羅尾家の家紋でもある〝ぼたん〟の苗310本が入口付近に植えられた。その花の時期に合わせ、春の一般公開が行われている。ボタン園と記された花壇は鉄柵に囲まれており、入退園時に扉を開け締めして入らねばならない。なんとも面倒ではあるが、昼間でも獣害に遭うことがあるとの理由ならば致し方ない。こちらを訪れた理由がこのボタン園なので、鍵を開けて園内に入場する。ここ信楽という街は山に囲まれた典型的な盆地であり、冬は凍結し夏は酷暑となる場所である。その様な気候故に地面を覆うビニールシートに穴を開けて苗木を出しているといった一見するだけでは〝畑〟と思われるような場所である。特に今年のように極寒の冬だったことを考えれば、必要不可欠な対策だったのであろう。また今年に限っては〝春〟と呼ばれる時期になっても暖かくなったり寒くなったりでは、取っ払うことも出来なかったのかも知れない。まぁ理由はともかく〝満開〟のボタンを期待して入場したのだが…何か違う。というのも多くの花が萎れてしまっているのであった。数日前のwebニュースで満開の報と見頃は20日頃までとあった。勿論天候等に左右される開花情報であるために、タイミングがズレることはあっても数日間で大きく変わることはないだろうと考えるのだが、ここでふと思い出したことがある。ボタンは耐寒性こそあるが〝高温多湿〟には弱いという特徴だ。因みに今日令和7(2025)年5月20日は朝から気温が上がり、滋賀県下でも多くの真夏日を今年始めて記録した日である。現地に到着したのは11:00頃、既に〝夏〟の日差しが眩しかった時間であった。人間でもTシャツ1枚になりたいくらいの暑さの中で、暑さに弱いボタン達にはなす術がなかったのであろう。残念ながら日の当たる場所に咲いていたボタンの花は、既に体力を使い果たしました~という状態だったのであろう。1日早ければ見ることが出来た風景も違ったか?とも思いながらも今年訪れた〝証し〟としてその風景を切り取って行った。ただ日当たりの良い園地の中で、一部樹木の陰になっているエリアがあるのだが、そこに咲いていた僅かばかりのボタンは大きな花が咲き誇り、蕾も多数見受けられたことから、今後暫くは花を楽しめる様に思う。よりによって…の日に訪れたことを少し悔やみもしたが、概略がわかっただけでも収穫であった。
時間の都合もあるためにボタン園を出て代官所陣屋跡を巡ってみることにする。石垣や井戸等往時の遺構は残ってはいるものの、建物は最近のものだ。先述したがこの土地が寄贈された〝由来〟もよく分からないために何とも言えないが、土地所有者の居宅だったようだ。崩壊の危険性もあり立入禁止となってはいるが、建物脇には往時の遺構も確認できる。敷地内に3つあったとされる子社は、現存は一社だけである。敷地内には明治30年代に撮影されたという写真があり、そこにはしっかり門などの遺構が写っている。それから100年の月日が経ち、往時の遺構を残すまでの余裕がなかったのかも知れないが、書かれていなければここが代官所陣屋跡とはわからない状態になっていることは残念以外に何物でもない。神君家康の決死の伊賀越えをサポートした結果、明治維新まで旗本として続いた多羅尾氏の遺構であることを踏まえ、行政サイドでも再建させてもらえればと感じる場所であった。
まぁ代官所陣屋跡としての姿を残している訳では無いので、適当に散策した後に車に戻る。後から来た方々は私が駐車している様子を見て同じ様に車を停めていたようだ。車に乗り込むと御斎峠を目指して走って行く。多羅尾の街なかを過ぎると以前訪れた〝滝の磨崖仏群〟の脇を通過する。再訪して手を合わせたい気持ちはあるが、なんせここは駐車場がないためにスルーする。なんでも石仏を盗んだ心ない輩がおり、多羅尾区で返却を呼びかけてはいるようだが、解決には至っていない。少し腹立たしい思いになりながらも先に進んで行ったが、今度は曲がる道を間違えた。田舎ならばすぐに引き返せそうなものであるが、なんせ狭窄路であるために暫くは間違った道を走り続け、やっとUターンができる広場を見つけて方向変換し、予定の道を進むことが出来た。
御斎峠は滋賀県甲賀市と三重県伊賀市の境にある峠である。標高570mとさほど標高がある訳ではないが、その昔は伊賀伊勢道・京街道と呼ばれる主要道であった。本能寺の変の際には境に滞在していた徳川家康が、領国である三河に逃げ帰る際にこの道を通ったとされており、現在でも〝神君甲賀伊賀越の道〟と銘を打たれている道路でもある。この決死の逃避行に尽力したのが当時の多羅尾家当主の光俊である。豊臣政権下で秀次事件に於いて連座の咎で多羅尾氏はことごとく改易となり、一瞬にして無禄となってしまう。この窮地を助けたのが光俊に〝命〟を助けられた家康であり、光俊親子に禄を与えている。助け・助けられた家康と光俊は主従の関係を築き、家康が江戸幕府を開いた折に旗本に取り立てられている。その後は信楽代官領をはじめ代々近江・畿内の天領代官職を任されつつ明治維新を迎えることになった。そういった背景がある正に神君伊賀越の現場ではあるが、やはりここにも豊臣政権に対して不満を持たざるを得ない理由を見受けることができる。政略結婚の意味合いはあるが、八幡城主となった秀次に光圀は孫娘を側室に入れることには成功した。しかし秀次に対し謀反の疑いをかけて切腹をさせた後、一族を根絶やしにするよう所縁のある者に対し〝死罪〟を突き付けた秀吉の存在。そんな秀吉に対する憎しみめいたものは払拭出来なかったといっても過言ではないだろう。事実多羅尾家でも孫娘を殺され、お家も改易されたことに対し思う所はあったろう。出羽の最上義光の娘でやはり秀次の側室となった駒姫と同様に…。天下分け目の関ヶ原の戦いが開戦前から勝負がついていたとされる根拠のひとつとして、豊臣政権下での静粛に於いて、武家の恨みをかってしまったことが挙げられている。最上氏は有名だが、この多羅尾氏も然りである。秀吉亡き後は徳川方に付き、関ヶ原の戦い・大阪冬・夏の陣で豊臣が滅亡する遠因になったことは今更言うまでもない。秀吉は豊臣方の指揮権分散を危惧して秀次を亡き者にしたが、一族郎党迄を処分する必要があったのかは歴史が証明している。そのおかげで多羅尾氏が家康に取り立てられ、安泰の数百年を築き上げた。大名にこそなれなかったが、江戸時代を通じて天領の代官を務めることになったことも時代の流れを読んでいたように思えてならない。
そんな歴史ある御斎峠であるが、今回の目的地はその手前にある〝多羅尾仕置場跡〟であった。ここは江戸時代の処刑場跡であり、江戸時代毎年12月20日に牢屋から出された罪人は、裸馬に乗せられこの地で処刑されたと伝えられている。処刑方法は当時一般的だった〝斬首〟とされているようだが〝磔〟だったと言う説もあり、詳細は分かってはいない。しかし罪人とは言え少なからず人命が奪われた場所であることには違いなく、首無しとか鎧を着た武者の幽霊の目撃情報もあり、かなり有名な心霊スポットでもあることがその筋の情報として記されている。私自身戦跡を巡っていることもあるが、ビビりな性格のために〝肝試し〟的な気持ちを持って訪れることなど出来ないしする気もない。また霊感もないので行くことが怖いという気持ちにもならないのが正直な気持ちである。この仕置場跡にしても同様だが、多羅尾代官所陣屋跡を回るのに欠かすことのできない場所として訪れた次第である。木々が茂り鬱蒼とした雰囲気が漂う場所には二基の供養塔が建立されている。南無阿弥陀仏・南無妙法蓮華経と刻まれたそれぞれの供養塔は宗教上のものなのかとも思いながら、それぞれに手を合わせて死者の冥福を祈ることにする。霊感はないがあまりゆっくりする雰囲気の場所でもないので、早々に退散して車へと戻る。私は道路脇に車を停めたのだが、仕置場跡近くまで車で乗り入れることは可能のようだ。しかしこういった場所は前進で入ればバックで出てくるしかないことが多いので選択は正しかったように思う。多羅尾代官所陣屋跡遺構とボタン園、そして仕置場跡と本日の目的地巡りは終了となる。道路脇にはツツジや藤の花も咲いており、同じエリアでも場所によって花の時期がズレていることを認識する。
という訳で出勤前のショートトリップは終了し、帰路につくことにする。走って来た道をあと数百メートル走れば御斎峠であり、その先は三重県となる。出勤前に〝三重県に行った〟と言えばネタにはできるものの、遅刻すれば元も子もない。よってタラオカントリークラブ入口でUターンして石山へと走り始めることにした。
行きに走って来た道を戻るように進む。距離にして30kmの場所に位置する南郷公園に立ち寄って一服休憩を入れる。本日訪れた場所には〝喫煙所〟なるものがなかったためにここにやって来た次第である。一旦自宅に戻ってからバスで出勤することも考えたのだが、ダイヤ改正によってバス便が減少し、普段利用しているバス便に間に合うかどうか微妙な時間だったので、そのまま職場へと直行することにした。web情報では〝混雑〟しつつも〝空き〟があると表示されていたコインパーキングが何故か満車の表示がされていたために近隣の駐車場を利用することにしたが、今度は早く着き過ぎた感があったので、駅前迄歩いて行って一服してから出勤する。出勤前に信楽まで行って来たと言うとスタッフ皆驚いてはいたが、往復60km程度の距離であり、所要時間も1時間半程なのでたいしたことではない。というよりも〝暇人〟と思われたのが正直なことかも知れない。今年初の〝真夏日〟に行った〝信楽ドライブの旅〟は無事終了し、いつも通りに仕事をして夜に自宅へと到着する。何度もボヤいていることだが、たとえ月極駐車場の費用が自腹でも車通勤したい気持ちは強いのだが、出勤するタイミングが朝はま~さんの方が早く夜は私の方が遅い。そして我が家の駐車場は〝縦列〟なので毎晩車を入れ換える必要があり、それが面倒なのである。前にある車に乗って行けば良いだけなのだが、絶対にま~さんはしない。その問題が解決しないと車通勤も出来ない。バス待ちの時間やバス便の減少により混み合うようになった上に定時運行できないバス利用のことを考えれば、車の方が手軽でメリットは大きいのだが、家庭の事情でそうも行かない。事故られて以来代車の新型NOTEクンを運転するのがおっかないと見え、moveクンがま~さんの通勤に使われている。そのため私が好んで向かう〝狭窄路続き〟のエリアに向かうには、一回り大きいだけの小型車でも気が引ける。何とも面倒だと思う昨今、今回は久しぶりに実行に移せた信楽ドライブの旅であった。
《終わり》
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
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信楽町の多羅尾代官陣屋跡に到着。
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施設前にも駐車場があると記されているが見当たらない…。と思ったら今立っている場所がそうだった。道に垂直に停める様式であった。
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天空の街多羅尾、観光案内版。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園に辿り着く。獣害防止のため出入りは鉄柵を開け閉めして行う。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつとたかティムさん。
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イチオシ
多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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111多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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111多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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イチオシ
多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつとたかティムさん。
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222多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつとたかティムさん。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつとたかティムさん。
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多羅尾代官陣屋跡ボタン園にて、310株の牡丹の花のひとつ。
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(甲賀)市史跡多羅尾代官陣屋跡古写真。
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(甲賀)市史跡多羅尾代官陣屋跡、石垣。
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(甲賀)市史跡多羅尾代官陣屋跡、石垣。
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(甲賀)市史跡多羅尾代官陣屋跡古写真。
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(甲賀)市史跡多羅尾代官陣屋跡遺構図面。
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(甲賀)市史跡多羅尾代官陣屋跡。
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(甲賀)市史跡多羅尾代官陣屋跡、〝小書院〟玄関の埋甕遺構。
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(甲賀)市史跡多羅尾代官陣屋跡、これは最近まで使われていただろう住居跡。
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(甲賀)市史跡多羅尾代官陣屋跡、上の井戸跡。
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(甲賀)市史跡多羅尾代官陣屋跡、伝蔵屋敷跡。
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(甲賀)市史跡多羅尾代官陣屋跡、小社跡。
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(甲賀)市史跡多羅尾代官陣屋跡、食虫植物のような…。
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多羅尾代官陣屋跡の最寄りのバス停は甲賀コミュニティバス多羅尾上出だが、1日5便では観光に使うことは厳しいだろう…。
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多羅尾代官陣屋跡を出て徳川家康伊賀越の道を進み、多羅尾仕置場跡に到着する。
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この辺りではまだ〝藤の花〟が咲いていた。
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多羅尾仕置場跡に到着。
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多羅尾仕置場跡、南無阿弥陀仏と刻まれた供養塔。
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多羅尾仕置場跡、南無妙法蓮華経と刻まれた供養塔。
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多羅尾仕置所跡入口にはツツジが咲いていた。この後タラオカントリークラブ前でUターンして帰路に付いた。
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