2025/03/15 - 2025/03/15
15位(同エリア926件中)
noelさん
この旅行記のスケジュール
2025/03/15
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徒歩での移動
鳴子ホテル:8時10分発→鳴子温泉駅:8時15分着
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電車での移動
鳴子温泉駅:8時31分発→古川駅:9時15分着(陸羽東線)
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電車での移動
古川駅:9時48分発→一ノ関駅:10時06分着(東北・北海道新幹線はやぶさ103号)着
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電車での移動
一ノ関駅:10時15分発→平泉駅:10時23分着
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バスでの移動
平泉駅:10時45分発→中尊寺:10時49分着(岩手県交通一関中尊線)
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その他での移動
中尊寺:13時頃発→毛越寺:13時03分頃着(タクシー)
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徒歩での移動
毛越寺:14時頃発→平泉駅:14時10分頃着(徒歩)
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徒歩での移動
芭蕉館:15時頃発→無量光院跡・柳之御所遺跡→平泉駅
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電車での移動
平泉駅:15時52分発→北上駅:16時22分着(JR東北線)
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電車での移動
北上駅:16時48分発→横手駅:18時03分着(JR北上線)
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この旅行記スケジュールを元に
この日は鳴子温泉から平泉に向かいます。
前日は強風で陸羽東線が運休していたため、新幹線をキャンセルし、鳴子温泉に高速バスで向かうことになりました。
強風は未明まで続き、万が一電車が動いていなければ、やむなく鳴子温泉車湯10時15分発、仙台駅11時40分着の高速バスを利用するしかありませんでした。その場合は平泉には13時を過ぎて到着することになりそうでした。
ただ、朝一番で天気や交通情報を確認したところ、この日は風もおさまり電車も運行しているようでほっとしました。
ホテルからは鳴子温泉駅には約3分です。
早めに朝食を済ませてチェックアウトを8時には終えました。
平泉滞在時間が約6時間ぐらいになりそうです。
念願の平泉、楽しみです。
【旅程】
3月14日(金)
東京:9時36分発→仙台:11時06分(東北・北海道新幹線「はやぶさ13号」
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仙台駅牛タン通り「伊達の牛たん」
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瑞鳳殿
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仙台城跡
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仙台駅(お土産などの買物)
仙台駅:15時発→鳴子温泉車湯:16時25分着
→ホテルからの送迎
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鳴子ホテル
3月15日(土)
鳴子温泉駅:8時31分発→古川駅:9時15分着(JR陸羽東線)
古川駅:9時48分発→一ノ関駅10時06分着(東北・北海道新幹線「はやぶさ103号」
一ノ関駅:10時15分発→平泉駅:10時23分着(JR東北本線)→
平泉駅:10時45分発→中尊寺:10時49分着(岩手県交通・一関平泉線バス)
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中尊寺
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中尊寺発→毛越寺(タクシー)
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毛越寺
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毛越寺発→平泉駅着(徒歩)
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芭蕉庵(ランチ)
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無量光院跡
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柳之御所遺跡
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平泉駅
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平泉駅→北上駅→横手駅
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- グルメ
- 4.5
- ショッピング
- 4.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- タクシー 新幹線 JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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鳴子ホテルです。
こちらは前日、マイクロバスから降りた場所です。 -
新館1階(温泉のある階)から出て左に行くと駅に近いです。
約3分です。鳴子温泉 名湯の宿 鳴子ホテル 宿・ホテル
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鳴子温泉駅です。
土曜日朝のせいか静かです。鳴子温泉駅 駅
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外から駅のホームを撮った写真です。
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駅前にあった鳴子温泉郷の地図です。
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【鳴子の地名由来】
源義経が兄(頼朝)に追われて奥州平泉に逃れる途中、北の方(正室)が亀割峠で亀若丸を出産しましたが、なかなか産声をあげず、この地に入り川原湯の温泉につかった時、初めて産声を上げたことから、この土地を「啼子(なきこ)」と言い現在の「鳴子」になったという説です。
曾良「奥の細道随行日記」の「名稱備忘録」に鳴子の湯と判官殿(義経のこと)のことが記されてあり、江戸で義経伝説を聞いていたのではないかと思われます。 -
鳴子温泉ぽっぽの足湯
朝温泉に入りましたので見るだけ。 -
回送の電車が止まってました。
この近隣の電車は自分でボタンを押して開け、ボタンを押して閉めます。
開けっ放しだと車内が寒くなってしまいます。
しっかり押さないと開きません。 -
このドアの向こうに待合室があるように見えますが、実は扉が1枚あるだけでした。
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写真は回送電車です。
新庄方向はしばらく運休しています。
古川方向からの電車は約10分遅れて到着し、また古川方向に向かいます。 -
古川駅です。
ちょっと買い忘れたものなどがあったら、こちらでも購入できます。 -
駅の中の土産物屋さん
古川駅 駅
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新幹線に乗り換えます。
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この1本後の新幹線に乗りました。
そして一ノ関で乗り換えて平泉へ向かいました。 -
平泉駅前です。
まずはコインロッカーに荷物を預けました。
この写真の左側にありました。
また、その横にはレンタ・サイクルもあって、利用者は荷物を預かってくれるようでした。
その後は10時45分のバスで中尊寺へ行くことにしました。
バスを待っている間、夫はお蕎麦屋さん『芭蕉館』店主に、敷地内で喫煙させていただいてました。
ついでにお店の混雑状況など教えてもらっていました。平泉駅 駅
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駅からロータリーを眺めた様子です。
荷物を預けてから気付いたのですが、この写真の左のお店でも荷物の預かりサービスがあったようです。確か200円だったような‥‥。
中尊寺へのバス停は右側にあります。 -
【武蔵坊弁慶大墓碑】
バスに乗ってやってきました。弁慶の墓碑です。
文仁年(1189)義経の居城高舘を焼き討ちされるや、弁慶は最後まで主君を守り、遂に衣川にて立ち往生することになりました。
遺骸をこの地に葬り五輪塔を建て、後世中尊寺の僧、素鳥(そちょう)の詠んだ石碑が建てられました。
『色変えぬ 松の主や 武蔵坊』 -
さて、いよいよです。
混んでいなそうで良かったです。
中尊寺の駅で降りた時は、それなりに観光客がいましたが、皆さんそれぞれタクシーなり歩くなり、さっさと向かいました。
この日は割と時間に余裕があるので、いつもになくゆっくりやってきました。 -
【関山中尊寺】
山号は関山、本尊は釈迦如来、開山は円仁、天台宗東北大本山のお寺です。
まず、小さな橋を渡ります。
寺伝によると、嘉祥3年(850)、比叡山延暦寺の高僧慈覚大師円仁によって開かれました。
円仁は中国での9年間にわたる求法の旅をへて、密教や念仏などの教えを日本にもたらしました。
※ 山号を「関山」というのは。この山が旅人往還する衣の関路であったことに由来するようです。中尊寺 寺・神社・教会
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【月見坂】
風情のある名前の参道です。
江戸時代に伊達藩によって植樹された樹齢350年を超える老杉に囲まれています。
杉の木のお陰で、夏は暑さを凌げそうです。
ただ、おそらく杉並木のない時代は、月灯りが参道を照らしていたのではないでしょうか・・・。
今でも木々の間から月明かりが照らしてくれたら趣きがありそうです。 -
左には八幡堂があります。
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総門の跡です。
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弁慶堂は月見坂を登り、左に入ります。
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【弁慶堂】
文政10年(1827)の建立です。
ご本尊は勝軍地蔵で、古くは愛宕堂と称していました。
源義経や弁慶の木像を安置していて、明治以降は弁慶堂と呼ばれるようになりました。
お堂の天井には60種余りの草花が描かれています。 -
右:御守護の雷神塔
左:六道能化の金剛宝地蔵大菩薩 -
案内図です。
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月見坂から眺めた弁慶堂です。
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さらに杉並木です。
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【梧逸句碑】
『清衡の 願文の意の 大文字』
遠藤梧逸(1893年ー1989年)の句碑です。
岩手県前沢町生まれの俳人です。 -
【西行歌碑】
月見坂から右側に入った所に歌碑がありました。
西行は私の好きな歌人です。
『きゝもせず 束稲やまのさくら花 よし野のほかに かゝるべしとは』 -
【束稲山が見える光景】
西行は2度、平泉を訪れているようですが、この和歌のように、吉野の他にこんなにも美しい桜があるなど、知らなかったのでしょう。
往時は薄桃の花で山が霞んで見えたと言います。
西行さくらの森まつり植樹会(束稲山さくらの会主催)によると2023年4月22日に現地の児童ら120人が植樹したようです。
また美しい桜が見られるといいですね。
「願わくば 花の下にて春死なむ その如月の望月の頃」
「吉野山 さくらが枝に雲散りて 花おそげなる年にもあるかな」
「吉野山 去年のしをりの道かへて まだ見ぬかたの花を尋ねむ」
「ながむとて 花にもいたく馴れぬれば 散る別れこそ悲しかりけれ」
「雪と見て かげに桜の乱るれば 花の笠着る春の夜の月」
西行の吉野山の桜の和歌です。
また、衣川があります。衣川は北上川と合流しています。昔は前九年の役の舞台となった古戦場です。この衣川が境界線になり政府の手が届きませんでした。 -
杉の木を見上げて撮ってみました。
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【瑠璃光院】
こちらは竹藪になっているようです。 -
【地蔵堂】
1877年に再建されました。
本尊は地蔵菩薩です。
隣の祠には道祖神が祀られています。 -
お地蔵様が祀られていました。
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可愛らしい招き猫のおみくじがありました。
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【奥の細道展】
積善院のお休み処です。 -
お抹茶がいただけるようです。
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甘味処・・・趣があり、寄り道したいのですが、朝食をしっかりいただいたせいで、全然お腹はすきません。
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【薬師堂】
1885年の改築です。
本尊は薬師如来で、日光・月光菩薩と十二神将を安置しています。
熊野権現の御神体を並び祀っています。実は熊野より飛来したと伝えられています。
正月4日には中尊寺一山の僧侶によって修正会が行われます。 -
【観音堂】
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観音様です。
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青色のポストがありました。珍しい色で、しかも文様もあります。
ちなみに平泉の駅にも同じものがありました。
これは「紺紙金銀字交書一切経」のデザインを基調としたものだそうです。
金色堂の柱に螺鈿で描かれている「宝相華唐草紋様」です。
美しすぎるポストです。
通常は赤ですし、他の国でも黄色は見たことがありますが、この落ち着いた紺色は初めてです。平泉にふさわしい色です。 -
お店に並んでいた岩手県特産の南部鉄です。
IHも使用可能なようです。「及川栄喜作」です。 -
工事のため、本堂には右にある裏門から入ります。
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【本堂】
明治42年(1909)に再建されました。
本尊は丈六の釈迦如来です。
高さ約2.7m、台座などを含めると総高は5mにもなります。
中尊寺の大壇主藤原清衡公が「丈六皆金色釈迦」像を鎮護国家大伽藍の本尊として安置したことにならい平成25年(2013)に造顕・開眼供養されました。
中尊寺は天台宗の天本山であり、本尊の両脇にある灯籠には、宗祖伝教大師最澄以来灯り続ける「不滅の法灯」が護持されています。
中尊寺の寺格は別格大寺、天台宗東北大本山です。 -
本堂でいただいた御朱印です。
本堂の中に入ることができました。
この中尊寺の歴史の説明などが展示してありました。 -
【鐘楼】
周囲は工事中です。 -
松の木です。
枝が広がり支えきれなくなっています。
そのため整姿をしているようです。
竹で支柱をたてて固定させています。 -
【中尊寺開山】
中尊寺は嘉祥3年(850)、比叡山延暦寺の高僧慈覚大師円仁によって開かれました。(寺伝)
中国での9年間にわたる求法の旅をへて、密教や念仏などの教えを日本にもたらしました。帰国の後、第三代天台座主となった円仁は、この7前後、東北地方への布教をおこない、多くの寺院を開きました。 -
【中尊寺伽藍の造営に着手】
長治2年(1105)より、藤原清衡公が堂塔伽藍の造営に着手します。
はじめに白川関(福島県)から外浜(青森県)まで一町(約109m)ごとに笠卒都婆と呼ばれる供養塔を建て、その中心にある中尊寺の山に一基の塔を建てたといわれます。
その後、多くの伽藍が造立され、最盛期にはお堂が40あまり、僧侶の住まいが300あまりに及びました。 -
【中尊寺落慶供養】
大治元年(1126)、中尊寺大伽藍の落慶供養がおこなわれます。
この清衡公によって読み上げられた願文の内容は、11世紀後半に東北地方で続いた戦争(前九年・後三年の戦い)で亡くなった生きとし行けるものの霊を平等になぐさめ、辺境とされた東北地方に、仏国土(仏の教えによる平和な世界)を建設する、というものでした。
それは戦争で父や妻子を失い、骨肉の争いを余儀なくされた清衡公の非戦の決意でもありました。 -
【平泉の隆盛】
二代基衡公は毛越寺、三代秀衡公は無量光院を建立して平泉に仏教文化が花開きます。当時、東大寺大仏殿再建の勧進に平泉を訪ねた西行は、中尊寺の東方に横たわる束稲山を眺め、「聞きもせず たばしね山の 桜ばな 吉野の外に かかるべしとは」(聞いたことのない束稲山の桜花よ 名に知られた奈良吉野の千本桜のほかにこれほどの桜の名所があったとは)と詠みました。
また、平泉の北、衣河館には三代秀衡公をたよって源義経が身を寄せ、来るべき動乱の幕開けを予感させていました。 -
【平泉滅亡】
治承4年(1180)、兄源頼朝の挙兵に呼応して伊豆黄瀬川の陣にかけつけた義経は破竹の勢いで平家を追討し、一躍英雄となります。しかし、頼朝との不和によって追われる身となり、文治3年(1187)再び平泉に身を寄せます。同年10月に秀衡公が病死すると、四代泰衡公は頼朝の圧力に耐えかね、義経を自害に追い込みます。しかし、頼朝のもと鎌倉の軍勢は奥州を攻め、文治5年(1189)、藤原氏は滅亡します。鎌倉幕府は奥州の国務は藤原氏の先例に従うように命じ、御家人の葛西清重に平泉の安全を保つように命じました。 -
【建武の大火】
南北朝時代に入り、南朝方の鎮守府将軍北畠顕家は藤原清衡公の中尊寺建立にこめた願と、往時の伽藍の様子を後世に伝えるべく「中尊寺建立供養願文」を書写し、それが寺史の第一級資料として現在に伝えられています。旧鐘楼の梵鐘に刻まれた銘文によると建武4年(1337)、中尊寺に大きな火災があり、金色堂や一部の宝物を残して多くの伽藍が焼失しました。 -
【江戸時代の中尊寺】
江戸時代、平泉は仙台藩の領地となります。
歴代の伊達公は寺の収入を保障し、堂社を修理するなど中尊寺をあつく保護します。参道ぞいに立ち並ぶ樹齢350年の杉並木も仙台藩によって植樹されたものです。山内に点在するお堂の多くもこの時代に建立されました。
また、伊達公は能楽を愛好し、古来中尊寺の僧侶により山内の白山神社に奉納されてきた御神事能を推奨し、能舞台を建立して能装束を奉納しました。 -
【中尊寺年表】
藤原氏の略系図もあります。 -
【芭蕉翁来訪】
元禄2年(1689)、松尾芭蕉は門人の曾良と2人「奥の細道」の旅に出ます。
5月13日、平泉を訪れた芭蕉は、まず義経公の居城があったと伝えられる高館に向かいます。丘の頂に忽然とあらわれるのは束稲山のふもとに悠然と横たわる北上川と、それに合流する衣川。
そこには往時の栄華はありませんでした。
「夏草や 兵どもが 夢の跡」
続いて中尊寺を訪れた芭蕉は、かねてより伝え聞いていた金色堂に参詣します。
鎌倉北条氏によって建てられたといわれる覆い堂の中で朽ち果てた金色堂はかろうじて光を投げかけます。
「五月雨の 降残してや 光堂」
源義経が平泉で自害し、奥州藤原氏が滅亡して500年目にあたる年でした。 -
【国の宝から世界の宝へ】
明治時代以降、金色堂は国の補助のもと数度の修理がおこなわれます。
昭和25年(1950)には金色堂須弥壇の内に900年の間安置されてきた藤原四代公の御遺体の調査がおこなわれました。
昭和26年(1951)には比叡山延暦寺より不滅の法灯を分灯し、天台宗東北大本山の称号を認められました。
昭和37年(1962)より6ヶ年間、金色堂は解体大修理が行われ、創建当初の輝きを取り戻しました。
ご遺体学術調査の際に四代泰衡公の首桶から発見されたハスの種が平成10年(1998)には開花に成功し、[中尊寺ハス]と命名され夏の境内に清楚な花容を見せてくれます。
平成23年(2011)には「平泉ー仏国土を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群ー」として世界遺産に登録され、奥州藤原氏の平和思想にもとづく文化が世界に発信されることになりました。 -
【金色堂建立900年ー七宝荘厳の極楽浄土ー】1
明治30年(1897)に行われた金色堂修理の際、屋根裏の部材である棟木から発見された墨書により、金色堂は天治元年(1124)8月20日建立(上棟)されたことが明らかになりました。また、令和6年(2024)はそれから900年目にあたります。
朝廷と蝦夷との間で紛争の絶えなかった平安時代、陸奥国の在庁官人の父と蝦夷の一族・安倍氏出身の母との間に生まれた清衡公は、度重なる戦争で父や兄弟・妻子を失います。奇しくも戦争を生き残り東北地方を治めることになった清衡公は、平泉に金色堂をはじめとする中尊寺伽藍を建立しました。「七宝荘厳の極楽浄土」と称される金色堂の発する七色の光には、戦乱で失われたすべての生命に対する鎮魂と普皆平等への祈りが込められています。
金色堂須弥壇の中には今なお清衡公はじめ奥州藤原四代の御遺体が納められています。
【中尊寺落慶900年ー「中尊寺建立供養願文」の世界ー】2
大治元年(1126)3月24日、中尊寺の伽藍落慶にあたり清衡公は願文を捧げました。令和8年(2026)はそれから900年目にあたります。
それは亡くなる2年前、清衡公の遺した最期のメッセージでした。
立場の違いによって繰り広げられきた古今の戦争により死んでいった人々(官軍・蝦夷)、そして戦争に巻き込まれて故なくて死んでいった多様な生命(毛羽麟介)を等しく供養し、安らぎの世界(安養の浄刹=浄土)に導きたいものです。
すべての世界(鉄囲砂界)、すべての生命(胎卵湿化)の伽藍落慶の利益が及んでゆきますように。
戦乱に明け暮れた前半生、みやことみちのくの共栄に腐心した後半生を生きた清衡公は、多様な立場や生命のありかたを肯定し、世界全体の幸福を祈願したのです。
藤原清衡公900年御遠忌ー光伝える金色の霊廟
京貴族の日記によると藤原清衡公は大治3年(1128)7月13日、73歳で逝去したと記載されています。中尊寺では7月17日を清衡公のご命日と定め、御月忌法要が厳修されています。
鎌倉幕府による歴史編纂書「吾妻鏡」には清衡公の臨終を次のように記しています。
入滅の都市に臨んで、俄に逆善を修し、百ケ日結願の時に当たり、一病なく合掌して仏号を唱え、眠るが如く閉眼し訖んぬ。
極楽浄土を遂げた人々の伝記を記した「往生伝」に通じるこの記述には、「追善」(死後の往生のために生前に善を修めること)の行を終えて静かに浄土に赴いた清衡公の臨終の非の様子が描写されています。
【藤原清衡公900年御遠忌-光伝える金色の霊廟】3
京貴族の日記によると藤原清衡公は大治3年(1128)7月13日、73歳で逝去したと記載されています。中尊寺では7月17日を清衡公の御命日と定め、御月忌法要が厳修されています。
鎌倉幕府による歴史編纂書『吾妻鏡』には清衡公の臨終を次のように記しています。
『入滅の年に臨んで、俄かに逆善を修し、百ヶ日結願の時に当たり、一病なく合掌して仏号を唱え、眠るが如く閉眼し訖んぬ』
極楽浄土を遂げた人々の伝記を記した「往生伝」に通じるこの記述には、『追善』(死後の往生のために生前に善を修めること)の行を「終えて静かに浄土に赴いた清衡公の臨終の日の様子が描写されています。
中尊寺鎮護国家大伽藍の落慶法要から2年と4ヶ月、その御遺体は金色須弥壇の内に安置されました。その後金色堂には奥州藤原氏四代の御遺体が納められ、現在に護持されてます。 -
【本堂】
本尊は丈六釈迦如来坐像
2.7mで、台座、光背を含めると5mにもなるそうです。
本尊の両脇にある灯籠は「不滅の法灯」です。
天台宗の象徴的な灯です。宗祖伝教大師最澄が点して以来消えたことがないと言われています。
これは総本山である延暦寺から分けてもらったものです。
これと同様の「不滅の法灯」は山形県の立石寺にも灯されています。 -
手水舎
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境内の様子です。
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池がありました。
この池ではありませんが、興味深い話があります。
それは「中尊寺ハス」です。中尊寺ハスは、現在、鎌倉の史跡永福寺跡にあります。この永福寺は源頼朝が平泉にあった中尊寺二階大堂を模して建立しました。
かつての敵であった鎌倉に平泉町からハスの寄贈がありました。
まずは『泰衡の首桶』について。
先ほども少し触れましたが。
以前忠衡と伝えられたその首級が、実は兄泰衡であることが調査の結果判明しました。
ただ、いかなる人が泰衡の首級を金色堂内に納めたのかはわかりませんでした。
そんな中、棺内から採取されたハスの種が800年ぶりに開花しました。
「吾妻鏡」文治5年9月3日の条に、「泰衡は、郎従河田次郎を相恃み肥内(比内)郡贄柵に到るところ、河田忽ちに年来の旧好を変じて泰衡を相囲ましめ梟首」と伝えられています。
河田は、頼朝の陣所に主人の首を持参しましたが、かえって主に背いた罰で斬罪に処されました。
泰衡の首は、前九年の役において頼義が貞任の頭に釘を打って処刑した故事に倣って、架上に釘で懸けられました。
遺体調査で、この首級には7度も斬られた痕があり、額から釘穴が貫通していることが判明したのです。
まさに「吾妻鏡」の伝える泰衡の首級では・・・・。
まず、その首級を降ろし、金色堂に納めたのは誰なのでしょう。
その首級の耳から頬にかけて斬られた痕が丁寧に縫合されていたのです。
血に汚れ浮腫んだ死人の顔を両掌に抱え、汚れを拭い傷を整形して、往生を願った人とは、おそらく肉親であればこそと思われるのです。
「尊卑分脈」には、その俊衡に付して「秀衛舎弟なり」と記しているのです。
頼朝は、降人俊衡が齢六旬を過ぎて霜髪を剃った姿を憐れに思い、身柄を八田知家に預けました。俊衡は何を聴かれても法華経を読誦するだけで他に一言も発しなかったのだそうです。それがまた、仏法に信心篤かった知家が心に感じたといいます。知家がそのことを言上すると、頼朝は、あえて罪名を定めずに比爪氏の本所を安堵したと「吾妻鏡」は記しているのです。
これらの事情から、たとえば、一族の比爪入道俊衡なり弟の季衝なら、泰衡の首級を貰い下げ、縫合手術させて、金色堂の秀衡の棺の傍に、父子一処に眠らせてやりたいと思ったことでしょう。
またその際に、頼朝に敵対した張本の泰衡では憚りがあるので「忠衡の首級」ということにした可能性もあります。
つまり忠衡首級という寺伝は、当事者の間で黙認された虚構であったということになっていまいます。
わざと虚を伏せて世間に認めさせ、後世にもそれを事実として通すには、当事者の沈黙が必要になります。
そして、首級を貰いうけた所から程近い比爪氏の本拠地(紫波町)の、五郎沼のハスを死者に供え菩提を弔ったのでは・・・・との推測もできますが。
ただ文治5年は、閠4月があって、1年が384日で、二十四節気でいえば、この年は8月4日が秋分、9月4日つまり泰衡が惨死した翌日が霜降です。
首実検された6日は、西暦(ユリウス暦日)の10月17日にあたります。ハスの花が咲く時季ではありません。
ただ、後年だれかが、ハスの花を切って供えたと想定した場合でも、ハスの花は開花して4目目には散ってしまいます。
ハスの種子は首桶のなかに80粒ほどあったようで(現在残っているのは74粒)、直径34.5cmの桶の中に、首級の隙間にそれだけの花を入れる余地などありません。
つまり、ハスの花ではなくて「種子」を入れたのかもしれません。
花季は疾うに過ぎてしまっていたからでしょうか。
参照:「平泉中尊寺 金色堂と経の世界」
著者:佐々木邦世氏 -
【峯薬師堂】
かつては境内の別峯に建っていました。
ただ度重なる野火にあい、1689年に現在地に移されました。 -
讃衡蔵に安置されている丈六の薬師如来はもとはこの堂の本尊でした。堂の向かって右傍に建つ石造の宝塔は12世紀のもので、重要文化財に指定されています。
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目の御守
もと経塚山(金色堂の南方)の下にありましたが、天正年間(1573~1591年)に荒廃しました。のち元禄2年(1689)現在の地に再建しました。
堂の面積は32.5坪、型式は桁行3間梁行3間の瓦葺の単層宝形造りで、御本尊は丈6(約2.7米)の薬師如来の座像でカツラ材の寄せ木造り、金色に膝を塗り金箔をおいたもので、藤原末期の作で現在重要文化財として讃衡蔵に安置されています。
現在の御堂は昭和57年の改築でご本尊も薬師如来を中心に日光菩薩、月光菩薩の三尊とし、堂の改築を契機に昭和63年、前立本尊として仏師松尾秀麿師の謹刻になるものです。
薬師如来は大医王仏とも言われ、正式には薬師瑠璃光世界の教王です。
除病安楽・息災難苦等を消滅させてくれる絶大な功徳をもっている御仏として古くから信仰されています。 -
【不動堂】
昭和52年建立の祈祷堂です。
不動明王は1684年、仙台藩主伊達綱村公により天下泰平を祈願し新調されました。 -
不動明王様は、邪を破り、過ちを正してくれる仏様です。
家内安全・病気平癒・受験合格・交通安全などの御祈祷をしています。 -
【大日堂】
1802年の再建です。
石造の宝篋印塔は1823年に造立されました。 -
本尊は金剛界大日如来です。
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【旧梵鐘】
康永2年(1343)に金色堂別当頼栄の発願によって鋳造されました。
ただ長年の打鐘で窪んでしまい、現在は使われていません。 -
「寺ミス」(o^―^o)ニコ
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【讃衡蔵】
この右側で拝観チケットを購入できます。
私はSuicaで支払いました。
藤原氏の残した文化財3000点あまりを収蔵する宝物館です。
撮影は禁止でした。
平安期の諸仏、国宝中尊寺経、奥州藤原氏の御遺体の副葬品などが納められております。
特に目を見張るのが「金光明最勝王経金字宝塔曼茶羅図」でした。
宝塔は文字で埋め尽くされています。
紺の紙に金の字で書かれた「紺紙金銀字交書一切経」などのお経も美しすぎてため息がでます。
昨年東京の五島美術館でも同様のものを拝見しました。
現在、中尊寺には僅かに15巻を残すのみで、大半の4296巻(国宝)は高野山金剛峯寺に伝えられています。
また観心寺に166巻(重要文化財)、東京国立博物館に12巻(重要文化財)、奈良国立博物館などに、伝えられています。
これは紺紙に銀泥で界線を引き、金銀泥で一行ずつ交互に経文を書写した一切経です。藤原氏の発願により書写され、「中尊寺経」と称されます。
永久5年頃から8年程かけて書写し、中尊寺建立供養の前に完成させたと考えられています。
不要になった文書を紺色に染めた料紙も利用されていることが確認され、紙は都周辺で調達されたようです。
【金泥銀泥の書写方法について】
金泥銀泥の文字をみがいたようです。金泥で書かれた字をみがくのに最もいいのは猪の牙で、しかも若い猪のが固くて良いそうです。
金銀泥を溶くには膠を使います。膠は獣の骨などで作られます。植物性の黄濁点葵を用いたものは数年経つ駄目になるようです。
ちなみに中尊寺の銀字は黒ずんでません。銀は普通は錆やすいのです。
銀泥にできるだけ多くの金泥を混ぜて含有させると酸化しにくいのですが、実は別の工夫があるようです。
別に筆を用意し、字をみがいた後に、筆に牛乳をつけて字の行の上を塗ります。すると薄い脂肪の膜が字の表面を覆い、直接空気に触れないため黒くならないそうです。
昔の人々はこのような秘伝のようなことをご存知でした。 -
拝観料は1000円でした。
このチケットで金色堂と讃衡蔵と経蔵と旧覆堂を鑑賞できます。
つまり、中尊寺のそれ以外の場所は無料ということになります。 -
こちらが金色堂への入口です。
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【金色堂】
この先は撮影禁止です。 -
さて、いよいよです。
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金色堂は撮影禁止なので、冊子を撮ったものです。
薄暗い堂内に光り輝いていました。
建物の内外を金箔で覆っているため「皆金色」とも言われてます。
また金箔のみならず、象牙や漆、夜行貝の螺鈿細工などの装飾が施されています。
中央壇には藤原清衡(初代)
右には藤原基衡(二代)
左には藤原秀衡(三代)
左の右壇には藤原泰衡(四代)の首級
阿弥陀如来像、観音勢詞至菩薩像、地蔵菩薩像など33体の金色の仏像が安置されています。
泰衡を別にすると、まるでギザの三大ピラミッドのよう。
クフ王、カフラー王、メンカウラー王のようです。
そして、御遺体はミイラ化していました。
中でも秀衡のものが保存状態が1番良いようです。
ミイラ化した原因ですが、人工的に作られたという説もあるものの、自然になったようです。ミイラ化しやすい環境だったのでしょうか。
実は東北地方ではミイラ作りの習俗がありました。
また、特別な加工をした形跡はないのですが、ある程度の処置をしたようです。
それはどの程度かと言うと・・・・。
例えば白河法王が崩御されたのが、清衡卒去の翌年の7月7日で、同じように暑い季節ですが、源師時の日記である『長秋記』には、その夜の遺体処置についても詳しく記述しているようです。それによると、近習の人々がやってきて、板敷の上に砂を5、6寸ばかり積み、その上に畳裏や薦などを敷いて、遺体をそれに臥せさせ、単衣でもってお体を「推し纏い」奉ったようです。袖を通さずに体を覆ったようです。
※ 師時は鳥羽天皇の皇后美福門院得子の伯父にあたり、記事は宮廷内の機微に触れています。
そして、これは基隆の所為である、と記述があったようです。
ここにいう法王の遺体を処置した基隆とは、堀河天皇の乳母子で当時55歳で、伊予守基隆です。後に平泉にかかわってくる民部少輔基成(女が秀衡の室)は、基隆の孫にあたるそうです。さらに、そうした遺体の処置が「前朝の時もかくの如く」にしたと書いているのは注意すべきです。
この記述のように東北に限ったことではないようです。
清衡の棺内の所見について毛利登氏の報告が詳しいようです。
それによると、棺の底部にかなりの砂があったようです。これは『玉葉』に養和元年(1181)12月崩御された皇嘉門院の葬儀のことで、入棺にあたって棺底に土砂を入れたことが記されていたようです。
また清衡棺の棺底に藺筵(いむしろ)が敷かれていた跡が確認されました。藺筵の断片や絹袷袴も筵の目が残っていたとあります。藺筵の残欠は3棺それぞれから検出されています。それでまず、白河法王の場合と同じように薦か藺筵の上に横臥させたものと推測されるようです。
土砂についての記述ですが、木棺の底部、殊に足の方には1~3cm位砂が入っていました。その砂の中からも金塊を発掘したそうです。
また、葬礼に棺内に「呪砂」を加えることは平安時代の文献に散見するらしく、それであったかもしれないようです。
土砂加持というのは、光明真言を誦して加持した土砂を死骸や墓に散じると、土砂の功徳によって極楽浄土に往生し、菩薩を得られるという密教の祈祷修法です。 -
金色堂を語る時、どうしても気になるのが京都の金閣寺です。
金閣寺は室町幕府3代将軍の足利義満が1398年に建てた金の舎利殿のことです。
足利義満の別邸として建てられたのが始まりです。
表面積は圧倒的に金閣寺の方が大きいのですが、金色堂はそれよりも274年も前に建築されました。
また、金閣寺のほかに金と言えば、東大寺の大仏です。
この大仏は752年に完成しました。表目に金が塗られています。
そしてその際に使用されたのが宮城県涌谷町で採れた金です。
宮城県北部から岩手県南部の地域では砂金採りが続けられました。
金色堂の建設以後も、金を追い求めて山から金鉱石を採掘する金山の開発が始まりました。
特に黄金と言うとマルコポーロの東方見聞録にある『黄金の国ジパング』も気になるところです。
マルコポーロは13世紀末に生きています。
ただ、モンゴルや中国には来てますが、日本には足を運んでいません。ジパングは中国人から聞いたのでしょう。
そして、その黄金こそこの金色堂、東北の金の産地を示しているのではないでしょうか・・・・。実際には来日していないので、曖昧な部分が多いのですが、想像としてはまんざらでもないように思います。 -
金色堂でいただいた御朱印です。
堂内でいただきました。 -
【句碑】
福地直哉「眼にうれし こころに寒し 光堂」
伊藤雅休「なな重八重の霞を もれて光堂」 -
【辨財天堂】
本堂の辨財天十五童子は宝永2年(1705)仙台藩主、伊達綱村公正室仙姫の寄進。
現堂宇は正徳6年(1716)に建立されました。 -
中尊寺の地図です。
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昭和45年10月 岩手県にて開催されていた第25回国民体育大会に天皇皇后両陛下が行幸啓の折、県内各地をご覧になり、たまたま中尊寺にお立ち寄りになられました。この歌碑はその折 天皇陛下が金色堂に因んで詠まれた御製を記念して建立しました。
御製 平泉中尊寺にて
「みちのくの 昔の力 しのびつつ まばゆきまでの 金色堂に佇つ」 -
【芭蕉翁句碑】
「五月雨の降り残してや光堂」 -
【中尊寺経蔵】
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中尊寺経蔵
創建時の古材を用いて再建されたものであり、堂内には平安時代の彩色文様が確認できます。国内最古の保安3年(1122)棟札が伝えられました。本尊の騎師文殊菩薩と四眷属像(重文)、堂内具(国宝)、紺紙金字一切経(国宝)等の経典類は、現在讃衡蔵に安置・収蔵されています。 -
根が張り出して凄い階段になっています。
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【開山天満宮】
この天満宮は鎌倉時代、菅原道真公第十四世孫五条為視公が勅命により奥州平泉へ下向逗留の時、出生した乙王丸(後の中尊寺経蔵別当第十三世行栄和尚)に京都北野大自在天神の御真影と観世音菩薩をお祀りしています。
また、この霊地は平安時代、陸奥守源頼清が衣の閨を守護し世の平安を祈願するために鎮守府の弓矢を納めて天神地祇を祀り閨の神社を造営した地でもあります。
天神様の名で親しまれている菅原道真公は、学問、文学、書道の神様として世に広く栄敬され、御縁日は毎月25日となっています。
菅公御詠
東風ふかば にほいおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春なわすれそ -
【芭蕉翁像 奥の細道】
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奥の細道は、芭蕉は元禄2年(1689)に、弟子の曾良を伴って江戸を出発し、奥州、北陸を巡った紀行文です。
この年は、芭蕉が尊敬している西行の500回忌にあたる年でした。 -
【金色堂覆堂】(重要文化財)
正応元年(1288)の棟札より、鎌倉幕府によって金色堂の修復が行われ、覆堂が建てられたと考えられてきました。近年の調査では、金色堂建立後50年ほどで簡素な覆屋根がかけられ、増改築を経て室町時代中期(16世紀)に現在の形になったものとみなされています。
新覆堂の建築にともないこの場所に移築されました。
この覆堂があったから雨や風や雪などから金色堂を守ることができました。
長年のお勤めお疲れ様でした。
ところで、金色堂の須弥壇内の金箔押の木棺に納められた清衡・基衡・秀衡の遺骸についてですが、ここに泰衛の首が加わったことにより、金色堂の性格が大きく変化したと言われています。
当初は葬堂としての性格をもってましたが、鎌倉幕府にとっては不気味な存在となったのです。
事実上罪なくして滅ぼされた藤原一族の鎮魂、すなわち霊のの封じ込めのために、節目には修理が命じられたと考えられています。
さらに、覆堂についても、風雪から金色堂を保護するためというより、金色堂の光を隠蔽して怨霊を封じ込めるためだったとも言われています。
つまり金色堂に宿る怨霊の恐ろしい視線を遮るという意味をもっていたとされています。
秀衡の平泉館(現在の柳之御所跡)は、金色堂の東方に位置し、先祖の霊魂によって見守られていました。
そうした視線が、平泉を滅亡させた鎌倉の人びとにとっては驚異に感じられ、それを隠すために覆堂が造られたと考えられているようです。
幕府側の人々は、鎌倉において泰衡らの供養を行う一方、本拠地であった平泉においても供養を行うとともに、怨霊の視線を鎌倉にまでおよほさないよう配慮したのでしょう。
確かに源頼朝は鎌倉に、奥州攻めで亡くなった源義経や藤原泰衡などの武将たちの鎮魂のためにお寺を建立しました。永福寺です。現在は焼失してしまっていますが。 -
旧覆堂の中の様子です。
五間四方の堂です。
古くは「鞘堂」と呼ばれていました。
堂の中央には柱のようなものが1本天井に届きそうなくらいの高さまで伸びてました。倒れないようにか上部で固定されてました。
この堂の所縁が記されているように思います。
実はこの旧覆堂に関する資料があまりなかったのですが、「小寺巡礼 東国 中尊寺」井上靖 多田厚隆 佐々木邦世著作によると次のとおりです。
「正面は開放、ほか三方は板壁。内部には柱を立てず、45度方向に梁を架け、この梁の内側で建物と平行に正方形に梁を組み、化粧垂木の尻を受ける。この梁組の内は天井をはらず、小屋組をそのまま見せる。軒は2軒そ繁垂木。床は土間床である。」とありました。 -
【西谷坊】
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大きなもみの木です。
町指定の天然記念物です。 -
こちらから降りて行けそうです。
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降りた先には参道がありました。
この右には鳥居がありますが、横の道から来たことになります。
能舞台に向かっています。 -
分岐点です。
↑は能舞台
←かんざん亭(お食事処です。お蕎麦屋、甘味、コーヒーなどもあるようです。) -
この先に見えるのが「かんざん亭」のようです。
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【白山神社】
全国に白山神社はいくつかあります。
その白山神社の1つです。 -
神社の左横から抜けて来ました。
能舞台は国の重要文化財に指定されています。
嘉祥3年(850)に 円仁(慈覚大師)が加賀国 (現在の石川県)の一宮である白山比咩神社より勧請したことが始まりとされています。 -
【明治天皇天覧所跡】
雪囲いがしてありました。 -
【能楽堂】
嘉永2年(1849)の焼失してしまいましたが、その4年後に竣工しました。 -
舞台は東西に伸びていて入母屋造です。
茅葺になっています。
この舞台は近世の能舞台の遺構として東日本で唯一のものです。 -
よく見ると舞台には彩色が施してあるのがわかります。
うっすらと色が残っています。 -
中尊寺鎮守『白山神社能楽堂』
嘉永6年(1853)伊達藩主によって建立されました。
そして平成15年 国指定重要文化財に指定されました。 -
古来、卯月初午の日に催行された中尊寺鎮守・白山神社の祭礼では、僧侶によって「古実舞(古実式三番)」と「御神事能」が神前に奉納されてきました。
現在も毎年5月4日と5日に中尊寺の僧侶によって勤められます。 -
【茅の輪くぐりと人形祈願】
茅の輪くぐりは古来より日本に伝わる罪・穢れを祓って生まれ変わろうとする禊払い神事に端を発しています。
それをいつの頃からか神社の神事としてとり行われるようになりました。
参道(産道)を通り茅の輪をくぐることは、生まれたばかりの純真無垢で罪・穢れのない赤ん坊の様に清浄な心に生まれ変わろうという事を意図しています。
また、茅の輪くぐりの神事につきものとして人形祈願があります。茅の輪をくぐり人形に願いをたくしてお祈りしましょう。
茅の輪は正面より一度くぐり参拝後、左右どちらかに抜けてお戻りください。 -
十二支が整然と並んでいます。
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鳥居です。
先ほどはこの右手にある坂道から来ました。 -
木の根が地面いっぱい・・・まるで血管のように張りついてます。
歳月を感じるとともに自然の摩訶不思議な脅威のようなものも感じました。
そういえばアンコールワットにあるガジュマルの木なども・・・・。
自然の力は凄く、木々の生命力を感じました。 -
【釈迦堂】
1719年の再建で本尊は釈迦三尊です。
正月6日には、中尊寺の多くの僧侶達によって正月の法要が営まれています。 -
【阿弥陀堂】
1715年に再建されました。
本尊は阿弥陀如来です。蔵王権現を合祀し、大黒天も安置されています。 -
【弁財天堂】
本尊の弁財天十五童子は仙台藩主伊達綱村公の正室仙姫によって1705年に寄進されたものです。
1716年に建立されました。また堂内には千手観音菩薩二十八部衆も安置されています。 -
【八幡堂】
やおよろずの神々の中で、八幡神は最も早く仏教にとけ込み、八幡大菩薩と尊崇されてきました。
祭神を応神天皇とする伝統的信仰から、皇室の祖神、国家の守護神として、ことに源氏の氏神として、八幡宮は諸国に造建され、広く信仰されてきました。
天喜5年(1057)鎮守府将軍源頼義・義家・安倍氏追討のため、この地に至り、ここ月見坂で戦勝を祈願しました。いわゆる前九年の戦です。かくて長い戦いを収め、勝利の記念に京都岩清水から迎えたのが鎌倉の八幡宮です。(後にそれを頼朝が鶴岡に移建)
鎌倉時代「吾妻鏡」の中に、「中尊寺年中恒例の法会」として「八月放生会」と見えます。これは8月15日の宇佐(九州)岩清水、鶴岡など八幡宮における放生会の事例からも、当社八幡宮前における法会厳修とみなされ、もっと当山におけるその神威の主要なることがうかがわれます。
明治の神仏分離で、八幡堂と称し、阿弥陀如来尊像も合祀庶民の熱心なご信仰をいただいてます。 -
参道の横道にあるお食事処です。
お蕎麦などもあるようです。
でも、まだお腹は空きません。 -
月見坂の横の道です。
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駐車場です。結構広いです。
この周囲にはお店もあります。中尊寺パーキングエリア 道の駅
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駐輪場もありました。
この後は毛越寺に向かいます。
予定では、お昼にする予定でしたが、夫がさほど食欲もないので後でいいとのこと。
場合によってはこの近くで蕎麦を食べる予定でした。
雪が残っていることを考えて、履きなれないスニーカーを履いてきた夫ですが、足が痛くなってしまったようです。
そのため、夫の足の具合を考えてタクシーにします。
私1人なら絶対に歩きました。 -
毛越寺に到着しました。
タクシーでしたので、ほんの数分で着きました。 -
毛越寺は藤原氏二代基衡の建立です。
『吾妻鏡』によれば全盛期には、金堂(本堂)円隆寺を中心に堂塔四十余宇、禅坊五百余宇が建ち並び、伽藍の荘厳さは吾朝無双と評されました。
円隆寺、講堂、常行堂、法華堂などからなる伽藍の背後には塔山がそびえ、前面には大泉が池が広がります。
当時の建物はすべてを失っていますが、基壇や礎石は良好に跡をとどめ伽藍の旧状をうかがい知ることができることから、特別史跡に指定されてます。
大泉が池を中心とする毛越寺庭園は、国を代表する平安時代の「浄土庭園」として名高く、特別名勝に指定されてます。毛越寺 寺・神社・教会
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人はほとんどいませんでした。
土曜日なので中尊寺にはそれなりに人がいましたが、毛越寺はシーンとしてました。 -
この右横でチケットを購入します。
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こちらはクレジットカード・電子マネー等を使用できず、現金オンリーです。
拝観料は700円でした。 -
手水舎でお清めします。
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目の前に本堂があります。
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『夏草』英訳の句碑
The summer grass 'Yos all that's left of ancient warrior' dream
Inazo Nitobe
「夏草や 兵どもが 夢の跡」の芭蕉の俳句を新渡戸稲造が英訳し、毛筆で揮毫したものです。 -
松尾芭蕉句碑
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【毛越寺伽藍復元図】
南大門跡のようです。
南大門は「二階惣門」ともいい、両脇に仁王像を安置し、正面に「金堂円隆寺」の勅額を掲げていました。天正元年(1573)合戦による兵火のため焼失しましたが、礎石12個が現存しています。 -
南大門跡です。
「曲水の宴の舞台となる遣水(日本唯一の平安庭園の遺跡)は、大泉ヶ池の向こう岸にあります。庭園をめぐってご覧下さい。」
と記されています。 -
大香炉
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【本堂】
平成元年建立。
毛越寺一山十八坊の本坊。本尊薬師如来(平安時代作)脇士日光・月光両菩薩を安置しています。 -
毛越寺は慈覚大師円仁が開山しました。
藤原氏二代基衡から三代秀衡の時代に多くの伽藍が造営されました。
往時には堂塔40僧坊500を数えました。規模も大きく華麗であったようです。 -
藤原氏滅亡後、度重なる災禍に遭いすべての建物が焼失しました。
ただ、大泉ヶ池を中心とする浄土庭園と平安時代の伽藍遺構がほぼ完全な状態で保存されています。
平成元年、平安様式の新本堂が建立されました。 -
【大泉ヶ池】
池の水面にうっすらと樹々が映っています。 -
池は東西約180m、南北約90mあります。
庭を造った当初の姿を残しています。
池のほぼ中央部に東西約70m、南北約30m、勾玉状の中島があります。 -
【築山】
南大門の西寄りに築山があります。
池水面より約4mほどの高さがあり。水際から山頂近くまで大小各種の石を立て、岩山の姿を造り出しています。
深い淵に臨む断崖の景観を思わせ、『作庭記』に記されている「枯山水の様」の実例と考えられています -
「お願い 樹木保護のため中に入らないでください。」
・・・・・って、書いてますが、入る人がいるんでしょうか。小さな子ども??? -
お願い
このアヤメ園は、明治神宮から分譲献進していただいたものです。
大切に愛護してご鑑賞願います。 -
【開山堂】
毛越寺を開かれた慈覚大師円仁(794~864年)をお祀りするお堂です。
慈覚大師は、天台宗第三代座主となり、生前の業績を称えられ、日本初の大師号を授けられました。在頭九年間の紀行「入唐求法巡礼記」はマルコポーロの「東方見聞録」、玄弉三蔵の「西域記」とともに三大旅行記として高く評価されています。 -
開山堂の中です。
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毛越寺の御朱印です。
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整備しているようです。
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【嘉祥寺跡】
「吾妻鏡」によると二代穂と平公が工を始め、三代秀衡公が完成させた御堂で、その前身は慈覚大師開山までさかのぼり、寺名は開山時の年号に由来します。本尊は丈六の薬師如来です。
建物の規模は、正面7間(27.9m)、側面6間(22.5m)で左右に廊下があり、金堂円隆寺とほぼ同じです。
堂内の壁や左扉には法華経の教えが書かれていたといいます。 -
松が下に落ちています。
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広々としています。
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【講堂跡】
本尊は胎金両部大日如来です。仏法を説き仏法を聴く堂舎でした。
また、灌頂という密教儀式を行う奥羽の灌室であったそうです。
正面5間(19.1m)、側面4間(15.1m)の建物で礎石34個が完存します。
嘉禄の火災後に再建しましたが、天正元年(1573)の戦による火災で焼失してしまいました。 -
【大金堂圓隆寺跡】
基衡公建立の勅願寺です。鎌倉幕府の公文署である「吾妻鏡」の中では「吾朝無双」と称されるほど万宝を尽くして作られた建物でした。
本尊は、運慶作の丈六の薬師如来です。
毛越寺の中心的な堂で、東西に廊が出て、南に折れ、その先端には鐘楼、経楼がありました。嘉禄2年(1226)火災で焼失しました。 -
【遣水】
この遣水は、庭園の発掘調査中に往時の姿のままに発見されたもので、遣水の遺構は奈良の宮跡庭園を除いては例がなく、平安時代の遺構としては唯一のものでした。
遣水は池に水を取いる水路であり、玉石を底に敷き詰め、流れには水越し、水切の石、その他水の曲がり角や、池への注ぎ口に石組を配するなど平安時代の指導者「作庭記」の様式を余すところなく伝えています。その美しい流れと、せせらぎは浄土庭園に風雅な趣を添えており、「曲水の宴」舞台のともなります。 -
寺伝によると、慈覚大師が東北巡遊の際に、この地で霧に覆われ、前に進めなくなりました。そして前方に白鹿がうずくまっていました。
近くに寄ると白鹿は消えてその後、白髪の老人が現われました。
そして、この地に堂宇を建立して霊場にするように告げました。
慈覚大師は、この人こそ薬師如来の化身と感じました。
そして一宇の堂を建立し、嘉祥寺と号したのです。
これが毛越寺の由来です。 -
藤原氏二代基衡から三代秀衡の時代に多くの伽藍が造営され、中尊寺をしのぐほどだったそうです。
堂塔40僧坊500もありました。
藤原氏が滅亡後、数度の災禍で建物は焼失してしまいました。
ただ、大泉が池を中心とする浄土庭園と平安時代の伽藍遺構がほぼ完全な状態で保存されてます。
平成元年には、平安様式の新本堂が建立されました。 -
【地蔵菩薩】
お地蔵様は餓鬼道の能化(仏菩薩)です。地蔵十益、地蔵二十八益という御利益がある仏様で、手荷物宝殊は如意の玉とも言われ、このお地蔵さまを信仰すれば、願い事が心のままになるという意味です。 -
【常行堂】
本尊は宝冠阿弥陀如来です。奥殿には秘仏魔多羅神を祀っています。
毎年正月二十日に古式常行三昧の修法が行われ、国指定の重要無形民俗文化財です。
「延年の舞」が奉納されます。
現在の常行堂は、享保17年(1732)に再建されたものです。 -
横から見た常行堂です。
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【曲水の宴】
毛越寺「曲水の宴」は昭和61年5月18日藤原秀衡公800年御遠忌特別大祭の記念日として、藤原氏三歳の栄華を偲び再現されました。
曲水の宴とは遣水の流れに盃を浮かべ、流れ来る間に和歌を詠み、終わって盃を戴くという、中国から伝わった催しで平安時代に盛んにおこなわれました。
当時の曲水の宴で講師をつとめられた坊城俊民氏(披講演会会長)はその様子を「桃の枝に羽觴みちびく童さび小袿狩衣おのおの歌詠む」と詠じられました。 -
曲水の宴はここで行われました。
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【鐘楼堂】
現在の鐘は昭和50年、人間国宝香取正彦氏の作で、天台座主山田恵諦大僧正の銘が刻まれています。姿形は平等院風を思わせ、美しい音色を響かせています。 -
【法華堂跡】
5間11.8m方形でした。礎石が残っています。
法華三昧を修法する堂宇です。隣の常行堂とは渡廊で結ばれていました。 -
【常行堂跡】
5間15.4m方形です。礎石は現常行堂の礎石に使われたのか残っていませんが根石があり、存在が確認されました。 -
【東門跡】
往時は築地塀が境内の内の東端、南端を囲んでいました。東門から境内を出ると観自在王院や車宿(牛舎の駐車場)のある街路が現れます。
東門から敷石道が圓隆寺と鐘楼を結ぶ東翼廊に続いてました。 -
この先は車宿に続いてます。
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【観自在王院跡(正面の園池)】
毛越寺を建立した基衡公、その妻が建立した大小2つの阿弥陀堂を観自在王院と言います。四隅が丸みを帯びた方形の苑池(舞鶴が池)を中心とする浄土庭園を有し、特別史跡・名勝に指定されています。
毛越寺との境にある玉石の敷地は車宿(現在の駐車場であったと言います。現阿弥陀堂の東側には基衡公富士の墓碑があります。) -
【洲浜】
池の東側から大きく突き出た洲浜は、広々とした海岸の砂州を表現しており、水位の昇降に応じてその姿を変化させます。
ゆったりとしたその姿は、出島とは対照的な景趣です。 -
【出島石組と池中立石】
池の東南の位置に出島が造られています。
その先端の飛島には、約2.5mの景石が立てられ、周辺には中小の石を荒々しく散らし玉石を敷き詰めています。
池水に洗われるその景観は、荒磯の風情を表現しています。 -
浄土庭園大泉ヶ池の説明です。
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「立石」は東日本大震災の影響で、約8度傾きましたが、修復によって戻りました。
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【車宿跡】
こちらは毛越寺の山門より出た場所にあります。 -
【車宿跡】
車宿は身分の高い人物を載せた牛車を格納するための建物です。発掘調査の結果、南北方向27.5m(10間)、東西方向4.6m(2間)と南北方向に細長く、柱の太さは約30cmあること、床面は周辺部と同じ玉石敷きで、周囲には雨落溝が廻っていたことが分かりました。西側正面を除く三方は壁に囲まれていたと考えられています。
『吾妻鏡』には「観自在王院の西、南北に数十の車宿有り」と記されています。
この場所は毛越寺と観自在王院に挟まれた幅約30mの広い道路にあたり、牛車を納めたり、牛をつなぐのに都合の良い場所だったと考えられます。 -
【舞鶴が池】
「舞鶴が池」は平面形状が、鶴が舞っているように見えることから、その名が付けられたとされており、平安時代の庭造りの教科書である『作庭記』に「池は鶴か亀の形に掘るべし」との記述をもとにしたと考えられています。
その規模は東西100m、南北100mほどあり、中央付近に東西約30m、南北12mの中島が設けられています。洲浜は玉石敷の護岸でしたが、毛越寺庭園とは異なり、石が葺かれていたのは汀付近の2m程のみであったことがは発掘調査で確認されています。 -
白鳥が1羽いました。
舞鶴ならぬ白鳥です。 -
【旧観自在王院庭園】
観自在王院は、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』に奥州藤原氏二代基衡の妻が建立した寺院と記されています。西隣に特別名勝毛越寺庭園、舞鶴が池の北方には史跡金鶏山、南隣に高屋と推定される大型建物跡が発見された倉町遺跡があります。舞鶴が池は修復整備さて、大阿弥陀堂・小阿弥陀堂・鐘楼・普賢堂跡の礎石が往時の伽藍を今に伝えています。
発掘調査で西辺土塁・西門・南門が発見され、伽藍は東西120m、南北240mの土塁で囲まれたと推定されています。また、観自在王院西辺南北土塁と毛越寺東辺南北土塁の間は全面玉石敷で、牛車を止めて車宿跡み見つかっています。
昭和48年から53年度にかけて史跡の修復整備が行われ、現在の姿が再現されました。日本庭園史上でも価値が高く「旧観自在王院庭園」として名勝に指定されました。 -
【金鶏山】
奥州藤原氏によって山頂に大規模な経塚が営まれた信仰の山で、「造り山」の異名を持ちます・東麓に金峯山蔵王権現堂跡の伝承もあり、弥勒山との関連性が想定されます。金鶏や埋蔵金の伝説に彩られた山でもあります。 -
【高館義経堂】
義経逍遥の中心的な存在でもある高館。
小高い丘の頂きに立つ義経堂は天和3年(1683)、仙台藩主第四代伊達綱村が義経を偲んで建立したものです。
残念ながら、こちらには行きませんでした。 -
平泉町の観光案内地図です。
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この史跡は、昭和42年度から土地の公有化に着手、その後整備専門委員会を設置して調査や工事を実施し、昭和53年度をもって完成しました。
昭和54年3月 平泉町
観自在王院跡整備専門委員会
委員長 藤島亥治郎 東京大学名誉教授
委員 森 蘊 庭園文化研究所長
委員 板橋 源 岩手大学名誉教授 -
【南門跡】
観自在王院は奥州藤原氏二代基衡の夫人が亡き夫を偲び、12世紀半ばに建立した寺院で、毛越寺の東にならんでいます。
その規模は南北約240m、東西約120あり、南と西に出入り口の門がありました。
この地点は寺の南門跡があった場所で、門の規模は東西4.5mあり、門の脇には寺院境内の南境を限る築地または土塁の端を固めたと思われる角柱が見つかっています。 -
【観自在王院跡】
観自在王院は、藤原基衡(1105-1157)の妻により建立された寺院です。1537年に焼失したと伝えられ、17世紀には境内の大半が水田として使われるようになりました。
昭和29年(1954)から始まった発掘調査により、大・小2棟の阿弥陀堂を含む複数の建物や浄土庭園の遺構などが確認され、12世紀の様相が明らかになりました。
昭和54年(1979)境内の全域が史跡公園として整備されています。
大阿弥陀堂跡、小阿弥陀堂跡前方の池は舞鶴が池と呼ばれ、石組・洲浜・中島などがほぼ完全な状態で残されており、当時の作庭技法を理解する上で貴重です。
舞鶴が池を中心とする旧観自在王院庭園は、12世紀(平安時代)の浄土庭園すなわち「浄土を具体的に表現した寺院庭園」の優れた事例として高く評価されています。
観自在王院跡は、平成23年(2011)に「平泉ー仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」の後世資産として世界遺産登録されました。 -
さて、そろそろ遅いお昼にするので、駅前のお店に向かいます。
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この先は、先ほどタクシーで移動して来た方向です。
平泉文化遺産センター、金鶏山、中尊寺方向です。 -
駅まではまっすぐです。
整備されていて、歩きやすくわかりやすいです。 -
【芭蕉館】
中尊寺と毛越寺を回って最後にランチにします。芭蕉館 グルメ・レストラン
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店内の様子です。
時間がだいぶ遅かったので、空いていました。 -
わんこ蕎麦定食をいただきます。
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わんこ蕎麦です。
通常だとお店の方が次々に足してくれるタイプですが、こちらは最初からセットになっています。
急かされずに頂くことができます。 -
時間に余裕があるので、出かけます。
右方向に向かいます。 -
踏切がありました。
この踏切を越えて行きます。 -
伽羅御所跡は、この路地を入った先です。
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【無量光院跡】
無量光院は、極楽西方浄土を再現した12世紀(平安時代)の仏教寺院の貴重な例で、浄土庭園の催行傑作と評価されています。
無量光院とその浄土庭園からは、建築物としての重要性に加え、当時の人々が思い描いた極楽西方浄土の姿を伺い知ることができます。 -
13世紀(鎌倉時代)の歴史書『吾妻鏡』には、無量光院の伽藍は京都にある平等院を模したものと記されています。無量光院と平等院には、中島に翼廊を備えた阿弥陀堂が建てられました。
無量光院は、三代秀衡(1122-1187)が造営しました。無量光院の境内は、周囲を囲む土塁と、3つの島をもつ広大な苑池で構成されています。池の中の最も大きな中島に阿弥陀堂が建っていました。極楽浄土は西方にありとする仏教の世界観をあらわすため、阿弥陀堂は東向きに建てられました。無量光院跡 名所・史跡
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発掘調査では、東島から数棟の建物の跡が発見されました。ここで儀式や祈りが行われたと考えられています。北小島には、中島への端跡が確認されています。
無量光院跡は、世界遺産「平泉」の構成資産に含まれています。 -
【柳之御所遺跡】
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【政庁(居館)を囲む堀】
奥州藤原氏の成長(居館)=平泉館(ひらいずみのたち)にあたる柳之御所遺跡は、北上川と大きな堀によって囲まれ、周囲から区切られていました。
12世紀後半に最初の堀が埋められた跡、内側により巨大な堀(およそ幅14m、深さ4m)が造り替えられています。
堀からかわらけや木製品、橋の部材塔多くの遺物が出土しています。 -
『2021年秋 紅葉を巡って鎌倉散策』
この旅行記の中で、国指定史跡である永福寺跡に行きました。
この寺院は源頼朝が建立しました。
奥州攻めで亡くなった源義経や藤原泰衡などの武将たちの鎮魂のために建立されています。
先ほど覆堂の説明にも書きましたが。
平泉の中尊寺二階大堂、大長寿院を模して建造されました。
その旅行記です。
↓
https://4travel.jp/travelogue/11724219 -
現在は宅地や畑となって、僅かに内堀跡や土塁の跡や、井戸跡から金銀の蒔絵箱に納められた和鏡が見つかっているのですが、民家などがが密集している地域のために大規模発掘調査を行うことができず詳細はわかっていません。
実際に建物があった場所に家があるため、そこから離れた場所に「えさし藤原の郷」の復元された建物があります。 -
【伽羅御所跡への道】
柳之御所跡(平泉館)の南側には、低地である猫間が淵遺跡をはさんで、伽羅御所跡が接しています。この遺跡は歴史書『吾妻鏡』の中で、藤原秀衡の日常の居所として記述されている「加羅御所」の推定地となっています。 -
2つの遺跡は堀や低地によって区画されていますが、この場所では堀をまたぐ橋跡が見つかっています。
秀衡の時代には、政治の場である平泉館と、生活の場である加羅御所とを、橋や道路で結んでいたいと考えられます。 -
柳之御所という名前は、伽羅之御所の名前に対比して、後世に名付けらました。
この広い空間に立ち、かつての栄華を想像すると、虚しくなってしまいます。 -
【日本農業遺産】
束稲山麓地域とあります。災害リスク分散型土地利用システムとあります。
日本農業遺産にも登録されているようです。
平泉は思ったよりもコンパクトで、観光しやすかったと思います。
しかも、さほど混んでいなくて、ゆっくり見ることができました。 -
平泉観光を終えて横手に向かおうとしていた時、改札に入る直前にある物が目に入りました。
平泉から横手間は新幹線を利用しないため、Suicaで入場する予定でした。
ところが平泉以降はエリアが違うため、Suicaが使用できません。
慌てて窓口で購入しました。
今回は「えきねっと」で購入し、自分と夫のSuicaに紐付けしてましたので手続きも楽でした。
新幹線はあまり利用しないので、詳しくなかったのですが、結構便利でした。特にキャンセル手続きは簡単でした。 -
北上駅です。駅のホームは寒そうなので駅員さんに声をかけ、一旦改札を出ました。
ただ、後で気付いたのですが、電車は既に止まっていたようでした。
ホーム乗場がわかりにくかっただけで、改札に出なくても電車で待っていれば良かったのかもしれません。北上駅 駅
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北上線からの車窓です。
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湯田付近の情景です。
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ここからはおまけです。
秋田県横手市大森町にあるさくら荘の温泉に行き、ランチをいただきました。
稲庭饂飩に海老天2尾入ってました。
800円でした。お蕎麦もあります。 -
大森飯店です。
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これに中華そばセット(炒飯付)、中華そば単品、生ビール2杯で5300円でした。
美味しくいただきました。 -
貞良さんです。
こちらは以前は国指定の有形文化遺産だった料亭です。
今は小料理屋さんと言う感じです。
以前の建物は火災に巻き込まれて無くなってしまいました。
趣のある懐かしい建物だったのに残念で、お気の毒です。
でも、新たに営んでくれて嬉しいです。 -
現在は1日に1組だけのようです。
その日によって、またお客様によってメニューを決めてくれるようです。
そのため、きりたんぽ鍋をメインにしたお料理です。 -
大曲にある「しゅしゅえっとまるしぇ」
「激辛ぼだっこ飯」が好評で売り切れでした。
塩がふいているほど塩分の強い鮭です。あまりにも塩分が高いので、200gのお米に対して、ほんのちょっとです。(写真のとおり)
お試しに1度くらいはいいかもしれません。
血圧の高い方は要注意です。
お弁当は売り切れだったので、小さな鮭1切れ買ってみました。
思ったとおりで、小さな鮭1切でご飯をたくさん食べることができます。(-_-;)
残念ですが美味しいです。
他にもお土産などもありました。
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この旅行記へのコメント (2)
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- 164-165さん 2025/04/23 07:11:00
- 大作
- noelさん おはようございます。
平泉編の大作を作成されご苦労様でした。この旅行記を見れば、平泉が理解できますね。近くに住んでいますが、ただ漠然と眺めるだけで何も知りませんでした。
勉強になりました。※理解できたかかどうかは別です。
【164-165】
- noelさん からの返信 2025/04/23 17:07:21
- Re: 大作
- 164-165さん
こんにちは。いつもありがとうございます。
お住まいが近くて羨ましいです。
行きたいと思いつつ、なかなか行けず、念願叶って行けました。
私自身、行って初めて知った事も多々ありました。
大谷さんの故郷、特別ですね。
ホントに大ヒーローで誇らしいですね。
岩手は素敵なものがたくさんです!
ありがとうございました。
今後ともよろしくお願いします。
noel
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