2025/01/31 - 2025/01/31
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池袋西口で映画を観て、郷土資料館で下調べののち、ビックリガードをくぐって鬼子母神堂に参拝。
古の旧鎌倉街道(中道)を南下し、山吹の里で面影橋を渡って都立戸山公園に聳える箱根山登頂を目指す。
表紙は、池袋近辺では昔から一番有名であろう鬼子母神堂(きしもじんどう。鬼の字にツノがないことに注意。)
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
-
今日は、思い立って、朝から池袋に出て、メトロポリタンプラザ(ルミネ8階)にある映画館「シネリーブル池袋」で先ず映画鑑賞。
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作品は、近年勢いがある韓国映画「満ち足りた家族」。
善悪が入れ替わってしまう人間の本性を描くシナリオが秀逸で満足。 -
次に、本日の散策目的地の下調べのため、近くにある豊島区立郷土資料館に立ち寄る。
ここの常設展示室のメインは、昭和30年代の庶民の家の室内を再現したもの。
高齢者には懐かしい、家具や電化製品が展示されている。 -
テーマによる特別展示の一画に、旧鎌倉街道がどこを通っていたかを示すパネルがある。さすが学芸員さんが調べたものは信頼がありそうだが、時代とともに枝分かれや多少ののルート変更はあったのであろう。
旧鎌倉街道は3本あって、一番知名度が高いのは西の府中市あたりを南北に結んでいる現在府中街道と呼ばれている鎌倉街道「上道」で、「いざ鎌倉」と、武士軍団も通り易かったのであろうから沿道には小手指ヶ原など古戦場も多い。
東端には、(昔の)江戸湾沿いに奥州に向かう鎌倉街道「下道」もあるという。
大昔から海辺は食料を得やすく人家が多かったであろうから、台地上よりも旅をしやすかったのであろう。
但し大きい川の河口部は、船でないと渡れなかったであろう。
豊島区を通る鎌倉街道は、その間の「中道」とも呼ばれる街道で、鬼子母神堂付近から面影橋にかけて(当時の幅員に近い細い道で)現存し、寺社仏閣など、昔の面影を僅かに残している。
その南側は千駄ヶ谷の鳩の森八幡へ途切れ途切れ、北側も途切れるがサンシャイン60ビルの西側直下から真北に、明治通りに合流すると大拡幅され、面影はない。
本日は、昔の面影がありそうな面影橋の前後をメインに、戸山の箱根山まで散策することにする。 -
池袋駅西口側の豊島区立郷土資料館から、写真のビックリガードをくぐって東口側に出て東進、明治通りを渡るとやがて寺や墓地が多い一角になる。
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このあたりは、南北の細い道が何本かあるが、どの道が鎌倉街道だったかはっきりされていない模様。
勘で南に折れて進むと、広大な威光山法明寺(ほうみょうじ)に出る。
南向きの立派な山門の先に本堂がある。 -
法明寺からやや下って登ると鬼子母神(ふつうは「きしぼじん」と呼んでいるが、ここは正しくは「きしもじん」で、鬼子母神堂とされる。(仏教用語は呉音をもってするのが通例なので、サンスクリット語は知らないが本来は「きしもじん」なのであろう。)
鬼子母神堂との間の谷は、昔は元池袋公園にあった池から弦巻川が流れていたという(現在は暗渠)。
子安・子育ての神とされ、「ススキミミズク」は江戸民芸で有名。 -
鬼子母神堂の参道は南に折れ、大ケヤキの並木の下を鎌倉街道に向かう。
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大ケヤキの並木参道には、豊島区がつくった「雑司が谷案内処」がある。
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都内で唯一残った都電荒川線(愛称さくらライン)を踏切で渡る。
北側にはサンシャイン60ビルが聳える。
鎌倉街道は、丁度写真の電車の下あたりで路線を横切り、サンシャイン60ビルのすぐ西側に伸びていたらしい。
踏切を渡ると間もなく、鬼子母神堂の参道が鎌倉街道に合流し、鎌倉街道が参道のようになっていた部分に向かう。 -
神田川の谷に向かって下る坂が「宿坂(しゅくさか)」と呼ばれる鎌倉街道時代からの坂道。
中世には「宿坂の関」と呼ばれる関所があったとされる場所。
港区のように、坂の上と下に標柱を建てると理解しやすいのだが、ここでは金乗院山門の案内板の隣に書いてあるだけで見落としやすい。 -
宿坂の途中に目白不動で有名な神霊山金乗院(こんじょういん)がある。
天正年間(1573~92)に創建され、のち江戸五色不動の一つ目白不動も合併された。
槍術の達人丸橋忠弥や、青柳文蔵の墓があるとされる。 -
やがて谷底近くになると弘法大師ゆかりの南蔵院がある。
創建は古く、藤原秀衡持仏と伝えられる薬師如来像を円成比丘(永和2年1376歿)が回国修行に携えていて、当地で動かなくなったことから、当地に安置してここ南蔵院を創建したと伝えられる。 -
「山吹の里」の碑が面影橋左岸のマンション前に移設されている。
碑文を読むと、太田道灌の時代が浮かぶ。
当時はヤマブキが咲いていたのであろう。
「七重八重 花は咲けども山吹の 実の(蓑)ひとつだになきぞ悲しき」
そんな娘には可憐な一重のヤマブキの方が似合いそうかなと、勝手に想う。 -
こちらで神田川を面影橋で渡る。
神田川の北側が豊島区で、南側が新宿区になる。 -
面影橋の下には神田川が流れる。
武蔵野台地からの湧水は激減し、下水に取られて水量は少く、江戸時代の面影は全くないのであろう。 -
面影橋を渡るとすぐに都道8号線「新目白通り」を横切る。
この辺りは、自動車の量が急増した昭和45年ごろに拡幅工事で開通したような記憶がある。
「新目白通り」から南側の旧鎌倉街道は、南に、おそらく昔の道幅二間くらいで住宅街をつづく。
車は、当然だが(南から北への)一方通行。 -
鎌倉街道は、都道25号線「早稲田通り」を渡り、さらに同じ都道25号線「諏訪通り」で途切れ、学習院女子大構内になってしまう。
止む無く、東に迂回して都立戸山公園に入る。 -
戸山公園といえば、終戦までは帝国陸軍の練兵場。戦後は戸山ハイツなど。
明治よりも前の江戸時代は、1668年から現在の早稲田大学キャンパス(戸山の西早稲田キャンパスではない本部)の一部から山手線の西側まで約45ヘクタールもの尾州徳川家の下屋敷があったよう。
元禄年間(1688~1703)に廻遊式築山泉水庭が完成とされる。 -
元禄年間に屋敷内の池を掘った土を積み上げてできたらしい池の脇にある山は、陸軍戸山学校時代に「箱根山」と呼ばれるようになった。立派な石碑がある。
あるいは尾州徳川家庭園で小田原宿を模した町並みがつくられたことも名称に関係しているのかもしれないと思いを馳せる。 -
写真が標高44.4mの頂上部。
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戸山公園サービスセンター(戸山の西早稲田キャンパスの西)まで行くと、箱根山「登頂証明書」が交付されるというが、遠いので止めにする。
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箱根山は結構な傾斜がある。
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戸山ハイツの住宅群を抜けて、明治通りに出て、大久保の職安通りとの交差点が、
本日の終着点、大江戸線東新宿駅で、交差点は、特徴的外壁のアイビービルが建つ近代的な姿。
こんな北東部まで「新宿」というのは、旅行者などには分かりにくいが「東新宿」。その方がビルの賃料など高くできるのであろう。
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この旅行記へのコメント (1)
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- ジャスミンさん 2025/03/12 23:28:47
- 都内歩き
- 時々都内のお散歩に出ますが、まだまだいろんな場所が有りますね。
スイスの質問の回答ありがとうございました。一度お礼を書いたら、書き込めなくなり、こちらへアクセスしました。
アドバイス通り、手袋も雨対策もしようと思います。
ウインドブレーカーはパタゴニアでレイン対応のポケッタブルのものがありそれを購入予定です。
初級のハイキングは通り道ができているようなコースのようで草むらっぽいようではなさそうです。
ツアコンが決まるのがギリギリなので色々準備はしておいて直前に仕分けするか、現地で何を着るか決めようと思います。
場所によってだいぶ気温も違うようなので準備が必要ですね。
ありがとうございました!
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