2024/08/12 - 2024/08/12
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kojikojiさん
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2024/08/12
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釜山を出港した翌日の終日航海日が終わり、早朝に15階のデッキに出てみると進行方向に高知県の「桂浜」が見えていました。沖合いには小さな漁船が見えたので季節的にも生シラスを捕っているのだと思えました。「高知新港客船ターミナル」への入港シーンは昨年も見ているのですが、大漁旗のような「よさこい旗」を振って歓迎してくれる情景を見ると手を振ってしまいます。早々に朝食を食べた後は船を降ります。デッキから見えたお龍(おりょう)のゆるキャラが出迎えてくれるので記念写真も撮ってもらいました。ターミナルで売っていた「よさこい鳴子」も買ってしまい、おのずとテンションが上がります。船が運行するシャトルバスは1日15ドルと安くはありませんが、「はりまや橋観光バスターミナル」まで20分ほどで運んでくれるのでとても便利です。この辺りは昨年も来ているので勝手は分かっています。「よさこい鳴子踊り」の像の前で同じバスに乗っていた欧米人のおばさんに鳴子を貸してあげて写真を撮ってあげたら喜んでいました。まずは「はりまや橋」を目指し、写真を撮ってから京町商店街にある「さんごの清岡屋」で妻に赤サンゴのネックレスをプレゼント。昨年は「清岡珊瑚店」でネックレスを買いましたが、もっと大きいのが欲しくなったようです。商店街を抜けて「高知県立高知城歴史博物館」を目指していましたが、後から行こうとしていた「ひろめ市場」の前が開店前の長い列が出来ていたので並ぶことにしました。開店と同時に市場に入れたので席もすぐに撮れましたが、あっという間に満席になりました。昨年は「本池澤 ひろめ市場店」の裏側の名がテーブルに座りましたが、そのテーブルは無くなっていました。「黒潮茶屋」の前に座っていくつかの店の料理を堪能しました。朝ご飯を食べて幾らも時間が経っていませんでしたが、美味しいものはいくらでもお腹に入ります。高知へは昨年に2回来ていましたが、行く機会のなかった「高知県立高知城歴史博物館」にようやく入ることが出来ました。NHK大河ドラマの「龍馬伝」の近藤正臣の演じた山内容堂や青木崇高の後藤象二郎は印象に強く残っていて、ここで山内家の歴史をじっくり学ぶことが出来ました。この後はじっくりよさこいを楽しみます。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.5
- ショッピング
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 20万円 - 25万円
- 交通手段
- 高速・路線バス 観光バス 船 タクシー JRローカル 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行なし)
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8月12日の早朝に「高知新港客船ターミナル」に向かって航行中です。
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港の南側には防波堤があるので、港へは東から西に向かって入港します。船の後方から太陽が上がってきます。
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「桂浜」の沖合いは朝からたくさんの漁船が漁をしています。以前「ロイヤルホテル土佐」に宿泊した際にレストランの方に漁のことを尋ねるとシラス漁だと教えてくれました。現在は「メルキュール高知土佐リゾート&スパ」と経営が変わったようです。
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シラスの漁は「バッチ網漁」(正式名は機船船曳き網漁業)と言い、網を引く2隻と魚を運搬する船1隻の合計3隻で行うそうです。高知では「どろめ」と呼ばれます。この後行く「ひりめ市場」で食べられるのが楽しみです。
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「桂浜」が見えてきました。高知県を代表する景勝地の1つで、古くから月の名所として知られ、高知の唄「よさこい節」にもその情景が歌詞として残っています。「土佐の高知の はりまや橋で 坊さんかんざし買うを見た よさこいよさこい 御畳瀬(みませ)見せましょ 浦戸を開けて 月の名所は桂浜 よさこいよさこい」
桂浜 自然・景勝地
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母と妻と3人で四国周遊ツアーに参加して、ここへ来たのは9年前になるのだなと「坂本龍馬像」を眺めながら思い出します。
坂本龍馬銅像 名所・史跡
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母との新しい思い出は作れませんが、少しでも妻との思い出を増やしたいと思います。
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昨年の夏祭りクルーズも同じような快晴の空の下を入港しました。今日も暑くなりそうです。
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「西に竜串 東に室戸 中の名所が 桂浜 よさこいよさこい」そんなよさこいの歌詞が頭に浮かんできます。昨年はクルーズ以外にも香川県以外の四国3県の海岸線を辿るようなツアーに参加したので海岸線が気になります。
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室戸岬方面は逆光になっています。
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桂浜の西の端の竜王岬に鎮座する「海津見神社」が見えます。
桂浜 竜王宮 寺・神社・教会
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「高知新港客船ターミナル」に着岸します。
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寄港する港によって歓迎の内容が違うのが面白いです。境港や釜山港では何もなかったので高知の歓迎はちょっと嬉しい気分にさせてくれます。
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坂本龍馬の妻のお龍(おりょう)のゆるキャラも手を振ってくれています。
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埠頭の岸壁では「よさこい旗」が振られています。よさこい踊りで使用される旗の大きさは標準で3メートルX4.5メートルでしたが近年もっと大きい旗が登場し5メートル×6メートルが出てきているようです。
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ここで振られているのは3メートルX4.5メートルの大きさだと思います。その大きさの旗を旗竿1本で振り続けるのは大変だと思います。
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振られている旗のデザインは見覚えがあるので去年と同じようです。これから市内へ行って「よさこい踊り」を見るのでテンションが上がってきます。
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高知港では船会社の運行するシャトルバスで市内まで簡単に出られますが、混雑回避のために整理券が配られました。早々にレセプションに行きましたがグループ2でした。
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船内放送で下船口へグループ2が呼ばれたので下船します。
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ターミナルの入り口では龍さんが待っていて記念写真が撮れました。カメラマンも来ていて乗船客の写真も撮っていましたが、スマホでも写真を撮ってもらいました。
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ターミナルでは入国審査があるのでパスポートが必要です。境港を出港する際に日本を出国して、釜山立ち寄った後の高知港で日本入国になります。
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バスに乗る前にターミナル内に開かれた物産展で「鳴子」を買い求めました。高知県産ヒノキで作られ、はりまやばしと同じ朱赤地に縁を黒で塗ってある定番のデザインです。
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港を出たシャトルバスは「高知県立牧野植物園」のある山の下のトンネルを通ります。昨年の四国ツアーでは「高知県立牧野植物園」と北川村にある「モネの庭マルモッタン」にも行くことが出来ました。
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山の上には植物園の近くにある四国八十八カ所の第31番札所「五台山 金色院 竹林寺」の五重塔の宝珠が辛うじて見えました。
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国分川を越えると高知市内まですぐに到着します。
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シャトルバスは「はりまや橋観光バスターミナル」に到着しました。ここでボランティアの方に「よさこい祭り」の情報やパンフレットをいただきました。そして、前日が祭りの本番で、今日は後夜祭とよさこい全国大会だということを初めて知りました。それと同時に推しの「とらっくよさこい」が大賞を受賞したことも教えてもらいました。
はりまや橋観光バスターミナル 乗り物
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「よさこい鳴子踊り」の像の前で写真を撮っていると同じバスに乗っていた欧米人のおばさんも写真を撮りたそうだったので鳴子を貸してあげて、写真を撮ってあげたら喜んでいました。
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昨年は店の前をたまたま通りかかって知った「得月楼」の門はまだ閉まっています。「得月楼」というより「陽気楼」といった方が通りがいいですね。去年は店の前から電話して予約が取れたので晩御飯を食べました。今年は事前に予約をしてあり、料理も皿鉢料理にしてもらいました。
得月楼 グルメ・レストラン
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むかしここに「高知西武」がありました。日本各地を旅するとそんな西武の跡地の前を通ることが多いです。夫婦でお世話になった会社なので寂しい気がします。市電のデザインはアンパンマンでした。作家のやなせたかしは父の生家のある高知市で育っています。
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「ばいきんまん像」と記念写真です。なんか妻がドキンちゃんのおばあちゃんみたいに見えてきます。
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子供連れのお母さんの写真を撮ってあげたら我々の写真も撮ってもらえました。去年はここで「旭食品」の方たちと一緒に写真を撮ってもらいました。
はりまや橋 名所・史跡
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今年は朝一番で市内に入ったので町中は閑散としています。ちょっと寂しい気もします。
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去年は「清岡珊瑚店」で細い赤珊瑚のネックレスを買いましたが、今年はもっと太いのがいいということで「さんごの清岡屋」でお買い上げです。なんでこんな朝早くから貴金属店が開いているのでしょう。
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帯屋町のアーケードを西に進むと人通りも多くなってきました。まずは以前から行きたかった「高知県立高知城歴史博物館」に向かいます。
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ところが「ひろめ市場」の前を通りがかると開店前にもかかわらずすごい人が並んでいます。博物館に行った後にここで食事をする予定でしたが、先にここでお昼を食べることにします。
ひろめ市場 グルメ・レストラン
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30分ほど並んだところでオープンしました。中の勝手は何度も来ているので知っています。入ってすぐ左の「本池澤 ひろめ市場店」の脇がねらい目です。
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去年は置かれてあった「本池澤 ひろめ市場店」の長テーブルが無かったので、もう少し先の「黒潮本まぐろ」の前の店に座ります。周囲はアッという間に満席になりました。大レモンサワーは750円です。
本池澤 ひろめ市場店 グルメ・レストラン
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妻は「本池澤」のカツオのタタキとシラスがたっぷり乗った「鰹のたたきとシラス丼」です。この店では生にこだわり冷凍は一切使用しないようです。
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「土佐丼」は「カツオたたき」と「どろめ」と「シラス」の3点盛りです。お互いに去年と同じものを選びました。900円と1,000円とお手頃な値段です。
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「どろめ」は高知の方言で「イワシの稚魚」のことで、半透明の小さな身体に大きな目が特徴です。昔から漁港回りでは浜あげの「朝取れどろめ」をそのまま食べるのが一番美味しいとされています。「朝取れどろめ」は鮮度が落ちやすく夕方までが限界で、地元土佐高知でしか食べられない珍味です。
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さらに近くの「鯛めしモリミツ」の鯛めしです。これは去年食べたかったけどお腹いっぱいで食べられなかったものです。
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鯛の身が入って味も濃くて美味しいです。船に持って帰れないのが残念です。
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「黒潮本まぐろ」でレモンサワーだけでは申し訳ないのでメニューを見てみます。
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本まぐろの頬肉のカルパッチョは初めて食べましたが美味しかったです。ごま油とネギがポイントだと思います。
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さらにマグロのユッケ。韓国海苔に乗せて食べるのが憎いです。これもめちゃくちゃおいしかったです。
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先にここでお昼を食べて正解だったと思います。お腹がいっぱいでクジラの刺身を食べられませんでしたが、翌日の徳島でいただくことが出来ました。
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交通規制が始まっていて通りには車は1台も走っていません。嵐の前の静けさといった感じがします。
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「高知県立高知城歴史博物館」までやってきました。2023年の5月に来た際は「ひろめ市場」でお昼を食べる時間と「高知城」に行く時間しかありませんでした。8月のクルーズの際は「ひろめ市場」で食事した後はすぐに「よさこい祭り」が始まってしまいました。
高知城歴史博物館 美術館・博物館
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「高知城」のは行ったので、今回は博物館で山内家の歴史を知ろうということです。麦僊と幕末の土佐藩については知っていましたが、やはり2010年のNHKの泰がドラマ「龍馬伝」を見た後は余計にその歴史を知りたくなりました。
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昨年は天守の上まで登りましたが江戸時代に築かれた天守が残る現存天守十二城の中でも素晴らしいと思えました。特に本丸御殿が完全な形で現存しているのは「高知城」だけです。「高知県立高知城歴史博物館」の3階からは天守と追手門と掘割がきれいに見渡せました。
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博物館の「フラフ」が飾ってありました。フラフは「旗」を意味するオランダ語や英語が語源と言われ、大漁旗をイメージしてできたものです。高知では男児の健やかな成長を願って端午の節句にこいのぼりと並んで立てられます。絵柄は桃太郎や金太郎、勇壮な武者絵などさまざまです。「一渓」の銘があるので吉川染物店で造られたものだと分かります。
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入口脇には陣羽織と兜のレプリカが置かれていて、自由に着ることが出来ました。被っているのは「紅糸威八角笠形兜」で、陣羽織は15代藩主の山内容堂の所用と言われる「緋羅紗地数珠文様陣羽織」です。兜は12代藩主山内豊資(とよすけ)所用なので組み合わせとしては合っていません。
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こちらは「兎耳形兜」で4代藩主山内豊昌(とよまさ)所用なので、こちらも組み合わせは違っています。陣羽織は昨年の5月に「高知城」を見学した際に城内の展示してあったので、レプリカと言えども切ることが出来て感慨深かったです。
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1595年のテイセラ―オルテリウス地図という16世紀で一番精巧な日本地図と思われるものが展示してありました。まだ北海道は発見されていませんし、朝鮮半島も島になっています。25年くらい前に神田の古書店で1735年にBELLIN, Jacques Nicolasmの地図が売っていて、どうしても欲しかったので誕生日プレゼントに妻に買ってもらいました。以前は16世紀から17世紀の古地図を最初の都市で買って、それを持ってその国を旅していました。30年くらい前はオリジナルがかなり安価だったのですが、ユーロが導入されてからは高くなって買えなくなりました。
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紀州徳川家の南葵文庫に伝来した「土佐国絵図」です。
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こちらの「土佐国絵図」は3代将軍徳川家光が派遣した諸国巡見使の作成による寛永国絵図の写しとされるもので、1615年の元和元年に幕府が定めた一国一城令により廃城となった浦戸・本山・佐川・窪川・中村・宿毛を「古城」と記され、江戸時代前期の様子がうかがい知れます。
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年表を読んでいくと非常に面白く、NHKの大河ドラマ「竜馬伝」の場面が思い出されます。山内容堂が安政の大獄により謹慎を命じられ、岩崎弥太郎は長崎へ行き、武市半平太が土勤王党党を結成、坂本龍馬は脱藩しています。吉田東洋が暗殺されます。
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武市半平太が投獄され土佐勤王党は弾圧され、獄中で切腹させられます。一方で坂本龍馬の仲介により薩長同盟が成立し、西郷隆盛は来高して山内容堂と会談をします。
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山内容堂は大政奉還の建白書を15代将軍徳川慶喜に提出し、坂本龍馬と中岡慎太郎は京の大宮で暗殺されます。土佐藩兵が薩摩と長州の陣営に参加して鳥羽伏見で戦い、戊辰戦争が始まります。読み進めるだけでドキドキしてきます。
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「秦藤交代」からの土佐藩の成り立ちと歴史が興味深いです。長宗我部氏の祖先は始皇帝で有名な中国の秦王朝の流れを組み、大和朝廷において秦氏を名乗っていましたが、土佐に入って長岡郡長宗我部に定着したことから長宗我部の姓を名乗ります。他方で山内氏は平将門を討った藤原秀郷(俵藤太)の流れを組むと言われます。土佐支配が秦氏から藤原氏に移ったということで「秦藤交代」と呼ばれます。
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「一字書/神」
初代藩主の山内一豊の筆と伝えられ、署名には伊右衛門書之」とあります。一豊は当初は伊右衛門(猪右衛門)と名乗り、後に対馬守に通称を変えました。 -
「初代山内一豊銅像雛形」
高知城のふもとの藤並神社内に建てられた「初代山内一豊銅像」の雛形です。作者の本山白雲は宿毛出身の彫刻家で高村光雲の弟子です。一豊像は第2次世界大戦中に金属供出されたために現在の像は再建されたものです。 -
山内一豊が豊臣秀吉のもとで大名に出世し、慶長5年の関ヶ原の戦いでは東軍に与し、その恩賞で徳川家康から土佐国を与えられ、土佐藩20万2600石の大藩を成し、維新後には華族の侯爵家に列しています。長宗我部に仕えていた半農半兵の家臣(一領具足)たちは郷士という下士身分に組み込まれ、上士のほとんどは藩祖一豊に従って来国したことから下士への差別が根深く、幕末維新の政争にも影響を及ぼしました。この辺りは「龍馬伝」でも描かれていました。
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「山内一豊・夫人見性院像」
山内一豊夫婦の肖像画で、後世に描かれています。一豊は束帯に袈裟懸け、夫人は尼の姿で描かれています。夫人の本名は「千代」とも「まつ」ともいわれますが、定かではないようです。夫に馬を買わせるために大金を差し出した話や、笠の緒文などの様々な逸話で知られ、良妻賢母の見本とされます。 -
「御枡写」
山内一豊の夫人、見性院が用いた米や穀物を量る木製の枡の精巧な写しです。一豊夫婦を祀る藤並神社に奉納するために写しを造ったもので、本物は焼失したのでこれだけが伝わっています。見性院は家計をやりくりし、夫の出世を支えたことで知られ、桝の裏側をまな板代わりにしていたといい、裏面は使い込んですり減った様子まで再現されているそうです。 -
高知城の天守は望楼型天守の典型で、外観は4重で内部は3層6階建ての建物で、入母屋造りの屋根の上に望楼を載せている形です。
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天守最上階には初代藩主一豊が先の居城である遠州掛川城を模して造ったといわれる廻縁高欄が付けられていますが、この形式は当時の四国では高知城のみに見られる極めて珍しいものでした。高知城天守は小天守や付櫓を伴わず単独で建つ独立式天守と呼ばれるものです。
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山内一豊が土佐国を与えられて土佐藩を立て、一豊は大高坂山で築城に取り掛かり、1603年の慶長8年に本丸や二の丸を完成させます。城全体の完工は1611年の慶長16年で、一豊の没後で2代目藩主忠義の代になっていました。一豊により「河中山城(こうちやまじょう)」と名付けられましたが、「高智山城」と名を変えたのち、現在の城名となりました。
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幕藩体制とは近世日本の社会体制のあり方を、「幕府(将軍)」と「藩(大名)」という封建的主従関係をとらえた歴史学上の概念です。
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江戸幕府を全ての武士の頂点とし、最高の統治機関としながらも、藩を形成していることと、米などを現物で納めさせて年貢とする石高制をその基礎に置いていることが特徴です。諸大名を「親藩」「譜代大名」「外様大名」に分け、参勤交代や改易によってこれを統制しました。
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「徳川綱吉領地判物」
5代将軍徳川綱吉が4代藩主山内豊昌に土佐一円の支配を認める文書です。こういった文書を改めて見るのは初めてでした。 -
「老中奉書」
6代藩主山内豊隆に1718年の享保3年4月中の参勤を命じる幕府老中からの文書です。土佐藩は太平洋に面した浦戸や甲浦から大阪へ向かう参勤ルートが通例でしたが、悪天候などで旅程が乱れることも多かったようです。この都市の参勤では初めて四国山地を抜けて波が穏やかな瀬戸内海から大阪へ向かう「北山越え」ルートが採用され、その後定例化していきます。 -
「武家諸法度」
1615年の元和岩塩に徳川家康の命で起草され1683年の天和3年の5代将軍綱吉の時代に定式かされます。文武忠孝に励み礼儀を正すこと、参勤交代の制度、築城の制限などが定められています。法度は将軍が口頭で読み上げ、文章で配布されることは無かったため、諸大名は内容の確認のために控えを作成しました。言葉で知っていても現物を見るのは初めてのものです。 -
「生類憐みの令」
これも言葉だけの知識だったものです。1687年の貞享4年に出された法令を土佐藩が写したものです。5代将軍綱吉が度々出した「生類憐みの令」の1つで、これまでは犬や猫や鳥類などの動物が対象であった保護規定が捨て子という人間まで拡大した初めての法令です。 -
現在「東京国際フォーラム」が建っている場所に「土佐藩上屋敷」がありました。「土佐藩下屋敷」は品川大井村にあり、参勤交代の拠点として使われました。幕末には「安政の大獄」により謹慎処分となった山内容堂の隠居所となります。昔父から叔祖母(おおおば)が山内家に奉公に出ていたことがあると聞いたことを思い出しました。
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土佐の特産は現在も昔も変わりがないようで、クジラと土佐和紙と茶、材木と鰹と鰹節があげられています。
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歌川国芳の揃い物の美人画で、語尾に「たい」という言葉を付けた画題には「天気にしたい」とあり、「てりてり坊主」を持った美人の背後には鰹節を造る様子が描かれています。
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歌川広重の「六十余州名所図会」には70図の中に土佐の鰹の一本釣り漁が描かれています。
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藩主となった豊信(容堂)は黒船来航により時勢への対応が急務となると、吉田東洋を仕置役(参政)に起用し改革の手腕を振るいました。しかし将軍継嗣問題で一橋派が敗れると豊信も隠居謹慎処分を受け、改革を引き継いだ東洋も尊王攘夷の気運の高まりの中で暗殺され、改革は道半ばで中断されました。謹慎が解け前藩主として政界に復帰すると将軍家茂の上洛による公武合体実現に尽力します。
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しかし中央政治の情勢が変わり、土佐へ帰国後の容堂は吉田東洋の甥である後藤象二郎に改革を任せ、開成館の設立や蒸気船や武器の購入などにあたらせて国力の増強につとめました。
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坂本龍馬が薩長同盟を成立させ倒幕の動きが強まる中、龍馬や後藤は大政奉還の動きを進め、容堂を動かしてついにそれを実現させます。一時は内戦を回避したかに見えましたが、西郷隆盛や岩倉具視を中心に計画されたクーデターにより情勢は一変して戊辰戦争へなだれ込みます。容堂は最後まで徳川家擁護のために尽力しますが、戦火があがると官軍に加わり、板垣退助率いる土佐藩兵が東進して会津若松城攻略にあたりました。1871年の明治4年の廃藩置県により藩が消滅すると、山内家は16代続いてきた藩主の地位を降ります。上京した最後の藩主豊範(とよのり)は、近代華族制度の中で侯爵に位置づけられました。
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「山内容堂宛の徳川慶喜書簡」
一橋慶喜が第2次長州征討の時に山内容堂に送った手紙です。幕府は長州との戦争を抱えながら14代将軍家茂が急死したという状況でした。慶喜は容堂に対して家茂の死を伏せたまま将軍名代として徴収へ出陣するので京都防備のために上京して欲しいと依頼しています。容堂は上京に応じず、出兵中止を勧める立場を取ります。 -
慶喜の自筆の手紙を目の前にするのも初めてですが、この時代の歴史を考えると実に興味深いものが並んでします。「高知県立高知城歴史博物館」面白過ぎます。
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「薩州屋敷襲撃之図」歌川国輝
1867年の慶応3年に庄内藩士らが見たの薩摩藩邸等を焼き討ちした事件を描いた錦絵です。この事件は薩摩藩の挑発に幕府側が応じたもので、翌1月3日から始まる鳥羽伏見の戦いの導火線になりました。 -
ここから新たなコーナーが始まり、緊張感が一気に解けたような気になります。これまであまり知らなかった能の面についての解説がありました。江戸時代に能楽は幕府や諸藩の儀式に取り入れられ、年中行事や法事などで能を鑑賞する習わしとなっていました。そのため将軍や大名は能役者を召し抱え、屋敷に能舞台を造り、面や装束を揃えました。その時代に建てられた外祖父の生家の「二条陣屋」にも能舞台がありながら、これまでほとんど学ぶことのなかったジャンルです。
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「童子」
少年の面で露を飲んで仙人となりその永遠の若さを今に象徴する神仙の化身といわれ、また菩薩の化身であったりと神性を帯びた存在を表します。面の特徴としては下唇には歯がありません。目尻は少しつりあがり眉毛は新月形で、前髪が眉にまで届いています。この面には「天下一是閑」の焼き印があり、豊臣秀吉から「天下一」の称号を与えられた名工の出目是閑(でめぜかん)の作とみられているようです。 -
「弱法師(よろぼし)」
讒言によって家を追われ悲しみのあまり盲目になってさすらう少年を表しています。足は片輪でよろよろと歩くところから名づけられました。本名は俊徳丸で人々の噂により父に家を追い出され、乞食と共に天王寺に住みます。後に父が不憫に思い会いに来た天王寺には、彼岸の中日に「日想観(じっそうかん)」を行うために大勢の人々が集まっていました。天王寺の西門は極楽浄土の東門と向かい合っているという信仰から人々は西門付近に集まって、沈む夕日をここから拝みました。その夕日の沈む彼方の弥陀の浄土を思い浮かべ、弱法師もそれにすがると盲目となる前の情景がうかび歓喜します。それを見た父は我が子であることを悟り、家に連れ帰ります。この面は江戸時代前期に活躍した面打ちの出目満茂の作だそうです。 -
「十六」
(平敦盛が一六歳で須磨の浦の戦いで死んだ少年の顔を描いたものです。また童子が十五夜の月の面と言われるのに対し十六夜の月の面とも言われます。かわいいえくぼがある少年の面。「敦盛」「経政(つねまさ)」「知章(ともあきら)」などに用いられます。面の特徴は目の穴を四角く刳り抜き、下の歯を見せないことで儚さや脆さを感じさせています。 -
「中将」
在原業平の顔を表した面で、五男だったことから在五中将とも呼ばれていました。平安初期の歌人眉の縦線が憂いを表し、悲劇の主人公とつながり「小塩(おしお)」「雲林院」「清経」「忠度(ただのり)」「通盛(みちもり)」に使用されます。眉は「十六」と同様に四位、五位以上の昇殿を許された殿上人が描いた「殿上眉」で、お歯黒を付けた優雅な貴族男性の表現です。 -
「邯鄲男(かんたんおとこ)」
おもに脇能物の神楽を舞う後シテに用いる気品のある男面で、「邯鄲」「高砂」「弓八幡」などに用いられます。人生に迷い高僧のもとへ向かう青年が、途中の宿で不思議な枕を借り、まどろむうちに夢の中で一生の栄華を体験し、人生のはかなさを悟って迷いを晴らす様を演じられます。キャプションを読んでいて「邯鄲の夢」という話を思い出しました。 -
「頼政」
源頼政は源頼光の玄孫の孫にあたり、射芸や和歌にすぐれ、能曲「鵺」でおなじみの「鵺」を一矢で射落としたとの口伝もあり、源三位入道とも呼ばれます。平家追討を企てましたが宇治川の合戦で敗れ、平等院に一首の歌を残して自害しました。
面の特徴は宇治川の戦いに敗れた時の表情で、当年75歳の時の相貌で目を見開き、開いた口には力を入れて歯を見せ、無念さを強調しています。目を金色に彩るのは音量の表現です。 -
「三日月」
「高砂」の翁などの神霊のほか「船弁慶」の平知盛など武将の亡霊に用いられる面です。金と朱で彩られた目が神格を表しています。この型の古い面の裏に三日月形の彫があったことから三日月の名がついたとされます。この面の裏には面打ちの出目甫閑の極めが記され、大宮大和の作としています。 -
ここからは山内家に伝わった大名道具の展示で、甲冑や兜や太刀が並んでいます。
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「長烏帽子形兜」
公家や武家が被った冠の一種の烏帽子を模った兜です。頭に被る半球状の鉄製の鉢の上に木で作った烏帽子型の部材を被せ、漆を塗って仕上げています。このような奇抜な形の兜を「変わり兜」と呼び、室町時代以降の戦場で目立ち、己を鼓舞し、敵を驚かせるために盛んに作られました。 -
「蝶形兜(ちょうなりのかぶと)」
蝶を模った変わり兜で、4代藩主山内豊昌のものと伝わります。左右に丸く張り出しているのが羽で下の渦巻き模様が触角を表します。幼虫からサナギを経て華麗に変身する蝶は不死のシンボルとされました。 -
「白糸威水牛兜」
水牛の角を模ったとされる変わり兜です。全面に銀箔を押し、白糸で威した端麗なデザインです。毛利吉政が大坂夏の陣で着用したと伝わります。吉政は関ヶ原で西軍に参加したため、戦後に豊前小倉の領地を没収され山内家に預けられます。大阪の陣では土佐を脱出して豊臣形で戦い城中で自刃しました。兜は吉政から家臣に託され、毛利家に伝わりますが、後に陣羽織と共に山内家に譲られました。 -
「萌黄糸威二枚道具足」
黒塗りの鉄板の小札(こざね)に萌黄の糸で毛引威(けびきおどし)とした具足です。小札の黒と威し糸の萌黄と菱縫いの紅、金具の金色が鮮やかな大名らしい仕立てです。12代藩主の豊資と13代豊熙へと伝わりました。 -
「紺糸威白熊兜」
12代藩主豊資のものと伝えられる兜です。兜を覆う白い獣毛はウシ科の哺乳類のヤクの毛で、日本では「白熊(はぐま)」と呼ばれました。金の大鍬形を取り付けた鍬形台には山内家の家紋の「丸三柏」がデザインされています。 -
以前「九塞溝」に行く途中でヤクに乗ったことを思い出します。武田信玄の兜にふさふさとウィッグのようになびいていたのは、白ヤクの獣毛でしたし、徳川家康や石田三成なども「超高価なファッション」として権威を誇っていました。1頭から梳き採れる毛は僅か100~200グラムなので現在もとても高価です。「家康に過ぎたるものは二つあり唐の頭に本多平八」の唐の頭はヤクの毛の兜のことです。
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「玉鋼(たまはがね)」
玉鋼とは日本の古式製鉄法で作られる鋼の一種です。たたら製鉄の一方法である「鉧押し(けらおし)」によって直接製錬された鋼のうち、特に炭素含有量の少ない良質のものを日本刀の製作には欠かせない最上質のものとして玉鋼としています。 -
「刀 銘:兼元」
本刀の作者「兼元」(かねもと)は「関の孫六」の通称で有名な室町時代末期の美濃を代表する刀工です。「兼元」の名乗りは数代あり「孫六兼元」はその2代目に当たります。戦国時代に実用第一の刀剣を量産した美濃関の刀工の中でも、孫六兼元は高く評価されます。 -
「薙刀 銘:濃洲関住兼定作」
初代兼定の子で吉右衛門と称し、明応の初めに兼定と切り、明応末年に定の字を切ります。その字が之定のごとくなるために「之定(のさだ)」と称されます。 -
「刀 銘:兼常」
美濃鍛冶を代表する刀工の1人に兼常がおり、室町期に数代あり新刀期にまで名跡が続きました。裏に金象嵌で2代藩主山内忠義の所持銘「八 松平土佐守忠義」が施されているそうです。毛利勝信が竹中重治に懇望し、後に山内家預かりになった際に忠義に譲られたと伝わります。 -
「百合蒔絵 鐙(あぶみ)」
黒漆地に高蒔絵で百合を表した鐙です。この鐙は「舌長鐙」と呼ばれる形で、足裏を支える舌と呼ばれる部分が非常に長いのが特徴です。 -
「梨子地菊蒔絵鞍」
馬の背に置く「鞍橋(くらぼね)」に緩衝材となる「下鞍」、上に敷く「馬氈(ばせん)」が付属しています。「四緒手(しおで)」と呼ばれる金具には丸三柏紋が掘られていることから山内家で使用されたもののようです。 -
一昨日には韓国の慶州の博物館で古代の馬具を観てきたばかりなので、興味深く比較することが出来ます。イラストも何となく似ている気がします。
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「七言絶句 夏日江村」
13代藩主豊熙(とよてる)が自作の漢詩を記した掛軸です。「漁磯(ぎょき) 草を 茵(しとね)に新茶を煮る 柳岸の樹間 夕日斜めなり 水色清涼 濯足に堪ふ 此の郷 好く生涯を托さんと欲す。」夏の夕べに水辺で草に座り、新茶と景色を楽しみ、清流に足を浸けながらこの村に生涯住みたいほどだと述懐しています。 -
「棗形釜」
肩の部分に菊花を散らし、胴には梅と竹を鋳出し、鐶付きは遠山形をしています。加賀藩の御用釜師宮崎寒雉の作を京の釜師西村道也が写したものが伝わります。西村道也(にしむら どうや)は京都三条釜座に住し、表千家6世原叟の頃に活躍した釜師です。 -
「茶杓」「尾戸焼瓢茶入」
土佐藩では2代藩主忠義、4代藩主豊昌が大名茶人の片桐石州に学び、茶道方も代々石州流が続いていますが、9代藩主豊熙が川上不白に入門しています。 -
「尾戸焼手付鉄釉水差」
「尾戸焼」は1653年の承応2年に土佐藩第2代藩主の山内忠義の下で家老を務めていた野中兼山が大坂の高津から陶工の久野正伯を招き、高知城北側の江ノ口川北岸の尾戸に開窯したことに始まっています。地元では「はんど薬」と呼ばれる艶の無い褐色の釉薬に、黄から濃緑まで発色する艶のある釉薬が重ね掛けされています。 -
「尾戸焼双魚花入」
2匹の魚を模った尾戸焼きの掛け花入れです。呉須で書かれているのは禅の公案集「碧巌録」です。北宋晩期に成立した「碧巌録」は「宗門第一の書」として日本の禅に多大な影響を与えました。 -
「異怪図(百鬼夜行絵巻)」
「百鬼夜行絵巻」とは妖怪たちが行列をする「百鬼夜行」のさまを描いたとされる複数の絵巻物の総称で、室町時代から大正年間頃まで数多く制作されました。 -
ここに収められた「異怪図」の作者は江戸で代々将軍家に仕えた愛宕下狩野家の8代当主狩野探龍守玉です。山内家に仕えたという記録はありませんが、土佐藩能役者深尾家の能面の写生図や藩主名代が参列した日航輪王寺で行われる強飯式の図が遺されています。
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「百鬼夜行絵巻」というと室町時代に土佐光信作と伝えられる京都の大徳寺真珠庵のものが有名です。
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平安時代の人々に恐れられていた鬼や異形の者が行列をする妖怪たちは、器物の妖怪たちが中心となっているようです。
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つい先日境港に寄港した際に行った「水木しげるロード」で写真を撮った妖怪たちの姿が浮かんできます。
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夜更けに京都の大通りを「鬼」と総称される異形のものが闊歩する「百鬼夜行」の様子を描いた絵巻物に描かれた異形の大半は「付喪神(つくもがみ)」と呼ばれる古道具の妖怪です。
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「付喪神(つくもがみ)」は絵巻物「付喪神絵巻』に見られるもので、道具は百年という年月を経ると精霊を得てこれに変化することが出来るといわれます。「つくも」とは、「百年に一年たらぬ」と詞書きにあることから「九十九」(つくも)のことであるとされます。
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器物は百年経つと精霊を宿し付喪神となるため、人々は「煤払い」と称して毎年立春前に古道具を路地に捨てていました。廃棄された器物たちが腹を立てて節分の夜に妖怪となり一揆を起こしますが、人間や護法童子に懲らしめられ、最終的には仏教に帰依していきます。
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「兎耳形兜(うさぎみみなりのかぶと)」
兎の耳を模した変わり兜です。4代藩主豊昌のものと伝えられています。兎じゃ大きな耳で素早く情報を集め、走るのも早く、特に登り坂を得意とすることから縁起の良い動物だと考えられていました。 -
「脇差 銘:信国」
信国は南北朝から室町時代にかけて山城国で栄えた一派で、中でも初代及び応永年間に活躍した3人の信国、応永信国が名工とされます。この脇差には川口陟の鞘書があり、式部丞信国と鑑定しています。 -
金製の土佐藩の文化については別のコーナーとなっていました。
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「一行書 無心雲自閑」
江戸千家の祖である川上不白の書で、「無心雲自閑-何事にもとらわれずただただ閑寂に存在する雲」とあります。落款の「孤峰」は麩白の郷の1つです。 -
「茶杓 銘:大黒」
川上不白の茶杓です。不白の茶杓には櫂先をゆっくりと曲げたものが多いです。茶弱と筒に同じ竹材を用いて、同一人が作成して筒書きしたものを「共筒」といいます。 -
「容堂公印譜」
15代藩主山内容堂の所有していた印の印影129点を納めた印譜です。そのほぼ全部の印が現存しているそうです。その多くは箱や仕覆が付属しており、印の材質やつまみの鈕、印文、刻者名が書き入れられています。幕末明治の錚々たる印人の作品や頼山陽の自刻印も2顆含まれています。 -
「容堂公印譜」から抜粋したものも展示してあります。1つ1つ意味づけして129点も有名な印人に注文したらさぞ楽しかったのでしょう。「日本三癖」は「日本三大偏愛家」の意味で、山内容堂の言葉です。容堂は「日本外史」が尊王論に大きな影響を与えた頼山陽に傾倒し、ある時「日本に三癖あり。頼山陽は詩癖、余は酒癖、水石は印癖」といい、積水は感激のあまり「日本三癖」の印を作成しました。
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「印譜・山水貼交幅」
土佐の文人である壬生水石が作成した印を捺した印譜と山水図を貼り合わせた掛け幅です。水石は印刻や書画に優れ、雅致あふれる作品で知られます。 -
「乱世の世の装い」
歴代藩主の中で実戦を経験したのは初代山内一豊と2代忠義です。いわゆる戦国武将たちの陣羽織や具足下着などの戦衣には戦における実用性を考慮した工夫が見られます。「武家の服飾―山内家伝来装束の世界―」は2024年6月22日から9月1日までの約2ヶ月半開催されていたので、いいタイミングで見ることが出来ました。 -
一豊の父の盛豊が丹波で戦ったとき、差物のかわりにあり合わせに柏の枝をさして力戦し、戦い終わってみると柏の葉が三枚だけ残っていました。 それ以後勝利の吉例として「三つ葉柏」を家紋にしました。
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「白木綿地陣羽織」
初代藩主一豊所用の陣羽織で、白木綿地を用い、袖なしで立ち襟が付いています。袖に向かって円を描くように広がる形状は当時ヨーロッパで用いられた外套に類似しています。 -
「褐色麻地立浪紋付具足下着」
一豊所用の具足下着で、藍で濃く染めた褐色麻地に立浪紋を白抜きで表しています。家臣の前野氏が定紋に立浪紋を用いているのを見た一豊は繰り返し寄せては打つ波の特性が戦に通じると指摘に行って、山内家の家紋に用いました。 -
「緋羅紗地渦巻文様陣羽織」
毛利勝永所用と伝わる袖なしの陣羽織です。袖くりには波形をかたどった黒羅背板地と黄羅紗地をフリルのようにつけ、肩山と袖ぐりは金襴と金茶色の撚糸によって飾られています。 -
「南蛮帽」
一豊所用と伝わる舶来の帽子です。白羅紗地を用いた七宝飾りがめぐらされ、白熊(はぐま)の房が付けられています。帽子の素材はひと目でコルクだと分かりました。ポルトガルはコルクの名産で、11月の旅ではコルク性の帽子屋バックや上着が売られているのを見ることが出来ました。 -
「南蛮服飾」
南蛮服飾とは桃山時代から江戸時代初期にかけて日本へ渡来した外国人である南蛮人の服飾(西欧服飾)の影響を受けて、日本で流行した服飾様式のことです。特徴としては体の線にあわせて自由な形で裂を切り出していく曲線裁断や、高い立襟)、襟部の装飾、太ももから膝にかけての部分に広い裂を用いたズボン状の衣服、ボタンやボタンを留めるループの使用などが挙げられます。 -
「紫羅背板地二十三夜月文様陣羽織」
紫羅背板地に緋羅紗地で二十三夜月(下弦の月)の袖と袖の切り継ぎ部分を表しています。5代藩主豊房所用と伝わる陣羽織は2代藩主忠義所用のものが日に5代に伝わったという記録が残っています。この陣羽織は修理後初公開だそうです。 -
「黒羅紗地菱繋文様丸三柏紋付陣羽織」
5代藩主豊房所用と伝わる黒羅紗地の単衣仕立ての陣羽織です。襟は首周りを黄羅紗地とし、袖口にある緋羅紗地の筋は切り嵌めになっています。丸三柏紋と横に繋がる菱繋ぎ紋も同じ切り嵌めになっています。 -
「白地筋雲文様鳥毛陣羽織」
10代藩主豊策所用と伝わる陣羽織です。白木綿地にさまざまな色の鳥毛を縫い付けて模様としています。 -
「緋羅紗地斜縞文様三柏紋付陣羽織」
15代藩主容堂所用の陣羽織です。 -
「緋羅紗地数珠文様陣羽織」
先ほど入り口で着てみたのがこの陣羽織のレプリカです。数珠玉や房には厚く肉(綿)を入れ、立体的なデザインになっています。紋は「白一黒一」となっています。 -
「公の装い」のコーナーでは武家官位と服制が非常に分かりやすい写真入りで説明されていました。
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束帯など特別な儀礼の装いについても肖像画をもとに説明があり、とても分かりやすいです。もっともこの時は細かく読み込んでいる時間はありませんでしたが。
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「浅葱麻地丸三柏紋付裃」
裃は「肩衣」(かたぎぬ)という上半身に着る袖の無い上衣と、「袴」の組合せで成り立ち、それらを小袖の上から着ます。その多くは肩衣と袴を同色同質の生地で仕立て、肩衣の背と両胸、袴の腰板の4か所に紋を入れます。上(肩衣)と下(袴)を一揃いの物として作る衣服であることが命名の起源です。 -
「火事兜・錣(しころ)」
江戸城下の火の番を勤めた大名火消しの装束は通常は羽織と胸当てと首周りを護る錣(しころ)が付いた兜で構成されました。戦の無い時代に火事場という生死の関わる場面で陣頭指揮をとる大名火消しの装束は戦場における甲冑とおない意味があったのだと考えられます。そのため華美で奇抜な意匠が多く見られました。 -
武家の芸能としての能は1603年の慶長8年に徳川家康が将軍宣下の能を催したことで、武家の式楽として芸能の中でも高い地位を確立しました。幕府は諸大名に能を推奨し、能を好んだ藩主たちは贅を尽くした衣装や道具を誂えました。
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「金地雪持南天団扇色紙散ら文様唐織」
さまざまな色糸の緯糸(ぬきいと)で雪持南天と団扇と色紙を表します。さらに色糸の中に牡丹と露芝、団扇の中に破れ七宝の文様を入れています。江戸時代後期に全面に金糸を織り出した唐織は最高位とされ、能に注力した大名家でなければ誂えられませんでした。 -
刺繍の技法も紹介されているので見比べてみることも出来ました。中国の貴州省で刺繍の素晴らしい作品を行くつも買い求めたことがありましたが、比べようもありません。「繍」」「まつい繍」「刺し繍」「駒繍」「平繍」「留め繍」などの技法については初めて知りました。
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「胴箔地鉄線地紙色紙短冊散文様繍箔」
繍箔は元々刺繍と摺箔を用いた染織技法の名称でしたが、そのまま装束の名前になりました。地の部分には金箔を全面に摺り、鉄線や団扇、色紙や短冊などの文様を様々な刺繍技法で表しています。 -
「水浅葱地花唐草菱繋文様厚板」
厚板は元々舶来の厚手の高級織物の名称で、厚い板に巻かれていたものがそのまま装束に名前になりました。 -
能装束についても詳しいイラスト入れのパネルで説明されているので非常に分かりやすいです。能面と共に豪華な衣装を見ていると無何十年と能を観ていないことに気が付きます。
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高知へは「よさこい祭り」を観に来たのですが、今回は非常に学ぶことが多かったです。そろそろ観覧席に行く準備の時間になりました。ここまでは涼しい博物館でしたが、これからは炎天下でよさこいを楽しみます。
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