2024/09/10 - 2024/09/14
884位(同エリア1263件中)
明石DSさん
キャセイ航空「CX640」ビジネス座席「2-2-2」の左2の通路側14C
夜中にほとんど食べれず
コンビニ弁当のほうが余程美味しいし
デジカメ時間も定かでない
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カトマンズ空港~香港~関空~自宅へ:五日目
2024:令和6年9月10日(火)~9月14日(土)
3泊5日
9月14日(土):晴
カトマンズ空港~香港~関空~自宅へ:五日目
■キャセイ航空「CX640」ビジネス座席「2-2-2」の左2の通路側14C
カトマンズ「トリブバン国際空港」を離陸し1時間経たないうちに14日(土)になった。ビジネス席と言っても座席は旧型「2-2-2」でリクライニングでほぼフラットになるが見た目エコノミーと変わらず。
なんせ真夜中なのでビジネス席と言いながら窮屈に座っているだけ。「ゆとりの往復ビジネス利用」で今回分かったのは私にとってエコノミーでもビジネスでも同じくらい疲れる。何でなん?と考えたが無職になってから日々卓球のやり過ぎで体中がいつも凝り固まってほぐれてないからだと思う。
「卓球やり過ぎ?」ほぼ毎日2時間だが卓球教室や体育館で同好の者と練習したり、月に3~4回試合に参加したり、月に3回くらい午前・午後計4時間くらいする。だが、それが多分私の年齢と身体の状態ではやり過ぎなのかも知れない。それで疲れ過ぎて寝つきも睡眠状態も良くない。
疲れが取れてない状態がずっと続いている。それで今年7月“ふらつき”でたまらず内科・脳神経外科に行ったが問題なかった。でも眠剤には時折今も頼っている。機内でも寝れずボーと起きてたらCAさんの質問に寝ぼけて頷いたら夜食なのか?朝食なのか?が運ばれてきた。
数人しか頼んでいなかった。食欲もないしボリュームがあり過ぎほとんど食べず。そして明るくなって香港到着。この辺になるとデジカメ写真はネパール時間なのか香港時間なのか?はたまた日本時間にしていたのか訳わからず。自分でやったことだが思い出せない。
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夜が明けて明るくなっている
ビジネス席でも私は楽でない
新幹線の座席のほうが余程楽だ -
香港到着
あとは関空に向かうだけ -
香港から関空へ
香港到着しても乗り継ぎ待ちはなし
というより添乗員の“Kさん”焦ってた
急いで搭乗口へと移動する
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■香港から関空へ
日程表には香港着午前6時20分、香港発8時10分だが、カトマンズ発も1時間くらい遅れてたし実際は何時に到着したのか乗り継ぎの待ち時間はなかったも同じで空港内をみんな急ぎ足で“Kさん”の先導で歩いた。そして“Kさん”が搭乗口を勘違いしたのか?搭乗口への道を間違ったのか?焦ってそこらの空港スタッフの女性に英語で聞いていた。
運が悪いと言うかその聞いた女性が年配で、説明があやふやな感じで“Kさん”余計に焦っていた。結局間違っていないことに“Kさん”自身が気づき無事に搭乗ゲート前に到着した。そしてすぐに搭乗が始まりキャセイ航空「CX596」の「1・2・1」の右窓側15Kの座席に座った。
往路と同じくこれぞビジネス席と言う格好いい座席。使い方は分かっていたので余裕もあったし雲は多かったが窓外の景色も見れた。香港よさらば!
午前9時36分巨大な機体は地面から浮き上がった。この時のデジカメ時間は日本時間に合わせていたはず。離陸後すぐから次から次にと果物・パンや飲み物を持って来てくれる。CAさんは運ぶ下げるに忙しい。こっちは食べる飲むに忙しい。「食べないと損」という貧乏性が老いても消えず。
そんな自分のはずが今回は初めてメーンの食事は断ったと思う。「断ったと思う」と言うのは、帰国後香港からの帰路「CX596」の機内で写した写真のなかにその写真がないから。出てたら・・・食べてたら、絶対写している。写真がないのは「何で?」と記憶をたどってたら「そうかあの時は食べる気がしなくて断ったような気がするわ!」と思い出した。
すでにお腹一杯だったから・・・。もしかしたら、もしかしたらとの、かってな想像かもだけど人生初、多分断ってるはずだ!離陸後すぐに果物やパンに飲み物。そしてヨーグルトが出たのが10時40分。それから関空着の12時45分までの2時間一切何も出ないはずはないフフフ。
そして無事に関空到着。再び生きて祖国の地を踏めることになり万歳!入国手続きを終えトランクを引き取りに「NO4」のターンテーブル前にツアー仲間15名と“Kさん”が集合。この場にてそれぞれ仲間に別れを告げた。一期一会の集いであり、生きてる限り日々それが繰り返される。
一人の男性仲間がトランクを待たず「それでは」と帰っていった。「えっ?何で」と思ったら「あの人最初からあの小さなバックだけやった」とのこと、なるほど私もツアーではなく一人旅が主だったんでいつもバックパック一つで行っていた。2週間くらいの海外旅行でも日々移動で持ってなんか行けない。
服ズボンはほとんど着替えないし、下着靴下は100円ショップで使い捨て。元よりトランクなんて持って行く気なし。でもツアーで行くとみんな毎日のように着替える。それを知らずに行って恥ずかしかった。気にしてるのは自分だけだと思うけど、気づいた自分はなんか気恥ずかしい。旅先でTシャツを買ったりした。
私の小さなトランクが出てきたのでみんなと別れ荷物検査を経て到着出口から午後1時20分くらいに出た。そして神戸ポーアイ桟橋着のベイシャトル関空発バスの出発時間が午後2時半。なので海外旅行帰国時のルーティーンでもある空港3Fの「そじ坊」で蕎麦を食べようとエスカレーターで2階に上がった。
そこで初めて空港内の様子がまるで変っているのに気付いた。2020年1月のマカオ帰国から4年経った。コロナ禍期間には関空も大変だったろう。旅行客は元より海外渡航する人も激減し、大手航空のパイロットですら仕事なく副業する羽目に。そんな長期の氷河期が全てを変えたのだ。
しばらくは探したが歩き疲れ諦めて一階ベイシャトル・チケット売り場に行き2時45分の乗船予約をした。10日に往復券を購入した時に「予約しないと乗船出来ない場合がある」と言われていたので・・・。いつもガラガラなので「えっ?そうなん」と思ったが念のために予約した。
後から桟橋行きのバス待ちの行列が凄かったので予約していて良かったと思ったけが乗船時はまだ座席の余裕があった。お腹もすいたし何か食べようと思ったけがファーストフード店も行列。諦めてベンチに腰掛けたら思いもかけず同行の“Tさん”が大阪に帰るバス待ちをしてた。
ホンマに偶然と言うか?ビックリ仰天!そこでまた旅の話題で盛り上がり、“Tさん”が携帯番号とメルアドを書いて私に手渡してくれた。互いに話に夢中で待ち時間も一気に無くなり慌てて“Tさん”はバス乗り場に向かった。
その時、私がデジカメ写真を撮りまくっていたのは旅行記を書くためでフォートラベルにアップしてると“Tさん”に言った。今まで家族以外に旅行記のことは話してはいない。自営業の時、ホームページが集客の唯一の手段だったのでHPの自己紹介欄に書いていたけど・・・。
その“Tさん”に帰宅後メルアドで連絡をした。すぐに返信があり旅先での話や私が写した遊覧飛行でのエベレストの写真を頼まれて送付した。旅先で“Tさん”が写真を撮る姿は見た記憶がないし。そして旅行記のことを話した以上「フォートラベルにアップしたら必ず連絡します」と約束した。
数ヶ月先になると思うけど・・・。一日も早くカトマンズ旅行記の完結を願っているが老いてスタミナ・集中力の減少、その上に卓球やり過ぎでいつも帰宅後グッタリで眠くなる。遅々として進まず。 -
心配するほどのこともなく間に合って搭乗開始
ラウンジ休憩より早く帰る方が良い -
これぞビジネス・・・個室の雰囲気ちょっとあり
それでも窮屈肩がこる
私は飛行機との相性が悪いのかも?
なんせ身体が固まる -
香港よさらば!
飛行機の高度はどんな高い展望タワーよりか遥か高い
この眺めを楽しまずして何とする -
私は電車に乗ってもバスに乗っても
窓外の景色・風景を飽きずに眺めてる
さすがに地元近辺での電車乗車時はその限りにあらずだが
いつも窓側席に座りたい -
ビジネス席だからこうなのか?
今回はビジネスと言っても格安往復だから
気分的にはエコノミーと変わらない
実際にツアーでなくビジネス席の航空券を買えば
気分はどうなるのかなあ? -
生きて再びビジネス席に座ることはあるのだろうか?
ジャンボ宝くじに当選すれば必ずファーストクラスに乗る -
今94才の義母は富士山も見たことなく
いくら言っても見に行く気力もない
無論飛行機に乗ったこともない -
大地は地球のかさぶたに似たり
地球に優しくは人類のエゴに過ぎず
人間が何をしようが地球はびくともしない
星としての寿命を堂々とまっとうするだけだ
何が「地球に優しく」だ!恥を知れ!亡ぶのは人類だ -
関空に無事に着陸した
以前より怖さが亡くなったのは
老いたからだと思う
死ぬことへの意識が変わった
自身で選択できる安楽死の薬をくれ
それさえあれば老いの余生を千倍楽しめる -
ビジネス席に座れば確かに優越感はある
顔には出さないけど心にはフフフ
差は快感に通じる 下より上が良い
ガンバロウ! -
トランク受け取りのターンテーブル「No4」
ここで一期一会のツアー仲間と別れる
みんなそこそこの高齢者だった
誰が一番長生きするのだろう? -
2020年1月マカオから関空に戻って以来
4年が経過しコロナ禍で関空内も変わっていた
「そじ坊」が見つけられず諦める -
関空から我が家に帰宅
そうかこんなにベイシャトル利用者が多いのか
半数以上が外国人 特に中国人が多かった
円安で日本への旅行者が多いのかもなあ
でも団体ツアーは見なかったと思うけど
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■関空から我が家に帰宅
バスの乗車時間が近づきバス停に行ったら長い行列が、中国人が多くその他も外国人が過半数だと思う。バスは一台では運べず少なくとも2台は運行してた。そして今回もベイシャトルの船名は「そら」海を空が行く。船は定刻午後2時45分出航す。
青空広がる波静かな大阪湾を快調に横断し午後3時16分の定刻より6分遅れの22分着岸。すぐに駐車場に向かおうとしたが駐車券が無いのが判明。「えェ~ほんまかいな!どうしよう・・・」とまずはチケット販売所・待合室の隅の椅子にトランクを置き探す。
まず入れたと思っていた財布の中には見当たらず、次にトランクを開けて総ざらえ。20分近くその場で延々と探したがなかった。「しゃあないな、一体幾らくらい駐車料金払わないといけないのかなあ・・・10日早朝から14日の午後4時近くまで・・・」
あの駐車券があれば一ヶ月置いても無料なのに・・・と、思いながらチケット売り場の窓口に行って「駐車券をなくしました」と言ったら、即座に「そうですか、どこに置かれました?」と聞かれた。
「この建物の前の駐車場です」と返事したら「じゃあこれを駐車場の出口の係員に渡して下さい。スタッフには連絡しておきます」と言われて小さな紙を手渡された。それは「駐車場出庫依頼書」との表示の小さなメモ紙。
それには「お客様へ この書面を警備員にお渡しください」とあり、その下に「警備員各位 チケットカウンターにて確認しましたので駐車場の強制出庫をお願いします。株式会社こうべ未来都市機構(印)」とあった。他に何も聞かれず問われず嬉しい拍子抜けだった。
そのメモ紙を駐車場出口で係員に渡すとすぐにゲートを開けてくれた。感謝感激す!
そして午後3時45分愛車に乗って西明石の我が家にと向かう。安全運転に心して!見慣れ、走り慣れた神戸を町をひたすら西に向かって我が家無事到着は午後4時34分。50分ほど掛かった。
そして在宅だった家内に帰国時写真を撮ってもらい。まずはデジカメ・ビデオカメラ・スマホの写真をパソコンに取り込む。それが完了して一段落。そのあと自宅神棚に「二礼二拍手一礼」し、仏壇の前に座って無事帰国の感謝を込めて般若心経を二度読経。
我が人生43回目の海外旅行から無事帰国した。これからボチボチ旅行記を記す。しかしながらこれは旅行記にあらず。いつものわが能書き也。
思いのままを書き連ねる。同じ事を百回でも千回でも。書いてネット上にアップする以上読んで頂きたいのは山々なれど、きっと気分を害される方も多々おられるはず。ましてネット上から削除されたり掲載不可になるかもと思う内容もあるかもと思うけど・・・。 -
大阪湾をベイシャトル「そら」で30分で横断するぞ!
-
そこそこ多い乗船客
どこから どこへ 何をしに
一人一人に聞きたいけれど・・・ -
ポートアイランドに着岸寸前
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駐車券をなくし焦った
必死に探すも見つからず
一体幾らぐらい駐車代金請求されるのかと
恐る恐るカウンターのスタッフに聞いた -
嬉々として我が愛車のもとに行く
なんのこともなくお咎めも料金も不要だった
その瞬間にベイシャトルが好きになった -
ポートランド大橋を渡って神戸市内へ快走中
懐かしき我がふるさとなり 帰ってきた!! -
国道175線を南下
あと10分ほどで我が家に着く
最後の最後まで気を引き締めて安全運転を!
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旅を終え
これは旅行記?かもだが、子孫に遺す我が遺言でもある。三人の息子や我を知る孫たちは、現実の私を知っているので「なんじゃ、言うてることとやってることが違うやろ!」とか「何ええ格好言ってんねん!」とかで「読む」「見るに値せず」と思う可能性は十分承知してる。
しかしながら孫の子、もしくは孫の孫になれば生きた私を知る由もない。そんな子孫の中には自分の先祖に興味を持つ者は必ず出てくる。何故そう思うのか?私自身がそうだから、私の祖父は私が生まれる24年前に46才の若さで亡くなった。その祖父は日露戦争に23才独身時に姫路騎兵第十聯隊の騎兵として開戦間もなくから出征した。
「1904:明治37年 5月23日 23歳・日露戦争に出征。宇品港出帆征途に上る」「同年:6月4日清国南尖に上陸」それから第四軍の騎兵第十聯隊は「岬厳附近戦闘参与」「分水嶺附近戦闘参与」「柝木(たくぼく)城附近戦闘参与」「遼陽会戦参与」
「三槐石山夜襲」「沙河会戦参与」「沙河対陣参与」「黒溝台会戦参与」「奉天会戦参与」と戦い抜き、若き祖父は戦場より多くの手紙を故郷に送って来ている。その手紙が残っており私はそれに興味を抱き祖父の戦跡を訪ねて「2005年日露戦争勝利100年」:祖父従軍の足跡を追って満州へ行った。我55才の時。
明治38年その祖父が奉天(瀋陽)の先で偵察任務中ロシア軍から被弾した。その時の隊長(大尉)から自宅に「三月十六日、斥候ニ服務シ敵情ヲ捜索中、鉄嶺ノ西南方約一里半「ウイジャゴー」附近ニ於テ敵弾ノ為腹部ニ貫通銃創ヲ受ケ 即刻野戦病院ニ入院 目下加療中ニ御座候」手紙が届いた
それらの手紙が残っていたので私はその被弾場所を探しに行った。残念ながら「ウイジャゴー」との読みは中国人に聞いても「ゴー」は「溝」だと分かるが「それに敵う地名は分からず」現地鉄嶺でいろな人に聞いても分からなかった。
でも「鉄嶺ノ西南方約一里半」を目指して現地タクシーで行ったら百年前の祖父からの手紙の内容と変わらない、いや変わりようがない風景がそこにあった。所々の小さな部落・村落とあとは見える限りの広大な畑地。遠くに山並みが見えるだけの場所だった。
そうか、こんな場所で若き祖父は計三発被弾し落馬して倒れていたが命は助かった。当たり所が数センチずれて戦死だったら私はこの世に存在しない。祖父の生きてる時の人柄も言動も分からない。だからこそ興味津々になれる。私の心の中ではあの過酷な戦場を最前線で戦い抜き生きて祖国の地を踏んだ祖父は私の英雄になった。
酷寒の黒河台の戦い最中、夜の10時に認めた手紙には「最もこの大會戦に参加致し幸いにして命あらば又の文通致す事と存じ居り候間 我が運命にお待ち下されたく候」と書かれていた。その字は普段達筆な祖父だが寒さに震えた文字だった。そして祖父の戦跡を巡ったのが切っ掛けとなり私は戦跡巡りが趣味となった。
そして2010年には長兄と二人で二年がかりで我が家の家系図も完成させた。その時は父方の先祖はまだ探しやすいが、母方となるともう世代が変われば赤の他人に近くなる。そんな状況下で突然親戚と名乗る者から電話が掛かり家族状況を教えてくれと言われたら・・・。聞かれた方は「何言うとんや」だし聞く私も戦々恐々だった。
特に昨今は個人情報にうるさい。クラス名簿さえダメとかある。スポーツの大会で優勝しても新聞に名前を出すなとか、私からすれば狂ってる。何が個人情報保護法案だ。そんな物その気になれば全部調べられる。みんなバレている家族状況も資産状況も金さえ出せば手に入る。
そんなことを心配するよりみんなバレていると覚悟して生きろ。その上で自分や家族を守る術を研究し対処しろ。「いじめをなくせ!」・・・ホンマにバカか。未来永劫なくならない。「いじめに負けるな」「イジメるな!」と叫べ。
私は残す。残せば未来の子孫につながる可能性はゼロではない。私のように学歴なし地位なし、ただの市井の民でも構わない。百年前、何百年前の一市民の落書きでも残っていれば有難い。写真なら一葉の写真に無尽蔵ともいえる情報がある。今の物の値段でも二百年後はお宝だ。
ましてや自分の遥か昔の先祖の何かが残っていれば私ならメチャ嬉しい。だから私はデジタル化して外付けハードディスクに保存し、息子三人孫八人に近い将来遺言として渡す。物理的に10年持つか持たないかだろうけど、一人でも保存し直し次に繋いでくれる者がいるかもと。
「神のみぞ知る」だが可能性はゼロではない。ハハハ!次回の私の海外旅行はあるのか? (了)
本日のスマホ歩数計
「8,976歩」「6,283m」「時速4.3km」
尚
私の旅行記は「ウィキペディア」「ネット検索」「小説」他、引用抜粋は『』だけ。「パクリ」といえば全てがパクリ、生まれた時は何知らず。今まで真似とパクリで人生を歩んできた。自分が作った言葉なく、私自身の発明もない。私のパクリ旅行記の内容で「間違い」あればご指摘して頂ければありがたいです。
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