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2022年12月20日(火)5時15分過ぎ、総門から萬福寺の境内に入る。萬福寺は明時代末期頃の様式で造られ、境内は日本の多くの寺院とは異なった空間を形成している。また、多くの仏像が来日して長崎にいた清の仏師・范道生の作であり、大陸風。また、煎茶道の祖・売茶翁(ばいさおう)ゆかりの寺としても知られる。<br /><br />伽藍は西を正面とし、左右相称に整然と配置されている。建物は日本の一般的な寺院建築とは異なり、明末期頃の様式で造られ、材料も南方産のチーク材が使われている。「卍字くずし」のデザインによる高欄、「黄檗天井」と呼ばれるアーチ形の天井、円形の窓、扉に彫られた「桃符」と呼ばれる桃の実形の飾りなど、日本の他の寺院ではあまり見かけないデザインや技法が多用されている。<br /><br />総門をくぐると右手に放生池、その先に三門があり、三門の正面には天王殿、その奥に大雄宝殿、さらに奥に法堂が西から東へ一直線に並ぶ。これら諸堂の間は回廊で結ばれており、天王殿と大雄宝殿の間をロの字状に結ぶ回廊に沿って左右に諸堂が建つ。代表的禅宗建築群として、主要建物23棟、廻廊、額、聯(れん)などが国の重要文化財に指定されており、うち3棟は2024年10月に国宝に指定された。<br /><br />まずは総門。敷地の西側の真ん中に置かれている。1661年の建立だが、現在のものは1693年の再建。国の重文。瓦屋根の中央部分を高く、左右の部分を低く、段差を設けている中国風の牌楼(ぱいろう)式で、漢門とも呼ばれる。扁額「第一義」は第5代住持の来日僧、高泉性潡(こうせん しょうとん)の筆。<br /><br />門の内側の中央上部には円相が象られている。風水的モチーフの一つの白虎鏡。屋根上左右に乗る魚のような像は摩伽羅(まから)という想像上の生物で、鰭の代わりに足が生えている。サンスクリット及びパーリ語で鰐を意味し、ガンジス川の女神の乗り物として使われる。<br /><br />放生池は1664年の造営。半月型で、風水上の機能を有している。放生会(ほうじょうえ)という仏教の教えに基づいて生き物を放ち、肉食や殺生を戒める儀式が行われる。北東側にある菊舎句碑は江戸時代に尼僧として諸国行脚に明け暮れた俳人の一字庵田上菊舎のが、1790年に萬福寺を訪れた時に詠んだ「山門を出れば日本ぞ茶摘うた」の句が刻まれている(下の写真1)。<br /><br />放生池の南東にある三門は1678年建立で、これも国の重文。正面柱間が3間で、3間すべてが通路になっている三間三戸二重門で、左右に裳階、山廊を備える。正面の扁額「黄檗山」及び「萬福寺」は共に隠元の筆。三門の右手前には「不許葷酒入山門」と彫られた禁牌石が立っている。これについては以前に書いたものがある。<br />https://4travel.jp/travelogue/11787483<br /><br />三門から天王殿までの参道は、正方形の平石が菱形に敷かれて両側が石條で挟まれた特殊な形式。龍の背の鱗がモチーフとなっており、中国では龍文は天子・皇帝の位を表し、黄檗山では大力量の禅僧を龍象に喩えているので、菱形の石の上に立てるのは住持のみ。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.27690940980549230&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />正面の天王殿は1668年建立の一重入母屋造。寺の玄関として本堂の手前にこのような堂を置くのは中国式の伽藍配置で、日本では珍しい。この時は国の重文だったが、2024年10月に国宝に追加指定された。方柱はチーク材。堂内に2本の円柱があり、黄檗の七不思議の一つと云われている。X型の組子を入れた勾欄は、日本では特異な襷勾欄で、中国・チベットで使用されているデザイン。<br /><br />内部には弥勒菩薩の化身とされる太鼓腹の布袋像を安置する。1663年造立、像高110.3cmの木像。当初は松隠堂に安置され、天王殿建立時に移したものと考えられる。布袋像の背面にには伽藍守護神として韋駄天立像が安置されており、大雄宝殿と対面している。1704年頃に清で造立された像高200.0cmの木像。いずれも范道生の作で、清風の様式で造られている。<br /><br />他に堂内左右に四天王像。南に増長天(西側)・持国天(東側)、北に多聞天(西側)・広目天(東側)。1674年造立、像高223.0cmの木像。着衣・甲冑に施された装飾的文様など明代彫刻を忠実に踏襲しているが、下半身が詰まり、衣の裾を重厚に強調している点などから日本人仏師の手によるものと推定されている。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.27691006133876048&amp;type=3<br /><br />天王殿の手前左手には開山堂。1675年建立。萬福寺開山の隠元禅師像を安置している。上層正面の扁額「瞎驢眼」は費隠の筆、下層の扁額「開山堂」は木庵の筆。入口の通玄門(1665年建立)、左手の松隠堂(1663年建立)と共に国の重文。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.27690940980549230&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />天王殿を過ぎると先に大雄宝殿。黄檗宗では釈迦牟尼仏を奉仕する仏殿を大雄宝殿または大雄殿と呼ぶ。1668年建立。入母屋造で、歇山(けっさん)重檐(じゅうえん)式と呼ばれる日本や中国、韓国などの宮殿・寺院の基本的な建築様式で、外見上は二重構造に見えるが、下方の屋根は装飾で内部は単層構造になっている。萬福寺で最大の伽藍で、この時は国の重文だったが、これも2024年10月に国宝に追加指定された。<br /><br />日本では唯一のチーク材を用いた歴史的建造物。チーク材はシャム産で、元々はオランダ人が台湾へ築城用材として運んで来たものが、台風のため長崎に漂着したものであったと伝えられている。<br /><br />正面入口には桃戸と呼ばれる半扉があり、その板には魔除けとされる桃の実の彫刻が施されている。左右には円窓があり、日・月を象徴している。正面一間分の軒下の垂木は丸くかまぼこ型で龍の腹を表しており、蛇腹天井もしくは黄檗天井と呼ばれる。桃戸に円窓、蛇腹天井は他の諸堂でも使われている。また、建物の前には白砂を敷いた月台(げったい)がある。<br /><br />上層の額「大雄寶殿」は隠元書、下層の額「萬徳尊」は木庵書。「萬徳尊」は全ての徳を備えた尊い人物という意味で、釈迦を指す。また、内部の須弥壇の上にある勅額「真空」は明治天皇御宸筆。<br /><br />本尊は釈迦牟尼仏像で京大仏師兵部作、1669年造立。木造で、像高250.0cm。摩訶迦葉(まかかしょう)と阿難陀(あなんだ)の両尊者が脇侍として安置されている。1674年造立。木造、像高208.0cm。<br /><br />南と北の壁には十八羅漢像が安置されている。清の仏師・范道生作、1663年造立。木造、像高各130.0cm前後。陸奥国白河藩主本多忠平が、母の菩提を弔うために兄弟と共に寄進したもの。相貌、衣文、持物等が多様で強烈、躍動的な表現は明代彫刻の特徴。<br /><br />南側が表側から慶友尊者、阿氏多尊者、因掲陀尊者、羅怙羅尊者、戍博迦尊者、迦理迦尊者、諾詎羅尊者、迦諾迦跋釐惰闍尊者、賓度羅跋羅惰闍尊者。北側は表側から賓頭盧尊者、注荼半託迦尊者、伐那婆斯尊者、那伽犀那尊者、半託迦尊者、伐闍羅弗多羅尊者、跋陀羅尊者、蘇頻陀尊者、迦諾迦跋蹉尊者。南側が表側から4番目の羅怙羅尊者は特に有名で、両手で胸を切り開き、その中に仏顔が見えるという奇抜な像容。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.27690967363879925&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />天王殿と大雄宝殿の間の左手、西側には表側から鼓楼、祖師堂、禅堂が、右手、東側には表側から鐘楼、伽藍堂、斎堂が並ぶ。これらはいずれも国の重文。<br /><br />鼓楼は1679年に信夢善士が建立。重層入母屋造、本瓦葺。二階四周に縁と逆蓮柱付の勾欄を巡らす。鐘楼と対称位置に建ち、階上に太鼓を置く。<br /><br />祖師堂は1669年に今津浄水居士が建立。伽藍堂と対称位置に建ち、中国禅宗の祖である達磨の像「達磨大師坐像」と、開山隠元禅師からの歴代管長の位牌を安置する。<br /><br />禅堂は1663年建立。単層入母屋造、本瓦葺。斎堂と対称位置に建つ坐禅堂。扁額「選佛場」は隠元の筆。選佛とは仏祖となるべき師を鍛錬抽出すること。転じて座禅修行の意で、選佛場は禅堂の異称。<br /><br />鐘楼は1668年建立。重層入母屋造、本瓦葺。梵鐘は太平洋戦争中に供出され、戦後再鋳された。2階建てで階上に梵鐘を吊る。鐘楼前には仏徳の賛嘆や教理を述べた偈(げ)の書かれた巡照板が下げられている。<br /><br />伽藍堂は1669年、吉川監物居士の建立。単層入母屋造、本瓦葺。伽藍を守護する伽藍神を祀るお堂で、本尊として華光菩薩像を、両側には三面大黒天と弁財天が安置されている。<br />斎堂は1668年建立。単層入母屋造、本瓦葺。堂内に緊那羅王菩薩立像を安置している。高脚飯台と腰掛がある僧衆の食堂。表には、鬼界の衆生に施す飯を乗せる生飯台(さばだい)がある。聯・扁額「禅悦堂」ともに木庵の筆。軒下に吊り下げられてる雲版は、朝と昼の食事と朝課の時に打つもので、青銅製。<br /><br />前方入口の前には開ぱん(「ぱん」は木偏に邦)という巨大な木製の魚。これを叩いて食事や法要など日常の行事・儀式の刻限を知らせるための法器で、木魚の原型と云われる。現在掛かっているものは3代目であり、文華殿(三門をくぐって右手にある宝物館)に2代目が所蔵されている。<br /><br />大雄宝殿の奥、主要伽藍で一番奥にあるのが法堂(はっとう)。1662年建立。この時は国の重文だったが、これも2024年10月に国宝に追加指定された。一重入母屋造。棧瓦葺。禅寺における重要伽藍のひとつで、説法の他、上堂や住持の晋山式にも使われる。扁額「獅子吼(ししく)」は費隠通容の筆。獅子吼とは、百獣の王である獅子が一度咆哮すれば百獣全てが従うことに喩えて、釈迦の説法を指す。<br /><br />重文指定の西方丈と東方丈に挟まれている。方丈とは禅院住持の居間だが、1665年に東方丈の奥に甘露堂が建立されてからはそこが使用されるようになり、両方丈は来客の応接や特定の儀式等に使われるようになった。<br /><br />西方丈の手前にある慈光堂も1675年建立で国の重文。一般信徒の位牌を納め、永代供養する場所。隠元禅師300年遠諱のときに納骨堂が併設され、宗旨を問わず納骨を受け付けるようになった。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.27690940980549230&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />以上で、伽藍の話は終わりだが、付け足し。萬福寺の精進料理は普茶料理と呼ばれる中国風のもので、肉や魚など動物性のものが使えないことから、そうしたものに似せて作る「もどき」が大きな特徴。ひとつの卓を囲み、グループで大皿料理を取り分ける。「普茶」とは「普く(あまねく)大衆と茶を供にする」という意味を示すところから生まれた言葉。<br /><br />今回は行ってないが、萬福寺の境内には大雄宝殿の南の斎堂の奥に黄龍閣と云うレストランがあり、普茶料理を楽しむことが出来る(下の写真2)。私たちも新婚時代に、私の両親や兄弟と一緒に食べに来たことがあり、とても美味しかったと云う記憶がある。近くには著名人のサイン色紙が数多く飾られていた。永山瑛太、窪塚洋介、渡辺大、岡崎体育、麒麟川島、村瀬先生ら(下の写真3)。<br /><br />7時前、ランタンを満喫して帰路に就く。帰りはすぐに電車に乗らず宇治まで歩く。40分ほど歩いて、宇治橋(下の写真4)の南の宇治橋通りにある宇治創こころと云う店で夕食。2007年から営業している京野菜を使った創作料理の店。ランチもあるが、夜は完全に飲み屋だった。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.8720162038053743&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />9時前、JR宇治駅から帰る(下の写真5)。<br /><br /><br />以上

京都 宇治 黄檗山萬福寺伽藍(Manpukuji-temple buildings,Obaku,Uji,Kyoto,Japan)

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2022/12/20 - 2022/12/20

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旅行記グループ 萬福寺

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ちふゆ

ちふゆさん

2022年12月20日(火)5時15分過ぎ、総門から萬福寺の境内に入る。萬福寺は明時代末期頃の様式で造られ、境内は日本の多くの寺院とは異なった空間を形成している。また、多くの仏像が来日して長崎にいた清の仏師・范道生の作であり、大陸風。また、煎茶道の祖・売茶翁(ばいさおう)ゆかりの寺としても知られる。

伽藍は西を正面とし、左右相称に整然と配置されている。建物は日本の一般的な寺院建築とは異なり、明末期頃の様式で造られ、材料も南方産のチーク材が使われている。「卍字くずし」のデザインによる高欄、「黄檗天井」と呼ばれるアーチ形の天井、円形の窓、扉に彫られた「桃符」と呼ばれる桃の実形の飾りなど、日本の他の寺院ではあまり見かけないデザインや技法が多用されている。

総門をくぐると右手に放生池、その先に三門があり、三門の正面には天王殿、その奥に大雄宝殿、さらに奥に法堂が西から東へ一直線に並ぶ。これら諸堂の間は回廊で結ばれており、天王殿と大雄宝殿の間をロの字状に結ぶ回廊に沿って左右に諸堂が建つ。代表的禅宗建築群として、主要建物23棟、廻廊、額、聯(れん)などが国の重要文化財に指定されており、うち3棟は2024年10月に国宝に指定された。

まずは総門。敷地の西側の真ん中に置かれている。1661年の建立だが、現在のものは1693年の再建。国の重文。瓦屋根の中央部分を高く、左右の部分を低く、段差を設けている中国風の牌楼(ぱいろう)式で、漢門とも呼ばれる。扁額「第一義」は第5代住持の来日僧、高泉性潡(こうせん しょうとん)の筆。

門の内側の中央上部には円相が象られている。風水的モチーフの一つの白虎鏡。屋根上左右に乗る魚のような像は摩伽羅(まから)という想像上の生物で、鰭の代わりに足が生えている。サンスクリット及びパーリ語で鰐を意味し、ガンジス川の女神の乗り物として使われる。

放生池は1664年の造営。半月型で、風水上の機能を有している。放生会(ほうじょうえ)という仏教の教えに基づいて生き物を放ち、肉食や殺生を戒める儀式が行われる。北東側にある菊舎句碑は江戸時代に尼僧として諸国行脚に明け暮れた俳人の一字庵田上菊舎のが、1790年に萬福寺を訪れた時に詠んだ「山門を出れば日本ぞ茶摘うた」の句が刻まれている(下の写真1)。

放生池の南東にある三門は1678年建立で、これも国の重文。正面柱間が3間で、3間すべてが通路になっている三間三戸二重門で、左右に裳階、山廊を備える。正面の扁額「黄檗山」及び「萬福寺」は共に隠元の筆。三門の右手前には「不許葷酒入山門」と彫られた禁牌石が立っている。これについては以前に書いたものがある。
https://4travel.jp/travelogue/11787483

三門から天王殿までの参道は、正方形の平石が菱形に敷かれて両側が石條で挟まれた特殊な形式。龍の背の鱗がモチーフとなっており、中国では龍文は天子・皇帝の位を表し、黄檗山では大力量の禅僧を龍象に喩えているので、菱形の石の上に立てるのは住持のみ。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.27690940980549230&type=1&l=223fe1adec

正面の天王殿は1668年建立の一重入母屋造。寺の玄関として本堂の手前にこのような堂を置くのは中国式の伽藍配置で、日本では珍しい。この時は国の重文だったが、2024年10月に国宝に追加指定された。方柱はチーク材。堂内に2本の円柱があり、黄檗の七不思議の一つと云われている。X型の組子を入れた勾欄は、日本では特異な襷勾欄で、中国・チベットで使用されているデザイン。

内部には弥勒菩薩の化身とされる太鼓腹の布袋像を安置する。1663年造立、像高110.3cmの木像。当初は松隠堂に安置され、天王殿建立時に移したものと考えられる。布袋像の背面にには伽藍守護神として韋駄天立像が安置されており、大雄宝殿と対面している。1704年頃に清で造立された像高200.0cmの木像。いずれも范道生の作で、清風の様式で造られている。

他に堂内左右に四天王像。南に増長天(西側)・持国天(東側)、北に多聞天(西側)・広目天(東側)。1674年造立、像高223.0cmの木像。着衣・甲冑に施された装飾的文様など明代彫刻を忠実に踏襲しているが、下半身が詰まり、衣の裾を重厚に強調している点などから日本人仏師の手によるものと推定されている。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.27691006133876048&type=3

天王殿の手前左手には開山堂。1675年建立。萬福寺開山の隠元禅師像を安置している。上層正面の扁額「瞎驢眼」は費隠の筆、下層の扁額「開山堂」は木庵の筆。入口の通玄門(1665年建立)、左手の松隠堂(1663年建立)と共に国の重文。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.27690940980549230&type=1&l=223fe1adec

天王殿を過ぎると先に大雄宝殿。黄檗宗では釈迦牟尼仏を奉仕する仏殿を大雄宝殿または大雄殿と呼ぶ。1668年建立。入母屋造で、歇山(けっさん)重檐(じゅうえん)式と呼ばれる日本や中国、韓国などの宮殿・寺院の基本的な建築様式で、外見上は二重構造に見えるが、下方の屋根は装飾で内部は単層構造になっている。萬福寺で最大の伽藍で、この時は国の重文だったが、これも2024年10月に国宝に追加指定された。

日本では唯一のチーク材を用いた歴史的建造物。チーク材はシャム産で、元々はオランダ人が台湾へ築城用材として運んで来たものが、台風のため長崎に漂着したものであったと伝えられている。

正面入口には桃戸と呼ばれる半扉があり、その板には魔除けとされる桃の実の彫刻が施されている。左右には円窓があり、日・月を象徴している。正面一間分の軒下の垂木は丸くかまぼこ型で龍の腹を表しており、蛇腹天井もしくは黄檗天井と呼ばれる。桃戸に円窓、蛇腹天井は他の諸堂でも使われている。また、建物の前には白砂を敷いた月台(げったい)がある。

上層の額「大雄寶殿」は隠元書、下層の額「萬徳尊」は木庵書。「萬徳尊」は全ての徳を備えた尊い人物という意味で、釈迦を指す。また、内部の須弥壇の上にある勅額「真空」は明治天皇御宸筆。

本尊は釈迦牟尼仏像で京大仏師兵部作、1669年造立。木造で、像高250.0cm。摩訶迦葉(まかかしょう)と阿難陀(あなんだ)の両尊者が脇侍として安置されている。1674年造立。木造、像高208.0cm。

南と北の壁には十八羅漢像が安置されている。清の仏師・范道生作、1663年造立。木造、像高各130.0cm前後。陸奥国白河藩主本多忠平が、母の菩提を弔うために兄弟と共に寄進したもの。相貌、衣文、持物等が多様で強烈、躍動的な表現は明代彫刻の特徴。

南側が表側から慶友尊者、阿氏多尊者、因掲陀尊者、羅怙羅尊者、戍博迦尊者、迦理迦尊者、諾詎羅尊者、迦諾迦跋釐惰闍尊者、賓度羅跋羅惰闍尊者。北側は表側から賓頭盧尊者、注荼半託迦尊者、伐那婆斯尊者、那伽犀那尊者、半託迦尊者、伐闍羅弗多羅尊者、跋陀羅尊者、蘇頻陀尊者、迦諾迦跋蹉尊者。南側が表側から4番目の羅怙羅尊者は特に有名で、両手で胸を切り開き、その中に仏顔が見えるという奇抜な像容。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.27690967363879925&type=1&l=223fe1adec

天王殿と大雄宝殿の間の左手、西側には表側から鼓楼、祖師堂、禅堂が、右手、東側には表側から鐘楼、伽藍堂、斎堂が並ぶ。これらはいずれも国の重文。

鼓楼は1679年に信夢善士が建立。重層入母屋造、本瓦葺。二階四周に縁と逆蓮柱付の勾欄を巡らす。鐘楼と対称位置に建ち、階上に太鼓を置く。

祖師堂は1669年に今津浄水居士が建立。伽藍堂と対称位置に建ち、中国禅宗の祖である達磨の像「達磨大師坐像」と、開山隠元禅師からの歴代管長の位牌を安置する。

禅堂は1663年建立。単層入母屋造、本瓦葺。斎堂と対称位置に建つ坐禅堂。扁額「選佛場」は隠元の筆。選佛とは仏祖となるべき師を鍛錬抽出すること。転じて座禅修行の意で、選佛場は禅堂の異称。

鐘楼は1668年建立。重層入母屋造、本瓦葺。梵鐘は太平洋戦争中に供出され、戦後再鋳された。2階建てで階上に梵鐘を吊る。鐘楼前には仏徳の賛嘆や教理を述べた偈(げ)の書かれた巡照板が下げられている。

伽藍堂は1669年、吉川監物居士の建立。単層入母屋造、本瓦葺。伽藍を守護する伽藍神を祀るお堂で、本尊として華光菩薩像を、両側には三面大黒天と弁財天が安置されている。
斎堂は1668年建立。単層入母屋造、本瓦葺。堂内に緊那羅王菩薩立像を安置している。高脚飯台と腰掛がある僧衆の食堂。表には、鬼界の衆生に施す飯を乗せる生飯台(さばだい)がある。聯・扁額「禅悦堂」ともに木庵の筆。軒下に吊り下げられてる雲版は、朝と昼の食事と朝課の時に打つもので、青銅製。

前方入口の前には開ぱん(「ぱん」は木偏に邦)という巨大な木製の魚。これを叩いて食事や法要など日常の行事・儀式の刻限を知らせるための法器で、木魚の原型と云われる。現在掛かっているものは3代目であり、文華殿(三門をくぐって右手にある宝物館)に2代目が所蔵されている。

大雄宝殿の奥、主要伽藍で一番奥にあるのが法堂(はっとう)。1662年建立。この時は国の重文だったが、これも2024年10月に国宝に追加指定された。一重入母屋造。棧瓦葺。禅寺における重要伽藍のひとつで、説法の他、上堂や住持の晋山式にも使われる。扁額「獅子吼(ししく)」は費隠通容の筆。獅子吼とは、百獣の王である獅子が一度咆哮すれば百獣全てが従うことに喩えて、釈迦の説法を指す。

重文指定の西方丈と東方丈に挟まれている。方丈とは禅院住持の居間だが、1665年に東方丈の奥に甘露堂が建立されてからはそこが使用されるようになり、両方丈は来客の応接や特定の儀式等に使われるようになった。

西方丈の手前にある慈光堂も1675年建立で国の重文。一般信徒の位牌を納め、永代供養する場所。隠元禅師300年遠諱のときに納骨堂が併設され、宗旨を問わず納骨を受け付けるようになった。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.27690940980549230&type=1&l=223fe1adec

以上で、伽藍の話は終わりだが、付け足し。萬福寺の精進料理は普茶料理と呼ばれる中国風のもので、肉や魚など動物性のものが使えないことから、そうしたものに似せて作る「もどき」が大きな特徴。ひとつの卓を囲み、グループで大皿料理を取り分ける。「普茶」とは「普く(あまねく)大衆と茶を供にする」という意味を示すところから生まれた言葉。

今回は行ってないが、萬福寺の境内には大雄宝殿の南の斎堂の奥に黄龍閣と云うレストランがあり、普茶料理を楽しむことが出来る(下の写真2)。私たちも新婚時代に、私の両親や兄弟と一緒に食べに来たことがあり、とても美味しかったと云う記憶がある。近くには著名人のサイン色紙が数多く飾られていた。永山瑛太、窪塚洋介、渡辺大、岡崎体育、麒麟川島、村瀬先生ら(下の写真3)。

7時前、ランタンを満喫して帰路に就く。帰りはすぐに電車に乗らず宇治まで歩く。40分ほど歩いて、宇治橋(下の写真4)の南の宇治橋通りにある宇治創こころと云う店で夕食。2007年から営業している京野菜を使った創作料理の店。ランチもあるが、夜は完全に飲み屋だった。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.8720162038053743&type=1&l=223fe1adec

9時前、JR宇治駅から帰る(下の写真5)。


以上

  • 写真1 菊舎句碑

    写真1 菊舎句碑

  • 写真2 黄龍閣

    写真2 黄龍閣

  • 写真3 サイン色紙

    写真3 サイン色紙

  • 写真4 夜の宇治橋

    写真4 夜の宇治橋

  • 写真5 JR宇治駅

    写真5 JR宇治駅

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