2014/11/13 - 2014/11/17
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PETERtnさん
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1566年、イエズス会宣教師のルイス・デ・アルメイダらの五島列島への来島でキリスト教の布教が始まった。秀吉の時代にキリスト教が広まったが、キリシタンへの迫害が始まると多くは棄教するか、潜伏キリシタンとなった。
江戸時代中期に、五島藩は大村藩領からの開拓民の移住を働きかけた。移住者には潜伏キリシタンが多かったが、五島列島ではキリシタン信仰が秘密裏に復活した。移住者の総数は3000名以上にも上ったといわれる。五島の潜伏キリシタンは迫害の時期には集落に隠れ住むようにして密かに信仰を維持し、特に明治維新前後の激烈な迫害を耐えた。
幕末の1865年、浦上の潜伏キリシタンが長崎の大浦天主堂で信仰を表明し、以降続々と長崎各地で多くのキリシタンがその信仰を明らかにし始め、日本でのキリスト教の復活はヴァチカンでも大きなニュースとして報じられた。
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今回、長崎地方の教会訪問は島嶼部に限定したわけではないが、福江島・中通島などを含む五島列島が中心になった。訪問日数の関係で九州本土の教会の訪問数は多くなかったが、長崎の隣県、熊本の天草などにもみるべきキリシタン史跡は数多い。5日間の行程は次の通り
11月13日(木)五島列島 中通島
冷水教会⇒青砂ヶ浦教会⇒仲知教会⇒江袋教会
11月14日(金)五島列島 中通島
頭ヶ島教会⇒鯛ノ浦教会⇒大曽教会⇒中ノ浦教会⇒
土井ノ浦教会⇒桐教会⇒福見教会⇒浜串教会
11月15日(土)五島列島 福江島
福江教会⇒堂崎教会⇒楠原教会⇒水ノ浦教会⇒
三井楽教会⇒貝津教会⇒井持浦教会
11月16日(日)長崎市 午前中長崎聖三一教会(聖公会)の聖餐式に列席
長崎聖三一教会⇒浦上教会⇒大浦天主堂
11月17日(月)平戸市/佐世保市
田平教会⇒平戸教会⇒紐差教会⇒宝亀教会⇒神崎教会⇒三浦町教会 -
冷水(ヒヤミズ)教会(中通島):純然たる木造建築で、列柱は角柱、簡素な植物模様柱頭は旧鯛ノ浦教会堂に酷似し、堂崎天主堂にも相通じるものがある。単層屋根構造、内部は3廊式で主廊部、側廊部ともに漆喰仕上げ4分割リブヴォールト天井を取り入れ、当時としては極めて斬新な建築であった。 全体として穏やかな尖塔アーチを基本に用い、側面の窓は5つの円を組み合わせた模様となっている。
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青砂ヶ浦教会(中通島):大崎神父が外国から原書を取り寄せて設計・施工の指導にあたり、1910年(明治43年)に現在の教会堂を建立。正統的な様式、意匠が特徴で、鉄川與助の手による初期のレンガ造りの教会堂。現在の建物は3代目で、2010年(平成22年)に献堂100周年を迎えた。平成13年(2001年)に国の重要文化財に指定。
数人の同志と共に五島列島を訪問したのは2014年、同地方が「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として世界遺産の指定を受けたのは4年後の2018年であった。それでも2014年に訪問した時、ガイドを兼ねた元教員だったという現地事情に詳しいタクシードライバーの説明では、世界遺産指定のための準備は着々と進められているという。
とある教会の見学の時のドライバーの説明では来会者のための駐車場として使われている教会庭に引かれた、駐車スペースを示す白線も指定の障害になる可能性もあり、同じ庭の片隅に設置された見学者用のトイレも撤去が望ましいということであった。 -
仲知(チュウチ)教会(中通島):仲知の移住開拓の開始は1810年ごろ。その後、真浦、久志、大水、赤波江と開拓が続いた。仲知教会が建ったのは、明治14年(1881年)で、平屋建ての木造瓦葺であり、昭和7年(1932年)に司教座が江袋教会から仲知教会に移された。三代目となる現在の教会堂は、昭和53年(1978年)わずか70数戸で築き上げられており、色鮮やかなステンドガラスが印象的。
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江袋(エブクロ)教会(中通島):明治15年(1882年)パリ外国宣教師会ブレル神父指揮のもとに建設。変形の寄棟造りで基本的には日本の伝統技術を用いて設計され、尖塔アーチの窓や鎧戸を備えることによって外観に洋風の雰囲気を与えていた。
2007年(平成19年)2月、火災により焼損。柱や梁などの残存部を生かしての修復工事が行われ、2010年(平成22年)5月に修復され、献堂式が行われた。 -
上五島町内風景。頭ヶ島天主堂近くから海上のロクロ島を見る。
信徒たちが海浜の石を運んで構築した天主堂と同じ石が各所で石垣として使われている。 -
頭ヶ島教会(中通島):1軒をのぞいて皆キリシタンだった頭ヶ島。迫害が厳しくなり、五島崩れの際に、信徒は牢から全員逃げ出して島を離れ、禁教令が解かれてから、この地に戻ってきた。頭ヶ島天主堂は、数他の五島列島の教会の建立を手掛けた鉄川与助の設計施工によって、1910年(明治43年)に着工。信徒住民の手で近くの石を切り出して建設が始まり、1919年に完成した。
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旧鯛の浦教会(中通島):上五島布教の中心として、1881年(明治14年)に最初の教会が設立され、明治36年(1903)クゼン師によって建て替えられ、さらに潮風のため、破損いちじるしく昭和54年(1979)不漁続きで不況の最中、新しい聖堂に建て替えられ、3月14日里脇大司教によって献堂された。鐘楼は、一部に長崎市の浦上天主堂の被爆レンガが使用された。画面右下の写真は現用の新聖堂(左奥に旧聖堂の三角屋根がみえる)。
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旧鯛の浦教会:旧聖堂は展示施設として公開されている
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大曽教会(中通島):1879年に木造教会を建立し、1916年に現在のレンガ造りの教会堂となった。鉄川与助による設計施工で、ステンドガラスはドイツ製、レンガは早岐から仕入れた。内部は3廊式で、主廊部・側廊部ともに漆喰仕上げ4分割リブヴォールト天井で造られている。
色の異なるレンガを規則的に使用するなど、壁面の意匠化も工夫されている。県指定有形文化財。旧教会は、1915年に若松の土井ノ浦教会として移築された。 -
土井ノ浦教会(中通島):明治25年(1892年)に仮の教会を建立。大曽教会がレンガ造りの建物を新築し、木造の旧大曽教会を買い受けて大正7年(1918年)に移築完成。昭和35年(1918年)及び平成9年(1997年)の大改築で近代的に見えるが、内部を見ると木造建築の初期の教会様式が伺える。
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桐教会(中通島):明治30年(1897年)に建立し中五島最初の小教区として設立。現聖堂は、昭和33年(1958年)改装された。瀬戸に映える赤い屋根の桐教会は、若松瀬戸を往来する船舶の安全を祈るように、丘の上に静かにたたずんでいる。
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福見教会(中通島):住民のほぼ全員がカトリック信者という福見地区にある教会。福見へのキリスト教伝来は1799年に外海から信者が移住したのが始まり。しかし厳しい弾圧を逃れるために、信仰を伏せ潜伏キリシタンとして信仰を続けていた。福見に最初の教会が建てられたのは明治15年(1882年)だが、2年後に台風で崩壊している。その後、信徒達の献身的な労働力や援助により、大正2年(1913年)現在の教会が完成。上五島地区では三つある赤レンガ造りの教会の一つである。
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福江教会と浜串教会(中通島):1899年(明治32年)に祝別された初代の教会堂は、捕鯨の利益で建てられたと言われている。1966年(昭和41年)に海の近くに敷地を求め、現教会堂が建立。近くの漁港には希望の聖母像があり、船の出入りを見守るように立つ姿が印象的。
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堂崎天主堂(福江島):五島教会群の代表格。明治20(1887)年に着任したペルー神父は新しい煉瓦造教会堂の建設を計画し、明治41(1908)年に野原与吉により竣工した。教会堂は福江島の北東端に立地する。外観は小口積みを交互に配するアメリカ積の煉瓦造で正面を切妻造、背面を八角状の寄棟造、桟瓦葺とする。正面は身廊部が高い重層屋根の構成を表し、切妻屋根の鐘塔頂部には鉄製の十字架を戴く。側面には床から開く掃き出し窓が並ぶ珍しい構成である。平面は3廊式で、正面に鐘塔(玄関部)を張り出す。天井はすべて漆喰塗り四分割リブ・ヴォールト天井とする。リブは他の教会堂に比較して極めて細いため、会堂内は繊細さが感じられる。身廊部の小屋組には3種類の架構法が混在し、陸梁の位置も移動している。屋根勾配も緩くなっており、これらの工事は大正6(1917)年頃に行われたと推定される。かつては全五島の布教の中枢基地であった。また、社会奉仕施設や修道院の草分けでもあり、キリシタン史上からも重要な位置を占めている由緒ある天主堂である。現在は巡回教会となっている。
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楠原教会(福江島):楠原天主堂は、宣教師の指導と資金援助のもと、信徒達の資金拠出と子供、 老人まで総力をあげての労働奉仕によって、1912(明治45)年に完成したものであり、 西欧の建築様式が施され、福江島内で 堂崎天主堂 とともに歴史を刻む教会堂である。近くには、明治初期の迫害当時に、信徒達がとじ込められ、責苦をうけた牢屋跡が復元されている。
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水ノ浦教会(福江島):水ノ浦の信徒は、五島と大村の藩の政策による1797年の外海(大野・牧野・神ノ浦)5人の男性とその妻子の移住にはじまると伝えられる。1880年に最初の教会が建築されたが、老朽化にともない、1938年、鉄川与助設計施工の木造の優美な現教会に改築された。ロマネスク、ゴシック、和風建築が混合した白亜の美しい教会で、木造教会堂としては最大の規模を誇り、青空に尖塔がそびえる光景は絵になる美しさだ。
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リブヴォールト天井:「リブヴォールト」は、ヨーロッパのゴシック建築の天井の様式である(ヴォールト=アーチを平行に押し出した形状を特徴とする天井様式や建築構造の総称)。横断アーチとその対角線のアーチをリブとして、その隙間をセルによって覆い、リブの効果で、天井が補強される。天井を軽量化することができるため、広い天井下の空間を実現することが可能だ。リブの形を星型にした押し型ヴォールトや、ひし形にして網目状にした網状ヴォールトなどもある。
長崎の教会堂のリブヴォールトはヨーロッパのそれに似せた形式だが、もとより木造建築への応用なので、先覚者鉄川与助らの工夫と努力のたまものでいわば「リブボールト風天井」ともいえる。俗にコウモリ天井と呼ばれる。 -
貝津教会(福江島):民家が建ち並ぶ一角にひっそりと佇む1924年建築、1962年増改築の素朴な木造づくり。堂内は地元の人の手づくりだというステンドグラスが華やかに彩る。最も美しいのは西日が差し込む夕暮れ時。光の差し込み方で表情を刻一刻と変える美しい光のシャワーと化す。
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三井楽(ミイラク)教会(福江島):創建は1880年。1971年に改築された現在の聖堂は貝殻や陶器などで造られたモザイク模様の壁画が印象的。キリストの誕生から復活までと、五島カトリックの歴史を表現した堂内のステンドグラスも見応えがある。
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井持浦教会(福江島)1897年建立のレンガ造教会が台風で倒壊し、1988年にコンクリート造の現教会となった。当時の五島列島司牧の責任者ペルー神父は、1891年、バチカンにこのルルドの洞窟が再現されたと聞き、五島の信徒に呼びかけて島内の奇岩・珍石を集め、1899年、日本で最初のルルドを作った。この霊水を飲むと病が治ると言われ、日本全国の信者の聖地となっている。
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五島列島の教会群を見ていくと、あっちにもこっちにも似通った聖堂がある。教会建築は、原則として正面の聖壇を東向けに建てるとか、聖堂内の造作も一定の原則があり、おのずから聖堂は似通った姿になる。
長崎の聖堂も聖堂建設の基本に沿って建造されれば同じような仕上がりになるが、五島には鉄川与助(旧字:鐵川與助 1879 - 1976)という教会の建築に欠かせない建築家がいる。父親与四郎も大工の棟梁だったが、与助はペルー神父の指導のもとで、当時数少ない天主堂建築の技法やデザインを学んだ。
五島列島を主体として、与助が関わった聖堂は35堂もある。 それほど多くの教会を建設した与助だが、実は生涯仏教徒で、横浜市で97歳の生涯を閉じた。亡くなるときには「仏様が見える」とつぶやいたというが、五島には与助が献堂にかかわった浄土真宗系寺院が3院ある。
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長崎の町には坂が多い。切り立った地形は海岸を越えて海中まで続く。
坂道は神戸、横浜など古くから「港町」として発展した町の特徴で、人間が道普請をして造成する地上の道路と違い、自然の地形を利用した港町はわざわざ造成をせず、海岸に船着き場を造れる地形を利用して港町は発展を遂げた。
船着き場としては好都合な地形だが、そこに住む住民は毎日急坂を歩かなければならないのは港町の宿命といえる。長崎の代表的な坂道にはオランダ坂、祈念坂、喧嘩坂、どんどん坂、相生地獄坂などがある。 -
浦上天主堂(長崎市):明治6(1873)年、長かったキリシタン弾圧の禁制が解かれ浦上の信徒たちにより建設が計画されたが、当初は資金が集まらなかった。明治28(1895)年にフレノ神父の設計で教会の建設が開始され、30年後の大正14(1925)年、石とレンガ造りのロマネスク様式としては東洋一と称された大聖堂が完成。正面双塔には高さ26mものアンジェラスの鐘が備えられた立派なもので、信徒の誇りであり信仰の象徴となった。しかし昭和20(1945)年8月9日に投下された原爆の爆風により教会堂は一瞬で全壊、アンジェラスの鐘も崩れ落ちた。
その後、アンジェラスの鐘は瓦礫の中から発掘され、昭和34(1959)年に鉄筋コンクリートの天主堂を再建。昭和55(1980)年、教皇ヨハネ・パウロ二世の来日を機にレンガタイルに改装し、旧浦上天主堂の面影を感じさせる美しい教会堂となった。 -
大浦天主堂(長崎市):1865年3月17日(元治2年2月12日)、地元民十数名が浦上天主堂を訪れた。そのうちの中年の女性(イザベリナ杉本百合)が、プティジャン神父に近づき、「私の心はあなたと同じ(宗教が同じです)」と囁き、カトリック教徒であることを告白した。彼女らは聖母像があること、神父が独身であることからカトリックの教会であると確信し、自分たちがカトリックの信仰を代々守り続けてきたいわゆる隠れキリシタンであると話し、プティジャン神父を驚愕させた。
その後、プティジャン神父は密かに浦上や五島などに布教を兼ねて訪れ、隠れた信者の発見に努めた。この「信徒発見」のニュースはやがて当時の教皇ピオ9世のもとにもたらされた。教皇は感激して、これを「東洋の奇蹟」と呼んだという。この日は現在カトリック教会では記念日(祝日)と定めている。 -
以下の数枚は以下の数枚は五島列島の対岸にあたる九州本土の田平・佐世保・平戸にある天主堂の紹介。
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田平天主堂(平戸市):カトリック田平教会は、1914年に着任した中田藤吉神父指導のもと、鉄川與助の設計施工により1918年に建設された。
世界遺産構成資産外ではあるが、「長崎と天草地方潜伏キリシタン関連遺産」に深いかかわりのある教会として、事前連絡制度対象に加えられている。 -
ザビエル記念聖堂(平戸市):禁教が解けて信徒が住むようになり1931年、大天使聖ミカエルに捧げた教会が建てられ、献堂40年にザビエル像を建て、「平戸ザビエル記念聖堂」とよばれるようになった。
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カトリック信徒、カクレキリシタン、仏教徒が混在する紐差(ヒモサシ)に1885年に初代の聖堂建立。カクレキリシタンもカトリックに改宗する信徒が増え、仏教徒の集団改宗もあった。現在の教会は、鉄川与助によって1929年に建てられた。
松の木に囲まれた紐差天主堂。松の植木は平戸市の特産農産物。 -
紐差天主堂の主廊部天井はいわゆる船底天井で、柱間には梁が露出し、構造材がそのまま内部天井区画の化粧材として扱われている。これは鉄川与助が設計施工した鉄筋コンクリー卜造教会堂の特徴である。台座と柱頭を配した列柱は、頭貫・天井長押と列柱とで囲まれた矩形の4連の縦長アーチで、各格縁の間に付された花柄を意匠化した装飾は、厳粛な聖堂空間に一種華やいだ雰囲気を醸しだしている。
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宝亀教会(平戸市):平戸市宝亀(ホウキ)町の名前は、平戸松浦家第35代熙(ヒロム・1798~1867)が亀石を見て「世の塵をはらいつくせる宝亀かな 村の宝と拝め尊べ」と詠んだことによる。それまでは保々木と呼ばれていたが、この詠みによって宝亀と改められた。
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宝亀教会は、建築学上多くの特徴をもつ聖堂で基礎は石造、外壁はレンガ造、屋根は単層切妻の瓦葺、窓形式は側面に尖頭アーチ四季の円型ハメ殺し窓、天井は身廊、側廊ともにコウモリ天井の板張りである。 大きな教会ではないが、平戸を代表する美しい教会である。
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神崎(コウザキ)天主堂(佐世保市):1840年前後の五島からの移住が神崎教会の始まり。1930年に尖塔をもつゴシック様式の聖堂が海辺に建っていたが、老朽化したため2004年に高台の現在地に新築移転。教会から西に行くと、日本本土最西端の碑がある。
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三浦町カトリック教会(佐世保市):軍港設置で、各地からの人の流入も増えた佐世保はカトリック信徒も相当数いて、1899年に佐世保教会という名称で、谷郷町に設立。大正期に更なる信者の急増に伴い、より大きな教会の必要性にせまられ、1931年に現在の教会が完成。美しいゴシック建築だが、設計者、施工者共に不明。また、太平洋戦時下においては、異教として軍部の圧迫を受け、空襲の目標になりにくい様に黒く塗られ、戦火から免れた大変貴重な教会である。
※Ite, missa est (解散、外に出なさい) は、カトリック教会・聖公会・ルター派教会で典礼(礼拝)が終わるときに司式聖職が、会衆に向けて宣するラテン語の結語。missaは転じてミサ(聖餐式)の代名詞となった。 -
Congratulations to the Nagasaki Atomic Bomb Victims Association on winning the Nobel Prize.
Herzlichen Glückwunsch an die Nagasaki Atomic Bomb Victims Association zum Gewinn des Nobelpreises.
Je m'oppose à la possession et à l'utilisation d'armes nucléaires.
ご愛読感謝!! AUF WIEDERSEHEN!
https://4travel.jp/travelogue/11630688を開くと私の旅行記の目録が出てきます。どうぞご愛読を!
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