2026/01/22 - 2026/01/24
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nekosaruさん
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2泊3日で五島列島福江島と中通島へ行って来た。
【初日】
五島福江空港へ13時くらい到着。
レンタカーでまず井持浦教会へ行く。
教会の奥にあるルルドの蛇口から霊水をいただいた。
そこをあとにして大瀬崎を目指す。
道路が行き止まりになりその駐車場より大瀬崎の展望園地への階段を登る。左手に測候所があってそこからすぐに女神像が見えたので行ってみるとそこからは素晴らしい眺めが広がっていた。
この日は摂氏4度ととても寒く遮るもののないここの強風に芯まで凍てついたが四方を見渡せるこの場所は来たかいがあったと思えるところだった。
このあと三井楽を目指した。
道の駅 遣唐使ふるさと館に寄ってみた。
遣唐使を詠んだ万葉集の歌が紹介されており送り出す母や妻の感情が胸にせまるいい展示だ。
遣唐使船の模型、この船で荒波を越えて唐を目指した彼らの思いはどんなだったか、、
学校帰りの女の子が置いてあるピアノを弾きに来ていた。すごく田舎だけどいいなと思った。
ふるさと館を出て『みみらくのしま(三井楽)』柏崎へ向かった。途中、遣唐使ゆかりの場所の標識があるのを見つけて寄ってみた。集落の細い道まで来ると郷の中にその「岩嶽神社」「ふぜん川」はあった。
岩嶽神社は小さな石の鳥居のさき石段を登ったところにあった。遣唐使の苦労を偲んでお参りした。
この神社の向かいの庭のようなところにふぜん川はあった。石で囲われた泉のようでもあり、今でもちゃんと水を湛えていた。この水で給水し命懸けで唐へ向かった遣唐使たちのお陰でいまの時代の日本につながっていると思うと感慨深い。
日本遺産~古代からの架け橋~『みみらくのしま(三井楽)』「柏崎(遣唐使・近世捕鯨遺跡)」へ着くと東シナ海の大海原を一望できる広場に遣唐使として旅立つわが子の無事を祈る母の歌(万葉集) の碑、「辞本涯」と書かれた碑が建っている。
訪ねた日は寒風吹きすさび荒波が岩場に打ちつけまさに最果ての海の荒々しさを感じさせる天候で、当時遣唐使たちがいかに命懸けで唐へ向かったかを思うと万葉集の中の母や妻の思いかいっそう胸に染みてくる。
近くにはかつて栄えた捕鯨の捕った鯨を引き上げるための岩組ロクロ跡(カグラサン (ろくろ場))もあった。
三井楽の遣唐使ゆかりの地に来て万葉のこころが少しだけわかったような気がした。ここまで来てよかった。
夕食はホテルからも歩ける「五松屋」さんで海鮮もののお刺身や塩焼き、天ぷらなどをとても美味しくいただいた。お会計もお手頃でまたいつか来たいと思うお店だった。
【2日目】
この日は中通島で5時間の観光タクシーをチャーターしている。
朝、ホテルから徒歩5分福江港フェリー乗場から奈良尾港行き8時発のフェリーに乗る。長崎まで行くので受験生と思われる学生たちや地元の人たちでいっぱいだ。多くは雑魚寝スタイルの畳敷、椅子はバリアフリー用に少しあるだけ。9時すぎに奈良尾港到着。
タクシーのおじさんはバリバリのこちらの方言でしゃべるけど島を長く離れて働いたあと島に戻ってきたと言っていた。
まず奈良尾港近くの奈良尾神社とアコウという大樹、その後桐教会へ。桐教会の前の入江の海の色が蒼緑ですごくきれいだった。
タクシーのおじさん、子供の頃は自分の家の前で潜って遊んだりサザエ採ったり、糸を垂らすだけでなにかしら魚が釣れてオカズにしていたとのこと。いまは昔の話だけど、と言っていた。
道からは海上に浮かぶ石油備蓄基地も見えた。これのおかげでこの辺りは少し潤ったらしい。
大曽教会への道は細いので下からセレモニーしてないことを確認して上がって行くとのこと。教会裏の小さな駐車場も埋まると言っていた。下の駐車場に停めて階段で上がることも出来るらしい。
青砂ヶ浦天主堂 (国指定重要文化財)も行った。
近くの道の駅でお土産物を見てから昼ごはん。
五島うどんを食べに「麺sはまさき」へ。腰のある細麺を鍋で茹でてあご出汁やとき卵で食べる地獄炊きと言うそうだ。あご出汁もとき卵もとてもおいしかった。この店は地元の人たちも多く来るそうでおじさんもどきどき食べに来るとのこと。仕事途中の人やおばちゃんたちが入れ替わり来店していた。
昼食後、
世界遺産『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』⑨頭ヶ島の集落、にある頭ヶ島天主堂へ。
タクシーのおじさんの話ではコロナ前は結構賑わってて、天主堂にある施設の係員も何人もいたけど今は一人もいなくなって寂しくなってしまったとのこと。確かに駐車場もしっかり整備されているし広いし、けど訪れる人も少なくて係の人が来てくれる予約制になっている。もう頭ヶ島集落も人がいなくなっているそうだ。でもその裏寂しい感じが天主堂の孤高な姿をさらに際立たせているように僕には思えた。
奈良尾港への帰路途中にあるのが中ノ浦教会。ここは朝ドラ舞い上がれの撮影にも使われた教会とのこと。この日は波で見れなかったけど天気が穏やかなら海面にきれいに映るという教会。
奈良尾港14時半過ぎに戻れた。
タクシーのおじさんのおかげで快適に効率よく回ることが出来た。ありがたかった。
奈良尾港で豆ようかんをお土産に買った。
15時15分発のフェリーで福江島に帰る。
帰りのフェリーはさすがにガラガラだったけど福江港からまたすぐに長崎に向かうので福江港ではたくさんの人たちが待っていた。
16時半過ぎに福江港到着し、港近くのスーパーマーケットエレナで買い物。
ホテル前の昔の常夜燈台「常灯鼻」も行ってみた。
夕食はホテル横の海達磨へ。海鮮丼などをおいしくいただいた。
【3日目】
福江市内見学、堂崎教会、鬼岳へ
まず石田城(福江城)跡の城門へ。
日本で一番最後に作られた城で地元タクシーの運ちゃんによると「日本で一番新しい城」になるそうだ。
城内の「石田城五島氏庭園」は春と秋しか公開していなくて残念ながら見れなかった。
現在、石田城跡には長崎県立五島高等学校が建っている。明治になってお殿様がこれからは教育が大事になるのでと学校に自分のお城の土地を無償で提供したとふるさと館で教えてもらった。少し誇らしげだったのが印象的だった。
少し歩くと武家屋敷通りへ行ける。
武家屋敷通りふるさと館に寄る。ここでは朝ドラ舞い上がれの撮影が行われてメーク室などに使われたとのことでいっぱいサインが飾られていた。もともと武家屋敷の跡でお庭など所々に当時のものが残っているそうだ。事務所の人がいろいろ話をしてくれて興味深かった。
通りの向かいには武家屋敷「松園邸」を改修した「山本ニ三美術館」がある。僕は山本ニ三氏を知らなかったがもののけ姫などいくつもの名作の美術監督を務めた五島出身のアニメ美術の巨匠だとわかった。館内には素晴らしい画と故郷に対する思いがあふれていた。
松園邸のおばあちゃんとの繋がりで武家屋敷を譲り受け遺していくために改修して美術館として使っているそうだ。
武家屋敷通りはこぼれ石を乗せた石垣がきれいに整備されていて昔の雰囲気を味わうことが出来た。
武家屋敷通りから少し歩くと天守閣のような「五島観光歴史資料館」に行ける。
ここでは五島キリシタン資料や民俗資料、五島藩の資料など興味深いものが展示されていた。ひときわ興味を惹かれたのは倭寇、王直の紹介映像だった。1550年頃五島列島を拠点として日本と明の密貿易集団を率いた倭寇の首領で近くにゆかりの地があるとのことだ。
さっそく行ってみた。
王直ら中国人が飲んだという「六角井」はにはいまでも水がたまっている。
近くにある「明人堂」へも行ってみた。新しいお堂だった。近くの川を利用して倭寇として密交易していたのだろう。
王直は無念の最期を遂げたという。ただここにはその活躍につながる証が残っている。倭寇王直のこともここ五島に来て知ることが出来た。
そのあと堂崎教会へ行った。五島列島福江のパンフレットによく載っているきれいな教会だ。なかは資料館のようになっている。隠れキリシタンの人たちが拝んできたマリア観音像や貝や殉教したヨハネ五島の聖骨など深い信仰がわかる。
教会の正面には島々が見渡せる浜がある。昔は島々から舟に乗ってここにお祈りに来ていたんだと思うと、いかにここにキリスト教が深く根づいていたかがよくわかった。
まだ少し時間があったので鬼岳に行ってみた。
福江市内から駐車場まで車で15分くらい。頂上までは結構登るので行けなかったが少し登った中腹でもすごく景色がよかった。この日も強風で寒かったけど、天気はよかったので素晴らしい見晴らしを楽しめた。
福江港フェリー乗場のお土産物屋さんでちゃんここ(治安孝行)菓子やかんころ餅など購入して14時半レンタカー返却、空港へ。
五島列島といえば教会と隠れキリシタン、でもそれだけじゃない。素晴らしい景色と遣唐使ゆかりの地、万葉の歌、お殿様の思い、王直のこと、、新鮮なきびなごのお刺身、などなど、、そこはとても魅力的な土地だった。
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説明板には
「井持浦教会は、1897 (明治30)年に創建された、五島で最初のレンガ建築 による教会堂である」 -
教会奥にある「ルルド」
説明板には
「同教会敷地内にあるルルドは、1895(明 治28)年、当時の五島教区のアルベルト・ペルー神父により提唱され、2年後日本で初めて建設されたものである。
ルルド (Lourdes)とは、南フランスのピレネー山麓にある町の名前で、1858 年に、薪拾いに出かけた少女・ペルナデットが、近くの洞窟で聖母マリア に出会い、聖泉を示されたという故事に由来するカトリックの聖地で、そ の聖泉の水を飲んだり浴びたりした者は、病が癒されるなどの奇跡が現れるとされている。井持浦のルルドは、五島各地から選ばれた岩石により築造され、内部には聖母マリアの像が安置されている。傍らに作られた井戸には、聖地ルルドの聖泉の水が混入され祝別されており、以降この地は第 2のルルド霊泉地として全国各地から熱心な信徒が訪れている」とある。 -
大瀬崎「祷りの女神像」説明板によると
「太平洋戦争中、沖を通る船から大瀬崎を見納めの地として南方戦線に赴き、再び祖国の地を踏むことが出来なかった多くの将兵の霊を慰めるために建立 された。等身大の像が立つ広場は標高250メートル、像の前方には大瀬崎灯台、視界には果てしなく東シナ海が広がる。像は北村西望氏作」 -
女神像より大瀬崎灯台を望む
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遣唐使ふるさと館、遣唐使を詠んだ万葉集の歌を紹介
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説明板には
遣唐使と五島
古代の五島列島は、「古事記」、「肥前国風土記』、『万葉集」、「日本後紀』、『続日本後紀』 「鯖蛤日記」などにその名を留めています。それらに出てくる「値嘉」が現在の五島であ り、古代より五島の存在価値が認められていたということがわかります。
かしわざき なかでも、三井楽が遣唐使船日本最後の寄港地として果たした役割は大きく、柏崎の 港で飲料水と食糧を補給し、船を整備して順風を待ち、そこから東シナ海を一気に横断 するという、まさに「本涯辞す」(日本の最果てを去るの意)という思いで遣唐使たちが 最後に目にした日本の地だったに違いありません。
とあった -
「岩嶽神社」「ふぜん川」のある辺り
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「岩嶽神社」
説明板に
『遣唐使船が柏に寄港した承知五年(838年)ころ遣唐使守護の在にあったくさり鎌の名人が順風を待って逗留選中病死したため碑石を建ててその霊を祀ったといわれ、 当時あたりは老松生い茂り、石垣は波に洗われていたのを住人が話し合いこの柏神社を建て今日に及んでいる』 -
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「ふぜん川」
『「肥前風土記」のなかに「遣唐の使はこの停まりから出発し美弥良久に至りここから出船し西を指し渡る」
美弥良久の崎が現在の柏であり、遣唐使時代後中国へ向かう最後の寄港地でありこの川水はそれら遣唐使船乗組員の飲料水と利用されていたものであり岩盤から湧き出る水は渇水期でも尽きることがない』 -
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説明板に
天平5年(733年)第9次遣唐使船の出 港の時旅立つ我が子の無事をひたすら願って 詠んだ歌として万葉集上巻の1790番に次 の長歌があり、その反歌として詠まれている 代表的な遣唐使を送る歌である。
「秋萩を妻問ふ鹿こそ独り子に子持てりといへ鹿子じもの我が独り子の草枕旅にし行けば竹玉をしじに貫き垂り斎瓮に木綿取り垂でて斎ひつつ我が思ふ我が子ま幸くありこそ」
(秋の萩を妻として求める鹿こそ、一人子の子を持っているという。鹿の子ではないが、そのようなたった一人の私の子が草を枕の旅に行くので、竹珠をたくさん貫き通して垂らし、神を祭る壷に木綿の幣(ぬさ)をとりつけ垂らし、忌み慎みつつ心に念ずる。そんなわが子よ。無事であってほしい)と同じわが子の無事を願う母の歌に返して、
「旅人の宿りせむ野に霜降らば我が子羽ぐくめ天の鶴群」(空高く旅する鶴達よ、霜降る野に眠る我か子を見たらどうぞその羽で包んで暖めておくれ)と願う母の、子を思う心が「辞本涯」の地に立つと更に感慨深い。 -
空海の遺徳を顕彰するため建立し た、日本のさいはての地を去るという意味の「辞本涯」の碑がある
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カグラサン (ろくろ場)
説明板に
「江戸時代に入ると五島の捕鯨は最盛期を迎え、ここ柏にも捕鯨 の一団が移住してきて、冬場だけを漁期として活躍していたといわれて いる。当時、「鯨一頭捕れれば七浦潤う」といわれ、五島藩財政にとっ ても重要な資源であったが、乱獲により鯨はいなくなり、幕末にはほと んどの鯨組は解散したと記されている。この当時の鯨捕りの模様がここ の組主であった生島仁左衛門が画工に描かせた「絵巻」として残って おり (文部科学省国文学研究資料館蔵)、捕りの記録としてだけでな く、当時の庶民の生活風俗が読み取れる資料として貴重なものである」 -
お刺身盛り合わせ、きびなご、ひらまさ、まがつおなどおいしかった~
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2日目、フェリーで中通島奈良尾港へ
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桐教会の前の入江
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桐教会の前の入江
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大曽教会
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青砂ヶ浦天主堂 国指定重要文化財(平成13年1月14日)
青砂ヶ浦天主堂は、奈摩湾の中腹を見下ろすように 正面を西に向けて建っている。設計施工は長崎県下に 数多くの教会建築を残した郷土出身の鉄川与助によ る。明治43年(1910年)8月に竣功し 同年10月献堂式 が行われた。
煉瓦造の重層屋根構造である、重層の断面形式をそ のままに現す正面は、煉瓦による帯状装飾によって3 分割し、窓や縦長アーチ窓によって飾られ、正面入 □には台座と植物模様の柱頭師を有する円柱で支え られた石造りアーチを持つ、内部は3式で主部側 部ともに漆喰仕上げ4分割リブ・ヴォールト(コウモ リ) 天井、アーチは全てポインテットアーチで造られている。
外観 内部とも全体に均整のとれた構造となってお り、細部の意匠も優れている。日本人設計者の手で建設 された煉瓦造教会堂の初期のもので、かつ本格的教会 堂建築の基本である重層屋根構造にもとづく外観や 内部空間が形成されるようになった初めての例で、 この後県内の離島を中心に多数建築された煉瓦造教 「会堂の構造、意匠の起点となった。 -
地獄炊きで五島うどんを食べる
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世界遺産
『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』
⑨頭ヶ島の集落 を望む。手前山側に赤い頭ヶ島天主堂。
『「頭ヶ島の集落」は、潜伏キリシタンが信仰の共同体を維持するに当たり、どのような場所を移住先として選んだのかを示す4つの集落のうちの一つである。19世紀、外海地域から各地へ 広がった潜伏キリシタンの一部は、病人の療養地として人が近づかなかった頭ヶ島を移住の 適地として選び、仏教徒の開拓指導者のもとで信仰をカモフラージュしつつ移住し、ひそかに 共同体を維持した。解禁後はカトリックに復帰し、禁教期における指導者の屋敷の近くに教会堂を建てたことにより、彼らの「潜伏」は終わりを迎えた。』と説明板 -
頭ヶ島天主堂。
世界遺産『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』
⑨頭ヶ島の集落
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、キリスト教禁教による宣教師不在の中、神道や仏教などの日本の伝統的宗教や一般社会と関わりながら信仰を続けた潜伏キリシタ ンの伝統のあかしとなる遺産群である。それらは、国内に宣教師が不在となってキリシタンが「潜伏」したきっかけや、信仰の実践と共同体の維持のためにひそかに行った様々な 試み、そして宣教師との接触により転機を迎え、「潜伏」が終わりを迎えるまでの歴史を物 語る12の構成資産からなる。これらが長崎と天草地方の半島や離島に点在しているのは大航海時代にキリスト教が伝わったアジアの東端にあたる日本列島の中で、最も集中的に 宣教が行われた場所だからである。 -
中ノ浦教会へ。ここは朝ドラ舞い上がれでも撮影場所になったという
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奈良尾港と福江港間のフェリー客室
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常夜燈台「常灯鼻」
『1846年(弘化3年)に完成した常灯鼻は、第30代領主五島盛成公が、福江城(石田城)を築く際に城の北東から吹き寄せる大波を防ぎ、築城工事を容易にするため築かせたものといわれています。防波堤としての役割のほか、灯台としての役目も持っていました。
福江城の築城にあたった石工は、滋賀県の大津の集団であるとされており、常灯鼻も同じ石工によって造られたと考えられています。石工技術の発達した江戸末期の造りだけあって、160年経った今でも激しい波や風に耐え、出入りの船舶を見守り続けています。』との説明あり -
3日目、まず福江市内を見学。日本で一番新しい城、石田城の城門。
説明板によると
『藩主五島氏は江戸初期、それまでの居城であった江川城を焼失して以来、久しく石田陣屋(石田城の前身)で過ごしていた。 幕末になり五島近海に外国船 (いわゆる黒船)が出没し始めると五島藩は幕府に築城願いを出したが、約半世紀の間築城許可が下りなかった。しかし幕府はついに嘉永2年(1849)「海岸防衛を厳重にせよ」と築城許可を下す。
14年の歳月と工費2万両を使って、文久3年(1863)に福江城は完 成した。石田の浜にちなみ石田城と通称される。
城郭は、東西160間(約291m)、周囲740間 (約1346m)、本丸、二ノ丸、三ノ丸等からなり築城当時は三方を海で囲まれた海城であった。 石垣はいわゆる野面積みで自然石を積み上げている。海防目的で築城された城らしく、各郭の要所には石火矢台場が設けられている。 表門と裏門には櫓門が建てられていたが、今はその礎石だけが残っている。
かつては、城の石垣は外海に面し、波が打ち寄せ潮風に吹かれる松が風情をそえていた』 -
旧藩主の五島盛光(ごとうもりみつ)公が「文明の民と為すには、学問を教うるにあり(学問を為さなければ、文明の民とはなり得ない)」と教育の重要性を説かれ、城跡の敷地を無償で永久に貸与して1900年(明治33年)に五島高校が創立された、という
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国指定名勝 石田城五島氏庭園
『五島盛成公は石田城完成間近となった安政5年 (1858) 藩主五島盛徳に譲り、当地にあった藩校 「育英館」を北の丸松 に移しその跡に隠殿と庭園を造った(1861年)。
この庭園の作庭者は、京都の善章 (全正)であり心の字をかたどった池にちなみ心字が池といわれる。
この庭園は、江戸時代以来の伝統的日本庭園の地方伝播の証であり、溶岩や南方系植物など風土が加味された貴重な庭園である。 また作庭時期が明確で、隠殿屋敷も一体となって保存された 全国的に見て保存例の少ない城郭内の庭園で、日本庭園文化史上価値 があるとして、平成3年、国の名勝に指定された』 -
山本ニ三美術館「武家屋敷 松園邸」
『武家屋通りの中でも、唯一建築当時のまま残されているのが、この 「武家屋敷 松園邸」である。
文久3年(1863) 建築以来、幾度か修理は重ねてきているが、 石垣、屋敷などは藩政当時の武家屋敷が当時のままで保存されている 平成3年には屋根瓦の全面葺き替えを、平成7年には化した 門を改築した』とある。 -
武家屋敷通りふるさと館、もともと武家屋敷だった
また武家屋敷通り石垣は『五島市江の武家屋敷通りの石垣は、全国にも類をみない造りとな っている。溶岩塊の石を積み上げ、その上には「こぼれ石」といわれる丸石を積み重ね、両は型の石で止められている。門はほとん どが医門と呼ばれる門構えで、堂々たる造りとなっている』 -
城門近くの菓子「松風軒」でハッチカンカンだご三つの八匹雷をお土産でかった
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「六角井」
天文9年 (1540)、当時、東シナ海を舞台に貿易商として活躍してい た明国の王直は通商を求めて福江(当時は深江)に来航した。財政に苦しんでいた領主である宇久盛定は喜んで通商を許し、江川城下の川向こうの高台の地に居住地を与えた。これが現在の唐人町である。その際王直ら中国人が飲料用水、船舶用水として造ったのが、この六角井といわ れている。
井戸枠を六角形にいた石で囲み、井戸の中も水面下まで六角形井壁が 板石で造られているため、ちょうど六角柱を地中に建てたような井戸である。
市内にはこのような六角井が戸岐にもあり、また、長崎県内にも中国人が造ったとされた六角井が数カ所知られているが、いずれも港町であ 中国との交易が持たれた場所である。 -
明人堂
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堂崎教会、福江島のシンボルだ
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堂崎教会の正面の浜からは五島の島々が。
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堂崎教会前の海岸、小舟に乗ってお祈りに来た人々のことを思ってしまう
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遠くまで見渡せる鬼岳、気持ちがいい
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