2023/10/09 - 2023/10/24
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kawausoimokoさん
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ベルリンのペルガモン博物館が4年間の完全休館に入る前に、滑り込みで見に行ってきました。
ついでにドレスデン、プラハ、ウィーンの美術館も巡ってきました。
今回の旅でも、観られなかった作品がいくつかありましたが、その代わりに予期せぬ企画展に出くわし、思わぬところでお気に入りの作品に出会えました。
そして、何より歴史を再認識する旅となりました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 航空会社
- LOTポーランド航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
2023年10月17(火)(Day9-1)
二つのプラハ国立美術館(ナショナル・ギャラリー・プラハ)を訪れるため、プラハ城西側のフラッチャニ広場にやってきました。
フラッチャニ広場に面したプラハ城正門は、朝一番で入場する人達ちが列をなしています。 -
プラハ城 フラッチャニ広場に面した正門
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正門を衛る「戦う巨人たち」の彫刻
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朝の衛兵交代の儀式を終えて、楽隊がフラッチャ二広場を通って帰って行きました。
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ナショナル・ギャラリー・プラハ (NGP)
ナショナル・ギャラリー・プラハ (NGP) のコレクションは、1606年に神聖ローマ皇帝ルドルフ2世がアルブレヒト・デューラーの「ロザリオの祝祭」を含む数々の絵画を収集したことに始まります。
17世紀後半になるとチェコの貴族たちによる美術収集が本格化し、18世紀にシュテルンブルク伯爵によって「愛国美術友の会」が発足して、絵画ギャラリーがシュテルンベルク宮殿に誕生しました。
20世紀初頭にオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が近代絵画を収集し、1902年にボヘミア王国近代美術館が新たに設立されて、1942年にはボヘミア王国近代美術館と絵画ギャラリーが統合されました。
第二次世界大戦後の1949年、美術館は国立の「ナショナル・ギャラリー・プラハ (NGP)」として発足し、所蔵するコレクションは一つの建物ではなく、プラハを中心に7つの建物に分散して展示されています。
・シュテルンベルク宮殿(Šternberský palác)
・シュヴァルツェンベルク宮殿(Schwarzenberský palác)
・キンスキー宮殿(Palác Kinských)
・ヴェレトゥルジュニー宮殿(Veletržní palác)
・聖アネシュカ修道院(Klášter sv. Anežky České)
・サルモフスキー宮殿(Salmovský palác)
・ヴァルドシュタイン乗馬学校(Valdštejnská jízdárna) ・・・ 短期展示のみ
今日は、その内のシュテルンベルク宮殿(写真右側)とシュヴァルツェンベルク宮殿(写真左側)の二つの美術館を訪れます。 -
シュテルンベルク宮殿(右)とシュヴァルツェンベルク宮殿(左)のパンフレット
シュテルンベルク宮殿とシュヴァルツェンベルク宮殿は、フラッチャニ広場を挟んで向かい合っており、両宮殿で古典絵画が展示されています。 -
先ずはシュテルンベルク宮殿を訪れます。
シュテルンベルク宮殿の入り口は大司教宮殿(写真の白い建物)の後ろに位置しており、大司教宮殿の左側の門から入って行きます。 -
大司教宮殿の門を通り抜けて狭い路地を進んで行くと、シュテルンベルク宮殿の入り口がありました。
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一瞬、閉まっているのかと戸惑いましたが、恐る恐る重い鉄の扉を押すとようやく開きました。
外は明るいにもかかわらず中は暗く静まりかえっていたので扉を開ける時には気が付かなかったのですが、入ると直ぐに女性の守衛さんが立っていて、「判りにくいでしょう!」と笑っていました。
中から見ていたのなら、扉を開けるか、ひと声かけてくださると良いのですけどね(;_:) -
プラハ国立美術館 シュテルンベルク宮殿(Šternberský palác)
シュテルンベルク宮殿はシュテルンベルク伯ヴァーツラフ・ヴォイチェフが建てたもので、1811年から1871年までプラハ国立美術館の前身である「愛国美術友の会」の絵画館でした。
1947年からはプラハ国立美術館の所有となって美術館として使用されています。
0階にミュージアムショップ兼チケット売場、クローク、カフェなどがあり、2階が展示室になっています。
シュテルンベルク宮殿は来館者が殆どなく、ゆっくりと見学することができました。 -
15歳の女性の肖像画:ニコラエス・エリアスゾーン・ピケノイ, 1626年
17世紀のアムステルダムで流行した肖像画の特徴が余すところなく丹念に描かれています。
この作品はシュテルンベルク宮殿のパンフレットの表紙に描かれており、美術館のアイコンとなっています。
ニコラエス・エリアスゾーン・ピケノイは1588年にフランドルに生まれたレンブラントと同時代の画家で、アムステルダムで地元の有名人の肖像画と宗教画を描きました。
ピケノイは1638年頃、レンブラントの隣の家を購入して住んでいたそうです。 -
若い男の肖像画:ピエール・ミニャール,1654年
シュテルンベルク宮殿のポスターに描かれており、こちらも美術館を代表する絵画の一つのようです。
ピエール・ミニャールは1612年にフランス北部で生まれ、イタリアで修行し、バロック絵画に影響を受けました。
1657年にルイ14世の宮廷画家としてパリに戻り、教会や宮殿の装飾を手掛けました。
モリエールとも親交を深め、1687年に貴族の称号を得て、1690年には主席宮廷画家となり、王立絵画彫刻アカデミーの院長も務めました。 -
村の緑の上の結婚の宴:マールテン・ファン・クレーフェ,制作年不明
マルテン・ファン・クレーフェは1527年頃にアントウェルペンで生まれ、ピーテル・ブリューゲル(父)と同時代にアントウェルペンで活躍した画家です。
ファン・クレーフェは1560年代から農民の結婚式やダンス、お祭り、農民と兵士の喧嘩、兵士の略奪といった庶民の風景を描いており、ファン・クレーフェとピーテル・ブリューゲル(父)は互いに影響を与え合ったという説もあります。
この作品の制作年度は不明で、ファン・クレーフェが亡くなった後に未完成の作品を息子達が完成させた可能性も指摘されています。 -
村の緑の上の結婚の宴:マールテン・ファン・クレーフェ,制作年不明
屋外でのにぎやかな婚礼の宴が描かれています。
子どもを抱いた奥さんが、遠くのご主人を呼んでいるようです。 -
村の緑の上の結婚の宴:マールテン・ファン・クレーフェ,制作年不明
ご主人とみられる男性が立ちしょんしながら、奥さんの呼び掛けに応えています。 -
小さな町のマーケット:ヒリス・モスタールト,1579年
ヒリス・モスタールトは1528年にネーデルラントのハルストに生まれ、ピーテル・ブリューゲル(父)と同時代にアントウェルペンで活躍した画家です。
モスタールトは風俗画、風景画、宗教画を描き、街や村の市場、村の風景、四季の寓話、冬と雪の風景、戦争の風景を多くの小さな人物像と共に描いて当時の人々の生活を表現しました。
ピーテル・ブリューゲル(父)と共にヒエロニムス・ボスのフォロワーとしても知られているそうで、ボスの「乾草車」を模した5枚のタペストリーのカルトンを制作しています。 -
農民の喧嘩:ピーテル・ブリューゲル(子), 1622年
この作品は、ピーテル・ブリューゲル(父)(以下、父ブリューゲル)の「農民の喧嘩」の複製画であり、オリジナル作品は現存していません。
ピーテル・ブリューゲル(子)(以下、ピーテル)は1564年に生まれましたが、5歳のときに父ブリューゲルが亡くなり、その9年後には母親も他界しました。
ピーテル、弟のヤン、妹のマリーの3人は、母方の祖母で画家でもあったマエケン・ヴェルフルストに引き取られ、ピーテルと弟のヤンはマエケンから絵画の手ほどきを受けたと考えられています。
その後、ピーテルは1580年頃に風景画家ギリス・ファン・コニンクスルーの弟子となり、修行を積みました。
そして、1584年頃にはアントウェルペンの聖ルカ組合に親方として登録され、工房を開きました。
ピーテルは9人の助手と共に約1000点の作品を制作し、そのうち700点ほどが父ブリューゲルの複製画であったとされています。
17世紀に入ると、貴族だけでなく裕福な市民たちの間でも絵画収集が盛んになり、名高いオリジナル作品の複製画の需要が高まりました。
父ブリューゲルの死後も彼の作品は非常に人気があり、ピーテルはその複製画を大量に制作してフランドル国内外に安価で販売しました。
これにより、父ブリューゲルの名声は国際的にさらに高まったとされています。 -
鳥罠のある風景:ピーテル・ブリューゲル(子), 制作年不明
父ブリューゲルの作品の中でも「鳥罠のある風景」は特に人気が高く、ピーテルはこの作品の複製画を100点以上制作しました。
ピーテルが工房を開いた当初、父ブリューゲルのオリジナル作品はほとんど手元に残っていなかったとみられています。
そのため、ピーテルがどのようにして複製画を制作したのかは明らかではありませんが、「Pouncing」と呼ばれる技法が用いられたと推測されており、その手順は次のようなものです。
「残されていた下絵から紙に輪郭線を写し取り、その輪郭線に沿って無数に穴を開けて型紙を作る。次に、その型紙を実際に描くパネルの上に置き、粉袋から粉を振りかけてパネルに粉の輪郭線を移し、その輪郭線をトレースする。」 -
Mealtime in the country:ピーテル・ブリューゲル(子), 制作年不明
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フランドルの緑の村:ピーテル・ブリューゲル(子), 1630年以降
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枝を結ぶ二人の農民:ピーテル・ブリューゲル(子), 制作年不明
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農民がいるバウアーン村のドルフ通り:ヤン・ブリューゲル, 制作年不明
次男であるヤン・ブリューゲル(以下、ヤン)は1568年に生まれ、1歳のときに父ブリューゲルを亡くし、その9年後には母も亡くしました。
彼は兄のピーテル、姉妹のマリアと共に母方の祖母で画家のマエケン・ヴェルフルストに引き取られ、おそらくマエケンから絵の手ほどきを受けたと考えられています。
ヤンは1580年代に兄ピーテルと同様、風景画家ギリス・ファン・コニンクスルーのもとで徒弟として修行した後、1589年から7年間イタリアに滞在しました。
ミラノでは、後に彼のパトロンとなるミラノ大司教フェデリコ・ボロメオのために働きました。
1601年には兄ピーテルと同じく、アントウェルペンの聖ルカ組合に登録され、1610年には南部ネーデルラント総督であるアルブレヒト・フォン・エスターライヒとイサベル・クララ・エウヘニアの宮廷画家となりました。
ヤンは、父ブリューゲルの模倣にとどまらず、花や果物、風景画などで独自のスタイルを確立し、「花のブリューゲル」または「ビロードのブリューゲル」として知られるようになりました。
また、他の画家との共同制作も積極的に行い、特にピーテル・パウル・ルーベンスとは、ルーベンスが父ブリューゲルを尊敬していたこともあって家族ぐるみの付き合いがあり、共作をいくつも手がけました。 -
マギの礼拝、ヤン・ブリューゲル(子), 制昨年不明
ヤンの長男であるヤン・ブリューゲル(子)が描いたもので、3代のブリューゲルが「マギの礼拝」描いています。 -
マーケットに向かう農民:フランス・スナイデルス,制作年不明
スナイデルスは1579年にアントウェルペンで生まれ、1593年にピーテル・ブリューゲル(子)の弟子となり、後にアンソニー・ヴァン・ダイクの最初の師であるヘンドリック・ファン・バーレンに学びました。
当初は静物画を描いていましたが、後に動物画に転向し、狩猟の獲物や野生動物を卓越した技術で描いてルーベンス等の同時代の画家達を感嘆させました。
ルーベンスやヨルダーンス等の作品制作に協力して作品中の動物や果物、静物部分を描写したこともあり、スナイデルスは最初期の動物画家と呼ばれています。 -
涙の花嫁:ヤン・サンデルス・ファン・ヘメッセン, 1540年
なんとも奇妙な絵ですが、この作品の説明パネルには「ネーデルラントでは新婚初夜を迎える夫婦を主題とした絵画が一時流行し、この作品は不安で泣きじゃくっている高齢の花嫁を新郎がなだめているシーンである」と表示されていました。
ヤン・サンデルス・ファン・ヘメッセンは1504年頃にアントウェルペン近郊で生まれたピーテル・ブリューゲルより一世代前の画家で、強欲や虚栄心など人間の暗部を描いた風俗画や宗教画を描きました。 -
エッケ・ホモの複製画:ハンス・ホフマン, 1585年頃
ハンス・ホフマンは1530年頃にニュルンベルクに生まれた画家で、当時デューラー研究の第一人者として水彩画やグワッシュを専門とし、デューラー作品の複製画やそれを基にした作品を制作していました。
アルブレヒト・デューラーの熱烈なファンであった皇帝ルドルフ2世は、1585年にハンス・ホフマンをプラハに呼び寄せ、デューラーに似せて「エッケ・ホモ」制作するよう命じました。
出来上がったこの作品には、1520年の日付とデューラーのモノグラムまで書き込まれていたので、皇帝ルドルフ2世の命でデューラーの真筆であるかのように見せかけたとみられています(*_*; -
アイリスの聖母の複製画:作者不詳
16世紀後半に制作されたアルブレヒト・デューラー「アイリスの聖母」の複製画もありました。 -
アンブローズ・スピノラ侯爵の肖像:ピーター・パウル・ルーベンス,1620年
アンブロージオ・スピノラはジェノバ生まれで、スペイン領ネーデルラントのアルブレヒト大公とその妻イサベラに仕えた優れた政治家でした。
スピノラとルーベンスは長年の友人であり、ルーベンスはスピノラが1605年に授与された金羊毛勲章を胸に付けたこの肖像画を描きました。 -
聖母マリアの訪問:ピーター・パウル・ルーベンス,1632-1634年
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エデンの園からの追放:ピーター・パウル・ルーベンス,制作年度不詳
アントワープのイエズス会教会の天井画のデザインとして制作されたようです。 -
聖ブルーノ:アンソニー・ヴァン・ダイク , 1620年
カルトゥジオ修道会の創始者で1623年に列聖となった聖ブルーノが描かれています。
ヴァン・ダイクは1620年頃はピーテル・パウル・ルーベンスの筆頭助手として活動しており、イングランドへ渡ってイングランド王ジェームズ1世のために最初の作品を描いた時期でもあります。 -
シュテルンベルク宮殿 中庭
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Café Šternberk
中庭に面してカフェがあります。 -
牛肉とレンズ豆のシチューで一息つきました。
シュテルンベルク宮殿は、場所が判りにくい上、超有名作品はなくて地味めだからなのか、見学者は非常に少なく、ゆったりと落ち着いて鑑賞できました。
特に、ピーテル・ブリューゲル(父)と同時代のファン・クレーフェやモスタールトの作品を今回じっくりと鑑賞することができたので、ブリューゲル(父)との違いを知ると同時に、改めてブリューゲル(父)の卓越した才能に感銘を受けました。
ピーテル・ブリューゲル(父)に描かれた農民たちは、粗にして野だが卑ではなく、ブリューゲル(父)の視線には温かみが感じられるように思います。
なんか、格好つけた言い方をしていますが、本当は「父ちゃんは、やっぱり凄かった(@_@;)」と思ったのです。
この後は、シュヴァルツェンベルク宮殿を訪れます。
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