2022/05/10 - 2022/05/10
23位(同エリア61件中)
ポポポさん
この旅行記のスケジュール
2022/05/10
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東水門
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山姥の穴
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高日神社
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五十猛神社
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物部神社
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若宮社
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日本神社
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さざれ石
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宇和奈利社
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石城大師堂
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第二奇兵隊練兵場跡
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観音菩薩像の碑
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この旅行記スケジュールを元に
東水門を後にして散策ルートの終点駐車場まで戻ります。
その途中にあったのが多くの神社や社。どうしてこんな山奥の上に多くの神社があるのだろうかと以前訪れた時も不思議に感じていました。今回はどのような神様が祀られているのか見ていくことにしました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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石城山神籠石探訪旅行記の完結編です。
これまで石城山神籠石の3つの水門と一つの門、それを結ぶ神籠石の列石を見てきました。
遺跡探索ルートの最後に見られるのが写真の東水門です。探訪記の3で東水門の全景と記した東水門の写真ですが、正確には左端のその先にまだまだ水門の石垣が続いているのです。
そのことからもこの水門が石城山神籠石最大規模の水門といえましょう。石城山神籠石 名所・史跡
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さて水門の中央下部に開けられているのが山姥の穴(写真参照)。
山水の水抜き用として作られてある穴ですが、いつの頃からか里人たちに山姥の穴と呼ばれるようになりました。
いつの頃からか、どうして山姥の穴と呼ばれるようになったのか分かっていません。
山姥の穴について記述した資料がないのです。
山中に造られた大きな石の遺跡にポツンと開けられた小さな穴。この光景が里人には何とも不気味な光景に見えたのかもしれませんね。 -
山姥の穴の内部の様子です。遠くから見ると小さな穴にしか見えませんが、近寄って見ると幼児一人が十分入れるくらいの割と大きな穴でした。奥は暗くその先がどうなっているかは照明器具が無ければ見ることができません。
7世紀に造られた石の構造物ですが石にヒビなどは全く無く崩落した様子もありません。
7世に造られたままの姿を目の前で見ることができました。よくぞ今まで当時のままの姿を留めてくれたかと小さな感動が湧き起こりました。 -
東水門の左端の先まで歩いて行くと写真のような説明板が・・・。
平成16年6月の集中豪雨で石垣の一部が崩落、平成17、18年にかけて保存修理修した旨が書かれています。 -
説明板の下には説明板に書かれていた7世紀の崩落石。
保存修理工事には使われなかった石です。 -
東水門の一番左部分の石垣が崩落下部分。
説明板で説明されているように基底部分には石積み工法が採用されました。
石の組み方が異なるので一瞥して分かります。 -
ネットが張られている部分は7世紀の石垣。集中豪雨で崩落しなかったものの石垣の表面が凸凹していて崩落の危険があるためこのような処置がされていました。
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東水門の石垣。この部分は崩落の危険性はないようです。
石城山神籠石 名所・史跡
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東水門を過ぎると神籠石の散策は終了。
駐車場を目指して進みましょう。案内表示では左が駐車場。
2015年4月にここを訪れた時はこのような案内板が少なかったため案内図がたよりでした。
しかし歩いて見ると個々の場所のように山中には三叉路が多く途中で道を間違えてしまい廃寺の跡地に迷い込んでしまいました。
今回はこのようなことも無く、案内板のおかげで案内図通りに散策路ルートを進むことができました。 -
ここでも散策路を間違わないように案内図がありました。
ちょうど今駐車場に向かう分かれ道、現在地表示の所にいます。 -
駐車場に向かう道を歩いて行くと再び三叉路が・・。
ここには案内の矢印がありませんが案内図に現在地表示がされていました。
右の道を進むと高日峰山頂へ。左の道を進むと石城島神社や日本神社に至ります。 -
石城島神社や日本神社に至る山道(参道)には石の鳥居が・・・。
文政7年(1824年)3月に近在の村の氏子社中によって建てられた鳥居です。
遠目からは文政7年と読めますが近寄って見ると文政10年と彫られていました。
文政年間は前の年号と合わせて化政文化が発展した時期です。また大きな事件としては文政11年にシーボルト事件が起こっています。
石城山は神籠石遺跡の他に多くの神社が祀られている場所です。以前訪れた時はその由来や理由が分かりませんでしたが、今回は時間が許す限り調べてみようと思います。
さて、この後の探訪ルートですがこの鳥居をくぐって直接石城島神社方面に行くのでは無く、右の山道を通って日高峰山頂に向かう事にしました。
日高峰は2014年5月に来た時に登った山で頂上からの景色がとても美しい場所です。
再度その景色を見たいと思い右のルートを進みました。 -
日高峰山腹から眺めた瀬戸内海と光市及び周辺の島々のです。
天候が快晴では無かったため瀬戸内海や島の景色が鈍よりとした様子ですが、快晴であればとても美しい景色が望めます。 -
こちらは上の写真の右方面の景色。光市とその向こうの島は何島かな?
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瀬戸内海と島のアップ。鈍よりした天気なので海の色が映えませんね。
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上の景色の左側、こちらは山が連なっていました。
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日高峰山腹からの景色。
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日高峰山頂(362m)に鎮座ましますお社、高日神社です。
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主祭神は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、他に日神、月神、星神、高日峰之神が祀られています。
天之御中主神は日本神話の天地開闢の時に最初に登場される神様です。日神と言えば天照大御神のこと。なので月神とは月読命(つくよみのみこと)の事かと思っていましたが、月神とは須佐之男命(すさのうのみこと)のことを指すこともあるそうです。
では星神とは?天津甕星(あまつみかぼし)という星の神様が日本書紀に登場しますが葦原中国(あしはらのなかのくに)平定時に登場するだけなので、どのような神様かは不明(Wikipediaより)。
ここからは山中に祀られた社殿巡りです。 -
五十猛神社。五十猛神を祀っています。
五十猛神は須佐之男命の子。林業、造船、航海安全、大漁の神です(Wikipediaより)。 -
物部神社。祀られているのは物部守屋大連命。
物部守屋は仏教擁護の蘇我馬子と対立し、強硬な廃仏派でした。
そのことが神道擁護者と理解され神として崇められたのかもしれませんが、物部守屋は蘇我馬子や厩戸皇子らの軍勢と戦い討たれています。
何故神道では物部守屋を神として祀っているのか疑問が残るので調べてみました。確かに物部神社は日本各地にありますが主祭神は初代宇摩志麻遅命(うましまぢのみこと)や祖神饒速日命(にぎはやひのみこと)です。
物部守屋を祭神とする物部神社は無いようですね。
後で分かった事ですがこの社は新興宗教である神道天行居が昭和初期に建てたもので、祭神を物部守屋としたのは神道天行居独自の解釈によるもののようです。 -
物部神社。
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次は若宮社。とても小さな石のお社でした。どなたが祀られているのでしょうか。
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御祭神は天孫降臨の神瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)でした。
瓊瓊杵尊は蘆原中国(アシハラノナカツクニ)の主として高天原から天下りされ日向の国の高千穂峰に下りたたれました。これが天孫降臨です。
瓊瓊杵尊の曾孫が神武天皇ですので天皇の祖先とされています。
このように尊い神でありながら社殿は小さな祠でした。流石にこれは小さすぎるでしょう。 -
若宮社を過ぎてルートを進むと日本神社にやって来ました。
以前に来た時は鳥居をくぐって階段を上がって来たのですが、今回は社殿の裏側のルートを歩いてきたようです。
写真は社殿の横にあるさざれ石。国歌にも歌われている石です。
さざれ石は島根県の出雲大社の境内にもありましたよ。 -
このさざれ石、岐阜県の特産天然記念物だそうです。
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日本神社の社殿です。
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日本神社の御祭神は天照大御神、歴代皇孫尊(歴代スメミマノミコト)、天地八百万神です。
天照大御神を御祭神としてお祭りしているという事であれば、伊勢皇大神宮(伊勢神宮)からご分霊を頂いてるという事ですが本当にそうなのかと疑問が生じました。
私の記憶では正式に天皇の勅許を頂き伊勢神宮の分霊を勧進した皇大神宮は明治以前には山口市にある山口大神宮しかないはずです。
しかし明治以降に建てられた社殿で分霊を頂いているというケースも考えられるので調べてみました。
調査の結果この社殿は戦前の昭和4年に建てられています。同年に鎮座したという記述はありますが伊勢神宮から分霊を勧進したという記述はありませんでした。
その他に伊勢神宮の分霊、分霊社を調べているとおかしな記述をいくつも目にしました。
今回の旅行記とはあまり関係がありませんが、余りにもおかしい内容だったので紹介しておきます。
見出しには「日本で唯一存在する伊勢神宮の分社」として佐賀市伊勢町にある伊勢神社が紹介されており、ここを訪れた方から同様の旅行記や口コミがいくつもありました。多くの方が誤った情報を鵜飲みにされているようですので、この場を借りて簡単に違いを指摘したいと思います。
まず「日本で唯一存在する伊勢神宮の分社」が間違いです。明治以降宮内庁の許可を得て伊勢神宮の分霊を勧請した神社が国内にはいくつかあるので唯一ではありません。
正しく表現するならば明治以前に天皇の勅許を得て伊勢皇大神宮から分霊を勧請した分社となるはずですが、これは山口大神宮の他にはありません。(Wikipediaより)
佐賀市の伊勢神社のHPには九州で唯一のお社と書かれており、「日本で唯一存在する伊勢神宮の分社」とは書かれていません。
さらに伊勢神宮のご分霊を勧請したのでは無く。ご分霊を奉祀(まつること)したと書かれています。
伊勢神宮神霊を勧請したのは山口大神宮が1520年、神霊を奉祀した伊勢神社は1542年でほぼ同時代です。
(由緒)
山口大神宮は室町時代の西国の雄で山口を本居地とした守護大名大内義興公が時の天皇後柏原天皇の勅許を得て伊勢神宮の御神霊を勧請しました。後柏原天王からは「高嶺太神」、後陽成天皇からは「伊勢」の御宸筆が授けられ「高嶺太神宮、今伊勢」と呼ばれるようになりました。(Wikipediaより)
佐賀の伊勢神社のHPには由緒がありませんでした。佐賀のタウン誌によると佐賀の杉野隼人という人が18歳から43歳まで都合53回もお参りした信心深さを称えられ特別に勧請を認められたそうです。
(社殿の様子)
山口大神宮ー内宮・外宮はともに神明造で他に伊勢神宮と同じように荒魂社のような別宮や摂社があります。拝殿は内宮・外宮の神域とは別の場所に建てられています。
伊勢神社(佐賀市)ー社殿は拝殿と神明造の本殿とが一体になっており、内宮・外宮はありません。
(式年遷宮)
山口大神宮ー伊勢神宮に倣って行われています。最近の式年遷宮は平成12年でした。
伊勢神社ー式年遷宮は行われていません。
以上より明治以前に唯一天王の勅許を得て伊勢神宮の御神霊を勧請したのは山口大神宮だけだという事をご理解いただけたと思います。
確かに佐賀の伊勢神社も分霊を勧請されたのかもしれませんが、地元のタウン誌や市の広報がことさら大げさに吹聴しているようにしか思えませんでした。
しばし脱線しましたが、旅行記に戻りましょう。 -
前回訪れた時には日本神社の階段の下には遥拝所があったので、今どうなっているか確認するため階段を降ました。降りた所にあったのが写真の石城山巡拝案内です。
石城山に祀られているお社と神々が書かれていました。
以前訪れた時にはあまり気にも留めずに一瞥した程度でしたので、この山に神社が多い理由が分かりませんでしたが、今回はその訳も知りたいため詳しく見てみることにしました。 -
石城山神域案内図です。
この図で見る限り、石城山の神社は石城神社のような古い神社は除いて多くは巡拝のために昭和に初めに山域に祀られ、1地番の遥拝所から14番の高日神社までの神社を巡拝しているようです。
ではどのような方々が巡拝されているのでしょうか。そこで目に着いたのが「神道天行居」という名称でした。
この名称は今まで聞いたことはありません。今回初めて知りました。神道と書かれているので神道の一流派なのでしょうが、詳しいことは帰宅して調べて見ることにしました。
「神道天行居」は友清歓真(ともきよよしさね)氏によって創始された古神道系の新宗教団体。いわゆる新興宗教でした。
昭和2年に石城神社で神示「山上の天啓・十の神訓」を拝受して「神道天行居」を創設したそうです。昭和3年に石城山の麓に本部神殿を創建、昭和4年に石城山に日本神社が創建されました。倭姫命より伝えられた太古神道なるものが教えの基本だそうです(Wikipediaより)。
次は遥拝所に行ってみましょう。 -
ここが遥拝所です。
遥拝先は3か所。皇居と伊勢神宮と手箱山。2014年5月に訪れた時はもっと遥拝先が多かったように思いますが現在では僅か3か所になっていました。
中央に3つの石柱がありますがそこが各場所に向けて建てられた遥拝所です。
皇居と伊勢神宮は分かりますが手箱山ってどこの山でしょう。どうして手箱山を遥拝するんでしょうか?
これも分からないので調べてみました。手箱山は四国にある山で神の山として崇められる石鎚山系の山だそうです。
石鎚山は聖なる神の山なのでこの山を遥拝するのであれば理解できますがなぜに手箱山なのか?
色々調べた結果手箱山は古神道の聖山らしい事が分かりました。なので遥拝先になっているんですね。
では先を急ぎましょう。
この後磐山神社(バンザンジンジャ、教祖友清歓真氏の御霊を祀る神社)荒神社などがありましたが、これらは写真を撮っていません。
この他に葦原神社、石城島神社、天龍神社がありますが、帰りの時間の都合で回りませんでした。 -
ここは宇和奈利社です。
御祭神は木花咲耶姫命(このはなさくやひめ)様。 -
木花咲耶姫命は国津神で瓊瓊杵尊の妻です。
神道天行居の巡拝案内ではここには木花耶姫命の他に磐長姫命(イワナガヒメノカミ)と比賣神(ヒメノカミ)が祀られていると書かれていましたが木花咲耶姫命しか表示されていません。どちらが正しいのでしょうか?
ところで磐長姫命は木花咲耶姫命のお姉さんです。神話では二人の父神大山津見神(オオヤマツミノカミ)は二人の娘を瓊瓊杵尊の妻にと差し出したのですが瓊瓊杵尊は美しい木花咲耶姫だけを妻として、醜い磐長姫命は追い返してしまいました。
父神が二人の娘を瓊瓊杵尊に嫁がせようとしたのは理由があって、木花咲耶姫命を妻にすれば木の花が咲くように繫栄するであろう、磐長姫命を妻にすれば瓊瓊杵尊の命は岩のように永遠になるだろうとの思いからでした。
木花咲耶姫命だけであれば瓊瓊杵尊の命は木の花のようにはかなくなるだろうと二人の父神は瓊瓊杵尊に告げました。
かくして瓊瓊杵尊の子孫である天皇は神々ほどは長くはなく限りある命となったということです。
私はこれらの神社は神道天行居によって建てられ、石城山は神道の神域となったと理解していました。
しかしこの旅行記を作成するに当たり少し詳しく石城山の事を調べてみるとそうではないことが分かりました。
元々石城山は近世「石城山式内三社大権現」と称され、石城山を山岳霊山とする信仰が形成されていたのです。
その時にすでに石城山山中にある神社のいくつが建てられ里人の信仰の対象として崇められていました。
つまりこの山には室町時代や江戸時代に再建された神社と神道天行居によって建てられた神社が共存したのです。
古いお社は石城神社、石城神社の摂社として須賀社、末社として荒神社、宇和奈利社、若宮社、高日神社があります。
宗教団体神道天行居によって昭和の初期に建てられたのが日本神社、磐山神社、五十猛神社、物部神社、葦原神社、石城島神社、天龍神社です。(Wikipediaより)
これら新旧の神社は神道天行居の巡拝神社になっていますが、古くからの神社は里の村人(氏子)によって今も守り伝えられているそうです。 -
これは石城大師堂です。大師堂と言うからには真言宗のお堂ですが、入り口の戸は閉ざされていました。
2015年4月に訪れた時は戸が開け放たれていてお香が焚き染められていてお参りもできました。
2021年に再訪した時もこのように戸が閉められており、お参りができませんでした。
この山には石城神社の社務を管掌するために神護寺というお寺が建てられ、山中には多くの社坊がありました。
このことからも石城山は古くから信仰の山であったことが覗えます。山中には今も多くの社坊の跡があります。
私が2014年にここを訪れた時の事ですが道に迷って山中に入り込んだ時に偶然僧房の跡を見つけました。
僧坊とおぼしき建物の周囲には瓦や生活用具などが散乱していて、近時までここで生活が営まれていたであろうことが想像できました。 -
第二奇兵隊練兵場跡まで帰ってきました。
ここはキャンプ場として整備されましたが、現在は休業中だそうです。石城山キャンプ場 キャンプ場
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第二奇兵隊練兵場、旧キャンプ場の様子。
石城山キャンプ場 キャンプ場
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第二奇兵隊練兵場跡の説明板。
説明によるとこの練兵場では銃陣、射撃、地雷火、騎兵などの訓練が行われていたそうです。
幕末の長州藩では藩正規兵以外の百姓町人など庶民で編成された軍隊を諸隊と呼んでいました。
諸隊の隊長や部隊長の士官には武士階級の者が選任されていたため騎兵訓練が行われることは珍しいのですが、第二奇兵隊では武士階級の者が多かったのか、それとも下士官の兵で騎兵を希望する者が多かったのかもしれませんね。 -
第二奇兵隊練兵場跡の碑。
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第二奇兵隊練兵場跡に隣接する場所に平場がありました。ここも幕末練兵場の一部だったのかもしれませんが、遠くに何やら仏像のような物がありました。
近寄って見てみましょう。 -
仏像は観世音菩薩像です。自然石に青銅の板に彫り込まれた観世音菩薩像がはめ込まれていました。
何のためにここに建てられたのか説明板が無いため全く分かりません。 -
観音像の下には生花が飾られていました。
お顔は観音様らしく穏やかな微笑み顔でした。
私の勝手な推測ですが、長州藩では第二次長州征伐(長州藩では四境戦争と呼んでいました)から百姓町人などで編成された諸隊が長州藩の主力として薩摩藩を除く全国の藩兵と戦い勝利しました。鳥羽伏見の戦い以降は河合継之助率いる長岡藩と北越戦争で激烈な死闘を繰り広げ、その後会津戦争、函館戦争、上野戦争と戊辰戦争の主戦場を駆け巡ってきました。
その間有為の若者が多数亡くなっています。その菩提を弔うために建てられたのかもしれませんね。 -
石城山の駐車場です。
この駐車場も第二奇兵隊練兵場跡地です。 -
反対側を振りけり見ればそこは旧練兵場跡地に作られたゅうキャンプ場。
5月の新緑がとても美しい場所でした。石城山キャンプ場 キャンプ場
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再び石城山駐車場です。
石城山の散策路を一回りして最初の場所まで戻ってきました。神道天行居の一部の神社は訪れませんでしたが、主要な石城山神籠石の遺跡の大部分は見て回りました。
遥か1300年前、国家存亡の危機に当たって本州の国防最前線となる山城として建てられた石城山神籠石の遺跡でしたがいかがでしたでしょうか。
年数の経過で防御施設の一部しか残っていない箇所もありましたが、石垣や山城の曲輪の規模では最も規模の大きな山城の一つです。
柳井や光、あるいは周南付近の観光に訪れられた場合は足を延ばして太古の息吹に触れられてはいかがでしょうか。
完結まで時間がかかりましたが訪問いた抱きまして誠にありがとうございました。
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謎の古代遺跡神籠石を訪ねてみた
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