2024/04/18 - 2024/04/19
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montsaintmichelさん
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伊勢神宮には、皇大神宮(内宮)や豊受大神宮(外宮)を始め、月の神様である月読・月夜見宮などの14所の別宮、43所の摂社、24所の末社、42所の所管社があり、これら125宮社を総じて「神宮」と言います。
今回は猿田彦神社と月読宮に絞ってレポします。
猿田彦神社は、伊勢神宮とは直接の関わりはなく、「神宮」には含まれません。しかし、祭神 猿田彦大神は天照大御神の孫 瓊瓊杵尊の道案内をし、また猿田彦大神が開拓した五十鈴川の川上に内宮が創建されたため、『記紀神話』上は伊勢神宮と深く関わっている神社です。それ故、「天孫降臨」に因んだ「啓行の神」として篤い信仰を集めています。また、境内には芸能や音楽、スポーツ、縁結びの神である天宇受売命を祀る佐瑠女神社もあり、紅白の「奉納幟」がその霊験あらたかなことを証明していました。
月夜見宮は天照大御神の弟神 月読尊を祀りますが、域内には月読荒御魂宮、伊佐奈岐宮(父神)、伊邪奈弥宮(母神)もあり、「月読四宮」とも称されます。天照大御神ファミリーとも言える4つの神明造のお宮が横一列に並ぶ姿は壮観です。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 高速・路線バス 私鉄 徒歩
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猿田彦神社
宇治橋からおはらい町街道を900mほど直進した所にある交差点の左脇に佇みます。
祭神には猿田彦大神とその子孫とされる大田命を祀ります。宮司は猿田彦大神の子孫 宇治土公(うじとこ)家が代々務められています。
「天孫降臨神話」では、天照大御神の孫 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が地上界を統治する際、猿田彦大神は高千穂まで道案内し、その後に五十鈴川の川上に鎮まりました。それ故、「啓行(みちひらき)」の神様として崇められ、交通安全・建築・方位除け・災難除け・開運・事業発展・五穀豊穣・大漁満足などの神徳で知られます。
伊勢市出身でアテネ五輪でゴールドメダリストとなられた野口みずきさんや森三中の鈴木美幸さんもこちらで挙式されています。また、2012年2月22日に6代 桂文枝師匠がここで「襲名奉告祭・興行成功祈願祭」を行っています。 -
猿田彦神社
社号標には「口のない猿(左)」と「口のある猿(右)」の文字が躍ります。
神社に確認したところ、「口のない猿」は「さ」と読むそうです。神社では祭儀祝詞にて「さだひこおおかみ」「さだひこじんじゃ」と読み上げることに因むそうです。ただし、通常は右側の「口のある猿」=「さるたひこじんじゃ」と使い分けるそうです。 -
猿田彦神社の境内マップです。
https://www.sarutahikojinja.or.jp/keidai/ -
猿田彦神社 大鳥居
県道32号に面して立つ大鳥居は一見普通の鳥居のようですが、よく見ると柱が八角形です。八角形は全方位を意味し、方位除けにご利益があると伝わります。また島木神明鳥居以外にも本殿の鰹木や欄干、手水舎の柱など、全て八角形で統一されています。唯一、八角形でないのは鳥居の手前にある燈籠の竿だけです。
尚、笠木や島木の木口には神紋を施した装飾金物が付けられています。 -
猿田彦神社 拝殿
『倭姫命世記』によると、大田命は天照大御神を祀る地を倭姫命に献上したとされます。大田命の子孫は、宇治土公と称して神宮に玉串大内人として代々奉職し、邸宅内の屋敷神として祖神 猿田彦大神を祀っていました。やがて1871(明治4)年の神官制度の改正で神官の世襲が廃止されることになり、屋敷神を改めて神社に格上げしたのが猿田彦神社の草創です。
猿田彦大神と言えば鈴鹿市 椿大神社が有名で、全国約2千社の猿田彦大神を祀る神社の「総本社」です。猿田彦大神の墓地の近くに社殿が造営されたのを創始とします。
一方こちらは、猿田彦神社 「本社(もとつやしろ)」と遠慮がちに案内されています。猿田彦大神を祀る神社の総本社に抜擢されなかった理由は、屋敷神を改めて神社として創建したのが明治時代初期であり、神社としての歴史が浅かったからのようです。由緒よりも創健年代が重んじられた結果のようです。 -
猿田彦神社 拝殿
実は『記紀』には大田命が猿田彦大神の子孫だとの記述はありません。それ故、宇治土公の祖神を猿田彦大神とするのは宇治土公家による系譜操作との説もあり、「宇治土公の祖は大田命、遠祖は大土之御祖神」だともされます。
その根拠は、宇治土公の「宇治」は内宮のある地名であり、「土公」は大土神(大土之御祖神)との縁を示すからです。また、内宮の鎮座と共に筆を起こした『太神宮諸雑事記』には「宇治土公、遠祖大田命神、当土乃土神也」とあります。
一方、鎌倉時代成立の『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』には「猿田彦大神は宇遅土公氏遠祖の神なり」と記されています。また、『倭姫命世記』でも「猿田彦神の裔 宇治土公氏の祖 大田命」とあります。このように鎌倉時代になってから根拠もなく唐突に出自を主張するようになり、やがてこれが通説となって大田命の祖に猿田彦大神が架上したようです。
因みに江戸時代後期の国学者 平田篤胤は、猿田彦大神を大土神と同体と説いています。伊勢では猿田彦大神が地主神として信仰されていることと重なるからです。 -
猿田彦神社 拝殿
拝殿は、銅板葺、平入、正面3間切妻向拝付き、切妻屋根に庇を付した錣屋根(しころやね)に近い形式です。また、千鳥破風にまで千木と鰹木が施されているのがユニークです。
社殿は「さだひこ造」と称され、拝殿にある二重千鳥破風の妻入が最大の特徴です。「さだひこ造」を具体的に言えば、拝殿の屋根の前後に各々千木・鰹木のある合計4つの千鳥破風を備え、権現造同様に拝殿と本殿を石の間を挟んで連結した構造です。ただし、権現造の本殿が平入であるのとは異なり、妻入であるのがユニークな点です。 -
猿田彦神社 拝殿
猿田彦大神は、『日本書紀』の本文では省略されていますが、異伝には「鼻の長さが七咫、背の高さは七尺以上、まさに七尋である。また、口の端は明るく光り、目は八咫鏡のように光り輝いている。まるで赤酸醤(あかかがち)のようである。天孫は御供の神を遣わしてその神の素性を明かそうとしたが、どの神も目を合わすのを怖れて尋ねられなかった」と記され、いわゆる天狗を彷彿とさせる恐ろしい容姿の神だったことが窺えます。
1咫は約18cmですので、鼻の長さは126cmもあります。また尺は古代の「さか」であり、藤原京や平城京から出土したものさしの1尺が約30cmであることを踏まえると身長は約210cmです。 -
猿田彦神社 拝殿
拝殿の社号額にも「口のない猿」の文字が躍ります。
尚、この「口のない猿」は猿田彦神社独自の漢字だそうです。
揮毫は、現宮司より3代前の宇治土公貞幹(さだもと)宮司に拠るそうです。伊勢随一の文化人と称され、三重県神社庁長や神社本庁長老などを歴任された方です。三重県護国神社などの歌碑にも揮毫されています。その貞幹の長女として生まれ、明治~昭和時代を通し京都画壇の中心として活躍したのが伊藤小坡です。風俗画や美人画に傑出した画家として知られています。 -
猿田彦神社 拝殿
神紋は5つの木瓜に梅鉢をあしらった「五瓜梅鉢(ごかにうめばち)」です。
木瓜は胡瓜の切り口を連想しますが、実は鳥の巣をイメージ化したものです。尚、木瓜紋は素戔嗚尊を祀る神社の神紋として知られ、俗に胡瓜とも解釈されることから、素戔嗚系の神社では祭りの期間中は胡瓜を食べないという風習があります。 -
猿田彦神社 社殿
宮司が祝詞(のりと)を奉上する祝詞殿(=拝殿)は平安時代を偲ばせる典雅な寝殿造をなしています。
また、本殿に巡らされた朱色の八角形の欄干には金色の吊燈籠がよく映えます。吊燈籠も勿論八角形です。 -
猿田彦神社 本殿
拝殿と本殿を石の間を挟んで連結する構造は通常の権現造と同じです。
ただし、権現造の本殿が平入であるのとは異なり、伊勢特有の妻入となっています。 -
猿田彦神社 本殿
本殿は瑞垣で囲まれていますが、このように隙間から覗けます。 -
猿田彦神社 本殿
猿田彦大神は阿邪訶(あざか:現 松阪市)で漁をしていた時に比良夫貝に手を挟まれて溺死したと『古事記』は伝えます。この貝の種類は不詳ですが、シャコガイとする説が有力で、伊勢市二見町の夫婦岩で有名な二見興玉神社(祭神 猿田彦大神)には沖縄産オオシャコガイが安置されています。
一説には猿田彦大神は溺死した後に甦ったとされ、それが「黄泉の国より還る」転じて「甦る(よみがえる)」となったとも伝えます。二見興玉神社などで猿田彦大神の神使が「カエル」とされるのは、「甦る」に準えて「黄泉カエル」とされたためとも伝わります。 -
猿田彦神社 子宝池
『倭姫命世紀』によると、宮司を代々務める宇治土公家は猿田彦大神の直系の子孫としています。この池には神々の時代から子孫代々継承し続けて絶えない宇治土公家の産土神が宿るとされます。それ故、この池の前で祈願すると子宝に恵まれると伝わります。
因みに「宇治土公」の苗字は全国で約10名しかおられないそうです。 -
猿田彦神社
八角形をした絵馬には、色鮮やかな装束を纏った舞女「みちびきの舞」が描かれています。
この舞は、1949(昭和24)年に明治天皇の第7皇女 北白川房子様が猿田彦神社参拝時に詠んだ歌「さだひこの 御名いと高し 天くだり 神代の昔 しぬびまつれば」に曲と振り付けを施し、1969(昭和44)年に猿田彦神社が独自に考案したものです。 -
猿田彦神社 赤門
江戸時代初期に建てられ、2019年に屋根と塗装を修復した歴史ある門です。元々は宇治土公家の邸宅の正門として子宝池の南側にあったそうですが、1971(昭和46)年にこの場所に移設されました。
代々宮司を務める宇治土公家の邸宅に繋がる高貴な門であり、それゆえ屋根の上にはオーバーサイズ気味の鯱が躍ります。 -
猿田彦神社 古殿地干支石
八角形をした「十干十二支方位石」が置かれた古殿地は、1936(昭和11)年まで神座があった神殿跡です。10干、12支、易の八卦などが刻まれています。干支石に刻まれた干支を手の平で触れるとパワーが授かるとされ、猿田彦神社で最もパワーが集中するパワースポットだそうです。
石の触れ方に特に決まりはないそうですが、自分の干支や運気を上げたい方角を触ったり、風水で悪い方角を触れると良いとも言われています。
因みに風水では、
仕事運「亥→卯→未」
金運「巳→酉→丑」
家庭運「申→子→辰」
人気運「寅→午→戌」とされています。 -
猿田彦神社 たから石
この舟形石が宝船を想起させることから、古来縁起の良いものとされてきました。また、ここの舟形石は富の象徴でもある白蛇がとぐろを巻いて乗っているような形と色彩を帯びています。古より白蛇は金運をもたらすと崇められ、しかも宝船に乗っているということも相俟って、特別に縁起が良いとされています。 -
佐瑠女神社(さるめじんじゃ)
猿田彦神社の本殿と対峙するように北向きに建てられています。神楽・技芸・鎮魂の神と仰がれる天宇受売命(あめのうずめのみこと)を祀ることから、芸能や音楽、スポーツ関係者が多く参拝されます。
「天孫降臨」に際し、天八衢にて猿田彦大神と最初に対面し結ばれた女神です。高千穂の峰に至る道を啓かれた後、猿田彦大神と共に五十鈴の川上の地に赴かれ、その功により瓊瓊杵尊から「猨女君(さるめのきみ)」の称号を授かりました。また天照大御神が天岩戸に籠もられた際、天岩戸の前で踊った神様として知られています。 -
佐瑠女神社
天宇受売命は「天岩戸伝説」の踊りに因んで「鎮魂の神様」とも称されます。
そもそも日本の舞は「魂鎮め(たましずめ)」であり、死者の魂を鎮める西洋の「鎮魂」とは異なり、「魂振(たまふり)」と言って眠っている魂を振り起こして若々しい活力を与えるものです。
それ故に天宇受売命は、高ぶる心を落ち着かせて清らかに穏やかな心に導く、あるいは活力を失った魂を呼び覚まして活力を注入してくれる「鎮魂の祖」と崇敬されています。あらゆることから自立し、矜持を持って生きようとする人たちを支えてくれる神様と言えます。
桂文枝師匠は、襲名時に、まずこの佐留女神社に祈願されたそうです。 -
佐瑠女神社
神前幕にはJALのマークに似た神紋「舞鶴」が描かれています。
鶴は、古代中国の伝説では仙界に棲む鳥とされ、吉祥と長寿の象徴として古来より高位高官の身に着ける装飾品に用いられました。文様としては古くから用いられており、『平家納経』の表紙や『北野天満宮縁起』の絵巻にも見られます。舞鶴紋はこうした鶴の文様から派生し、瑞祥的な意味合いを持たせたものです。 -
佐瑠女神社
こちらの神号額も金文字で独自の文字です。
「左」は「エ」が「ヒ」になっている俗字です。
「瑠」は神社独自の文字のようですし、「社」も右横に「、」が添えられた異体字です。もしかしたら、「佐瑠女コード」だったりして…。 -
佐瑠女神社 招霊(おがたま)の木
「社」のつくりの「土」という文字は、象形文字ゆえ、土を盛り上げたり、土に木(、)を植えたりするなどの形で地主神のご神体を表していると聞いたことがあります。もしそうであれば、佐瑠女神社の左脇に植えられているこの「招霊の木」こそご神体である旨を暗示しているのかも!?つまり、この「招霊の木」もパワースポットのひとつということです。これが「佐瑠女コード」の真実だったとは…。
因みに招霊の木は、天宇受売命が天岩戸の前で舞った際に用いたと伝わる木です。それ故、巫女が神事に使う「神楽鈴」は招霊の木が生やすブドウの房を彷彿とさせる実がモデルともされます。更には、1円玉の裏面に描かれている「若木」のモデルとの説もあります。 -
佐瑠女神社 願かけ絵馬
個人情報保護ということでしょうか、近年は絵馬に貼り付ける保護シールが準備されており、これを貼れば書き込んだ内容が見られないようになります。 -
佐瑠女神社 奉納幟
紅白の「奉納幟」が目に鮮やかです。
猿田彦大神と他の男神との仲を取り持ったことに加え、猿田彦大神とは夫婦神であることから、広く縁結び(人と人、男と女、人と物や仕事など)のご利益もあるそうです。
南海キャンディーズの山里亮太さんが2018年に参拝されて幟を奉納されています。そしてその翌年、女優 蒼井優さんと電撃結婚されたのはご神徳の証左と言えるのでは? -
佐瑠女神社 さざれ石
佐留女神社の左脇に「さざれ石」が祀られています。岐阜県揖斐郡春日村の山中から採取奉納されたものだそうです。
さざれ石は、長い年月をかけて小さな石が大きな岩を形成することから、神の力の結集、神が宿る場所と考えられ、神聖な力を象徴するものとして神社などに祀られています。その岩の形成過程は人の成長プロセスを彷彿とさせ、長期に亘る繁栄を表すものだそうです。 -
猿田彦神社 御神田(おみた)
本殿の背後にある神社境内の薬種山の麓、小川に架けられた小橋を渡った先には稲が実る御神田があります。尚、左端にあるビニールで覆われた所が苗床です。
毎年5月5日に開催される御田祭は、三重県の無形民俗文化財に指定されており、珍しいのは特殊神饌として「飛魚」を献上する風習です。伊勢地方の古くからの習わしで、荒波を乗り越えて飛躍する飛魚のように五穀が雨風に打ち勝って強く逞しく育つようにとの願いが込められています。その他、「御田扇」や「福しょうぶ」も特別授与品として献上されます。「御田扇」は恵比須・大黒が描かれた扇で五穀豊穣、子孫繫栄などのお守りとして、「福しょうぶ」は全ての物がすくすくと育つようにと願いを込めたものです。
そして毎年8月下旬に刈り取られ、11月23日に伊勢神宮で行われる新嘗祭に初米を奉納されます。 -
猿田彦神社
御神田の右脇には「猿田彦神社」と刻まれたと思しき名もなき石碑が寡黙に佇みます。 -
猿田彦神社
御神田の先の藤棚の更に奥には、胡乱な気配を漂わせる「狐」の石像が佇んでいます。かつてはここに稲荷社があったことを語りかけているのでしょうか?
実は神道の神「佐田彦神」は、伏見稲荷大社で祀られる稲荷3神の1柱であって主祭神 宇迦之御魂神の配神でもあり、猿田彦大神の別名です。
また、江戸時代の歴史家 黒川道祐著『雍州府志』には、伏見稲荷の上社の神は「大田命」と記されています。この神は猿田彦大神の子孫とされ、伊勢の五十鈴原の地主神です。
更には、猿田彦大神の眷属としては「カエル」が有名ですが、隠れ眷属として「狐」もいるそうです。
意外な所で猿田彦大神とお稲荷さんの接点が見いだせました。 -
猿田彦神社 本居宣長歌碑
「神世より 神の御末と つたへ来て 名くはし 宇治乃土公 わが勢」 宣長
(神代から大神の末裔として絶えることなく続く名高き宇治土公家 私の大切な友よ)
『古事記伝』で知られる国学者 本居宣長は伊勢神宮参拝の際に猿田彦神社の宇治土公宮司家に宿泊するのが常でした。70歳(寛政11年、1799)の時の最後の参宮で二見(宇治土公)定津に贈った歌です。
定津は、1796(寛政8)年に宣長に師事し、晩年には内宮権祢宜を務めました。その筆による御神号額や碑など全国に多くあります。例えば、猿田彦神社(京都市右京区 山之内庚申)の鳥居神号額など。 -
猿田彦神社 本居宣長歌碑
碑面の歌並びに筆跡は猿田彦神社所蔵の懐紙から採られています。
それほど広い神社ではありませんので、40分ほどあれば余裕で見て回れます。 -
月読宮 鳥居
「猿田彦神社前」バス停から1区間先の「中村町」で下車します。バス停から鳥居のある入口までは徒歩5分程の距離です。猿田彦神社から徒歩圏内ですが、連れ合いの膝を気遣ってバスを利用しました。「まわりゃんせ」なら乗り放題です。
お宮への出入口は国道23号線沿いと県道12号線(御幸道路)沿いの2ヶ所ありますが、現在はこちらの御幸道路側が正式な入口になります。 -
月読宮の境内マップです。
https://www.isejingu.or.jp/download/pdf/map_city.pdf -
月読宮 参道
内宮の別宮に当たり、荒祭宮に次ぐ格式を有し、内宮域外では最高格の別宮です。創始は不明ですが、奈良時代には月読宮と称され、平安時代以前に月読宮の宮号を有していたと考えられています。804(延暦23)年の『皇太神宮儀式帳』には「月読命。御形ハ馬ニ乗ル男ノ形。紫ノ御衣ヲ着、金作ノ太刀ヲ佩キタマフ」とあります。
因みに『続日本紀(第32)』にも月読尊が登場します。 光仁天皇の代の宝亀3年(772)8月の条には、光仁天皇の時代に暴風雨で木や家が倒れたため占ったところ、伊勢の「月読神」の祟りと判り、毎年9月の神嘗祭には内宮の荒祭宮に准じ荒御魂として伊勢に神馬を奉納するようになったという内容です。この神馬のエピソードは月夜見宮に伝わる神路通りの「白馬伝説」にも繋がります。 -
月読宮 参道
太い杉の根を跨ぐように細い根が張っています。
逞しいとしか言いようがありません。 -
月読宮 参道
地元では「げつどくさん」と呼び、月夜見宮と区別して親しまれています。また域内に月読宮と月読荒御魂宮、伊佐奈岐宮、伊邪奈弥宮の4つのお宮があることから、「月読四宮(つきよみしくう)」とも称されます。
月読尊を始め、父神 伊弉諾尊、母神 伊弉冉尊も一緒に祀られており、内宮正殿を含めて天照大御神ファミリーを祀る神社との位置付けである一方、別宮などを含めて伊勢神宮には素戔嗚尊を祀る神社が存在しないのは彼がしでかした数々の「若気の至り」が要因でしょうか?
いえいえそうではなく、その理由は、伊勢神宮創建の契機となった第10代 崇神天皇の時代の『記紀』に素戔嗚尊は登場せず、神話においては伊勢神宮に関与していないためと考えられます。また一説には、「『記紀』は政治的意図の下に編纂されており、天照大御神は高天原の天津神であり、素戔嗚尊はこれと敵対する古代出雲の国津神ゆえ」とも言われます。興味深いのは『古事記』に素戔嗚尊の子と記されている大歳御祖命や宇賀御魂神が内宮・外宮の摂社などに祀られていることです。 -
月読宮
祭神は内宮の祭神である天照大御神の弟神 月読尊です。月読尊は月の満ち欠け、つまり太陰暦を司る神です。「月を読む」とは月の満ち欠けを数えること(月齢)を意味し、月を暦にしていた時代には生活や農耕に関わる月神が尊ばれていました。尚、月齢は暦を導くことから「農耕の神」とされ、また潮の満ち引きにも影響するため「漁業の神」ともされます。
因みに『日本書紀』では、黄泉国から逃げ戻って禊ぎをした伊弉諾尊が左眼を洗った時に月読尊が生まれ、「滄海原(あおうなばら)の潮の八百重」を治めるよう命じられます。伊勢国が海人の地であることを鑑みれば、「漁業の神」ともされる月読尊を祀るのは自然の理です。ただし『古事記』では、海原を治めるように命じられたのは素戔嗚尊になっているのですが…。 -
月読宮
このように横一列に4柱の神明造の社殿が並ぶ光景は神々しく、圧巻です。
右から順に月読荒御魂宮、月読宮、伊佐奈岐宮、伊佐奈弥宮と並びますが、参拝は月読宮、月読荒御魂宮、伊佐奈岐宮、伊佐奈弥宮の順番で行います。
因みに『皇大神宮儀式帳』には「月読宮一院。 正殿四区之中」と記され、当初は一囲の瑞垣内に4宮が纏めて祀られていたと窺えます。また927(延長5)年の『延喜式』には「伊佐奈伎宮二座、月読宮二座」とあり、 伊佐奈岐宮と伊佐奈弥宮、月読宮と月読荒御魂宮が各々セットで祀られていたようです。 現在の様に4宮に各々瑞垣が巡らされたのは、神宮司庁 編纂『神宮要綱』(1928年)によると1873(明治6)以降のようです。 -
月読宮
いずれの社殿にも手前に伊勢鳥居が立てられ、男・女神に関わりなく内削ぎの千木、6本の鰹木を掲げた女神形の神明造です。男・女神で区別していない理由は、月読宮を所管する内宮の形式に統一しているためと説明されています。つまり内宮正殿が「女神形」ゆえ、こちらの社殿も「女神形」と言うことです。大きさについては月読宮だけが一回り大きく造られています。 -
月読宮
『万葉集』には、月読尊は若返りの霊水「変若水(をちみず) 」を持つ神として詠まれています。 欠けても再び満ちる月は、再生を現し、若返りの霊力を持つとされていました。
「天橋も 長くもがも 高山も 高くもがも
月読の 持てるをち水 い取り来て 君に奉りて をち得てしかも」
「をち」とは若返りや蘇りを意味し、しかもその「をち」の鍵を月読尊が握っていると言っています。この歌は3234番歌に続く女性の作ですが、伊勢神宮讃歌と解釈されており、伊勢斎宮が天皇の若返りを祈願した祝詞と見ても違和感はありません。 -
月読荒御魂宮
古来、月には不老不死の霊水があると信じられてきましたが、伊勢神宮でもこの信仰が連綿と息づいています。それを象徴するのが式年遷宮の際の「洗清(あらいきよめ)」の儀式です。洗清とは、新正殿を聖なる水(外宮は上御井神社より奉汲された水、内宮は五十鈴川より奉汲された水)と塩で浄化し、末永く清浄であるように祈りを捧げる儀礼です。明け方に五十鈴川の川辺に降り立ち、水面に満月の癒やしの光りを浴びた水が奉汲され、洗清に供されます。つまりこの聖水を月読尊がもたらした「変若水」と見立てています。 -
伊佐奈岐宮
余談ですが、里芋の葉に降りた露を溜め、七夕の日に神棚に供えてその水を肌に付けると肌が若返るという言い伝えがあります。吉成直樹著『俗信のコスモロジー』によると「沖縄では里芋の露は月から落ちてきた水」とされているようです。それは沖縄の伝説『アカリャニザガマの話』が「水神(蛇)が月から降りてきて清泉に住み、月から運ばれた若水を浴びたことで脱皮を繰り返し生まれ替わって長生きできるようになった」と伝えるからです。 -
伊佐奈弥宮
違和感を覚えたのが、式年遷宮の際の引っ越し先に当たる「古殿地」がお約束のお隣に存在しないことです。
境内マップを見てみると、お隣ではなく、4つまとめて裏手にひっそりと控えていました。 -
葭原神社(あしはらじんじゃ)
月読宮の裏参道入口付近(国道23号線側)にひっそりと佇んでいます。
内宮の末社で、祭神には佐佐津比古命(ささつひこのみこと)、宇加乃御玉御祖命(うかのみたまのみおやのみこと=お稲荷さん)、伊加利比賣命(いかりひめのみこと)を祀ります。
伊加利比賣命は「稲刈り」に因むとの説がある一方、『日本書紀』には「神武天皇が吉野巡幸した折、井戸から体が光り尻尾のある者が出てきて、大和の吉野の国神で井光(ゐかり)と名乗った」と記されており、水の神に関係があるそうです。
一方、『姓氏録』には「父神は白雲別神、井光の別名は豊御富、天皇は水光姫と名付けた」とあり、『海部氏勘注系図』では倭宿禰の母神としています。因みに倭宿禰は、神武東征の折り、明石海峡で海亀の背に乗って現れて航路を先導した人物です。
3柱いずれも田畑の守護神で「五穀豊穣の神」とされています。 -
葭原神社
創建は不明ですが、『延喜式』にある萩原神社と比定されています。また879(元慶3)年の『日本文徳天皇実録』には「倭姫命が祝い定めた神社」と記されており、当社が創建された辺りが五十鈴川の川上の葭(葦)原であったことが社名からも窺えます。中世に廃絶しましたが、1873(明治6)年に現在地に再興されました。
社殿は板葺の神明造とし南向きに建ち、一重の板垣で囲んでいます。本来、神宮の末社は「式内社ではない」という基準がありますが、特例的に式内社ながら末社であるのは、それなりの意味がありそうです。 -
葭原神社
佐佐津比古命は大歳神の子神とされますが、正体不明です。
荒木田守良編『神宮典略』には、水の神とされる「水佐々良比古命(みずささらひこのみこと)」と同一神という説、あるいは元は「佐三津比古(さみつひこ)命」であったものが誤写により「佐二津比古命」になり、「二」を同字の意と解して「佐佐津比古命」になったとも記されています。
「佐三津(佐見都)比古命」説に基づけば、内宮摂社の堅田神社に祀られる伊勢の国津神「佐見都日女命」の配偶神と推察できます。佐見都日女命は倭姫命が二見の海岸に着船した際、出迎えて堅塩を献上したとされます。しかし率先して堅塩を奉じた訳ではなく、倭姫命の質問には一切答えずに黙って堅塩を奉じたと伝えます。自ら開拓した土地を差し出すことにせめてもの抵抗を示したのです。この逸話の出所は出雲系とされる外宮禰宜 度会氏が鎌倉時代に創作した『倭姫命世紀』です。「出雲の国譲り神話」とも重なり、時の政権に抗った地元民の姿を反映したものではないでしょうか? -
葭原神社 大楠
社殿に向かって右奥に聳えるのは推定樹齢800年超の大楠です。
この樹は、色々な角度から見ると、鹿や昇龍、パンダに見えるのが特徴です。
「鹿」は2手に分かれた幹を角の見立てたものです。
「昇龍」は枝ぶりを見上げるとそれなりに判ります。
さて「パンダ」は何処やら? -
葭原神社 大楠
後日知りましたが、左下向きに伸びている枝をもう少し左寄りから見ると「パンダ」に見えるようです。根元まで行ってみるべきでした。残念!
バス停から社殿までのアプローチに片道10分ほど必要ですが、参拝は葭原神社と合わせて20分もあれば足ります。
この続きは、青嵐薫風 伊勢紀行⑫倭姫宮・月夜見宮でお届けします。
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