2024/01/03 - 2024/01/03
28686位(同エリア47166件中)
きんさん
趙宋の史跡を中心に, 河南省の巩義, 开封, 濮陽などをぶらぶら独り旅で巡った。濮陽の回銮碑は宋と遼の長年の戦争を講和という形で終わらせ宋の300年以上にわたる王朝維持の基礎となった中国古代の外交の記念碑。
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回銮碑は今は檀渊の盟記念館の中に保存されている。この時は昼どきだったか或は普段から訪問者が少ないせいか記念館の門が閉まっていたが, 管理団体へ電話をかけると直ぐに開門して貰えた 。
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真ん中が宋代の原物。左右は後代に全文を復元したもの。
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宋の真宗趙恒の勅撰, 宰相寇準の書(実際は文 彦博か)と伝えられる宋碑は,損傷があり石碑下部の文字は一部失われて《契丹出境詩》(原文60文字)のうち31文字がのびのびとした力強い字体で現存している 。
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濮陽へ足を運んだなら, 合わせて見るべき場所として, 時代は春秋時代に遡り孔子の愛弟子で衛国の内乱に巻き込まれながら義理を通して無残に命を落とした子路仲由の墓(衣冠 塚) とその最期の舞台である孔悝城 (衛戚城)がある。残念ながら塚は公開 しておらず, 門が閉ざされ近づけなかった。
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多勢に無勢も顧みず恩人を救いに孔悝城に乗りこんだ子路は武術にも通じていたが,敵の刀が帯に触れ, かぶっていた冠が落ちそうになった為 (孔子の教えを守るために)「君子 たるもの死しても, 冠を落(免)とさず」と帯を結び直す間に敵に切り刻まれて受難したという。
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戚城址には城壁の盛土(時代不詳)が残る他に, 外交で生き残るしかない弱小国が 8回に渡り周辺諸国と同盟を交わすための 会議場となった盟壇台(盛土) の跡がある 。
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他に周辺では唐の兀公碑, 明の城壁とその傍らの水利遺跡(これはどこが遺跡か良くわからない), 古鎮など小さな場所はありましたが, そこら辺は必ず訪れる必要はなさそうに思えました 。独り旅の食事は質素なもの。覚えているのは壮馍と団子汁くらいでした 。
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