2023/10/24 - 2024/04/24
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しにあの旅人さん
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平家物語には、児玉党の武士達の活躍があちこちで語られています。
平家物語が大好きなしにあ夫婦にはたまりません。
平重衡首塚と庄小太郎依家の五輪塔に行ってきました。
ヤマトタケルはいずこ。
熊谷次郎直実を気取ります。
返えさせ給へ、返えさせ給へ~~~。
やだもんね。
参考書は下記に並べました。
引用では僭越ながら敬称を略させていただきます。
「ヤマトタケル空白の旅路 金鑚神社1 華奴蘇奴国、卑弥呼登場!?」
https://4travel.jp/travelogue/11887487
投稿日:2024/05/04
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
目印はJR本庄駅。重衡首塚まで直線4.7km,小太郎の墓2.3kmです。
-
県道462に直接面して本庄市の指定文化財との標識がありました。
-
★一ノ谷の合戦の後、捕らえられた平重衡(しげひら)の首を児玉党の蛭河庄四郎高家がこの地へ持ち帰り供養した首塚であると伝えられている。★
とあります。
一書に曰く、
重衡というひとは、平家の武将が、華々しく戦って散っていったなかで、生け捕りにされて、生き恥をさらし、そのうえで処刑された人です。
その人の首塚?
なんで、ここに?なんで、この埼玉県に?
埼玉にあっちゃあ、いけねーのかよ?と言われそうですが、
そりゃあいけねーんでないかい?
だって、奈良で処刑されたんでしょ?その首が、なんでSAITAMA?
とんで さいたまって、首がとぶの?
By妻
平家物語巻九一ノ谷
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★三浦・鎌倉・秩父・足利、党には、猪俣・兒玉・野井輿・横山・西党・都築党、総じて私党の兵(つわもの)ども、源平互いに乱れあい、喚き叫ぶ声は山を響かし、馳せ違ふる馬の音は雷の如く、射違ふる矢は雨の降るに異ならず。★(P94)
児玉党の武者は、三浦など「鎌倉殿の13人」で有名な軍勢とともに、生田の森の平家正面に突入したようです。党のうち、西、都築以外は武蔵七党です。「私党」は武蔵七党のひとつ私市(きさいち)でしょうか。
重衡生捕の事
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背後から義経に奇襲され、生田の森の正面を突破された平家軍は、散り散りに敗走しました。
生田の森の副将軍、本三位中将重衡は乳母子(めのとご)の後藤兵衛盛長と主従2騎で逃げました。しかし庄四郎高家、梶原源太景季(かげすえ)に追いかけられ、重衡は馬を射られました。
★乳母子の後藤兵衛盛長、我馬召されなんやと思ひけん、鞭を打ってぞ逃げたりける。三位の中将、「いかに盛長、我をば捨てていづくへ行くぞ。日来(ひごろ)はさは契らざりしものを」と宣へども、空聞かずして、鎧に附けたる赤印どもかなぐり捨てて、ただ逃げにこそ逃げたりけれ。★
盛長は、自分の馬を主人に渡すどころか、なんと主人を捨てて逃げてしまいました。「鎧に附けたる赤印」というのは平家の赤、敵味方識別票です。それもかなぐり捨てというから、まことに見苦しい。
重衡は自害しようとしますが、
★庄四郎高家、鞭鐙(むちあぶみ)を合わせて馳せ来り、急ぎ馬より飛んで下り、「まさなう候(なりません)。いづくまでも御供仕り候はんずるものを」とて、我が乗ったりける馬にかき乗せ奉り、鞍の前輪にしめ附け奉って、我が身は乗換に乗って、御方の陣にぞ入りにける。★(P102)
重衡を生け捕りにした庄四郎高家は、児玉党の党首、児玉家弘の四男です。児玉郡蛭川郷を本拠地としました。現在の児玉町蛭川地区です。
重衡は優れた人物でしたが、大仏殿などを焼き払った責任を問われ、興福寺僧侶に引き渡され、処刑されました。
平家物語によれば、重衡は木津(こづ)川のほとりで斬られ、首と躯は北の方輔子(すけこ)の住む日野で荼毘に付され、墓もそこに造られました。
★首も躯も煙になり、骨をば高野へ送り、墓をば日野にぞせられける。★(P231)
日野とは、
★大津より山科通りに、醍醐寺を経てゆけば、日野は近かりけり。★(P226)
現在は京都市伏見区だそうです。
首塚の伝承
▲▼▲▼▲ -
高家は首をもらい受け、手厚く供養したという伝承があります。
重衡の武勇は源氏にも知られ、頼朝も高く評価していたということです。高家はまさか重衡が斬られるとは予想しなかった。それがこのようになったので、武将らしく自害させればよかったと思い、なまじ生け捕りにしてしまったことを後悔した。
このように考えれば、高家がこの地で重衡を、何らかの形で供養したというのは、十分理解できます。
これが児玉町蛭川釈迦堂墓地内の首塚です。
一書に曰く、
わっかりました。
なんで、奈良で死んだ人の首が、ここ埼玉県に、あるのかが。
そうかあ、生け捕りにした庄さんという人が、首をもらってきたと。
そんでもって、故郷にまで持って帰って、供養したと。
なるほど、なるほど。
これって、熊谷直実のバリエーションですわね。
熊谷直実は、出家までしたことになってますが、庄四郎高家は、どうだったのでしょうね。
戦いすんで、日が暮れて、思い返すは、我が手にかけた敵将のこと。
もしも、あのとき、ああすれば、こうすれば、死んでいたのはわが身であったのかも、、、
なんて懐古したのでしょうかね。
By妻 -
「本三位中将平重衡卿首塚」とあります。
-
「伝」となっております。現在の首塚そのものは、それほど古いものには見えません。伝承に基づき近年に建てられたものでしょう。
-
お花なども生けられ、きれいにメンテナされていました。
-
♪
-
乳母子盛長のその後
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主人を捨てて逃げた盛長。
熊野法師の尾中法橋を頼って生き延びました。
法橋死後、訴訟で京に上がった後家さんのお供をしました。三位中将の乳母子として顔を知られていたので、
★「あな憎や、後藤兵衛盛長が、三位の中将のさしも不便にし給いつるに、一所ででいかにもならずして、思ひも寄らぬ後家尼公の供して上りたるよ」とて、皆爪弾をぞしける。盛長もさすが恥ずかしうや思われけん、扇を顔にかざしけるとぞ聞こえし。★(P103)
重衡主従と木曽義仲主従
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一書に曰く、
私は、平家物語の中でも、木曽どの最期のあたりが、特に好きなんです。
先日、病院に行きまして、なに、毎月一回の、血圧の薬をもらいにですが。
それでも、待たされます。退屈しのぎに本でも読んでいようと、手近にあった角川文庫を持って行ったのが、大間違い。
それが、平家物語で、ついつい木曽殿最期を読んじゃいました。
あなた!ここ読んで、泣かない人がおりましょうか!
嗚咽までも漏れそうなのを、必死で我慢しておりましたら、、、そこで、血圧検査ですと。
むっちゃ、高かったです。
なんですか。これ?
って、怒られちゃいました。
木曽義仲の乳兄弟の今井四郎兼平という人は、あの、巴御前の兄弟だったはず。
彼女は、義仲の側室であったと同時に、義仲の最期まで従った十人のうちに残った女武者です。
何度も何度も、逃げろ逃げろと、義仲は言うのですが、巴は、最後までついて行くと逃げようとしません。
それで、義仲は、最期まで女といては、恥となる。と言うのです。
そこまで言われて、巴は、それではこれが最後の土産だと、敵軍の中でも、名の知られたつわもの、御田ナントカが、三十騎ばかりで襲いかかってきた中に押し入り、御田ナントカをひっつかまえて、乗っている馬の鞍に押しつけ、びくりともさせず、首ねじ切って、捨ててしまった。
という恐ろしい働きをして落ちて行きます。
そして、生け捕りにされたとき、よい男の子を産むであろうと、引き取り手がたくさんあったそうです。
大河ドラマでは、和田義盛の妻になってますね。
京を追われた義仲は四郎とただ2騎になりました。
戦い続け、追われ続けて、義仲は疲れ果ててしまいます。
思わず、弱音を吐きますと、兼平は、「いやいや。疲れていません、疲れていません。馬だって元気です。疲れていると思うのは、気のせいです。」
と申し上げます。
本人が疲れてるって言ってるのに、疲れてないって、なんやねん、おまえはおれか?って、義仲が大阪人なら突っ込むところです。
義仲は、木曽人だから、そうか、疲れていないのか。とはならず、やっぱり、
「もういいよ。おまえと二人で死ねるなら、ここで死のう。討ち死にしよう。」
すると、あれほど、疲れていないと言い張った兼平が、乗っていた馬から飛び降りて、義仲の馬にすがりついて、
「あなたは、お疲れなのです。馬も疲れております。」
って、泣きながら、「名もなき兵に討たれるのは、不名誉です。」
と、かき口説きます。
おだてたり、すかしたり。押したり引いたりの、このくだり、これが泣かずにはいられましょうや?
By妻
四郎は粟津の松原で義仲を静かに自害させるべく、敵の新手50騎を相手に防矢(ふせぎや)します。
そのときの氏文(うじぶみ)よみ。
★遠からん者は音にも聞け。近からん人は目にも見た給へ。木曽殿の乳母子に、今井四郎兼平とて、生年三十三にもまかりなる。さる者ありとは、鎌倉殿までも知(おぼ)し召されたるらんぞ。兼平討って、兵衛佐殿の御見参に入れよや★(P68)
四郎は単騎奮戦しますが、義仲は深田にはまり討たれてしまします。
これを知った四郎は、
★今井四郎は軍(いくさ)しけるが、これを聞いて、「今は誰をかばはんとて軍をばすべき。これ見給へ、東国の殿ばら。日本一の剛の者の、自害する手本よ」とて、太刀の鋒を口に含み、馬よりさかさまに飛び落ち、貫かって失せにける。★(P69)
一書に曰く、
ここの兼平の見得が、かっこよくて!!
平家物語って、これBL、つまりボーイズラブじゃないのっていうエピソードが、いくつもありますが、これもそうです。
なんて、思わず書いちゃって、
えっ、私、ボーイズラブに感激して、血圧あげちゃってたの?!って、ショックなby妻でした。
ところで、比較される、重衡の乳兄弟は、生き残って、しかも重衡の馬を奪って逃げたそうですが、末代の恥をかいても、生きた方がよいのか、どうなんでしょう。深刻な生き方問題です
By妻
駒形神社
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首塚のとなりにある駒形神社。
神社境内の案内板によると、庄太郎高家の子定重が蛭川太郎を称し、このあたりが蛭川氏の本貫地だそうです。
高家が重衡を自分の館で供養したのでありましょう。
一書に曰く、
児玉党っていうのは、結局どういう組織だったのか、by妻には理解不能です。
平氏の方は、一致団結して、みんな仲良く滅びて行きます。
一方、源氏は、平氏と戦いながら、木曽義仲とも戦うと。
義仲との戦いは源氏軍のトップ争いってことでしょうかね。
とにかく大変、昨日の友は、今日の敵ですからね。
義仲と頼朝の戦いは、木曽と相模の戦い。
長野県と神奈川県の戦い。
中間に位置する群馬、埼玉。
というわけで児玉党は敵味方に散らばりました。
最初から敵だったなら、話はこうはならなかったのかもしれませんが。
木曽側の樋口次郎兼光という、今井兼平の兄は、頼朝軍の児玉党の者たちに、わが手柄と引き換えにと助命嘆願してもらいます。
結局は、死罪になってしまうのですが。
また、その樋口次郎の家来に、茅野太郎というものがいて、自分の死に様を我が子に語ってもらいたいと、敵側の知人を探すエピソードがあります。
ここも泣けます。
親戚、友だちがたたかったってことです。
戦い終わったとき、児玉党の人達は、全員、鬱になっていたでしょうね。
首塚でもなんでも作りたくなるでしょうよ。
By妻 -
首塚の後ろは蛭川公会堂。
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定重は地名をとって蛭川氏を名乗ったのです。
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巨木が林立する静かな神社でした。
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その一隅の戦没者顕彰之碑。
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戊辰戦争の戦没者の名がありました。
大字入浅見
竹澤由五郎
どなたか、存知申し上げません。
西南戦争の顕彰碑は見たことがありますが、戊辰戦争まで遡るのは初めてです。蛭川には、歴史とそれに参加した人を尊ぶ伝統があるのです。
庄小太郎頼家供養塔
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再び平家物語一の谷。
平家敗走。
生田の森大将軍、新中納言知盛は、その子武蔵守知章、侍監物太郎頼方と三騎で汀に向かいました。
そこに、
★ここに兒玉党と覚しくて、団扇の旗さしたる者どもが、十騎ばかり、鞭鐙を会わせて、おしかけ奉る。(中略)その中の大将と覚しき者、新中納言に組み奉らんとて、馳せ並ぶる所に、御子武蔵守知章、父を討たせじと、中に隔たりおし並べ、むずと組んで、どうと落ち、取って押さえて首をかき、立ち上がらんとし給ふ所に、敵の童(わらわ)、落ち合わせて武蔵守の首を取る。★(P106)
監物太郎は兒玉党の童(従者)を討ち取りますが、太郎も奮戦して討ち死しました。
知盛は2人の勇戦の間に、名馬を泳がせ、沖の平家の兵船に逃れました。
討ち討たれつの乱戦でありました。
「中に隔たりおし並べ、むずと組んで、どうと落ち」まさに平家物語。声に出して詠みます。
ここで戦死した「大将と覚しき者」は、「七党系図」という古文書で、児玉党の名門庄太郎家長の嫡子小太郎依家(頼家)と考えられるそうです。
平家の総大将に単騎戦いを挑んだ若武者でありました。当時20才。
父を守って討ち死にした知章(ともあきら)もまた16才の若武者でした。
一書に曰く、
埼玉から、はるばる一の谷、今なら神戸あたりでしょ。
壇ノ浦って、下関だし。結構遠くまで行ってますよね。
そういえば、宮崎のひえつき節には、那須の大八と鶴富姫の悲恋が歌われていますけど、那須の大八って、那須与一の兄弟ですよね。
栃木から、はるばる宮崎まで行ったんだ。
栃木県民と宮崎県民との恋。今でも、あんまり多くはないかも。
治承・寿永の乱という戦いで、関東武士は、ずいぶん世界が広くなったのではないでしょうか。
By妻
小太郎の供養塔に行ってきました。
宥勝寺
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供養塔があるのは宥勝寺。
本堂裏の墓地にあると聞いてはいましたが、広い墓地で結局場所がわからず、庫裏にご住職を訪ねました。
ご住職は供養塔まで案内して下さいました。 -
本堂と庫裏の間の小さな木戸をくぐって墓地に参ります。
-
「庄小太郎頼家の墓」という案内板の前、
-
小径を入ります。
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一列に並ぶ五輪塔の一番奥、
-
小太郎のお墓がありました。
-
木漏れ日をあびて、お花が供えられておりました。
-
境内の案内板の一部を書き起こします。漢数字は算用数字に置き換えました。
★
寺伝によると、武蔵七党の一党である児玉党の一族の荘小太郎頼家が源平合戦で有名な一の谷の合戦において戦死したため、その菩提を弔うために夫人により建仁年間」(1201~4))に建立されたのが開山と伝えられる。
★
夫人妙清禅尼は14才の若妻だったという説もあるそうです。
栗崎金鑚神社
▲▼▲▼▲▼ -
小太郎墓より南西直線約100mに栗崎金鑽神社があります。「鑽」は先先です。ところが境内には夫夫の「鑚」も使われていました。どっちでもいいのかもしれません。
近年道路工事が行われ、鳥居の位置や入り口付近は変更があったようですが、かつての面影はとどめているようです。
「新編武蔵国風土記稿」では栗崎村の宥勝寺の項に、「金鑽明神社」として出てきますが「是を村内の鎮守とす」だけで、詳しいことは分かりません。
「児玉郡誌」だと
★中世兒玉党の宗家庄太郎家長、当地に築城以来崇敬最も深かりしと云ふ、★(児玉郡誌353コマ)
「埼玉の神社」には、文献上1202年(建仁2年)以前、鎌倉時代初期の創建であることがわかる、とありました。
小太郎が討ち死にした一ノ谷の合戦は西暦1184年ですから、家長が亡き小太郎を祀ったという可能性もあり得ます。
仮にここで小太郎が知盛を討ち取っていれば、屋島も壇ノ浦もなし。平家物語はここで終わってしまいます。大きな歴史の一コマでした。
破れたりとはいえ、平家の総大将に単騎決闘を挑んだ息子をほこりに思い、悼んだ親の気持ちからいえば、ありえなくはないと思うのですが。 -
小高い丘の上にあります。
-
何度も兵火で焼け落ちた建物です。
いまは素朴な小さなお社でした。
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この旅行記へのコメント (2)
-
- 前日光さん 2024/07/21 22:47:15
- これは平家物語を巡る旅ですよね?
- こんばんは(^_^;)
「ヤマトタケル空白の旅路}?
看板に偽りあり!ですね。
いったいどこにヤマトタケル君は登場しているのでしょう( *´艸`)
ところで「平家物語」、現役で教えているときには、平家ってスルーしちゃうことが多かったなぁ。
冒頭部分はともかく、なにせ長いし。
言葉遣いがまた、源氏なんかとはちょっと違うんですよね。
でもあの独特のリズム、「義仲の最期」なんて壮絶でビックリ!
今井の兼平の見事な最期にも泣かされます。
男子として、いや主君に仕える家来として、こんなあっぱれな武士はいるでしょうか!
「今井四郎は軍(いくさ)しけるが、これを聞いて、「今は誰をかばはんとて軍をばすべき。これ見給へ、東国の殿ばら。日本一の剛の者の、自害する手本よ」とて、太刀の鋒を口に含み、馬よりさかさまに飛び落ち、貫かって失せにける。」
わぁーー、痛い(>_<)
というか、それ以前の問題か!
お話なのか、事実なのか。。凄い世界です。
今の方が、平家の良さをしみじみと感じます。
湯西川に「平家の里」という観光施設がありまして、そこには山口から「赤間神社」を勧進してきて、その庭の奥に安徳天皇を祀っています。
全国でも「赤間神社」は、山口と湯西川にしかないとか。
端午の節句にこいのぼりを揚げないとか、鶏は飼わないとか、今でもそういう風習があるそうです。
平家のように一世を風靡して華やかさを極め、あっという間に滅んでいったものに寄せる日本人の思いは、深いですね。
そういうものが好きという遺伝子は、おそらく我々の潜在意識の中に潜んでいるのでしょう。
儚く散る桜を愛する感性もまた然り。
今回は「平家物語」の世界に、どっぷりと浸らせていただきました。
え?平家物語はBL?
うーーん、そうかもしれないとも思いました"(-""-)"
ではでは(-_-)zzz
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2024/07/22 10:47:06
- Re: これは平家物語を巡る旅ですよね?
- そうなんですよ。
タケル君どこにもでてこない。
これは話すも涙の物語なんです。
このあと金鑽神社6がありまして、いよいよ金鑚神社とタケル君のお話が出てくる予定で、ここまではその伏線、のはずだったのですが~~~
どうにもこれがまとまらない。
加えて全然面白くない。書く方が面白くないので、読む方はもっとおもしろくないはず。
で、とりあえず先に行くことにしました。ばやいによってはまた戻ってくるかも・・・
これまたとりあえず、平家物語を楽しんでいただいて、よしとします。
鳥居峠でまたタケル君に戻りました。
このシリーズはちゃんとタケル君が出てきます。
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