2024/05/03 - 2024/05/03
103位(同エリア336件中)
Bachさん
「亀岡」は京都から30kmの近い距離であるにも拘わらず、これまで行く機会がありませんでしたが、「光秀まつり」という一大イベントがあるというので、EV(電気自動車)の高速自動車初乗りも兼ねて行ってきました。
「亀岡」と言えば、3年前2020年の大河ドラマ「麒麟が来る」で脚光を浴びた「明智光秀」と、京都嵐山までの渓流下りとトロッコ列車で有名ですが、今回「光秀まつり」と「亀山城」と「2つの庭園」を見た印象は、行政と一体となって祭りを盛り上げる市民の強い地元愛、地元のお城をも買い取った宗教法人の強大な財政力、伝統的な日本家屋を保存再利用し「お屋敷レストラン」を展開して事業発展と地域貢献の両立をはかる民間企業の経営姿勢で、それぞれ三者三様、地元の伝統を守ることに一生懸命の姿を見せていることに感心しました。
一方で最後に立ち寄った「道の駅ガレリア」は、ビックリするほど立派な建物にJAの市場の他コンベンションホールや生涯学習施設なども入っていますが、中はひっそりしていて活気がなく、期待して行った「EV充電器」も故障のまま使った形跡もなく、多分行政主導の建物ありきの施設だろうと思うが、リーダーの強い思いがなければ失敗する典型パターンのように見え、
「麒麟が来る」の「麒麟」を強いリーダーとすれば、「麒麟」がなかなか現れない我が国の状況を憂いながら、かつて光秀が亀岡から本能寺へ出陣した老の坂峠から沓掛、桂川沿いに行くルートと同じ、まさしく現在の亀岡ICから沓掛ICを走る京都縦貫高速道を帰路につく閑居老人でした。
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(行程)自宅10:00~30km11:00がんこ駐車場~徒歩(光秀まつり)~12:00亀山城跡~南郷公園~13:00がんこ・楽々荘庭園14:00~4.1km14:30穴太寺(あなおうじ)円応院庭園~2.1km15:30道の駅ガレリア亀岡16:00~30km17:00自宅 走行距離80km、ウォーキング約6km
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車を「がんこ駐車場」に停めて少し歩くと、パレードに出くわす
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亀岡市のゆるキャラ「明智かめまる」が先導
HPによると、「ある日お城の内堀に光秀の娘・玉子(後のガラシャ)が落ちて溺れていたところを、濠に住んでいた亀が助け、光秀はたいそう感謝してその亀を「明智かめまる」と名付けて家来にし可愛がった。かめまるは城主亡き今も、甲羅を兜にしてお城を守っています」 -
「光秀まつり」は、光秀が登場したNHK大河ドラマ「国盗り物語」を機に1973年に始まり今年で51回目、初代丹波亀山城主明智光秀を中心とした総勢200人の勇壮な武者行列を再現する、2024.5.3 11:00、市役所前で出陣式~城下町一帯~南郷公園、2.5kmを約1時間かけて練り歩く
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亀岡高校吹奏楽部
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昨年の関西吹奏楽コンクールで金賞受賞という優秀バンド
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亀岡青年会議所JC
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亀岡商工会議所
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丹波亀山鉄砲隊
丹波亀山藩の武術の主流であった古式火縄銃を、現代に復活し後世に伝えていくために、平成26年(2014年)に結成されたという -
光秀の紋は「桔梗」(ききょう)
桔梗は「更に吉」(さらによし)と縁起が良いことから、他にも太田道潅や加藤清正など多くの武将が使用している -
大丹波手づくり甲冑交流会
「大丹波」とは、かつて「丹波の国」として光秀が統治した京都と兵庫にまたがる7市町(福知山、綾部、亀岡、南丹、京丹波、丹波篠山、丹波)が、平成22年から観光振興を促進している連合名で、その中で「手づくり甲冑交流会」として、亀岡手づくり甲冑会、亀山鉄炮隊、福知山城明智衆、黒井城甲冑隊、長岡京おもてなし武将隊つつじがあるという -
福知山城明智衆
「福知山城」は光秀が1579年に城築、昭和61年に復元された天守閣がある(亀山城は1578年築城) -
黒井城甲冑隊
「黒井城」は、丹波市春日町黒井地域の城山にあった廃城で、戦国時代に築城されたが、1579年光秀に攻められ落城後、斎藤利三が城主となるがその後廃城 -
黒井城甲冑隊、福知山城明智衆、亀岡手づくり甲冑会 勢ぞろい
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亀岡手づくり甲冑会
亀岡光秀まつりに自作の甲冑を着て参加することを目的に、平成20年(2008年)に始まり、平成22年には140の手づくり甲冑が出来上がったという -
全10回の参加で甲冑完成、自己負担は25,000円
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南つつじ太鼓
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武者行列が続く
3回目から一般参加も募集しており、募集するのは光秀や熙子ら7人と武者役数人、外国人枠として光秀の娘婿秀満役で、衣装や馬のレンタル料などとして3千円~10万円の参加料が必要 -
幟行列
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少女武者行列
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明智光秀(1516-1582)
土岐源氏の流れをくむ明智家に誕生、父は斎藤道三に仕えていた、足利義昭の側近から織田信長の家臣となり、比叡山延暦寺焼き討ちでの功績を認められ、近江国滋賀5万石を与えられ坂本城を築城、その後丹波国攻略を任され、亀山城、福知山城、黒井城を築城し信長の重臣となったが、謎の本能寺の変で信長を襲撃、山崎の戦いで秀吉に敗れ断絶 -
明智秀満(1536-1582)別名:光春、左馬助(さまのすけ)
光秀の重臣で右腕的存在、福知山城城主 -
明智治右衛門(1540-1582)別名:光忠
光秀の重臣で、一時亀山城に留守居として入った -
斎藤利三(1534-1582 さいとうとしみつ)
秀満と並ぶ明智氏の筆頭家老として用いられ、丹波黒井城主となった、第3代将軍徳川家光の乳母・春日局の父でもある -
溝尾庄兵衛(1538-1582 みぞおしょうべえ)別名:溝尾茂朝
光秀の流浪時代からの家臣で、光秀の介錯を務めたとされる -
槍隊
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少年武者隊
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大井神社の大井太鼓
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正室・煕子(1530-1576年 ひろこ)
典型的な良妻賢母型で細川ガラシャの母 -
大河ドラマ「麒麟が来る」では木村文乃
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玉子(1563-1600)
光秀の三女で細川忠興の正室、16歳で信長の勧めにより細川忠興の正室となるが、「本能寺の変」で逆臣の娘として冷遇され、丹後の山奥に幽閉されてしまい、心の救いを求めカトリックに入信し「ガラシャ」の洗礼名を受け、その後、関ケ原の戦いで徳川家についた忠興の不在中に石田光成に屋敷を包囲され、自害し38歳の波乱に満ちた短い生涯を終えた、没後約300年の明治29年(1896)にカトリック宮津教会が建立された -
大河ドラマ「麒麟が来る」では芦田愛菜
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亀岡市太鼓連合会
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丹波亀山城
「亀岡市」なのに「亀山城」と呼ばれるのは、亀岡は元々「亀山」と呼ばれていたが、明治2年(1869)の版籍奉還の際に、伊勢亀山(三重県亀山市)との混同をさけるため「亀岡」と改称された為 *版は土地、籍は人民 -
(駒札より)亀山城は、1577~1579年明智光秀による築城に始まり、大きく3期に分け完成した近世平城で、第1期は、光秀の丹波攻略の拠点で、三層の天守を備えていたと伝えられ、第2期は、秀吉の支配下にあった時期で、城下町整備を中心とした小早川秀秋による築城整備、第3期は、最も大規模なもので、園部長盛が藩主のとき、大阪城の包囲網として完成し、明治11年の廃城令で解体されるまで、その後大正8年(1919)荒廃していた城跡を、教団「大本」が買取り、石垣を積み直し整備され、昭和10年の大本弾圧事件で廃城と化したが、戦後同教団によって復興された *「大阪城包囲網」は、家康が豊臣秀頼と西国大名を牽制するため街道封鎖を目的に築いた城で、尼崎城、明石城、姫路城、龍野城、福山城など
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宗教法人「大本」
(HPによると)1892年(明治25)に京都府綾部出身の開祖が始めた神道系の新興宗教宗教で全国信者数7万人という -
立派な建物「みろく会館」で入城受付
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案内板
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こんなところに「エスペラント碑」
エスペラント語は、ポーランド発祥で、世界中の5000以上の言語も尊重しながら国際交流の場では「エスペラント」を使用しようということで始まり、現在全世界100万人、日本l万人の普及と言われる、ここにあるのは、「大本」の教祖が熱心に普及活動をしている為 -
万祥池(内堀跡)
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カキツバタが良く似合う
一般の園芸種でなく国の天然記念物になっている野生種らしい、外側の花びらにカキツバタは白色の筋、 ハナショウブは黄色の筋、 アヤメは網目模様がある -
天恩郷の石碑
城跡は現在、宗教法人大本の所有地になっており、聖地「天恩郷」と呼ばれている、宗教法人が史蹟を守ってくれているのも珍しいが、こういう活動なら大賛成! -
天恩郷(てんおんきょう)亀岡宣教センター
正面は万祥殿(神殿)、周囲に拝殿、客殿、能舞台・茶室「万祥軒」などが建つ -
丹波亀山城・復元図(亀岡商工観光課資料)
城の遺構としては外掘と、石垣の一部のみを残している -
一の門
築城当時の本丸入口 -
廃城・売却の経緯
1877年(明治10年)廃城決定、天守などの建物、石垣すべてを破却、解体し、払い下げが相次ぎ、石垣は大部分は撤去か土中に埋められ、一部は東本願寺再建や、貴族院議員田中源太郎が鉄道敷設のために利用し、以後荒廃した、1919年(大正8年)地元出身の新興宗教・大本が購入し整備を開始、1921年大本弾圧事件勃発(勢力を拡大するあまり天皇制国家にとって無視できない存在として恐れられた)、1935年(昭和10年)第二次大本事件で亀岡町に譲渡され石垣は廃棄、1945年敗戦で所有権は大本に戻り再び再建 -
正面天守台
かつての天守は、現在は宗教法人の聖地となっている -
天守石垣
大部分は1946年に復元された石積み、角の下部分が穴太積みで安土桃山時代のものと推測される -
石垣は、多くの西国大名が夫役として動員されたことを示すものとして、55ヶ所にわたり17種類の刻印がされている
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井戸跡
築城当初の遺構で今でも水が湧いているという -
城郭を出て、南郷公園へ
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城内と城外を分ける外堀
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南郷公園
亀山城の外堀北側は公園になっている -
南郷池
外堀は南郷池と呼ばれ、ギンヤンマやシオカラトンボなど40種類のトンボが生息するトンボの楽園になっている -
難攻不落!緻密なお城づくり
丹波亀山城の堀は、内堀、外堀、惣堀(最も外側の堀)と三重になっており、敵が容易に近づけないよう、道を屈曲させたり、丁字路、喰い違い、鉤(かぎ)の手など強固に守られている -
明智光秀像と両サイドには亀山城天守にあった鯱(しゃち)瓦がある
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本能寺の変で謀反人のイメージが強いが、地元では氾濫の多かった川の治水工事や、地子銭(じしせん)と呼ばれた税金を免除したりするなどの善政を行なった名君であり、また生涯側室を持たなかった愛妻家として親しまれる
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南郷公園が武者行列の終点で、12:30行列を終えた参加者が続々返ってくる
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南郷公園から行列に参加した人と並び、歩いてランチ処へ
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ランチは「がんこ亀岡・楽々荘庭園」を予約
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楽々荘(がんこ亀岡)の由来
楽々荘は嵯峨野トロッコ列車が走る旧山陰本線を敷設したことなどで知られる明治大正時代の政治家・田中源太郎の生家で、庭園は植木職人7代目・小川治兵衛(通称、植治)によるもので、楽々荘が完成した明治33年頃に作庭され、戦後「保津川観光ホテル楽々荘」なり、長年ホテルとレストランとして運営されてきたが、平成30年(2018)に「がんこ京都亀岡」が運営を引き継ぐ -
田中源太郎(1853-1922)は、幕末の亀岡藩の商家に生まれ、京都銀行の前身「亀岡銀行」の設立をはじめ「京都電燈株式会社」「京都鉄道株式会社」など30もの事業を展開し、その後は政治家として衆議院議員・貴族院議員なども務め、生家を現在も残る洋館と豪勢な和館に拡張するも、自ら開業させた山陰本線に乗車中保津峡での脱線事故に巻き込まれ逝去69歳
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がんこのお屋敷シリーズは9店
高瀬川二条苑(角倉了以)、池田石橋苑(中井梅太郎)、平野郷屋敷(豪商辻元家)、宝塚苑、和歌山六三園、三田の里、たちかわ茶寮、新宿山野愛子邸(2024.6.23閉店)、岸和田五風荘(2018年まで) -
庭園を見ながらのランチのつもりで予約したが、本日はお祭りで残念ながら満杯
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前菜箱、造り、天ぷら、茶碗蒸し
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季節のセイロ飯、赤だし
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コーヒー、デザート
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食事後、庭園を見学
楽々荘の建物は、明治31年頃に建てられ、本館は煉瓦造りの洋館、書院造りの和館は迎賓館として使われ、洋館と和館の前には650坪の庭園が広がり、洋館・和館・玄関の3棟は国登録有形文化財、庭園は七代目小川治兵衛(植治)作庭で京都府指定名勝 -
七代目小川治兵衛(植治)は、平安神宮や円山公園、無鄰菴をはじめとした南禅寺界隈の別荘群の庭園を作庭した明治~大正の近代期を代表する作庭家で、自然な景観を取り入れた明るく開放的な庭が特徴で、当然この楽々荘も同じ匂いがする
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洋館を左手に進むと、庭園に入る
建物からすり鉢のように低く造られた池泉回遊式庭園とあるが、回遊は出来ない -
「保津峡の絶景に見立てた池泉回遊式すり鉢状庭園」と解説しているが、借景のハズの丹波富士はなく、高いビルがあるのは残念!
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建物前の樹齢360年の松が庭のシンボル
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奥に進むとお稲荷さんがある
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お稲荷さん入り口にある灯篭は、亀山城から移設した秀吉の紋入りの春日灯籠
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中央に青紅葉に隠れているが中島に渡る木橋があり、中島には鶴亀に見立てた松がある、左が鶴松、右が亀松
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奥には枯滝石組があるが、植栽が伸びて見えない
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庭園から建物を見ると、和館よりもミントブルー(明るい青緑)のコロニアル様式(中央にポーチがつき、その両側に窓が均等に配置され、ベランダがある)の洋館が目を引く
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楽々荘から4km走って、「穴太寺」へ
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「穴太寺」(あなおうじ)
平城京が成立する直前の705年、文武天皇の勅願により大伴古麻呂(大伴旅人の甥)が開創したとされる、平安~鎌倉時代には三十三所観音霊場として挙げられるようになり、室町時代には足利将軍家に庇護され、荒廃後、江戸時代中期に再興、伽藍や庭園はその際に造られたもの -
歴史が古いだけに「身代わり観音」「安寿と厨子王丸」などの伝説が残る、「身代わり観音」は、聖観音像を造ってもらった仏師にお礼に名馬を与えたが、後で惜しくなって仏師を弓矢で殺してしまい、後で確認すると聖観音像の胸に矢が刺さって仏師は健在だったという「聖観音像」を祀る
「安寿と厨子王丸」は、山椒太夫に捕らえられ安寿が厨子王丸を逃がし、姉から渡された地蔵菩薩が厨子王の身を護り無事都へ上るが、その時厨子王丸をかくまった寺の一つが穴太寺で、のちに厨子王丸が穴太寺に奉納し供養したと伝えられる「厨子王丸肌守御本尊」を祀る -
「多宝塔」は、江戸時代後期に再建、高さ13mで京都府指定文化財
白い花が固まって存在感のある大木は、寺社などで良く見かけるので調べると、「ヒトツバタゴ」通称「なんじゃもんじゃ」と呼ぶらしい、名前が分からなかったので「何の木じゃ?」と呼ばれている内にいつのまにか「なんじゃもんじゃ」という名前になったらしい -
「本堂」は、江戸時代中期に再建、鎌倉時代の作とされる木造釈迦涅槃像(なで仏)が安置されており、病のある部分と同じ箇所を触ると病気が治ると伝わる、京都府指定文化財
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「円応院」(本坊)
江戸時代前期に再建、庫裏・方丈は亀岡市指定有形文化財 -
「円応院」庭園
庭園は、江戸時代中期の池泉鑑賞式庭園で、石組とサツキ・ツツジの刈込が見事、京都府指定名勝 -
お座敷から四季折々の季節の移ろいを眺めるのにピッタリ!
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表側にも露地庭があり、こちらも四季折々の景色が眺められるから素晴らしい!
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多宝塔を借景にした庭園で、左手の刈込みによる生垣と、右手の大木に挟まれ、前に枯滝石組の築山と池を配した構図は安定感があり落ち着く!
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築山の枯滝石組は三尊石になっており、中央の中尊石と手前池の岩島の存在感が目立つ
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右手の石橋は、亀島に架かっており、先端の白石が亀頭石になっている
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舟石がいかにも船っぽい
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道の駅ガレリア亀岡へ
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ガレリア朝市
朝市でも17:00までやっており、地元農家の旬の野菜の他、寿司や団子、餅、漬物など販売
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