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川越八幡宮<br />前回掲載した川越熊野神社から南に向かい、小江戸蔵里ききざけ処 昭和蔵を過ぎてから左に入り、八幡通りを南下すると川越市南通町に鎮座する川越八幡宮の裏参道に至ります、徒歩での移動時間は15分程。

川越八幡宮

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2023/09/25 - 2023/09/25

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kimi shinさん

川越八幡宮
前回掲載した川越熊野神社から南に向かい、小江戸蔵里ききざけ処 昭和蔵を過ぎてから左に入り、八幡通りを南下すると川越市南通町に鎮座する川越八幡宮の裏参道に至ります、徒歩での移動時間は15分程。

旅行の満足度
3.0
観光
3.0
交通
2.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
新幹線 JRローカル 徒歩

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  • 川越八幡宮<br />前回掲載した川越熊野神社から南に向かい、小江戸蔵里ききざけ処 昭和蔵を過ぎてから左に入り、八幡通りを南下すると川越市南通町に鎮座する川越八幡宮の裏参道に至ります。<br />社頭右脇に新富町2丁目の鏡獅子の山車を保管する山車庫が建っています。

    川越八幡宮
    前回掲載した川越熊野神社から南に向かい、小江戸蔵里ききざけ処 昭和蔵を過ぎてから左に入り、八幡通りを南下すると川越市南通町に鎮座する川越八幡宮の裏参道に至ります。
    社頭右脇に新富町2丁目の鏡獅子の山車を保管する山車庫が建っています。

  • 川越八幡宮裏参道全景。<br />左に社標、石畳の参道の少し先に石の明神鳥居を構えています。

    川越八幡宮裏参道全景。
    左に社標、石畳の参道の少し先に石の明神鳥居を構えています。

  • 最初に境内に掲げられた由緒を挙げておきます。<br /><br />川越八幡宮由緒<br />「・御祭神 譽田別命(応神天皇)<br />・鎮座地 川越市南通町19番地1(旧脇田町)<br />・例祭日 5月4日(春季例祭)、10月14日(秋季例祭)<br />由緒<br />・第68代 後一条天皇の御代の長元3年(1030)、甲斐守 源頼信により創祀。<br />・長元元年(1028)、下総国(千葉)城主 前上総介平忠常が朝廷に謀反を企て、安房、上総、下総の3カ国を従い、武蔵国に攻め入りました(長元の乱)。<br />・これを憂慮した朝廷は、長元3年(1030)甲斐守源頼信に平忠常追討の倫旨を下した。<br /> 命を受けた頼信は、この地で必勝祈願をし、三日三夜にわたる戦の末に乱を平定、宿願を果たした頼信は現在の大分県宇佐八幡宮(八幡宮本社)より勧請し八幡宮を創祀した事がおこり。<br />・頼信は同時期に東松山市箭弓稲荷神社の社殿も造営する。<br />・長禄元年(1457)、川越城が築城され、太田道真、道灌は当神社の分霊を城内の守護神として奉斎、歴代城主から崇敬された。<br />・天正18年(1590)以来、城主 酒井氏一族の崇敬は篤く、社殿の造営、神田、神宝の寄進が相次いだ。<br />ました。酒井氏は国替後も崇敬を加え、しばしば改築費、修繕費等を奉納しました。<br />・文化9年(1812)7月1日、姫路城主・酒井雅楽頭源朝臣忠衛は御神号「河越八幡宮」(向鳩文字)の額と掛物一幅を奉納、これにより寛永2年(1625)には、徳川家光公が日光社参の折、酒井備後守忠利が道中安泰の祈願をし、その功により葵紋付祭器具の寄進がありました。<br />・明治維新の際、別当万蔵寺を廃寺し、川越城主の領する地の人々は当宮を氏神として崇敬した。<br />御神徳<br />・八幡の神は数多く、全国八万社のうち分霊社は一万五千社を超え、九州宇佐八幡宮である。<br />・御祭神は第十五代天皇の応神天皇で、母親の神功皇后と共に大陸文化を日本に取り入れ、日本文化の興隆をはかられた。<br />・八幡神は後の源氏が氏神として、崇敬武運長久の神、勝負の神として広く崇敬されるようになる。<br />・応神天皇は神功皇后に抱かれる嬰児の姿で表現され、母子神の信仰、即ち母が子を抱きかかえ、これを大切にし、自分の子(応神天皇)を自分の替りとしてこの世に下された姿である。<br />・八幡様の信仰は母が子を抱きかかえた慈愛を以てこれを育み育てる大愛を本願とするもので、母の愛こそは純の純たるもので八幡信仰の基である。<br />年間祭事<br />・1月1日 歳旦祭・5月4日 春季例祭・6月30日 夏季大祓・10月14日 秋季例祭・12月最終日曜 大祓」<br /><br />小江戸川越の初日の予定はここ川越八幡宮で締めくくる。<br />先に訪れた仙波東照宮はこの川越八幡宮の境外末社だという。<br />由緒にあるように創建が長元3年(1030)と長い歴史を誇り、必勝祈願や合格祈願、縁結びに目の病にも御利益があるとされ、そうした御利益を授かりに参拝客で賑わうそうだ。<br /><br />参拝当日の境内は修繕工事中で、工事車両、作業に追われる職人さんの姿が多く、2030年の創建1000年大祭に向けて境内・社殿が一新されているようで、どこを見渡しても古めかしさは感じられなかった。

    最初に境内に掲げられた由緒を挙げておきます。

    川越八幡宮由緒
    「・御祭神 譽田別命(応神天皇)
    ・鎮座地 川越市南通町19番地1(旧脇田町)
    ・例祭日 5月4日(春季例祭)、10月14日(秋季例祭)
    由緒
    ・第68代 後一条天皇の御代の長元3年(1030)、甲斐守 源頼信により創祀。
    ・長元元年(1028)、下総国(千葉)城主 前上総介平忠常が朝廷に謀反を企て、安房、上総、下総の3カ国を従い、武蔵国に攻め入りました(長元の乱)。
    ・これを憂慮した朝廷は、長元3年(1030)甲斐守源頼信に平忠常追討の倫旨を下した。
     命を受けた頼信は、この地で必勝祈願をし、三日三夜にわたる戦の末に乱を平定、宿願を果たした頼信は現在の大分県宇佐八幡宮(八幡宮本社)より勧請し八幡宮を創祀した事がおこり。
    ・頼信は同時期に東松山市箭弓稲荷神社の社殿も造営する。
    ・長禄元年(1457)、川越城が築城され、太田道真、道灌は当神社の分霊を城内の守護神として奉斎、歴代城主から崇敬された。
    ・天正18年(1590)以来、城主 酒井氏一族の崇敬は篤く、社殿の造営、神田、神宝の寄進が相次いだ。
    ました。酒井氏は国替後も崇敬を加え、しばしば改築費、修繕費等を奉納しました。
    ・文化9年(1812)7月1日、姫路城主・酒井雅楽頭源朝臣忠衛は御神号「河越八幡宮」(向鳩文字)の額と掛物一幅を奉納、これにより寛永2年(1625)には、徳川家光公が日光社参の折、酒井備後守忠利が道中安泰の祈願をし、その功により葵紋付祭器具の寄進がありました。
    ・明治維新の際、別当万蔵寺を廃寺し、川越城主の領する地の人々は当宮を氏神として崇敬した。
    御神徳
    ・八幡の神は数多く、全国八万社のうち分霊社は一万五千社を超え、九州宇佐八幡宮である。
    ・御祭神は第十五代天皇の応神天皇で、母親の神功皇后と共に大陸文化を日本に取り入れ、日本文化の興隆をはかられた。
    ・八幡神は後の源氏が氏神として、崇敬武運長久の神、勝負の神として広く崇敬されるようになる。
    ・応神天皇は神功皇后に抱かれる嬰児の姿で表現され、母子神の信仰、即ち母が子を抱きかかえ、これを大切にし、自分の子(応神天皇)を自分の替りとしてこの世に下された姿である。
    ・八幡様の信仰は母が子を抱きかかえた慈愛を以てこれを育み育てる大愛を本願とするもので、母の愛こそは純の純たるもので八幡信仰の基である。
    年間祭事
    ・1月1日 歳旦祭・5月4日 春季例祭・6月30日 夏季大祓・10月14日 秋季例祭・12月最終日曜 大祓」

    小江戸川越の初日の予定はここ川越八幡宮で締めくくる。
    先に訪れた仙波東照宮はこの川越八幡宮の境外末社だという。
    由緒にあるように創建が長元3年(1030)と長い歴史を誇り、必勝祈願や合格祈願、縁結びに目の病にも御利益があるとされ、そうした御利益を授かりに参拝客で賑わうそうだ。

    参拝当日の境内は修繕工事中で、工事車両、作業に追われる職人さんの姿が多く、2030年の創建1000年大祭に向けて境内・社殿が一新されているようで、どこを見渡しても古めかしさは感じられなかった。

  • 鳥居をくぐり石畳の参道を進む。<br />両脇には朱の奉納燈籠が立ち並び、夕方になると明りが灯されるという。

    鳥居をくぐり石畳の参道を進む。
    両脇には朱の奉納燈籠が立ち並び、夕方になると明りが灯されるという。

  • 裏参道に入った左にピカピカの境内社二社が祀られている。

    裏参道に入った左にピカピカの境内社二社が祀られている。

  • 稲荷神社。<br />祭神は倉稲魂神、稲に宿る神霊で五穀豊穣をもたらし、稲1粒から多くの実りをもたらすことから、商売繁盛の神として広く崇敬されている。

    稲荷神社。
    祭神は倉稲魂神、稲に宿る神霊で五穀豊穣をもたらし、稲1粒から多くの実りをもたらすことから、商売繁盛の神として広く崇敬されている。

  • 左は川越三峯神社。<br />明治元年(1868)に三峯山の遥拝所として創建されたもの。<br />祭神は伊弉諾命、伊奘冉命の二柱。<br />三峯神社は江戸時代後期に参拝が流行し、川越からも多くの人々が秩父・三峯神社を詣でたとされます。<br />川越八幡宮創建一千年大祭の一環として、新たに整備されたものといい、運気上昇、家内安全、商売繁盛、良縁の神様として親しまれているといいます。<br /><br />右後方に見えているのが川越八幡宮本殿で、こちらも綺麗に改修され、金色の飾り金具が施された外削ぎ千木に5本?の鰹木が輝いていた。

    左は川越三峯神社。
    明治元年(1868)に三峯山の遥拝所として創建されたもの。
    祭神は伊弉諾命、伊奘冉命の二柱。
    三峯神社は江戸時代後期に参拝が流行し、川越からも多くの人々が秩父・三峯神社を詣でたとされます。
    川越八幡宮創建一千年大祭の一環として、新たに整備されたものといい、運気上昇、家内安全、商売繁盛、良縁の神様として親しまれているといいます。

    右後方に見えているのが川越八幡宮本殿で、こちらも綺麗に改修され、金色の飾り金具が施された外削ぎ千木に5本?の鰹木が輝いていた。

  • 三峯神社の左に安置されている「ぐち聞き様」<br />よく聞く「10人の話を同時に聞き分けた」とされる聖徳太子の姿を現しており、苦しみや悩みを持つ人々の声を聴き、救いを与え人々の拠り所となったという。<br />身近のどこぞに口だけで、聞く耳を持たぬ権力者がいるが、ぐち聞き様から見れば「一緒にするな!」とお叱りを受けそうだ。<br />ぐち聞き様には、国を指揮者や利権にまみれた国民の代表に対するモヤモヤした愚痴を聞いてもらい、ほんの少しスッキリとした?

    三峯神社の左に安置されている「ぐち聞き様」
    よく聞く「10人の話を同時に聞き分けた」とされる聖徳太子の姿を現しており、苦しみや悩みを持つ人々の声を聴き、救いを与え人々の拠り所となったという。
    身近のどこぞに口だけで、聞く耳を持たぬ権力者がいるが、ぐち聞き様から見れば「一緒にするな!」とお叱りを受けそうだ。
    ぐち聞き様には、国を指揮者や利権にまみれた国民の代表に対するモヤモヤした愚痴を聞いてもらい、ほんの少しスッキリとした?

  • 民部稲荷神社。<br />裏参道から境内に出た左側に鎮座し、足腰の健康に御利益があるとされる。

    民部稲荷神社。
    裏参道から境内に出た左側に鎮座し、足腰の健康に御利益があるとされる。

  • こちらの見世棚造りの社殿も、立て替えから間もない様で全てが新しい。<br />「相撲稲荷」とも呼ばれ、「足腰の健康」に御利益があるとされ、アスリートからも崇敬されているという。<br />大正6年に出版された三芳野名勝図会に宮部稲荷社として記載があり、そこには言い伝えが記されていました。<br />「その昔、八王子の山寺辺りに住んでいた老狐は、民部と名のり人に化けて暮らしていた、ある時老僧に正体を知られ、民部は入間郡川越の梵心山に移り住むことなった。<br />去るにあたって老僧に捻挫や打ち身などの手当の仕方を教え八王子を去っていった」との言い伝えが記されている。<br />寛永年中(1624~1644)には民部稲荷と称されていたようで、ここで云う梵心山は現在の新富町2丁目にあたるという、後に川越八幡宮境内に遷されたようです。<br />祭神は倉稲魂神。

    こちらの見世棚造りの社殿も、立て替えから間もない様で全てが新しい。
    「相撲稲荷」とも呼ばれ、「足腰の健康」に御利益があるとされ、アスリートからも崇敬されているという。
    大正6年に出版された三芳野名勝図会に宮部稲荷社として記載があり、そこには言い伝えが記されていました。
    「その昔、八王子の山寺辺りに住んでいた老狐は、民部と名のり人に化けて暮らしていた、ある時老僧に正体を知られ、民部は入間郡川越の梵心山に移り住むことなった。
    去るにあたって老僧に捻挫や打ち身などの手当の仕方を教え八王子を去っていった」との言い伝えが記されている。
    寛永年中(1624~1644)には民部稲荷と称されていたようで、ここで云う梵心山は現在の新富町2丁目にあたるという、後に川越八幡宮境内に遷されたようです。
    祭神は倉稲魂神。

  • 夫婦イチョウ。<br />民部稲荷神社の右に聳えるイチョウの老木で、昭和8年、川越八幡宮の神職により男イチョウと女イチョウ2本を植樹しました。<br />その木はやがて根元で寄り添いひとつとなって固く結ばれ、空に向かって聳える2本の大イチョウの御神木となったもの。<br /><br />こうした連理木は夫婦や家族を象徴するものとして、縁結びや夫婦・家庭円満を祈願し崇められる。<br />連理木に限らず、街角でフェンスと一体になった樹など、想像を絶する光景を目にする時があります。<br />自然の逞しさを感じるとともに、自然から励まされているように感じる時でもある。

    夫婦イチョウ。
    民部稲荷神社の右に聳えるイチョウの老木で、昭和8年、川越八幡宮の神職により男イチョウと女イチョウ2本を植樹しました。
    その木はやがて根元で寄り添いひとつとなって固く結ばれ、空に向かって聳える2本の大イチョウの御神木となったもの。

    こうした連理木は夫婦や家族を象徴するものとして、縁結びや夫婦・家庭円満を祈願し崇められる。
    連理木に限らず、街角でフェンスと一体になった樹など、想像を絶する光景を目にする時があります。
    自然の逞しさを感じるとともに、自然から励まされているように感じる時でもある。

  • 上の写真は名古屋市北区金城鎮座「多奈波太神社」境内の乳イチョウの「乳垂」<br /><br />こうした大イチョウには木肌からこぶのような突起物が生まれ、その形態が乳房と似ていることから「乳」や「乳垂」と呼ばれ、母乳を授けてくれる象徴として女性から崇敬されます。<br />川越八幡宮の夫婦イチョウにも「乳」が生成され、手に触れたり、手を合わせると良縁に巡り逢えると言われているという。

    上の写真は名古屋市北区金城鎮座「多奈波太神社」境内の乳イチョウの「乳垂」

    こうした大イチョウには木肌からこぶのような突起物が生まれ、その形態が乳房と似ていることから「乳」や「乳垂」と呼ばれ、母乳を授けてくれる象徴として女性から崇敬されます。
    川越八幡宮の夫婦イチョウにも「乳」が生成され、手に触れたり、手を合わせると良縁に巡り逢えると言われているという。

  • 境内から表参道の眺め。<br />東西に長い社地、社殿は社地西側に建てられ東向きに鎮座し、拝殿前のニノ鳥居と社頭に一ノ鳥居の二つを構えています。<br />鳥居左手に手水舎、境内北側が社務所・授与所になっており、表参道右脇に神楽殿が主な建物。

    境内から表参道の眺め。
    東西に長い社地、社殿は社地西側に建てられ東向きに鎮座し、拝殿前のニノ鳥居と社頭に一ノ鳥居の二つを構えています。
    鳥居左手に手水舎、境内北側が社務所・授与所になっており、表参道右脇に神楽殿が主な建物。

  • 「八幡宮」の額が掛かるニノ鳥居から拝殿の眺め。

    「八幡宮」の額が掛かるニノ鳥居から拝殿の眺め。

  • こちらを訪れたのは9/25、この時は手水鉢に花が浮かべられ、花手水で出迎えてくれた。<br />はるばる遠方から訪れた者にはこの花手水は嬉しいもの。

    こちらを訪れたのは9/25、この時は手水鉢に花が浮かべられ、花手水で出迎えてくれた。
    はるばる遠方から訪れた者にはこの花手水は嬉しいもの。

  • 入母屋銅葺の拝殿には千鳥破風と唐破風向拝が施されている。<br />拝殿前には二対の狛犬が守護する。

    入母屋銅葺の拝殿には千鳥破風と唐破風向拝が施されている。
    拝殿前には二対の狛犬が守護する。

  • 昭和58年(1983)寄進の狛犬。

    昭和58年(1983)寄進の狛犬。

  • その先の狛犬はかなりのキャリアを感じさせる風貌で、嘉永6年(1853)に寄進されたもの。

    その先の狛犬はかなりのキャリアを感じさせる風貌で、嘉永6年(1853)に寄進されたもの。

  • 向拝に施された彩色も色鮮やか。

    向拝に施された彩色も色鮮やか。

  • 八幡さんと云えば鳩がつきものですが裏参道やニノ鳥居の額には見慣れた鳩の姿はありません。<br />代わりと云ってはおかしいけれど、裏参道の鳥居の島木の上などに羽を休める石の鳩が見られます。<br />鳩は一羽だけではないようなので「隠れ鳩」探して見ては。

    八幡さんと云えば鳩がつきものですが裏参道やニノ鳥居の額には見慣れた鳩の姿はありません。
    代わりと云ってはおかしいけれど、裏参道の鳥居の島木の上などに羽を休める石の鳩が見られます。
    鳩は一羽だけではないようなので「隠れ鳩」探して見ては。

  • 拝殿右からの眺め。

    拝殿右からの眺め。

  • 現在の拝殿・幣殿・本殿は昭和48年(1973)から2年をかけ新築され、昭和51年に竣工したもので、この際に拝殿と本殿を結ぶ幣殿が新たに建てられたと聞きます。

    現在の拝殿・幣殿・本殿は昭和48年(1973)から2年をかけ新築され、昭和51年に竣工したもので、この際に拝殿と本殿を結ぶ幣殿が新たに建てられたと聞きます。

  • 拝殿横の厄除け(桃)の神様。<br />由来(HPより)<br />「古来より、桃は魔除けの果実として崇められており、昔話の桃太郎の鬼退治も魔を祓う桃の霊力に由来します。<br />日本神話『古事記』の中でも伊弉諾命が魔物を追い払う際に桃を投げる様子が描かれています。<br />このため、桃はのちに意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)という名の神様になったと記されています。」<br /><br />この参道正面にモダンなモニュメントの「目の神さま」があるが、当日はこれ以上進めなかった。<br />大国主命と少彦名命を祀り、「眼病平癒」の御利益があるという。

    拝殿横の厄除け(桃)の神様。
    由来(HPより)
    「古来より、桃は魔除けの果実として崇められており、昔話の桃太郎の鬼退治も魔を祓う桃の霊力に由来します。
    日本神話『古事記』の中でも伊弉諾命が魔物を追い払う際に桃を投げる様子が描かれています。
    このため、桃はのちに意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)という名の神様になったと記されています。」

    この参道正面にモダンなモニュメントの「目の神さま」があるが、当日はこれ以上進めなかった。
    大国主命と少彦名命を祀り、「眼病平癒」の御利益があるという。

  • 菅原神社。<br />名が示すように菅原道真公をお祀りするもので、平安時代の学者・歌人として知られ、学問の神さまとして、誰しも訪れたことのある神様だと思います。<br />絵馬掛けには其々の願いが書かれた絵馬が掛けられていた。

    菅原神社。
    名が示すように菅原道真公をお祀りするもので、平安時代の学者・歌人として知られ、学問の神さまとして、誰しも訪れたことのある神様だと思います。
    絵馬掛けには其々の願いが書かれた絵馬が掛けられていた。

  • 上は今回訪れた川越の町、左は大正、右がほゞ現在のマップに今回訪れた社寺の一部を示してあります。<br />明治26年の川越大火で焼失した時の鐘の南にあたり、川越八幡宮や熊野神社の由緒に被災の記述は出てこなかったことから、火の手もここまで迫ってこなかったようです。<br />今や小江戸川越の玄関口は古い街並みと新しく建ったビルや住宅がひしめき合う、川越八幡宮は駅から一番近い古社のようだ。<br /><br />川越八幡宮<br />創建 / 長元3年(1030)<br />祭神 / 応神天皇<br />境内社 / 川越三峯神社、稲荷神社、菅原神社、民部稲荷神社、<br />境外社 / 仙波東照宮<br />所在地 / 埼玉県川越市南通町19-3<br />参拝日 / 2023/09/25<br />川越熊野神社から川越八幡宮徒歩移動 / 南へ1㌔約15分

    上は今回訪れた川越の町、左は大正、右がほゞ現在のマップに今回訪れた社寺の一部を示してあります。
    明治26年の川越大火で焼失した時の鐘の南にあたり、川越八幡宮や熊野神社の由緒に被災の記述は出てこなかったことから、火の手もここまで迫ってこなかったようです。
    今や小江戸川越の玄関口は古い街並みと新しく建ったビルや住宅がひしめき合う、川越八幡宮は駅から一番近い古社のようだ。

    川越八幡宮
    創建 / 長元3年(1030)
    祭神 / 応神天皇
    境内社 / 川越三峯神社、稲荷神社、菅原神社、民部稲荷神社、
    境外社 / 仙波東照宮
    所在地 / 埼玉県川越市南通町19-3
    参拝日 / 2023/09/25
    川越熊野神社から川越八幡宮徒歩移動 / 南へ1㌔約15分

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