2023/09/25 - 2023/09/25
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kimi shinさん
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川越氷川神社の社頭前を横切る県道51号線を西に向かう、10分も歩けば観光客で賑わう蔵造りの町並みに続く県道12号線が交わる三叉路に突き当たります。
三叉路を左に進んだ県道12号線沿いの喜多町に、趣のある山門を構えて鎮座する広済寺が現れます。
この辺りは倉造りの町並み群から少し北に離れるため、県道沿いを歩く人波はさほどでもない。
- 旅行の満足度
- 2.5
- 観光
- 2.5
- グルメ
- 2.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 高速・路線バス 新幹線 JRローカル 徒歩
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川越氷川神社の社頭前を横切る県道51号線を西に向かう、10分も歩けば観光客で賑わう蔵造りの町並みに続く県道12号線が交わる三叉路に突き当たります。
三叉路を左に進んだ県道12号線沿いの喜多町に、趣のある山門を構えて鎮座する広済寺が現れます。
この辺りは倉造りの町並み群から少し北に離れるため、県道沿いを歩く人波はさほどでもない。
広済寺山門全景。
広済寺の伽藍は県道から少し奥まって山門を構え、境内右手に鐘楼と地蔵堂、正面に寄棟瓦葺の本堂、左手に金毘羅堂が主な伽藍。
早く倉造りの町並みに向かいたいかみさん。
山門のみ写真に収めてくる間少し待ってもらい、山門と境内を眺める事に。 -
山門は妻切り瓦葺の四脚門に潜戸が両脇に付き、右側の脇塀はなく境内が外から良く見通せる。
伽藍は東向きに配置されているため、午後を過ぎると西陽が強くなり逆光は避けて通れない。 -
直前に訪れた氷川神社にくらべると実に閑静な佇まい。
倉造りの町並みを目指し歩く人は絶えないが、意外に訪れる観光客は少ないので穴場かもしれない。
広済寺の正式名称は山号を青鷹山、院号は慈願院と号する曹洞宗の寺院。
伽藍から受ける印象は、山門意外さほど歴史を感じさせないかも知れないが、なかなかの歴史を誇る寺院。
江戸時代の中島孝昌(1766~1808)により纏められた川越の地誌「三芳野名勝図会」にもその名は記されている。
開山は天文17年(1548)広庵芸長、北条氏康・氏政・氏直の3代に仕えた川越城城主大導寺駿河守政繁が菩提寺として開基とある。
本尊は釈迦如来坐像で脇侍を文殊、普賢菩薩が務める。
また、境内の墓地には中島孝昌の墓地もあり、埼玉県の旧跡に指定されている。 -
山門の木鼻蟇股には躍動感のある獅子の姿も施されています。
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山門の山号額「青鷹山」
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山門から眺める唐破風向拝が付く本堂の眺め。
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境内右側の鐘楼と地蔵堂。
梵鐘には明和元年(1764)の銘がある。
右の地蔵堂には二体の地蔵と石仏が安置され、左の地蔵は顎がない「あごなし地蔵」と呼ばれる虫歯や歯痛にご利益があるという。
右側の一体は縄で縛られた異様な姿の咳地蔵尊で「しゃぶきばあちゃん」と呼ばれるそうです。
「しゃぶき」の語源は「しわぶき」が訛ったもので、古い言葉の咳を意味するそうで、咳や喘息などに苦しむ人にはご利益があるという。
祈願をする人は縄で縛り、完治したら縄を取り、お茶や金平糖を供えるのが作法とか。
地蔵堂の地蔵の姿と右の祠は帰り際と思いながら撮り忘れていた。 -
金毘羅宮全景。
山門をくぐった境内左側に明治33年(1900)に寄進された金毘羅宮の石の明神鳥居がある。
金刀比羅宮の社殿は鳥居から右に参道が折れ、その先に瓦葺の入母屋拝殿と幣殿・本殿が一体となり、拝殿の左右に楽の間が付属するもので、川越市の有形文化財に指定されている。
三芳野名勝図会から詳細に目を通すが、「金比羅祠」とだけ記されていただけだった。
川越市解説を調べると金毘羅宮の由緒が公開されていました。
「金比羅堂は、安永9年(1780)鴨町の若林宇右衛門と源七が願主で、当山18世大享和尚の代に勧請されたが、文化13年(1816)に焼失し、文化15年(1818)に遷宮された。
現在は、本殿、幣殿、拝殿、楽の間からなる複合建築となっている。
幣殿と向拝付拝殿は天保10年(1839)に増築。
楽の間は、幣殿・拝殿建立後の増築(嘉永4年以降)と考えられる。
本殿は、正面3間側面2間の切妻造桟瓦葺屋根で、二重切石の積基壇の上に建ち、正面側に幣殿が接続している。
内部は1室で、内陣は須弥壇(しゅみだん)が設けられ、組物は極彩色、虹梁と木鼻、正面の階段は朱塗り、須弥壇の框・棚板・束などは黒塗りが施されて華やかである。
須弥壇脇の杉戸と框下には江野楳雪(1812?~1873)による鳳凰図と唐獅子図が描かれている。
幣殿は、正面3間側面2間の両下造で、内部は1室で両側面に連子(れんじ)付の花頭窓が付き、本殿側と拝殿側は吹き放ちとし、本殿側に木階(きざはし)2級を据えている。
拝殿は、正面3間側面2間の入母屋造。
正面に唐破風造銅板葺の向拝1間が付き、背面は幣殿、両側面は楽の間に接続する。
内部の天井は中央を鏡天井、四周を小組格天井(こぐみごうてんじょう)として、鏡板は谷文二(?~1850 谷文晁の次男)による雲竜図が描かれている。
唐破風造の向拝には多くの建築彫刻が施され、虹梁型頭貫(かしらぬき)の木鼻は、獅子と象、根肘木は籠彫りで波の中に鯉が潜んでいる。
虹梁上には親子の竜の彫物、唐破風の妻面は雲と麒麟、兎毛通(うのけどおし)に鳳凰が飾られている。
向拝内部の鏡天井には、谷文晁(1763~1840)による竜図が描かれ、「天保十年己亥六月日 文晁画」と記されている。」
とても丁寧に解説されており、先を急ぐあまり見落としているかもしれないが、現地にこれを掲示して欲しいと願う。
なぜかと云えば参拝時に向拝天井を見上げず龍の姿を見逃していた。 -
拝殿全景。
訪れた際には拝殿唐破風向拝の天井に視線を向けて見てください。 -
金毘羅宮の狛犬は毬と子持ちのもので嘉永七年(1854)十月寄進のもので、提灯の羽団扇は狛犬の台座にも刻まれていました。
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拝殿から本殿方向の眺め。
広済寺境内にはっきりと区切られることなく鎮座する金毘羅宮、神仏分離の荒波から免れたものか。
金毘羅宮
創建 / 安永9年(1780)
祭神 / 金毘羅大権現(大物主命?) -
寄棟瓦葺の唐破風向拝を施した本堂。
伸びやかに延びる屋根の線は寄棟造ならではのもの。
伽藍は享保年間の火災で焼失、その後黙元和尚により再興されました。 -
本堂に掲げられている額は「廣済寺」
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向拝蟇股に施されている彫飾りは赤い目の龍。
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木鼻には獅子が彫られている。
三芳野名勝図会には境内に稲荷社・白山社・三峯社など有りと記されていたが駆け足で見て廻った限り目にしなかったがじっくり見て廻るとあるのかもしれない。
広済寺
山号 / 青鷹山
院号 / 慈願院
宗派 / 曹洞宗
開山 / 広庵芸長(こうあんうんちょう)
開基 / 天文17年(1548)大道寺駿河守政繁
本尊 / 釈迦如来
所在地 / 埼玉県川越市喜多町5-1
川越氷川神社から徒歩で広済寺 / 社頭から西に10分程 -
広済寺の前を通る県道12号線。
県道沿いに蔵造りの町並み方向の南に向かう。
蔵造りの町屋がチラホラ見えるようになると歩道の人波が徐々に増え、観光客向けの店が軒を連ねる。
ここまで来ると歩道は人で溢れ車道も歩道もない状態。
県道を走る路線バスも気が抜けない、道行く人の多くは海外からの観光客が多かった。
平日でもこの光景、観光客目当ての店舗や宿泊業を営む者にとっては嬉しい忙しさが戻ってきたという事で喜ばしい。
一方で地元に住む者や国内の観光客からみればどの店に入っても大陸系の観光客で溢れ、ホテルも高くなり素直に喜ばしいとは思えない。
次の目的地は川越のシンボル時の鐘を目指します。
県道沿いの「時の鐘入口」の看板で左に曲がり「鐘つき通り」に進みます。 -
県道から東に入り人波は少しは…
正面に見える時の鐘、川越のシンボルだけにカメラはこれ以上下に向けられない程賑わっていた。
石畳の通りは商店や飲食店が連なり、その町並みにひと際高く聳える時の鐘がある。 -
かみさんが川越を訪れたら見たいと云っていた時の鐘。
観光案内の内容は以下。
「時の鐘は、江戸時代の初期、酒井忠勝が川越城主(1627~1634) のころに建設されたと伝えられています。
その後何度か焼失し、現在の時の鐘は、明治26年(1893)の川越大火の翌年に再建されたもの。
高さは約17.5㍍、平成8年に環境庁の「残したい日本の音風景百選」に選ばれています」
…ここもまた記念撮影スポットで人波が途切れることがない。 -
見上げるばかりの時の鐘、三芳野名所図会の挿絵にもその姿があり、蔵造りの町並みにひと際高く描かれている。
3重4階構造の鐘楼門で創建された江戸時代初期から、「時」を告げ、現在は1日4回(午前6時・正午・午後3時・午後6時)自動制御で鐘を鳴らしてくれます。
屋根は方形の銅葺で側面は板張りのようで、現在の時の鐘は平成28年に耐震化工事が施された4代目になるそうです。 -
梵鐘に精一杯寄って見るが自動金突打ち機の仕組みは分からなかった。
川越市の解説は以下。
「旧多賀町に立ち、蔵造りの町並みを見下ろす時の鐘は、江戸時代初期の寛永年間(1624-1644)に創建されて以来、度重なる大火によって、焼失、再建が繰り返されてきた。
現在の建物は、明治26年(1893)の大火で焼失した後明治27年に再建され、鐘も再鋳造されたものである。3重4階建総高さ約17.5m(約57.7尺)の規模をもち、3重の屋根は銅板一文葺の方形造で、初重(しょじゅう)、2重の庇は銅板瓦棒葺となっている。
施工者は、連雀町の大工棟梁 関根松五郎で、鐘を鋳造したのは神明町の鋳物師 矢沢四郎右衛門。
二人とも地元川越の職人である。
造営後、幾度か修理や整備が行われ、最近では平成27、28年度に半解体修理が実施された。
時の鐘は蔵造りの町並みのシンボルとして今日まで親しまれている。」 -
4階建ての一階は門になっており、おやじの目的地はこの先に鎮座する薬師神社。
時の鐘は薬師神社の鐘楼門的な趣。
頭を支える四本の柱、その右に「薬師神社」の社標が立てられています。 -
「薬師神社の由来
薬師神社は、以前瑞光山医王院常蓮寺という寺でしたが、明治維新の折に薬師神社となりました。
本尊は薬師如来の立像で行基菩薩の作といわれています。
五穀豊穣、家運隆昌、病気平癒、特に眼病にご利益があるといわれています。
右奥の稲荷神社は出世、開運、合格に著しいご利益があるといわれています」
とある。 -
時の鐘をくぐり石畳の参道を進む、参道右に手水鉢が置かれ清水が注がれていた。
-
薬師神社全景。
三芳野名勝図会の天台宗常蓮寺に薬師堂として以下のように記されていた。
「以前は本町南側中程にあり、元和年中酒井備後侯之御時今之地に移し、一梵刹として常蓮寺と云、今の地には庚申塚あり、今猶猶寺内にあり。
本尊 薬師如来 行基之作、脇士 日光・月光、脇壇 十二神将、聖徳太子、青面金剛等安置。
庚申塔 堂前東之傍有 稲荷祠 金比羅権現祠」
ここで云う本町は、ここから北東に5分程歩いた現在の元町あたりかと思われ、1615年から1624年にこの地に移されとあり、明治に入り常蓮寺は破却、薬師神社と改称したのが現在の姿のようです。
川越大火で被災し、辛うじて本尊の薬師如来立像だけは運び出され、その他は焼失したと云う。
現在の姿は平成14年(2002)に改修を受けたもの。
右手にあるのが稲荷神社でその本殿の左側に青面金剛がある。 -
境内にあると云う庚申塔や金比羅権現祠については見落としたのか見当たらなかった。
何気に参道右の石碑群を撮ったこの一枚、ここにそれらがあったのかも知れない。 -
拝殿額「川越薬師如来」とあり、ピントが甘く揮毫までは読み取れなかった。
御利益は病気平癒、眼病に効果があるそうで、最近めっきり視力の衰えを感じるだけにいつもより長めに拝んでいた。 -
稲荷神社全景。
稲荷鳥居の先には小さめの狛狐が守護する。 -
稲荷神社本殿と左に青面金剛。
この稲荷、出世稲荷として親しまれているとか、その筋に御用の方は参拝するといいかもしれない。 -
薬師神社側面。
妻切り平入りの拝殿に幣殿、覆殿が一体となって連なるこぢんまりとしたもの。 -
覆殿から眺める時の鐘。
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境内から時の鐘全景。
人波が少なくなるのを随分待っては見た……無理だね。
地元の御婆ちゃん、情緒ある小江戸川越をひっきりなしに訪れる観光客の姿を眺め何を感じているのか。
観光立国……ですかぁ、買い叩かれてるなぁ。
時の鐘
建立 / 寛永年間(1624~1644)
薬師神社
創建 / 不明
祭神 / 薬師如来立像
境内社 / 稲荷神社
所在地 / 埼玉県川越市幸町15-8
広済寺から徒歩で県道12号線を南へ / 5~6分
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