2022/10/07 - 2022/10/08
5270位(同エリア10154件中)
su3さん
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仙台を満喫してからのハラコ飯。
天気に恵まれて、いろいろ見ることができて、よい一日でした。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
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予定時間を大幅に押してしまった仕事を終えて高速にのり、東海パーキングエリアで休息。
丁度お店の閉まる時間でトイレしか使用できず。東海パーキングエリア 道の駅
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ホテルて前で道に迷いつつなんとか到着。
お布団が引いてあったのが地味にうれしい。風呂に入ったらすぐに意識がなくなりました。駐車場代が無料 by su3さんホテル白萩 宿・ホテル
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目が覚めたら顔を洗ってスッキリ。
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着替えてフロントに行き、昨晩できなかった清算を行います。
その後、食事場所に伺いました。 -
さあ、朝ごはんです。
今日はいっぱい動く予定だからしっかり食べて…食べ過ぎてかなり満腹になりました。 -
館内には特別支援学校の作品が飾られていました。
こういうのいいですよね。 -
出発です。
良いお天気! -
宮城県美術館を目指すも、分岐を間違え、予想の三倍の時間をかけて到着。
宮城県美術館 美術館・博物館
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お目当てのフェルメール展。
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どんな作品に出会えるかワクワクします。
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作品を鑑賞しながら、似たような技法でも、描き手の得手不得手によって全然違うなとか、レンブラントとフェルメールはやはり上手いと実感しました。
あと、エングレービングの技法が謎。 -
ちなみにこちらの絵を違う角度から撮ると…。
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奥に修復時に分かった絵が出てくるんです!
ちなみに現物を見た時に、天使のいない絵の方は静謐で、天使のいる絵は躍動的。雰囲気がガラリと変わっていると思いました。 -
館内にはこういったものもあって綺麗でした。
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中庭を挟んでお隣の部屋には大きなカブの人の作品も。
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美術館を後にして、青葉城まで徒歩で向かいます。
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仙台城址に向かって歩いていたら扇坂がありました。扇坂という名前は、下に向かって扇状に広がっていたので名付けられたそうです。大手門は藩主の出入りと特定の儀式のある時以外は開門されず、扇坂が藩士の通常の登城口として使用されていました。
ちなみに仙台城跡がある青葉山はもともと霊場だったそうです。 -
ちょっと上まで登ってみましょう。
明治時代に仙台城二の丸に陸軍が司令部を置いた時に扇坂を塞いでしまいました。その後、ここの北側にある道路が扇坂と呼ばれていましたが、2015年に国連防災世界会議が仙台で開催された際にメイン会場の国際センターと、パブリックフォーラム会場の川内萩ホールとの行き来をしやすくするために扇坂を階段として再整備し復活させたそうです。 -
階段を登り切ったところは二の丸広場という広々とした公園になっていました。
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東北大学の川内キャンバスでもあります。
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仙台城址の方に歩いていきます。
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こちら二の丸広場。
勘定所跡があったようです。仙台藩の御修覆帳から考察されている二の丸勘定所の金倉と同系のものと考えられる建物が、仙台市宮城野区岩切に再移築して穀倉として利用されているそうです。二の丸の建物の配置はどのようなものだったんだろうな。 -
広場の北側には東北大学の川内萩ホールがありますね。
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支倉常長の像。
慶長遣欧使節団を率いた伊達家の家臣はの銅像は佐藤忠良制作のものだそうです。 -
像から道を挟んで反対側には説明板と碑がありました。
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大手門跡の前に到着。
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大手門脇櫓。
ちなみに門の正確な築城年代は不明ですが、政宗公の時代のものとする説や2代藩主忠宗公が二の丸を作った時期のものとする説があるそうです。太平洋戦争による仙台空襲で門の他に脇櫓や巽門もこの世から消えてしまいました。 -
あらら、本丸までの直線ルートが災害のため通行止めになっていますね。
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出は違う道から登りましょうか。
足元のマンホールを見たらかわいらしい模様。 -
仙台市博物館の方面から参りましょうか。
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登り口の横にあった五色沼。
日本のスケートの発祥地だとか。明治後期に第二高等学校の生徒がドイツ語講師からフィギュアスケートの指導を受けたのが始まりなんだそうです。 -
進んでいくと仙台市博物館に到着。
この辺りは三の丸跡。 -
改装工事中で休館してました。
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明治中期に建てられた市指定有形文化財の茶室である残月亭も立ち入り禁止。
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かつての仙台市長の島野武氏の像。
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魯迅の像。
仙台医学専門学校の最初の中国人留学生として入学した経緯があるそうです。東北大学構内の東北大学資料館には魯迅記念展示室があるそうです。 -
林子平の碑もありました。
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現在の青葉山の山上にある伊達政宗像の初代のもの。
第二次世界大戦時に騎馬部分のみ軍事材料として溶解されたんだそうです。 -
巽門からの上り坂の途中にあった清水門の跡。付近に湧水があったことからこの名がついたとか。
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門跡の近くに湧水がありましたが、飲めないものの様です。この湧水が門の名前の由来でしょうか。
造酒屋敷跡がこの付近にあり、付近の湧き水を利用して造った酒が御用酒と呼ばれたともいわれているので、もしかしたらこの湧水を使ってお酒を造っていたのかもしれませんね。 -
清水門跡の石垣は立派ですね。かつては二階建の門でしたが、後に塀に出入り口がある形状に改造されたようです。
清水門の石垣は野面積みに近い石の積み方なので、大きな地震などが発生する度に甚大な被害を受けてしまい、何度か復旧工事が行われているそうです。 -
さて、本格的に登城路を登りましょう
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カーブの先にある大手門との合流点には沢門があったようです。
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大手門側は封鎖されていますね。
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更に上に行ってみましょう。
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本丸北壁石垣が見えてきました。
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本丸の石垣!
北面石垣の上には、艮櫓・東脇櫓・西脇櫓の3基の三重櫓が建っていたそうです。残念ながら櫓は正保の大地震で倒壊し、江戸時代に再建されることはなかったとか。 -
ゆるやかな地形の本丸北面は、守りを固めるために長さ179mにわたって石垣が積まれています。その高さは最も高いところで17mあるそうです。
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平成修復後の石垣は、最終段階となる3期目の石垣で、東日本大震災の揺れでも崩れなかったとか。凄い!
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さ、石垣横の鳥居をくぐって中へ行きましょうか。
仙台城跡 名所・史跡
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鳥居を過ぎた辺りに詰門跡があったようです。
二階建・瓦葺で、棟には鯱瓦がのせられ、門の両脇には、三重の櫓が建てられていましたが、1646年の地震で被災したとか。
今は門の礎石が2基だけ残っていました。 -
鳥居をくぐって中に向かいます。
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本丸広場に到着。
大広間跡が見えますね。 -
本丸跡の北側に位置する大広間は、本丸御殿の主要な建物で、藩の政治や儀式を行う場でもありました。1610年に完成し、畳敷き部分と縁側を含めて約430畳にも及ぶ大規模な武家御殿建築であったそうです。
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広いなぁ~。
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礎石とそれぞれどこの部屋の区切りか分かるように札が置かれていました。
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専用スコープを借りてVR体験しながら見学もできるようです。
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築城時の石垣モデル 。
時代を考えればさもありなんですが、自然石を積み上げた野面積みですね。ここにあるのは築城した当時の野面積みの現物ではなく、同じ石質の石材を使って再現したものだそうです。 -
こちらは本丸北北壁の石垣モデル。
江戸時代に築かれた石垣の石材で造られたこの切込接み石垣モデルは、老朽化した仙台城本丸跡の石垣を丸6年の歳月をかけ全面的に解体・修復した折りに、破損のために再利用できなかった石を用いて積み上げたものなんだそうです。 -
大広間跡から延びる歩道があったのでそちらを歩いて進みます。
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佐賀の乱以来、西南戦争、日清戦争などに従軍した陸軍第2師団所属の戦没者に対する慰霊顕彰碑として建立された昭忠碑がありました。
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こちらには崖にせり出した「懸造」という京都の清水寺のような構造の建物があったようで、 建物からは、仙台城城下町を一望できたとか。伊達氏の居城だった米沢城の庭園にも「御かけつくり」という建物があったらしく、伊達氏が好んだ建築様式だったのかもしれませんね。城下町からは北目町から柳町に入って西に向かうと、この懸造の城が見えたそうです。現状では文化財保護法の基準を満たしていないことから仙台城跡内での復元は出来ないため、史跡の整備計画では遺構表示にとどまるっているとか。
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仙台出身の土井晩翠の胸像と荒城の月の歌碑がありました。
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伊達政宗像は修繕中。
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あれ?御屋形様がいる。
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艮櫓跡のあたりから城下を眺めてみましょうか。
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広瀬川の向こうには仙台の町並み。
流石、100万人都市ですね。 -
あちらの方に瑞鳳殿があるんでしょうか。
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北壁石垣の上からの景色。
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ちなみに、本丸の広さは東西245m・南北267mという諸大名の城郭の中でも最大級で、築城後まもなく仙台城を訪れたイスパニアの使節ビスカイノは「この城は当国にある最強で最良の城のうちの一つである」と賞賛したとか。
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お次は仙台城見聞館に足を運びます。
仙台城本丸跡にある無料ガイダンス施設です。仙台城見聞館 美術館・博物館
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中に入ってみましょうか。
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館内に入ると伊達政宗全面押しのパネル展示がみえました。
仙台城は伊達政宗が岩出山城から千代城へ移り築いた東北随一の城。岩出山城は政宗の領地の中で西に偏っている、主要な街道から外れている、山間部にあり城下町が狭く、発展させられないなどのデメリットがあったため、居城を千代(のちの仙台)に移ったといわれています。 -
石垣を修復してきたときの瓦のレプリカがありました。
仙台城を築いた時期は関ヶ原の戦いの直後で、徳川家康の天下になるのか豊臣家の天下になるのかハッキリしていなかったため、仙台城は実戦を想定した縄張になっています。
北から東にかけて流れる広瀬川を堀とし、青葉山に築かれた本丸は東側と南側は崖に守られ、本丸の西側に連なる尾根筋を大きな堀切で遮断しています。仙台城は、本丸の三方向が崖や堀切で守られている強固な造りの城でした。 -
政宗は御殿を建てるために京都から有名な大工や絵師など優れた職人を呼び、桃山建築の粋を集めて建てさせていました。職人たちは瑞巌寺や大崎八幡神社の建設にも携わっています。
仙台城には天守を載せるための天守台石垣は築かれていますが、家康や幕府に遠慮して、天守を建てなかったと言われています。政宗は機微に聡かった方だったんでしょうね。 -
仙台城の発掘調査についても書かれていますね。
仙台城本丸には、発掘調査で確認された大広間の他に、様々な建物が存在していました。大広間の南側には「表」や、藩主の私的空間である「奥」の多数の御殿が建ち、北側に能舞台、西側に御成門、東側の崖際には懸造もありました。
地震で石垣が壊れた際も、再建のため調べていたら3期にわたって作り方が変わっていたということも分かったそうです。 -
仙台城跡の整備計画では各ゾーンごとに分けて保存と活用を考えているようです。
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仙台城の歴史や石垣工事の様子などを映像で見ることができるようになっていました。
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仙台城は青葉山に作られた城で、はじめは伊達政宗が仙台と改めた地に建つ城ということで、仙台城というのが正式名称でした。しかし、江戸中期以降、その立地から別名で青葉城とも呼ばれるようになったそうです。
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大手門北側の土壁は唯一残っている建物だったんですね。
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仙台城周辺の模型。
のぞき窓からそれぞれの建物などが見れるようになっていて面白かったです。 -
仙台城見聞館の目の前にある大広間について。
名前の付けられた部屋は14部屋あり、伊達政宗はじめ、藩主が座った「上段の間」や、天皇や将軍を迎えた時に使うとされる「上々段の間」がありました。部屋の周囲には広縁と落縁が二重に回っていました。 -
大広間は最高約17mの高さがあり、大広間の西側には、御成門がありました。天皇家や将軍家といった人々は、この門を通って大広間に入ることになっていたそうです。
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平成13年度から平成21年にかけて行われた発掘調査によって、大広間の礎石や雨落ち溝跡、大広間の西側に位置する御成門跡などを発見しました。
大広間跡からは、金属製品・陶磁器・瓦などが出土し、大広間や御成門を飾っていたと見られる金銅金具が、約60点見つかっています。さらに、金具を建物に取り付ける際に使われたと考えられる銅製の釘を約830点発見しており、中には頭部に鍍金が残っているものもあったそうです。 -
大広間の50分の1復元模型。
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上段の間の床の間の一部を原寸大で再現した展示がありました。
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藩主が座った上段の間らしく、桃山期狩野派による濃絵の豪華な絵が背面にあったんですね。
仙台藩最初のお抱え絵師となる狩野左京の最盛期の作品で、本丸御殿解体の際に屏風に仕立てられたそうです。 -
上段の間の左部分。
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仙台城の遺物についてとそのレプリカが展示されていました。
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本丸北壁石垣修復工事に伴う発掘調査で出土した遺物の中には、舶来のものが多数含まれていたそうです。
青ガラスのモール鉢やエナメル彩のガラス杯など粋でおしゃれな伊達家らしいものがいっぱいですね。 -
金具の細工もすごいなぁ。
菊花文・唐草文の飾金具に類似した金具が、仙台市青葉区にある国宝大崎八幡宮にも見られるそうです。 -
情報館の外には仙台藩の大工棟梁千田家に伝来した姿絵図という大広間の設計図などがありました。
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本丸にある宮城縣護國神社に行ってみましょう。
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明治維新以降の宮城県を中心とした地域出身の戦没者を祀っているそうです。
仙台空襲で社殿を焼失し、現在の本殿は伊勢神宮の外宮『風宮』の旧正殿を移築したものだとか。伊達家にゆかりのある神社ではなさそうです。 -
境内にはヒョウタンの絵馬がたくさんありました。
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浦安橋を渡って駐車場の方に行ってみます。
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安定の顔はめパネルがありました。
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本丸の案内図もありました。
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仙台城下絵図。
線画なのでちょっと見えにくい。 -
お土産屋さんを覗いてみましょう。
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館の入口にあったVRのナレーターの声を見てちょっと気になってしまった。
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室内の一角に伊達政宗の甲冑が飾られていました。
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ライトアップもしてるんですね。
綺麗だろうな。 -
休息がてら青葉城フードコートへ。
仙台に来たらずんだシェーク。疲れた体に染みわたる。 -
フードコートの天井が面白いことになっている。
ずんだシェイクを飲んでいてふと思い出したのですが、伊達政宗はグルメな人でも知られていますよね。「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である」という名言とか、伊達政宗が陣中で枝豆をすり潰して「ずんだ」を作ったいう逸話があるくらいの人ですから、職に対するこだわりはすごかったんでしょうね。 -
お山から降りましょうか。
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のんびり来た道を戻ります。
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この植物なんだろう?
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清水門の石垣が見えてきました。
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この辺りに建物が立っていたんでしょうかね。
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北門に向かって進みます。
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三の丸に入る北門に当たる、子門跡を通って大通りに出ましょう。
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道路の両脇を固める石垣が良い感じです。
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北門から道路を渡ります。
仙台国際センターがみえますね。 -
駐車場まで戻り、お次の場所へ移動しましょう。
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瑞鳳殿の駐車場まで車を走らせ、そこから歩きます。
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鹿児島県人七士の墓。
西南戦争で西郷軍に属しましたが、降伏し宮城県に収監。その後宮城県のために尽力したものの、故郷から通り離れたこの地で亡くなった方々のお墓だそうです。 -
ここで馬を降りるよという切妻屋根付き下馬石。
珍しい。
2代藩主・伊達忠宗だてただむね公の七回忌法要の際に4代藩主・伊達綱村公が大阪天王寺の下馬碑を模写して坂下南側に立てたものだそうです。 -
伊達家ゆかりの菩提寺院である瑞鳳寺にも行ってみましょうか。
正宗山 瑞鳳寺 寺・神社・教会
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瑞鳳寺は明治時代の廃仏毀釈によって廃寺となりましたが、1926年に再興されました。
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山門を通って奥へ。
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伊達家三代の御位牌安置所なんですね。
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人も少なく静かな佇まいの境内を歩きます。
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鐘楼。
昭和3年に今上天皇即位記念に建てられたものだそうです。 -
こちらの釣り鐘は昭和50年に鋳造されたもので、寛永のものは本堂玄関わきにあるそうです。
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本堂に到着。
賽銭箱などの彫刻が繊細で素敵でした。 -
これが寛永に作られた鐘か。
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本堂右を見ると1637年に造られた旧瑞鳳殿の下り棟化粧瓦の龍頭が展示されていました。
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本堂向かって左の高尾門に向かいます。
門の名の由来は、若くして隠居させられた綱宗の側室として知られる高尾太夫に因んでいるとされています。こちらの門は第三代藩主綱宗公の側室であるお品の邸にあったものを昭和37年に移転修築したものだそうです。 -
栄西堂。
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奥の茶室まで行けるようですね。
行ってみましょうか。 -
こちらが茶室の様です。
裏千家の月釜で使用されているとか。 -
山門そばのお地蔵様に見送られながら瑞鳳寺を後にします。
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瑞鳳寺を後にして、次の目的地に向かう階段を上りましょう。
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お次は瑞鳳殿に向かいます。
料金所で観覧料を払って中に入りましょう。瑞鳳殿 寺・神社・教会
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手水鉢に伊達家の三つの家紋があしらわれている手水所がかっこいいです。
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涅槃門に到着。
中央の門は通常は開いていないそうなんですが、運よく開いているところを見ることができました。 -
涅槃門には樹齢数百年の青森檜葉を用いて再建され、焼失前と同様の豪華な飾り彫刻が施されています。
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門の前には伊達家の家紋がかっこいい提灯が門の両脇にありました。
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門の表の蟇股には麒麟、内には瑞雲が色も鮮やかに彫られていますね。
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左右の妻飾の牡丹と唐獅子も素敵。
ポイントを押さえて色鮮やかになっているのはお洒落ですね。 -
この門の中心を通ることはできませんでしたが、脇の部分から向こう側に抜けることができるようになっていました。
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奉納された石燈籠がずらり。
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江戸時代初期の仙台藩一門第五席・登米伊達家第2代当主であった白石宗貞の石燈籠。
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さすが片倉小十郎。
絶対あると思っていた。 -
佐々元網の石燈籠。
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仙台藩奉行であった津田頼康の石燈籠。
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伊達忠宗の時代に家老であった石母田宗頼の石燈籠。
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容姿端麗のうえ馬術に優れ、すぐに政宗公の目に留まり、忠宗公が二代藩主となるとき、側近として抜擢された古内重広。
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茂庭良綱の石燈籠。
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奥山常良の石燈籠。
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佐沼亘理家の初代、亘理宗根の石燈籠。
政宗は宗根屋敷の造営に気を配り、屋敷を訪問したりしていたそうです。 -
拝殿に向かいます。
拝殿は拝礼のために整えられた施設で、焼失前の拝殿は瑞鳳殿の床面と同じ高さになっており、正面扉を開けると、橋廊下、唐門を通して瑞鳳殿内に安置された政宗の御木像に拝礼することができたそうです。 -
案内板の古写真と比べると、かなり簡略化されている様子が伺えました。
ピンク部分に珊瑚、白の部分に真珠を使用しているとか。 -
御霊屋には大香呂が両脇にある道を進んで向かうようになっていました。
かつてこの場所には拝殿と唐門をつなぐ橋廊下が存在していたそうです。橋廊下左右の空間には家臣が奉納した灯籠が5基あったとか。 -
香呂の横に橋廊下の走廊下の礎石と家臣が奉納した灯籠の跡が見えますね。
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瑞鳳殿に到着。
現在は青海模様が面白い銅坂製の近代的な門になっていますが、焼失前は天井に金箔を貼り付けたことから金唐門とも称されていた唐門があったそうです。正面の虹梁の上下の空間には竜虎図と二十四考説話を題材にした透彫が挿入されるなど、装飾性に富んでいたとか。見てみたかったですね。 -
1636年に70歳で生涯を閉じた仙台藩祖伊達政宗公の遺命により、翌年の1637年に造営されました。
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扁額の色味が多いのに嫌味がなくカッコいい。
瑞鳳殿の名前の由来は諸説ありますが、瑞鳳殿の「瑞」という字は伊達政宗の法名からとってきたもの、「鳳」という文字は古より中国の想像上の動物である瑞鳥である鳳凰を表したものなんじゃないかなと。 -
桃山文化の遺風を伝える豪華絢爛な建築物として、1931年に国宝に指定されましたが、太平洋戦争時の1945年にアメリカ軍による仙台空襲で焼失してしまいました。
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遺骸は直ちに仙台に送られ、故人の遺言によって経ヶ峯に埋葬されたため、こちらに遺骨はありませんが、それでも見る価値があるなと思わせる廟墓ですね。
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1979年に焼失以前の瑞鳳殿を忠実に再現して再建され、2001年には仙台開府四百年を記念して大改修工事が実施され、現在の姿となりました。
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ちょうど瑞鳳殿秋の特別御開帳が行われていました。
中を覗いてみましょうか。 -
政宗公御木像がみえますね。
建物は正面が仙台城本丸を向くよう西向きに建てられています。 -
内部の美しい装飾や像がしっかり見えました。
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三手先斗栱や蟇股などの彫刻に刻まれた鳳凰や獅子、天女の彫刻、など見ごたえ抜群です。
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どこを見ても楽しい。
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装飾はとてもきめ細かで、間近で見ると安土・桃山時代の職人の技術力の高さに驚かされます。
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一度焼失してしまったものを再建するために、本殿・拝殿・涅槃門及び関連施設の完成までに5年の歳月と当時の額で総費用8億円を要したとか。
これを見るとわかる気がしますね。 -
木造三間四方の瑞鳳殿は、下部は黒を基調とし、上部は漆極彩色で華やかな装飾が施されています。これにより、派手でもスタイリッシュな感じに見えるんでしょうね。
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1979年に再建されたものですが、家臣15名と陪臣5名を供養するための石塔である殉死者供養塔が両脇にありました。ちなみに、生前に主君から許可を受けた者のみが殉死者と呼ばれるのだそうです。
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たくさんの殉死者がいたんですね。
殉死禁止令を出したけれど、殉死者が後を絶たなかったという話も残っており伊達正宗のカリスマ性を感じました。 -
拝殿から外に出ましょうか。
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拝殿の両脇には座れるようになっている場所がありいろんな人が腰を掛けて休んでいました。
一休みするにはいい場所ですね。 -
拝殿は側面からも回廊が伸びており御供所とも繋がっていたそうですが、今は一部のみしかありませんでした。
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拝殿の端はこんな感じになっていました。
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お次は瑞鳳殿資料館にも行ってみましょう。
瑞鳳殿の施設の一部であった御供所を再建したこの施設には、瑞鳳殿・感仙殿・善応殿が再建される際に、発掘・発見された副葬品や3人の遺骨の副葬品が展示されていたり、遺骨から複顔した政宗・忠宗・綱宗の塑像が展示されていました。他に発掘調査の模様を記録映画にして上映していて面白かったです。政宗の遺骨の眼窩には異常がなかったため、複顔された姿も両目が備わった形になっていて現代でも通用する鼻筋の通ったイケメンでした。
ちなみに御供所は伊達政宗が晩年に住んでいた若林城の一部を移築したものといわれていたとか。瑞鳳殿資料館 美術館・博物館
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資料館手前には政宗公ゆかりの臥竜梅。
文禄の役で渡朝した伊達政宗が半島から持ち帰り仙台城に植えさせた後、隠居城であった若林城に移植したものと言われている臥龍梅から取木され、1979年に瑞鳳殿再建を記念して植樹されたものだそうです。 -
向かいには満海上人供養碑が建てられていました。
古分書に、伊達政宗の墓所工事の際、地中より石室が現れ、蓋石を取り除くと、内部からは、錫杖、数珠等が発見され、墓所造営奉行であった奥山大学が土地の古老に尋ねたところ、この場所は湯殿山の修験者満海上人が入定した墓跡であったとの談話が記されていたそうです。満海上人は隻眼の修験僧と伝えられ、政宗公は満海上人の生まれ変わりという説が当時から存在していたとか。 -
涅槃門まで戻ったら更に伊達家墓所を巡りましょうか。
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あら?
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時間もあって涅槃門が閉まっていました。
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しまっているとまた雰囲気が違いますね。
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自動ドアを抜けて次のエリアに向かいます。
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あら、なんか書いてある。
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スケート靴のような石畳みっけ!
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感仙殿・善応殿へと向かう途中に戊辰戦争弔魂碑がありました。
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さらに石畳の道を進みます。
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経ケ峯散策路というハイキングコースがありましたが、クマの目撃情報が出ていたこともあって、入口が閉鎖されていました。
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柵がみえてきました。
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仙台藩二代藩主・伊達忠宗公の御霊屋である感仙殿の入口には、かつて荘厳な廟門とが建てられていたそうです。
経ヶ峰にある伊達家の墓所の感仙殿、善応殿は明治10年から12年にかけて整理され、本殿以外の建物は取り壊されることになり、慈雲寺がその廟門を譲り受け移築しました。現在では伊達家歴代藩主廟門の中で唯一の遺構です。 -
現在は感仙殿・善応殿・妙雲界廟の入口に廟門が再建されています。
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廟門を過ぎるとまず見えたのは感仙殿。
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感仙殿より出土した板碑が
二代藩主伊達忠宗公の霊屋感仙殿を発掘した折に、墓室の蓋石として利用されている2枚と、周囲の土留めとして利用されている3枚の板碑が発見されました。 -
感仙殿に到着。
こちらの御霊屋にいる伊達忠宗は、父政宗の死去により38歳で二代藩主となり、練成された人格と法治主義により、仙台藩の実質的な基礎を確立した方です。 -
初代藩主政宗公の御霊屋よりは少し控えめですが、それでも絢爛豪華です。
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感仙殿は、1644年の四代綱村の時代に建てられました。
1931年に、瑞鳳殿と共に国宝に指定されましたが、1945年の戦災により焼失し、1985年に再建されました。 -
本殿左右の宝篋印塔は、忠宗に殉死した家臣12名、陪臣4名の供養塔だそうです。
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感仙殿のお隣は善応殿。
仙台藩三代藩主である伊達綱宗の御霊屋です。 -
感仙殿にも似ているけれどやっぱりところどころ違いますね。
御霊屋である善応殿は1716年に五代吉村の時代に建てられ、1945年の戦災により焼失し、1980年に感仙殿とともに再建されました。 -
伊達綱宗は、1640年8月8日仙台城に生まれ、忠宗の死去により19歳で三代藩主となったかたです。21歳の時、幕府より逼塞を命じられ、当時2歳の嫡子亀千代に家督を相続すると、以後は江戸の品川屋敷に隠居しました。72歳で品川屋敷に没した綱宗は仙台に送られ、この地に埋葬されたそうです。
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綱宗は書画、和歌、能などの芸術分野に才能を発揮し、秀作を数多く残しています。
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御霊屋の奥にひっそりと佇んでいた擬殉の墓の無縫塔。
伊達綱宗の没した1711年は殉死禁令から48年を経過していたが、殉死に代わる習俗として、14名の家臣が藩主の許しを得て剃髪し百ヶ日間亡君の菩提を弔う擬殉と称する風習があったそうです。 -
妙雲界廟へと向かいます。
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四代藩主伊達綱村以降歴代の墓所は綱村の命により、廟建築を廃し一定規格の墓碑のみとなりました。綱村の時代に伊達騒動や鹽竈神社などの整備などで財政が悪化したことに伴う影響からでしょう。
この方針に倣った形態で造られたのが妙雲界廟のようです。 -
齊村の死去により幼くして九代藩主となったが、徳川将軍への御目見えがまだの状態で天然痘のため17歳で死去した伊達周宗公の墓。
大名は17歳で将軍へ初御目見えする以前に没すれば、藩は改易となりますが、仙台藩のこれまでの幕府に対しての功労などから、特命が下り弟の徳三郎が伊達齊宗として十代藩主となり、藩は存続しています。 -
十代藩主伊達齊宗の娘として仙台城に生まれ、一関田村家より齊義を婿として迎えた芝姫の墓。芝姫は幼き頃より読書好きで、中国の政治書『四書五経』を読み、歴史や歌などの書物にも親しんだ教養人だったそうです。
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芝姫に婿養子として伊達家十一代藩主となった。伊達齊義公の墓。
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もうそろそろ閉まる時間となりました。
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急いで出口に向かい、閉館ぎりぎりで外に出ました。
伊達政宗と伊達家を堪能したぞー! -
宿に向かう前に折角なので夕食をいただいていきましょう。
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お好きな席にどうぞと言われて座った席から見える景色はなかなか良い感じ。
注文をして料理を待つ間、温暖化で広瀬川で鮭を見なくなったと小耳に挟み、仙台市内を流れる川にも鮭が遡上していた事に吃驚。 -
囲炉裏の席もあるんですね。
脚の悪い方には良い席かも。 -
お目当てのハラコ飯到着。
鮭といくらを増量バージョンです。 -
この時期ならではのハラコ飯。
ご飯は白飯。混ぜて食べると美味しすぎてすぐに間食してしまいました。
お腹も満たされたところで山形に向かいます。
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