2023/07/14 - 2023/07/14
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azusa55さん
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玉野町の御所中明神は、津島神社からだと中央本線を越え約10分程の距離に鎮座します。
田圃の中の一画が鎮座地で、高蔵寺第5号墳と隣接しています。
今回は御所中明神と近隣の後醍醐なか刀自媛大神、信清神社を巡ります。
- 旅行の満足度
- 2.0
- 観光
- 2.5
- 交通
- 1.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
-
玉野町の御所中明神は、津島神社からだと中央本線を越え約10分程の距離に鎮座します。
地図の赤のマーカー部分が鎮座地で、高蔵寺第5号墳と隣接しています。
左は1891年頃の玉野地区、春日井市細野町を源とする鯎(うぐい)川が南に流れ下り、玉野川(庄内川)と合流する辺りから東にかけて、田畑や集落が発達している。
現在でも中央本線を境に南側には田園地帯が広がっています。
かつて集落の南側には渡し場があったと云われますが、場所は定かでなく、今回歩いて見た中でそれらしい遺構は見つけられなかった。 -
津島神社から南側の中央本線を越え、南下すると周囲は一面青田が広がる長閑な光景が広がります。
右手に見える小高い山が高座山。
この山は山肌を掘ると水晶が出てくる山で、息子達の自由研究で良く訪れたが、今は小さな欠片くらいしか出てこないと聞きます。
山麗の東側が五社神社の鎮座地になります。
御所中明神の鎮座地は、一面青田が広がる一帯の西外れにあたります。
農道が幾筋もありますが、この日は道路際の草刈り作業が行われ、農作業用の車両の往来もあり、作業の支障になるので路駐は避けたい。
歩いていれば水辺を好む野鳥や蛙、大嫌いな蛇など、車でサッと訪れ立ち去っていては見られない光景に出会える。 -
田んぼの西外れに鎮座する御所中明神。
パッと目それとは分かり辛いけれど、一本の桜が目印になるだろう。 -
御所中明神全景。
境内には御所中明神の白い石標と長方形の石碑が立てられています。
高蔵寺第5号墳は写真左側の草むらの中に遺構らしき石組が見られます。 -
御所中明神の石標(右)と石碑全景。
この時はこの部分は草刈りされていましたが、古墳周辺は草が生い茂っており、直前に蛇(しま蛇)を見かけた事もあり、草むらに分け入る勢いは失せ写真は撮っていません。 -
御所中明神。
背面に昭和56年(1981)健之と刻まれていました。
右手に解説が掲げられています。 -
傍らの解説。
「南朝 なか媛の最後の地
南北朝時代(1350年頃)、足利尊氏たちの北朝と後醍醐天皇の南朝に分かれて対立していました。
吉野に逃れた後醍醐天皇の女官「なか嬢」は天皇が亡くなると、南朝に 味方していた人を頼って各地を転々とさまよいました。
その頃、信濃の飯田にいた宗良親王が征夷大将軍として南朝を纏めようとしていました。
これを知ったなか媛は三十五名ほどの家来と共に彼のもとに行こうとされ、玉野川(今の庄内川)を船でさかのぼり、途中玉野の南屋敷で一夜を明かすため、旧家に入り込みました。
これをひそかに 見張っていた北朝軍が闇討ちを仕掛け、家来は次々に討ち取られてしまい、なか媛も無念の最期を遂げました。
逃げのびた二人の家来が、その後、玉野に舞いもどり、ひそかに農民になって、なか媛やうたれた家来たちの霊を慰めたといいます。
35名の位牌は大平寺に安置されています。」
とある。
墓はその後荒れ果て、田んぼの中に塚が残るだけでしたが、ある時期に災難が続いた事から、なか媛一行の祟りではということになり、地域の人が碑と社を建て祀ったのが始まりのようです。
この解説から見れば事の起こりは南北朝時代(1350年頃)。
現在の御所中明神の姿は昭和56年(1981)という事か? -
左手の碑は玉野地区圃場整備事業竣工記念碑。
-
次はここから東に鎮座する、なか媛他一行をお祀りする後醍醐なか刀自媛大神になります。
御所中明神・高蔵寺第5号墳
所在地 / 春日井市玉野町
津島神社から徒歩ルート / 中央本線を越え約10分程 -
後醍醐なか刀自媛大神の鎮座地はここから東の赤のマーカーになります。
-
東外れの集落と青田の光景。
目的地まではゆっくり歩いても10分はかからないでしょう。 -
後醍醐なか刀自媛大神へは集落西側の写真の小径を道なり進みます。
-
小径はすぐ先で左に向きを変え、目の前に二つの石碑と社が見えてきます。
こちらが後醍醐なか刀自媛大神。 -
二つの石碑は「玉野町南島 後醍醐なか刀自媛大神を護る会」により、昭和63年(1988)に建てられたもので、背面に刻まれた多くの寄進者により、後醍醐なか刀自媛大神を支えているのが窺われます。
-
後醍醐なか刀自媛大神側面の眺め。
右手の民家の敷地の一部が社地としてあてがわれたのか、三角形の社地はけっして広くはないけれど、境内は雑草もなく、とても綺麗に手入れされているのには驚いた。
東向きに建てられた社殿の後方に慰霊碑と後醍醐なか刀自媛大神の慰霊碑が立てられ、社地の左に後醍醐なか刀自媛大神の解説が立てられています。 -
入口から社殿と後醍醐なか刀自媛大神の慰霊碑。
社殿の陰になり写っていませんが、社殿左に、なか媛の随行者で北朝に討たれた28名の名が記された慰霊碑があります。 -
由来。
「後醍醐「なか媛」様の由来(通称 御所なか様)
元号が建武と改められた1330年頃の事です。
忠誠、裏切、勝者、非業の死とすさまじい戦乱乱世の時代(南北朝時代)のことであるとされています。
都を落ちのびて信濃の国への道すがら、玉野の地内に一夜の宿をとった一行(三十五名位)があった。
後醍醐天皇の忠臣達である。
ところが何者かに知られることとなり敵方(足利軍)に密告され一夜のうちに闇討ちの憂き目に合いまし た。
「なか媛」は敵に打たれるより、下臣にと自らの命を断ちました。
他の武士たちは、無念、残念、口惜しいと口走りながら最期の場所となった所が、この地であります。
運よく戦い抜いて玉野川を上り、遠く恵那の地まで逃げのびた者が二名居たとされます。
恵那の地に着いても安住の地はなく、霊を慰める所もなく、再び玉野に戻り百姓に身をやつし「なか嬢」一行の霊を祭ったとされております。」
碑文にある「忠誠、裏切、勝者、非業」
当時の人々は信義を重んじながらもこの時代を生きただろう。
それでも裏切は絶えず、争いは繰り返され、勝者の裏に必ず「敗者」の姿がある。
いつの世も、どちらに付くかで勝者と敗者の道に分かれ、勝者とてやがて敗者となる。
700年の学びの時を経た現代ですら身近にも、国内・世界を見渡してもやっている事はなにも変わらない。
幸せな事に判断を誤っても命までは取られないが、昨今起きている事を思うと重い選択を迫られているような気がしてならない。 -
後方左には無念の死を遂げた28名の名が記された慰霊碑と一間社流造りの社殿。
右手の「後醍醐なか刀自媛大神霊斎場」の石標も昭和63年(1988)に寄進されたもの。
一行を弔ったとされる2名の下臣達の血筋が、今も玉野に続いているのか定かではないが、有志によりこうして護られ、次の世代に受け継がれていくのだろう。
次の目的地は中央本線を越え玉野町の東外れに向かいます。
後醍醐なか刀自媛大神
創建 / 不明
祭神 / 後醍醐なか刀自媛大神他
所在地 / 春日井市玉野町5
玉川大神から後醍醐なか刀自媛大神まで徒歩ルート / 東へ約10分程 -
春日井市玉野町鎮座信清(のぶせい)神社。
後醍醐なか刀自媛大神から中央線を越え、線路沿いに東へ向かい徒歩10分程で信清神社に到着します。
鎮座地は玉野川(庄内川)右岸の玉野地区にあって、最東端と云っても過言ではない場所に鎮座します。
鎮座地は赤のマーカーになり、北側には新しい町玉野台が迫ってきています。
地図上で信清神社が示されるのは昭和42年(1967)以降からでした。 -
現在見る玉野川(庄内川)の姿はさほど荒々しい川の表情はないけれど、江戸時代末期から明治時代初期にかけて刊行された尾張名所図会春日井郡の編には、荒々しい玉野川の姿が描かれています。
現在の高蔵寺駅から少し上流の鹿乗渕(かのりふち)と呼ばれた場所から、玉野町方向の上流を描いたものと思われます。
正確な場所は特定できませんが、その名を留めた鹿乗橋が今も存在しています。 -
玉野地内の最東端にあるJR中央線第一新街道踏切を南側から北側方向を眺める。
何度も書きますが、町内の道は狭いので軽ならともかく、大きな車で分け入らない事に限ります。
信清神社はこの踏切を渡って線路沿いを右(東方向)に進みます。 -
来たねぇ。
-
行ったねぇ。
神社は道なりに進んだ左側に鎮座します、駐車余地、転回余地はないとしておきます。 -
信清神社全景。
民家の敷地入口の左側に門柱のように信清神社の社標が立っています。
社殿は切妻瓦葺で四方吹き抜けの拝殿?と同様の覆屋の二つの建物。
周辺には狛犬、神社由緒などは見当たらなかった。
色々と調べて見たが詳細は分からなかったが、玉川小学校の校区の歴史を紹介したHPがとても良く調べられており、そこから当神社の紹介を引用させて頂きます。
「玉野の東の端に信清神社があります。
今では、玉野台団地がすぐ上まで迫っていますが、以前は県道下半田川・春日井線から少し北に入った所で、人家もまばらでした。
言い伝えによれば、天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いで負傷した落武者が、この地で亡くなりました。
その後、落武者の霊を慰めるために村人達が小さな墓石を建てたということです。
墓の北側には小さな池があり、そばに大きな松の木がありました。
この松の大木は昭和の初め頃朽ちて倒れてしまいましたが、その松材でお堂を建て、子供達の「山の子」のこもり堂として使われていました。
そのためか、信清神社のことを近所の人達は「大松様」と呼んでいます。
現在のお堂は、梶田松園(しょうえん)さんが中心になり、二軒家の人々によって昭和57年(1982)に建てられたものです。
「信清神社」の名も、梶田松園さんが命名されたそうです。
この神社には、三つの社があります。
中央にあるのが信清様で、広瀬信次郎という武士の霊が祀られています。
右側にあって風雨にさらされたように見える社は、「山の神」とか「井戸神様」などと呼ばれていたもので、篠原左衛門尉(さえもんのじょう)忠孝と遠山左衛門尉頼房(とうやまさえもんおじょう よりふさ)という二人の武士の霊が祀られています。
この二人の武士も小牧・長久手の戦いの落武者で、以前は二軒家の山の中の沢水がわき出る所の近くに小さな墓石が二つあったそうです。
左側の社には、秋葉様と天王様が祀られています。
昭和10年(1935)頃に玉野にはやり病が広まり、二軒家でも何人かの子供が亡くなったそうです。
そこで、疫病退散を願って津島神社から天王様を迎えて祀ったといわれています。」
玉野町は決して大きな町ではありませんが、地域に鎮座する社寺其々がなんらかの形で結びつき、皇大神宮山住彦大神の由緒にもあったように、流行病に見舞われ神社も祀られていったようです。
そして、古い土地柄で武士との縁もあったようで、その都度村人により供養され、?後醍醐なか刀自媛大神のように、今もその思いは大切に受け継がれ、語り継がれている。
それら単に不吉な事象を恐れての行動だけでないような気がする、土地柄は人柄も育むものかもしれない。 -
社頭から社殿の眺め。
拝殿中央の床の板はなんだろうか?気になったが見忘れました。 -
拝殿先の覆殿の中央の社殿が広瀬信次郎をお祀りする信清様。
右が篠原左衛門尉忠孝と遠山左衛門尉頼房の二人の武士の霊が祀られています。
左が秋葉様と天王様の相殿のようです。 -
新しい榊も供えられ、創建時の思いは今も継がれているようです。
-
比較的新しく創建された小さな神社と云われるかもしれませんが、歴史の有無や規模で推し量れない人の思いが伝わってくる神社です。
信清神社
創建 / 昭和57年(1982)
信清様祭神 / 広瀬信次郎
井戸神様祭神 / 篠原左衛門尉忠孝、遠山左衛門尉頼房
秋葉社・津島社祭神 / 火之迦具土大神、牛頭天王または建速須佐之男命
所在地 / 春日井市玉野町1041
参拝日 / 2023/07/14
後醍醐なか刀自媛大神から徒歩で信清神社 / 東へ約10分
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