2023/10/07 - 2023/10/07
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gianiさん
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日本で2番目の長さ(12.1km)を誇る遠賀堀川は、福岡藩が着工から141年後にようやく開通しました。運河/灌漑用水として建設され、20世紀前半まで計り知れない経済効果をもたらしました。
遠賀川/支流/岡森用水路と連携して構築された高度な集水システムを、展示と実地で追い掛けます。源流から河口へ向けての移動が自然ですが、歴史的経緯を鑑みて河口から遡ります。
展示は、折尾駅の案内板/水巻町の案内板/中間市歴史民俗資料館を中心にしています。
- 旅行の満足度
- 5.0
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折尾駅の堀川沿いに、興味深い掲示がありました。
後述しますが、並行するJR筑豊本線とは深い関係にあります。JR筑豊本線 乗り物
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堀川運河とは
遠賀川と洞海湾を結ぶ全長12kmの運河です。福岡藩の初代藩主黒田長政によって、1621年に着工されました。
完成後は、水上交通路/灌漑用水/飲料水として恵みをもたらし、宝川と呼ばれます。 -
遠賀川の今昔
遠賀川下流域は、縄文時代は古遠賀湾と呼ばれる海域でした。
現在の河口から10km離れた中間市も、2600年前には海だっとの記録があります。ピーク時は、現在の河口から20km遡った直方市まで海域が広がっていました。
秀吉の朝鮮出兵(1592)の折にも、猪熊/三ッ頭が深い海だったと記録されています。
※猪熊は遠賀川と曲川に挟まれた地区/三ッ頭は曲川と江川に挟まれた地区です。麺-BAR- KOMOAN グルメ・レストラン
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福岡藩の「治水大計」
関ケ原後に入府した黒田長政は、福岡藩を流れる遠賀川の治水対策として1612年に「治水大計」を立案、河川改修に取り掛かります。 -
遠賀川の下流域は、梅雨/台風襲来時は氾濫(洪水)に悩まされていました。図の黒線が改修前の流路で、蛇行箇所から氾濫時に浸水し、土地利用できない低湿地(氾濫原)が多く存在しました。
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1613年以降、河道の直線化(図の黒線)/川幅を広げる/堤防を築く工事が行われ、1628年に完成します。旧河道は、古川と呼ばれます。曲川も、旧河道に含まれます。
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ちなみに延享年間(1744-47)には、三ッ頭の流れを直線化し、旧河道は曲川として現在に至ります。
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堀川工事の発案(1620)
1620年の遠賀川大洪水の被害状況を視察した藩主黒田長政は、遠賀川沿いの穀倉地帯を洪水から守る必要性を痛感します。視察した中間村(現中間市)の洪水対策として、遠賀川の水を洞海湾へ逃がす放水路建設を決めます。平時は灌漑用水として利用すれば、干ばつ対策にもなり一石二鳥という算段です。 -
着工(1621~)
翌1621年に、昨年の視察に同行した家老の栗山大膳を責任者に、堀川工事が始まります。田植えと稲刈りの時期を外した1-4,6-8月に、周辺の村人が工事に駆り出されます。村人は無報酬で働かされ、延べ6万人が動員されました。 -
工事中断(1623)
翌1622年に、難所に直面します。宮ノ尾の谷間を掘り進む際、降雨の度に周囲の赤土が流れ込んで埋まってしまいます。工事によるケガ人や死人も増え、貴船神社の下を開削していたので、神社の祟りだと士気も衰えます。
翌23年には藩主長政が死去して工事は中断、藩主忠之の一存で中止に追い込まれます。工事が中断した谷間は、現在JR福北ゆたか線が走っています。位置情報には、西側の近似スポットを入れておきます。堀川歴史公園 公園・植物園
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社会情勢の変化(藩外)
①物流革命
1672年に河村瑞賢が西廻り航路(日本海沿岸~瀬戸内海~大坂を結ぶ)が確立され、物流が活性化します。従来の瀬戸内だけでなく国内の殆どの地域と繋がった大坂は、天下の台所として日本最大の商業を形成しました。福岡藩も、大坂のゲートウェイ上の若松が藩の最重要港となります。
給与システムにも革命をもたらし、翌73年に知行制から蔵米制になります(家臣に土地を与える代わりに、米を支給。支給された米を蔵屋敷へ持ち込んで換金する)。
1717年には、遠賀川流域で穫れる米は、若松の修多羅米蔵(写真)に納品されることになります。 -
社会情勢の変化(藩内)
②享保の大飢饉(1732)
江戸時代四大飢饉の一つで、西日本を中心に甚大な被害をもたらします。福岡藩でも10万人の餓死者が出て、藩財政は困窮します。遠賀四郡の年貢米は、資金援助した大坂両替商への返済(決済手段)に充てられたので、若松から運ぶ年貢米は、藩運営の生命線でした。借金を少しでも減らすべく、米増産のために洞海湾沿いの本城御開(おひらき)の干拓が始まりますが(1745~)、水資源を確保できないまま工事は完了します(1750)。 -
堀川工事の再開の試みと挫折(1708,1737)
1700年以降、洞海湾沿いの干拓が盛んになり、干拓地の灌漑用水としての堀川開削が1708年に再開されました。今回は宮ノ尾の西側の水巻苗代谷を開削しますが、同年に800年ぶりに富士山が噴火し(宝永の大噴火)、火山灰が成層圏を覆ったために日差しが遮られ、凶作が続き敢無く工事は中止されます。
享保の大飢饉後、前回と同じ理由で1737年に苗代谷開削が再開されますが、岩盤が固く翌年に中止されます。 -
工事再開
1739年以降、遠賀川沿いの年貢米は大坂商人の返済に充てられることになったために、遠賀川と若松のある洞海湾を直結する重要性が増します。遠賀川沿岸の米は、奈良時代から鎮西米/筑前米というブランド名で高評価を得ていました。返済用の米を増産する新田を開発するには用水路が必要です。藩主黒田継高は、櫛橋又之進を責任者として堀川計画が再開します。 -
難所
又之進は遠賀郡元締に就任した1748年から、慎重に下調べを始めていました。「貴船の祟り」に代表される民意を汲み、翌51年に苗代谷と宮ノ尾の間に位置する車返の岩山を試験掘削します。工事を急がず、従事者には成果に応じた報酬を出したために、士気は上がります。 -
開通と完成
1760年に車返しの切り貫きが完成すると、両側の開削にシフトし、1762年に堀川は開通します。
40年後に延長工事が行われ、1804年に遠賀堀川12kmが完成します。岡山県倉安川(17km 1679年)に次ぐ長さです。
では、洞海湾から遠賀川へ向けて、堀川を巡ります。 -
遠賀堀川が洞海湾へ到達したのは、二島駅付近。現在は埋め立てで陸地化していますが、当時は海岸線でした。
二島駅 駅
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写真は、埋め立て後の二島。かつては沖合でした。
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本城御開干拓地
1745~50年に掛けて干拓。1762年に堀川が開通し、ようやく入植が可能になり水田開発されました。現在のイオン若松SC周辺です。
現在の堀川河口は、本城橋の先になります。どん太鼓 イオン若松ショッピングセンター店 グルメ・レストラン
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折尾駅まで遡ると、暗渠化します。
折尾駅の再開発で、1984年に暗渠化されます。 -
こんな感じで、南口付近で再び顔を出します。
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川沿いは、情緒ある飲食店街。
対岸から撮影。
冒頭で紹介した「ほりかわ物語」の掲示は、ここに立っています。堀川運河 名所・史跡
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実は、西鉄北九州線折尾駅(1914-2000)が川沿いにありました。
東口トイレは、1916年竣工の高架駅跡に建ちます。6連の赤レンガ積の土台でした。
筑豊本線の線路を跨ぐために、開業当初から高架化されました。 -
当時の写真
堀川を渡ると駅舎。門司方面 電車と書かれています。開業当初は九州軌道の名前で、戦中の国策合併で1942年に西日本鉄道となりました。 -
当時の写真と図で、トイレ部分は1985年の火事で焼失/撤去され、筑豊本線の短絡線を跨いで東側にも3連の赤レンガ橋がありました。
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東側の赤レンガ橋は道路を跨ぐ関係で、現存します。全長28m。上を路面電車が走っていました。右側には、筑豊本線を跨ぐ鉄橋が架かっていました。
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内部のアーチ部分の煉瓦が水平ではなく、斜めに捻じった積み方になっています。
道路が直角ではなく、75度で交わるゆえの積み方で、「ねじりまんぼ」という特殊工法としては日本最大級かつ立入が禁止されていない唯一の場所ということで、建築史の教科書に掲載される物件です。 -
拡大写真
垂直部分とアーチ部分で、積み方の違いがはっきりとしています。 -
折尾隧道(トンネル)と刻まれたものも放置。
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再び暗渠化し、上には筑豊本線が走っていました。2022年の高架化に合わせて、線路が撤去されています。
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旧筑豊本線は西岸を走り、再び顔を出します。
川幅は6.4~18.2mで、平均は11mです。 -
国道3号線が上を跨ぎます。
この辺りは、1623年に中断した工事で550mを開削しました。 -
当時、船を留め置く綱を結んだ舫(もやい)石が3体残っています。
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堀川を渡る地点で、旧線路と新線路が交わります。
新線路に並んで、19世紀の煉瓦製の橋の土台が写っています。 -
後ろを振り返ると、こんな感じ。
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ヘアピンカーブを上ると、新路線のトンネルが。
筑豊本線は、折尾駅の地上を走っていたために市民の通行の妨げになっていましたが、高架化されて問題を解消しました。 -
後ろを振り返ると、こんな感じ。
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県立折尾高校入口。校内に「堀川ものがたり館」という施設があり、一般公開されています。
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高校の麓は、車返しの切り通しです。
1751年に着工し、1757年に貫通します。幅は5.5mありました。 -
昭和初期の光景
川幅が広く、行き違いも可能です。 -
深い谷を上ります。
1759年には幅を6.4mに拡張する工事が完了し、第1期工事は終わります。 -
ここが峠のサミット。何気に北九州市/水巻町の境界線です。
全長456mの車返しの切り貫きは、この部分は川底から20mの深さの岩盤を切り貫きました。 -
岩盤を削った跡が、生々しく残っています。福岡城築城から代々藩お抱えの郷夫(石工)90名が、手道具だけで削る難工事でした。
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上の写真の部分のヘドロを取り除くと、「三尺五寸(106cm)下」という文字や、15m下流では石工頭の勝野文兵衛の「文」の字が刻まれていました。この辺りは、川ひらたの接岸施設があったと思われます。
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分かりやすい表示。
土石の運搬は村人の仕事でしたが、成果に応じた報酬を与えたので志願者が続出。延べ10万人が従事しました。 -
車返しの切り通しの全容と技法
矢穴法
楔を打ち込む穴を開け、楔を打ち込みます。割れ目に金挺を差し込んで、てこの原理で切り離します。
切抜技法
ツルハシ状の工具で周囲に溝を入れます。底面は楔を打ち込んで割れ目を作って、金挺を差し込んで切り離します。最後に、底面をツルハシ状の金具で平らにします。 -
峠を越えると、川沿いへ降りられます。
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河守神社
農業用水の神である岡象女神を祀ります。堀川の受益者16村が氏子になっています。氏子は堀川の運営にも携わり、水門の補修や川床の浚渫等を自ら行いました。費用は、通行料を徴収することで賄いました。 -
河守神社前の光景(大正時代)
陶磁器にプリントされた写真が、沿岸に展示されています。 -
堀川通船改所
河守神社の敬神橋(1914年架設)の向かいにありました。受持ちが藤市と平蔵と記載されているので、1844-59年の時期だとわかります。 -
堀川筋条目十二ヶ条
藩政時代には1765-1870年に掛けて、修正がなされています。受持(車返し切通の管理者変更によるものが多いです。) -
新貴船橋を渡ります。
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反対側には貴船橋。
実は、貴船橋の地下で吉田川が立体交差しています。これを伏越といいます。 -
吉田川の伏越
吉田川は灌漑用水路として建設されましたが、堀川開通に伴い排水路へと役割が変化しました。交差部分は石囲いのトンネルとし、逆サイフォンの原理を利用しています。
トンネルの断面は幅190cm×高さ90cmで、全長は25mです。石材は、車返しの切り通し工事で切り出された砂岩を使用しています。上の写真は、図と同じ構図で撮影したものです。 -
貴船橋の先で吉田川(左側)が顔を出し、堀川と並行しています。
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明治中頃の貴船橋付近の光景
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曲川伏越付近の光景。
吉田伏越の少し上流には、曲川伏越もありました(1986年の曲川改修によって、堀川は分断されています)。 -
自動車のある光景
旧吉田村の上流側は、岩瀬村が隣接していました。
役者廻りの光景です。江戸時代から、堀川沿いには商家が立ち並んでいました。 -
貴船橋のある吉田からの2kmは、1623年の工事中断までに開削した部分です。中間屋島地区の小学校付近の光景。
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昭和初期の堀川沿いに葬列が。
写真の100年ほど前の光景。
屋島地区は、遠賀川橋梁の北側です。 -
同上
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筑豊本線(遠賀川橋梁)が堀川を跨ぎます。遠賀川を渡る唯一の鉄橋で、橋桁を支える煉瓦は、19世紀のものです。
石炭輸送を目的に建設された路線で、若松~中間は複々線、中間~植木は1923年に3線化されました。1954年に真ん中の線路が撤去され、写真のように複線に戻りました。 -
中間市役所の裏を通過。市役所の地盤は遠賀川堤防に合わせているので、高低差が大きいです。
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市役所の先には、唐戸の大楠二本が。堀川開通時に植えられたと考えられます。
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この辺りは、堀川との距離が近いです。
車返しの切通では最大20mの深さまで開削しましたが、このあたりは僅か1.8m程度の掘り込みです。 -
黒川に並行する道路を潜ると、中間唐戸が。
堀川の中間唐戸 名所・史跡
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1910年撮影の同じ構図。
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中間唐戸(1762)
唐戸は水門のことです。堀川の基点に立ちはだかります。遠賀川が洪水になると、堀川流域を水害から守るために唐戸を閉鎖しました。このことから、黒田長政が期待した洪水対策としては機能していなかったことがわかります。
現在の建物は、1821年に改築されたものです。堀川の中間唐戸 名所・史跡
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中間市歴史民俗資料館には、模型と共に唐戸水門に関する展示があります。
水門の幅は最小限に抑えて、工費を節約しています。ひらた船が通過できる幅を意味します。中間市歴史民俗資料館 美術館・博物館
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ひらた船(川ひらた)
水深の浅い内航向けの設計で、船底を浅くしています。排水量(船の浮力)を確保するためにギリギリの喫水です。
サイズ的には長さ15~24m/幅3~4mの範囲で、小ひらた/大ひらたに細分されます。内航船のカテゴリーとしては、高瀬舟/ひらた船/五大力船の順に大型化します。
下りは水流の力で、上りは帆を張って風の力で、風が凪ぐと土手から綱で曳いて走行しました。 -
中間唐戸の構造
堰戸:上流より表戸/裏戸の順に2箇所設置され、もし表戸が水圧で壊れても裏戸がフォローする体制です。両者は4m離れています。堰戸は、長さ330cm×高さ19cm厚さ20cmの杉板で、枠内の溝に1枚ずつ填め(落し)込んで水位を調節します。
天井石:堰戸の上に、厚さ40㎝の一辺5m以上の大きな石が橋のように両岸を結ぶ形で敷かれています(赤線の部分)。
中戸:天井石の上に設置され、表戸で堰き止められた水がオーバーフローした場合に堰き止める役割です。
上戸:唐戸の管理棟。世襲の唐戸番3名が業務に当たりました。「堀川筋条目」の規約に沿って行います。 -
実物の側面。
中戸の柱と上戸(番屋)が写っています。
惣社山の岩盤をくり抜いて設置しているので、天井石と併せて強固な造りです。 -
唐戸番の仕事は堀川へ流れる水量を調節することで、最も重要なのは堰戸を閉める業務です。
堰板を(一枚ずつ枠の溝に)落とす際は、水平を保たない上手く行かないので、2人掛りで左右のバランスを取りながら行いました。
報酬は米で受け取りましたが、戦後は現金払いになりました。 -
建設経緯
もともとは1.5km下流の中間小学校付近に水門を設けて通水しますが、洪水の際の水圧に耐えられず、2回に亘って壊れます。
藩は、農民を束ねる現場監督を務めた一田久作を岡山藩へ派遣し、倉安川の吉田水門の構造を詳細に観察してきます。水圧に耐える惣社山を選定し、堰戸/堰板/中戸にノウハウを注ぎ込みます。こうして完成した中間唐戸は、1763年の元日に通水を開始しました。中間市役所市立歴史民俗資料館 美術館・博物館
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一田久作は木屋瀬の村庄屋で、藩から現場監督を拝命すると吉田村へ移住し、車返しの切り通しの難工事を完遂させました(写真)。視察は、岡山藩の内部機密を持ち帰る命懸けの使命でした。完成後は、藩から堀川の管理と通行料の徴収を任されます。
写真は『筑紫遺愛集』勤功者巻より遠賀下の章の12ページ目の久作の件の挿絵で、車返しの工事を監督している様子。 -
米の増産
遠賀堀川の開通により、16村で480haの水田が開発され、特に洞海湾沿いの本城村/陣原村が大きな恩恵を受けました。既存の水田も旱魃に強くなり、遠賀郡全体では収穫量が2万石増加しています。
新たな輸送体系
遠賀堀川は、年貢米を若松港に面した蔵屋敷へ速達するだけでなく、九州一の幹線長崎街道に並行しているので、物流/旅客面でも革命をもたらし、芦屋(港)や黒崎宿の代わりに若松が繁栄します。
写真は、明治時代の雪景色 -
上流側から見た中間唐戸
右から左へ流れる黒川の(遠賀川との)合流点の直前に設置されています。
厳密には、遠賀川→黒川(数十m)→遠賀堀川(中間唐戸)という順に航行します。
以上が、黒川からの分岐点から洞海湾まで全長9.2kmの流路でした。 -
角度を変えた構図
正面が黒川(上流)で、左が中間唐戸、手前が黒川(下流)/遠賀川。 -
遠賀堀川の弊害(1763-1804)
遠賀川は梅雨/台風で氾濫する一方で、普段は流量が少なく、慢性的な水不足で悩まされていました。それで、黒川の合流点のすぐ下流地点に堰を築いて、渇水期も堀川取水口の水位を維持しました。
堰で堰き止められると川の流れが悪くなり、上流に水が滞留して域内の水田が水浸しになる問題が深刻化します。(参考写真:堰跡近くに最近建設された製鉄用の取水堰) -
岡森用水路(1772~)
1763年に、遠賀川支流の彦山川の岡森堰から取水して中間水門(正確には黒川)に到達する岡森用水路を開削します。堰建設は失敗しますが、1772年に無事に完成します。遠賀川左岸の水田開発によって、耕地が増加しました。遠賀川以外の水源(彦山川/福地川/藤野川/尺岳川/近津川/笹尾川)と交差することで、堀川の集水面積は15平方km(黒川)から64平方kmに拡大し、遠賀川の取水堰なしでも安定供給できるようになりました。写真は、遠賀川最大支流の彦山川。
※近津川は、尺岳川の支流。 -
寿命(じめ)の唐戸(1804-)
1804年に、灌漑目的で開通した岡森用水路の一部を水運にも活用することになり、中間唐戸の3km上流の寿命に唐戸を建設し、同年に完成しました。
こうして、全長12.1kmになる遠賀堀川は完成に至ります。 -
写真左の道路は、黒川と笹尾川に挟まれた土手道。黄緑のトラス橋と水色の水道橋は、笹尾川に架かっています。
中間唐戸から150mほど黒川を遡ると堀川が分岐し、200mほど進むと笹尾川に合流し(1985年の笹尾川改修で分断)、笹尾川を遡ります。 -
遠賀川右岸から見ると、下流より青い三連水門が黒川合流点/黄緑の鉄橋が架かっているのが笹尾川合流点です。
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笹尾川を2kmほど遡ると堀川が分岐します。
堀川を500mほど遡ると、現在の唐戸橋の横に寿命の唐戸が建ちます。
1804年に完成しました。 -
まさか!!!
2022に解体され、現在は修理工事中、、、、、、 -
残念ですが、天井石が露出。解体されてこそ観られる貴重な内部です。中戸の部分の石柱も見えます。この上に上戸(建物)が建っていました。
構造的には中間唐戸と同じですが、岩盤ではなく土を掘ったために、壁面を石垣にする補強工事が天保年間(1840頃)に行われています。 -
唐戸周辺は、かなり掘り込まれています。
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寿命の唐戸から200mほど遡ると、遠賀川に合流します。
寿命までの延長は、木屋瀬村庄屋が音頭を取りました。木屋瀬宿の船着場までは1kmにも満たない距離で、木屋瀬をハブ港とする水運体系が形成され、利便性が向上しました。木屋瀬にも富が蓄積されます。
木屋瀬は、犬鳴川が遠賀川に合流する地点/赤間道が遠賀川を渡る地点でした。遠賀堀川の始点も加わると、海の玄関若松/陸路の小倉へも接続し、中継点の重みが増しました。 -
遠賀堀川の全容
遠賀川から分岐し、700m進むと笹尾川に合流します。寿命の唐戸が構えています。
(笹尾川を2kmほど航行)
笹尾川から分岐して黒川に合流するまで200mの開削区間は、現在の地図では新堀川と記載されます。
(黒川を150mほど航行)
中間唐戸から洞海湾まで9.2kmの区間は、現在の地図では新々堀川と記載されます。曲川を2箇所の伏越で回避し、車返しの切り通しを抜けて折尾を経て、本城橋の先で洞海湾へ注ぎます。 -
寿命の唐戸付近の河川敷には、唐戸番を務めた小林藤次郎の顕彰碑があります。
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石炭産業を支える堀川
長崎街道に並行した堀川は、年貢米だけでなく石炭輸送でも活躍します。福岡藩の石炭産業は18世紀に確立され、遠賀川流域は日本最大の産地とあって、堀川経由で小倉/長州藩へ販売されました。特に1780年以降は瀬戸内の製塩用に輸出されます。 -
明治維新後は、筑豊炭田から若松港まで1900年の13万艘をピークとするひらた船輸送が繁栄しました。写真のように、若松港には石炭を積んだひらた船が溢れ孵っていました。しかし1891年に開通した鉄道にシェアを奪われ、1939年に堀川からひらた船は消滅します。
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堀川の衰退と現在
戦前の堀川は飲料水/食糧(鰻/蜆等)を供給していたので、交通量が多くても水は澄んでいましたが、戦後は工業化/都市化が進み、上水道普及と水田減少で水質汚染が深刻になりました。
堀川の水質悪化に伴い1972年に農業用水が管路送水に切り替わると、堀川は当初の設置目的を失い、下水道(排水路)と化します。当初の目的を失うと、運営管理も行政に移ります。現在は、市街地降水時の排水路として組み込まれています。 -
寿命の唐戸から遠賀川へ遡る途中に、岡森用水路が分岐します(現在は分断)。
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岡森用水路は、楠橋ポンプ場の裏側を渡ります。下水処理と雨水の排水を担う施設です。
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ポンプ場の横を山陽新幹線と九州自動車道が横断します。
ガードを潜ると木屋瀬宿です。 -
長崎街道木屋瀬宿の東構口(宿場の入口)の前を、岡森用水路が横断します。歩道の端に白い柵が建っている部分です。
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木屋瀬宿の絵図
赤:長崎街道
青:岡森用水路
両者が交差しているのが、上の写真の東構口。 -
感田の堰跡を越えると尺岳川に合流し、
長崎街道の渡河地点(直方宿 現在の日之出橋 写真)で藤野川が合流し、
岡森堰の直前で福地川を合流して彦山川に至ります。 -
主なスポット
黄:木屋瀬宿
橙:寿命の唐戸
赤:中間唐戸
緑:1762年に設置して破棄された唐戸
青線:車返しの切り通し
赤線:貴船の祟りルート
黄緑:宮ノ尾ルート
青:折尾駅
水色:終点(洞海湾)
橙線:遠賀川の分水界 -
主なスポット
紫:岡森堰
橙:寿命の唐戸
赤:中間唐戸
緑:車返しの切り通し
黄:終点(洞海湾入口)
青:若松港
橙線:分水界 -
オフレコとしては、子供の遊び場でもありました。
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寿命の唐戸のそばに、ふしぎなお城(個人宅)が。
住民に尋ねると、何も知らないとの返事が。
本当に知らないのでしょうか?
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