2023/09/03 - 2023/09/05
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entetsuさん
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この旅行記のスケジュール
2023/09/04
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家内が20年以上ファン歴ある松本潤さん主演のNHK大河ドラマ「どうする家康」。史実と脚本が時々大きく外れたりして、突っ込みを入れながらも歴史系(笑)ドラマとして、まぁ楽しく観させて貰っています。
今年3月には、伊勢神宮に参拝する途中、静岡市の「久能山東照宮」に立ち寄りましたが、いよいよ大河ドラマも佳境に入って来ました。ちょうど、小牧・長久手の合戦の回も近づきつつあります。
と言うことで、駿河・静岡、遠近江・浜松、三河・岡崎、尾張・犬山、小牧、長久手と2泊3日で出かけてきました。
2日目と3日目は愛知県です。
※のんびり9月の旅行記を今頃仕上げていますが、もう12月の声を聞き、大河ドラマも終わりそう。急仕上げになります~(笑)。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 4.0
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
愛知県最初の訪問は岡崎です。
利用したのは「岡崎ニューグランドホテル」です。
すぐ隣が岡崎城です。
夕方着きましたが、静岡~浜松と回り、疲れてしまいすぐ寝てしまいました。岡崎ニューグランドホテル 宿・ホテル
-
部屋からは岡崎城の天主がよく見えました。
右は、ホテル前にあったパネルで一枚。 -
翌朝、ホテル目の前の乙川添いの竹千代通りを通って岡崎城公園を散策します。
乙川には河川敷公園があります。この先下流で矢作川に合流し三河湾に流れ込みます。
岡崎城は小高い山城ですが、水運も考えてこの地に築城されたのだなということが解ります。 -
乙川側、つまり公園の裏側から岡崎公園に入りました。
「龍城堀」と呼ぶ濠らしい。桜の樹が多く、春は綺麗なことでしょう。
赤い橋は「神橋」とよび、本丸天守方面に繋がっています。岡崎公園 花見
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神橋を渡った本丸の南側付近は「風呂谷曲輪」と言うらしいですが、極めて防御性に優れていたようです。
石垣は野面積み。 -
イチオシ
本丸脇多門櫓台の石垣です。
築城は家康時代でしょうか・・・? -
岡崎城のすぐ隣には「龍城(たつき)神社」があります。
徳川家康公と本多忠勝公を御祭神としておまつりする岡崎市の中心神社です。
家康公生誕の朝、城楼上に雲を呼び、風を招く金の龍が現れ昇天したという伝説が残るパワースポットとしても有名なのだそうです。龍城神社 寺・神社・教会
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神社の参拝だけして、天守は後ほど見学します。
銀杏の木にはたわわに実ったギンナン。 -
城の西側を歩いています。
乙川に流れ込む水路が見えますが、土塁が続いています。 -
イロハモミジです。
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西側から見上げる岡崎城です。
岡崎城 名所・史跡
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「産湯の井戸」。
徳川家康が誕生した際、この井戸の水が産湯として使われたと伝わります。 -
ずっと土塁が続いていて、なかなか見ることの無い景色です。
城の規模以上に岡崎城の防御力が優れていたということがよく判ります。 -
おぉ、これは!?
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説明板には、持仏堂曲輪の腰巻石垣とありました。
「腰巻石垣」(こしまきいしがき)とは、土塁の下部だけを石垣にした物。水堀や川に面している土塁では、水によって土塁が削られてしまうので、水面の少し上の高さまでを石垣にすることで土塁が削られ、崩れることを防いでいます。また、石の節約にもなるのだそうです。 -
一旦、岡崎公園の上の方にやって来ました。
本多忠勝公の像。
大河ドラマでは山田裕貴君が熱演していました。 -
北側から見た岡崎城。
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常設の「三河武士のやかた家康館」があり、大河ドラマ館はここで開催されています。後ほど、観賞します。
三河武士のやかた家康館 美術館・博物館
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一旦城の敷地内から外に出ました。
この「大手門」は、岡崎公園の表玄関にふさわしい建物として、1993年に再建されました。(高さ11m、幅16.4m、奥行6.3m)
本来の岡崎城大手門は、現在の浄瑠璃寺の南(北東約200m)にあったそうです。 -
「岡崎宿」は東海道五十三次の中でも屈指の規模を誇る宿場町でした。
旧街道(欠町から伝馬通、材木町から八帖町、矢作橋へとつながる)は、「岡崎二十七曲り」と呼ばれ、現在でも街道筋には二十七曲りを示す碑や常夜燈が残されています。
家康公の江戸入りの後に岡崎城城主となった田中吉政は、東海道を城下町に引き入れて、くねくねとした屈折の多い道筋「二十七曲り」を作りました。これは城下防衛とともに、街道筋に店舗を並べて旅人たちにとどまらせる経済効果を狙った道として作られたそうです。 -
家康公像。
1965年(昭和40年)、徳川家康公350年祭を記念して建てられたました。 -
これも徳川家康公像。
若き松平元康(徳川家康の旧称)の凛々しい騎馬像です。 -
北側から天守に向かっています。
空堀ですね~。
年月の経過によりだいぶ浅くはなったようですが、土を掘って高低差を設け、攻め寄せてくる敵を遮断するのが目的で、空堀は水を張らずに敵をここで足止めさせて狙い撃つという効果があります。 -
徳川家康と竹千代の像が置かれたベンチ。
優秀な石職人の技術と地元産の御影石(みかげいし)を使って造られています。 -
本丸の東側に向かっています。
本丸と持仏堂曲輪の間にある空堀と石垣です。
石垣は田中吉政時代のものと伝わりますが、この土塁は家康時代のものともいわれます。 -
天守の東側から望んでいます。
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空堀です。
右側には石垣がありあますが、左側は土塁になっています。 -
さて、それでは「どうする家康 岡崎 大河ドラマ館」に入館します。
料金は大人800円・小人400円で、浜松のドラマ館と同額でした。 -
岡崎城は松平家が城主を務め、1524(大永4)年に家康公の祖父、松平清康が城主になると、大規模な改修・拡張がなされました。 次いで父、広忠が城主を務めていた1542(天文11)年12月26日に家康が岡崎城で誕生します。
-
家康公は、幼年期を岡崎城で過ごします。しかし、6歳のときに尾張の「織田信秀」の人質に、さらに8歳を迎える頃には駿府の「今川義元」の人質となり、少年期を他国で過ごすこととなりました。
1560年(永禄3年)、家康公は「桶狭間の戦い」で今川義元が戦死したことを契機に自立。岡崎城に復帰し、天下統一という偉業を果たすための拠点とします。
1570年(元亀元年)、家康公は本拠を「浜松城」に移し、嫡男の「徳川信康」が岡崎城の城主となりました。 -
つまり家康公は計16年、この地に住んだということですね。
岡崎城の中を観覧します。 -
岡崎城から眺めた景色。
岡崎城は、明治維新後、城郭の大部分が取り壊されてしまいましたが、市民の想いによって1959年(昭和34年)に3層5階建ての天守閣が復元され、2006年(平成18年)には「日本100名城」に選定されています。
この後、一旦ホテルに戻りチェックアウトします。 -
車を15分ほど走らせてやって来たのが「大樹寺」です。
これは「山門」。
1641年(寛永18年)、三代将軍徳川家光公建立(県指定文化財)と伝わり、楼上に後奈良天皇の勅額「大樹寺」(重要文化財)が掲げられています。また釈迦三尊16羅漢を安置しています。大樹寺 名所・史跡
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松平家・徳川将軍家の菩提寺で、文明7年(1475)松平家4代親忠公により勢誉愚底上人が開山しました。
かつて今川方として参戦した「桶狭間の戦い」で敗れた家康公が岡崎へ逃げ帰った際、大樹寺の周りを敵に取り囲まれこれまでと自害を試みた時、住職から「厭離穢土欣求浄土」(汚れた世を正し太平の世を目指す)との教えを受け切腹を思いとどまったことから、家康公再起の場として歴史的にも大きな役割を果たしたお寺です。 -
「鐘楼(県指定文化財)」。
1641年(寛永18年)、三大将軍徳川家光公建立。
楼上の大鐘は9代将軍家重公改鋳によるもので、毎年、除夜の鐘で人の列が出来るそうです。 -
「本堂」。
松平家と徳川幕府の庇護のもと隆盛を誇っていた大樹寺も、1855年(安政2年)幕末の騒然たる時代に、出火により本堂、庫裏、書院など主要建物が全焼しました。 -
「松平八代・家康公墓地」。
1615年(元和元年)、家康公は先祖松平八代廟所を寺内に建立しました。元和三年には家康公の一周忌が営まれ、現在の墓の姿が整ったとされます。昭和44年には岡崎市民が家康公の徳を顕彰して遺品を納めて墓と碑を建立しました。 -
大樹寺のすぐ南には大樹寺小学校がありますが、グランドの先にかすかに門が見えます。実は、その門は大樹寺の総門に当たります。
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その総門越しに先ほど見てきた岡崎城が見えます。
大樹寺の山門を起点に、総門と岡崎城を結ぶ約3kmの直線は歴史的眺望「ビスタライン」と呼ばれ、約380年間守られてきた岡崎を代表する景観として知られています。 -
大樹寺参拝を終えて、再び岡崎公園に戻り、ランチにします。
八千代本店。岡崎公園内にある創業130年を超える、和食の老舗です。八千代 本店 グルメ・レストラン
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ここの名物は、家康公も愛したと言われる岡崎名産の八丁味噌と紀州の備長炭を使用し、八丁味噌そのものの味をストレートに味わえる「木の芽田楽」。
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注文したのは、「なめし田楽 さしみ付定食」3,300円(税込)です。
さしみ、菜飯、木の芽田楽、吸物、漬物、果物です。
妥協していないお刺身類。この夏、初めてハモもいただきました。 -
菜飯と吸い物も上品で絶品です。
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程なく香ばしい香りをまとった「木の芽田楽」が来ました。
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イチオシ
紀州の備長炭を使用。
八丁味噌そのものの味をストレートに味わえます。
豆腐の食感がいいです。
忘れられない味でした。 -
大河ドラマ館前にあった土産物店。
家内が顔物をしたいとのことで立ち寄りました。 -
昼食を終えてやって来たのが、犬山市。
もちろん、お目当ては国宝・犬山城です。犬山城下街筋にあったコインパーキングに車を駐めて犬山城を目指しています。
この神社は、「針綱神社(はりつなじんじゃ)」。
犬山城の南の登城入り口近くにあり、犬山城の守護神でもあります。針綱神社 寺・神社・教会
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猿田彦神社。
猿田彦は古事記、日本書紀の天孫降臨に登場する神様です。
天孫・邇邇芸尊(ににぎのみこと)が天降りをしようとした時にその先導をしました。その古事から、道開きの神として有名です。猿田彦神社 美術館・博物館
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そして並ぶようにもう一つあったのが「三光稲荷神社」。
ご祭神は伏見稲荷大社と同じく宇迦之御魂神(お稲荷さん)です。三光稲荷神社 寺・神社・教会
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犬山城への近道との記載あり。
「針綱神社」と共に犬山城の守り神であります。 -
「三光稲荷神社」の近道を使い、大手道を進んで行くと野面積みでしょうか、かなり古そうな石垣が見えてきました。
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大手道最後の門である「岩坂門」。
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隅部の積み方が算木積み(直方体の石を、長辺と短辺を一段ごとに互い違いになるような積み方)をしているので、築城時以降に補修された物のようです。
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天守正面。
二重の大きな櫓の上に、小さな望楼を乗せています。
三重四階+地下二階(石垣内部)の望楼型天守だそうです。 -
イチオシ
国宝・犬山城は、まだ室町時代だった1537年(天文6年)に織田信長の叔父・信康が築城しました。天守は現存する日本最古のものです。
信長・秀吉・家康がそれぞれの時代に犬山城を手にしたことで天下人への道を切り開きました。国宝犬山城 名所・史跡
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右にちょっと飛び出ている付櫓(つけやぐら)を下から見上げます。
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あまり詳しくはないですが、石積みも興味深い。
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入城します。
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付櫓部分から上がって行きます。
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東側から見た風景。
見えている川が木曽川です。 -
木曽川の下流方向(西側)の風景です。
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犬山城は、尾張と美濃の国境にあり、木曽川沿いの高さ約88メートルほどの丘に築かれています。ご覧のような絶景で、とにかく見晴らしが良い。
各武将がこの城を欲しがった訳がよく解ります。 -
イチオシ
名鉄犬山線の犬山遊園駅近くの木曽川を渡る橋まで来て撮った一枚。
犬山城の立地の様子が良く解ります。国宝犬山城 名所・史跡
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今回の「どうする家康?」旅の2泊目は、小牧市の「キャッスルイン 小牧」。
系列の「伊勢二見浦」には2度ほど泊まったことがあります。キャッスル イン 小牧 宿・ホテル
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夕飯は館内の「天手鼓舞 小牧店」でいただきました。
天手鼓舞 小牧店 グルメ・レストラン
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朝食会場もこちらでした。
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今日は「どうする家康?」の3日目。
小牧・長久手を回ります。 -
ホテル駐車場から見えるのがなんと、「小牧山」です。
標高86mのこんもりした小山ですが、戦国時代のキーともなったった山です。
織田信長は、1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いに勝利した後、美濃攻めを開始し小牧山山頂に城を築きます。その後、美濃国併呑を実現した後、美濃斎藤氏の本拠地であった稲葉山城に拠点を移し城下町の機能を全て移転させたため、小牧山城は約4年間で廃城となります。
1584年(天正12年)、羽柴秀吉と徳川家康が戦った小牧・長久手の戦いでは、家康がいち早く小牧山に目を付けて本陣を置き、遅れてきた秀吉を悔しがらせたといわれます。この時、信長の築いた城跡の土塁、空堀などに大規模な改修が施されたと考えられています。 -
さて、この近代的な建物は・・・?
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小牧市役所です。
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最終日のこの日は、小牧市観光協会の観光ガイドさんと待ち合わせており、家康公の生涯でも重大な合戦のあった「小牧・長久手の戦い」の舞台だった小牧山城を歩くことになっていて、市役所はその待ち合わせ場所です。
観光ガイドさんは貸切で、FAXで事前申し込み、コース等も応相談です。交通費として1000円必要です。 -
市役所は小牧山のすぐ目の前にありました。
頂上に小牧山城が少しだけ見えています。 -
「家康の天下を取る 大坂にあらずして関ケ原にあり 関ケ原にあらず 小牧にあり」。これは、江戸時代の歴史家にして思想家の頼山陽の「日本外史」にある記述ですが、「小牧長久手の戦い」は、大河ドラマでもかなり綿密に描かれていました。
一度は来てみたかった土地です。 -
イチオシ
観光ガイドさんと無事会えました。私より、5・6歳程先輩の男の方でした。
さぁ、ウォーキング開始です。
史跡公園南口から小牧山に入っていきます。小牧山 自然・景勝地
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市の職員さんが、土塁の上に茂ってきた木々や草を綺麗にしています。
ガイドさん曰く、元来土塁に草木が生えていると、土塁が崩れやすくなったり、敵が隠れ易くなったりします。また、景観上も美しく無いので定期的な作業が必要なんだとか。
また、小牧市役所には「小牧山課」という課があります。 -
ちょうど正面が土塁です。
手前の平坦な部分を「曲輪(くるわ)」と呼ばれます。
曲輪とは、土塁や堀などで囲まれた平坦な面のことで、小牧山城内には多くの曲輪があります。 -
土塁です。
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土塁の上を歩いています。
この付近は通路になっていて、土塁の上を歩くことが出来るのは全国でも珍しいのではないかとガイドさんが言っていました。 -
広い曲輪にやって来ました。
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曲輪402とあります。
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近年の研究や発掘調査により、小牧山の東から北の麓に、山を取り巻くように武家屋敷を、配置していたことが明らかになりました。
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中でも、城の南東部にある曲輪402は、北側に続く他の曲輪が45㍍四方の規模の武家屋敷であるのに対し、75㍍四方と小牧山城の中で最も広い面積を持つため、信長公の居館跡ではないかと推定されています。
家康公が本陣をおいたときには、兵駐屯として使われただろうとのことです。 -
この日は9月5日。
観光ガイドさんの予約をした際は、少しは暑さも和らいでいるだろうと言うことでしたが、なんとこの日の最高気温34.7℃~。汗だくです。 -
左右に土塁があってその間を進んでいます。
右側(外側)の土塁が切れて、左側(内側)に土塁がある地点です。
高さは、外側が約3メートル、内側が約9メートルあります。 -
この辺りの土塁には、あえて樹を植えているそうです。
低いところはツツジのようです。 -
山の北側には、土塁断面をアクリル板越しに観察できる「土塁断面展示施設」があります。
土塁は下から黒っぽい土、黄土色の土などに分かれています。 -
この土塁は、小牧・長久手の戦いの際、徳川家康による改修で築かれた土塁と考えられていますが、公園の整備の際、北側からの出入り口を造りため土塁を切ることになり、断面を観察できるようにしようと決めたらしいです。
-
秋の七草のひとつ、萩がありました。
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これは、虎口(こぐち)とよばれる施設。
城の中と外をつなぐ出入口です。 -
小牧・長久手の戦いの際には山麓に5か所、中腹に3か所の虎口が設けられました。
-
土塁です。
この辺りでも係の職員さんが整備をしていました。 -
幟も立てて、雰囲気満点です。
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土塁は、小牧・長久手の戦いの際、徳川家康の改修で堀とともに山麓にめぐらされました。30年ほど前に小牧市役所移転にともない復元されました。
また、ガイドさんの通われていた市立小牧中学校も、元々小牧山の東側の史跡公園にあったそうですが、1998年(平成10年)に移転されたとのことです。 -
イチオシ
大手口。
小牧山城の正門にあたる出入口です。 信長の築城時に整備されました。 -
採石場。
石垣用の石を採集したとみられる場所。 小牧山城の石垣の多くは現地で採れた石を使用しているのだそうです。
奥まったところにあるので、ガイドさんと一緒でなかったら気付かなかった。 -
信長築城の頃は、ここを通っていたようですが、今は、脇に登りやすい道が出来ています。
-
でも、息絶え絶えです(笑)。
土の壁のようなものが見えてきました。
その先に、小牧山城があるはず・・・。 -
ただ、この建物は小牧山城ではありません。
「小牧山歴史館」といいまして、名古屋市在住の実業家、平松茂氏(故人:小牧市名誉市民)が私財を投じて建設し、小牧市に寄贈されたものです。鉄筋コンクリート造、三層四階建てで、高さは19.3m、4階展望室の高さは約14m(標高100m)です。小牧山歴史館 美術館・博物館
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城郭は、発掘調査の結果発見された石を積んでいます。
今なお修復再現中です。 -
手前の草が生えているところが、信長時代の石垣だと推定されています。
織田信長は、1563年(永禄6年)頃、こちらの小牧山城を築城したとされています。今までの山城の常識を覆し、土で固めた土塁や堀だけでなく、かなりの高さのある石垣を用いて城を造りました。
土の城から石の城へ。この小牧山城を起点に始まった城づくりは、見るものを圧倒しました。そして、家臣であった豊臣秀吉や徳川家康などの武将たちにも大きな影響を与え、織田信長以降、本格的な近世城郭が誕生していきます。 -
イチオシ
転落石。
1584年の小牧長久手の戦いの後、小牧山城は再び廃城となります。江戸時代の初期、巨石の一部が名古屋城の建設工事のために使われたと考えられています。
天守付近から転がされたといいます。一旦割られたが、結局使われなかった石を「転落石」と呼ぶそうです。 -
小牧山歴史館の中に入りました。
入場料は、大人200円です。 -
4階展望室からの眺望です。
ご覧の通り、広大な濃尾平野でこの山だけがポツンと小高く、城が出来るべくして出来た場所だということが良く解ります。
信長は、かつて誰も見たことの無い「石垣」を、美濃の国に見せつけていたとの説もあるそうです。 -
中央にあるビル群は名古屋駅付近だそうです。
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まだまだ発掘はこれからも続きます。
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小牧山城史跡情報館(れきしるこまき)を覗いてみます。
小牧山城史跡情報館 名所・史跡
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大河ドラマ「どうする家康」関連のパネルもありました。
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さて、最後のやって来たのは長久手市です。
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小牧市から車で約40分ほど走り「長久手古戦場」にやったて来ました。
本能寺の変で織田信長が亡くなり、力を得た豊臣秀吉と信長の次男・織田信雄は関係を悪化させます。信雄と家康は同盟を結び、ここに秀吉と家康の敵対関係がはっきりします。このような経緯の中で、家康は小牧山城を占拠、土塁等を築かせます。
一方、秀吉は楽田に陣を張り、こちらも土塁や砦が作られていきます。両軍とも、相手陣営に手出しができなくなり、戦は膠着状態に陥ります。長久手古戦場 (古戦場公園 ・ 色金山歴史公園) 公園・植物園
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膠着状態が続く中、秀吉の部下の池田恒興は森長可と共に、家康が留守にしている岡崎を攻めることを秀吉に提案、秀吉の許可を得て進軍します。しかし、この作戦はすぐに家康の知るところとなり、家康軍は気付かぬふりをして、長久手付近で秀池田恒興、森長可軍を迎え撃ち、勝利します。これが「長久手の戦い」秀吉が到着したときには、戦いは終わっており、肩透かしに終わってしまいます。
その後、織田信雄を秀吉が説得、講和が成立します。家康は秀吉を攻める理由がなくなってしまい、結果、小牧・長久手の戦いは停戦となりました。長久手市郷土資料室 美術館・博物館
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「長久手市郷土資料室」の展示です。
小牧・長久手の地形図です。
長久手合戦では多くの死者が出たと伝わります。とりわけ、池田・森軍は2500余名の死者を出しています。
そのため、長久手周辺には武将たちが血の付いた槍や刀を洗ったという「血の池公園」や「首塚」など多くの犠牲者が出たことがわかる史跡があります。 -
「徳川十六神将図」。
徳川家康に仕えた酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政・米津常春・高木清秀・内藤正成・大久保忠世・大久保忠佐・蜂屋貞次・鳥居元忠・鳥居忠広・渡辺守綱・平岩親吉・服部正成・松平康忠の16人の武将を指す呼び名です。
彼らは徳川家康が江戸幕府を開くにあたって大きく貢献したとされる武将で、三河国平定の時期から徳川家康に仕える者が多く選ばれています。このうち最初の4人を特別に徳川四天王と呼びます。 -
2泊3日のNHK大河ドラマ「どうする家康」を追いかけた旅。
浜松で休憩して、無事帰宅しました。
あとは、やはり関ヶ原と、岐阜・清洲に行かなければならないですね。ネオパーサ浜松 (上り) 道の駅
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