2023/09/03 - 2023/09/05
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entetsuさん
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家内が20年以上ファン歴ある松本潤さん主演のNHK大河ドラマ「どうする家康」。史実と脚本が時々大きく外れたりして、突っ込みを入れながらも歴史系(笑)ドラマとして、まぁ楽しく観させて貰っています。
今年3月には、伊勢神宮に参拝する途中、静岡市の「久能山東照宮」に立ち寄りましたが、いよいよ大河ドラマも佳境に入って来ました。ちょうど、小牧・長久手の合戦の回も近づきつつあります。
と言うことで、駿河・静岡、遠近江・浜松、三河・岡崎、尾張・犬山・小牧・長久手と2泊3日で出かけてきました。
これまで一度は行ってみたいと思っていた岡崎城と小牧山城には感慨深いものがありました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- グルメ
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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マイカーで自宅を出て、東名→新東名を進み「NEOPASA駿河湾沼津 (下り)」で一休みです。
「上島珈琲店」が入店していて、美味しいコーヒーを飲みました。NEOPASA駿河湾沼津 (下り) 道の駅
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順調に、「静岡浅間神社」に着きました。
「どうする家康 静岡 大河ドラマ館」はここの境内にあります。
その前にきちんと神社に参拝です。
静岡浅間神社(しずおかせんげんじんじゃ)の、登記上の宗教法人名称は神部神社・淺間神社・大歳御祖神社の3社です。
その中心となる浅間神社 (あさまじんじゃ)の祭神は木之花咲耶姫命 (このはなのさくやひめのみこと)で、全国にある浅間神社の一社です。 -
境内を進みます。
左は神厨舎、右は楼門です。静岡浅間神社 寺・神社・教会
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楼門は文化12年(1815年)起工、同13年竣工と伝わります。
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楼門を潜り、境内真ん中にあるのは舞殿。
文化14年(1817年)起工、文政3年(1820年)竣工。
社殿中唯一の素木造りです。 -
大拝殿。
文化2年(1805年)起工、同11年竣工。
楼閣造りで、いわゆる浅間造の代表的なもの。高さ25mあり、殿内は132畳敷きの広さがあります。
天井は十間の合天井となり、その各間に狩野栄信・狩野寛信の「八方睨みの龍」「迦陵頻伽」「天人」の天井絵があるそうですが、一般には公開されていません。 -
「八千戈神社」。
入母屋造銅瓦葺で、朱塗極彩色を施す。摂末社の一つですが、神社の造営は御本社に次いで行われ、本殿中・両社本殿に次ぐ大きさです。八千戈神社 寺・神社・教会
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「どうする家康 静岡 大河ドラマ館」に入館します。入館料は大人400円・小中高生200円です。
ここ静岡の他に、家康と縁の深い浜松と岡崎でも同時に展示中です。展示内容はそれぞれの場所と関係の深い内容となっているようです。今回の旅行では、J○○ーズ松本潤さんのファンである家内孝行で、3館とも巡ります。 -
家康公は生涯に3度、あわせて約25年、すなわち生涯の3分の1を駿府で過ごしました。
最初の駿府(静岡)での暮らしは8歳から19歳まででした。
竹千代こと幼少の家康は、駿府で成長して元信、元康と名をあらため、今川義元の親戚の築山殿と結婚し、義元を支える武将に成長します。静岡市文化財資料館 美術館・博物館
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二度目の駿府の暮らしは45歳から49歳まで。
家康は五か国(駿河・遠江・三河・甲斐・信濃)を治めて豊臣秀吉に仕える大大名になっていました。 -
最後の駿府の暮らしは、66歳から亡くなる75歳まで。
江戸幕府を開府後、大御所となって駿府に戻ってきました。
「隠居」したと言われますが、子の2代将軍秀忠とともに「両御所」とよばれる天下人でした。
パネル類や、ドラマで実際に使用された衣装などが展示されており、それなりに楽しめます。松本潤さん推しの家内は嬉しそうです。 -
先ほど参拝してきた「静岡浅間神社」の模型もありました。
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「どうする家康 静岡 大河ドラマ館」の観賞を終えて、駿府城に向かっています。
この建物は、「静岡県庁舎本館」です。
1937年(昭和12年)に建てられ、近代庁舎建築の遺構として貴重な存在で「造形の規範となっているもの」との登録基準を満たしている事から2001年(平成13年)に国の登録有形文化財に登録されています。静岡県庁舎 名所・史跡
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こっちもいい!
「静岡市役所本館」で、1934年(昭和9年)の建築で、同じく国指定の登録有形文化財です。静岡市役所本館 (静岡庁舎) 名所・史跡
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お城まで程近い所まで来ましたが、平日なので静岡県庁別館21階の「富士山展望ロビー」に来てみました。(毎月第3土曜日・日曜日は休館です)
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こんな大胆な絵も飾られていました。
油彩画で「富士葵」という平成19年県文化奨励賞の作品で、藤原由葵さんの作品だそうです。
富士山と徳川家の家紋の葵をモチーフにしているんですね。 -
静岡鉄道の新静岡駅方面を眺めています。2011年(平成23年)に新ターミナルビルが完成しています。
実は私、H17年~19年まで静岡市に単身赴任しておりました。新静岡駅は改装前で、「新静岡センター」と呼ばれていました。
この写真の中に、当時住んでいたマンションが写っています(笑)。 -
雲が掛かっていますが、これが富士山ビューです。
一般的には静岡市街から富士山は見えませんが、ここからはよく見えます。 -
駿府城を見下ろします。
「東御門」「巽櫓]」が見えます。
お濠の回り、静岡在住時代の私のウォーキングコースでした。 -
左の上側、天守台の発掘調査をしている箇所です。
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「静岡市歴史博物館」の前を通りました。
2023年(令和5年)1月13日にグランドオープンした新しい施設です。静岡市歴史博物館 美術館・博物館
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イチオシ
「巽櫓」。
1989年(平成元年)に復元された巽櫓は、全国にある城の櫓建築でもほかに例の少ないL字型の平面をもち、駿府城の櫓の中では防御に優れた櫓でした。
巽櫓は、二の丸の東南角に設けられた二重三階の隅櫓で、十二支で表した巽(辰巳)の方角に位置することから「巽櫓」と呼ばれています。
ちょうど私が静岡に在住していた頃、石垣を修復工事していた記憶があります。
見えているお濠は、二の丸濠です。 -
東御門橋を渡り、駿府城内に入りましょう。
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東御門は1996年(平成8年)に日本古来の伝統工法にのっとって復元され、資料館として公開されました。
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1582年(天正10年)、武田勝頼が滅びると家康公は東海五ヶ国(駿河・遠江・三河・甲斐・信濃)を納める大名となります。
1586年(天正14年)、浜松に本拠を構えていた家康公は駿府のこの地に「天正期の駿府城」を築城を開始します。
1589年(天正17年)豊臣秀吉による小田原の北条征伐の後、駿河国は関白秀吉の領国となり、中村式部少輔一氏が駿府城主となって着任します。替わって家康公は、東海五ヶ国を手放す代わりに関東に国替えとなって「伊豆・相模・武蔵・下野・上野・上総・下総」のおよそ250万石の大大名として江戸に移るのです。 -
イチオシ
そして、「大御所」として駿府に移ってきた頃の家康公の姿を表した銅像。
駿府城公園 (駿府城址、紅葉山庭園) 公園・植物園
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家康公は、晩年の65歳から亡くなる75歳までの約10年間を駿府で過ごしました。
家康公は、1607年(慶長12年)に完成した駿府城に入城しました。駿府は以後10年余りの間、つまり家康公の存命中は「大御所家康公の御座所」として、ここ駿府が大御所政治の檜舞台となったのです。 -
ところが新築されたばかりの駿府城は、残念なことに同年12月22日に大奥の局の物置で使用していた手燭(てしょく)の火が原因で出火、御殿や天守閣にまで燃え広がり主要な建物を全焼失しました。
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駿府城の天守台は江戸城をも凌ぎ、日本一の大きさを誇ったと伝わりますが、その発掘調査が公開されています。
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家康公お手植えのみかん。
鎌倉時代に中国から渡来した紀州ミカン(コミカン)の一種でホンミカンとも呼ばれており、静岡地方のミカンの起源を知るうえで、貴重なもので、県指定天然記念物となっているそうです。 -
駿府場公園内の散策を終えて、外に出てきました。
「巽櫓」前に遊覧船が通って行きました。2021年3月から運航がスタートした「葵舟」だそうです。 -
「巽櫓」の向こうに見えるのが、静岡県庁別館21階。
あそこの「富士山展望ロビー」で下を眺めていました。 -
静岡市は全国80%のシェアを誇るプラモデル王国。
これは家康公の徳川家康が着用したと伝わる甲冑「金陀美具足」のプラモニュメント。
静岡市プラモデル化計画に基づき、2021年3月19日よりステンレス製のプラモデル型のモニュメントの設置が始まり、2023年8月現在、静岡市内8ヵ所に9個が設置されているそうです。 -
こちらは一番外側の三の丸濠です。
それでは、駿府(静岡)を後にして次のスポットに向かいます。 -
遠江・浜松の浜松城に向かっています。
和食処 らいぜん 浜北店 グルメ・レストラン
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ランチに立ち寄ったのは、「和食処 らいぜん 浜北店」。
浜松餃子でもと思い、有名な「石松」に行ってみたが、一時間待ち。こちらにしました。 -
夫婦二人とも、串ふらい定食(1,485円)にしました。
リーズナブルで味も良し! -
やって来たのは浜松城公園。
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浜松城公園、実は初めて来ました。
静岡に単身赴任していましたが、担当エリアは大井川~富士川の間(静岡市、焼津市、藤枝市、島田市など)でしたので、殆ど来たことの無い街です。
仕事上でも浜松には殆ど縁が無かった。浜松城公園 紅葉
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こちらでは、「どうする家康 浜松 大河ドラマ館」を観賞します。
入館料大人 800円と、静岡の倍しました。その分、建物が大きくて展示物も多いかな。 -
家康公は、29歳から45歳までを浜松城で過ごしました。
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1542年に岡崎城主・松平広忠の嫡男として生まれた家康公は、幼少時から尾張・織田家と駿府・今川家で人質生活を送ります。
1560年の桶狭間の戦いでは、今川方の武将として活躍し、西三河を平定したものの、今川義元の死によって岡崎へ帰城。今川氏を見限り、織田信長と清洲同盟を結びます。 -
その後、家康公は三河の一向一揆を平定し、三河全域を支配。1568年には引間城を攻め落とし、勢力を遠江まで拡大しました。1570年には、信長と共に浅井長政と朝倉義景の連合軍を破り、「姉川の戦い」に勝利。それを機に、岡崎城を嫡男の信康に任せて自らは遠江の引間城に移り、城を拡大して浜松城と改めます。この時、家康公は若干29歳でした。
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浜松城に移ってからの当面の大敵は、甲斐の武田信玄。大井川を渡って堂々と遠江に侵入してくる武田軍に対し、織田信長は家康に岡崎へ退くよう勧めましたが、家康は浜松城に踏みとどまり、1572年に三方原の戦いが起こりました。徳川軍は戦国最強と謳われた武田軍の圧倒的な戦力の前に総崩れとなり、わずかな護衛と共に命からがら浜松城へ逃げ帰りました。
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若き日の家康公像です。
天守門・天守閣の東側の本丸の位置にそびえる若き日の家康公像。右手には「勝草」と呼ばれる羊歯(シダ)を持っています。 -
浜松城に来ました。
三河から東進し、今川領の制圧を開始した家康公は、駿府に攻め込んできた武田信玄の侵攻に備え、遠州一帯を見渡せる三方ヶ原の丘に着目します。 -
徳川家康の築いた浜松城の城郭は南北約500m、東西約450m。
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三方ヶ原台地の斜面に沿い、西北の最高所に天守曲輪、その東に本丸、二の丸、さらに東南に三の丸と、ほぼ一直線に並ぶ、「梯郭式」の築城法をとっています。「梯郭式」とは、各曲輪が隣接しながら、階段状になっている様式のことで、本丸の背後が自然の防衛線になるような城に多く見られます。
浜松城 名所・史跡
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明治維新後、天守など城郭は壊され荒廃していましたが、昭和33年、野面積みの旧天守台の上に新天守閣を再建、翌年には浜松市の史跡に指定されました。
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館内には引間城と浜松城に関する出土品や、甲冑などが展示されています。
これは、家康公所用の甲冑・歯朶具足(しだぐそく)。現品は重要文化財に指定され、久能山東照宮博物館に所蔵されています。 -
若き家康公が、わずかな軍勢で最強といわれた武田信玄と戦った三方ヶ原の合戦が映像で紹介されていました。
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浜松市内がよく見えます。南側にはに遠州灘も望めます。
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中央芝生広場を見下ろしています。
葵のご紋の意匠に芝を整えています。 -
イチオシ
スタッフさんにお断りして、ユニフォームの背中を撮らせていただきました(笑)。
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東名高速の三方原スマートICから次のスポットに向かいます。
この付近、すっかり宅地化されていて当時家康公が這々の体で逃げ帰った三方原の合戦があったとは想像も付きませんが、思いを馳せながら進みました。
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