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この日の『テートブリテン美術館』ではターナーにじっくりと <br />向き会いたい。そう思いながらむかいました。ターナーの晩年の<br />作品の展示室へと進んでいったころには、後の印象派を思わせ<br />るような作品を観続けてゆくと、知らず知らずに肩に力が入っ<br />ているような感じを受けましたが、その後ターナー晩年の展示<br />室から次のジャンルの展示室、次の展示室へと移動していくと、<br />徐々に 心が整い、次第に心ウキウキ。<br />気がつくととあっという間に時が過ぎてゆきました。<br /><br />ロンドン5泊6日という限られた日数での、それぞれの<br />滞在時間の多い順に見てみると<br />①  テートブリテン美術館 午後から閉館迄と<br />               2日目が、朝いちから午後13時半頃まで<br />             およそ7時間<br />②  ウエストエンドで舞台「ハリーポッター第一部&amp;第二部」<br />  一気観。夕食をはさんで、(舞台のみで)およそ5時間半。<br />③ ほぼ同じ位なのですが<br />   美術館は基本午前か午後に1ヶ所。<br />   ナショナルギャラリー、コートールド美術館<br />   V&amp;A  美術館、ナショナルポートレートギャラリー<br />   ハンプトンコート宮殿(往復の移動時間を含まず)<br />   ハリーポッター・スタジオツアー(移動時間含まず)<br />   ウエストエンド舞台・2本<br />          <br />と、なりました。<br />この合間を縫って、ウエストエンドの劇場街散策。<br />         劇場街に隣接していたこともあり<br />   中華街で、ランチを2回、夕食1回<br />   繁華街で、アフタヌーンティー1回<br />  Hotelの近くで、イングリッシュブレイクファースト2回<br />ちょっと、ハードスケジュール(⌒-⌒; )になってしまいました。<br /><br />東京・新国立美術館で、只今開催中の<br />「テート美術館展」を先日〈9月8日〉に観てまいりました。<br />別途と考え中ですが、取り敢えずヨーロッパ旅最優先とします。(^ー^)<br />旅行記日程は、テートブリテンに最近訪れた日としました。<br /><br /><br />

『テートブリテン美術館・ターナー物語』~ヨーロッパ2023夏・ロンドン4日目・後編

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2023/09/08 - 2023/09/08

112位(同エリア9832件中)

4

115

あの街から

あの街からさん

この日の『テートブリテン美術館』ではターナーにじっくりと 
向き会いたい。そう思いながらむかいました。ターナーの晩年の
作品の展示室へと進んでいったころには、後の印象派を思わせ
るような作品を観続けてゆくと、知らず知らずに肩に力が入っ
ているような感じを受けましたが、その後ターナー晩年の展示
室から次のジャンルの展示室、次の展示室へと移動していくと、
徐々に 心が整い、次第に心ウキウキ。
気がつくととあっという間に時が過ぎてゆきました。

ロンドン5泊6日という限られた日数での、それぞれの
滞在時間の多い順に見てみると
① テートブリテン美術館 午後から閉館迄と
             2日目が、朝いちから午後13時半頃まで
             およそ7時間
② ウエストエンドで舞台「ハリーポッター第一部&第二部」
  一気観。夕食をはさんで、(舞台のみで)およそ5時間半。
③ ほぼ同じ位なのですが
   美術館は基本午前か午後に1ヶ所。
   ナショナルギャラリー、コートールド美術館
   V&A 美術館、ナショナルポートレートギャラリー
   ハンプトンコート宮殿(往復の移動時間を含まず)
   ハリーポッター・スタジオツアー(移動時間含まず)
   ウエストエンド舞台・2本
          
と、なりました。
この合間を縫って、ウエストエンドの劇場街散策。
         劇場街に隣接していたこともあり
   中華街で、ランチを2回、夕食1回
   繁華街で、アフタヌーンティー1回
  Hotelの近くで、イングリッシュブレイクファースト2回
ちょっと、ハードスケジュール(⌒-⌒; )になってしまいました。

東京・新国立美術館で、只今開催中の
「テート美術館展」を先日〈9月8日〉に観てまいりました。
別途と考え中ですが、取り敢えずヨーロッパ旅最優先とします。(^ー^)
旅行記日程は、テートブリテンに最近訪れた日としました。


旅行の満足度
5.0
観光
5.0
交通手段
高速・路線バス 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • ロンドンのテムズ川沿いにテートブリテン美術館はあります。<br />「英国の至宝」と称される<br />「ナショナル・ギャラリー(National Gallery)」の<br />所蔵品の中から、イギリスの美術品を展示する分館<br />「ナショナル・ギャラリー・オブ・ブリティッシュ・アート<br />(National Gallery of British Art)」<br />として1897年にオープンしました。<br /><br /> 1955年に「テート・ギャラリー(Tate Gallery)」に改称、<br />大改修ののち<br />2001年に現在の「テート・ブリテン」と再び改称し<br />リニューアル・オープンしました。<br />

    ロンドンのテムズ川沿いにテートブリテン美術館はあります。
    「英国の至宝」と称される
    「ナショナル・ギャラリー(National Gallery)」の
    所蔵品の中から、イギリスの美術品を展示する分館
    「ナショナル・ギャラリー・オブ・ブリティッシュ・アート
    (National Gallery of British Art)」
    として1897年にオープンしました。

    1955年に「テート・ギャラリー(Tate Gallery)」に改称、
    大改修ののち
    2001年に現在の「テート・ブリテン」と再び改称し
    リニューアル・オープンしました。

  • 私たちは 地下鉄ビクトリア線「ピムリコ(Pimlico)駅」から<br />向かいました。<br />歩いて10分程すると前方にビクトリア時代に建てられたという<br />ギリシャ神殿風クラシカルリバイバル様式の<br />美しい建物が見えてきます。

    私たちは 地下鉄ビクトリア線「ピムリコ(Pimlico)駅」から
    向かいました。
    歩いて10分程すると前方にビクトリア時代に建てられたという
    ギリシャ神殿風クラシカルリバイバル様式の
    美しい建物が見えてきます。

    テート ブリテン 博物館・美術館・ギャラリー

  • 大英博物館やナショナルギヤラリーなどイギリスの国立美術館と同様<br />入館料が無料ですが、運営費として任意で寄付も受け付けており、<br />玄関口には、寄付用Box設置の他にも<br />キャッシュレスでも簡単に寄付できるようにタブレットもありました。<br /><br />定休日はクリスマス期間(12月24日から26日)だけ。<br />という旅人にとってはこの上なくありがたい美術館です。<br />ただ。このところのオーバーツーリズムで入館料を無料とする<br />ことを考えを直す時が来るかもしれない。<br />という気になるニュースが聞こえて(⌒-⌒; )きています。<br />開館時間  10:00~18:00<br />※最終入場:17:15<br />

    大英博物館やナショナルギヤラリーなどイギリスの国立美術館と同様
    入館料が無料ですが、運営費として任意で寄付も受け付けており、
    玄関口には、寄付用Box設置の他にも
    キャッシュレスでも簡単に寄付できるようにタブレットもありました。

    定休日はクリスマス期間(12月24日から26日)だけ。
    という旅人にとってはこの上なくありがたい美術館です。
    ただ。このところのオーバーツーリズムで入館料を無料とする
    ことを考えを直す時が来るかもしれない。
    という気になるニュースが聞こえて(⌒-⌒; )きています。
    開館時間  10:00~18:00
    ※最終入場:17:15

  •  「ブリティッシュ・アートを歩く(Walk through British Art)」という<br />テーマで年代別に分けられれた展示室は、最も古い年代の美術品を集めた<br />展示室から1960年代から現在までの美術品を集めた「Sixty years」まで<br />15の展示室のほか企画展の展示室は別にあり、どの展示室も鑑賞しやすい<br />レイアウトになっています。<br />

    「ブリティッシュ・アートを歩く(Walk through British Art)」という
    テーマで年代別に分けられれた展示室は、最も古い年代の美術品を集めた
    展示室から1960年代から現在までの美術品を集めた「Sixty years」まで
    15の展示室のほか企画展の展示室は別にあり、どの展示室も鑑賞しやすい
    レイアウトになっています。

  • あの扉の向こうから<br />ワクワクが(⌒▽⌒)始まりました。

    あの扉の向こうから
    ワクワクが(⌒▽⌒)始まりました。

  • 『イギリスの貴婦人の肖像』<br /> 作者不詳<br />

    『イギリスの貴婦人の肖像』
     作者不詳

  • 『チャムリー家の女たち』 <br /> 1600-10年<br /> 作者不明<br /><br />横並びの女性は双子姉妹だと思わせるほど似ていて、<br />赤ちゃんを抱くポーズまで瓜二つです。<br />しかし、絵画に近づいて注意深く観察すると、<br />右の女性は小鼻の横に少しシワがあり、<br />年上の姉であることが伺えます。<br />また、赤ちゃんを抱く右腕に注目すると、<br />姉の右肘と右手首には力が入っていて、<br />不器用な一面を覗かせています。

    『チャムリー家の女たち』 
     1600-10年
     作者不明

    横並びの女性は双子姉妹だと思わせるほど似ていて、
    赤ちゃんを抱くポーズまで瓜二つです。
    しかし、絵画に近づいて注意深く観察すると、
    右の女性は小鼻の横に少しシワがあり、
    年上の姉であることが伺えます。
    また、赤ちゃんを抱く右腕に注目すると、
    姉の右肘と右手首には力が入っていて、
    不器用な一面を覗かせています。

  • 『メアリー・カイトソンの肖像 』<br />1590年頃<br />作者不詳<br /><br />チチェのダーシー夫人 後のレディ・リバース<br /><br />

    『メアリー・カイトソンの肖像 』
    1590年頃
    作者不詳

    チチェのダーシー夫人 後のレディ・リバース

  • 想像以上の大きさで迫力がありました。

    想像以上の大きさで迫力がありました。

  • 『アン・ウォートリーの肖像』<br /> 1620年頃<br /> 作者不詳<br /><br /><br />後のレディ・モートン

    『アン・ウォートリーの肖像』
     1620年頃
     作者不詳


    後のレディ・モートン

  • 『無名の貴婦人の肖像』<br />1595年頃<br />マルクス・ギーラーツ2世<br /> 

    『無名の貴婦人の肖像』
    1595年頃
    マルクス・ギーラーツ2世
     

  • 『未知の女性の肖像』<br />1650年-55<br /> ジョアン・カーライル

    『未知の女性の肖像』
    1650年-55
    ジョアン・カーライル

  • 『グレーとグリーンのハーモニー』<br /> 1872年ー74年<br />ジェームズ・アボット・マクニール・ウィスラー<br /><br /><br /> 

    『グレーとグリーンのハーモニー』
     1872年ー74年
    ジェームズ・アボット・マクニール・ウィスラー


     

  • 『ジョン・スミス下院議長』<br />1707年-8<br />ゴッドフリー・ネラー卿

    『ジョン・スミス下院議長』
    1707年-8
    ゴッドフリー・ネラー卿

  • 『ホイッグ党員』<br />1710年<br />ジョン・ジェームス・ベーカー

    『ホイッグ党員』
    1710年
    ジョン・ジェームス・ベーカー

  • 『デュ・ケインとベーム家族グループ』<br />1734年<br />ガウェン・ハミルトン

    『デュ・ケインとベーム家族グループ』
    1734年
    ガウェン・ハミルトン

  • 『ピアソン少佐の戦死』(The Death of Major Peirson) <br />ジョン・シングルトン・コプリー(John Singleton Copley)<br />1783年<br /><br />イギリス領ジャージー島におけるイギリスとフランスの戦いの場面。<br />1781年にフランス軍がジャージー島を襲撃しますが、イギリス軍は<br />リーダーであるピアソン少佐の指揮のもと、フランス軍を撃退します。<br />イギリス軍の勝利が確定し歓喜の群衆の中へ<br />フランス軍のスナイパーがピアソン少佐に狙い定め射殺。<br />歓喜の瞬間が一瞬で悲劇に変わったその時。<br />

    イチオシ

    『ピアソン少佐の戦死』(The Death of Major Peirson) 
    ジョン・シングルトン・コプリー(John Singleton Copley)
    1783年

    イギリス領ジャージー島におけるイギリスとフランスの戦いの場面。
    1781年にフランス軍がジャージー島を襲撃しますが、イギリス軍は
    リーダーであるピアソン少佐の指揮のもと、フランス軍を撃退します。
    イギリス軍の勝利が確定し歓喜の群衆の中へ
    フランス軍のスナイパーがピアソン少佐に狙い定め射殺。
    歓喜の瞬間が一瞬で悲劇に変わったその時。

  • 『フラットフォードの水車場』(Flatford Mill)  <br />ジョン・コンスタブル(John Constable)<br />1817年<br /><br />ターナーと並んで、19世紀イギリスの風景画家を代表するのがコンスタブルです。<br />コンスタブルが37歳で結婚する直前に完成した作品で、<br />結婚を機にロンドンへ移動するため<br />『フラットフォードの水車場』は故郷のサフォークで<br />書き上げた最後の作品としても有名になりました。<br />コンスタプルの父親が所有していた水車場であり、コンスタプルが<br />幼い頃からずっと見てきた景色でした。

    『フラットフォードの水車場』(Flatford Mill)  
    ジョン・コンスタブル(John Constable)
    1817年

    ターナーと並んで、19世紀イギリスの風景画家を代表するのがコンスタブルです。
    コンスタブルが37歳で結婚する直前に完成した作品で、
    結婚を機にロンドンへ移動するため
    『フラットフォードの水車場』は故郷のサフォークで
    書き上げた最後の作品としても有名になりました。
    コンスタプルの父親が所有していた水車場であり、コンスタプルが
    幼い頃からずっと見てきた景色でした。

  • 『メンバーの議長』<br />  1828年<br /> ベンジャミン・ロバート・ヘイドン

    『メンバーの議長』
    1828年
     ベンジャミン・ロバート・ヘイドン

  • 『本を持つ二人の子供』<br />1831年<br />エマ・ソイヤー

    『本を持つ二人の子供』
    1831年
    エマ・ソイヤー

  • 『お針子』<br />1846年<br />リチャード・レッドグレイブ

    『お針子』
    1846年
    リチャード・レッドグレイブ

  • 『マリアナ(Mariana)』<br /> 1850-1851年<br />ジョン・エヴァレット・ミレイ(John Everett Millais)<br /><br />ラファエル前派のミレイの初期の作品。<br />当時、美術評論家たちの手厳しい批評にあった作品でもあります。<br />背景のステンドグラスにもご注目。

    『マリアナ(Mariana)』
     1850-1851年
    ジョン・エヴァレット・ミレイ(John Everett Millais)

    ラファエル前派のミレイの初期の作品。
    当時、美術評論家たちの手厳しい批評にあった作品でもあります。
    背景のステンドグラスにもご注目。

  • 『オフィーリア』  1852年ー52年<br />ジョン・エヴァレット・ミレイ(John Everett Millais)<br /><br />夏目漱石の『草枕』(明治39年.9月・1906年)<br />~長良の乙女が振袖を着て、青馬(あお)に乗って、峠を<br />越すと、いきなり、ささだ男と、男が飛び出して両方から<br />ひっぱる。女が急にオフエリアになって、柳の枝に登って<br />河の中を流れながら、うつくしい声で歌をうたふ。<br />救ってやらうと思って、長い竿を持って向島を追懸けて行く。<br />女は、苦しい様子もなく、笑ひながら、うたひながら、行末<br />も知らず流れを下る。余は竿をかついで、おゝいおゝいと呼ぶ。<br />そこで目が覚めた。~<br /><br />ロンドン留学から帰った漱石は、ミレイの作品「オフィーリア」<br />を小説「草枕」の中でこんな風に登場させていました。<br /><br />「テート・ブリテン」が所蔵する作品の中でも、<br />日本で最も有名で人気の作品の1作といえば、<br />ジョン・エヴァレット・ミレイの『オフィーリア(Ophelia)』<br />でしようか。<br />シェイクスピアの4大悲劇のひとつ「ハムレット」の<br />ヒロイン「オフィーリア」を主題に描いた作品。<br /><br />この絵のモデルを務めたのが「ラファエル前派」の「ミューズ」<br />として当時画家たちの間で引っ張りだこだった<br />エリザベス・シダルでした。<br />旅行記『D・ G・ロセッティ企画展』で取り上げましたが<br />シダルはラファエル前派の主要メンバーの<br />ロセッティとこの後結婚をした女性です。<br /><br />ミレイは、オフィーリアが水に浮かんでいる様子を描くため、<br />浴槽に仰向けで寝ることを乞い、服を着たままのシダルを金属製の<br />バスタブに入れ、バスタブの下にランプの火を当てて水を温めながら<br />描きましたがランプの火が消えシダルが寒さに震えるのも気付かない<br />ほど制作に打ち込みました。<br />シダルは、同じポーズをする日々が4ヶ月続き、そのせいで<br />体調を崩したため、彼女の父親がミレイに治療費を請求した<br />という逸話が残っているほどです。<br />こうして完成した作品は、「ラファエル前派」の完成品と<br />評判となり高い評価を受けミレイの代表作となりました。<br /><br />当時、フランス人の哲学者<br />「ガストン・バシュラール(Gaston Bachelard)」が<br />「オフィーリア・コンプレックス」と呼んだように、<br />ヨーロッパでは溺死した女性を美化する傾向があったようです。<br />『シャロットの女(The Lady of Shalott)』でも同様に<br />溺死した女性が描かれています。<br />

    『オフィーリア』 1852年ー52年
    ジョン・エヴァレット・ミレイ(John Everett Millais)

    夏目漱石の『草枕』(明治39年.9月・1906年)
    ~長良の乙女が振袖を着て、青馬(あお)に乗って、峠を
    越すと、いきなり、ささだ男と、男が飛び出して両方から
    ひっぱる。女が急にオフエリアになって、柳の枝に登って
    河の中を流れながら、うつくしい声で歌をうたふ。
    救ってやらうと思って、長い竿を持って向島を追懸けて行く。
    女は、苦しい様子もなく、笑ひながら、うたひながら、行末
    も知らず流れを下る。余は竿をかついで、おゝいおゝいと呼ぶ。
    そこで目が覚めた。~

    ロンドン留学から帰った漱石は、ミレイの作品「オフィーリア」
    を小説「草枕」の中でこんな風に登場させていました。

    「テート・ブリテン」が所蔵する作品の中でも、
    日本で最も有名で人気の作品の1作といえば、
    ジョン・エヴァレット・ミレイの『オフィーリア(Ophelia)』
    でしようか。
    シェイクスピアの4大悲劇のひとつ「ハムレット」の
    ヒロイン「オフィーリア」を主題に描いた作品。

    この絵のモデルを務めたのが「ラファエル前派」の「ミューズ」
    として当時画家たちの間で引っ張りだこだった
    エリザベス・シダルでした。
    旅行記『D・ G・ロセッティ企画展』で取り上げましたが
    シダルはラファエル前派の主要メンバーの
    ロセッティとこの後結婚をした女性です。

    ミレイは、オフィーリアが水に浮かんでいる様子を描くため、
    浴槽に仰向けで寝ることを乞い、服を着たままのシダルを金属製の
    バスタブに入れ、バスタブの下にランプの火を当てて水を温めながら
    描きましたがランプの火が消えシダルが寒さに震えるのも気付かない
    ほど制作に打ち込みました。
    シダルは、同じポーズをする日々が4ヶ月続き、そのせいで
    体調を崩したため、彼女の父親がミレイに治療費を請求した
    という逸話が残っているほどです。
    こうして完成した作品は、「ラファエル前派」の完成品と
    評判となり高い評価を受けミレイの代表作となりました。

    当時、フランス人の哲学者
    「ガストン・バシュラール(Gaston Bachelard)」が
    「オフィーリア・コンプレックス」と呼んだように、
    ヨーロッパでは溺死した女性を美化する傾向があったようです。
    『シャロットの女(The Lady of Shalott)』でも同様に
    溺死した女性が描かれています。

  • ミレイは「オフェーリア」を発表した翌年<br />僅か24歳で、ロイヤルアカデミーの準会員に選ばれますが、<br />そのことで、アカデミーに反旗を掲げて結成したラファエル<br />前派〈P.R.B〉は立ち消えとなりました。<br /><br />「オフィーリア」の複製画はたちまちベストセラーになりました。<br />一部コレクターだけの相手をするのではなく複製画を大衆に販売<br />するこの方法に気づいてしまうことにより、更にミレイは早画きに<br />なっていきました。<br />それには、こんな事情がミレイにはありました。<br />この頃、恩人ラスキンの妻エフィーと彼女の離婚を待って結婚。<br />続けて、8人の子供が授かりました。<br />そして、ロンドンの豪邸に暮らすようになり、何かともの入り<br />になっていたのでした。<br /><br />精力的に発表を続けたミレイの絵画に対して<br />「ミレイの絵はまるでお涙頂戴だ」と美術批評家たちから<br />厳しい批評を受けることとなりました。<br />とは言っても、ミレイの描く絵画は、手を抜く訳ではなく腕は<br />確かなので売れに売れました。おそらく、当時のヨーロッパで<br />最も多くの人に鑑賞された画家はミレイでした。<br />絵は相変わらず精巧で素晴らしいが、<br />ただ「売らんかなの商業主義が主題や表現に出ている」との<br />評価は一向に消えませんでした。<br /><br /><br />『休息の谷』<br />1858年<br />ジョン・エヴァレット・ミレイ<br />

    ミレイは「オフェーリア」を発表した翌年
    僅か24歳で、ロイヤルアカデミーの準会員に選ばれますが、
    そのことで、アカデミーに反旗を掲げて結成したラファエル
    前派〈P.R.B〉は立ち消えとなりました。

    「オフィーリア」の複製画はたちまちベストセラーになりました。
    一部コレクターだけの相手をするのではなく複製画を大衆に販売
    するこの方法に気づいてしまうことにより、更にミレイは早画きに
    なっていきました。
    それには、こんな事情がミレイにはありました。
    この頃、恩人ラスキンの妻エフィーと彼女の離婚を待って結婚。
    続けて、8人の子供が授かりました。
    そして、ロンドンの豪邸に暮らすようになり、何かともの入り
    になっていたのでした。

    精力的に発表を続けたミレイの絵画に対して
    「ミレイの絵はまるでお涙頂戴だ」と美術批評家たちから
    厳しい批評を受けることとなりました。
    とは言っても、ミレイの描く絵画は、手を抜く訳ではなく腕は
    確かなので売れに売れました。おそらく、当時のヨーロッパで
    最も多くの人に鑑賞された画家はミレイでした。
    絵は相変わらず精巧で素晴らしいが、
    ただ「売らんかなの商業主義が主題や表現に出ている」との
    評価は一向に消えませんでした。


    『休息の谷』
    1858年
    ジョン・エヴァレット・ミレイ

  • そんな不運の時代もしばらく続きましたが、誠実な作風は変わらず<br />オファーは切れ間なく続き、その頃ミレイの家族を描いた肖像画も<br />素晴らしい作品が多いのですが、<br />ラスキンなどの応援もあり、徐々に評価を取り戻してゆきました。<br />『北西航路』<br /> 1874年<br />ジョン・エヴァレット・ミレイ<br /><br />そして、1885年には、<br />画家としては初めて男爵に列せられ貴族となりました。<br />ミレイ56歳のことでした。

    そんな不運の時代もしばらく続きましたが、誠実な作風は変わらず
    オファーは切れ間なく続き、その頃ミレイの家族を描いた肖像画も
    素晴らしい作品が多いのですが、
    ラスキンなどの応援もあり、徐々に評価を取り戻してゆきました。
    『北西航路』
    1874年
    ジョン・エヴァレット・ミレイ

    そして、1885年には、
    画家としては初めて男爵に列せられ貴族となりました。
    ミレイ56歳のことでした。

  • 展示方法は、展示室の大小<br />セレクト作品によっても展示方も様々。<br />膨大な作品が並んでいるので<br />やはり、これと、これは観たい。<br />と、あらかじめリスト化して<br />持参するも

    展示方法は、展示室の大小
    セレクト作品によっても展示方も様々。
    膨大な作品が並んでいるので
    やはり、これと、これは観たい。
    と、あらかじめリスト化して
    持参するも

  • 思わぬ作品に出会ってしばし立ち止まったり<br />めざす作品へなかなかたどり着けないことも<br />しばしば(⌒-⌒; )<br />それも楽しい美術館でのひととき。

    思わぬ作品に出会ってしばし立ち止まったり
    めざす作品へなかなかたどり着けないことも
    しばしば(⌒-⌒; )
    それも楽しい美術館でのひととき。

  • 『ダービーの日』<br />   1856年ー58<br /> ウィリアム・パウエル・フリス<br /><br />ダービーの風景をパノラマで描いた大きな作品。<br />完成まで15ヶ月を要した。<br />

    『ダービーの日』
    1856年ー58
     ウィリアム・パウエル・フリス

    ダービーの風景をパノラマで描いた大きな作品。
    完成まで15ヶ月を要した。

  • 『古い家での最後の日』<br /> 1862年<br /> ロバート・ブレイスウェイト・マルティノー<br /><br />浪費のせいで、先祖代々の家とその所有物を<br />売却せざるを得なくなった家族の最後の日が<br />描かれています。

    『古い家での最後の日』
    1862年
     ロバート・ブレイスウェイト・マルティノー

    浪費のせいで、先祖代々の家とその所有物を
    売却せざるを得なくなった家族の最後の日が
    描かれています。

  • 『ボートレース当日のハマースミス橋』<br />  1862年頃<br /> ウオルター・グリーブス<br /> <br />毎年テムズ川で行われる大学のボーレースを<br />観戦する為にハマースミス橋に集まった群衆。<br />画家グリーブスは、テムズ川の船頭の息子で<br />独学で絵画を学んだ。

    『ボートレース当日のハマースミス橋』
    1862年頃
     ウオルター・グリーブス
     
    毎年テムズ川で行われる大学のボーレースを
    観戦する為にハマースミス橋に集まった群衆。
    画家グリーブスは、テムズ川の船頭の息子で
    独学で絵画を学んだ。

  • 『休日』<br /> 1876年<br /> ジェームズ・ティソ

    『休日』
    1876年
    ジェームズ・ティソ

  • 『夏(ポートレイト)』<br /> 1876年<br /> ジェームス・ティソ<br /> 

    『夏(ポートレイト)』
    1876年
    ジェームス・ティソ
     

  • 『カーネーション・リリー・リリーローズ』<br /> 1885年-1886年<br /> ジョン・シンガー・サージェント(John Singer Sargent)<br /><br />一日にほんの数時間、夕暮れ時に屋外で制作されたという<br />この作品ですが<br />ヴィクトリア時代の少女の特徴的な服装「コットン・ドレス」を<br />着た2人の少女が立つている夕暮れの庭先には、 <br />当時のジャポニズムの影響が色濃く<br />日本から球根が輸出されていた山百合が咲き、<br />盆提灯に火が灯されています。<br />優しい光と柔らかな芳香が安らぎを覚えます。<br /><br />

    イチオシ

    『カーネーション・リリー・リリーローズ』
     1885年-1886年
     ジョン・シンガー・サージェント(John Singer Sargent)

    一日にほんの数時間、夕暮れ時に屋外で制作されたという
    この作品ですが
    ヴィクトリア時代の少女の特徴的な服装「コットン・ドレス」を
    着た2人の少女が立つている夕暮れの庭先には、 
    当時のジャポニズムの影響が色濃く
    日本から球根が輸出されていた山百合が咲き、
    盆提灯に火が灯されています。
    優しい光と柔らかな芳香が安らぎを覚えます。

  • 『シャーロットの娘』  1888年<br />ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス <br />(John William Waterhouse)<br /><br />19世紀の詩人「アルフレッド・テニスン」による<br />〈シャロット姫〉を題材にした作品。<br /><br />人里離れた塔に幽閉された〈シャロットの女〉は「外の世界を<br />直接見たら死ぬ」という呪いにより、鏡越しにしか外の世界を<br />見ることができない。ある日、鏡に映った騎士に一目惚れした<br />シャロットは、騎士を直接見ようとしたところ鏡が粉々に<br />割れていまいました。呪いを覚悟したシャロットは、<br />小舟に乗って死にゆく旅に出る。<br />この様な設定による作品ですが、<br /><br />まさに、「ミレイ」の「オフィーリア」同様死にゆく女性の<br />姿を描いた作品です。<br /><br />この作品は人気ゆえ、美術書を開くと、ほとんどの本で取り<br />挙げられていますが、〈あの街から〉がその中から、これぞ<br />とチョイスした解説では、だいたいこんな風に述べていました。<br /><br />~ウォーターハウスと同時代のイギリスの詩人テニスンの詩<br />から採ったもので、前景の葦などはウォーターハウスが外光の下<br />刷毛やパレットナイフなども駆使して素早いタッチで描いた。<br />その筆使いを美術書では<br />舟にかけられた布は、パッチワークの重み・厚さ感じさせ<br />舟先の3本のローソクはただ1本が消えそうで、まるで彼女<br />の運命を暗示している。筆で引いた軽いタッチで遠近感と質感<br />をも確かに感じさせてくれる。<br />さらに、水面に映る小舟の影や、水に浮かぶ枯葉はごく粗い<br />筆で描くなど細密描写の見事さだ。~<br />と、讃えていました。<br /><br />ウォーターハウスが生きてきた時代は、まだまだ女性の地位が<br />低くたとえば、女性はロイヤルアカデミーに入学を許されなか<br />ったり男性優位の世の中でした。<br />ウォーターハウスや、彼が生まれる前年に結成されたラファエル<br />前派の画家は「ファム・ファタル(男を破滅に導く女)」を描く<br />ようになり、ようやく女性の地位向上の動きが芽生え始めた頃で<br />した。そんな時代を背景にしたこの作品は、社会の変動も反映さ<br />れているのでした。<br /><br /><br />

    『シャーロットの娘』  1888年
    ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス 
    (John William Waterhouse)

    19世紀の詩人「アルフレッド・テニスン」による
    〈シャロット姫〉を題材にした作品。

    人里離れた塔に幽閉された〈シャロットの女〉は「外の世界を
    直接見たら死ぬ」という呪いにより、鏡越しにしか外の世界を
    見ることができない。ある日、鏡に映った騎士に一目惚れした
    シャロットは、騎士を直接見ようとしたところ鏡が粉々に
    割れていまいました。呪いを覚悟したシャロットは、
    小舟に乗って死にゆく旅に出る。
    この様な設定による作品ですが、

    まさに、「ミレイ」の「オフィーリア」同様死にゆく女性の
    姿を描いた作品です。

    この作品は人気ゆえ、美術書を開くと、ほとんどの本で取り
    挙げられていますが、〈あの街から〉がその中から、これぞ
    とチョイスした解説では、だいたいこんな風に述べていました。

    ~ウォーターハウスと同時代のイギリスの詩人テニスンの詩
    から採ったもので、前景の葦などはウォーターハウスが外光の下
    刷毛やパレットナイフなども駆使して素早いタッチで描いた。
    その筆使いを美術書では
    舟にかけられた布は、パッチワークの重み・厚さ感じさせ
    舟先の3本のローソクはただ1本が消えそうで、まるで彼女
    の運命を暗示している。筆で引いた軽いタッチで遠近感と質感
    をも確かに感じさせてくれる。
    さらに、水面に映る小舟の影や、水に浮かぶ枯葉はごく粗い
    筆で描くなど細密描写の見事さだ。~
    と、讃えていました。

    ウォーターハウスが生きてきた時代は、まだまだ女性の地位が
    低くたとえば、女性はロイヤルアカデミーに入学を許されなか
    ったり男性優位の世の中でした。
    ウォーターハウスや、彼が生まれる前年に結成されたラファエル
    前派の画家は「ファム・ファタル(男を破滅に導く女)」を描く
    ようになり、ようやく女性の地位向上の動きが芽生え始めた頃で
    した。そんな時代を背景にしたこの作品は、社会の変動も反映さ
    れているのでした。


  • 『グラハム・ロバートソン』<br />1894年<br /> ジョン・シンガー・サージェント(John Singer Sargent)<br /><br />19世紀後半から20世紀前半(1856年~1925年)に<br />活躍した画家。<br />少年時代をフィレンツェで過ごし、<br />18歳でパリに出、<br />アカデミックな美術教育を受けました。<br />イタリアとスペインへ旅をした際には<br />特にベラスケスの影響を受けました。<br />1884年、パリのサロンに出品した<br />「マダムXの肖像」(メトロポリタン美術館)が<br />当時艶かしいというスキャンダルにまきこまれ<br />(今、観ると豪華なイブニングドレスに身を包んだ夫人は<br />確かに妖艶なのだけれど、ごく普通のイブニングドレスで<br />現代ではスキャンダルにならずに済んだのになぁ。笑)<br />サージェントは、いたたまれず、<br />翌年にはロンドンに移り住みます。<br /><br />8年前の1886年には<br />「カーネーション・リリー・リリー・ローズ」(先出)を<br />描いていますがテーマが違いますが印象派の柔らかな<br />雰囲気は共通していますね。<br />また、どんなところでベラスケスの影響を受けたのかなぁ。<br />と思ったり<br />サージェントがスペインへ旅をしてから長い時間がたち<br />その間にも様々な作品に出会い変化していったのなのだろうなぁ。と<br />作品を鑑賞しながらいろいろ思いを巡らせ(⌒▽⌒)たり。<br /><br />

    『グラハム・ロバートソン』
    1894年
    ジョン・シンガー・サージェント(John Singer Sargent)

    19世紀後半から20世紀前半(1856年~1925年)に
    活躍した画家。
    少年時代をフィレンツェで過ごし、
    18歳でパリに出、
    アカデミックな美術教育を受けました。
    イタリアとスペインへ旅をした際には
    特にベラスケスの影響を受けました。
    1884年、パリのサロンに出品した
    「マダムXの肖像」(メトロポリタン美術館)が
    当時艶かしいというスキャンダルにまきこまれ
    (今、観ると豪華なイブニングドレスに身を包んだ夫人は
    確かに妖艶なのだけれど、ごく普通のイブニングドレスで
    現代ではスキャンダルにならずに済んだのになぁ。笑)
    サージェントは、いたたまれず、
    翌年にはロンドンに移り住みます。

    8年前の1886年には
    「カーネーション・リリー・リリー・ローズ」(先出)を
    描いていますがテーマが違いますが印象派の柔らかな
    雰囲気は共通していますね。
    また、どんなところでベラスケスの影響を受けたのかなぁ。
    と思ったり
    サージェントがスペインへ旅をしてから長い時間がたち
    その間にも様々な作品に出会い変化していったのなのだろうなぁ。と
    作品を鑑賞しながらいろいろ思いを巡らせ(⌒▽⌒)たり。

  • 『ザ・ブリッジ』<br />  1887年ー8<br /> フィリップ・ウィルソン・スティーア<br /><br />スティーアは、1860年イングランドのバーケンヘッドで<br />生まれました。<br />父親は肖像画家で美術教師。<br />この影響を受け小さい時から絵に親しんできました。<br />1880年ロンドンの美術学校サウス・ケンジントンで<br />本格的に絵画を学び始めました。<br />しかし、ロイヤルアカデミーに入学できなかったので、<br />1882年にパリに渡りパリ国立高等美術学校で<br />アレクサンドル・カバネルのもとで学びました。<br />その結果、パリで印象派の強い影響を受けることになりました。<br />イギリスに戻った後ロンドンにスタジオを構え、海岸などの風景を<br />印象派のスタイルで描き続けました。<br />※「橋」はこの時期の作品ですね。<br />1886年には、海外で修行した若手の画家、特に印象派に影響を受けた<br />画家たちによって設立された<br />「ニュー・イングリッシュ・アート・クラブ」<br />の創立メンバーとなり、やがてイギリスの印象派の代表的な画家と<br />なりましたが1927年、ステアは片方の目を見失いました。<br />以降ほとんどの作品は水彩画で絵を描き続けました。<br />1893年から1930年の間には、ロンドン大学のスレード美術学校で<br />教師を務め、若い世代の育成に努めました。<br />

    イチオシ

    『ザ・ブリッジ』
    1887年ー8
     フィリップ・ウィルソン・スティーア

    スティーアは、1860年イングランドのバーケンヘッドで
    生まれました。
    父親は肖像画家で美術教師。
    この影響を受け小さい時から絵に親しんできました。
    1880年ロンドンの美術学校サウス・ケンジントンで
    本格的に絵画を学び始めました。
    しかし、ロイヤルアカデミーに入学できなかったので、
    1882年にパリに渡りパリ国立高等美術学校で
    アレクサンドル・カバネルのもとで学びました。
    その結果、パリで印象派の強い影響を受けることになりました。
    イギリスに戻った後ロンドンにスタジオを構え、海岸などの風景を
    印象派のスタイルで描き続けました。
    ※「橋」はこの時期の作品ですね。
    1886年には、海外で修行した若手の画家、特に印象派に影響を受けた
    画家たちによって設立された
    「ニュー・イングリッシュ・アート・クラブ」
    の創立メンバーとなり、やがてイギリスの印象派の代表的な画家と
    なりましたが1927年、ステアは片方の目を見失いました。
    以降ほとんどの作品は水彩画で絵を描き続けました。
    1893年から1930年の間には、ロンドン大学のスレード美術学校で
    教師を務め、若い世代の育成に努めました。

  • 『ロックアウトされた愛』<br /> 1890年<br /> アンナ・リー・メリット(Anna Massey Lea Merritt)<br /><br />作品名は「締め出された愛」「閉ざされた愛」など<br />日本でつけられたタイトルは美術書によって様々ですが、<br />テートブリテンからとしました。原題は「LOVE LOCKED OUT」<br /><br />19世紀末のイギリスにおいて女性画家が<br />男性のヌードを描くことは禁じられていましたが、<br />メリットは勧めもあり少年のうしろ姿<br />としてヌードを描きました。<br /><br />作品で、彼女は、結婚後3ヶ月で亡くなった<br />夫を追悼し描いたものです。<br />イギリスにおいて、<br />国に寄贈された女性作家による最初の作品となりました。<br /><br />メリットはフィラデルフィアで裕福な両親のもとに生まれました。<br />ペンシルバニア女子医科大学で解剖学を学んだ後、<br />1865年に家族とヨーロッパに移り、<br />さまざまな画家から絵画を学びました。<br />1870年に普仏戦争が始まると、家族とロンドンに移り<br />1871年に有名な美術評論家の<br />ヘンリー・メリットと知り合い指導を受けました。<br />6年後の4月に結婚しましたが、3ヶ月後の7月に<br />夫は亡くなってしまいました。<br />アンナはその後も再婚することはなかったといいます。<br />

    イチオシ

    『ロックアウトされた愛』
    1890年
    アンナ・リー・メリット(Anna Massey Lea Merritt)

    作品名は「締め出された愛」「閉ざされた愛」など
    日本でつけられたタイトルは美術書によって様々ですが、
    テートブリテンからとしました。原題は「LOVE LOCKED OUT」

    19世紀末のイギリスにおいて女性画家が
    男性のヌードを描くことは禁じられていましたが、
    メリットは勧めもあり少年のうしろ姿
    としてヌードを描きました。

    作品で、彼女は、結婚後3ヶ月で亡くなった
    夫を追悼し描いたものです。
    イギリスにおいて、
    国に寄贈された女性作家による最初の作品となりました。

    メリットはフィラデルフィアで裕福な両親のもとに生まれました。
    ペンシルバニア女子医科大学で解剖学を学んだ後、
    1865年に家族とヨーロッパに移り、
    さまざまな画家から絵画を学びました。
    1870年に普仏戦争が始まると、家族とロンドンに移り
    1871年に有名な美術評論家の
    ヘンリー・メリットと知り合い指導を受けました。
    6年後の4月に結婚しましたが、3ヶ月後の7月に
    夫は亡くなってしまいました。
    アンナはその後も再婚することはなかったといいます。

  • 『マクベス夫人に扮したエレン・テリー』<br />   (Ellen Terry as Lady Macbeth)<br />1889年<br /><br />この作品もシェイクスピアの戯曲を主題とした作品で<br />「マクベス」<br />当時の「シェイクスピア劇」で活躍した人気女優<br />エレン・テリー(Ellen Terry)が演ずる「マクベス夫人」に<br />衝撃を受けた画家ジョン・シンガー・サージェントが<br />絵のモデルになるようエレンに懇願して書き上げた大作です。<br /><br /> 勇壮な将軍である「マクベス」は、野望溢れる妻に叱咤され、<br />主君を暗殺して王位を奪ったもののその重圧や亡霊に怯えて<br />錯乱し、ついには貴族や王族らの復讐に倒れ、<br />「マクベス夫人」も罪悪感から精神に異常をきたして<br />死んでいきます。<br /><br /> 画家サージェントが考えついたマクベス夫人のこのポーズ。<br />念願の王冠を頭上にかかげ、権力に取り憑かれて狂気に満ちた<br />その迫力が迫ってくるようです。<br />

    『マクベス夫人に扮したエレン・テリー』
       (Ellen Terry as Lady Macbeth)
    1889年

    この作品もシェイクスピアの戯曲を主題とした作品で
    「マクベス」
    当時の「シェイクスピア劇」で活躍した人気女優
    エレン・テリー(Ellen Terry)が演ずる「マクベス夫人」に
    衝撃を受けた画家ジョン・シンガー・サージェントが
    絵のモデルになるようエレンに懇願して書き上げた大作です。

    勇壮な将軍である「マクベス」は、野望溢れる妻に叱咤され、
    主君を暗殺して王位を奪ったもののその重圧や亡霊に怯えて
    錯乱し、ついには貴族や王族らの復讐に倒れ、
    「マクベス夫人」も罪悪感から精神に異常をきたして
    死んでいきます。

    画家サージェントが考えついたマクベス夫人のこのポーズ。
    念願の王冠を頭上にかかげ、権力に取り憑かれて狂気に満ちた
    その迫力が迫ってくるようです。

  • 『8月の青』<br /> 1894年<br /> ヘンリー・スコット・テューク

    イチオシ

    『8月の青』
    1894年
     ヘンリー・スコット・テューク

  • 『夜と眠り』<br />1894年<br />シメオン・ソロモン

    『夜と眠り』
    1894年
    シメオン・ソロモン

  • 『彼の初犯』<br /> 1896年<br />  ドロシー・スタンレー夫人

    『彼の初犯』
     1896年
    ドロシー・スタンレー夫人

  • 『イカロスの哀悼』<br />  1898年<br /> ハーバート・ジェームス・ドレイパー<br /><br />太陽に近づき過ぎて墜落死したイカロスを<br />ニンフたちが悼んでいる。<br />イカロスの日焼けした浅黒い肌とニンフたちの白い肌と<br />コントラストをなしています。<br />発表後直ぐに国家に買い上げられ、<br />1900年のパリ万博で金賞を獲得しました。

    イチオシ

    『イカロスの哀悼』
    1898年
     ハーバート・ジェームス・ドレイパー

    太陽に近づき過ぎて墜落死したイカロスを
    ニンフたちが悼んでいる。
    イカロスの日焼けした浅黒い肌とニンフたちの白い肌と
    コントラストをなしています。
    発表後直ぐに国家に買い上げられ、
    1900年のパリ万博で金賞を獲得しました。

  • 『お気に入りのカスタム』<br /> 1900年<br /> サー・ローレンス・アルマ=タデマ

    イチオシ

    『お気に入りのカスタム』
    1900年
     サー・ローレンス・アルマ=タデマ

  • どの展示室も天井が高く<br />ゆったりと鑑賞できる空間になっています。

    どの展示室も天井が高く
    ゆったりと鑑賞できる空間になっています。

  • それにしても、美術館でのこの時間は<br />意識せずとも万歩計もがんばってくれています。<br />やはり、(⌒-⌒; ) そんな時には展示室に設置の<br />ソファに腰かけて小休止を何度か入れながら<br />少し休むと元気が蘇ります。(⌒▽⌒)<br />なんだか山登りと似ています。<br /><br />

    それにしても、美術館でのこの時間は
    意識せずとも万歩計もがんばってくれています。
    やはり、(⌒-⌒; ) そんな時には展示室に設置の
    ソファに腰かけて小休止を何度か入れながら
    少し休むと元気が蘇ります。(⌒▽⌒)
    なんだか山登りと似ています。

  • 『ヴェレ・ゴンフィー』<br />1904年<br />ジョン・シンガー・サージェント

    『ヴェレ・ゴンフィー』
    1904年
    ジョン・シンガー・サージェント

  • 作品を前にしてしばらく立ち止まり<br />何やら美術論議をしているようで<br />とても、いい時間を過ごしているようでした。

    作品を前にしてしばらく立ち止まり
    何やら美術論議をしているようで
    とても、いい時間を過ごしているようでした。

  • 『ズボフ伯爵』<br />1908年<br />アニー・スウィナートン

    『ズボフ伯爵』
    1908年
    アニー・スウィナートン

  • 9月8日に新国立美術館〈東京・六本木〉で開催中の<br />テート美術館展 LIGHT  光 ターナー、印象派から現代へ<br />行ってきました。<br />いいタイミングの開催なのですが、<br />現在 ヨーロッパ旅2023夏が進行中でもあり、<br />旅行記のボリュームも考慮してとりあえずこちらを<br />優先として進めてゆきたいと思います。

    9月8日に新国立美術館〈東京・六本木〉で開催中の
    テート美術館展 LIGHT 光 ターナー、印象派から現代へ
    行ってきました。
    いいタイミングの開催なのですが、
    現在 ヨーロッパ旅2023夏が進行中でもあり、
    旅行記のボリュームも考慮してとりあえずこちらを
    優先として進めてゆきたいと思います。

  • さて、数々ある英国の至宝の中でも、<br />テートブリテンの名を高めているのは<br />イギリスが世界に誇る19世紀の風景画家<br />ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー<br />Joseph Mallord William Turner<br />〈1775年~1851年)のコレクションでしょうか。<br /><br />ターナーは1829年、54歳の時には最初の遺言を書いた<br />といいます。以来20年程の間に何度もその内容に手を加え<br />最終的に、自分の作品をまとめて展示することを条件として<br />国家に寄贈。この遺言により、油絵から習作までおよそ2万<br />点が、テートブリテン美術館に収蔵されました。<br />彼は、寄贈によって崇敬するオールド・マスター達と並んで<br />展示されると同時に、未来の画家たちが自分の作品から学ぶ<br />ことを願ってのことでした。

    さて、数々ある英国の至宝の中でも、
    テートブリテンの名を高めているのは
    イギリスが世界に誇る19世紀の風景画家
    ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
    Joseph Mallord William Turner
    〈1775年~1851年)のコレクションでしょうか。

    ターナーは1829年、54歳の時には最初の遺言を書いた
    といいます。以来20年程の間に何度もその内容に手を加え
    最終的に、自分の作品をまとめて展示することを条件として
    国家に寄贈。この遺言により、油絵から習作までおよそ2万
    点が、テートブリテン美術館に収蔵されました。
    彼は、寄贈によって崇敬するオールド・マスター達と並んで
    展示されると同時に、未来の画家たちが自分の作品から学ぶ
    ことを願ってのことでした。

  • 「自画像」 1799年頃<br />自らの容姿を卑下していたターナーは、自画像はもちろん、<br />他の画家に肖像を描かれることも嫌いました。<br />この自画像は、例外の一作で、<br />正装で信念満ちた姿が描かれています。<br />これは、ロイヤル<br />アカデミーの準会員に選出された記念して<br />描かれたとも推測されている作品です。<br />

    「自画像」 1799年頃
    自らの容姿を卑下していたターナーは、自画像はもちろん、
    他の画家に肖像を描かれることも嫌いました。
    この自画像は、例外の一作で、
    正装で信念満ちた姿が描かれています。
    これは、ロイヤル
    アカデミーの準会員に選出された記念して
    描かれたとも推測されている作品です。

  • 『ターナー物語』<br />ターナーは、<br />ロンドンの中心地で活気あふれるコヴェント・ガーデン<br />の広場に面した理髪店の息子として生まれました。<br />父親は、腕の良い職人で絵の上手い息子が何よりの自慢で<br />店の窓に息子の描いた絵を飾っていたといいます。<br />母メアリーは、生まれつき鬱の気質を持っていて日ごとに<br />精神を病んで遂には家族の世話をすることができなくなり<br />ました。さらに妹が亡くなるという不幸も重なり、<br />1785年になると、母の病気が悪化したためターナーは、<br />ロンドン郊外の町ブレントフォードに住む母方の伯父の元に<br />あずけられました。そこで彼は、地方の地理を書いた版画本<br />(※今でいう、旅行案内本・版画本だろうか)の版画の挿絵<br />に色をつけるアルバイトをして結構な賃金を稼いでいました。<br />翌年になると、テムズ川を下った海辺の保養地マーゲイトに<br />引越し小学校に通うかたわらでスケッチを描き始めました。<br />こうしてターナーは、少年時代テムズ川の川辺を遊び場にして<br />川面を照らす太陽や行き交う船、波立つ川面そして頭上に広がる<br />空や雲など自然界での光の風景を知らず知らずのうちに心に刻み<br />ながら育ちました。<br />

    『ターナー物語』
    ターナーは、
    ロンドンの中心地で活気あふれるコヴェント・ガーデン
    の広場に面した理髪店の息子として生まれました。
    父親は、腕の良い職人で絵の上手い息子が何よりの自慢で
    店の窓に息子の描いた絵を飾っていたといいます。
    母メアリーは、生まれつき鬱の気質を持っていて日ごとに
    精神を病んで遂には家族の世話をすることができなくなり
    ました。さらに妹が亡くなるという不幸も重なり、
    1785年になると、母の病気が悪化したためターナーは、
    ロンドン郊外の町ブレントフォードに住む母方の伯父の元に
    あずけられました。そこで彼は、地方の地理を書いた版画本
    (※今でいう、旅行案内本・版画本だろうか)の版画の挿絵
    に色をつけるアルバイトをして結構な賃金を稼いでいました。
    翌年になると、テムズ川を下った海辺の保養地マーゲイトに
    引越し小学校に通うかたわらでスケッチを描き始めました。
    こうしてターナーは、少年時代テムズ川の川辺を遊び場にして
    川面を照らす太陽や行き交う船、波立つ川面そして頭上に広がる
    空や雲など自然界での光の風景を知らず知らずのうちに心に刻み
    ながら育ちました。

  • 1788年の秋ターナーはロンドンへ戻りました。<br />父親は息子の非凡な画才を認め、息子の描いた水彩素描を<br />理髪店のウィンドウに並べて1枚1シリングで販売しました。<br />ロイヤルアカデミー入学を目指していたターナーは、<br />1789年の夏、建築画を専門とするトマス・モールトン<br />の教えを受けました。<br />同年12月、ターナーはロイヤルアカデミーへの入学を許可<br />され、入学すると正統的な教育段階を歩み古代彫刻等<br />の石膏像の模写を学び続いて、生身のモデルの人体素描のク<br />ラスに進み基礎から身につけてゆきました。<br /><br />またターナーは、在学中には、ロイヤルアカデミー初代院長<br />サー・ジョシュア・レノルズの講義を受講する機会があり、<br />レノルズから理論面で芸術への様々なアプローチを学びました。<br />後に、ターナーは、遺言で自分の死後は遺体はセントポール大聖堂<br />の地下礼拝堂のレノルズの墓の横に埋葬して欲しいと望んだほどで<br />した。

    1788年の秋ターナーはロンドンへ戻りました。
    父親は息子の非凡な画才を認め、息子の描いた水彩素描を
    理髪店のウィンドウに並べて1枚1シリングで販売しました。
    ロイヤルアカデミー入学を目指していたターナーは、
    1789年の夏、建築画を専門とするトマス・モールトン
    の教えを受けました。
    同年12月、ターナーはロイヤルアカデミーへの入学を許可
    され、入学すると正統的な教育段階を歩み古代彫刻等
    の石膏像の模写を学び続いて、生身のモデルの人体素描のク
    ラスに進み基礎から身につけてゆきました。

    またターナーは、在学中には、ロイヤルアカデミー初代院長
    サー・ジョシュア・レノルズの講義を受講する機会があり、
    レノルズから理論面で芸術への様々なアプローチを学びました。
    後に、ターナーは、遺言で自分の死後は遺体はセントポール大聖堂
    の地下礼拝堂のレノルズの墓の横に埋葬して欲しいと望んだほどで
    した。

  • 1791年 16歳のターナーはイングランドへ旅に出ます。<br />彼は、以降生涯旅を続けましが、その背景には、18世紀末当時<br />ヨーロッパ大陸の国では風景画を専門とする画家は珍しくこの<br />ジャンルはそれ程人気がありませんでしたが、<br />一方、イギリスでは全く事情が異なっていました。<br />史跡や歴史的建造物の解説書が次々に出版され、それら解説書<br />※今でいう地方の紹介する旅のガイドブックの役目を果たした<br />のだろうと、〈あの街から〉的推測。<br />の出版ラッシュで国内旅行の人気が高まりました。<br />解説書及び風景版画集や紀行文集のための原画には挿絵が不可<br />欠で、それらが画家たちにとっては貴重な収入源となっていました。<br />そこで、多くの画家たちが挿絵の元となるスケッチを描くため<br />国内へ旅へ出ました。青年のターナーもその一人でした。<br />

    1791年 16歳のターナーはイングランドへ旅に出ます。
    彼は、以降生涯旅を続けましが、その背景には、18世紀末当時
    ヨーロッパ大陸の国では風景画を専門とする画家は珍しくこの
    ジャンルはそれ程人気がありませんでしたが、
    一方、イギリスでは全く事情が異なっていました。
    史跡や歴史的建造物の解説書が次々に出版され、それら解説書
    ※今でいう地方の紹介する旅のガイドブックの役目を果たした
    のだろうと、〈あの街から〉的推測。
    の出版ラッシュで国内旅行の人気が高まりました。
    解説書及び風景版画集や紀行文集のための原画には挿絵が不可
    欠で、それらが画家たちにとっては貴重な収入源となっていました。
    そこで、多くの画家たちが挿絵の元となるスケッチを描くため
    国内へ旅へ出ました。青年のターナーもその一人でした。

  • 1793年 ターナーは、当時イギリスの芸術界で非常に有名<br />だったトマス・モンロー博士に出会いました。代々続く精神<br />科医で、国王ジョージ3世の特別医。<br />さらには、絵画のコレクターでもあり、あらゆる世代の画家に<br />大きな影響を与えていました。<br />博士は、私的アカデミーのために、夜になると、<br />若い芸術家たちを集めて自分のコレクションを<br />模写させたり夕食も提供したりして援助をしていました。<br />そこで、ターナーは同い年の画家トマス・ガーディンと<br />出会いました。<br />博士は、ターナーとガーディンを田舎の別荘へ呼び<br />風景画を描かせました。<br />この時のターナーへの報酬は、夕食と3シリング6ペンスだった<br />という記録が残っています。ガーディンとは、修行時代の3年間<br />毎週模写を続けた良きライバルで良き友でしたが、ガーディンは<br />27歳の若さで亡くなってしまいました。

    1793年 ターナーは、当時イギリスの芸術界で非常に有名
    だったトマス・モンロー博士に出会いました。代々続く精神
    科医で、国王ジョージ3世の特別医。
    さらには、絵画のコレクターでもあり、あらゆる世代の画家に
    大きな影響を与えていました。
    博士は、私的アカデミーのために、夜になると、
    若い芸術家たちを集めて自分のコレクションを
    模写させたり夕食も提供したりして援助をしていました。
    そこで、ターナーは同い年の画家トマス・ガーディンと
    出会いました。
    博士は、ターナーとガーディンを田舎の別荘へ呼び
    風景画を描かせました。
    この時のターナーへの報酬は、夕食と3シリング6ペンスだった
    という記録が残っています。ガーディンとは、修行時代の3年間
    毎週模写を続けた良きライバルで良き友でしたが、ガーディンは
    27歳の若さで亡くなってしまいました。

  • ターナーがロイヤルアカデミーに水彩画を展示するようになった<br />頃、ようやく人々も水彩画に興味を持ち始め作品の売れ行きも<br />良くなってきました。ターナーは、水彩画で名声を得ましたが、<br />画家としての地位を高めるための最終段階つまり、油彩画に取り<br />組む時期がきたことを実感していました。<br /><br />1796年  ターナーは王立アカデミー展に10点程の水彩画と<br />ともに初めて油彩画「海の漁師たち」を出品すると好評となり<br />スチュワート将軍に10ポンドで買い取られました。<br />こうして、徐々にターナーは自信をつけ<br />生活面でのゆとりも出てゆきました。<br /><br />『海上の漁師たち』<br /> 1796年  ターナー<br />

    ターナーがロイヤルアカデミーに水彩画を展示するようになった
    頃、ようやく人々も水彩画に興味を持ち始め作品の売れ行きも
    良くなってきました。ターナーは、水彩画で名声を得ましたが、
    画家としての地位を高めるための最終段階つまり、油彩画に取り
    組む時期がきたことを実感していました。

    1796年 ターナーは王立アカデミー展に10点程の水彩画と
    ともに初めて油彩画「海の漁師たち」を出品すると好評となり
    スチュワート将軍に10ポンドで買い取られました。
    こうして、徐々にターナーは自信をつけ
    生活面でのゆとりも出てゆきました。

    『海上の漁師たち』
     1796年  ターナー

  • 1797年 22歳の夏<br />ターナーは再び北イングランドへと旅立ちました。<br />イングランドの北の端からさらには、西の湖水地方まで足を<br />伸ばしてその旅は、2ヶ月にも及んだといいます。<br />この旅でターナーは、スケッチブックに思うままにスケッチ<br />を描き続け、描いては移動を繰り返しながら旅を続けました。<br />そして1ヶ月が経った頃に訪れたノーサンバーランド州の海岸<br />風景を描くうち、彼のスケッチに変化が現われてきました。<br />旅の始めの頃に描いた綿密な描写は影をひそめてゆきました。<br />旅の終わりに訪れたのが湖水地方でした。<br />そこは、氷河期に削られた山々の間に大小の湖が点在する<br />風光明媚な所として人気の地でした。<br /><br />ところが、ターナーが訪れた時には来る日も来る日も、雨風が<br />続いていました。けれど、彼にとって雨や風はいまや制作を妨げ<br />る悪条件ではなく、晴天の日の太陽のように自然界の素晴らしい<br />表情を見せてくれる大切な要素であると感じる様になっていました。<br />後年、ターナーの絵画を気象学の観点から研究した学識者は<br />こんな風に分析しています。<br />「18世紀の終わりから19世紀前半は大きな火山活動の時期で<br />もあった。噴火による火山灰が空の色を変え、特に日の出や日没<br />の時間になると、今日よりもっと鮮やかな色が見られたと推測さ<br />れる。」と。

    1797年 22歳の夏
    ターナーは再び北イングランドへと旅立ちました。
    イングランドの北の端からさらには、西の湖水地方まで足を
    伸ばしてその旅は、2ヶ月にも及んだといいます。
    この旅でターナーは、スケッチブックに思うままにスケッチ
    を描き続け、描いては移動を繰り返しながら旅を続けました。
    そして1ヶ月が経った頃に訪れたノーサンバーランド州の海岸
    風景を描くうち、彼のスケッチに変化が現われてきました。
    旅の始めの頃に描いた綿密な描写は影をひそめてゆきました。
    旅の終わりに訪れたのが湖水地方でした。
    そこは、氷河期に削られた山々の間に大小の湖が点在する
    風光明媚な所として人気の地でした。

    ところが、ターナーが訪れた時には来る日も来る日も、雨風が
    続いていました。けれど、彼にとって雨や風はいまや制作を妨げ
    る悪条件ではなく、晴天の日の太陽のように自然界の素晴らしい
    表情を見せてくれる大切な要素であると感じる様になっていました。
    後年、ターナーの絵画を気象学の観点から研究した学識者は
    こんな風に分析しています。
    「18世紀の終わりから19世紀前半は大きな火山活動の時期で
    もあった。噴火による火山灰が空の色を変え、特に日の出や日没
    の時間になると、今日よりもっと鮮やかな色が見られたと推測さ
    れる。」と。

  • 生涯旅を続けたターナー。旅先でも絶えずスケッチをしながら<br />1日40Km近い道のりを平気で歩いたといいます。<br />彼は、少年時代からアルバイトをしてお金の有り難さを知って<br />いたことや、父親に「勤勉こそ美徳」と言われて育ったので<br />旅の計画は綿密を極め、あらかじめ用意した費用以上は<br />使わなかったといいます。<br /><br />ターナーは、崇敬する画家たちの絵を手本にしながらも、<br />風景を正確に写しとるのではなく、感じた印象を描く彼独自の<br />描き方をする様になりました。<br />そして、次第に光や大気が彼の作品の主人公に<br />なっていってゆきました。<br /><br />ターナーは、1799年24歳で王立アカデミーの準会員に<br />史上最年少で選ばれました。そして、1802年、27歳で<br />正会員となり、その5年後の1807年にはアカデミーの<br />遠近法教授に選出されるという今でいうスピード出世を果た<br />しましたが、同時に彼は猛烈な仕事人でもありました。

    生涯旅を続けたターナー。旅先でも絶えずスケッチをしながら
    1日40Km近い道のりを平気で歩いたといいます。
    彼は、少年時代からアルバイトをしてお金の有り難さを知って
    いたことや、父親に「勤勉こそ美徳」と言われて育ったので
    旅の計画は綿密を極め、あらかじめ用意した費用以上は
    使わなかったといいます。

    ターナーは、崇敬する画家たちの絵を手本にしながらも、
    風景を正確に写しとるのではなく、感じた印象を描く彼独自の
    描き方をする様になりました。
    そして、次第に光や大気が彼の作品の主人公に
    なっていってゆきました。

    ターナーは、1799年24歳で王立アカデミーの準会員に
    史上最年少で選ばれました。そして、1802年、27歳で
    正会員となり、その5年後の1807年にはアカデミーの
    遠近法教授に選出されるという今でいうスピード出世を果た
    しましたが、同時に彼は猛烈な仕事人でもありました。

  • ターナーは、母親の無類の癇癪持ちにさらされて育ちました。<br />彼が、アカデミー準会員なった翌年<br />1800年に母親のメアリは精神の異常がもはや<br />家庭生活を不可能の域に達し病院に収容されました。<br />彼女の病状は、烈しい怒りの発作が続いていました。<br />彼は後に、周りの人達が母親の話題をすると不快感を表し<br />その話題を遠ざけました。<br />そして、この生い立ちは、ターナーの人生に大きな影を<br />投げかけることとなりました。<br /><br />1804年 母親はモンロー博士の精神病院で息を引きとりました。<br />家族としてこの共通の苦しみを分け合った父親とターナーは仲良く<br />父親は息子を手伝う為に理髪店をたたみターナーのアトリエ助手を<br />したりして息子のそばに寄り添って暮らしました。<br />1829年父親が亡くなりターナーは精神的に大きな打撃を受けます。<br />人付き合いの悪かったターナーにとっては、<br />父親は良き理解者で友人でもあり大きな心の支えでした。 <br />そして、父親が亡くなって初めての遺言を書きました。<br /><br />母親との暮らしで私生活が揺れていたその頃の<br />1798年ターナーは初めて<br />神話画〈アエネイアースとシビュラ、アヴェルナス湖〉を<br />制作します。<br />彼の生きた時代では、神話画や歴史画が、<br />最も重要な絵画のジャンルだとされていました。<br />特に古代ローマの叙事詩「アイネイアース」はアイネイアース<br />がローマの基礎を築く物語で芸術家や君主たち、そして未来の<br />皇帝ナポレオンに愛された絵画の主題にピッタリのストーリー<br />なのです。<br />アイネイアースの物語は海の場面も多く、ターナーの人生の様に<br />波乱に富んだ展開でなのです。アイネイアースは、地獄の扉の鍵<br />を持っていた巫女シビュラに亡き父と話す為に地獄に入りたいと<br />頼みます。しかし、シビュラは激しく乱暴な巫女でした・・・。<br />ターナーは、アイネイアースの物語を主題にした作品を何点も描<br />きました。<br /><br />1798年<br />〈アエネイアースとシビュラ、アヴェルナス湖〉

    ターナーは、母親の無類の癇癪持ちにさらされて育ちました。
    彼が、アカデミー準会員なった翌年
    1800年に母親のメアリは精神の異常がもはや
    家庭生活を不可能の域に達し病院に収容されました。
    彼女の病状は、烈しい怒りの発作が続いていました。
    彼は後に、周りの人達が母親の話題をすると不快感を表し
    その話題を遠ざけました。
    そして、この生い立ちは、ターナーの人生に大きな影を
    投げかけることとなりました。

    1804年 母親はモンロー博士の精神病院で息を引きとりました。
    家族としてこの共通の苦しみを分け合った父親とターナーは仲良く
    父親は息子を手伝う為に理髪店をたたみターナーのアトリエ助手を
    したりして息子のそばに寄り添って暮らしました。
    1829年父親が亡くなりターナーは精神的に大きな打撃を受けます。
    人付き合いの悪かったターナーにとっては、
    父親は良き理解者で友人でもあり大きな心の支えでした。 
    そして、父親が亡くなって初めての遺言を書きました。

    母親との暮らしで私生活が揺れていたその頃の
    1798年ターナーは初めて
    神話画〈アエネイアースとシビュラ、アヴェルナス湖〉を
    制作します。
    彼の生きた時代では、神話画や歴史画が、
    最も重要な絵画のジャンルだとされていました。
    特に古代ローマの叙事詩「アイネイアース」はアイネイアース
    がローマの基礎を築く物語で芸術家や君主たち、そして未来の
    皇帝ナポレオンに愛された絵画の主題にピッタリのストーリー
    なのです。
    アイネイアースの物語は海の場面も多く、ターナーの人生の様に
    波乱に富んだ展開でなのです。アイネイアースは、地獄の扉の鍵
    を持っていた巫女シビュラに亡き父と話す為に地獄に入りたいと
    頼みます。しかし、シビュラは激しく乱暴な巫女でした・・・。
    ターナーは、アイネイアースの物語を主題にした作品を何点も描
    きました。

    1798年
    〈アエネイアースとシビュラ、アヴェルナス湖〉

  • 『大洪水』 <br />1805年  ターナー<br /><br />この作品でも、絵の色使いと荒れ狂う景色、<br />混乱に陥った人々の表情<br />など見どころがいっぱいです。<br /><br />旧約聖書のノアの洪水神話を描いた作品。<br />ノアの洪水は、『聖書』多くの研究者などの<br />見解によると、紀元前3000年頃に起こった<br />とされています。<br /><br /><br />

    『大洪水』 
    1805年  ターナー

    この作品でも、絵の色使いと荒れ狂う景色、
    混乱に陥った人々の表情
    など見どころがいっぱいです。

    旧約聖書のノアの洪水神話を描いた作品。
    ノアの洪水は、『聖書』多くの研究者などの
    見解によると、紀元前3000年頃に起こった
    とされています。


  • 1802年、ターナーは風景画の新たなモチーフを求めフランス旅立ちました。<br />そして、ドーバー海峡を渡る船に乗った時、嵐と遭遇。<br />あわや転覆の危機にみまわれながら命からがら海を渡り生還しました。<br />「難破船」は、この旅での体験をもとに3年後に描いた作品です。<br /><br />それまでも海の絵を描いていたターナーですが、<br />その絵は海の美しさを描き続けてきました。<br />自身の体験から、容赦なく牙をむく狂暴な荒波と難破船で<br />死の恐怖と戦う人々の姿を描くには、<br />人間のドラマを絵画に取り入れることが<br />有効な手段だということに気がつきました。<br />そして「難破船」では<人間>対<海>という<br />二つの対立を鮮明にすることで、<br />自然界の力の大きさを見事に描きました。<br />当時の美術界では革新的な構図であったこともあり<br />ある評論家からは「下品で粗野で無秩序」と評されましたが<br />ターナーは気に留める様子も見せませんでした。<br /><br />『難破船 乗組員の救助に務める漁船』 <br />          1805年  ターナー

    イチオシ

    1802年、ターナーは風景画の新たなモチーフを求めフランス旅立ちました。
    そして、ドーバー海峡を渡る船に乗った時、嵐と遭遇。
    あわや転覆の危機にみまわれながら命からがら海を渡り生還しました。
    「難破船」は、この旅での体験をもとに3年後に描いた作品です。

    それまでも海の絵を描いていたターナーですが、
    その絵は海の美しさを描き続けてきました。
    自身の体験から、容赦なく牙をむく狂暴な荒波と難破船で
    死の恐怖と戦う人々の姿を描くには、
    人間のドラマを絵画に取り入れることが
    有効な手段だということに気がつきました。
    そして「難破船」では<人間>対<海>という
    二つの対立を鮮明にすることで、
    自然界の力の大きさを見事に描きました。
    当時の美術界では革新的な構図であったこともあり
    ある評論家からは「下品で粗野で無秩序」と評されましたが
    ターナーは気に留める様子も見せませんでした。

    『難破船 乗組員の救助に務める漁船』 
              1805年  ターナー

  • 『ヴィクトリー号後しょう右舷の横静索から見た<br />    トラファルガーの戦い』  <br /> 1806年   再加1808年<br /> ターナー<br /><br />1805年にビクトリー号がネルソンの遺体と共にイギリスに<br />戻りました。船がメドヴェイ川に入港した際に、ターナーは<br />船の細やかなスケッチを取り乗組員に話しを聞き、彼らの服装<br />や体型まで入念にメモを取るなど取材したうえで、この作品は<br />制作されました。ターナーの初期作品は歴史の出来事を題材に<br />することが多かったのですが、この様な取材をもとに事実を正<br />確に描こうとしていました。<br /><br />

    『ヴィクトリー号後しょう右舷の横静索から見た
        トラファルガーの戦い』  
     1806年 再加1808年
     ターナー

    1805年にビクトリー号がネルソンの遺体と共にイギリスに
    戻りました。船がメドヴェイ川に入港した際に、ターナーは
    船の細やかなスケッチを取り乗組員に話しを聞き、彼らの服装
    や体型まで入念にメモを取るなど取材したうえで、この作品は
    制作されました。ターナーの初期作品は歴史の出来事を題材に
    することが多かったのですが、この様な取材をもとに事実を正
    確に描こうとしていました。

  • 『テムズ川河口での輸送』  <br />1806年ー1807年<br />ターナー<br /><br />フランス革命後、騒乱の中から軍人として頭角を現し遂には<br />皇帝にまで登りつめたナポレオンは、イギリスやロシアを除く<br />ヨーロッパの大半を次々と制圧していきました。<br />ナポレオン軍によるイギリス本土上陸こそ阻止できたものの<br />長く続いたナポレオン戦争は、イギリスの経済や暮らしや<br />ものの考え方などに大きな影響を及ぼしました。<br />それは、ターナーの作品にも随所に表れてきました。<br /><br />この頃、ターナーが国内を精力的に旅しながら描いた風景は<br />ナポレオン軍との戦争中において、イギリス人たちの間に高<br />まった国土に対する愛着が深く関わっていました。<br />海に囲まれたイギリスにおいては、海辺や船をテーマにする<br />ことは、自らのアイデンティティを示す絶好の機会でもありました。<br />この他にも、トラファルガーの海戦をはじめとする時事的な<br />出来事を油彩画に描いたほか、ウォルター・スコットや<br />バイロン卿の文藝作品のためにナポレオン関連の挿絵を何点<br />も手がけました。<br /><br /><br />

    『テムズ川河口での輸送』  
    1806年ー1807年
    ターナー

    フランス革命後、騒乱の中から軍人として頭角を現し遂には
    皇帝にまで登りつめたナポレオンは、イギリスやロシアを除く
    ヨーロッパの大半を次々と制圧していきました。
    ナポレオン軍によるイギリス本土上陸こそ阻止できたものの
    長く続いたナポレオン戦争は、イギリスの経済や暮らしや
    ものの考え方などに大きな影響を及ぼしました。
    それは、ターナーの作品にも随所に表れてきました。

    この頃、ターナーが国内を精力的に旅しながら描いた風景は
    ナポレオン軍との戦争中において、イギリス人たちの間に高
    まった国土に対する愛着が深く関わっていました。
    海に囲まれたイギリスにおいては、海辺や船をテーマにする
    ことは、自らのアイデンティティを示す絶好の機会でもありました。
    この他にも、トラファルガーの海戦をはじめとする時事的な
    出来事を油彩画に描いたほか、ウォルター・スコットや
    バイロン卿の文藝作品のためにナポレオン関連の挿絵を何点
    も手がけました。


  • 『鍛冶屋の店先』 <br />1807年<br />ターナー<br /><br />風俗画も巧い。ターナー32歳の作品です。<br />いかにも、ターナーらしく光の処理がこの作品でも長けています。<br />父親に「勤勉こそ美徳」と言われて育ったことが<br />ここにも、出ています。彼も愛着があったらしく、<br />一旦売却したものの後には、それより高価で買い戻しています。<br /><br />事実彼は、遺言の中で自分と関係のあった女性や私生児に充分<br />な遺産や年金を残している他、慈善団体への寄付も明記しています。<br />そしてまた、全作品を国に寄贈すると書き残しています。<br />ターナーは、倹約家だと揶揄されることもありましたが<br />決して、強欲な利己主義者ではありませんでした。<br />

    『鍛冶屋の店先』 
    1807年
    ターナー

    風俗画も巧い。ターナー32歳の作品です。
    いかにも、ターナーらしく光の処理がこの作品でも長けています。
    父親に「勤勉こそ美徳」と言われて育ったことが
    ここにも、出ています。彼も愛着があったらしく、
    一旦売却したものの後には、それより高価で買い戻しています。

    事実彼は、遺言の中で自分と関係のあった女性や私生児に充分
    な遺産や年金を残している他、慈善団体への寄付も明記しています。
    そしてまた、全作品を国に寄贈すると書き残しています。
    ターナーは、倹約家だと揶揄されることもありましたが
    決して、強欲な利己主義者ではありませんでした。

  • 『スピットヘッド:ポーツマス港に入る拿捕(だほ)された<br />       二隻のデンマーク船』<br />  1808年<br /><br />ターナーの初期作品は歴史の出来事を題材にすることが<br />多かったのですが、入念な取材をもとに事実を正確に<br />描こうとしていました。

    『スピットヘッド:ポーツマス港に入る拿捕(だほ)された
           二隻のデンマーク船』
      1808年

    ターナーの初期作品は歴史の出来事を題材にすることが
    多かったのですが、入念な取材をもとに事実を正確に
    描こうとしていました。

  • 『グリニッジ公園からのロンドン』<br />1809年  ターナー

    『グリニッジ公園からのロンドン』
    1809年  ターナー

  • 『吹雪 アルプスを越えるハンニバルとその軍勢』 <br />1812年  ターナー<br /><br />ローマに攻め入るカルタゴの名将を描きながら歴史画の<br />題材を通して崇高を表現しています。<br />またこの作品は、<br />ターナー自身の1802年のアルプス体験が反映されています。<br /><br />人物は画面下に押し込められ、渦巻く吹雪の中、槍を持った<br />兵士たちが行軍し、<br />一方では略奪や暴行が繰り広げられています。<br />そして、遠方には明るいイタリアの平原が広がるその丁度境目<br />にはハンニバルの軍隊の連れた象のシルエットが見えています。<br />ターナーはこのカルタゴの武将にやはりアルプスを越えてイタ<br />リアに進行した同時代のナポレオン軍勢に重ね合わせていたと<br />推測されています。

    『吹雪 アルプスを越えるハンニバルとその軍勢』 
    1812年  ターナー

    ローマに攻め入るカルタゴの名将を描きながら歴史画の
    題材を通して崇高を表現しています。
    またこの作品は、
    ターナー自身の1802年のアルプス体験が反映されています。

    人物は画面下に押し込められ、渦巻く吹雪の中、槍を持った
    兵士たちが行軍し、
    一方では略奪や暴行が繰り広げられています。
    そして、遠方には明るいイタリアの平原が広がるその丁度境目
    にはハンニバルの軍隊の連れた象のシルエットが見えています。
    ターナーはこのカルタゴの武将にやはりアルプスを越えてイタ
    リアに進行した同時代のナポレオン軍勢に重ね合わせていたと
    推測されています。

  • 『霜の朝』 <br />1813年   <br />ターナー  <br /><br />

    『霜の朝』 
    1813年   
    ターナー  

  • 『ディドとアエネアス』<br />1814年に展示(テートブリテンHP)<br />ターナー

    『ディドとアエネアス』
    1814年に展示(テートブリテンHP)
    ターナー

  • 『小川を渡る』 1815年   <br /> ターナー   <br /><br />俯瞰した構図に詩情が滲み出ている作品ですが<br />売れなかったので、ターナーは不機嫌だった。<br />との記録が残されています。<br /><br />

    『小川を渡る』 1815年   
    ターナー   

    俯瞰した構図に詩情が滲み出ている作品ですが
    売れなかったので、ターナーは不機嫌だった。
    との記録が残されています。

  • 『カルタゴ帝国の衰亡』 <br />1817年  <br />ターナー<br /><br />空を染めて沈む夕陽がカルタゴの滅亡を象徴しています。<br />ターナーは、カルタゴの帝国の興亡を前々年終結したばかりの<br />ナポレオン帝国やさらには、当時の大英帝国の運命をも重ね合<br />わせて描いたと推測されています。<br /><br />若い頃のターナーは、写実的な風景画を多く描いていましたが<br />やがて神話や歴史を題材とした作品を数多く手がけるようになると<br />ターナーの作品は、テーマそのものよりも、刻々と変化する海・空<br />大地・大気などの自然が見せる表情の描写にその特徴を持ちます。<br />この作品でも、人物たちは小さく配されているのに対して、<br />光に照らされた海や暗雲立ち込める雲が劇的な筆跡で描かれているのです。

    『カルタゴ帝国の衰亡』 
    1817年  
    ターナー

    空を染めて沈む夕陽がカルタゴの滅亡を象徴しています。
    ターナーは、カルタゴの帝国の興亡を前々年終結したばかりの
    ナポレオン帝国やさらには、当時の大英帝国の運命をも重ね合
    わせて描いたと推測されています。

    若い頃のターナーは、写実的な風景画を多く描いていましたが
    やがて神話や歴史を題材とした作品を数多く手がけるようになると
    ターナーの作品は、テーマそのものよりも、刻々と変化する海・空
    大地・大気などの自然が見せる表情の描写にその特徴を持ちます。
    この作品でも、人物たちは小さく配されているのに対して、
    光に照らされた海や暗雲立ち込める雲が劇的な筆跡で描かれているのです。

  • イタリアの巨匠たちの作品との出会いも、<br />ターナーにとって決定的な出来事でした。<br />1819年~1840年の間に<br />彼は、ラファエロ、ティツィアーノ、<br />カナレットといったイタリアの巨匠たちに挑戦を試みています。<br />ターナーの〈ヴァチカンから望むローマ〉には<br />大胆にも天才ラファエロとその恋人フォルナリーナの姿が<br />描かれているのですが恋人たちの横にラファエロの代表作を<br />そしてその隣りには、<br />ターナー自身の作品とわかる風景画を並べて<br />描いているのです。この様にして<br />彼は、自分の才能は天才ラファエロと同格であると<br />いう誇りを示しています。<br /><br />『ヴァチカンから望むローマ<br />  :ラ・フォルナリーナを伴って』<br /> 1820年  <br />   ターナー

    イタリアの巨匠たちの作品との出会いも、
    ターナーにとって決定的な出来事でした。
    1819年~1840年の間に
    彼は、ラファエロ、ティツィアーノ、
    カナレットといったイタリアの巨匠たちに挑戦を試みています。
    ターナーの〈ヴァチカンから望むローマ〉には
    大胆にも天才ラファエロとその恋人フォルナリーナの姿が
    描かれているのですが恋人たちの横にラファエロの代表作を
    そしてその隣りには、
    ターナー自身の作品とわかる風景画を並べて
    描いているのです。この様にして
    彼は、自分の才能は天才ラファエロと同格であると
    いう誇りを示しています。

    『ヴァチカンから望むローマ
      :ラ・フォルナリーナを伴って』
     1820年  
    ターナー

  • 『メディアのビジョン』<br />1828年  ターナー

    『メディアのビジョン』
    1828年  ターナー

  • 『レグルス』 <br />1828年ー29年<br />ターナー<br /><br />ターナーは、1819年に初めてイタリア旅行をしていますが<br />ローマを舞台にバイロンの作品に想を得たターナーは、<br />歴史や神話を題材にした作品を多く手がけましたが<br />その名声を高めたのは、主題の物語というよりは、<br />むしろ海に沈む太陽、水蒸気に満ちた空気感、<br />黄金色の太陽などなど自然界のさまざまな表情を捉えた<br />ところでした。

    『レグルス』 
    1828年ー29年
    ターナー

    ターナーは、1819年に初めてイタリア旅行をしていますが
    ローマを舞台にバイロンの作品に想を得たターナーは、
    歴史や神話を題材にした作品を多く手がけましたが
    その名声を高めたのは、主題の物語というよりは、
    むしろ海に沈む太陽、水蒸気に満ちた空気感、
    黄金色の太陽などなど自然界のさまざまな表情を捉えた
    ところでした。

  • 『ローマで描かれたオルヴィエートの眺め』<br />1828年 1830年(再)<br />ターナー<br /><br />ターナー 1828年の2度目のイタリア旅行で着想を得た作品。

    『ローマで描かれたオルヴィエートの眺め』
    1828年 1830年(再)
    ターナー

    ターナー 1828年の2度目のイタリア旅行で着想を得た作品。

  • 『パレストリーナー構成』<br />1828年 1830年(展示)<br />ターナー

    『パレストリーナー構成』
    1828年 1830年(展示)
    ターナー

  • 『カリギュラS宮殿と橋』 <br />1831年  ターナー

    『カリギュラS宮殿と橋』 
    1831年  ターナー

  • 夏目漱石は『坊ちゃん』の中で ~<br />「君釣りに行きませんか」と<br />赤シャツに誘われ野だ(吉川君)と海へ釣りに行くことになる。<br />釣り船の上での3人の会話の場面で<br />「あの松を見給へ、幹が真直で、上が傘の様に開いて<br />ターナーの畫にありそうだね」と赤シャツが野だに云ふと、<br />野だは「全くターナーですね。<br />どうもあの曲がり具合ったらありませんね。<br />ターナーそっくりですよ。」と心得顔である。<br />※(そして、坊ちゃんは)<br />ターナーとは何の事だか知らないが、<br />聞かないでも困らない事だから黙って居た。<br />こんな風に登場します。<br /><br />面白いのは、普通に設定すれば、坊ちゃんのセリフと<br />赤シャツや野だ(吉川君)のセリフは逆なのですが、<br />そこが、漱石らしいところだなぁと感じました。<br />          明治39(1906年)年4月「坊ちゃん」<br /><br />まさか、テートブリテンの旅行記でしばらく本棚で眠っていた<br />漱石全集を開く羽目になる(⌒-⌒; )とは・・・。<br />坊ちゃんは何度か読みましたが、このシーンは<br />全く記憶に残っていません(;゜0゜)でした。<br />テートブリテンの旅がいろいろ運んでくれています。(⌒▽⌒)<br />             <br />国民的作家である漱石がこの他にも何度かターナーを取り上げた<br />逸話が残されていますが、このことで、ターナーへの関心が日本でも<br />かなり広められたのだろうとなあと思います。<br /><br />『チャイルド・ハロルドの巡礼ーイタリア』 <br />1832年 (天保3年・江戸時代) <br />ターナー

    夏目漱石は『坊ちゃん』の中で ~
    「君釣りに行きませんか」と
    赤シャツに誘われ野だ(吉川君)と海へ釣りに行くことになる。
    釣り船の上での3人の会話の場面で
    「あの松を見給へ、幹が真直で、上が傘の様に開いて
    ターナーの畫にありそうだね」と赤シャツが野だに云ふと、
    野だは「全くターナーですね。
    どうもあの曲がり具合ったらありませんね。
    ターナーそっくりですよ。」と心得顔である。
    ※(そして、坊ちゃんは)
    ターナーとは何の事だか知らないが、
    聞かないでも困らない事だから黙って居た。
    こんな風に登場します。

    面白いのは、普通に設定すれば、坊ちゃんのセリフと
    赤シャツや野だ(吉川君)のセリフは逆なのですが、
    そこが、漱石らしいところだなぁと感じました。
              明治39(1906年)年4月「坊ちゃん」

    まさか、テートブリテンの旅行記でしばらく本棚で眠っていた
    漱石全集を開く羽目になる(⌒-⌒; )とは・・・。
    坊ちゃんは何度か読みましたが、このシーンは
    全く記憶に残っていません(;゜0゜)でした。
    テートブリテンの旅がいろいろ運んでくれています。(⌒▽⌒)
                 
    国民的作家である漱石がこの他にも何度かターナーを取り上げた
    逸話が残されていますが、このことで、ターナーへの関心が日本でも
    かなり広められたのだろうとなあと思います。

    『チャイルド・ハロルドの巡礼ーイタリア』 
    1832年 (天保3年・江戸時代) 
    ターナー

  • 『ヴェネツィアのため息橋』<br /> 1833年<br /> ターナー<br /><br />イタリアでターナーは、すっかりヴェネツィアの都市と画家<br />たちに心を惹きつけられ、沢山の油彩画と水彩画を制作しました。<br />ヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノを尊敬し<br />さらに上を目指すだけではなく、<br />彼はこの水の都の風景をじっくりと観察しました。<br />目の前に広がっている風景は、<br />変化に富んだ空と海、霧に光が<br />差し込む光景。<br />そして美しい建造物は、彼の好みにピッタリと<br />ハマったのでした。<br />ターナーは、18世紀の画家カナレットによるヴェネツィアの<br />パノラマ風景を参考にしながら、より甘くロマン主義的な<br />風景画を描きました。<br /><br />かって海上貿易で栄えたヴェネツィア共和国は、<br />ターナーの時代に終焉を迎えており、<br />オーストリアの支配下になっていました。

    『ヴェネツィアのため息橋』
     1833年
     ターナー

    イタリアでターナーは、すっかりヴェネツィアの都市と画家
    たちに心を惹きつけられ、沢山の油彩画と水彩画を制作しました。
    ヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノを尊敬し
    さらに上を目指すだけではなく、
    彼はこの水の都の風景をじっくりと観察しました。
    目の前に広がっている風景は、
    変化に富んだ空と海、霧に光が
    差し込む光景。
    そして美しい建造物は、彼の好みにピッタリと
    ハマったのでした。
    ターナーは、18世紀の画家カナレットによるヴェネツィアの
    パノラマ風景を参考にしながら、より甘くロマン主義的な
    風景画を描きました。

    かって海上貿易で栄えたヴェネツィア共和国は、
    ターナーの時代に終焉を迎えており、
    オーストリアの支配下になっていました。

  • 歴史画を描き続けたターナーが、大きな転機を迎えたのは<br />60歳を過ぎた頃からでした。<br />彼は、それ以後歴史画にこだわることを止めヴェネツィアや<br />イギリスの現代風景を描くようになりました。<br /><br />『海上の火事』 1835年  <br />   ターナー

    歴史画を描き続けたターナーが、大きな転機を迎えたのは
    60歳を過ぎた頃からでした。
    彼は、それ以後歴史画にこだわることを止めヴェネツィアや
    イギリスの現代風景を描くようになりました。

    『海上の火事』 1835年  
    ターナー

  • 『古代ローマ:ゲルマニクスの遺灰を持って上陸するアグリッピーナ』<br />1839年  ターナー

    『古代ローマ:ゲルマニクスの遺灰を持って上陸するアグリッピーナ』
    1839年  ターナー

  • ターナーは、何年もの間、海の景色を<br />オランダ絵画の伝統に習って描きました。<br />さらに、彼は〈吹雪〉の中に新型の蒸気船を書き込んだように<br />自分の絵画に新しい風を吹き込もうとしたのです。<br />同時代の画家たちは、どちらかというと昔からの描き方で、<br />細部の表現にこだわっていました。<br />しかし、彼は、自然の風景をそのまま描くことには興味を示さず<br />「色使いが現実とはかけ離れている。」<br />「筆の跡が目立ち過ぎている」と、<br />ここでも、激しく批判を受けたのですが、<br />彼はそんな批判をいつものように全く気に留めず、<br />自分らしい画風を築きあげていきました。<br /><br /><br />『残骸のある荒れた海』<br />1840年~1845年頃<br />ターナー

    ターナーは、何年もの間、海の景色を
    オランダ絵画の伝統に習って描きました。
    さらに、彼は〈吹雪〉の中に新型の蒸気船を書き込んだように
    自分の絵画に新しい風を吹き込もうとしたのです。
    同時代の画家たちは、どちらかというと昔からの描き方で、
    細部の表現にこだわっていました。
    しかし、彼は、自然の風景をそのまま描くことには興味を示さず
    「色使いが現実とはかけ離れている。」
    「筆の跡が目立ち過ぎている」と、
    ここでも、激しく批判を受けたのですが、
    彼はそんな批判をいつものように全く気に留めず、
    自分らしい画風を築きあげていきました。


    『残骸のある荒れた海』
    1840年~1845年頃
    ターナー

  • 『吹雪ー港の入り口の沖合にいる蒸気船が、浅瀬で<br />  信号を発しながら、測すいで水深を確かめつつ進んでいく。<br />   エアリエル号がハリッジから出航した夜、作者は嵐の中にいた』<br />1842年    <br /> ターナー<br /><br />この長い副題がついている〈吹雪〉を制作したターナーは<br />67歳になっていました。<br />彼は海景画家として、他のライバルにはたどり着けない<br />不動の地位を築いていました。この地位に登りつめるために、<br />彼は、オランダ絵画の巨匠たちの伝統を取り入れています。<br />たとえば、美術館や個人コレクターの邸宅、絵画のオーク<br />ション会場など精力的に旅先で出会った素晴らしい作品に<br />彼は、制作のヒントを見つけていました。<br /><br />後にターナーが友人たちに語った逸話が残っています。<br />海上で吹雪に遭遇、私は船員たちの手でマストにロープで<br />しっかりとくくりつけられて4時間あまり嵐の海を観察し<br />た。と伝わっていますが、その信憑性は極めて低いとも<br />いわれています。彼にとって重要なのは、まさに経験だ<br />ということを伝えたかったのだろうと思います。

    『吹雪ー港の入り口の沖合にいる蒸気船が、浅瀬で
      信号を発しながら、測すいで水深を確かめつつ進んでいく。
       エアリエル号がハリッジから出航した夜、作者は嵐の中にいた』
    1842年
    ターナー

    この長い副題がついている〈吹雪〉を制作したターナーは
    67歳になっていました。
    彼は海景画家として、他のライバルにはたどり着けない
    不動の地位を築いていました。この地位に登りつめるために、
    彼は、オランダ絵画の巨匠たちの伝統を取り入れています。
    たとえば、美術館や個人コレクターの邸宅、絵画のオーク
    ション会場など精力的に旅先で出会った素晴らしい作品に
    彼は、制作のヒントを見つけていました。

    後にターナーが友人たちに語った逸話が残っています。
    海上で吹雪に遭遇、私は船員たちの手でマストにロープで
    しっかりとくくりつけられて4時間あまり嵐の海を観察し
    た。と伝わっていますが、その信憑性は極めて低いとも
    いわれています。彼にとって重要なのは、まさに経験だ
    ということを伝えたかったのだろうと思います。

  • 19世紀初頭の偉大な風俗画家<br />サー・デイビッド・ウィルキーに捧げられた作品です。<br />当時、ウィルキーは、ターナーの人気を凌ぐほど<br />ヨーロッパ全土で知られていた画家でした。<br />2人は、お互いに尊敬し合う良きライバルでもありました。<br />1840年ウィルキーは、信仰心の高まりと絵の新しい主題を<br />探すという2つの目的を果たす為中東へ旅をしました。<br />その帰りの船上で没し、ジブラルタルの沖合で水葬に付されました。<br />ターナーは、ウィルキーの水葬を描くことで、人間にはなす術も<br />ない出来事の力や亡き画家仲間に対する深い哀悼を表しました。<br />画面を支配している青と黒は、帆の色が暗すぎると、<br />美術評論家から非難されましたが、<br />この作品が完成した数週間後、<br />ターナーは画家クラークソン・スタンフィールドに、<br />「悲しみを表現できるようもっと黒く描ければ<br />良かったのだが」と打ち明けていたといいます。<br /><br />『平和 ー 水葬』 1842年<br /> ターナー

    19世紀初頭の偉大な風俗画家
    サー・デイビッド・ウィルキーに捧げられた作品です。
    当時、ウィルキーは、ターナーの人気を凌ぐほど
    ヨーロッパ全土で知られていた画家でした。
    2人は、お互いに尊敬し合う良きライバルでもありました。
    1840年ウィルキーは、信仰心の高まりと絵の新しい主題を
    探すという2つの目的を果たす為中東へ旅をしました。
    その帰りの船上で没し、ジブラルタルの沖合で水葬に付されました。
    ターナーは、ウィルキーの水葬を描くことで、人間にはなす術も
    ない出来事の力や亡き画家仲間に対する深い哀悼を表しました。
    画面を支配している青と黒は、帆の色が暗すぎると、
    美術評論家から非難されましたが、
    この作品が完成した数週間後、
    ターナーは画家クラークソン・スタンフィールドに、
    「悲しみを表現できるようもっと黒く描ければ
    良かったのだが」と打ち明けていたといいます。

    『平和 ー 水葬』 1842年
     ターナー

  • セントヘレナ島に流されたかっての皇帝のナポレオンは<br />沈みゆく夕陽を背景に、ただ1人小さな貝を見つめながら<br />まるでおもちゃの兵隊のように立っており孤独感が迫って<br />きます。それは、皇帝であった頃に公式の絵画に描かれた<br />ように中央を占めるのではなく絵の奥に小さく追いやられ<br />ている姿で一層際立っています。<br />この2年前に、ナポレオンの遺体がパリに戻されたばかり<br />でした。<br />血の色を連想させる赤を主調とした画面は、ナポレオンが<br />ヨーロッパ中で巻き起した戦乱を暗示しているといわれています。<br /><br />『戦争、流刑者と岩傘貝』 <br />1842年  <br />ターナー

    セントヘレナ島に流されたかっての皇帝のナポレオンは
    沈みゆく夕陽を背景に、ただ1人小さな貝を見つめながら
    まるでおもちゃの兵隊のように立っており孤独感が迫って
    きます。それは、皇帝であった頃に公式の絵画に描かれた
    ように中央を占めるのではなく絵の奥に小さく追いやられ
    ている姿で一層際立っています。
    この2年前に、ナポレオンの遺体がパリに戻されたばかり
    でした。
    血の色を連想させる赤を主調とした画面は、ナポレオンが
    ヨーロッパ中で巻き起した戦乱を暗示しているといわれています。

    『戦争、流刑者と岩傘貝』 
    1842年  
    ターナー

  • 『ドガーノ、サン・ジョルジョ、<br />        シテツラ、ヨーロッパの階段から』<br />1842年  ターナー

    『ドガーノ、サン・ジョルジョ、
            シテツラ、ヨーロッパの階段から』
    1842年  ターナー

  • 『ウォールハラの開口部、1842年』<br /> 1843年  ターナー

    『ウォールハラの開口部、1842年』
     1843年  ターナー

  • 『ハイデルベルクと呼ばれる<br />         アルプスの谷にある城』<br />1844年 ~ 1845年頃<br />ターナー

    『ハイデルベルクと呼ばれる
             アルプスの谷にある城』
    1844年 ~ 1845年頃
    ターナー

  • 『捕鯨者』<br />1845年 (展示) ターナー<br />

    『捕鯨者』
    1845年 (展示) ターナー

  • 『マブ女王の洞窟』<br />1846年  ターナー<br /><br /><br /><br />

    『マブ女王の洞窟』
    1846年  ターナー



  • ターナーは芭蕉のように生涯旅を続けた人でした。<br />青年時代は言うに及ばず<br />1817年 42歳には、アムステルダムへ<br />1819年、44歳の時、最初のイタリア旅行に出ます<br />1824年 49歳 北フランスへ<br />1827年 52歳 夏のワイ島滞在等<br />1828年 53歳 2度目のイタリアへ<br />1830年 55歳 スコットランドへ<br />1833年 58歳になると、ベルリン、プラハ、ウイーン<br />              を経てヴェネチア再訪<br />1840年 65歳 ドイツのバイエルン地方、<br />          オーストリア、ヴェネツィアへ<br />1841年 66歳 スイスを訪れ以降、<br />             ~1844年までに毎年の様に<br />1845年 70歳 ロイヤル・アカデミーの臨時院長を任命<br />          された年には、最後の大陸旅行で<br />          北フランスを訪れました。<br /><br />なんと、すごい。現在4 Tの旅行記を拝見すると、<br />この行程に負けない旅を何年も続けている旅人を<br />幾人も見受けられますが<br />ターナーが生まれた頃は<br />海の向こうアメリカでは独立戦争(1775年~1783年)<br />ターナーが旅に出たあの時代には<br />ナポレオン戦争(1796年~1815年) <br />ウィーン体制 (1814年~1848年)<br />フランス七月革命・二月革命(1830年~1848年)<br />と旅に出ることすら躊躇ってしまいそうな時代。<br /><br />ターナーの気力・体力はいかほどのものだったのか。<br />やはり、好きこそなれ、もっと良い作品を描こうぞと<br />その思いにつき動かされるように旅に出るそんな<br />パワーが湧いてくるのだろうなぁ。と思いました。<br />

    ターナーは芭蕉のように生涯旅を続けた人でした。
    青年時代は言うに及ばず
    1817年 42歳には、アムステルダムへ
    1819年、44歳の時、最初のイタリア旅行に出ます
    1824年 49歳 北フランスへ
    1827年 52歳 夏のワイ島滞在等
    1828年 53歳 2度目のイタリアへ
    1830年 55歳 スコットランドへ
    1833年 58歳になると、ベルリン、プラハ、ウイーン
                  を経てヴェネチア再訪
    1840年 65歳 ドイツのバイエルン地方、
              オーストリア、ヴェネツィアへ
    1841年 66歳 スイスを訪れ以降、
                 ~1844年までに毎年の様に
    1845年 70歳 ロイヤル・アカデミーの臨時院長を任命
              された年には、最後の大陸旅行で
              北フランスを訪れました。

    なんと、すごい。現在4 Tの旅行記を拝見すると、
    この行程に負けない旅を何年も続けている旅人を
    幾人も見受けられますが
    ターナーが生まれた頃は
    海の向こうアメリカでは独立戦争(1775年~1783年)
    ターナーが旅に出たあの時代には
    ナポレオン戦争(1796年~1815年) 
    ウィーン体制 (1814年~1848年)
    フランス七月革命・二月革命(1830年~1848年)
    と旅に出ることすら躊躇ってしまいそうな時代。

    ターナーの気力・体力はいかほどのものだったのか。
    やはり、好きこそなれ、もっと良い作品を描こうぞと
    その思いにつき動かされるように旅に出るそんな
    パワーが湧いてくるのだろうなぁ。と思いました。

  • ターナーは、画家としての能力の他に、それまでの <br />絵画の方法論を完全に塗り替える革新性は驚異であり<br />他の追随を許しませんでした。にもかかわらず、<br />この偉大な芸術家に歴代の国王は、<br />ひとりとして爵位を授けようとしませんでした。<br />彼の生存中、ジョージ4世・ウィリアム4世<br />そしてビクトリー女王と3人の王が即位した時代でした。<br />名はあげませんが、明らかにランクの落ちる画家にも<br />授与したのにも関わらずです。<br />けれど、それには理由がありました。<br />王達は、ターナーの実力は充分に認めていました。<br />その証拠にジョージ4世は、王のセントジェム宮殿に<br />「トラファルガー海戦」の勝利の絵を飾るためターナーに<br />白羽の矢を立ててオーダーしたのでした。<br />それでも爵位を与えなかったのは、<br />ターナーの品行に問題があると判断されたからでした。 <br />ターナーは、母との暮らしの影響か、結婚には否定的で<br />未婚のままに作曲家の未亡人と同棲し、2人の子供をもうけ<br />ましたが婚姻はせず、相手が死去すると<br />またも未亡人と同棲し未亡人の苗字の下に自ら<br />大佐をつけ偽名を通しました。<br />これらのことが、当時の道徳基準に照らして<br />準貴族にするには相応しい人物とはいえなかったのだろう<br />と思われます。<br /><br />

    ターナーは、画家としての能力の他に、それまでの 
    絵画の方法論を完全に塗り替える革新性は驚異であり
    他の追随を許しませんでした。にもかかわらず、
    この偉大な芸術家に歴代の国王は、
    ひとりとして爵位を授けようとしませんでした。
    彼の生存中、ジョージ4世・ウィリアム4世
    そしてビクトリー女王と3人の王が即位した時代でした。
    名はあげませんが、明らかにランクの落ちる画家にも
    授与したのにも関わらずです。
    けれど、それには理由がありました。
    王達は、ターナーの実力は充分に認めていました。
    その証拠にジョージ4世は、王のセントジェム宮殿に
    「トラファルガー海戦」の勝利の絵を飾るためターナーに
    白羽の矢を立ててオーダーしたのでした。
    それでも爵位を与えなかったのは、
    ターナーの品行に問題があると判断されたからでした。 
    ターナーは、母との暮らしの影響か、結婚には否定的で
    未婚のままに作曲家の未亡人と同棲し、2人の子供をもうけ
    ましたが婚姻はせず、相手が死去すると
    またも未亡人と同棲し未亡人の苗字の下に自ら
    大佐をつけ偽名を通しました。
    これらのことが、当時の道徳基準に照らして
    準貴族にするには相応しい人物とはいえなかったのだろう
    と思われます。

  • ターナーと美術評論家ラスキンとの出会いも、<br />やはりターナーの人生にとっても大きな出来事でした。<br />ラスキンは、先の旅行記<br />「D・G・ロサッティ企画展/ラファエル前派」にも登場しました。<br />ラファエル前派が窮地に陥った時に、自らタイムズ誌に<br />手紙を出して世論を味方にして窮地から救ったのでした。<br /><br />ここで登場するラスキンは、それから時代を遡ります。<br />13歳のラスキンは、ターナーの挿絵に出会いました。<br /><br />ラスキンは、どちらかと言えば人見知りだった<br />ターナー(61歳)と歳の差40歳をものともせず、<br />親交を深めてゆきました。<br />1836年、オックスフォード在学中ラスキンは<br />ターナーの作品に対する酷評を目にして憤慨し<br />反論を試みようとしました。<br />この時の論文は公表されませんでしたが<br />そのようなことも重なり、<br />やがてターナーは、ラスキンと一定の距離を置きつつも<br />親交を続けてゆきました。<br /><br />ビクトリア朝時代最大の美術評論家となったラスキンの支持は<br />ターナーにとって心強いものであったと思います。<br />その後、<br />ラスキンは1843年~1860年に渡って刊行した<br />『近代国家論』全5巻でターナーの擁護を一貫しておこない<br />ターナー対する酷評を跳ね除ける役目をしました。<br />なお、『近代国家論』は<br />後年、ラファエル前派のメンバーたちに強い影響を与え、<br />彼等との橋渡しともなってゆくことになりました。<br /><br />さて、ターナーは、晩年ラスキンを遺言執行人に指定。<br />ラスキンは、遺言を執行する際に、ターナーの数多くの<br />スケッチを目にしましたが、裸婦素描など<br />品位を落とすと判断してほとんどのものを<br />焼却処分してしまいました。 <br />この時、焼却処分をせずに後世の残されていれば、<br />ターナーは、クールベに勝る先駆者になっていたかもしれない。<br />と残念がる評論家もいます。

    ターナーと美術評論家ラスキンとの出会いも、
    やはりターナーの人生にとっても大きな出来事でした。
    ラスキンは、先の旅行記
    「D・G・ロサッティ企画展/ラファエル前派」にも登場しました。
    ラファエル前派が窮地に陥った時に、自らタイムズ誌に
    手紙を出して世論を味方にして窮地から救ったのでした。

    ここで登場するラスキンは、それから時代を遡ります。
    13歳のラスキンは、ターナーの挿絵に出会いました。

    ラスキンは、どちらかと言えば人見知りだった
    ターナー(61歳)と歳の差40歳をものともせず、
    親交を深めてゆきました。
    1836年、オックスフォード在学中ラスキンは
    ターナーの作品に対する酷評を目にして憤慨し
    反論を試みようとしました。
    この時の論文は公表されませんでしたが
    そのようなことも重なり、
    やがてターナーは、ラスキンと一定の距離を置きつつも
    親交を続けてゆきました。

    ビクトリア朝時代最大の美術評論家となったラスキンの支持は
    ターナーにとって心強いものであったと思います。
    その後、
    ラスキンは1843年~1860年に渡って刊行した
    『近代国家論』全5巻でターナーの擁護を一貫しておこない
    ターナー対する酷評を跳ね除ける役目をしました。
    なお、『近代国家論』は
    後年、ラファエル前派のメンバーたちに強い影響を与え、
    彼等との橋渡しともなってゆくことになりました。

    さて、ターナーは、晩年ラスキンを遺言執行人に指定。
    ラスキンは、遺言を執行する際に、ターナーの数多くの
    スケッチを目にしましたが、裸婦素描など
    品位を落とすと判断してほとんどのものを
    焼却処分してしまいました。 
    この時、焼却処分をせずに後世の残されていれば、
    ターナーは、クールベに勝る先駆者になっていたかもしれない。
    と残念がる評論家もいます。

  • ターナーは<br />1846年ロイヤル・アカデミーを辞職。<br />1851年12月19日テムズ川を見晴らす自宅の寝室で亡くなり<br />遺体は遺言通りに、セント・ポール大聖堂に埋葬されました。<br /><br /><br />

    ターナーは
    1846年ロイヤル・アカデミーを辞職。
    1851年12月19日テムズ川を見晴らす自宅の寝室で亡くなり
    遺体は遺言通りに、セント・ポール大聖堂に埋葬されました。


  • 英国の美術館では、ターナーのフルネームは<br />Joseph Mallord William Turnerのイニシャル<br />「J. M. W. Turner」と表記されています。<br /><br />この旅で訪れたルーブル美術館やナショナルギャラリーにも、<br />ターナーの重要な作品が展示されていましたが、<br />この旅行記のボリュームを考慮して別途、<br />ルーブル美術館、ナショナルギャラリー編<br />〈予定〉でアップしたいと思っています。<br />

    英国の美術館では、ターナーのフルネームは
    Joseph Mallord William Turnerのイニシャル
    「J. M. W. Turner」と表記されています。

    この旅で訪れたルーブル美術館やナショナルギャラリーにも、
    ターナーの重要な作品が展示されていましたが、
    この旅行記のボリュームを考慮して別途、
    ルーブル美術館、ナショナルギャラリー編
    〈予定〉でアップしたいと思っています。

  • 『燃殻の道』<br />1912年<br />スペンサー・フレデリック・ゴア<br />

    『燃殻の道』
    1912年
    スペンサー・フレデリック・ゴア

  • 『ウィリーフィールド・ウェイから見たハムステッド・ガーデン郊外』<br />1914年<br />ウィリアム・ラドクリフ<br />

    『ウィリーフィールド・ウェイから見たハムステッド・ガーデン郊外』
    1914年
    ウィリアム・ラドクリフ

  • 『スイスコテージ』<br />1914年<br />スタニスラワ・デ・カルロフスカ

    『スイスコテージ』
    1914年
    スタニスラワ・デ・カルロフスカ

  • 『ブライトン・ピエロ』<br />1915年<br />ウォルター・リチャード・シッカート<br /><br />この絵画をテートブリテンで観た時、ニューオリンズの<br />JAZZ酒場を描いたのかな。音楽が聴こえてきそうな作品だな。<br />と思いました。が、今回、ググってみたら意外な展開で(⌒-⌒; )<br /><br />ウォルター・リチャード・シッカート<br />(Walter Richard Sickert) 1860年生まれ<br />ビクトリア朝時代の画家です。<br />印象派の影響を受け、20世紀のアバンギャルド芸術の<br />ブリティッシュ・スタイルに影響を与えました。<br />著名人の写真などから描いた肖像画なども発表しています。<br />また、<br />1880代後半からロンドンの下町イーストエンドで発生した<br />切り裂きジャックによるとされるホワイトチャペル殺人事件の<br />真犯人ではないか、とする仮説が提唱されていることでも有名<br />です。画家としては日本ではほとんど無名ですが<br />英国では教科書に掲載されるレベルだとか。<br />

    イチオシ

    『ブライトン・ピエロ』
    1915年
    ウォルター・リチャード・シッカート

    この絵画をテートブリテンで観た時、ニューオリンズの
    JAZZ酒場を描いたのかな。音楽が聴こえてきそうな作品だな。
    と思いました。が、今回、ググってみたら意外な展開で(⌒-⌒; )

    ウォルター・リチャード・シッカート
    (Walter Richard Sickert) 1860年生まれ
    ビクトリア朝時代の画家です。
    印象派の影響を受け、20世紀のアバンギャルド芸術の
    ブリティッシュ・スタイルに影響を与えました。
    著名人の写真などから描いた肖像画なども発表しています。
    また、
    1880代後半からロンドンの下町イーストエンドで発生した
    切り裂きジャックによるとされるホワイトチャペル殺人事件の
    真犯人ではないか、とする仮説が提唱されていることでも有名
    です。画家としては日本ではほとんど無名ですが
    英国では教科書に掲載されるレベルだとか。

  • 『メリー・ゴー・ラウンド』<br />1916年<br />マーク・ジェントレル

    『メリー・ゴー・ラウンド』
    1916年
    マーク・ジェントレル

  • 『大洪水』<br />1920年<br />ヴィニフレッド騎士団

    『大洪水』
    1920年
    ヴィニフレッド騎士団

  • 『ヴァンテンドラットの農場』<br />1921年<br />ドラ・キャリントン

    『ヴァンテンドラットの農場』
    1921年
    ドラ・キャリントン

  • 『パストラル』<br />1923年ー4<br />フレデリック・ケイリー・ロビンソン<br /><br />当初この作品を旅行記「テートブリテン」の表紙画像に<br />しようと思いましたが旅行記を進めるうちに、<br />やはり、テートはターナーだなぁ。と明渡しました。(^ー^)<br />テートブリテンでこの作品に出会った時に、安らぎを覚えました。<br />まぁ、その前にターナーの作品群をかなり観ていたことも<br />関係ありそうですね。<br />これを機に、ロビンソンの作品を追いかけてみようかな。<br />とも思える程でした。<br /><br />フレデリック・ケイリー・ロビンソンは、<br />ロンドン郊外のブレントフォード出身の画家で<br />イラストレーター&デコレーターでした。<br />イギリスでロイヤルアカデミーで学びその後、パリに移り<br />名門のアカデミージュリアンに3年間通いました。<br />この間、<br />ピエール・プヴィス・ド・シャヴァンヌと<br />ポール・ゴーギャン日本の絵画やポスト印象派など<br />様々なものに影響をうけました。<br />またイタリアに旅行では、<br />テンペラ絵画を学びミケランジェロを研究しました。<br />このようにして、彼の技術はより多様になってゆきました。<br />その後も、石膏、木炭鉛筆、油、パステル、水彩画と広がって<br />ゆきました。<br />1906年、英国に戻った後、1911年になると王立水彩画家協会<br />の展覧会に出展し以降1926年まで毎年出展し続けました。<br /><br />

    イチオシ

    『パストラル』
    1923年ー4
    フレデリック・ケイリー・ロビンソン

    当初この作品を旅行記「テートブリテン」の表紙画像に
    しようと思いましたが旅行記を進めるうちに、
    やはり、テートはターナーだなぁ。と明渡しました。(^ー^)
    テートブリテンでこの作品に出会った時に、安らぎを覚えました。
    まぁ、その前にターナーの作品群をかなり観ていたことも
    関係ありそうですね。
    これを機に、ロビンソンの作品を追いかけてみようかな。
    とも思える程でした。

    フレデリック・ケイリー・ロビンソンは、
    ロンドン郊外のブレントフォード出身の画家で
    イラストレーター&デコレーターでした。
    イギリスでロイヤルアカデミーで学びその後、パリに移り
    名門のアカデミージュリアンに3年間通いました。
    この間、
    ピエール・プヴィス・ド・シャヴァンヌと
    ポール・ゴーギャン日本の絵画やポスト印象派など
    様々なものに影響をうけました。
    またイタリアに旅行では、
    テンペラ絵画を学びミケランジェロを研究しました。
    このようにして、彼の技術はより多様になってゆきました。
    その後も、石膏、木炭鉛筆、油、パステル、水彩画と広がって
    ゆきました。
    1906年、英国に戻った後、1911年になると王立水彩画家協会
    の展覧会に出展し以降1926年まで毎年出展し続けました。

  • 『若い女性の肖像画』<br />1935年<br />メレディス・フランプトン

    『若い女性の肖像画』
    1935年
    メレディス・フランプトン

  • 『死の海』<br />1941年<br />ポール・ナッシュ<br />

    『死の海』
    1941年
    ポール・ナッシュ

  • モダンアートの展示室<br /><br />モダンアートは、テートモダンだけかな<br />と思っていましたが、結構なスペースが<br />モダンアートコーナーになっていました。

    モダンアートの展示室

    モダンアートは、テートモダンだけかな
    と思っていましたが、結構なスペースが
    モダンアートコーナーになっていました。

  • 『スウィンギング・ロンドン67』<br />1968年-9<br />リチャード・ハミルトン<br />

    『スウィンギング・ロンドン67』
    1968年-9
    リチャード・ハミルトン

  • この作品にも惹かれました。

    この作品にも惹かれました。

  • この作品にも惹かれました。

    この作品にも惹かれました。

  • 『産業景観』<br />1955年<br />ローレンス・スティーヴン・ラウリー

    『産業景観』
    1955年
    ローレンス・スティーヴン・ラウリー

  • そろそろ閉館時間が迫ってきました。<br />もう一度、気に入りの作品を眺めて<br />さよならをします。<br />

    そろそろ閉館時間が迫ってきました。
    もう一度、気に入りの作品を眺めて
    さよならをします。

  • ※ 絵画の日本語のタイトルは、各美術書やWikiによって<br /> 様々な作品名があります。<br /> また、絵画の解説・感想も、大勢いらっしゃる<br /> プロ&アマの解説者や沢山出版されている<br /> 美術書、美術館ミュージアムショップ解説本<br /> そして、テレビ番組など枚挙いとまがありません。<br /> 〈あの街から〉が触れた解説から、<br /> これは、とか、なるほど、とか<br /> 感じたものを〈あの街から〉流に書いてみました。<br /> 

    ※ 絵画の日本語のタイトルは、各美術書やWikiによって
     様々な作品名があります。
     また、絵画の解説・感想も、大勢いらっしゃる
     プロ&アマの解説者や沢山出版されている
     美術書、美術館ミュージアムショップ解説本
     そして、テレビ番組など枚挙いとまがありません。
     〈あの街から〉が触れた解説から、
     これは、とか、なるほど、とか
     感じたものを〈あの街から〉流に書いてみました。
     

  • 約束のミュージアムショップの<br />時間もとっておきました。

    約束のミュージアムショップの
    時間もとっておきました。

  • ここでは、絵葉書を数枚買っておしまいにしました。<br /><br />楽しんでいただけたらうれしいです。<br />ありがとうございました。

    ここでは、絵葉書を数枚買っておしまいにしました。

    楽しんでいただけたらうれしいです。
    ありがとうございました。

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この旅行記へのコメント (4)

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  • シマリスさん 2023/09/24 19:52:17
    ターナー物語、素晴らしい!
    あの街からさん、こんばんは。

    ターナー物語、興味深くて思わず2回読んでしまいました。詳しく説明されていてわかりやすく楽しませて頂きました。
    ありがとうございました。

    二科展に知人の絵画が入選したので先週、新国立美術館に行きました。
    テート美術館展も鑑賞するつもりが二科展の作品数が予想より多くて疲れてしまい、もうすぐテートブリテンへ行くからと自分に言い聞かせ諦めて帰りました。
    テート美術館展が気になってましたので、あの街からさんの旅行記を楽しみにしています。

    あの街から

    あの街からさん からの返信 2023/09/25 17:10:30
    RE: ターナー物語 (⌒▽⌒)
    シマリスさん こんにちは
    旅の準備と旅行記作成の際に、4〜5冊かな美術本や
    ターナー関係本を読んで印象に残ったシーンを思い出しながら
    多からず少なからずの旅行記の画像の限られた枚数の中で
    ターナーの生涯をおおよそでも知るきっかけになり、
    ターナーの作品に親しみを持ち、興味が出たりしたり
    美術館へ行くきっかけになったり、
    これから行く予定の方がより楽しみになればいいなぁ。
    と思いながら、できた旅行記がこの様なものになったので、
    シマリスさんの書き込みは、とてもうれしいです。
    ありがとうございます。

    さて、新国立美術館で開催中の「テート美術館展〜光」についてですが、
    この美術展は、上海、韓国、オーストラリア、
    ニュージーランドを回って日本が最後の開催地ということでした。
    シマリスさんが、11月に本家のテートブリテンへいらっしゃるとのこと。
    でしたら、テートブリテンで。と思いましたが、
    この後、大阪展が来年の1月14日まで開催予定となっていたので、
    やはり、時間が許せば六本木でご覧ください。
    たしか、金曜土曜でしたか、
      〜20:00まで開館延長しています。
    〈念のため、事前確認してみてください〉

    今回は、テートブリテン美術館の77,000点の
    コレクションの中から18世紀から現代までの
    およそ200年間の120点、光というテーマを設けて
    展示されています。

    ですから、テートブリテン美術館では、こちらから
    自ら選んで作品の前に立つのとは違い展示作品の全てが・・・。とは
    いきませんが、逆に自分からでは観なかっただろう、
    素敵な作品との出会いもありました。

    私は、この旅のシリーズがしばらく続きそうで
    (美術館編もあり)六本木編は、しばしかかりそうです。
    (⌒-⌒; )ごめんなさい。

    今回のテート展に話しを戻すと
    ターナーのツインの作品の他にも、観て良かったぁ。
    と思った作品を3点あげるとすれば、

    ジョン・ブレット
       『ドーセットシャーの崖から見るイギリス海峡』
    光に特化した会にふさわしい〈光〉が綺麗でした。

    『ポンペイとヘラクラネウムの崩壊』
                ジョン・マーティン
    ポンペイの街が噴火の炎に包まれたところが大型の作品で
    リアルに迫ってきました。

    『愛と巡礼者』 エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ

    中世フランスの寓話詩「薔薇物語」から着想を得た
    ラファエル前派の第二世代の作品で、前前作で取り上げた
    ラファエル前派の関連で興味を持って鑑賞することができました。

    シマリスさん もう、旅が始まっているのですね。(⌒▽⌒)
    ロンドン楽しんできてください。
                      あの街から
  • ことりsweetさん 2023/09/22 00:06:28
    テートギャラリー♪
    あの街からさん、こんばんは。

    イギリス旅の充実ぶり、凄いです!
    美術館と観劇を交互に楽しむって素晴らしいけれど
    体力がないとなかなか実現できないですよね。
    一つずつの体験の分厚いエネルギーを感じながら
    6日間を過ごされたことでしょう。
    これも好きなればこそ、ですね。
    私もイタリア旅では、その都市カードを使って
    提携のある美術館をほぼ制覇するようにギッシリ回った経験を
    思い出しました。

    私と主人で、主人の勤続祝いの休暇を使ってイギリス旅行にいきました。
    その時の旅程は他地域を多く回ったのでロンドンでの時間は2泊3日くらいと短く
    美術館は主人は大英博物館、私はテートギャラリーを選んで別行動で行きました。
    目的はやはりミレイの『オフィーリア』 でした。

    再びオフィーリアだけでなく、ターナーもたっぷりみせていただいて
    嬉しいです。
    東京のテートギャラリー展も行かれたんですね。
    私も迷っていたけれど行こうかしら。

    いつかイギリスを再訪したいと思っています。
    その時は以前の好みの地域プラス、ハリポタ関連も加えて
    回れたらと思いますが行きたいところがてんこ盛りで困るだろうな~と
    想像しています。汗

    また伺わせていただきます。(*^^*)

    ことりsweet

    あの街から

    あの街からさん からの返信 2023/09/22 08:46:21
    Re: テートギャラリー♪
    ことりsweetさん おはようございます(⌒▽⌒)
    この2~3日朝夕ちょっぴり涼しさを感じるように 
    なってきましたね。 

    テートへのコメントありがとう😄ございます。
    この数年間、行きたい行きたい との思いがあふれ出し
    それがエネルギーになったのだと思っています。
    確かにロンドンはいろいろ見たいところが有り過ぎます
    よね。なにしろ、ロンドンは10年ぶりでしたから
    これでも、縛りにしぼっての行程でした。(⌒-⌒; )
    今回は大英博物館やテートモダンなど選漏れを出しまし
    たがやはりウエストエンドでの舞台や美術館は必須でした。
    連日、ホテルに戻ってバスタブから上がるともう、
    寝落ち。朝、セットしておいた目覚ましが鳴るまで
    爆睡の日々でした。

    >イタリア旅では、その都市カードカードを使って
     提携のある美術館をほぼ制覇
    というのもすごいことですねぇ。
    ことりsweetさんの熱い・熱いエネルギーをかんじます。

    ターナーも楽しんでいただけたようでうれしいです。

    ハリポタは、結局スタジオで半日。
    舞台では、ほぼ1日がかり。
    舞台は世界でロンドン公演だけが1部と2部制。なので
    せっかくならば通して観たい。と
    欲張ってしまいました。
    ミュージカルとは違いドラマ仕立てなので字幕なしで 
    どれだけ楽しめるのか心配でしたが、始まってみれば
    イリュージョンとか事前に読んでおいたストーリーを
    併せ充分楽しむことができました。

    『オフィーリア』はやはり、人気ですね。作品の前にはいつも数人が見つめていました。

    そうなのですね。
    私たちも、美術館へ行くと玄関フロアーであらかじめ「ここで」と場所を決めておいて、見学中はバラバラ
    です。笑
    途中何度か鉢合わせ「またお会いしましたね~」とか 言い合って、帰りしなに「良かったね~」「あれ観たかい」などと言い合う双方のペースで鑑賞をしています。

    今回、ターナーの生涯を紐解いてみて、絵・旅に賭ける
    その情熱に随分と刺激をもらいました。
    やはり、好きということは、どんなにか人を動かしてく
    れる妙薬なのですね。
          
    ありがとうございます。
    ことりsweetさんの旅行記も楽しみに拝見させてもらって
    いまが今度は、掲示板にも飛んでゆきたいと思います。
                          
                       あの街から

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