八幡・城陽旅行記(ブログ) 一覧に戻る
2022年4月1日(金)の午後、前の年にも行ったが、すでに盛りを過ぎてた南京都病院のエドヒガンを見に行った。南京都病院は京都府城陽市の南部、滋賀県彦根市と大阪府枚方市を結ぶ国道307号線沿いにある独立行政法人国立病院機構が運営する病院。<br /><br />1939年(昭和14年)に傷痍軍人京都療養所として開院。戦後の1945年(昭和20年)12月に厚生省に移管され、国立京都療養所と改称。さらに1975年に国立療養所南京都病院と改称し。さらに2004年に独立行政法人国立病院機構南京都病院に移行した。<br /><br />政策医療分野における神経・筋疾患、呼吸器疾患、重症心身障害、長寿医療、成育医療の専門医療施設。なお、城陽市については以下の旅行記参照。<br />https://4travel.jp/travelogue/11627986<br /><br />この辺りは旧市辺村だったところ。現城陽市の最南端に位置する地域で、北は旧久世郡中(なか)村、南は青谷川を挟んで旧綴喜郡多賀村(現在は井手町)。1889年(明治22年)の町村制の施行により、中村と西の綴喜郡奈島村と合わせて青谷村となり、1951年(昭和26年)に久世郡久津川村・富野荘村・寺田村と合併して久世郡城陽町に、さらに1972年に市制移行して城陽市となった。<br /><br />古くは櫟野辺と記し、この地に櫟(くぬぎ)が繁茂していたことによると云うが、別説では5世紀頃の第17代履中(りちゅう)天皇の第1皇子で、第23代顕宗(けんぞう)天皇の父である市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)がこの辺りに住んでいたことから付いたとも云う。また、単純に市は開かれた場所とか人々が住んでいた場所を意味し、その近辺ということから市辺となったと云う説もあるそうだ。<br /><br />平安時代末期から鎌倉時代にかけて、付近一帯は市辺庄と称する荘園であったらしい。鳥羽天皇の皇女上西門院の所領とされ、その後、後白河法皇より皇女宣陽門院に伝領されたらしく、宣陽門院御領目録に「新御領自上西門院被進之(上西門院から進ぜられた新しい所領)」として山城国市辺庄の記述がある。<br /><br />南京都病院の奥(北側)の西、旧307号線から分岐して山を越えて青谷に抜ける道から病院の奥の駐車場へ入る道の西側に城陽市銘木・古木(2013年認定)のエドヒガンがある。樹齢が70~80年、樹高12m、幹周3.15m。根元から8本株立ちしているが、うち1本はエドヒガンの園芸種のシダレザクラ(イトザクラ)で、極めて珍しいもの。<br /><br />エドヒガンは日本に自生する10もしくは11種あるサクラ属の基本野生種の一つで、アズマヒガン、ウバヒガンとも呼ばれる。「エド」や「アズマ」は東国を意味し、関東地方の彼岸桜(春の彼岸ごろに花を咲かせる)の意味。「ウバ」は葉が芽生える前に花が咲く様子を、歯のない老婆(姥)に例えたもの。日本では本州、四国、九州と広い範囲に分布する。<br /><br />花期は名前の通り春の彼岸ごろの3月中旬でソメイヨシノより早い。葉が展開するより先に大量の小輪の花が咲くため見栄えが華やか。この大量の花が葉が展開するより先に咲く特徴がソメイヨシノやシダレザクラやヤエベニシダレに受け継がれている。果期は6月。<br /><br />巨樹になるものもあり、長寿な巨樹の一本桜が多い。樹齢2000年超の神代桜(山梨県)、樹齢1500年超の淡墨桜(岐阜県)、樹齢1000年の樽見の大ザクラ(兵庫県)、醍醐桜(岡山県)、樹齢300年越の石割桜(岩手県)などが有名。ただ、長寿な分、発芽してから花が咲くまでに時間がかかり、樹高が10m程度に育って初めて花をつけ、場合によっては発芽から開花までに数十年かかる場合もある。<br /><br />最初に書いたようにこの前年も同じ4月1日に見に来たのだが、2021年は桜の開花が早く、すでに盛りを過ぎていた(下の写真1)。今回はばっちしのタイミングだった。春のお彼岸からはだいぶ過ぎてたが。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.7459496310786995&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />帰り道、市辺の集落まで戻ってくると地名の元になったとも云われる市辺押磐皇子故趾の碑が建つ(下の写真2)。幕末・明治時代の商人、三宅安兵衛の遺志に基づいて京都の名所旧跡に大正末期から昭和初めに設置した標石の一つ。道標にもなっており、側面に「是東 田原村 一里十丁」、「是西 草内渡船所経田辺 一里」とある。<br /><br />三宅安兵衛については淀城跡の記でも書いたが、福井県の小浜生まれの幕末・明治時代の京都の豪商。晩年は隠居し、還暦後は京都周辺の名所旧跡を遊覧することを楽しみとしたそうで、京都のために資産を使えと云い残し1920年(大正9年)に満78歳で亡くなる。長男の清治郎がその遺志に基づき京都の名所旧跡に標石を設置した。 京都市内だけでなく山城南部の八幡市、宇治市、京田辺市、木津川市、精華町、井手町にかけて、1930年(昭和5年)までに400余基が建碑された。<br /><br />市辺押磐皇子について補足すると、大阪堺の日本最大の前方後円墳で有名な世界遺産の大仙陵古墳に葬られた第16代の仁徳天皇の孫。滋賀県東近江市市辺町の古保志塚が陵と伝えられるが、福井県大飯郡おおい町の皇子塚も押磐皇子の墓であるとの地元の伝承がある。なお、押磐は八重歯のことで、押磐皇子が八重歯だったらしい。<br /><br /><br />以上

京都 城陽 南京都病院 エドヒガン(Edohigan Cherry,South Kyoto Hospital,Joyo,Kyoto,JP)

4いいね!

2022/04/01 - 2022/04/01

524位(同エリア805件中)

0

2

ちふゆ

ちふゆさん

2022年4月1日(金)の午後、前の年にも行ったが、すでに盛りを過ぎてた南京都病院のエドヒガンを見に行った。南京都病院は京都府城陽市の南部、滋賀県彦根市と大阪府枚方市を結ぶ国道307号線沿いにある独立行政法人国立病院機構が運営する病院。

1939年(昭和14年)に傷痍軍人京都療養所として開院。戦後の1945年(昭和20年)12月に厚生省に移管され、国立京都療養所と改称。さらに1975年に国立療養所南京都病院と改称し。さらに2004年に独立行政法人国立病院機構南京都病院に移行した。

政策医療分野における神経・筋疾患、呼吸器疾患、重症心身障害、長寿医療、成育医療の専門医療施設。なお、城陽市については以下の旅行記参照。
https://4travel.jp/travelogue/11627986

この辺りは旧市辺村だったところ。現城陽市の最南端に位置する地域で、北は旧久世郡中(なか)村、南は青谷川を挟んで旧綴喜郡多賀村(現在は井手町)。1889年(明治22年)の町村制の施行により、中村と西の綴喜郡奈島村と合わせて青谷村となり、1951年(昭和26年)に久世郡久津川村・富野荘村・寺田村と合併して久世郡城陽町に、さらに1972年に市制移行して城陽市となった。

古くは櫟野辺と記し、この地に櫟(くぬぎ)が繁茂していたことによると云うが、別説では5世紀頃の第17代履中(りちゅう)天皇の第1皇子で、第23代顕宗(けんぞう)天皇の父である市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)がこの辺りに住んでいたことから付いたとも云う。また、単純に市は開かれた場所とか人々が住んでいた場所を意味し、その近辺ということから市辺となったと云う説もあるそうだ。

平安時代末期から鎌倉時代にかけて、付近一帯は市辺庄と称する荘園であったらしい。鳥羽天皇の皇女上西門院の所領とされ、その後、後白河法皇より皇女宣陽門院に伝領されたらしく、宣陽門院御領目録に「新御領自上西門院被進之(上西門院から進ぜられた新しい所領)」として山城国市辺庄の記述がある。

南京都病院の奥(北側)の西、旧307号線から分岐して山を越えて青谷に抜ける道から病院の奥の駐車場へ入る道の西側に城陽市銘木・古木(2013年認定)のエドヒガンがある。樹齢が70~80年、樹高12m、幹周3.15m。根元から8本株立ちしているが、うち1本はエドヒガンの園芸種のシダレザクラ(イトザクラ)で、極めて珍しいもの。

エドヒガンは日本に自生する10もしくは11種あるサクラ属の基本野生種の一つで、アズマヒガン、ウバヒガンとも呼ばれる。「エド」や「アズマ」は東国を意味し、関東地方の彼岸桜(春の彼岸ごろに花を咲かせる)の意味。「ウバ」は葉が芽生える前に花が咲く様子を、歯のない老婆(姥)に例えたもの。日本では本州、四国、九州と広い範囲に分布する。

花期は名前の通り春の彼岸ごろの3月中旬でソメイヨシノより早い。葉が展開するより先に大量の小輪の花が咲くため見栄えが華やか。この大量の花が葉が展開するより先に咲く特徴がソメイヨシノやシダレザクラやヤエベニシダレに受け継がれている。果期は6月。

巨樹になるものもあり、長寿な巨樹の一本桜が多い。樹齢2000年超の神代桜(山梨県)、樹齢1500年超の淡墨桜(岐阜県)、樹齢1000年の樽見の大ザクラ(兵庫県)、醍醐桜(岡山県)、樹齢300年越の石割桜(岩手県)などが有名。ただ、長寿な分、発芽してから花が咲くまでに時間がかかり、樹高が10m程度に育って初めて花をつけ、場合によっては発芽から開花までに数十年かかる場合もある。

最初に書いたようにこの前年も同じ4月1日に見に来たのだが、2021年は桜の開花が早く、すでに盛りを過ぎていた(下の写真1)。今回はばっちしのタイミングだった。春のお彼岸からはだいぶ過ぎてたが。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.7459496310786995&type=1&l=223fe1adec

帰り道、市辺の集落まで戻ってくると地名の元になったとも云われる市辺押磐皇子故趾の碑が建つ(下の写真2)。幕末・明治時代の商人、三宅安兵衛の遺志に基づいて京都の名所旧跡に大正末期から昭和初めに設置した標石の一つ。道標にもなっており、側面に「是東 田原村 一里十丁」、「是西 草内渡船所経田辺 一里」とある。

三宅安兵衛については淀城跡の記でも書いたが、福井県の小浜生まれの幕末・明治時代の京都の豪商。晩年は隠居し、還暦後は京都周辺の名所旧跡を遊覧することを楽しみとしたそうで、京都のために資産を使えと云い残し1920年(大正9年)に満78歳で亡くなる。長男の清治郎がその遺志に基づき京都の名所旧跡に標石を設置した。 京都市内だけでなく山城南部の八幡市、宇治市、京田辺市、木津川市、精華町、井手町にかけて、1930年(昭和5年)までに400余基が建碑された。

市辺押磐皇子について補足すると、大阪堺の日本最大の前方後円墳で有名な世界遺産の大仙陵古墳に葬られた第16代の仁徳天皇の孫。滋賀県東近江市市辺町の古保志塚が陵と伝えられるが、福井県大飯郡おおい町の皇子塚も押磐皇子の墓であるとの地元の伝承がある。なお、押磐は八重歯のことで、押磐皇子が八重歯だったらしい。


以上

PR

  • 写真1 2021年4月1日の様子

    写真1 2021年4月1日の様子

  • 写真2 市辺押磐皇子故趾の碑

    写真2 市辺押磐皇子故趾の碑

4いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

八幡・城陽の人気ホテルランキング

PAGE TOP