2023/05/06 - 2023/05/06
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gianiさん
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2023/05/05
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幕末のアイドルといえば、メジャー系は新選組、竜馬、晋作あたりでしょうか。
もしかしたら、顔も功績も渋い伊藤博文推しみたいなコアなファンもいるかもしれません。
正統派アイドル龍馬は、死後に話を膨らませすぎだろ!と感じたりします。
どちらかと言われると、個人的には中岡慎太郎押しなので、
今回初めて龍馬について体系的に学んでみました。
業績とは別に、龍馬の魅力的な人柄が見えてきました。
- 旅行の満足度
- 5.0
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まずは、市営の記念館へ。
龍馬の生まれ育った街区に建ちます。
ここでは彼の活躍には触れず、この町でどのように人格が形成されたかに焦点を当てる超コアな内容です。高知市立龍馬の生まれたまち記念館 美術館・博物館
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出自
坂本家は京都の出自で、戦国時代に現在の南国市才谷へ移住し、農業を営みます。
高知城下へ移動し、1666年に武士相手の質屋を営みました。 -
出身地の才谷村に因んで、屋号を才谷屋としました。
写真は、現在の才谷屋跡地の様子。才谷屋跡 名所・史跡
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酒造業の株を買って酒を造ったり雑貨屋を営み、三代直益の頃には、城下屈指の豪商になります。
佐川の酒蔵とも関係を築きます。 -
分家(1770年)
名誉を欲した直益は、家業を次男直清に継がせ、長男直海には郷士株(武士身分)を買い与えて、土佐藩士に仕立てます。龍馬は、郷士坂本家4代目の次男として1835年(太陽暦では1836年)に誕生します。こうした経緯で、龍馬は武士の息子として誕生しました。パシフィックゴルフクラブ ゴルフ場
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電車通りに、生誕地を示す石碑が残ります。
坂本家には既に成人した長男がおり、その下に姉3人、お乙女(とめ)姉さんの名前には、もう子供は要らないという意味の止めが隠されています。龍馬は、末っ子として可愛がられ、気楽な次男坊でした。坂本龍馬誕生の地 名所・史跡
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生誕地の目印になるベンチ
郷士(下級武士)=貧乏という常識に反し、本家が豪商ということもあり、経済的にも豊かでした。目の前の鏡川で泳いだり、坂本家知行地では山でウサギを追ったりと、自由な幼少時代でした。 -
武士の階級
大きく上士と下士に分けられます。
下士のトップが郷士です。家老の指揮下にあり、お殿様から見ると陪臣に近いです。予備役の兵隊という位置づけで役職はなく、普段は農業で生計を立てています。
写真は、今井村にあった領地の記録。いわゆる不在地主で、管理人の田中良助に委ねていました。 -
坂本家の領地は161石で中級武士レベル、乳母や大勢の召使(男衆女衆)を抱えていました。そんな訳で、藩の役にも就いており、郷士御用人というカテゴリーでした。
写真は、坂本家の職務経歴書のようなもので、年貢の徴収、二の丸御殿の錠前役、西ノ口門番、山内家墓所の管理など、様々な役を歴任しました。 -
龍馬の生まれた町
上町地区は、下士や武士以外の身分の人たちがごった返すエリアでした。才谷屋や生家は、本丁筋に位置しました。高松から足摺岬へ通じる街道沿いで、一等地でした。現在も、両家跡には路面電車が走り、国道56号線に指定されています。すぐ近くには松山へ通じる街道も分岐し(現在の国道33号線)、賑やかな場所でした。 -
上町
上町は、本丁筋以外に、水道町鍛冶町などで構成されます。鏡川の水を城下町へ引く「水源」エリアなので、水質管理の小屋などが存在しました。きれいで豊富な工業用水を求めて、刀鍛冶鉄砲鍛冶なども集まりました。街道筋には、商家も多く建ちます。士農工商の身分を問わず、仲良く暮らす環境で龍馬は育ちました。 -
上町には、竜馬郵便局も。
消印が龍馬柄です。龍馬郵便局 名所・史跡
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武士の子息として、14歳の時には日野根道場で剣術を習い始めます。
日根野道場跡 名所・史跡
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龍馬宅裏を流れる水路の南側には、大黒屋という餅菓子屋がありました。
近藤長次郎の実家です。 -
17歳で河田小龍の塾に通い、アメリカから帰国したジョン万次郎と接したときの話を聞きます。
江戸の勝海舟の下で龍馬と出会い、竜馬の片腕として活動しました。
住所は、上町2-7-16です。近藤長次郎邸跡 名所・史跡
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ここから先は、県立龍馬記念館へ。
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江戸遊学(1853-54)
19歳の龍馬は、剣術の腕前を磨くために、1年間江戸の千葉定吉道場へ私費留学します。宿舎は、道場そばの土佐藩江戸中屋敷(築地)です。2か月後浦賀沖に黒船が来航し、藩より下屋敷警備を仰せつかり黒船騒動に巻き込まれます。
写真は、江戸へ発つ龍馬へ父が充てた注意書き。 -
国防に目覚めた龍馬は、当代きっての軍術家思想家佐久間象山にも入門します。
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15か月の剣術留学を終えた龍馬は、日野根道場の師範代になります。
そして、上町に移転した河田小龍の塾に通います。アメリカから帰国したジョン万次郎の取り調べた人物です(1852年)。龍馬は、小龍から海外情勢等を学びます。河田小龍生誕地 名所・史跡
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彼の本業は、日本画家。写真は、「唐美人図」。
室戸の捕鯨を描いたものも秀作です。
https://4travel.jp/travelogue/11835175
欧米の実態を知っていた小龍は、「攘夷は無理。商業で金を作って外国船を購入し、貿易による利益で軍備を整えるべし。」と唱えます。海援隊の元ネタです。
龍馬の言葉として、一般に知られていますね。 -
写真は、ジョン万次郎が小龍に贈った掛け軸。
アルファベット一覧表になっています。
アメリカでは国家元首を選挙で選ぶという話を始めて訊いたとき、小龍の頭はフリーズしたそうです。黒船来航前年の出来事です。龍馬は、間接的にジョン万次郎から学んだことになります。 -
江戸遊学(2nd.1856-58)
藩から江戸遊学の許可を得、一年延長して2年に及びます。千葉道場で、薙刀の免許皆伝(千葉流は一刀流)を受けて帰国します。
翌59年に日米修好通商条約が締結した大老井伊直弼は、60年に攘夷派に暗殺されます(桜田門の変)。 -
幕府と土佐藩の政界
幕府は黒船来航後、外交は開国路線、内政は公武合体へ向かいます。対する水戸藩は尊王攘夷で対立し、桜田門外の変が起こりました。
土佐藩主山内容堂(在1848-59)は、世継急死に伴う手続き問題で改易覚悟の場面を幕府が不問に処したことに大恩を感じ、幕府を支持します。一方で、島津斉彬や伊達宗城とは血縁関係にあり、幕府にメスを入れる必要性も認識していました。建前(義理)と本音が矛盾した複雑な状況です。双方の感情的ニーズを満たしたのが、家臣の吉田東洋でした。安政の大獄に伴い、隠居を命じられます。 -
土佐勤王党
吉田東洋の藩政改革は、開国論と公武合体を反映したもので、攘夷論者の説得を以てしても変わりませんでした 。武市半平太は1861年7月に尊王攘夷を旨とする土佐勤王党を立ち上げます。龍馬も国元ではトップの党員番号(No.)9です。 -
武市の命を受け、10月に剣術修行の名目で萩へ赴きし、久坂玄瑞と出会います。藩の存亡よりも、国の将来を優先する考え方に触れます。龍馬崇拝者曰く「龍馬の発言」とされるものとそっくりですね。
※萩の明倫館は、他流試合を受け付ける藩校だったので、良い隠れ蓑になりました。 -
写真は、萩行きに際して旅行資金2両を坂本家領地管理の田中良助へ借り入れた際の借用書。年内に15%の利息を付けて返すと宣言しています。
※土佐男の龍馬は、完済人にはなれませんでした。 -
脱藩
身分制度が厳格な土佐藩では、家老でもない武市の政治基盤は軟弱。さらに、党内の利害が対立し、難航します。勤王党に限界を感じた龍馬は、久坂の持論に触発されて1862年3月には、あっさりと脱藩。行先は、もちろん長州です。 -
翌4月、吉田東洋は土佐勤王党によって暗殺されます。その後、山内一豊の謹慎が解かれ、発言力を取り戻し、東洋を暗殺して尊王攘夷を説く勤王党は弾圧されます。翌63年には京都の八月十八日の変で、世相も攘夷は下火になり、武市は捕らえられ、65年に切腹を果たします。写真は投獄中の武市の手紙で、武士はまず藩への忠義、藩は将軍、将軍は天皇に尽くすべきで、脱藩は藩や先祖への忠義に欠く行為だと自身の尊王論を書いています。
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江戸へ
長州から江戸へ出た龍馬は、越前藩主の紹介状を手に、勝海舟の門下で海軍について学びます。勝は1860年に福沢諭吉らとアメリカ留学を経験しており、その旅をガイドしたのがジョン万次郎でした。
※龍馬は開国論者の勝を斬るために訪問したというのは、勝の言葉のあやです。 -
1863年には、勝の執り成しで山内容堂から脱藩の罪を赦されます。長州の桂小五郎/高杉晋作、薩摩の小松帯刀/西郷隆盛と繋がれたも、勝の紹介があってのことです。
8/18には京都で薩長が衝突し、長州藩と攘夷派が力を失います。下関では、異国船打払(攘夷)も決行されます。 -
日本を洗濯したい(1863/6/29)
勝ら旗本から幕府政治の腐敗を訊いた龍馬は、家族宛の手紙で上記の言葉を書き記しています(写真矢印部分)。越前藩からのリクルートを断って、勝のために働いているとも。
※この時期、実家では兄権兵衛には世継ぎがなく、龍馬を養子にという切実な問題もありました。 -
2度目の脱藩
勝の門下で、龍馬は神戸海軍操練所開設へむけて奔走し、様々な志士と交わります。1964年5月に開設、勝は軍艦奉行に就任します。土佐藩からは帰国命令が出ていましたが、勝の下で働きたくて、2度目の脱藩を決行します。秋に勝は罷免/江戸召還処分になり、龍馬との別れになります。
勝の左遷は、禁門の変や池田屋事件に弟子らが関わっていたことが原因です。 -
薩摩/長崎へ
龍馬の志を案じた勝は、薩摩藩城代家老小松帯刀を頼るように取り計らいます。1865年には亀山社中(薩摩藩のフロント企業)を設立し、長崎で軍備品を買付け海送する事業を行います。薩摩の機材(軍艦)を亀山のスタッフ(乗組員)がオペレーションする構造です。 -
薩長同盟の成立(1866)
倒幕には先進2藩の協力が不可欠ということは、帯刀と桂も認識しており、藩論調整に奔走しました。筑前(福岡)藩と土佐藩士が仲介しました。長州が輸入を禁止されている軍備品の買付を薩摩が代行し、薩摩で不足する米を長州が融通するギブ&テイクの関係です。
写真は、桂小五郎の書。多くの仲間を殺した宿敵薩摩と手を組むことへの複雑な心境を吐露しています。 -
池田屋事件(1866年)
薩長同盟締結の翌月、伏見奉行所の役人に襲われ、龍馬は深手を負います。店員お龍の機転で何とか伏見薩摩藩邸まで逃れ、西郷は薩摩での療養を提案します。龍を伴い、約3か月の新婚旅行を楽しみます。
写真は、お乙女姉さん宛の旅行報告。長文です。 -
特に桜島には、興味津々。基本は、霧島温泉での療養でした。新婚のお龍さんとの蜜月タイム。3つ年上の乙女は、龍馬の脱藩を手伝うなど、終始龍馬の味方で、頼れる存在(武芸も達者)でした。
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又やじ馬をさせてくれませんか?(三行目下半分)
帰国後、幕長戦争(第二次長州征討)が勃発。亀山社中は軍艦を供与し、自らも海運を担当。龍馬曰く、野次馬行為です。ちょっとお調子者で人たらし、仲介役に最適の人柄です。近代軍制と兵器のおかげで、連戦連勝。 -
下関会戦を目撃した様子を描いたものも残っています。
総大将の将軍家茂が途中の大阪城で病死。征討は中断します。慶喜は、沈みかけた幕府の将軍職を拒否しますが、1867年に引き受けます。
亀山社中は、長州への軍艦供与と他船の沈没事故で保有船がなくなり、活動が停滞します。 -
土佐の夜明け
龍馬曰く、何の志もなき国と酷評された土佐藩も、ようやく軍隊軍備の近代化に目覚め、龍馬との接触を始めます。写真の桂宛の手紙では、土佐の夜明けと表現。1867年には、龍馬と藩参政の後藤象二郎が会談します。 -
海援隊(1867年4月)
龍馬は再び脱藩の罪を赦され、亀山社中は海援隊に改称。土佐藩のために働く組織になります。藩の志士や脱藩者を雇い、海運のみならず貿易や金融業も請け負います。写真は、海援隊約規。 -
海援隊では、英語を学習しました。
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国際法も学びました。
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倒幕へ
5月に、政局は将軍の基盤強化に傾き、諸大名が関与する内部改革の道は閉ざされます。いよいよ倒幕の方向へ進みます。乾(板垣)退助/中岡慎太郎らの武力倒幕と、龍馬らの大政奉還の2つの考えが並行します。 -
大政奉還
龍馬から大政奉還の提案を受けた容堂は、四侯会議で議事提案します。一方で、薩長中心の工作で、倒幕慶喜討伐の密勅を引き出します。それに対し、慶喜は朝廷に大政奉還を自ら行うことで、密勅を骨抜き(武力倒幕の大義名分を消滅させる)にします。
政権を返された朝廷としても、実力が伴わないので、勅命で慶喜に政治軍事を委ねます。慶喜の策略勝ちです。 -
龍馬暗殺
岩倉具視らは、若い明治天皇を補佐する摂政二条斉敬(実は、慶喜と従弟関係)を失脚させ、慶喜を除外した新政府発足へ向けて、人事工作します。その途上で、龍馬は、近江屋で中岡と共に暗殺されます。 -
その後
暗殺の翌月、慶喜を仲間はずれにした王政復古の大号令が出されます(クーデター)。慶喜を支持する勢力との武力衝突(戊辰戦争)による空前の流血で、翌68年に明治維新は成し遂げられます。五箇条の御誓文が読み上げられます。 -
最後に
研究が進み、龍馬オリジナルのアイデアとされたものが、実は他人の請売りだったことが解明されています。例えば、大政奉還は大久保一翁(らんまんの大窪講師の祖父)から訊いた考え、船中八策も後世に盛られたもので、思想家の発言をまとめたものに近いです。
とはいえオリジナルでないにしても、良い考えを収集し、適切な場面で活用した要領の良さと、維新で果たした功績は不変です。暗殺されなければ、優秀な調整役として新政府を補佐したか、下野して岩崎家のように成功したかもしれません。
次の旅行記↓
https://4travel.jp/travelogue/11833010
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