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かねてから行きたいと思っていた「重森三玲庭園美術館」に行く機会があったので、これも前から行きたかった近くの「真如堂」に新しく出来たと聞いていた重森三玲の孫にあたる「重森千青」作庭の庭と併せて行ってきました。<br />先日行ってきた建仁寺「霊源院」の「甘茶の庭」は「昭和の小堀遠州」と言われる「中根金作」(1917-1995)の孫の作庭でしたが、今回は「昭和を代表する作庭家」と言われる「重森三玲」(1896-1975)の孫が管理している「重森三玲庭園美術館」と、もう一人の孫が作庭した「真如苑」の「隨縁の庭」、さらに京都を代表する曽根造園の曽根三郎(1946-1995)が作庭した「涅槃の庭」を見て、奈良・平安時代から1500年以上続く「日本庭園」が脈々と受け継がれていく様を目の当たりにして、歴史深い京都ならではの貴重な経験を享受できる環境に感激です。<br />まさに、「随縁とは真実は縁に因って様々な現れ方をするが本質は変わらない」ということを、ひしひしと感じた1日でした。<br />混とんとする最近の情勢の中、何事も「随縁」を基本に進んでいくことを願うばかりです。

重森三玲を継承する庭園巡り・重森三玲庭園美術館~真如堂「隨縁の庭」

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2023/06/28 - 2023/06/28

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Bach

Bachさん

かねてから行きたいと思っていた「重森三玲庭園美術館」に行く機会があったので、これも前から行きたかった近くの「真如堂」に新しく出来たと聞いていた重森三玲の孫にあたる「重森千青」作庭の庭と併せて行ってきました。
先日行ってきた建仁寺「霊源院」の「甘茶の庭」は「昭和の小堀遠州」と言われる「中根金作」(1917-1995)の孫の作庭でしたが、今回は「昭和を代表する作庭家」と言われる「重森三玲」(1896-1975)の孫が管理している「重森三玲庭園美術館」と、もう一人の孫が作庭した「真如苑」の「隨縁の庭」、さらに京都を代表する曽根造園の曽根三郎(1946-1995)が作庭した「涅槃の庭」を見て、奈良・平安時代から1500年以上続く「日本庭園」が脈々と受け継がれていく様を目の当たりにして、歴史深い京都ならではの貴重な経験を享受できる環境に感激です。
まさに、「随縁とは真実は縁に因って様々な現れ方をするが本質は変わらない」ということを、ひしひしと感じた1日でした。
混とんとする最近の情勢の中、何事も「随縁」を基本に進んでいくことを願うばかりです。

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  • まず、千本北大路で用事をすませた後、近くの「北京亭」でランチ<br />(散歩行程)ランチ北大路「北京亭」~出町柳駅~(1.3km徒歩20分)14:00重森三玲美術館15:00~(1.4km20分)15:20真如堂16:20~(0.5km徒歩10分)真如堂前バス停203~(16分)17:00出町柳駅(歩行距離約4km)<br />

    まず、千本北大路で用事をすませた後、近くの「北京亭」でランチ
    (散歩行程)ランチ北大路「北京亭」~出町柳駅~(1.3km徒歩20分)14:00重森三玲美術館15:00~(1.4km20分)15:20真如堂16:20~(0.5km徒歩10分)真如堂前バス停203~(16分)17:00出町柳駅(歩行距離約4km)

  • 「北京亭」は創業60年の京都中華の老舗、先日の「東華菜館」とは又一味違う所謂「町中華」の店で味がある、ガッツ麺とか、げんこつ酢豚などガッツリ系が嬉しいが、近くの仏大生に人気らしい

    「北京亭」は創業60年の京都中華の老舗、先日の「東華菜館」とは又一味違う所謂「町中華」の店で味がある、ガッツ麺とか、げんこつ酢豚などガッツリ系が嬉しいが、近くの仏大生に人気らしい

  • 八宝菜や春巻き、唐揚げなどのランチセット、ご飯はチャーハンに変更可、ご飯大盛、チャーハン大盛無料だが、量が多すぎて大きい唐揚げ1個残し

    八宝菜や春巻き、唐揚げなどのランチセット、ご飯はチャーハンに変更可、ご飯大盛、チャーハン大盛無料だが、量が多すぎて大きい唐揚げ1個残し

  • 出町柳駅から京大方面へ、東大路通から吉田神社参道に入る

    出町柳駅から京大方面へ、東大路通から吉田神社参道に入る

  • 「京都大学正門」(旧第三高等中学校正門)<br />京都帝国大学は旧第三高等中学校を譲り受けて創立され、1897年「京都帝国大学」の正門として引き継がれた

    「京都大学正門」(旧第三高等中学校正門)
    京都帝国大学は旧第三高等中学校を譲り受けて創立され、1897年「京都帝国大学」の正門として引き継がれた

  • 「吉田神社」一の鳥居<br />859年平安京の守護神として春日大社の神を勧請し創建、吉田山一帯に広がる境内に、お菓子の神の菓祖神社、料理の神の山蔭神社などあり、節分厄除け詣発祥の地で節分の鬼やらいは有名 *吉田山は東山36峰の一つで標高105mで大文字の観賞ポイント<br />

    「吉田神社」一の鳥居
    859年平安京の守護神として春日大社の神を勧請し創建、吉田山一帯に広がる境内に、お菓子の神の菓祖神社、料理の神の山蔭神社などあり、節分厄除け詣発祥の地で節分の鬼やらいは有名 *吉田山は東山36峰の一つで標高105mで大文字の観賞ポイント

  • 周りは住宅地で分かりにくいが、「重森三玲庭園美術館」に到着<br />昭和を代表する作庭家、「重森三玲」(1896~1975)の終のすみかになった屋敷を「重森三玲庭園美術館」として公開している

    周りは住宅地で分かりにくいが、「重森三玲庭園美術館」に到着
    昭和を代表する作庭家、「重森三玲」(1896~1975)の終のすみかになった屋敷を「重森三玲庭園美術館」として公開している

  • 建物は吉田神社の神官屋敷で江戸中期の建物(主屋1716年、書院1789年)を昭和18年(1943)に譲り受け玄関前庭、書院前庭、茶庭、坪庭と2つの茶室・無字庵、好刻庵を創った、その後平成18年(2006)に親交があった「塚本喜左衛門」が主屋を引き受け全面改修を行い、庭園も三玲の孫の重森三明(みつあき)氏(現在美術館館長)と協力して忠実に復刻した <br />

    建物は吉田神社の神官屋敷で江戸中期の建物(主屋1716年、書院1789年)を昭和18年(1943)に譲り受け玄関前庭、書院前庭、茶庭、坪庭と2つの茶室・無字庵、好刻庵を創った、その後平成18年(2006)に親交があった「塚本喜左衛門」が主屋を引き受け全面改修を行い、庭園も三玲の孫の重森三明(みつあき)氏(現在美術館館長)と協力して忠実に復刻した 

  • 入り口正面の主屋は「招喜庵」(しょうきあん)として「ツカキグループ」が管理運営し、結婚式場としても活用されている模様 *「ツカキグループ」は、塚本喜左衛門を代表とする着物卸と西陣織メーカーの塚喜商事株式会社などを経営する会社で、調べると、三条通の近代建築群「SACRAビル」(旧不動貯金銀行京都支店)も所有し「国登録文化財所有者の会」、「三条通まちづくり協議会」のメンバーにもなっているらしいから納得!<br /><br />

    入り口正面の主屋は「招喜庵」(しょうきあん)として「ツカキグループ」が管理運営し、結婚式場としても活用されている模様 *「ツカキグループ」は、塚本喜左衛門を代表とする着物卸と西陣織メーカーの塚喜商事株式会社などを経営する会社で、調べると、三条通の近代建築群「SACRAビル」(旧不動貯金銀行京都支店)も所有し「国登録文化財所有者の会」、「三条通まちづくり協議会」のメンバーにもなっているらしいから納得!

  • 「重森三玲邸書院・茶室」として国登録有形文化財に認定<br />2006年から「重森三玲庭園美術館」として公開され、館長の重森三明をはじめ重森三玲の遺族によって管理・運営されている、見学は全て予約制で10日前よりメールで受け付け、月、水以外の11時か14時のみの見学で定員15名だが午前中は不可の場合が多い、1,000円<br />

    「重森三玲邸書院・茶室」として国登録有形文化財に認定
    2006年から「重森三玲庭園美術館」として公開され、館長の重森三明をはじめ重森三玲の遺族によって管理・運営されている、見学は全て予約制で10日前よりメールで受け付け、月、水以外の11時か14時のみの見学で定員15名だが午前中は不可の場合が多い、1,000円

  • 「重森三玲庭園美術館庭園」<br />「重森三玲」1896-1975(しげもりみれい)79歳没は、日本画を学びいけばなや茶道を研究した後、昭和9年(1934)の室戸台風で各地の庭園が被災したのを見て40歳になる頃から約3年をかけて全国300カ所以上の庭園の実測調査を行い「日本庭園史図鑑」26巻を書き上げ、これが三玲作庭の土台となり東福寺方丈庭園(1939)に始まり岸和田城庭園(1953)、瑞峯院庭園(1961)から最後は松尾大社庭園(1975)など生涯に200余りの作庭に関わり、力強い石組とモダンな苔の地割で構成される枯山水庭園を作庭した、三明氏に言わせると、本人には「造園家」という意識は余りなく、いけばなや茶の湯などさまざまな芸術から得た知と美意識を併せ持ったアーティストという

    「重森三玲庭園美術館庭園」
    「重森三玲」1896-1975(しげもりみれい)79歳没は、日本画を学びいけばなや茶道を研究した後、昭和9年(1934)の室戸台風で各地の庭園が被災したのを見て40歳になる頃から約3年をかけて全国300カ所以上の庭園の実測調査を行い「日本庭園史図鑑」26巻を書き上げ、これが三玲作庭の土台となり東福寺方丈庭園(1939)に始まり岸和田城庭園(1953)、瑞峯院庭園(1961)から最後は松尾大社庭園(1975)など生涯に200余りの作庭に関わり、力強い石組とモダンな苔の地割で構成される枯山水庭園を作庭した、三明氏に言わせると、本人には「造園家」という意識は余りなく、いけばなや茶の湯などさまざまな芸術から得た知と美意識を併せ持ったアーティストという

  • 三玲は30歳の時一度出家して再び戸籍に入る時、フランスの画家「ミレー」に憧れ自ら「三玲」に改名した、因みに子供も完途(カント)、弘淹(コーエン)、由郷(長女ユーゴー)、埶氐(ゲーテ)、貝崙(バイロン)と命名したが、長男の完途は父の西洋趣味に反発し自らの子供には古事記や万葉集に由来する日本風の名前をつけ、次男の千青(ちさお)が父の設立した「重森庭園設計研究室」を引き継いでいる、館長の三明(みつあき)は長女(日本舞踊家元)の子供

    三玲は30歳の時一度出家して再び戸籍に入る時、フランスの画家「ミレー」に憧れ自ら「三玲」に改名した、因みに子供も完途(カント)、弘淹(コーエン)、由郷(長女ユーゴー)、埶氐(ゲーテ)、貝崙(バイロン)と命名したが、長男の完途は父の西洋趣味に反発し自らの子供には古事記や万葉集に由来する日本風の名前をつけ、次男の千青(ちさお)が父の設立した「重森庭園設計研究室」を引き継いでいる、館長の三明(みつあき)は長女(日本舞踊家元)の子供

  • 当日は定員15名のところ9名、内5名は外国人で、わざわざやってくる人には美術や建築を学ぶ人も多く、庭園好きが多い

    当日は定員15名のところ9名、内5名は外国人で、わざわざやってくる人には美術や建築を学ぶ人も多く、庭園好きが多い

  • 書院前の枯山水庭園は晩年の1970年に作庭されたもので、同じく晩年の1975年に作庭された「松尾大社庭園」の作風に近く、苔で覆われた築山とその周りを海や河川に見立てた白砂が囲み、三玲好みのたくさんの石を力強く配置して大海と蓬莱島を含む島々が表現されており、苔と白砂の曲線美が見事!

    書院前の枯山水庭園は晩年の1970年に作庭されたもので、同じく晩年の1975年に作庭された「松尾大社庭園」の作風に近く、苔で覆われた築山とその周りを海や河川に見立てた白砂が囲み、三玲好みのたくさんの石を力強く配置して大海と蓬莱島を含む島々が表現されており、苔と白砂の曲線美が見事!

  • 苔で覆われた「蓬莱島」(ほうらいじま)には三尊石があり、仙人の住む理想郷の島「蓬莱島」に行けば永遠の命が得られるという「神仙思想」(しんせんしそう)を表し、これを毎日眺めると長生きしそう!

    苔で覆われた「蓬莱島」(ほうらいじま)には三尊石があり、仙人の住む理想郷の島「蓬莱島」に行けば永遠の命が得られるという「神仙思想」(しんせんしそう)を表し、これを毎日眺めると長生きしそう!

  • 右側に並んだ石は、山間を流れる谷川の流れを表しているという、細かい表現!

    右側に並んだ石は、山間を流れる谷川の流れを表しているという、細かい表現!

  • 左手が書院で、敷地400坪に庭園は100坪とコンパクトだが、一見して「三玲」と分るたくさんの立石は三玲好みの阿波産の青石

    左手が書院で、敷地400坪に庭園は100坪とコンパクトだが、一見して「三玲」と分るたくさんの立石は三玲好みの阿波産の青石

  • 「書院」は、当日入室できなかったが、平屋建で15畳の書院と6畳の裏書院及び茶室からなり、茶室「無字庵」(非公開)は重森三玲の代表作のひとつ、親しかったイサム・ノグチの照明や親交のあった妙心寺や大徳寺ご住職の書などなどもある

    「書院」は、当日入室できなかったが、平屋建で15畳の書院と6畳の裏書院及び茶室からなり、茶室「無字庵」(非公開)は重森三玲の代表作のひとつ、親しかったイサム・ノグチの照明や親交のあった妙心寺や大徳寺ご住職の書などなどもある

  • 書院前中央に大きな平石の「礼拝石」(遥拝石:ようはいせき)があり、奥に蓬莱島(ほうらいじま)がある、敢えて平石を使っているのは、この屋敷の所有者であった神官が吉田神社に向かって拝していた石をそのまま生かしているからで、唯一吉田山神官の遺蹟を残している

    書院前中央に大きな平石の「礼拝石」(遥拝石:ようはいせき)があり、奥に蓬莱島(ほうらいじま)がある、敢えて平石を使っているのは、この屋敷の所有者であった神官が吉田神社に向かって拝していた石をそのまま生かしているからで、唯一吉田山神官の遺蹟を残している

  • ひときわ目立つ「青石」は動物にも見える形の良い石、これは白砂の海に浮かぶ「舟石」で、こちらは蓬莱島から戻ってきた「戻り舟」という、一般的な枯山水庭園では舟石は1つしかないが、もう一つ「入り舟」もあるというのは珍しいらしい

    ひときわ目立つ「青石」は動物にも見える形の良い石、これは白砂の海に浮かぶ「舟石」で、こちらは蓬莱島から戻ってきた「戻り舟」という、一般的な枯山水庭園では舟石は1つしかないが、もう一つ「入り舟」もあるというのは珍しいらしい

  • 入り口近くにある「入り舟」、ここから蓬莱山に向かい、「戻り舟」で帰ってくる

    入り口近くにある「入り舟」、ここから蓬莱山に向かい、「戻り舟」で帰ってくる

  • 書院前の白砂を真上から見下ろと、鞍馬石の敷石を州浜模様にし砂紋で波を表している、この州浜模様も三玲が好んで用いた独特の表現方法

    書院前の白砂を真上から見下ろと、鞍馬石の敷石を州浜模様にし砂紋で波を表している、この州浜模様も三玲が好んで用いた独特の表現方法

  • 「阿波産の青石」は、美しい緑色と縞模様が特徴の緑色片岩(りょくしょくへんがん)で、水に濡れると青色が浮かび上がり極楽浄土を思わせるような様相になる貴重な石で高価な庭石として有名

    「阿波産の青石」は、美しい緑色と縞模様が特徴の緑色片岩(りょくしょくへんがん)で、水に濡れると青色が浮かび上がり極楽浄土を思わせるような様相になる貴重な石で高価な庭石として有名

  • 三玲の寺院の庭と少し異なるのは植栽が多いことで、当初は庭の中央に樹齢200年の松がありこれを生かして鶴島にし、後に妻の要望を入れて2本の桜を植え、江戸期の建築との調和を図ったというが、現在は松は枯死してしまっている、またカクレミノという上の方だけ葉をつける珍しい常緑樹を植えて周囲の住宅と遮蔽しているらしい

    三玲の寺院の庭と少し異なるのは植栽が多いことで、当初は庭の中央に樹齢200年の松がありこれを生かして鶴島にし、後に妻の要望を入れて2本の桜を植え、江戸期の建築との調和を図ったというが、現在は松は枯死してしまっている、またカクレミノという上の方だけ葉をつける珍しい常緑樹を植えて周囲の住宅と遮蔽しているらしい

  • 独特の州浜模様の敷石と波は書院の縁側に沿って奥の茶室「好刻庵」に導く

    独特の州浜模様の敷石と波は書院の縁側に沿って奥の茶室「好刻庵」に導く

  • 「好刻庵」前には、春日大社によく見られる細長い「西ノ屋型石燈籠」と「蹲」(つくばい)<br />

    「好刻庵」前には、春日大社によく見られる細長い「西ノ屋型石燈籠」と「蹲」(つくばい)

  • 「蹲」(つくばい)は、灯篭の傘を反対にして転用したもの *蹲(つくばい)は背の低い手水鉢(ちょうずばち)で、「しゃがむ」「かがむ」意の「つくばう」が語源

    「蹲」(つくばい)は、灯篭の傘を反対にして転用したもの *蹲(つくばい)は背の低い手水鉢(ちょうずばち)で、「しゃがむ」「かがむ」意の「つくばう」が語源

  • 茶室「好刻庵」(こうこくあん)(1969年作)<br />青と銀の市松模様で大胆な波を描いた「襖絵」は、「桂離宮」を連想させるがその通り、照明なども全て重森三玲氏自身のデザインで、三玲設計の15カ所ある茶室の中で公開されている数少ない茶室の一つ

    茶室「好刻庵」(こうこくあん)(1969年作)
    青と銀の市松模様で大胆な波を描いた「襖絵」は、「桂離宮」を連想させるがその通り、照明なども全て重森三玲氏自身のデザインで、三玲設計の15カ所ある茶室の中で公開されている数少ない茶室の一つ

  • 襖の取っ手や欄間や釘隠しに使われている陶器なども三玲自身の作で、「東福寺」にも見られる市松模様は三玲を象徴するポイント

    襖の取っ手や欄間や釘隠しに使われている陶器なども三玲自身の作で、「東福寺」にも見られる市松模様は三玲を象徴するポイント

  • 「好刻庵」横の「坪庭」は、7つの板石と5つの立石と3つの円筒形の手水鉢と礎石が七五三に石組みされた石庭

    「好刻庵」横の「坪庭」は、7つの板石と5つの立石と3つの円筒形の手水鉢と礎石が七五三に石組みされた石庭

  • 茶室「好刻庵」から書院前庭園方面、縁側は取り換えがない貴重なケヤキの一枚板

    茶室「好刻庵」から書院前庭園方面、縁側は取り換えがない貴重なケヤキの一枚板

  • 茶席 好刻庵からの眺め

    茶席 好刻庵からの眺め

  • 「真如堂」(しんにょどう)へ移動1.4km20分

    「真如堂」(しんにょどう)へ移動1.4km20分

  • 赤門とも呼ばれる朱色の「総門」<br />この門には珍しく「敷居」がない、これは近くの吉田神社の神様たちが夜にお参りに来る際につまずかないようにする配慮

    赤門とも呼ばれる朱色の「総門」
    この門には珍しく「敷居」がない、これは近くの吉田神社の神様たちが夜にお参りに来る際につまずかないようにする配慮

  • 「真如堂」の正式名は「真正極楽寺」(しんしょうごくらくじ)で、正に極楽の寺、境内には巨大な本堂や美しい三重塔などが建ち並ぶ

    「真如堂」の正式名は「真正極楽寺」(しんしょうごくらくじ)で、正に極楽の寺、境内には巨大な本堂や美しい三重塔などが建ち並ぶ

  • 秋になると「紅葉の名所」として人気のお寺だが、今はアジサイの後「ムクゲ」(木槿)が奇麗! *ムクゲとフヨウ(芙蓉)とタチアオイの違いは、花はいずれも1日花で、タチアオイが一番早くムクゲ、フヨウの順に咲く、葉っぱはフヨウが一番大きくムクゲは花より小さめ、タチアオイは鋸歯があり木ではなく草花

    秋になると「紅葉の名所」として人気のお寺だが、今はアジサイの後「ムクゲ」(木槿)が奇麗! *ムクゲとフヨウ(芙蓉)とタチアオイの違いは、花はいずれも1日花で、タチアオイが一番早くムクゲ、フヨウの順に咲く、葉っぱはフヨウが一番大きくムクゲは花より小さめ、タチアオイは鋸歯があり木ではなく草花

  • 本堂へまっすぐ続く石畳の参道はゆるやかな上りで広々として風格がある

    本堂へまっすぐ続く石畳の参道はゆるやかな上りで広々として風格がある

  • 右手の「三重塔」は高さ約30mで、江戸時代1752年頃に建立された後1817年再建の比較的最近の建物だが、各層に設けている擬宝珠勾欄(ぎぼしこうらん:欄干)はどっしりとした風格があり、白く塗られた木口が美しく真如堂のランドマークタワーとなっている

    右手の「三重塔」は高さ約30mで、江戸時代1752年頃に建立された後1817年再建の比較的最近の建物だが、各層に設けている擬宝珠勾欄(ぎぼしこうらん:欄干)はどっしりとした風格があり、白く塗られた木口が美しく真如堂のランドマークタワーとなっている

  • 「本堂」は、京都市内にある天台宗の本堂では最大規模を誇り、平安中期に比叡山の戒算上人が一条天皇の母東三条院の御願により円仁(えんにん:慈覚大師)の作と伝えられる阿弥陀如来を本尊として堂を建てたのがはじまりで、江戸時代1717年再建、阿弥陀如来像は「うなずきの阿弥陀」と呼ばれ女人救済に御利益があるとされる *円仁が完成間際の阿弥陀如来に「比叡山の修行僧の本尊になってください」と言うと阿弥陀如来は首を振って拒否したので「それではすべての人々特に女性を救済してください」と言うと三度うなずいたという伝説から<br />

    「本堂」は、京都市内にある天台宗の本堂では最大規模を誇り、平安中期に比叡山の戒算上人が一条天皇の母東三条院の御願により円仁(えんにん:慈覚大師)の作と伝えられる阿弥陀如来を本尊として堂を建てたのがはじまりで、江戸時代1717年再建、阿弥陀如来像は「うなずきの阿弥陀」と呼ばれ女人救済に御利益があるとされる *円仁が完成間際の阿弥陀如来に「比叡山の修行僧の本尊になってください」と言うと阿弥陀如来は首を振って拒否したので「それではすべての人々特に女性を救済してください」と言うと三度うなずいたという伝説から

  • 境内には後西天皇の皇女真珠院宮の墓をはじめ藤原氏一門や斎藤利三(さいとうとしみつ:明智光秀の重臣で春日局の父)の墓があり、その前には春日局が、父・齋藤内蔵介利三の菩提を弔うために植えた「たてかわ桜」がある *山崎の戦いのあと捕えられ本能寺に晒し首になったが友人の海北友松が奪い取り真如堂へ葬った

    境内には後西天皇の皇女真珠院宮の墓をはじめ藤原氏一門や斎藤利三(さいとうとしみつ:明智光秀の重臣で春日局の父)の墓があり、その前には春日局が、父・齋藤内蔵介利三の菩提を弔うために植えた「たてかわ桜」がある *山崎の戦いのあと捕えられ本能寺に晒し首になったが友人の海北友松が奪い取り真如堂へ葬った

  • お釈迦様が坐禅を組んで悟りを開いたとされる「菩提樹」樹齢250年<br />「三井家の菩提寺」としても有名で、家祖・高利夫妻をはじめ三井家代々の墓があり300年以上にわたって祭祀が続けられている *高利は1686年65歳で松阪から京都に住まいを移し晩年の8年を京都で過ごし1694年73歳で京都で没したが、真如堂に参詣した高利が自らの墓所に希望したことが由縁で明治に入ってから真如堂の大檀家となり三井家の菩提寺となり、会社の供養塔もあり企業の供養塔の先駆けとなった

    お釈迦様が坐禅を組んで悟りを開いたとされる「菩提樹」樹齢250年
    「三井家の菩提寺」としても有名で、家祖・高利夫妻をはじめ三井家代々の墓があり300年以上にわたって祭祀が続けられている *高利は1686年65歳で松阪から京都に住まいを移し晩年の8年を京都で過ごし1694年73歳で京都で没したが、真如堂に参詣した高利が自らの墓所に希望したことが由縁で明治に入ってから真如堂の大檀家となり三井家の菩提寺となり、会社の供養塔もあり企業の供養塔の先駆けとなった

  • 江戸時代の俳人で松尾芭蕉の弟子・向井去来の墓もあることから句碑がある 「涼しさの 野山に満つる 念仏かな」

    江戸時代の俳人で松尾芭蕉の弟子・向井去来の墓もあることから句碑がある 「涼しさの 野山に満つる 念仏かな」

  • 「本堂」から中庭を渡り「書院」へ

    「本堂」から中庭を渡り「書院」へ

  • 真如堂の創建は平安時代だが、「書院」前の庭園は昭和以降に作庭された比較的新しいもので、以前は昭和63年(1988)作庭の「涅槃の庭」(ねはんのにわ)だけだったが、2010年に新しく「隨縁の庭」(ずいえんのにわ)が加わった、一方は寺が所蔵する「大涅槃図」をモチーフにした雄大な庭園、もう一方はこの寺を支えている三井家の四つ目の家紋をモチーフにしたモダンな庭園で同時に二つの枯山水を見ることが出来るのは楽しい!

    真如堂の創建は平安時代だが、「書院」前の庭園は昭和以降に作庭された比較的新しいもので、以前は昭和63年(1988)作庭の「涅槃の庭」(ねはんのにわ)だけだったが、2010年に新しく「隨縁の庭」(ずいえんのにわ)が加わった、一方は寺が所蔵する「大涅槃図」をモチーフにした雄大な庭園、もう一方はこの寺を支えている三井家の四つ目の家紋をモチーフにしたモダンな庭園で同時に二つの枯山水を見ることが出来るのは楽しい!

  • 「大涅槃図」(ねはんず)<br />お釈迦様の最期・入滅の情景を描いた縦6.2メートル×横4.5メートルの巨大な涅槃図で、毎年3月のみ本堂に吊るされ公開される貴重なもの *沙羅双樹の下に身を横たえたお釈迦様を弟子や動物たちが取り囲み、空には満月と雲に乗って来るお釈迦様の生母・摩耶夫人が描かれており、登場するサンゴをくわえたクジラや、タコなど海の生き物、花を持つサルなど127種類の多様な生物が描き込まれているのは日本最多とされる、三井家の寄進を受けて海北友賢らにより江戸時代1706年に作成された

    「大涅槃図」(ねはんず)
    お釈迦様の最期・入滅の情景を描いた縦6.2メートル×横4.5メートルの巨大な涅槃図で、毎年3月のみ本堂に吊るされ公開される貴重なもの *沙羅双樹の下に身を横たえたお釈迦様を弟子や動物たちが取り囲み、空には満月と雲に乗って来るお釈迦様の生母・摩耶夫人が描かれており、登場するサンゴをくわえたクジラや、タコなど海の生き物、花を持つサルなど127種類の多様な生物が描き込まれているのは日本最多とされる、三井家の寄進を受けて海北友賢らにより江戸時代1706年に作成された

  • 「涅槃の庭」(ねはんのにわ)<br />昭和63年(1988)天龍寺や東福寺の作庭を手掛けた曽根三郎の作品 *曽根三郎は1946年生で金閣寺、北野天満宮、泉湧寺等の造園工事を手掛け、1976年曽根造園を設立して独立したが1995年49歳で急逝、曽根造園は京都を代表する造園会社として東大寺、天龍寺、東福寺等の管理を行っている

    「涅槃の庭」(ねはんのにわ)
    昭和63年(1988)天龍寺や東福寺の作庭を手掛けた曽根三郎の作品 *曽根三郎は1946年生で金閣寺、北野天満宮、泉湧寺等の造園工事を手掛け、1976年曽根造園を設立して独立したが1995年49歳で急逝、曽根造園は京都を代表する造園会社として東大寺、天龍寺、東福寺等の管理を行っている

  • 「涅槃の庭」は、お釈迦様の最期・入滅をモチーフとしており、お釈迦様が北枕にして横たわり、その周りを弟子や動物たちが嘆き悲しむ様子を石組で表している *涅槃とは、苦しみから解放された安らかな世界のことで転じて釈迦の死<br />

    「涅槃の庭」は、お釈迦様の最期・入滅をモチーフとしており、お釈迦様が北枕にして横たわり、その周りを弟子や動物たちが嘆き悲しむ様子を石組で表している *涅槃とは、苦しみから解放された安らかな世界のことで転じて釈迦の死

  • お釈迦様が北(左手)を頭に顔を西(手前)に向けて横たわる *頭を北に向けるのは、お釈迦様がやってきた方向であるとされお釈迦様の涅槃像の多くは北枕になっている

    お釈迦様が北(左手)を頭に顔を西(手前)に向けて横たわる *頭を北に向けるのは、お釈迦様がやってきた方向であるとされお釈迦様の涅槃像の多くは北枕になっている

  • 東山連峰を借景とし、大文字を真近かに見るロケーションは京都ならではの絶景で、近すぎて大の字がわからないほど!<br />

    東山連峰を借景とし、大文字を真近かに見るロケーションは京都ならではの絶景で、近すぎて大の字がわからないほど!

  • 手前の白砂はガンジス川、桧などの木は沙羅の林、苔の築山や白砂にある石たちはお釈迦様を囲んで嘆き悲しんでいる生類を表し、生け垣は高さを揃えた前段と緩やかな稜線になった後段の二段構えで、借景の東山との絶妙なバランスをとっている

    手前の白砂はガンジス川、桧などの木は沙羅の林、苔の築山や白砂にある石たちはお釈迦様を囲んで嘆き悲しんでいる生類を表し、生け垣は高さを揃えた前段と緩やかな稜線になった後段の二段構えで、借景の東山との絶妙なバランスをとっている

  • ひときわ目立つ手前の大きな石2つは、お釈迦様のお母様「マーヤ夫人」と弟子の「アーナンダー」とのこと *「マーヤ(摩耶)夫人」は、お釈迦様を出産後七日にして他界したといわれる、「アーナンダー(阿難陀)は、釈迦の十大弟子の一人で釈迦の侍者として常に説法を聴いていたことから多聞第一(たもんだいいち)と称せられた

    ひときわ目立つ手前の大きな石2つは、お釈迦様のお母様「マーヤ夫人」と弟子の「アーナンダー」とのこと *「マーヤ(摩耶)夫人」は、お釈迦様を出産後七日にして他界したといわれる、「アーナンダー(阿難陀)は、釈迦の十大弟子の一人で釈迦の侍者として常に説法を聴いていたことから多聞第一(たもんだいいち)と称せられた

  • 生け垣は周囲の遮蔽のために昔来た時よりもだんだん高くなってきている、この景観をいつまでも守って欲しい

    生け垣は周囲の遮蔽のために昔来た時よりもだんだん高くなってきている、この景観をいつまでも守って欲しい

  • 枯山水にある手水鉢も意外と存在感がある!

    枯山水にある手水鉢も意外と存在感がある!

  • 涅槃の庭とひと続きになっている南庭には、立派な灯篭と「シャシャンボ」という珍しい名前の木がある *「シャシャンボ」(小々坊)はツツジ科の常緑低木で7月になるとアセビやブルーベリーに似た白い花を咲かせる

    涅槃の庭とひと続きになっている南庭には、立派な灯篭と「シャシャンボ」という珍しい名前の木がある *「シャシャンボ」(小々坊)はツツジ科の常緑低木で7月になるとアセビやブルーベリーに似た白い花を咲かせる

  • 本歌「燈明寺燈籠」(とうみょうじとうろう)<br />鎌倉時代に造られ燈明寺(京都府木津川市廃寺)にあった石燈籠を三井家が1770年頃入手し、さらに昭和60年に三井家十代が卒寿記念に貰い寄進された、「本歌」はたくさんある灯篭の中でも基本モデルとなるオリジナルのこと<br />

    本歌「燈明寺燈籠」(とうみょうじとうろう)
    鎌倉時代に造られ燈明寺(京都府木津川市廃寺)にあった石燈籠を三井家が1770年頃入手し、さらに昭和60年に三井家十代が卒寿記念に貰い寄進された、「本歌」はたくさんある灯篭の中でも基本モデルとなるオリジナルのこと

  • 「随縁の庭」(ずいえんのにわ)<br />2010年に重森三玲(しげもり みれい)の孫・重森千青氏(しげもりちさお)によって作られた新しい庭で、真如堂の大檀家で菩提寺ともしている三井家の仏堂(位牌殿)前の「四つ目の家紋」をモチーフにした枯山水の庭 *「随縁」とは真実は縁に因って様々な現れ方をするが、本質は変わらないという意

    「随縁の庭」(ずいえんのにわ)
    2010年に重森三玲(しげもり みれい)の孫・重森千青氏(しげもりちさお)によって作られた新しい庭で、真如堂の大檀家で菩提寺ともしている三井家の仏堂(位牌殿)前の「四つ目の家紋」をモチーフにした枯山水の庭 *「随縁」とは真実は縁に因って様々な現れ方をするが、本質は変わらないという意

  • 四つ目の家紋をモチーフに、ひし形の直線と三色の砂利と重森流の石を組み合わせ三尊石まで配置してモダンで独特な雰囲気を出している、使われている石は、本人が直接境内を歩き周って拾い集めたり玉垣や縁石を再利用しものというから最近のSDGSにもピッタリ<br />

    四つ目の家紋をモチーフに、ひし形の直線と三色の砂利と重森流の石を組み合わせ三尊石まで配置してモダンで独特な雰囲気を出している、使われている石は、本人が直接境内を歩き周って拾い集めたり玉垣や縁石を再利用しものというから最近のSDGSにもピッタリ

  • 背後の仏堂(位牌殿)の蟇股(かえるまた)にある「三井家の家紋」<br />もともと三井家は、近江佐々木一族の武家の出で三井家の家紋も一族と同じ正方形を四つ組み合わせてひし形にした「四つ目結(むすび)」であったが、事業の更なる発展を目指し1677年ごろから「丸に井桁三」の店章を制定し、家紋と使い分けている

    背後の仏堂(位牌殿)の蟇股(かえるまた)にある「三井家の家紋」
    もともと三井家は、近江佐々木一族の武家の出で三井家の家紋も一族と同じ正方形を四つ組み合わせてひし形にした「四つ目結(むすび)」であったが、事業の更なる発展を目指し1677年ごろから「丸に井桁三」の店章を制定し、家紋と使い分けている

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