2023/05/23 - 2023/05/25
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montsaintmichelさん
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今回レポする寺町寺院群は金沢観光では若干マイナーなスポットになりますが、そこを敢えてディープに掘り下げてみることにしました。江戸時代の慶長~延宝期(1596~1681年)にかけて金沢城防衛のために犀川河畔の寺町台地に寺院群が集約されました。これが寺町寺院群と称される存在です。
前回登場した金沢文学には欠かせない重鎮 室生犀星や幼少期に2年間だけ金沢で過ごし、その楽しかった思い出を詩や随筆に認めた中原中也、四高に通った井上靖などの足跡を辿る金沢文学を逍遙する旅です。尚、今回のレポは早朝散策にて訪ねたものになります。
中原中也に関しては、随筆『金沢の思ひ出』に登場する前回レポした神明宮をはじめ住居跡や松明寺、料亭 つば甚、通園していた北陸女学校附属幼稚園を徹底レポいたします。
また、井上靖著『北の湖』に登場する寺町台という河岸段丘に設えられた通称「W坂」という九十九折の坂道にも足を運び、小説とオーバーラップさせた心象風景を我が身で感じてまいりました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- JR特急
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-
犀川大橋
犀川の上流を眺めます。
中原中也はこの犀川大橋を渡って兼六園近くの幼稚園に通っていたそうです。
通りすがりには、恐らく遥か彼方にある医王山の山容をまぶしそうに見つめたことでしょう。
これから右端に見える蛤坂を上って寺町寺院群を目指します。 -
山錦楼
蛤坂にある1895(明治28)年創業の加賀料理の老舗「山錦楼」です。
野町で仕出業を営んでいた初代 仁吉が1922(大正11)年に現在地にあった明治30年頃築の2階建の町家へ移転してきました。その後、大正14年~昭和2年頃にかけて、営業スペースの拡大を目的に増改築を繰り返した結果、現在の地上3階建・地下1階の威容を誇る館となりました。
同時期に建てられた料亭で現存するものは少なく、古い景観を残す蛤坂周辺でもひと際目を引く貴重な歴史的建造物ゆえ、金沢市指定保存建造物となっています。尚、「ミシュランガイド富山石川(金沢)特別版2016」で1つ星を獲得しています。 -
山錦楼
外観は、町家建築からの発展形を基調とした近代的な和風建築で、端正な意匠でシックにまとめられています。
正面玄関の右側1~2階部分が元々の明治30年代築の建物になります。継ぎ足し建築の典型事例ですが、外観は増築部分も違和感なく連続しているのは見ごたえがあります。 -
山錦楼
蛤坂の正面側から見ても3階建で圧倒的な存在感を放っていますが、裏手の犀川側から見ると、地階を含め4層にも重畳しながら蛤坂のカーブに沿って歪に折れ曲がる姿が見られ圧巻です。 -
山錦楼
内部は構造的に若干アクロバティックな部分もあるそうです。
1階は主に客の待合や帳場、調理場などで占められ、2階から上には座敷が並び、特に大広間を各階に1間ずつ設けています。
2階の大広間(39.5畳)は格天井で壁色はグリーン、3階の大広間(21畳)は竿縁天井で壁色はコバルトブルーです。成巽閣が公開された際、天井に使用されている鮮やかな群青色はこの業界にも多大なインパクトを与え、明治時代に入ると群青色の壁は一般にも広がり始めました。そこから独自性を希求し差別化を図った結果がこれらの壁色のようです。
尚、地下階は客用トイレや使用人部屋などとなっています。 -
山錦楼
周辺が海でもないのに「蛤坂」とは奇妙です。
名の由来を調べてみると、江戸時代の1733(享保18)年にここで大きな火事があり、その後に道を拡幅したところ、「蛤が口を開いたようだ」と喩えられたことから、この俗称が付いたそうです。ウイットに富んだ命名です。
因みに加賀藩前期には近くにある寺院の名を採って「妙慶寺坂」と呼ばれたそうです。
川下の雨宝院から出火した火は折からの強風で大火となり、家屋573軒と瑞泉寺や神明宮など7寺社を焼いたそうです。逃げ惑う人々で大混乱し、怪我人が多く出たこともあり、加賀藩は妙慶寺坂の改修に着手し、家々を立ち退かせて川岸を突き出して護岸としたようです。 -
つば甚
中原中也著『金沢の思ひ出』には「当時まだ金沢には電車はなかつた。ガタ馬車があつた。『ガタ馬車キタキター、ノレノレ』と僕達は歌つてゐた。自動車が一台、(何時見てもそれは黒ずんだ緑色に塗られてゐたから同一の一台だと思ふ)時々『鍔甚』の前にとまつた。それが来ると子供達はみんな走つてその傍に行くのであつた。」とあります。
調べてみると金沢に電車が走ったのは1919(大正8)年ですから、中也が金沢を去って5年後のことです。電車も走っていない時代、運転手付きの自動車に乗って料亭に駆け付ける御仁はきっと大金持ちだったのでしょう。 -
つば甚
加賀百万石の礎を築いた加賀藩藩祖 前田利家のお抱え鍔師だった鍔家3代目甚兵衛が1752(宝暦2)年に鍔師の傍ら営んだ小亭 塩梅屋「つば屋」が始まりとする、金沢を代表する老舗料亭です。鍔師として鍛えた繊細かつ精巧な手先・指先が料理界で化学反応を起こしたのでしょう。
室生犀星が金沢を訪れた際、芥川龍之介をもてなしたのがこの料亭です。因みに、伊藤博文や三島由紀夫、横山大観、山下清など歴史上の偉人が訪れた料亭でもあります。
「小春庵」は芭蕉が句会を開いた部屋で、犀川を一望でき眺めが良いそうです。「鶴の間」には画家 山下清氏のちぎり絵ではない珍しい作品を目にすることができます。ちぎり絵の準備がなく、代わりに「魚の絵」を描いていったというエピソードがあります。その絵も飾られています。
「ミシュランガイド富山石川(金沢)特別版2016」1つ星です。 -
つば甚 吟風の間
奥の細道の途次、金沢へ訪れた松尾芭蕉が9日間滞在した「宮竹屋」を、片町より移築した部屋です。苔生した中庭には戦国時代の武将として知られる高山右近が造ったキリシタン燈籠を配しており、燈籠の足もとには聖マリア様が彫られています。
この画像は次のサイトから引用させていただきました。「掲載許可承諾済」
https://tsubajin.co.jp/introduction/facilities/ -
つば甚 吟風の間
建物は築百年程だそうです。部屋には「楓」などの名札が残され、これは連合国軍総司令部(GHQ)の将校が寝泊まりした部屋だそうです。玄関は畳を取り除かれてダンスホールにされ、階段にカーペットが敷かれたのはその名残です。また、客室には金沢市内の資産家から物々交換で入手したベッドを設えるという苦労もあったようです。
この画像は次のサイトから引用させていただきました。「掲載許可承諾済」
https://tsubajin.co.jp/introduction/facilities/ -
寺町5丁目緑地公園
随筆『金沢の思ひ出』には「私が金沢にゐたのは大正元年の末から大正三年の春迄である。住んでゐたのは野田寺町の照月寺(字は違つてゐるかも知れない)の真前、犀川に臨む庭に、大きい松の樹のある家であつた。」とあり、中原中也が住んでいたのは野田寺町のようです。明治45年9月、軍医だった父親の金沢転属に伴い広島からこの地へ転居しました。父親は歩兵第三五連隊に転属し、謙助は毎日歩兵第三十五聯隊まで馬で通ったそうです。
この寺町は、金沢市の南部、犀川沿いの河岸段丘台地に位置し、加賀藩が幕府の攻撃や一向一揆などの有事に備えて出城とするために意図的に多くの寺院を集めた町です。往時は金沢市中心から離れた郊外地であり、寺と田畑に囲まれた緑の中の別荘地でした。母 フクの記憶によると、元々は金沢の中心街にある文具店主が別荘として建てた家屋だったそうです。 -
寺町5丁目緑地公園
住居の跡地は寺町5丁目緑地という名の公園になっており、園内には『金沢の思ひ出』の一節が碑になっています。この文章を読んでいると、その時代の子どもたちが戯れる光景が浮かんでくるような気がしてなりません。
「叱られて弟と吊り下げられた松」の所在は確認できませんでしたが、犀川を望む公園からの眺めはあの頃のままなのかもしれません。 -
寺町5丁目緑地公園
「中也」とは珍しい名前です。その由来を調べてみました。
中也の父 謙助が軍医として旅順に単身赴任していた時、母フクが妊娠を知らせると、手紙で「名前は男なら柏村(旧姓)中也」と返信があったそうです。
しかし、中也は拍を付けるために友人らには「森鴎外が名付け親」と吹聴していたそうです。鴎外が謙助の軍医学校在籍時の校長でもあり、中原家とも交流があったことからさもありなんの話ですが、謙助の同僚の軍医大佐 中村緑野(中村六也)が名付け親というのが真実です。名前にある先頭と尻尾の文字をつないで「中也」です。友人の大岡昇平は中也が亡くなってからこの事実をフクから知らされたそうです
一方、謙謙助から届いた手紙の「中也」には振り仮名が付いていませんでした。そのため、「なかや」なのか「ちゅうや」なのかフクは悩んだそうです。
結局、「なかちゃん」と呼ぶよりも「ちゅうちゃん」と呼ぶ方が馴染み易いとの理由から、自然と「ちゅうや」になっていったそうです。 -
松月寺
公園の向かいには、中也が「照月寺(字は違つてゐるかも知れない)」と書いた瑞亀山 松月寺があります。1593(文禄2)年に斉藤刑部宗忠が白峰和尚を招いて越前堀井庄に開山し、その後、金沢、富山、小立野台と転々とし、前田利家の加賀入国後、1616(元和2)年に現在地に移転したとされます。
本尊には釈迦牟尼仏を祀る曹洞宗の禅寺です。 -
松月寺
中原中也は1907(明治40)年に山口市湯田温泉に軍医 柏村謙助の長男に生まれました。中原は母方の苗字で、母フクの実家で代々続く医院の跡取り息子として期待されました。中也はその期待に応え、周囲から「神童」と呼ばれました。そして弟 亜郎(つぐろう)の病死を契機に8歳頃に詩作を始めました。その後、山口師範学校附属小学校6年の時に短歌と出会い、読書欲が高じて文学にのめり込み、次第に勉強が疎かになりました。
山口中学での成績は落ち、3年の時に落第が決まり、世間体が許さないとの理由で1924(大正12)年に京都 立命館中学校へ編入しました。その年に関東大震災が起きて時代の転換点となり、日本の文学界にダダイズム(既成概念を破壊し、個人の欲求を解放する運動)が台頭しました。『ダダイスト新吉の詩』に影響を受けた中也は詩を作ることに目覚めていきました。 -
松月寺
1925(大正14)年、立命館中学校を卒業した18歳の中也は、同棲していた女優 長谷川泰子と共に受験のために上京し、小林秀雄と出会い交流を深めました。秀雄は泰子に惹かれ、次第に恋愛関係が深まり、やがて秀雄は中也に絶交を宣言し、泰子は秀雄の元へと去りました。泰子は中也にとって生涯を通じたった一人の「運命の女性」でした。別離後も小林邸に押しかけて泰子に暴力をふるったり、ある時には泰子の子の名付け親になったりもしました。
1932(昭和7)年、初詩集『山羊の歌』の出版を企画するもままならず、2年越しの苦労を経て出版にこぎつけて東京外国語学校卒業の翌年に刊行されました。しかし自費出版のため僅か200部限定という有様でした。その頃から中也はノイローゼになり、次第に強迫観念や幻聴に悩まされるようになっていきました。
1933(昭和8)年、中也は26歳の時に遠縁の上野孝子とお見合結婚しました。そして詩人として脂が乗り始めた1936(昭和11)年、長男 文也が2歳で小児結核にて病死。中也は3日間1睡もせず息子を看病し、葬儀では息子の遺体を抱いて離さず、棺に入れさせようともしませんでした。「愛するものが死んだ時には、自殺しなけあなりません」(『春日狂想』)。これは息子の死に傷心した中也の詩の冒頭です。中也の精神は衰弱し、幻聴が酷くなり、幼児退行のような言動が目立つようになりました。文也が亡くなった翌月、次男 愛雅(よしまさ)が誕生しますが、それでも悲しみは癒えませんでした。
やがて中也は神経衰弱で療養所に入院しますが、ひと月で無理矢理退院し、鎌倉へ転居するも更に衰弱が進み、山口への帰郷を決意し『在りし日の歌』の編集に着手しました。その清書を小林秀雄に託し、山口へ帰ろうとした1937(昭和12)、中也は結核性脳膜炎を発して鎌倉養生院で永眠します。残された次男は中也が亡くなった翌年に病死し、中也の血筋はここで途絶えたのでした。 -
松月寺
ここには「大桜」と称される、樹齢400年とも伝わる国指定天然記念物の桜があります。2世 至岸和尚が3代藩主 利常より小松城内にあったものを拝受したものと伝わり、「御殿桜」の異名を持ちます。それ故、藩政期にはこの桜の樹下を通行する際には敬意を表すために槍を倒して通ったそうです。
金沢生まれの文豪 泉鏡花は『桜心中』の中で「この桜は名木」と記しています。また、江戸時代中期の儒者 室鳩巣がこの桜樹を詠んだ詩が知られています。
遊松月寺看桜花
古寺尋春春已残、白桜開尽倚欄干、珠林当昼雲長生、香閣引風雪不寒、
樹下人誇冠玉美、仏前僧作雨花看、晩来遊客未帰去、猶夕陽照繍鞍
「大桜」は学名「ショウゲツザクラ」と言い、中也も幼い頃に桜が咲く季節を愉しみにしていたことでしょう。そして2回目の桜が咲く頃、父親が旅順へ単身赴任することになり、中也は母親と共に金沢を後にして山口へ戻りました。
現在の「大桜」は太い枝がキングギドラのように幾つにも別れ、その一部は土塀を突き破るほどの逞しさです。 -
松月寺 石碑
立派な碑文が建てられていますが、立札もネット情報もなく、すがる思いで金沢市役所 文化財保護課に問い合わせてみました。いただいた情報から察すると次のようになります。
この石碑は「擲山」と号した書家 畠山観成(かんせい)が、生前墓として建てた碑です。石碑上部にある篆書「擲山畠山翁寿蔵碑」は前田家16代当主 前田利為の揮毫になります。
観成は中山善壱著『加賀藩墓地めぐり 金沢・野田山に眠る人々』の人名データベースにも載っており、金沢市蛤坂町(現 寺町)に住居を構え、息子の日本画家 畠山錦成(きんせい)は戦後の文化復興の一環である金沢美術工芸専門学校(現 金沢美術工芸大学)の設立に協力、1946(昭和21)年に同校が開校すると教授として後進の育成に尽力した人物として知られています。
観成と利為との関係は不詳ですが、揮毫を頼んだほどですので書家繋がりかもしれません。
一方、利為は「陸軍の首脳として活躍していたら、日米戦争の行方は違っていた」と言わしめた加賀百万石の侯爵かつ陸軍大将です。陸士17期の同期生の東條英機とは反りが合わず、利為が東條を「頭が悪く、先の見えない男」と批評し、東條が利為を「世間知らずのお殿様」と揶揄する間柄だったようです。利為は首相になった東條を「宰相の器ではない。あれでは国を滅ぼす」と危ぶんだようです。しかし悲運にも利為は、1942(昭和17)年に召集されてボルネオ守備軍司令官となり、その5ヶ月後にボルネオ沖で搭乗機が遭難し、57年の生涯を閉じました。 -
松月寺 蓮如聖人の御休石
傍らにある石碑には「蓮如聖人 御休石 明治三十九年」と刻んであります。
蓮如上人が腰をかけて人々に仏法を説いた、あるいは休憩したという石が「腰掛け石」として各地に残されており、その類と思われます。これについても立札もなく石碑から読み取るしかありません。金沢市には蓮如町もあり、何かと縁があったのでしょう。元々、金沢は真宗王国と呼ばれ、浄土真宗系の寺院を多く抱えています。蓮如は室町時代に活躍した僧侶で、その生涯は波乱に満ちたものでした。一旦は本拠地の本願寺を放逐されますが、その後各地を転々としながら布教を続け、北陸にも足を運びました。そして福井県吉崎に御坊を開き、浄土真宗の一大王国を作り上げました。最後は本願寺へ戻り、教団の復興に尽力、現在の本願寺教団の元を築き上げて「本願寺中興の祖」と呼ばれるに至りました。
この禅寺がこの地へ移ったのは1616年ですから、この石はそれ以前から伝承されていたものと窺えます。 -
諏訪神社
鳥居を覆う大きな樹木が目を引き、街中に突如現れた小さな杜のようです。
全国に散在する諏訪神社は長野県 諏訪大社を総本社とし、その数2万5千にものぼるとされますので、特に珍しい神社ではありません。
この神社の所在地は寺町5丁目緑地公園のすぐ近くですので、幼い中也も境内で遊んでいたことでしょう。 -
諏訪神社
1665(貞享2)年の由来書には、室町初期の1429(正長2)年に豪族 富樫氏の周遊の地、泉野領桜畑に同氏の起請によって創建された「八幡宮」が起源と伝えます。3代藩主 利常の時に鷹匠頭 野村宗順と太平右京が上申し、鷹狩の祈祷のため信州 諏訪明神(鷹の守護神)を勧請して合祀し、鷹の祈祷を修めたようです。その後。1636(寛永13)年に現在地へ移転しました。
社名は明治時代初期までは「諏訪八幡宮」と呼ばれていたそうです。
祭神は、建御名方神(おすわさま)と誉田別命(はちまんさま=応神天皇)の2柱です。 -
諏訪神社
石鳥居を潜ると左手に鬼瓦が展示されています。おそらく、社殿の改装あるいは建て替え時に外したものを資料展示されているものと窺えます。
中央には「丸に三つ柏」の紋が輝いています。これは創建に関わった富樫氏の家紋のひとつです。富樫氏の家紋は「七曜星や八曜星、九曜星」を使うことが多いのですが「三つ柏」もあります。 -
諏訪神社
通常、狛犬は礼儀正しくお座りをしているものですが、石川県内の113社にはこうした「逆立ちをした狛犬」が奉納されており、「金沢逆立ち」や「加賀逆立ち」と呼ばれます。神仏の世界では雲を蹴るのは縁起の良いこととされており、雲を蹴る姿を表現しているとも言われています。
こうした狛犬は明治時代中期~昭和時代初期にかけて奉納された、期間限定の珍しい狛犬です。
金沢では石浦神社(廣坂稲荷)や浅野神社、児安神社などが有名ですが、ここにもあるとは想定外でした。 -
諏訪神社
逆立ち」というのは後ろ足を大きく上に跳ね上げ、前足だけで立っている状態を言います。鳥居側から見て右側に安置され、吽形で角もあり、鬣(たてがみ)や尻尾の渦巻き模様、そして後ろ足の跳ね上げっぷりはほぼ直角です。
鬣や尻尾などのカールした造形もくっきりしており、あまり風化されていない良好な保存状態です。 -
諏訪神社
後ろ足の肉球や鋭い爪先まで大胆かつ繊細に表現しています。
台座には石工「由野伊三郎」「荒谷善太郎」、奉納「明治二十二年四月」と刻んでいます。 -
諏訪神社
阿形の狛犬は一般的なポーズですが、厳しい表情で睨みを利かせています。 -
諏訪神社
諏訪神社では、毎年9月中旬(旧暦7月26日)の夜、月の出の時刻に合わせて室町時代から続く特殊神事 月拝祭が行われます。利常の時代からこの神社にて行うようになったそうです。
尚、この神事は卯辰山から上る下弦の月が山並みの関係で光が反射して3つの光芒となり、それを拝むことから「三光さん」と呼ばれます。
まず、奉納踊りから始まり。それが終わると皆で午前2時頃の月の出を拝み、東の方角にある卯辰山に向かって無病息災・世情安泰を祈ります。江戸時代には、庶民がこぞって寺町台に別荘を建て、3つの月を拝む書院を造ったと伝えます。 -
諏訪神社
常夜灯が片隅に佇みます。
夜中過ぎまで月拝祭の神事を行うのであれば、常夜灯は必需品です!
火袋~竿の部位は苔生しておらず、戸室石で新調されたのかもしれません。 -
妙典寺
黒光りする瓦屋根と立派な門構えが目を引きます。
日蓮宗の寺院で、山号は「正栄山」。
1585(天正13)年に天心院殿妙典日叡大姉(神保安芸守長純の室)の開基で、仏蔵院日敬を開山に越中関野(現 富山県高岡市)に創建されました。1609(慶長14)年に金沢市内の河原町に移転し、1616(元和2)年に現在地に再移転しました。 -
妙典寺
寺宝「鋳造三具足(鶴亀燭台、雲竜香炉、雲竜文花瓶)」は御釜師 宮崎彦九郎義一(初代 宮崎寒雉)作で市指定文化財です。彦九朗儀一は千宗室指導の下で著名な茶の湯の「茶飯釜」などを鋳造した名工です。
現存する最古のものだとも言われ、亀の甲羅や鶴の羽の模様など、とても鋳物とは思えない芸術的な逸品だそうです。 -
妙典寺
毎週土曜日の夕刻に鐘を撞いています。
また、毎年終戦記念日には市民団体「寺町台九条の会」が主催する「平和の鐘つき」が行われます。金沢は空襲で焼け野原になることは免れましたが、平和は世界共通の願いです。皆さん「戦争を許さず平和を守ろう」「核兵器を廃絶させよう」などと平和への思いを口にしながら鐘を撞かれるそうです。 -
大円寺
大円寺(五智山大圓教寺)は浄土宗の寺院です。
1624(寛永元)年に仰誉是伯上人が大坂夏の陣で戦死した父 大円宗吟大居士を供養するため草庵を建立したことが起こりです。
1700(元禄13)年に現在地に移転しました。
門前右手にある石碑は金沢市内に3基ある徳本名号塔の一つで、1818(文政元)年に凝灰岩で建立されました。徳本行者は浄土宗の諸国巡化の念仏聖でした。1758(宝暦8)年に和歌山県日高町志賀で生まれ、27歳で出家して「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えて近畿地方をはじめ関東や信州・北陸に念仏布教の足跡を残しました。 -
大円寺
堂内に安置されている「人骨地蔵尊」は、第3世住職だった心岩の作とされ、無縁仏を哀れんでその骨を砕いて塗り込めた像高4m33cmもある極彩色の延命地蔵尊です。顔・首・胸・両手・両足の白い部分には、誰にも拝まれることのない無縁仏の人骨が塗り込められているそうです。また、背後には1333体もの観音像が並んでいます。
因みに、1759(宝暦9)年の大火では土蔵造りのため「人骨地蔵尊」は難を逃れたそうです。
心岩が何時大円寺の住職となったかは不詳ですが、『加越能寺社由来』によると、遅くとも1685(貞享2)年には先代の後を継ぎ第3世になったと考えられています。そして得意とする仏画を描いて浄財を集め、1700年に現在の寺地を得て寺院を再興しました。 -
大円寺
什物堂内には、心岩上人の自画像図や念仏書、来迎図などが納められており、ツバキ、ボタン、アジサイなどが美しい庭園もあります。
今となっては懐かしい二宮尊徳像も安置されています。 -
法光寺
日蓮宗の寺院で、山号は「本照山」。
元々は16世紀後半に越中守山で建立された日蓮宗の寺院です。17世紀初頭に現在地に移転しましたが、その3年後に失火で焼失しています。
立札にはその後のことが書かれておらず、現在の建物の経緯は不詳です。 -
法光寺
山門も立派な構えです。 -
法光寺
門扉には「五三の桐」紋が彫られています。
秀吉は関白就任後に「五七の桐」を使用するようになったとされることから、織田信長から下賜されたのは「五三の桐」だったとされます。 -
法光寺
本堂には「日蓮宗大荒行 壱千日成満 祈祷道場」の札が下げられています。
日蓮宗ではこの大荒行堂を成満して初めて修法師として蓮華阿闍梨日観の称号を授与され加持祈祷が行えるようです。 -
高岸寺
日蓮宗の寺院で、山号は「妙榮山」。高岸寺は寺院が軒を並べる寺町のなかでもひと際風格を湛えています。
1583(天正11)年に賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉が柴田勝家を征圧すると、前田利家は加賀を治め、金沢城を本拠として出城の石川郡鶴来 舟岡城の城代に家臣 高畠石見守定吉を就かせました。間もなく石見守は弟 日饒(にちじょう)上人を開山として一族の菩提寺を開創しました。『高岸寺由緒書』によると、その後に大豆田へ移り、1587(天正15)年に割出の下屋敷を寺地としますが、やがて現在の諏訪神社の地に移転し、1636(寛永13)年に現在地に移転しています。
因みに、高畠定吉の正室は前田利家の妹 津世であり、利家の正室 まつの継父は高畠直吉であり、前田家と高畠氏には深い繋がりがありました。 -
高岸寺
現在の本堂は、棟札より1861(文久元)年の建築と判明しており、日蓮宗寺院方丈型の大規模本堂の到達点と称される貴重なものとされます。本堂・鐘楼・附棟札は市有形文化財に指定されています。?本堂は幅11間、奥行き8間あり、屋根は切妻造妻入り、正面中央に向唐破風造の向拝を設けています。正面の大きな妻面の梁構成が特徴的で、蟇股や海老虹梁、拳鼻を飾るなど、向拝と共に外観の装飾性を高める江戸時代後期の手法が見られます。
また、勾配のきつい切妻屋根は、建築当初から瓦葺であることの証左であり、金沢の寺院建築の屋根の発展過程を示す貴重なものとされます。 -
高岸寺
鐘楼堂は鬼子母神を祀る祀堂と、その上に建つ鐘楼からなります。鐘楼の小屋裏にあった棟札から1797(寛政9)年の建築と比定されています。ただし、祀堂の虹梁の絵様が古めかしいことから、祀堂は江戸時代前期に建てられ、その後に鐘楼が増築された可能性も否めません。
このように本堂と鐘楼堂が一体となった建物は他に類がなく、鐘楼というよりも「見張台」を彷彿とさせます。事実、「見張り台」であることを隠すための鐘楼建築であり、藩の機密事項に当たるため文書はなく口伝で代々語り継がれていたそうです。3代藩主 利常の頃まで高岸寺は寺町寺院群の中核であり、金沢城の出城の役目を担った軍事的要衝だったのでしょう。
寺伝によると、梵鐘は「撞かずの鐘」と呼ばれ、周辺に不審な動きがあれば、金沢城へ合図を送るためのものであり、今日に至るまで一度も撞かれたことがないそうです。
梵鐘は戦時中に供出されましたが、本堂および鐘楼堂の修復工事に併せて復元され、2012年に落慶法要が行われました。 -
桜橋
緩やかにカーブする新桜阪を下ると桜橋に出ます。昭和20年代に都市計画事業の一環として架けられ、その後、水害による流失と再建を経て現在の姿になりました。桜橋や桜坂などの名の通り、この周辺は桜が有名です。橋の欄干もほんのりピンク色がかっており、可愛らしさを湛えています。
金沢城の東を流れる浅野川には「梅の橋」が架けられ、「桜橋」に対して命名されたとも言われています。木橋には石川県の木であるアテが使用されており、周辺は泉鏡花の名作『義血・侠血』の舞台にもなっています。 -
桜橋詰め「W坂」
犀川に架かる桜橋の手前に寺町台地へと通じる断崖に刻まれた坂道があります。藩政時代からある坂道で、元々は坂道の上に石伐職人が多く住んでいたことに因み「石伐坂(いしきりざか)」と呼ばれ、今でも正式名称は「石伐坂」なのですが「W坂」の方が知名度が高いようです。
また、あまり知られていませんが、「W坂」の他にも別名がり、「清立寺(せいりゅうじ)坂」「吹屋(ふきや)坂」「くの字坂」というものがあります。 -
桜橋詰め「W坂」
ご覧の通りクネクネと鋭角に折れ曲がり、ジグザグに登っていく坂を旧四高の生徒がアルファベットの「W」の字に喩えて「W坂」と呼んだのが由来です。通常なら「九十九折坂」くらいの発想に留まりますが、流石は四高生、発想の転換ができています。
因みに、この坂は室生犀星のお気に入りの散歩道だったそうです。 -
桜橋詰め「W坂」
「W坂」の途中には、四高に通っていた井上靖の小説『北の海』の文学碑があります。 自身をモデルにした『北の海』では、この坂は柔道の稽古で体がヘトヘトの時にはかなりこたえる坂と表現されています。
「腹がへると、何とも言えずきゅうと胃にこたえて来る坂ですよ。(中略)なんで四高にはいって、こんなに辛い目にあわねばならぬかと、自然に涙が出てくる」 と吐露しています。 また、「この辺で足が上がらなくなる」と続けています。この文学碑のある場所は、まさに小説の中で足が上がらなくなるとぼやいたポイントです。 -
桜橋詰め「W坂」
『北の海』では、柔道に勤しむことに意味を見出せず、むしろ意味を見出さずに打ち込むことに大きな意味を感じるという「青春の美学」が表現されています。その美学を何気なく語るために厳選した最高の舞台こそが「W坂」なのです。
一方、この坂には「人とすれちがっても、決して振り返ってはいけない」という都市伝説があります。もしも振り返ってしまったら…。その後は、想像通りの結末が待っています。昼間は見晴らしも良く、不気味さは微塵も感じられませんが、夜間は電灯が少ないこともあり、一寸怖そうな雰囲気ではあります。
四高生だった頃の井上靖になったつもりで「胃にこたえる」W坂を勢いよく駆け上がってみると、犀川から吹き上げる薫風が頬を優しく撫でるのが心地よいです。 -
桜橋
犀川上流にある医王山(いおうぜん)の雄大な稜線を眺めます。
医王山は石川県金沢市と富山県南砺市にまたがる標高939m山塊です。白兀山や奥医王山、前医王山などの山塊を総称した名称で、最高点 奥医王山には一等三角点が設置されています。「日本三百名山」および「新・花の百名山」に選定されています。
因みに医王山の手前に位置するのが戸室石で知られる戸室山(標高548mの第四紀火山)です。 -
本多通り
桜橋の先から振り返った寺町台方面です。
高低差80mほどの河岸段丘は立体感に富み、「タモリさん」でなくても面白い場所です。 -
油車(あぶらぐるま)
本多通りを離れ、鞍月用水の脇道を北側へ進みます。
この地域を流れる鞍月用水の脇に町名「油車」の由来を記した石碑が立っています。
藩政時代初期に、油商人が鞍月用水の流れを利用して回す水車を使い、行燈などに用いる灯油を搾っていたことが名の由来だそうです。
明治時代に入ると、油搾りの水車は精米や製粉にも使われるようになり、その光景は昭和時代初期まで見られたそうです。鞍月用水は、農業用水や防火用水などに活用された他、工業用の動力源としても利用されていたようです。しかし、電力に押されて昭和15年頃を最後に水車は消えてしまったそうです。
因みに柴野美啓、日置謙校共著『亀の尾の記』(昭和7年刊)には、「正保年間(1644~48年)に松任町出身の製油業坪野屋与助が、火除地として水溜となっていた岩谷牛右衛門上地122歩を拝領し、鞍月用水を取入れ川堀にし、城下にはじめて絞油水車を設け菜種油を製した。」とあります。 -
丸田橋
鞍月用水に架けられた何の変哲もない小さなコンクリート製の橋です。
笹倉信行著『金沢用水散歩』には、鞍月用水の犀川の取り水地点が『油瀬木』と呼ばれるのは、油を絞る目的の水車を廻すための用水堰『油堰』であったから」と記し、この周辺を「鞍月用水の本家」と形容しています。 -
丸田橋
橋の欄干には、矜持に満ちたこのようなプレートが埋め込まれています。
「丸田橋 昭和三十三年十一月架 橋種 Tー14 施工 堀田組」
因みに、鞍月用水に架けられた橋には全て名前が付けられており、このようにプレートが嵌め込んであります。名前の由来にも由緒正しいものがあるようです。 -
金沢ふるさと偉人館(北陸学院幼稚園 跡地)
地方都市には学術や芸術で優れた功績を残した郷土の偉人を後世に伝えるための記念館があります。金沢にもそうした記念館があり、それが「金沢ふるさと偉人館」です。
中原中也著『金沢の思ひ出』には「幼稚園は兼六公園の傍の北陸幼稚園であつた。」とあります。その幼稚園が日本初のキリスト教系とされる北陸学院幼稚園(旧 北陸女学校附属第一幼稚園)です。その跡地に建てられたのが「金沢ふるさと偉人館」です。入口の左手奥には「北陸学院幼稚園の地」の石碑があります。往時、ミッション系幼稚園どころか幼稚園に通うことができたのは、ほんの一握りの裕福な家庭だけでした。
因みに中也は、広島居住時代にもミッション系の広島女学校附属幼稚園に通っていました。その理由は、近所の幼稚園は軍将校の子どもばかり集めており、親の階級が子どもに影響するのを嫌ったためです。両親は教育熱心だったようです。 -
金沢ふるさと偉人館
中也は1932(昭和7)年に金沢を訪れた際、この幼稚園に立ち寄っています。「昭和七年に行つた時、幼稚園は早速に見に行つた。(中略)ブランコのまはりは一面のクローバで、僕達はよく花束を作つて遊んだものだ。ともかく門から建物までの花園は昔のまゝであつた。夏草が生ひ茂つて、出たばかりの朝日は露にキラキラ光つてゐた」。
前身となった英和幼稚園の創立は1886(明治19)年、創立者は米国人F・E・ポートル女史です。彼女は、北陸におけるプロテスタントの最初の宣教師となった人物であり、明治17年に真愛学校(翌年北陸英和学校と改称)に入学した11歳の泉鏡太郎(泉鏡花)を可愛がったのはこのポートル女史でした。 -
金沢ふるさと偉人館 高峰譲吉像
1958(昭和33)年に高峰譲吉博士顕彰会が建立したブロンズ像です。設計者は吉田三郎氏です。像の両翼に広がる銅板の碑は、右に日本語、左に英語で高峰譲吉の実績が記されています。元々は広坂公園にあったものを2000年にこの地へ移設しました。
高峰譲吉は高峰譲吉博士は加賀藩の医師の長男として高岡市に生まれ、1歳の時にに金沢に移住しました。36歳の時に米国に渡り、タカジアスターゼとアドレナリンという二つの薬を発明した化学者であり、世界で「バイオテクノロジーの父」と呼ばれています。
譲吉は発明した薬の特許を世界中で取得し、特許を管理する会社をつくったことから、ベンチャー企業の先駆けとも評価されています。
また、日米外交を陰から支え日米親善大使とも呼ばれました。 -
金沢ふるさと偉人館
とんがり帽子を被り、ランプを持った「ちっちゃいおっさん」ではありません。ノームという、北欧神話に登場する地中の宝を守る地霊です。
高峰譲吉が1917年に米国で設立した「タカミネラボラトリー」の玄関前に設置されていたゲートキーパーでした。「タカミネラボラトリー」の現在の所有者であるバイエルヘルスケア社の好意により2006年に現在地に移設され、ここでゲートキーパーを担っています。 -
金沢ふるさと偉人館 木村栄 胸像
木村栄はZ項という地球の緯度変化を計測するための公式を発見した天文学者です。
緯度の計測は星の動きを定期的に観測することによって導き出されます。従来は星の観測の結果をX項Y項という公式で計算していましたが、栄が発見したZ項を加えると、地球上のどこでもこれまで以上に正確に計測できるようになりました。Z項の発見は天文学上の大発見であり、現在もこの公式は使われています。 -
金沢市役所 第一本庁舎
鉄筋コンクリート造、地上7階、地下2階建、1981(昭和56)年竣工。
手前は6月2日から開催される加賀百万石まつりの飾り付けです。
幼稚園を訪ねた後、中也は金沢の繁華街 香林坊へと繰り出し、「僕はヘベレケになつてしまつた」と結んでおり、その後が少し気がかりです。と言うのも、実は中也には「酒乱」の一面もあったからです。有名なエピソードを紹介しておきます。
昭和7年、青山二郎が死別した夫人の弟に出店させていたバー「ウィンゾア」にて中也は坂口安吾に出会い、間もなく交友を深めました。共に雑誌『紀元』の創刊に携わり、中也の訳詩集を通じて安吾がランボーを論じるなど文学活動においても近しい存在でした。
しかし、中也が気に入っていたバーの女給が安吾を好いていると知り、彼は嫉妬のあまり酒に酔って喧嘩をふっかけました。「やいヘゲモニー!」(権力者を揶揄した悪口)と罵って喧嘩をふっかけたものの、安吾が大柄の体つきだったため、中也は距離を置いた所から拳を振り回すだけでした。中也の口先だけのシャドーボクシングに、安吾は大笑いしたそうです。
また中也は毎日のように「ウィンゾア」を訪れ、常連の若い文人たちに絡みまくったそうです。おかげでバーの評判は悪くなり、1年足らずで閉店を余儀なくされたようです。
この続きは松風水月 加賀紀行④金沢 おはなしのつづき・石川県立図書館でお届けいたします。
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