2023/03/08 - 2023/03/10
90位(同エリア1215件中)
ひらしまさん
ヨーロッパがようやく大航海時代を迎えた15世紀、東アジアからアフリカにかけての海はすでに広く交易する船が行きかっていた。その交易ネットワークの中心として栄えていたのがマラッカ、現在のマレーシアのムルカだった。当時、琉球の船も、明の陶磁器や絹織物を積んで訪れていたという。
マラッカ王国は16世紀にポルトガルに占領されるが、その時代には、ポルトガル人が最初の西洋人として日本を訪れ、さらに鉄砲を伝え、そしてマラッカを拠点とするイエズス会が強力な布教活動を日本で展開してキリシタン弾圧の悲劇が生まれる。一方では、戦国日本から多くの日本人が海を渡り、ポルトガル海上帝国の傭兵となっていったという。
その後17世紀にオランダ、19世紀には英国と、マレー半島の支配者は移り変わったが、20世紀に侵攻した日本が多数の住民を殺害したことも、忘れてはならない歴史的事実だ。
そんな日本ともかかわりの深い歴史を持つマレーシアを訪ねた。
〈1リンギ31円〉
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
3月8日。
前の晩、成田発のANA便は予定より早く午後11時半にクアラルンプール空港に着いた。空港内を結構歩いてそろそろ入管かと思った頃にさらにバス移動があり、アジア最大級というこの空港の広さを体感する。宿は空港敷地内にとってあったけれど、チェックイン待ちに時間がかかったこともあり(南の国に来たなと思いながら待つ)、寝たのは結局午前2時だった。
近さ最優先で選んだSama Sama Hotel KLIA は、この旅で一番高いホテルだけあって室内の設備は申し分ない。照明は明るく、机は大きく、小さなテーブルもあり、トイレと浴室が別で、シャワーとバスタブも分かれている。 -
朝食も豊富だ。
見たことのない果物が目にとまった。スネークフルーツと表示されていたそれは、蛇皮のような外観とは裏腹に上品な甘さでおいしかった。本当の名前はサラクというらしい。りんごと一緒に持ち帰り、あとでバスの中での昼食にいただいた。 -
宿のバギーでクアラルンプール空港まで送ってもらう。この日の最初の課題は、スマホ用のSIMカードを入手すること。今まで海外ではWifiで済ませてきたが、どうもそれではやっていけなさそうで、今回初めて現地のSIMカードを利用することにした。
下調べで決めていた会社が並んでいるブースの中に見当たらず、予定より少し高いプランになったけれど、それでも1週間で800円足らずだからありがたい。
この日は最初の目的地であるマラッカにバスで移動する。空港内のバス乗り場がどこにあるのかわからなくてキョロキョロしていたら、女性が声をかけてくれた。そして、表示にあるバス乗り場は近郊行きで、マラッカ行きだったらフードコートの中を行って左に曲がって下に降りたところだよと教えてくれた。なかなかわかりづらいルートで、彼女が声をかけてくれなかったらすごく苦労したと思う。こうして異国で親切にされると本当にうれしい。
待ち時間に配車アプリGrabを設定し、バスは11時30分に出発。心配していた冷房効きすぎということもなく、客は少ないので気兼ねなく背もたれを倒し気持ちよく眠れた。マラッカ・セントラルまで2時間半の予定が2時間ほどで到着した。
マレーシアでは配車アプリGrabがタクシーより安くて快適として普及しているそうなので、ここで宿までの車を依頼してみた。ところが、どこかで間違ったらしく、実際には依頼できていなかったようで、初回はあえなく撃沈。
しかたなくタクシー乗り場に行った。やっぱりGrabより高く、しかもボロ車だった。 -
マラッカで2泊する宿はTreasures Hotel & Suites。
-
部屋にはいって驚いたけど、まるで廃墟ビルを最小限リフォームしましたっていう感じ。壁はコンクリート打ちっぱなしで一部には古い煉瓦が残っている。壁コンセントなんかひん曲がっていて、わたしでももう少し上手に取り付けられそうな気がする。それでもダイキン製エアコンは使いやすくて快適だったし、シャワー室に腰を掛けられる高さの棚があったのも好評だった。
-
午後3時半過ぎ、まずはスルタン宮殿博物館をめざして歩き出す。
すぐ目にはいったのは廃墟のようなアパート。高層建築との対照が面白い。宿の正面には元劇場が本物の廃墟のまま残っているけど、マラッカの人は廃墟好きなのかな。
南西に700mほどでオランダ広場を通り、そこからスルタン宮殿博物館へはすぐだと思っていたけれど、サンパウロの丘のふもとをぐるっと回るので意外に遠かった。そして、2人とも日傘をさしていたのだが、それでも強烈な日差しには参った。
マレーシアは常夏の国ではあるけれど最高気温32度程度という。だったら近頃36度くらいの最高気温さえある日本の真夏にくらべればどうってことはない、と思っていたのは大間違いだった。まだ寒い3月の日本からいきなり30度超えの世界に放り込まれて、体がびっくりしていた。 -
熱中症寸前でスルタン宮殿博物館にたどり着いた。
入場料が外国人20リンギ。事前情報では5リンギだったので、ずいぶん値上げしたようだ。ここに限らず入場料の値上げが目立ったのは、マレーシアもまた世界的インフレの中にあるということだろう。
ここは15世紀初頭から百年余り栄えたマラッカ王国の歴史を伝える。建物は当時の宮殿を模したものだという。 -
人々の服装。
-
遠隔の地との交易を伝える展示。これは明の商人たち。
-
アラブの商人たちもいた。
午後5時の閉館時刻近くに建物を出たあとに庭などを見ていて、さあ門を出ようとしたら閉まっていて窓口には人がいない。気づかないうちに5時を過ぎてしまっていたらしい。困ったなと思っていたら、外でアイスクリームを売っていた人が駆け寄ってきて、1か所だけ施錠されてなかったゲートを教えてくれた。テリマカスィ(ありがとう)。初めてマレー語を使った。 -
次は、マラッカ王朝を放逐してこの地を支配したポルトガルが築いたサンチャゴ砦を見に行こう。この門をくぐって丘に登るんだなとさらっと通り過ぎてしまったが、丘の上には教会しかなく、門だと思ったあれがサンチャゴ砦だったと判明。
-
なんでも、ポルトガルが丘のまわりに築いた城壁の4つの門の1つでPorta de Santiagoというそうだ。素直にサンチャゴ門と訳してくれればいいのに、砦なんていうからてっきり丘の上にあると思ったのだ。
-
その丘の上にあったサンパウロ教会跡はよかった。
-
17世紀以降はオランダ、英国とプロテスタント国が支配したので、カトリックのサンパウロ教会は廃墟となった。その廃墟感がたまらない!
-
その中で整然と並んでいるこれらのプレートは何だったんだろうと帰国後調べたら、Melaka Guideというサイトに詳しい説明が載っていた。
それによれば、プロテスタントのクライストチャーチの墓地がこの丘の中腹にあったのだけれど、独立を果たしたマレーシア政府が公園をつくるために墓地を撤去することにしたので、困ったクライストチャーチにカトリック側が手を差しのべ、このサンパウロ教会跡に墓石を移設したのだそうだ。 -
教会跡を抜けて外に出ると、丘の上から街並みの向こうにマラッカ海峡が見える。かのザビエルの像が満足げに立っている。
あの時代のカトリックの布教活動が植民地支配と強く結びついていたことを思えば、このスペイン人をとくに賛美することもないだろう。 -
日陰にはいると風が涼しく心地よかった。
-
帰り道は、横断歩道を渡るのにも自信ができて(日本よりも車がちゃんと止まるのに驚いた)、少し涼しくなった道を楽しんで帰る。インド人街ではいくつもの店で花飾りをつくっていた。宗教行事に使うのだろうか。
-
宿を通り過ぎて、ニョニャ料理の店Bulldogへ夕飯を食べに行く。
-
ニョニャ料理とは、華人(中国系移民)男性とマレー人女性との結婚によるババニョニャと呼ばれる家系でつくられた料理のことで、父系の中華料理の食材、調理器具、食器を使い、母系のマレーの香辛料や味付けでアレンジしている。
多民族が入り混じる国マレーシアでの最初の夕食にふさわしい! -
英語メニューとにらめっこしていたら日本語メニューを持ってきてくれた。とても分かりやすい日本語で、よくある誤記混じりのものとは大違い。聞けば女主人の友だちの日本人が書いてくれたそうだ。辛さを5段階の星で表記してくれてあるのもうれしい。
-
白身魚を素揚げしたイカン・ゴレン・チリ。星2つで躊躇したが、チリソースは自分で加減できるから大丈夫だと給仕氏が言うので頼んだら実においしい。食べ始めてから思い出して写真を撮った。
-
ポンテーチキン。日本語メニューの肉じゃがという説明が言いえて妙。
-
給仕氏が強く勧めたオクラのにんにく炒め。強めの塩味がビールに合っていた。
勘定の101リンギは高い部類だろうが、おいしくてサービスもしっかりしていて、いい店だった。 -
3月9日。
Treasures Hotel & Suitesの朝食は中庭で。 -
辛いもの苦手なわたしは西洋風を選んだがおいしくない。妻はナシレマ。初めてのココナッツミルク炊きご飯はおいしかったけど、朝からカレーは重すぎたとのこと。バナナが小さいながらとてもおいしかったのはさすが南の国だ。
-
昨日はマラッカ王国とポルトガル支配時代のマラッカを見たので、きょうは次のオランダ時代のスタダイス博物館から始める計画だった。でも、昨日の反省から熱中症対策として午後の時間は博物館などに充てることに変更し、午前はマスジド・カンポンフルから訪ねることにした。
ところが、宿を出て歩き出してすぐ、妻が道路の段差につまづいて転倒した。足首に軽い障害のある妻はどうしてもつまづきやすいのだ。最初の処置が肝心なので、近くの薬局で消炎鎮痛ジェルを買い(グーグル翻訳ありがとう)、部屋に帰って手当てした。
そして、マスジド・カンポンフルまでは近いけど大事をとってGrabを呼ぶ。昨日は失敗したGrabもきょうは成功して一安心。 -
マスジド・カンポンフルはマレーシアの現存最古のモスクで1728年築。15世紀にアラブやインドの商人との貿易のためにマラッカ王がイスラム教に入信し、以後この地ではイスラム教が支配的な宗教となったらしい。三角屋根はこの地方のモスクの特徴。
手足を清める池に屋根があるのはイランやトルコでは見た記憶がないが、雨の多い地方だからか。 -
次は仏教寺院として現存最古になる青雲亭チェンフーテン。1646年築。こちらは随分にぎわっている。
-
香を焚き花を供える人も多い。
-
ここからは各宗教の施設が連なるハーモニーストリート。
-
マスジド・カンポンクリンでは熱心に英語で説明してくださったが不信心者にはよくわからなかった。
-
昼時になったのでマラッカ川沿いに出て、カフェのテラス席で休憩。そよ風が気持ちよい。時々通る観光船と手を振り合う。
-
3食しっかり食べるとお腹が苦しいので、昼はお茶とケーキ。この後出てきたワッフルが特大で十分食事になった。
-
ヒンドゥー教のスリ・ポヤタ・ヴィナヤガール・ムーティ寺院はあいにく閉まっている時間帯だった。
-
その先の仏教寺院の装飾が楽しい!
-
寺巡りを終えて次はチェンホー博物館。
我々には鄭和という名で馴染みのある15世紀明の提督が、大艦隊を率いて遠くアラビア半島やケニアまで行った航海がテーマだ。
でも、レプリカやジオラマばかりの展示のせいか迫ってくるものがない。
マラッカ王国は鄭和の来訪を機に明に朝貢をおこないその後ろ盾を得て繁栄したそうだから鄭和には親近感があるのかもしれないが、それでも、ここに博物館を置くほどの必然性はあったのだろうか。 -
近くのマラッカ川沿いの目立つところに大きな植樹記念碑があった。そこに中国の公安トップの肩書を持つ人物の名が彫られていて驚いた。
社会主義からは遠く離れナショナリズムを振りかざす大国となった中国。鄭和の大航海はまさに習近平氏の「中華民族の偉大な復興の夢」に結びつくのだろう。 -
次に、オランダ植民地時代に総督公邸だったスタダイス博物館を訪ねた。
入館してすぐ水を1リンギで無人販売していた。ちょうど水を飲み切っていたので買おうとしたが、小銭が足りない。そこで入場券窓口で事情を話し両替を頼んだがそっけなく断られた。ケチ!と思わず口走ってしまったが、よく考えればそれは見当違いで、両替なんて面倒なことしなくていいよ、ほぼ1リンギあれば構わないんだよという温情に違いない。失礼を恥じながら0.8リンギを納めて水をいただいた。
マラッカの各時代が展示されている。最後の日本侵攻時代には、日本軍に協力しなかった人々が殺害されたことが記されていた。 -
橋を戻って観光客でにぎわうジョンカー通りにニョニャクエの店を探すも目当ての店は見つからず、代わりに中華料理店で購入。そして、宿へ帰るのにGrabの車を呼んだが、待ち合わせ場所がよくわからず、電話でやり取りしてようやく会うことができた。随分手間をかけてしまったのに5リンギでは申しわけなくて10リンギ差し上げた。
-
少し涼しくなった6時ころ、車で海峡モスクへ足を延ばした。海に浮かぶモスクということでさぞかしフォトジェニックと思って行ったのだけれど、外壁の塗装が剥がれていたりして期待したほどではない。
-
時間帯を選ぶ被写体なのかもしれない。
-
マラッカ海峡を眺めてあれこれ思うにはいいところだ。
-
そこからほど近い土鍋料理の店Lee Swee Mengへ車で移動。雰囲気は地元客御用達ぽいが、メニューは写真入りで分かりやすい。
-
キノコと豆腐の鍋。あっさりして見えるが旨味のある出汁がしみておいしい。付け合わせの赤唐辛子を入れてみた妻は「胃の底まで辛かった」そう。
-
海老とビーフンの鍋。大きな海老もおいしかったが、なにより濃厚なコクのある汁が最高。
これでご飯とお茶をつけて59リンギ。1人900円だ。Lee Swee Meng、毎日通いたい! -
客は笑顔で、店員のみなさんも生き生きしている。高くてうまいのは当たり前だけど、安くてうまくてたくさんの人に喜んでもらえる店こそ最高の料理店だと、わたしはここで強く思った。
-
3月10日。
今朝はオムレツを頼んだらこんなのが出てきてびっくり。味は魚の出汁がきいて薩摩揚げのよう。海の町のオムレツだな。 -
きょうはペナンへ移動するが、その前にブキッチーナにある宝山亭と抗日義士紀念碑に行ってこよう。
まだ涼しいし、宿から数百メートルなので歩いて行く。宝山亭の近くはまさにチャイナタウンで漢字表記ばかりが目につく。
ブキッチーナとは中国人の丘という意味だそう。その昔、朝貢関係を結んだマラッカ王国に嫁いできた明の王族の娘に随行してきた500人の中国人の居住地だった。そして彼らの墓場ともなった。その後、18世紀に華人社会により建立された寺がこの宝山亭だ。 -
宝山亭の右隣にそびえる立派な碑が抗日義士紀念碑だ。すでに中国本土を侵略していた日本軍にとって、マレー半島の華人は敵対勢力にほかならなかった。
まれに、日本がマレー半島を英国の植民地支配から解放したという主張を目にすることがある。しかし、日本はゴムなどの資源欲しさに侵略しただけである。そして、ビルマやフィリピンには形だけでも独立を認めたが、重要な資源産地であるマレーは日本の領土にしようとしていたのだ。我々日本人は勘違いしてはいけない。 -
宿で休憩した後、車で30分ほど走りマラッカ空港へ。
LCCのバティックエアは欠航や変更が多いというので、欠航した場合でもなんとかペナンにたどり着くべくBプランも練ってあったのだが、幸いそれは日の目を見ずにすんだ。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
マラッカ(マレーシア) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
51