2022/10/21 - 2022/10/21
6012位(同エリア6698件中)
じょぉじさん
【1日目】
名古屋駅 ~(新幹線)~ 東京駅 ~(新幹線)~ 一ノ関駅~(電車)~気仙沼駅~(ホテル送迎)~[泊]網元の宿 磯村
【2日目】
網元の宿 磯村 ~(徒歩すぐ)~ ニッポンレンタカー ~(以降レンタカー)~ 東日本大震災遺構・伝承館 ~ 3.11仮設住宅体験館~ 高田松原津波復興祈念公園 ~ ニッポンレンタカー(レンタカー返却) ~(徒歩すぐ)~ 南気仙沼駅 ~(BRT)~ 大谷海岸駅 ~(徒歩すぐ)~[泊]はまなす海洋館
【3日目】
はまなす海洋館 ~(徒歩すぐ)~ 大谷海岸駅 ~(高速バス)~ 仙台駅 ~(電車)~ 仙台空港~(飛行機)~ 中部国際空港(セントレア名古屋)~ 名古屋駅
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「3.11仮設住宅体験館」
仮設住宅体験館は陸前高田グローバルキャンパス(旧:陸前高田市立米崎中学校)にあります。
到着すると、代表理事の方(以降、「理事長さん」とします。)が迎えてくださいました。
震災当時、この学校の運動場には約80棟の仮設住宅が設置されていたそうで、 長い人で8年くらい住んでいたそうです。
既に入居していた全ての人が退居しており、空室となった仮設住宅を撤去する という時に「後世に語り継ぐこと」を目的として数棟を残したそうです。
そのおかげで、こうして震災を経験していない自分が「知る」という機会をいただけているので、ありがたいものです。 -
震災がが3月11日に起きて、仮設住宅が整ったのが6月頃。
この時期の陸前高田は一年の中でも寒い季節だったそうで、寒さに非常に苦しんだそうです。
そんな中、とにかく「誰も取り残さない」という前提のもと、仮設住宅は提供されたそうです。
震災から時が経つにつれて、新たな場所で生活をスタートするために 徐々に人が仮設住宅から退居していきました。
そんな中、残された人々は、嬉しい反面、焦りや自分自身の未来への不安なども あったそうです。 -
当初、仮設住宅に玄関スペースはなく、入ってすぐが台所だったそうです。
後に1畳ほどの玄関スペースと引き戸が設けられ、そこに靴を置いたり、他の人が野菜などのおすそ分けを置いてくれたり、雨が降った時には洗濯物を取り入れて置いておいてくれたりしたとのこと。
同じ状況に置かれた人々が 助け合って生きていたのでしょう。 -
冷蔵庫をはじめとする家電等は寄付によって 賄われている部分もあったそうです。
冷蔵庫などの重いものは、下になにか置かないとと、床に沈みこんでしまったのだそうです。 -
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1Kや3DKなど様々な間取りの仮設住宅がありました。
しかしながら、荷物を置くとなると狭く、入居者が自ら棚を作るなど工夫して空間を活用していた形跡がありました。
特に、お年寄り一人暮らしだった部屋では、後で取り付けられた棚が やや斜めに付いていたことから、一人一人が できる範囲で自力で頑張っていたことが見て取れました。(「頑張る」という言葉は、この状況に置いてはあまりにも軽すぎる気もしますが、うまく現せる言葉が わかりませんでした…)
一人暮らしの お年寄りが住んでいた部屋には、大きな文字で ご飯を炊く、おにぎりを作るなど書かれた紙や折り紙で作った手作りの飾りがあったりと、その人の生活が見て取れました。
限られた環境の中で、自分の役割や趣味を作って、意識を「(被災の)つらさ」からそらすことで、精神を保っていたのかもしれません。 -
仮設住宅で困ったことの中には、「音漏れ」や「寒さ」、「湿気」などがあったそうです。
展示されているコメントを読んでいると、「最初は 隣からの音を気にしていたけれど、次第に慣れていった。そのこと(慣れてしまうこと)が怖くも感じる」というコメントがあり、何とも言えない気持ちになりました。
寒さに関しては、木造であることから床や壁からの冷気が居住者を苦しめたそうです。窓も、最初は1枚だけだったのを、冷えが酷いため、居住開始後、二重窓にDIYしていたそうです。
湿気に関しては、よくカビが部屋にできていたそうで、窓には寒さと結露対策としてプチプチが付けられていました。
これらの仮設住宅の後に、現在は倉庫として使われている仮設住宅も見せていただきましたが、荷物があるかないかで これほど空間の感じ方が変わるのかと、天井の高さも含めて 身体で感じました。 -
仮設住宅を見学している途中で、仮設住宅の後ろに見える海の方を眺めました。
そこには津波被災後に建設された大きな防潮堤。
「防潮堤について」の思いを質問したところ、質問してから回答まで少し間がありました。思うところが いろいろあるのでしょう。
もともと海と共に生きてきたという地域事情、岩手県宮古市にある「万里の長城」とも言われる防潮堤ですら津波の前に歯が立たなかったという事実、防潮堤によって海が見えないことにより 状況判断が遅れ 逃げ遅れるリスク etc さまざまな観点から、 当時は防潮堤の建設に反対する人も居たとのことです。
しかしながら、結論を出すまでの時間があまりなく、全ての人の意見を汲み取ったり、議論したりする時間も十分にとれないままに防潮堤の建設が始まってしまいました。
町と海を遮るようにして防潮堤を作ることが 正しいことだったのか、10年以上経った今になっても、胸を張って結論を出すことは難しいようでした。 -
仮設住宅の見学後は、旧校舎に入って、現在の陸前高田の町を模型化したものを見学させていただきました。
そこには、自分の家のあった場所などの思い出が、小さなフラッグで記されていて、津波は 「物」だけではなく「人の思い出」までも流していったのだと改めて感じました。
その後、現在はリラクゼーションルームとして使われている旧教室で コーヒーをいただきながらお話を伺いました。
「海の近くという土地柄、津波の避難訓練は日常的にあったのか」という質問には、「あったと思うが、慣れというか そういうようなものがあったとは思う」とのことでした。
私自身も 年に一度 火災の避難訓練を職場で行ってはいますが、たしかに避難訓練は「とりあえず感」があり、感覚としてはそれに近かったのかもしれません。
そう考えると、 「(避難訓練はするけど)そんなこと起こらないだろう」という考えを持ってしまうことは否定できませんし、だからこそ 「起こるかもしれない」という意識を維持すること が大切なのだと感じました。
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今回は 見学だけでの訪問でしたが、仮設住宅での宿泊体験なども可能なので、興味のある方は ぜひ調べてみてください。
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